井伊直弼
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井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。
幼名は鉄之介(てつのすけ)、のち、鉄三郎(てつさぶろう)。諱は当初、直輔(なおすけ)、のち、直弼(なおすけ)と改める。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、旧字体:无根水)がある。風流に生きた部屋住み身分の頃は「茶歌凡(チャカポン)」、大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。
生涯[編集]
家督相続まで[編集]
文化12年(1815年)10月29日、第13代藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡(現在の滋賀県彦根市金亀町)の彦根城の二の丸で生まれる。母は側室のお富。
兄弟が多かった上に庶子であったこともあり、養子の口もなく[1]、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。
この間、近江市場村の医師である三浦北庵の紹介で、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らした。この頃熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していたが、風流に生きる姿から「チャカポン(茶・歌・鼓)」とあだ名された。
ところが弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄の直亮の世子であった井伊直元(直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定する。
嘉永3年(1850年)11月21日、直亮の死去を受け家督を継いで第15代藩主となる。嘉永5年(1852年)、丹波亀山藩主松平信豪の次女・昌子(貞鏡院)を娶った。
幕末の動乱の中で[編集]
彦根藩時代は藩政改革を行ない、名君と呼ばれた。また、江戸城では溜間詰上席として、将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題をめぐり存在感を示す。
嘉永6年(1853年)、黒船来航に伴う江戸湾(東京湾)防備に活躍したが、老中首座の阿部正弘がアメリカの要求に対する対策を諮問してきた時には、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国を主張している(ただし、直弼はもともとは鎖国論者であり、彼の開国論を「政治的方便」とする説もある(後述))。
阿部正弘は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭、松平慶永ら)との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。斉昭はたびたび攘夷を強く唱えた。しかしこれは、溜間の筆頭であり、また自ら開国派であった直弼としては許しがたいものであった。
直弼ら溜間詰諸侯と阿部正弘・徳川斉昭の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。このため斉昭は阿部に、開国・通商派の老中・松平乗全(直弼とは個人的に書簡をやり取りするほど親しかった)、松平忠固の2名の更迭を要求した。
安政2年(1855年)8月4日、阿部はやむなく両名を老中から退けた。直弼は猛烈に抗議し、溜間の意向を酌んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫った。阿部はこれまたやむなく溜間の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立はひとまず収束したが、これは乗全、忠固の罷免に対して直弼を筆頭とする溜間諸侯が一矢報いた形といえる。
安政4年(1857年)6月17日に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜間の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。さらに直弼は第13代将軍・徳川家定の継嗣問題で紀伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めた。
大老就任[編集]
松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老、新宮藩主)ら南紀派の政治工作により、安政5年(1858年)4月23日、直弼は大老に就任した。当初、直弼は勅許なしの条約調印に反対であったが、朝廷の反対も国体を損わぬようにとの配慮からなされたものである、との認識が幕府の中で台頭しつつあった。こうした流れを受け、やむを得ぬ場合の調印を下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震に命じた。
こうして、孝明天皇の勅許を得られぬまま、6月19日にポーハタン号上でハリスとの間に日米修好通商条約が調印される。これが違勅調印であるとして、一橋派から攻撃を受ける。家定の継嗣問題では同月25日に徳川慶福を後継に決定し、慶福は名を徳川家茂と改めて同年12月1日、征夷大将軍(第14代)の宣下を受けた。
直弼の対応に憤った水戸藩士らが朝廷に働きかけた結果、孝明天皇は戊午の密勅を水戸藩に下し、武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかけた。また、若手の公卿たちが幕府に通じているといったことを拠り所に関白・鷹司政通を突き上げ、安政3年(1856年)8月8日、辞任に追い込んだ。
前代未聞の朝廷の政治関与に対して、幕府は態度を硬化させる。長野主膳からの報告により、直弼は水戸藩降勅の首謀者を梅田雲浜と断じ、京都所司代酒井忠義に捕縛させ、安政の大獄の端緒を開いた。直弼はまた、無勅許調印の責任を自派のはずの堀田正睦、松平忠固に着せて両名を閣外に逐いやった。代わって太田資始、間部詮勝、松平乗全の3名を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようとした。
さらに、水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じ、多数の志士(橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎など)や公卿・皇族(中川宮朝彦親王)らを粛清した。また、一橋派の一橋慶喜、徳川斉昭、松平慶永らを蟄居させ、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。そして、閣内でも直弼の方針に反対した老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にした。更に太田資始、間部詮勝の両両老中も罷免し孤立を深めた。
桜田門外の変[編集]
こうした独裁政治は、尊王攘夷派など反対勢力の怨嗟を受けた。安政6年(1859年)12月、直弼は若年寄の安藤信正を水戸藩主・徳川慶篤の下に派遣し、戊午の密勅の返納を催促した。この催促は数度にわたって続けられ、遂に慶篤は父の斉昭と相談の上、勅を幕府に返納することにした。ところが水戸藩の士民(特に過激派)が激昂して勅の返納を阻止あるいは朝廷に直接返納すべきとして混乱する[2]。
安政7年(1860年)1月15日、直弼は安藤信正を老中に昇進させ、この日に登城した慶篤に対して重ねて勅の返納を催促した。そして1月25日を期限として、もし遅延したら違勅の罪を斉昭に問い、水戸藩を改易するとまで述べたという[3]。 これが水戸藩の藩士を憤激させるのに決定的となり、2月に水戸藩を脱藩した高橋多一郎や関鉄之介らによって直弼襲撃の謀議が繰り返された。
水戸藩脱藩浪士らの不穏な動きは幕府も関知はしており、2月下旬にはかつて水戸藩邸に上使として赴いたことがある松平信発が直弼を外桜田邸に訪ね、脱藩者による襲撃の恐れがあるため、大老を辞職して彦根に帰り、政情が落ち着いてから出仕すべきと勧めた。また辞職・帰国が嫌ならば従士を増やして万一に備えるように述べるも、直弼は受け入れなかった[4][5]。
3月3日5ツ半(午前9時)、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。供廻りの徒士、足軽、草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた時、関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士の有村次左衛門の計18名による襲撃を受けた。
最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠を守ろうとした者も刺客に切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳没)。この事件を桜田門外の変と呼ぶ。
この日、彦根藩側役の宇津木左近は、直弼の駕籠を見送った後、机上に開封された書状を発見した。それには、水戸脱藩の浪士らが襲撃を企てている旨の警告が記されており、宇津木が護衛を増派しようとしたとき、凶報がもたらされた。
墓所は井伊家の菩提寺である豪徳寺(東京都世田谷区)。また茨城県水戸市所在の妙雲寺には直弼の慰霊碑が建てられている。また、当時彦根藩の飛び地領であった下野国佐野(現在の栃木県佐野市)の天応寺でも祀られている。混乱を恐れた幕府によって暗殺は秘密裡とされ、表向きには直弼は負傷によりしばらく休養とされた。そのため墓所に記された没日も実際の3月3日とは異なっている。直弼は3月晦日に大老職を正式に免じられ、閏3月晦日にその死を公表された。
跡を次男・井伊直憲が継いだが、これも3月10日に幕府に嫡子とする旨を届けながら4月28日に至ってようやく家督相続を許されるほどであった。なお、直弼が安政の大獄を行なったことを咎められ、文久2年(1862年)11月20日、幕命により彦根藩は10万石減封されている。
人物・逸話[編集]
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部屋住みの時代に儒学、国学、曹洞宗の禅、書、絵、歌、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、茶の湯、能楽などの多数の趣味に没頭していた。特に居合では新心流から新心新流を開いた。茶の湯では「宗観」の名を持ち、石州流を経て一派を確立した。著書『茶湯一會集』巻頭には有名な「一期一会」がある[6]。他に『井伊大老茶道談』などを著している。
能楽方面では能面作りに没頭し、能面作りに必要な道具を一式揃えていた。また、新作狂言「鬼ヶ宿」の制作や、廃曲となっていた「狸の腹鼓」の復曲(いわゆる「彦根狸」)を試みるなど、狂言作者としての才能も持っていた。大蔵流茂山家再興に力を貸し、名跡茂山千五郎は彼が名付けた。
井伊家の館からは維新後、直弼の遺品と思われる大量の洋書や世界の地図などが発見されており、「開国と富国強兵こそ日本が生き残る道」いう彼の志と博識が伺える。
安政の大獄における過酷な処分は多くの人々から恨まれ、彦根藩祖である直政同様に「井伊の赤鬼」といわれた。ただし直政の場合は畏敬の念が含まれていたが、こちらは憎しみのあまりである。また、直弼を指す隠語として「赤鬼」という語を用いた場合がある。対比として、間部詮勝は「青鬼」と呼ばれた。
桜田門外の変による暗殺が、直弼の強権的な手腕で回復しかけていた幕府権威を衰退させるきっかけとなったという見方がある一方、その強権的な手腕で攘夷派のみならず開国を推し進めた開明派官僚まで大量に追放したため、幕臣からモラルや人材が失われ、幕府滅亡の遠因になったという見方もある。
直弼のような人物が開国を進めなければ日本の歴史が大きく変わっていたのは事実であり、彼を「開国を断行して日本を救った政治家」という評価もある。その意味で直弼は幕末政治を語る際には欠かす事のできない一人である。ただし、開国は阿部正弘のころからの既定路線であり、阿部は秘密裏にオランダとの間で開国の際に列強各国と結ぶ条約調印案を検討していた。
安政の改革では水戸や薩摩などの雄藩や朝廷への根回し、海外事情の調査のための蕃書調所設立や勝海舟や岩瀬忠震・大村益次郎といった開明派の若手人材登用による開国体制の構築が綿密に進められていたが、直弼は安政の大獄の際にこうした開国のための計画を意識的に中断・縮小するなど、支離滅裂な行動が見られる。
一方で直弼が開国を唱えたり条約に調印したのは水戸や薩摩などの有力諸侯による幕政への介入に対抗するための一時の方策であり、直弼自身は江戸幕府が国政の実権を回復した後に幕府とこれを支える親藩・譜代大名が主体となって攘夷を行うべきと考えていた、一貫した攘夷論者であったとする説が石井孝によって唱えられている[7]。
この見解によれば、安政の大獄による有力諸侯や攘夷派の処罰も、直弼が条約締結の裏で進めていた攘夷(鎖国への回帰)も、「幕府の権威回復による旧体制への回帰」という路線上にある方針であるとされている。小説家司馬遼太郎は「攘夷派を弾圧したが開明論者でもなく西洋嫌いであった(小説『花神』の記述を要約)」と彼を厳しく批判している。
彦根城内の他に横浜市の掃部山公園内に、開国断行を顕彰して元藩士らにより銅像が建てられている。
彦根市と水戸市は、明治百年を契機に歴史的わだかまりを超え、1968年に「親善都市」提携を行った。当時の彦根市長井伊直愛は直弼の曾孫である。
肖像画は狩野永岳の作と、直弼の四男・井伊直安の作が知られている。
安政の大獄で死罪となった吉田松陰は、彦根藩主就任当時に藩政改革を行った直弼を「名君」と評している。彦根に帰国した際に、まだ自分が期待に応えていないのに領民が総出で温かく出迎えてくれることを恥じて直弼が詠んだ歌「掩ふべき袖の窄きをいかにせん行道しげる民の草ばに」を、松陰は兄の杉梅太郎宛書簡に記し、直弼を領民に対する哀れみの心を持った領主であると賛辞を贈った[8]。
藩主に就任した直弼は亡兄・直亮の遺命であると称して藩金15万両を士民に分配した。これは直弼が愛民と施しを忘れないようにするために行なったとされ、藩主に就任した頃の直弼にはこのような優しさがあった(井伊家史料)。
暗殺される直前の3月3日早朝、彦根藩邸に水戸藩浪士の襲撃を密告する投書があった。しかし直弼は供揃えを厳重にすることなく出発して変にあったという。なお、直弼の戒名は生前の直弼が考えていたものであるという(吉田常吉の「井伊直弼」より)。
徳川慶喜の晩年の回想録である「昔夢会筆記」には、直弼のことを「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評している。
官歴[編集]
弘化3年(1846年)12月16日:従四位下侍従兼玄蕃頭に叙任。
嘉永2年(1849年)12月16日:左近衛権少将に任ぜられる(玄蕃頭兼任)。
嘉永3年(1850年)12月27日:玄蕃頭から掃部頭に遷任(権少将如旧)。
安政2年(1855年)12月16日:左近衛権中将に転任し、掃部頭は従前通り兼任する。
安政4年(1857年)12月16日:従四位上に昇叙。左近衛権中将掃部頭は留任。
安政6年(1859年)12月15日:正四位上に昇叙。左近衛権中将掃部頭は留任。
井伊直弼を主題とした作品・行事[編集]
小説[編集]
『花の生涯』(舟橋聖一著、1953年)
『巨人伝説』(野口武彦著、2010年)
映画[編集]
『花の生涯 彦根篇 江戸篇』(1953年・松竹、演:八代目松本幸四郎)
テレビドラマ[編集]
『花の生涯』(1963年・NHK大河ドラマ、演:二代目尾上松緑)
『花の生涯』(1974年・日本テレビ、演:平幹二朗)
『花の生涯 井伊大老と桜田門』(1988年・テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演:北大路欣也)
その他演じた俳優[編集]
神山繁(1990年、NHK大河ドラマ、『翔ぶが如く』)
杉良太郎(1998年、NHK大河ドラマ、『徳川慶喜』)
中村梅雀(2008年、NHK大河ドラマ、『篤姫』)
高橋英樹(2015年、NHK大河ドラマ、『花燃ゆ』)
脚注[編集]
1.^ もっとも、全くなかったわけではない。延岡藩の後継候補として弟(後の内藤政義)とともに候補として名前が挙がったことはある。
2.^ 12月20日に水戸城で大評定が開かれ、士民は勅の江戸降下を阻止しようと水戸から江戸の要路に潜伏した
3.^ 吉田常吉 『井伊直弼』 吉川弘文館 P381
4.^ 直弼は人は各々天命があり、刺客が果して余を斃そうとすれば、たとえいかほど戒心しても乗ずべき隙があり、そもそも従士の数は幕府の定めるところで大老がこれを破れば他の諸侯に示しがつかないと述べた
5.^ 井伊家の従士・萩原吉次郎の証言によると、井伊家では安政6年(1859年)までは主君の身を守るために警護を密かに増やしていたが、直弼がこれを知って安政7年(1860年)に廃したという
6.^ この言葉の初出は利休七哲の山上宗二が著した「山上宗二記」とも言われている
7.^ 長野主膳が直弼にあてた意見書の中で「現在となっては開国も仕方がないが、外国人を一定の場所(居留地)に閉じ込めて厳しく監視して商売を規制して、出て行くならそれで良し、報復するなら打ち払うべきである」と趣旨を述べ、直弼自身も安政5年1月に堀田正睦に出した書簡の中で「外国人の説に感服して一歩ずつ譲歩するのは嘆かわしく」「皇国風と異国風の区別を弁えるべきである」と忠告を寄せている。また、徳川将軍家に代々仕える茶坊主で強硬な保守・攘夷の論説を唱えていた野村休成を直弼が終始庇護したのに対して、通商条約締結間際になって、阿部や堀田が登用した多くの開明派官僚を一橋派・南紀派を問わずに追放している。更に、安政5年11月29日に間部詮勝を通じて関白九条尚忠に、自分の本意は「従来の国法(鎖国)に復することである」と述べている。
8.^ 井伊直弼と開国150年祭『直弼二十二景~井伊直弼にまつわる22の風景~ 第二十二景 彦根城天主』
参考文献[編集]
母利美和 『井伊直弼』 吉川弘文館 ISBN 4642062866
石井孝 「井伊直弼と幕府の開国組織」(新人物往来社 編『日本の組織図事典』(新人物往来社、1988年 )) ISBN 4404015070
『世界人物逸話大事典』(角川書店)
「井伊直弼」の書誌情報
- 項目名: 井伊直弼
- 著作者: ウィキペディアの執筆者
- 発行所: ウィキペディア日本語版
- 更新日時: 2015年5月22日 22:34 (UTC)
- 取得日時: 2015年5月30日 03:23 (UTC)
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