豊田 副武

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豊田 副武
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生誕 1885年5月22日
日本の旗 日本 大分県杵築市
死没 1957年9月22日
所属組織 Naval Ensign of Japan.svg 大日本帝国海軍
軍歴 1905年 - 1945年
最終階級 海軍大将
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豊田 副武(とよだ そえむ、1885年明治18年)5月22日 - 1957年昭和32年)9月22日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。最後となる第19代軍令部総長を務めた。 

 

年譜

 

軍令部総長

1945年5月29日軍令部総長

昭和天皇

「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と豊田の総長就任に反対する旨を海軍大臣米内光政に告げているが、米内は

「若い者(本土決戦派)に支持がある豊田なら若い者を抑えて終戦に持っていける」という意図を天皇に告げ押し切った。

しかし結果的に若い者を抑えるどころか押し切られた形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している[2]

 

戦争末期、軍令部次長大西瀧治郎中将とともに徹底抗戦を訴えた。

もっとも豊田は自著で、太平洋戦争末期に於ける徹底抗戦主張で和平派と立場を異にする事により、海軍内部における決戦派の暴走を食止めたと自己弁護論を展開している。

高木惣吉は、豊田の見解に対し

「苦しい弁疏にすぎず論点甚だ不明」とした上で、

「総長、次長は一方面、一戦場の指揮官ではなく、陛下最高の統帥幕僚として戦争指導の枢機をにぎり、国家の全局を大観すべき立場にあったはずである。戦局に引きずられ、全国民の災難に思いを致さなかったことは、断じて許されない誤りである」と厳しく批判している[3]

吉田俊雄

「もしこのとき、(豊田が終戦派についていて)はじめから三対三でなく四対二のバランスであったら、現実のように、ポツダム宣言受諾ができたろうか。とすれば、この三対三という数字は、偶然にそうなったと考えてよいのか。いったい豊田総長の心底は、どうだったのか」と書いている[4]

 

8月12日、軍令部総長の豊田は陸軍参謀総長梅津美治郎とともにポツダム宣言受諾の反対を奏上する[5]

同日海軍大臣米内光政は豊田と大西の二人を呼び出した。

米内は豊田の行動を

「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」

と非難し、豊田は済まないという様子で一言も答えなかった[6]

 

1945年8月15日終戦。終戦直後の幣原内閣発足時、米内は病気を理由に海軍大臣を辞退し後任に豊田を推薦したが、占領軍が豊田の太平洋戦争中に於ける職歴から戦争犯罪容疑で調査を進めており、

かつ海軍部内に於いても井上や高木惣吉などから豊田の就任には猛反対があり、ついに豊田の海軍大臣就任は実現せず、米内が海軍省廃官まで大臣を務めた。

 

戦犯容疑で逮捕されたが、極東国際軍事裁判では不起訴、続いて行われたBC級戦犯を裁く軍事法廷では、ベン・ブルース・ブレイクニー及びジョージ・A・ファーネス両弁護人の尽力によって、無罪判決を得た。

10月15日海軍省出仕。11月30日予備役編入。

1957年(昭和32年)9月22日死去。享年72。

井上成美は戦前と戦後で豊田の評価が180度異なったものとなり、戦前の絶賛が一転して戦後は罵倒に近い評価をしていたという[7]

主要著述物

  • 『最後の帝国海軍』世界の日本社
    • 主婦の友出版サービスセンターで再刊、1989年

GHQ歴史課陳述録

  • 元海軍大将軍令部総長豊田副武に対する質問 1949年(昭和24年)8月29日
  • 1945年6月22日最高戦争指導者会議、藤村・ダレス交渉、原子爆弾などについて 1949年(昭和24年)9月1日
  • 日本の終戦に就いての回想 1949年(昭和24年)12月1日
  • 終戦時の回想若干 1949年(昭和24年)12月1日
  • 1945年6月6日及び8日最高戦争指導会議に就いて 1950年(昭和25年)3月10日

脚注

  1. ^ 戦友会『海軍神雷部隊』11頁
  2. ^ 昭和天皇独白録』
  3. ^ 高木惣吉日記と情報』
  4. ^ 『四人の軍令部総長
  5. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 471頁
  6. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 473頁
  7. ^ 杉本健『海軍の昭和史』光人社NF文庫

参考資料

先代:
古賀峯一
連合艦隊司令長官
第29・30代:1944 - 1945
次代:
小沢治三郎
先代:
及川古志郎
軍令部総長
第19代:1945
次代:
廃止
 
 
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