女子挺身隊

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女子挺身隊
 
敬礼して工場に入る女子挺身隊
 
女子挺身隊、陸軍銚子飛行場

女子挺身隊(じょしていしんたい)は、第二次世界大戦中の1943年大日本帝国で創設された勤労奉仕団体のひとつで、主に未婚女性によって構成されていた。

戦時日本の労働力が逼迫する中で、強制的に職場を配置換えする国民総動員体制の補助として行われ、工場などでの勤労労働に従事した[1]女子勤労挺身隊、略して挺身隊ともいう[2]

日本統治下の朝鮮からの挺身隊は朝鮮女子勤勞挺身隊ko:조선여자근로정신대)または半島女子勤労挺身隊と呼ばれた[2]。なお、韓国などではこの女子挺身隊を「慰安婦」と同一視する混同がなされており[3]日本軍慰安婦問題の争点ともなっている。

  

背景

第一次世界大戦では資源、人員が大量に消費されるようになり、第二次世界大戦では国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる国家総力戦が本格的に各国で展開した。

国家総力戦となった第二次世界大戦において、アメリカイギリスなどの連合国は日本に先んじて既に女性を軍需工場などに動員していた[4]。例えば、イギリス王族のエリザベス(現イギリス連邦王国女王)も、16歳当時、イギリス陸軍において技術将校に任官して軍車両の整備をしていた。

日本も戦局の悪化で徴兵が拡大して男性労働力が不足すると女性の労働力を無視できなくなり、昭和18年10月6日の『写真週報』では連合国の女性勤労写真を引用して「敵アメリカの女さへこんなに動員されている」と紹介するまでに至った[5]

沿革

日本では戦時動員は1938年国家総動員法が制定されてから本格的にはじまった[2]。1939年(昭和14年)7月、国民徴用令施行(朝鮮では1944年8月に施行)。同月に閣議決定された「昭和十四年度労務動員実施計画綱領」では「女子無業者」や新規小学校卒業者、移住朝鮮人(在日朝鮮人)などを「給源」と書かれた[2]

勤労報国隊の結成

1941年(昭和16年)9月の「昭和十六年度労務動員実施計画ニ関スル件」では、未婚女子の動員を強化すると定められた[2]。11月22日に公布された国民勤労報国協力令では14-40歳の男子以外に、14歳以上25歳未満の独身女性を対象とした勤労報国隊が編成され、原則年間30日の奉仕が要求された[6]。太平洋戦争開戦後、国民徴用令が実施されたが、女性への適用は見送られた[2]

女子勤労挺身隊の結成

1943年(昭和18年)6月、国民勤労報国協力令改正、勤労報国隊は常時組織化され、無職の未婚女子に対して3-6ヶ月の勤労奉仕を要求した[2]。7月には厚生省や大政翼賛会中央協力会議では女子徴用論がおこったが、実現はされなかった[2]

9月13日、次官会議「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」において14歳以上の未婚者女性を動員の対象とし、女子勤労挺身隊が自主的に結成されるようになった[2]。航空工場・政府作業庁・男子の就業が制限されている分野(たとえば、保母(現・保育士)や看護婦(現・看護師))などで女性の就業拡大を図った[2]

新規女学校卒業者は同窓会単位、その他の女性は部落会、婦人会単位で工場に出動させるもので、これは「徴用=強制によらずに女子勤労挺身隊の名で自主的な女子の動員」が図られたものであった[2]

10月6日、厚生省は「無業の一般女子はなるべく挺身隊に出動すること」を地方長官宛に養成した[2]

10月中旬、女子学習院同窓生が「常盤会勤労挺身隊」を結成し、最初の女子勤労挺身隊が結成された[2]。最初に動員されたのは山脇高女卒業生挺身隊であり小西六(コニカ)に入社した[2]。大阪では11月30日に挺身隊が動員された[2]

朝鮮でも総督府機関紙毎日新報が「有閑女子積極動員」などと報道するようになり[7]、内地とおなじく女学校出身者のうち家事従事者を「実業方面」へ動員することなどが考えられていると報じられた[2]

11月24日、厚生省は学校単位で女子勤労挺身隊が結成させると発表した[2]

1944年1月23日東條英機首相は「余裕のある女性の勤労逃れは許されない」と発言するとともに「女性の徴用を行わない」と発言した[2]。写真週報2月23号では東條発言を引用して「その信頼と親心にあなた方は背いてはならない」と説明された[2]

朝鮮での女子挺身隊の結成以降

朝鮮総督府は1943年12月には労務課を設置し、「女子も決戦態勢で増産戦士として工場で働かせる」方針を決定し、1944年(昭和19年)1月17日、京城府龍山で女子挺身隊または「特別女子青年挺身隊」が結成されたが、これは勤労挺身隊ではなかったとされる[2]

1944年(昭和19年)2月、国民職業能力申告令の改正によって12歳以上が労働力とみなされるようになる。当時の義務教育は初等教育の小学6年までで、その後の就職はよくあることであった。

1944年3月18日、閣議は女子挺身隊制度強化方策要綱[8]を決定し、校長や女子青年団長、婦人会長によって挺身隊結成を強化することが確認された[2]労働省は「必要に応じ挺身隊組織により必要業務に協力すべきことを命じ得ることとした[2]

1944年3月20日、朝鮮で平壌女子勤労挺身隊が軍需工場に2ヶ月間の期間限定で出動した[2]。なお、朝鮮ではそれまでも、官斡旋の「女子(勤勞)挺身隊」が徴募されている。

1944年4月 には、朝鮮の慶尚南道隊100名が初めて日本(内地)に派遣され、静岡の東麻沼津工場に出動した[2]

  • 1944年8月22日勅令第519号「女子挺身勤労令」が公布され[9]、即日施行された[2]学徒動員令も同時施行された(中等学校二年以上)。この法令によって14歳から40歳までの女性によってなる女子挺身隊は、勤労奉仕(雇用関係無し)から集団就職(雇用関係有り)という形に移行し、健康保険法や厚生年金保険法などの法定扶助を受けることができることとなった[10]。また写真週報9月13日号では「これまで上流階級に多いなどといわれていたいわゆる挺身隊のれ」を「一掃」すると書かれ、さらに「適格者と認めた者に挺身勤労令書を交付する。これは男子の徴用令書と同様であり」、出動しない者があれば就業命令が発動され、違反した場合は国家総動員法によって1年以下の懲役また千円以下の罰金が処せられると書かれ、これは初めての罰則規定であった[2]。8月26、27日の毎日新報では女子挺身勤労令が朝鮮でも実施されると報道された[2]
  • 1945年3月には同令が国民勤労動員令によって吸収され、女子挺身隊も国民義勇隊として改組された。

統計

1944年2月末までに日本全国で女子挺身隊は16万にのぼった[2]

1944年5月の日本の女子挺身隊の結成率は7%、1944年以降12歳以上の生徒や学生約300万人が動員、10歳以上の児童、青年学校および中等学校の学徒500万人であった[11][12]

朝鮮における挺身隊

 
寮から鎮海第五十一海軍航空廠へ出勤する女子挺身隊員

国民徴用令の施行は内地では1939年7月だが、外地の朝鮮においてはずっと後の1944年8月になって女子を除いて施行された。また、同時に日本内地では12歳から40歳までの未婚女子の日本人女性を工場などへ動員する女子挺身勤労令が出されたが、朝鮮総督府は朝鮮は除外すると言明した。

こうして、朝鮮では、朝鮮人女子に対して、国民徴用令も、女子挺身勤労令も発令適用されなかった[13]。当時、内務省朝鮮総督府朝鮮人の徴用忌避に気を使っていて、また、朝鮮女性の労働力登記は極小であった。

しかし、官斡旋の女子挺身隊が内地の工場に向かった[13]。1944年6月頃から日本の富山不二越工場に1090人(そのうち約420人は1945年7月に朝鮮の沙里工場へ移動)、名古屋の三菱航空機道徳工場へ約300人、東京麻糸紡績沼津工場へ約100人が学校の教師に引率されて派遣された(終戦直後に帰国)[14]

  • 1944年10月、朝鮮総督府鉱工局労務課が作成した『国民徴用の解説』には、一問一答の形式で、「女子の徴用は実施されますか」との問いに「今後においても女子を動員する場合、女子挺身勤労命発動によるという考えは今の所持っておりません。今まで朝鮮の女子挺身隊は、みな官の指導斡旋によるもので、内地の(略)立派な施設の整った飛行機工場等に出しております。今後ともこの官の指導斡旋を建前とする心算(心づもり)」と答えている。

派遣場所

朝鮮人女子挺身隊の派遣場所は、これまでの学籍簿や現地工場などの文書による確実な記録では富山不二越工場、名古屋の三菱航空機道徳工場、東京麻糸紡績沼津工場の3ヶ所である[14][2]

このほか証言では、和歌山県、福岡県八幡、三菱重工業長崎造船所相模海軍工廠に派遣されたというが、詳しいことは不明[2]

東京麻糸紡績沼津工場

1944年4月には、朝鮮の慶尚南道隊100名が初めて日本(内地)に派遣され、静岡の東京麻糸紡績沼津工場に出動した[2]

この女子勤労挺身隊は学校の教師に引率されて派遣され、終戦直後に帰国している[14]

1945年7月に工場が空襲で被災すると富士紡小山工場(静岡県駿東郡)に半島女子勤労挺身隊334人は移動した[2]。戦後9月30日、隊員含む246人が朝鮮に帰国した[2]

1992年の釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(最高裁棄却)では原告3人が東京麻糸紡績沼津工場に派遣された女子勤労挺身隊だった。

1997年にはじまった東京麻糸紡績沼津工場朝鮮人女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(東麻裁判)では判決で事実認定はなされなかった(最高裁棄却)。

そのほか、当時隊員だった金文善はインタビューで東京麻糸紡績の求人に応募した動機について次のように述べている[15]

「東京麻糸に韓国の監督さんがいて、その人が巨済島に募集にきたんです。前から、そこへ韓国の女の人がいっぱい働きに行ってたんですね。私のいとこの姉さんも行って、何年かしたらもどってきたの。そしたら、きれいな洋服着て、頭もちゃんとして、皮靴なんてはいてたんです。羨ましくて、『ああ、私も日本へ行きたい』って、思ったわけ。それで、日本へ行きたいもんだから、監督に会いに城浦(ソンポ)って町まで行ったわけ。そこの旅館みたいなところには、山奥からみんな集まってきていたんです。みんな、そこに泊まっただけでも嬉しくて、もう田舎には帰りたくない、そのまま、すぐにでも日本に行きたいなんて言ってました。

金文善は合格者は250人くらいで、沼津工場での労働は過酷であったという。また東麻裁判に対しては、原告が「働きながら学ばせる、休暇もとらせるといった事前の契約内容が守られなかった」と主張しているが、土日は休みだったし、会社の中で、夜、勉強もしたと証言している[15]

富山不二越工場

 
京城隊・仁川隊が参拝した朝鮮神宮(京畿道京城府南山)

富山県不二越工場には1943年に仁川の報告隊が派遣され、1944年5月には慶尚北道隊70〜100人の半島女子挺身隊が到着した[2]。6月8日には慶尚南道隊100人が到着した[2]。1944年6月頃からは概数1090人(そのうち約420人は1945年7月に朝鮮の沙里工場へ移動)し、終戦直後に帰国している[14]

京城府での応募は毎日新報を通じて募集され、応募資格は国民学校の卒業生で年齢17〜20才、契約は2年で、「これは決して徴用ではなく、国を愛する真心からすすんで志願」することが望むと紙面で書かれた[2]

また、京城府の女子中学校や国民学校の校長が集められ、挺身隊への希望者を募った[2]。例えば徳寿国民学校高等科2年生では、クラスごとに6〜15人が選抜された[2]。芳山国民学校教師の証言によれば、生徒たちは全員が「いく、いく」と手を挙げるが、帰宅すると親に反対されたため、選抜されたのは5人にとどまったという[2]

募集は教会でも行われ、東大門の監理教会から17才の貧しい農家の女子が2人派遣された[2]。6月27日の京城府選考会では150人が選出された[2]。仁川では50人が選出された[2]

1944年7月2日、京城隊・仁川隊壮行会が行われ、終了後、隊員たちは朝鮮神宮に参拝した[2]。7月6日には京畿道隊、仁川隊が富山に到着した[2]

1945年1月24日毎日新報の広告では「来れ、職場は女性を呼ぶ 女子挺身隊を募る」とあり、13才以上21才までの女性が募集された[2]。3月2日には全羅北道隊100人、そのなかには全州相生国民学校5-6年生10人など含まれ、さらに開城以南の650人が不二越へ到着した[2]

1945年2月24日には、京城府、仁川府、開城府からなる京畿道中隊150人が出動した[2]

第一陣から第四陣までの動員数は「不二越五十年史」では1090人とある[2]。また「富山県警察氏」下巻には県内の朝鮮女性は2800人と記載されている[2]

1945年7月の富山空襲で朝鮮人挺身隊からも被害者が出た[2]。8月以降、隊員は分散して帰国したが、全羅北道隊の一員の証言では8ヶ月分の賃金として170円が支払われたという[2]

名古屋三菱航空機道徳工場

名古屋の三菱航空機道徳工場へは1944年6月15日、全羅南道隊150人、大江工場に忠清南道150人の半島女子勤労挺身隊が動員された[2]。光州の金福礼は隣組の組長に「勤めながら勉強したらどうか」といわれて入隊している[2]

羅州国民学校6年生ではクラス全員が募集に挙手し、9人が選出された[2]。12月7日には東南海地震によって全羅南道隊6人が死亡した[2]

名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟の訴状では、日本語の上手な低年齢世代が内地に行くことが多かったが、工場では夜学の夢が破れ、軍隊式のひどい扱いを受けたという不満を語る人もいる[16]

総数

朝日新聞社編『女たちの太平洋戦争2』(朝日文庫,p120)では「朝鮮女子挺身隊は、ざっと20万人」が動員されたと書かれているが、根拠が明確でない[2]

日本内地へ動員された朝鮮人女子挺身隊の総数については、高崎宗司は多く見積もっても4000名であり、20万説は成り立たないとしている[2]。日本内地の終戦時の動員数は47万2573人であり、人口の違いを考慮しても比べ物にならないほど少なく、これは半島での動員の難しさを示すのではないかとしている[2]

秦郁彦内務省管理局「昭和19年度内地樺太南洋移入朝鮮人労務者供出割当数調」などに依って約1万人と推計している[14]

「挺身隊」と「慰安婦」との混同

「女子挺身隊」は工場などでの勤労労働に従事する女性を、慰安婦は戦地等での公娼・売春婦を意味し、それぞれまったく異なるものであるが、すでに当時の朝鮮では「挺身隊=慰安婦」と両者が混同された誤った認識があった[3]

1944年8月、日本内地において日本人女性を工場などへ強制動員する「女子挺身勤労令」が出され、これは12歳から40歳までの未婚女子が対象であった[17]。同時に学徒勤労令も出され、中等学校二年以上の学徒も軍需工場などで勤労した[18]

男子は1939年の国民徴用令で強制動員されていたが、朝鮮では実施を遅らせて民間企業による自由募集、1942年1月からは官斡旋(朝鮮労務協会が実務)となり、1944年9月になってようやく徴用令が発動され、いわゆる「朝鮮人強制連行」はこの徴用令に基づく内地等への労働力移入を指す[18]

戦時中の流言(デマ)

朝鮮半島の女子についてはこのような日本内地における徴用令も女子挺身勤労令も発令されなかったが、斡旋や募集によって挺身隊が日本内地へ向かった事例もあったため、挺身隊と慰安婦が混同され、「挺身隊に動員されると慰安婦にされる」との流言が流布し、パニック的動揺が生まれた[3]

1944年6月27日付の朝鮮総督府官制改正に関する内務省の閣議用説明文書でも次のように流言について書かれている。

勤労報国隊の出動をも斉しく徴用なりとし、一般労務募集に対しても忌避逃走し、或は不正暴行の挙に出ずるものあるのみならず、未婚女子の徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり、此等悪質なる流言と相俟って、労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる。 - 内務大臣請議「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件」1944年6月27日

ここでは「未婚女子の徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言 (未婚の女性は必ず徴用で慰安婦にされるという荒唐無稽なる流言)」が拡散しているという記述があり、戦前から徴用(勤労報国隊、女子挺身隊)と慰安婦「混同」されていた様子が伺える[19][1]

1944年10月には朝鮮総督府が「国民徴用の解説」で女子挺身勤労令を発動しないと答弁した[13]

デマの原因としては次のような見方がある。

  • 徴用のがれ(挺身隊のがれ)

日本でも就職する事によって徴用を逃れようとしたものがいたが[20]、朝鮮でも「挺身隊のがれ」のために早婚することが氾濫したり、就職する女性が増え[2]、朝鮮の未婚女性や親は娘に学校を中退させたり、結婚することで徴用を逃れようとした[1]

例えば、韓国で挺身隊=慰安婦という認識を広めた韓国挺身隊問題対策協議会初代代表の尹貞玉(1925年生)も父親の忠告に従って1943年4月に入学したのを同年9月に退学している[1]

  • 教師による指名勧誘

尹明淑は、労働力として国民登録する朝鮮の女子はあまりに少なかったため学校教師による勧誘が進められたが、内地に動員されたことが多かったためデマの元になったとしている[21]。実際、官斡旋による女子挺身隊動員は小学校や女学校の教師が指名勧誘する事例が多かった[13][2]

  • 独立主義者による謀略

日本政府は挺身隊を慰安婦と混同する「荒唐無稽で悪質な流言」(デマ)を民族主義者による反日謀略とみなしていた可能性も指摘されている[1]

  • 人身売買との関連

慰安婦の証言からは「女子挺身隊」は人身売買詐欺の名目に使われている。

戦後〜現在における混同

このような「挺身隊」を「慰安婦」の意味で使う事例は、戦後から現在にかけてもみられる。韓国では「慰安婦」を「挺身隊」と呼称することが一般に定着している[22][23]。また、日本でも著作家や朝日新聞が混同して書いた例がある。

韓国軍慰安婦=「挺身隊」

韓国では、国連軍相手の韓国軍慰安婦が韓国警察や韓国公務員により「挺身隊정신대)・国連挺身隊」」とも呼ばれていた[24]

1975年の金大商「日帝下強制人力収奪史」では数万の朝鮮女性が女子勤労挺身隊として動員され、このなかの相当数が慰安婦とされたとした[2]

慰安婦運動団体における混同

現在でも慰安婦問題を訴えている韓国の団体は「韓国挺身隊問題対策協議会」と名乗っており、慰安婦問題を扱う団体の名が「挺身隊」とされていることについて、未だに混同が残っているとして疑義が呈されている[2]

報道における混同

韓国の新聞

1992年1月の宮沢主張の訪韓時に韓国の新聞は「小学生までが挺身隊にされ、慰安婦にされた」と、あたかも女子小学生が慰安婦にされたかのような報道を繰り返した[14]

東亜日報は1992年1月14日に「挺身隊、小学生まで引っ張っていった」、朝鮮日報は同1月15日に「日本、小学生も挺身隊に徴発」との見だしで報道した[14]

東亜日報は1月16日に12.13才前後の少女らが「勤労挺身隊」として連行され、一部は従軍慰安婦と差し出され、15才以上の少女も慰安婦として連行されていったと報じ、さらに1月17日に全羅北道女子勤労挺身隊の帰国時の写真を動員時のものと間違えて「悲劇的運命も知らないまま微笑し」ていると説明をつけて報じた[2]

東亜日報は1月15日の社説「十二歳の挺身隊員」では次のように主張した[25]

十二歳の小学生まで動員、戦場で性的玩具にして踏みにじったという報道に再び沸き上がってくる憤怒を抑えがたい。(中略)
これまで十五歳の少女が挺身隊に動員されたことは知られていた。しかし、十二歳の幼い子供まで連行されたことは初めて明らかにされたことだ。(中略)勤労挺身隊という名前で動員された後、彼女らを従軍慰安所に回した事実が様々な人の証言で立証されている…(中略)泣き叫ぶ女性をなぐりつけ乳飲み子を腕から奪って赤ん坊の母親を連行したこともあった。このように動員された従軍慰安婦が八万〜二十万と推算される。

東亜日報1992年1月15日社説「十二歳の挺身隊員」

1月14日の「小学生挺身隊」記事を執筆したのは連合通信金溶洙記者であったが、西岡力が12歳の少女が慰安婦になったという事実はないのになぜ報道したのかと質問すると、金記者は、富山県に動員された6人の児童が慰安所でなく工場に動員されたことは事実であるとして

6人の児童が慰安婦でなかったことは知っていましたが、まず勤労挺身隊として動員し、その後慰安婦にさせた例があるという話も韓国国内ではいわれていますので、この6人以外で小学生として慰安婦にさせられた者もいるかもしれないと考え、敢えて<勤労挺身隊であって慰安婦ではない>ということは強調しないで記事を書きました。

と弁解した[26]。この弁解で「小学生慰安婦」が根拠のないことが明らかになり[27]、またその後、元挺身隊だった女性が名乗りでて報道が誤報であったことが判明する[14]

しかし、その後も「小学生慰安婦」について報道機関は謝罪することも修正することはなく「小学生や乳飲み子の母親までを連行して性の玩具にした」というイメージは韓国社会のなかで繰り返しテレビドラマなどで伝えられている[28]

2010年代の米国や韓国などでの慰安婦の碑でも「少女」像が設置され、成人女性ではない「少女」のイメージが強調されている[29]

朝日新聞における混同

1991年から1992年にかけて朝日新聞朝鮮半島出身の慰安婦について「女子挺身隊・挺身隊」の名で強制連行したと以下のように両者を混同して報道した。

第2次大戦の直前から『女子挺身隊』などの名で前線に動員され、慰安所で日本軍人相手に売春させられた

1991年12月10日朝刊

太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる

1992年1月11日朝刊

2014年8月5日、朝日新聞はこの件について「当時は慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられた」とし、記者が資料の誤用をして報道してしまったことを説明した[19]

著作家、学者による混同

千田夏光の混同

日本においては千田夏光が著書『従軍慰安婦』(1973年)において、以下のように記述した。

“挺身隊”という名のもとに彼女らは集められたのである(中略)総計二十万人(韓国側の推計)が集められたうち“慰安婦”にされたのは“五万人ないし七万人”とされている

千田夏光従軍慰安婦』1973年

これをもとに朝鮮近代史研究者の宮田節子は、「朝鮮を知る事典」(平凡社、86年初版)において同じように記述。のちに宮田は「慰安婦の研究者は見あたらず、既刊の文献を引用するほかなかった」と釈明している[19]

千田夏光のこの記載について、この著書に先立って1970年8月14日の韓国の『ソウル新聞』が、「1943年から1945年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は全部でおよそ20万人。そのうち韓国女性は5〜7万人と推算されている」という報道を誤読していることが指摘されている[2]。ただし、このソウル新聞の推算の根拠は不明のままである[2]

金一勉の「処女・少女の強制連行」論

在日朝鮮人作家の金一勉は1976年の著書『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』で日本軍慰安婦について『地上のあらゆるエロ小説よりも奇怪にしてスリルに富み、残酷かつ野蛮なセックス処理の女たち』[30]と表現したあとで、『しかもその女たちはその戦争中、お国のためと称して特志看護婦とか軍要員とか女子工員とかの名目で強制的に集められた十七歳から二十歳までの処女ばかりであった』[31]。と記しており、このような「日本帝國」による「国家的大詐欺行為」によって集められた「処女」は推定20万人であったと主張している[31]

なお、この金の本はクマラスワミ報告書における事実認定のほぼすべての出典として提示されているジョージ・ヒックスの著作『性奴隷』でも参照されており、歴史的事実の根拠として提示されている[32]

韓国の学会

1992年6月には韓国の国史編纂委員会史料調査委員会は、女子勤労挺身隊の大部分は慰安婦とされたと結論した[2]

1994年に余舜珠が修士論文慰安婦を女子勤労挺身隊という名目で動員したかについてはもっと確認する必要がああると書いたが、韓国ではこの指摘は軽視された[2]

韓国挺身隊研究会会長で学者の鎮星は女子勤労挺身隊制度が「慰安婦連行の道具」になったと論じた[2]

国連報告書における混同

国連報告書クマラスワミ報告には1942年までは、朝鮮人警察官が村へやってきて「女子挺身隊」を募集した。とある[33]が、日本内地で女子挺身勤労令が公布されたのは1944年8月であり、朝鮮では施行されていない。すなわち、朝鮮半島で女子挺身隊を徴用した事実はなく、徴募も1944年3月からであり、1942年の時点では行われてない。

脚注

  1. ^ a b c d e 秦 1999, p. 369.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp 高崎宗司「半島女子勤労挺身隊」について]:『「慰安婦」問題 調査報告・1999』財団法人女性のためのアジア平和国民基金刊,1999年。
  3. ^ a b c 秦郁彦 1999, pp. 367-369.
  4. ^ p122 大韓民国の物語 李榮薫著 永島広紀訳 文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101
  5. ^ 「写真週報 292号」(昭和18年10月6日)p.5
  6. ^ 中野文庫 - 国民勤労報国協力令
  7. ^ 毎日新報10月8日夕刊
  8. ^ 女子挺身隊制度強化方策要綱 | 国立国会図書館-National Diet Library
  9. ^ 女子挺身勤労令 | 女子挺身勤労令(昭和19年勅令第519号)
  10. ^ 朝日東亞年報 昭和十九年 第二輯 朝日新聞社中央調査会 1944年
  11. ^ 『決定版・昭和史--破局への道』第11巻190頁、他 [1]
  12. ^ 14~23歳の女性の人口は、平時の一般最高年齢を70歳とすると、1/14×(35+約7.5/35)(人口ピラミッドによる世代比と平均値の中間として仮予想)=約1/11.5で、600~650万辺りとなる。
  13. ^ a b c d 秦 1999, p. 367.
  14. ^ a b c d e f g h 秦郁彦 1999, p. 368 内務省管理局「昭和19年度内地樺太南洋移入朝鮮人労務者供出割当数調」
  15. ^ a b 川崎在日コリアン生活文化資料館
  16. ^ (「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」の控訴人最終準備書面)。
  17. ^ 秦 1999, pp. 366-367.
  18. ^ a b 秦郁彦 1999, p. 367.
  19. ^ a b c 2014年8月5日13版特集1面、16面と17面のうち17面に詳述:朝日新聞「『挺身隊』との混同 当時は研究が乏しく同一視」
  20. ^ 『女子挺身隊の記録』いのうえせつこ
  21. ^ 尹明淑 『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』p296-298)明石書店、2003年
  22. ^ 李娜榮 日本軍「慰安婦」と米軍基地村の「洋公主」 立命館言語文化研究 23(2), 209-228, 2011-10-00
  23. ^ 朝鮮日報1992.1.15
  24. ^ ‘皆さんはドルを稼いでくれる愛国者です’証言を通じて “基地村の隠された真実” 続々と明らかに(‘여러분은 달러를 벌어주는 애국자입니다’증언 통해 “기지촌의 숨겨진 진실” 속속 드러나 Ilda 2008/12/15朝鮮語
  25. ^ 西岡力 2007, pp. 48-50.
  26. ^ 西岡力 2007, pp. 45-47.
  27. ^ 西岡力 2007, pp. 47-48
  28. ^ 西岡力 2007, p. 50.
  29. ^ 中央日報2012年11月25日「在米韓国人 デトロイト慰安婦少女像の建立推進」[2]
  30. ^ 金一勉 2012, pp. 17-18
  31. ^ a b 金一勉 1976, p. 18
  32. ^ 秦郁彦 1999, p. 266
  33. ^ E/CN.4/1996/53/Add.1 女性に対する暴力-戦時における性奴隷制度問題に関して、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国及び日本への訪問調査に基づく報告書-: 第28項目。

参考文献・関連文献

外部リンク

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