愛国婦人会
この記事は クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0 のもとで公表された愛国婦人会 - Wikipediaを素材として二次利用しています。
愛国婦人会(あいこくふじんかい)とは、戦前に国防及び戦死者の遺族・傷病兵を救うために結成された団体である。
1900年(明治33年)に起きた北清事変(義和団事件)に際し、佐賀県唐津市出身の社会運動家、婦人運動家の奥村五百子が、本願寺慰問使の一員として戦場に赴き、つぶさに前線将校・兵士の惨苦を視察して帰国。陸海軍の支援や政治家の近衛篤麿らの援助により1901年(明治34年)2月6日に創立した。
初代会長は宮内大臣であった岩倉具定の妻岩倉久子が務め、1903年(明治36年)には皇族の載仁親王妃智恵子を迎え入れた。
活動内容
当初は戦没将士の遺族および廃兵の救護を目的としたが、1917年(大正6年)欽定を改正して他の救護事業にも当たるようになった。関東大震災後の救済その他救護館の設立、婦人職業紹介、花嫁紹介など、幅広い活動を行った。また、機関誌『愛国婦人』も発行し奥村は全国遊説にあたって会員を増やした。
初期は上層階級の婦人や皇族、貴族が大半を占めていたが、日露戦争時の1905年(明治38年)には一般婦人にも拡張。会員数は46万人に達し[1]、日本最大規模の婦人団体に成長した。各府県支部長には知事夫人が就くなど、地域名士の夫人が役員に名を連ね、サロンの趣きがあった。
第一次世界大戦末期は階級対立を恐れ、農村託児所などの社会事業も行った。
1931年に起きた満州事変後にはファッショ体制作りに協力し、婦人報国運動を起こしたり、未成年の女子を集めて愛国子女団(愛国女子団とも)を結成した。
1932年(昭和7年)、大阪で大日本国防婦人会が結成され、会員数で愛国婦人会を上回る急成長を遂げる。高額会費による慈善活動が主の愛国婦人会と、会費低廉ながら兵士への世話の手厚い大日本国防婦人会とでは、活動内容の隔たりは大きかった。
上流対下流の感情的対立に、後ろ盾となっている内務省と陸軍省の対立が加わり、関係は抜き差しならないものがあった。
組織としての終了
1941年(昭和16年)6月10日、定例閣議において、大日本婦人連合会および大日本国防婦人会の婦人3団体の統合要項が決められた。翌1942年2月、大日本婦人会(日婦)の結成がなされ、発展的解消をとげた。最終的に内閣の決断を仰がねばならなかったところが、統合の困難さを物語っている。
脚注
- ^ 世界大百科事典 1972, p. 8.
参考文献
- 『学習百科辞典』(三省堂、1934年) 著作権保護期間満了
- 『大百科辞典』(平凡社、1943-44年) 著作権保護期間満了
- 『世界大百科事典 1 アーアン』 林達夫、平凡社〈世界大百科事典〉(原著1972年4月)、1972年版(日本語)。
- 『世界文化大百科事典 1 アーウチワ』 鈴木勤、世界文化社(原著1971年)(日本語)。
- 『グランド現代百科事典 1 アーアメリカサ』 鈴木泰二、学習研究社(原著1983年6月1日)(日本語)。
関連項目
「愛国婦人会」の書誌情報
- 項目名: 愛国婦人会
- 著作者: ウィキペディアの執筆者
- 発行所: ウィキペディア日本語版
- 更新日時: 2014年1月31日 07:38 (UTC)
- 取得日時: 2015年6月8日 14:17 (UTC)
- 版指定URI: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%84%9B%E5%9B%BD%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E4%BC%9A&oldid=50544271
- 主な執筆者: (改版集計情報)
- 項目の版番号: 50544271