アイヌ

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アイヌ
(ウタリ)[1]
脚注
1.^ アイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない

アイヌは、北海道・樺太千島列島およびロシア・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族である。母語アイヌ語。19世紀に列強の国々が領土拡張するにあたり、多くの先住民族が当該国に編入されたが、アイヌも同様の運命をたどった。現在、日本とロシアに居住する。

アイヌは、元来は狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが、生業の毛皮や海産物などをもって、現在のロシアのハバロフスク地方アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた[1]。

1855年日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下[2]、各々の領土が確定した以降は、日本国民またはロシア国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。

呼称[編集]

アイヌ[編集]
アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない[3]。

アイヌの社会では、「アイヌ」という言葉は本当に行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。

これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、和人(シサム・シャモ[4])とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけてとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ[5]」と呼ぶように求めたとされている[要出典]が、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。

アイヌ語では、東を「メナシ」、住民や部族を「クル」と呼ぶことから、北海道東部に住したアイヌ部族は「メナシグル」と称し、同様に西部のアイヌは「シュムグル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「チュプカタウダシ」と呼ばれるなど出身部族で互いを呼びわけていた。

ウタリ[編集]
しばしばアイヌの民族呼称として用いられることもあるウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間であるが[6]、現在ではアイヌ人自身の民族の呼称としても用いられる[7]。

蝦夷[編集]
蝦夷」を参照

中世以降、日本人(大和民族)はアイヌ蝦夷、北海道を蝦夷地と称してきた[8]。東北地方の稲作遺跡を発掘した伊東信雄は、朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」らは、文化的には和人であるものの、人種的にはアイヌであるという。このように、アイヌを東北地方あるいは日本全土の原日本人の一つとする説もある。

北方の民族からは骨嵬(クギ)などと呼ばれてきた。

民族的出自[編集]
ツングース系民族」および「擦文時代」を参照

アイヌの祖先は北海道在住の縄文人であり、続縄文文化、擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったとみなされている。しかし、特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しく、その詳細な過程については不明な点が多い。
これまでアイヌの民族起源や和人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされ、地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いと推定されてきた。
近年遺伝子(DNA)解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきて、さらに北海道の縄文人はアムール川流域などの北アジア少数民族との関連が強く示唆されている[9][10][11]。擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ニヴフと推定されている[11])の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。

自然人類学から見たアイヌ民族は、アイヌも和人も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つとされる。南方系の縄文人、北方系の弥生人という「二重構造説」で知られる埴原和郎は、アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つが、本土人は、在来の縄文人が弥生時代に大陸から渡来した人々と混血することで成立した一方、アイヌは混血せず、縄文人がほとんどそのまま小進化をして成立しとされる[12]。アイヌは、和人に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫とされる[12]。

身体的特徴[編集]
「アイノイド」を参照

コーカソイド説[編集]
アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴がある。これらを根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。

アイヌ=縄文人近似説が主流になるまで、アイヌ=ヨーロッパ人近似説には日本の学会において強い影響力があった。また日独伊三国軍事同盟が締結された時も、この説はナチス・ドイツによって利用され、「アイヌ人はアーリア人であり、日本人はアイヌ人の子孫である。だから日本人はアーリア人である」と主張された(ナチス人種学者のハンス・ギュンターの「アーリアン学説」)。

このような認識はまた、日本政府の様々な政策(同化政策、ロシア国境地帯からの強制移住など)にも色濃く反映された。

遺伝子調査[編集]
「YAP (Y染色体ハプログループ)」および「Y染色体ハプログループの分布 (東アジア)」を参照

近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球人の次に和人で、アイヌ人個体の3分の1以上に和人との遺伝子交流が認められた。他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本人(アイヌ人、琉球人、和人)の特異性が示された。
これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している[13]。アイヌ人集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ人集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる[14]。

Y染色体ハプログループの構成比については、日本人(特に沖縄県)に多いハプログループD1bが88%(うちD1b*が13/16=81.25%、D1b1aが1/6=6.25%)に対し、北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC2が2/16=12.5%と報告されている[15]。

北海道縄文人集団[編集]
ミトコンドリアDNAを用いた系統解析により、北海道の縄文・続縄文時代人の系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団における頻度分布と大きく異なっている[16][9]。また坂上田村麻呂侵攻以前の東北地方古墳時代人に北海道縄文・続縄文人に多くみられる遺伝子型が観察され、東北地方縄文人についても北海道縄文・続縄文人と同様の母系を持つ可能性が指摘され、東北地方縄文時代人と北海道縄文時代人DNAと比較した結果、ハプログループN9bおよびM7aが北日本の縄文人のミトコンドリアDNAの遺伝子型の中心とされた[9]。

北海道縄文人集団にはN9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されている[10]。このうちN9bの頻度分布は64.8 %と極めて高いのが特徴であるが、N9bはアムール川下流域の先住民の中に高頻度で保持されている[10]。D10も、アムール川下流域の先住民ウリチにみられ、主に北東アジアに見られるハプログループGのサブグループG1bはカムチャッカ半島先住民に高頻度でみられるが、現代日本人での報告例はない[10]。

オホーツク人・カムチャツカ半島先住民族との関連[編集]
近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。樺太(サハリン)起源とされるオホーツク文化は5世紀ごろ北海道に南下したが10世紀ごろ姿を消したもので、粛慎との見方もなされてきた[17]。

2009年、北海道のオホーツク文化遺跡で発見された人骨が、現在では樺太北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフ族に最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族、コリヤーク族とも祖先を共有することがDNA調査でわかった[17][11]。
また、オホーツク人のなかに縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるハプログループY遺伝子が確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性も判明した[17][11]。アイヌ民族は縄文人や和人にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった[11]。

天野哲也北大教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」とコメントした[17]。増田隆一北大准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測した[11]。この北大研究グループは、アイヌ民族の成り立ちに続縄文人・擦文人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられると述べた[11]。

歴史[編集]
人類学的には日本列島の縄文人と近く、北海道にあった擦文文化を継承し、オホーツク文化と本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。本州では農耕文化が始まるが、北海道では狩猟採集の文化が継続し、7世紀には擦文文化が始まる[8]。
擦文文化やオホーツク文化アイヌ文化に影響を与えている[8]。13~14 世紀になると、農耕も開始され、海を渡った和人との交易も行われた[8]。またアイヌからオロッコと呼ばれたウィルタ民族ともアイヌは交易していた。1457年には和人アイヌ間でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した[8]。
蠣崎氏を祖先とした松前藩アイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽(矢羽の原料)・海草や清からアイヌに伝わった衣服(蝦夷錦)などを輸入し、鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていた[8]が、1669年のシャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった[8]。江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄地とした[8]。

明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。屯田兵や一般の農民が次々と入植し、和人人口が増加した[8]。アイヌ人は「平民」として戸籍制度の中に組み入れられるが、「土人」とも呼ばれ、宗教儀礼や入墨、耳環などアイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、教育は日本語で行われた[8]。
地租改正により和人に土地の所有権を奪われて移住を余儀なくされ、アイヌの伝統な生業である狩猟、漁撈も制限される過程で、生活も困窮の道をたどる。政府は勧農政策を実施し、北海道旧土人保護法では土地の無償下付や農具の給付など優遇制度 を実施したが、既に和人がいい土地を取得してしまったあとで与えられた土地は農地に適していなかったり、十分農業指導が行われなかったりで、アイヌの人々の生活改善には効果がなかった[8]。

宗教[編集]
アイヌの宗教は汎神論に分類されるもので、動植物、生活道具、自然現象、疫病などにそれぞれ「ラマッ」と呼ばれる霊が宿っていると考えた。この信仰に基づく儀礼として、「神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿」とされる熊を集落で大切に飼育し、土産物を受け取った(殺した)上でその魂(カムイ)を天界に送り返す儀式イオマンテがある。祭壇はヌサとよばれ、ヒグマの頭骨が祀られた。

キリスト教
千島列島に住むアイヌ人はロシア正教会の神父コウンチェウスキーによって、1747年最初に正教に改宗する者が出た。北千島には聖堂が建てられ、ロシア人宣教師は狩猟民族であったアイヌと一緒の生活を送り、季節毎に島々を移動した。
1800年代には、北千島の千島アイヌ160人全てが正教徒になっていた。その後、北千島は日本の領土になり、北千島の住民は色丹島に移住させられ、北千島にあった聖堂も破壊された。色丹島アイヌに対して最初日蓮宗僧侶が改宗を試みたが失敗した。その後、政府に雇われたロシア正教会の神父が色丹島を訪れ、色丹島アイヌ人はこれを歓迎し、手厚くもてなした[18]。

建築[編集]
アイヌの伝統的な家屋はチセとよばれる、茅葺の掘立柱建物である。家の周囲にはプー(高床式倉庫)、アシンル(便所)、ヘペレセッ(熊飼育用の檻)などが設けられ、数家族が寄り集まってコタン(集落)を営んでいた。

衣装[編集]
アイヌの伝統衣装はアミプと呼ばれ、特にオヒョウやシナノキの樹皮から取った繊維で織った生地で仕立てた衣装をアットゥシと呼ぶ。仕立ては和服に似ているが、筒袖で衽(おくみ)が無い。装飾として、木綿の生地をアップリケし、さらに刺繍を施すが、模様は北海道各地に系統だったものが存在する。
道南地方、特に噴火湾沿岸地方では長方形に裁断した綿布をアップリケして刺繍した「ルウンペ」。日高地方では紺地の綿布に白い綿布をアップリケして、曲線を多用した模様を描いた「カパリアミプ」がある。また、綿布の流通が乏しかった石狩川の上流部や十勝地方では、生地に直に刺繍することで模様を描いた「チヂリ」が存在する。さらに繊維用の森林資源にも乏しかった千島列島では、鳥の皮で作られた外套「チカプウル」がある。

江戸時代中期以降は、和人との交易で入手した小袖や陣羽織が、儀礼用の衣装として着用された。

ユーカラ[編集]
アイヌは伝統的に文字を使用せず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。口承文芸としてはウエペケレ(散文の昔話)やユーカラ叙事詩)がある。明治時代、アイヌ出身の知里幸恵がローマ字表記のユーカラと日本語訳を併記して紹介した『アイヌ神謡集』を出版したほか、金田一京助が長大なユーカラ研究を発表している。

現在、保存運動によって若手の語り手が育成されている。

古式舞踊[編集]
祭事や祝宴などで演じられた伝統的な踊りで、「ウポポ(歌)」に合わせた「リムセ(輪舞)」がよく知られている。地域によって曲目や舞い方は異なる。1984年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2009年にユネスコ無形文化遺産に登録。[19]。また、アイヌ刀を用いた剣の舞もある。

言語[編集]

アイヌ語」および「アイヌ語方言」を参照

アイヌの言語であるアイヌ語は、北海道、樺太千島列島に分布していたが、現在ではアイヌの移住に伴い日本の他の地方(主に首都圏)にも拡散している。しかし母語話者は極めて少なくなっており、ユネスコによって2009年2月に「極めて深刻」(critically endangered)な消滅の危機にあると分類された、危機に瀕する言語である[20][21]。
危険な状況にある日本の8言語のうち唯一最悪の「極めて深刻」に分類された[22]。系統的には「孤立した言語」とされており、縄文時代の言語をそのまま残しているという説もある。北海道はもとより、東北地方北部にもアイヌ語地名が多数残っていることから、かつては分布域が東北北部まで広がっていたと考えられている。

地理[編集]
アイヌの伝統的な分布地は、北海道、樺太千島列島、カムチャツカ、東北地方北部である。なお、北海道、千島列島に残る地名の多くは、アイヌ語の地名に当て字をしたものである

1756年に津軽勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁業に従事していたアイヌに対し同化政策を実施。以後、本州からアイヌ文化が急速に失われる。

1875年の樺太千島交換条約後、物資の補給と防衛上の理由から、千島のアイヌはそのほとんどが当地を領有した日本政府によって色丹島へ移住させられた。

1945年にソビエト連邦が日本に参戦し、南樺太千島列島を占拠、現地に居住していたアイヌは残留の意志を示したものを除き本国である日本に送還された。[23]

人口[編集]
江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大26800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。

1897年のロシア国勢調査によればアイヌ語母語とする1,446人がロシア領に居住していた[24]。

現在、国勢調査ではアイヌ人の項目はなく、国家機関での実態調査は行われていないに等しい。そのため、アイヌ人の正確な数は不明である。

2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人[25][8]となっており、支庁(現在の振興局)別にみた場合、胆振日高支庁に多い。なお、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義している。また、相手がアイヌであることを否定している場合は調査の対象とはしていない。

1971年調査で道内に77,000人という調査結果もある。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある[26]。


 北海道外に在住するアイヌも多い。1988年の調査では東京在住アイヌ人口が2,700人と推計された[25]。1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる[8]。

また、日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいると1992年に報道されたが、アレウト族の末裔ではないかとの指摘もある[27]。一方、アイヌ研究の第一人者で写真や蝋管など膨大な研究資料を残したポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキがアイヌ女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔はみな日本にいるとしている。

現在[編集]
北海道においては、アイヌ居留地などは存在しないが、平取町二風谷に多数が居住するほか、白老や阿寒湖温泉では観光名所としてアイヌコタン(コタンは集落を意味する)が存在する。

平成18年の北海道の調査によれば、かつて差別を受けたことがあるかという問いに、はい、と答えた人が16.8%、そのほかに別の誰かが受けたことを知っていると答えた人が、19.8%であった[8]。明治以降は和人との通婚が増え、両親がともにアイヌであるアイヌは減少しているが、和人との通婚が増えている理由として西浦宏巳は1980年代前半に二風谷アイヌ調査で、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫のアイヌの血を薄めようと考えるアイヌが非常に多いと指摘している[28]。
アイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。また、浦河町エカシである細川一人は、和人の両親から生まれたが幼少時に父親と死別し14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたという[29]。

長い間、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、和人への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。しかし、近年はAINU REBELSのような若者を中心として積極的にアイヌ語アイヌ文化の保持を主張し、自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。各地でアイヌ民族フェスティバルなどが開かれ、北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。

アイヌ先住民族認定[編集]
アイヌ文化振興法」および「日本の民族問題」を参照
1950年代のアメリカ合衆国先住民族の権利主張が取り上げられるようになり、日本でも権利回復運動が行われた[8]。

1997年、アイヌ文化振興法施行によって北海道旧土人保護法は廃止された。しかし、このアイヌ文化振興法ではアイヌ先住民族と認定されなかった[8]。またアイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われたが、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。

2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を踏まえて、2008年6月6日、アイヌ先住民族として認めるよう政府に促す国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された[30][31][32]。北海道アイヌ協会が北海道の区域外に居住するアイヌ認定事業[33]をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合せ[34]に基づき実施している。その際には、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料としている。

アイヌ先住民族認定と優遇措置に対する批判[編集]

2014年に札幌市議会議員の金子快之がTwitterで「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不合理。納税者に説明できません」とアイヌ民族は今は存在しないと受け止められる書き込みを行っていたことが判明[35][36]、アイヌ民族の団体などから批判され、同9月に市議会からは議員辞職勧告決議[37]をうけた。
金子議員は、アイヌ民族であることを法的に証明する手段が現状存在しないため、アイヌ民族であることを『証明』している北海道アイヌ協会が「アイヌの血を受け継いでいる『と思われる』人」という曖昧な基準で認定していることや、出自がアイヌ民族でなくとも養子や婚姻といった手段で認定してもらえればアイヌ民族としての優遇措置を受けられること、北海道アイヌ協会自体に数々の『不正行為』が存在していることなどを挙げ、アイヌの文化や歴史を否定するものではないとし、アイヌに様々な苦労があったことを認めつつも今後もこの問題に取り組んでいくと反論した[38]。
しかし一方で除名処分に際し『アイヌ民族先住民族』とした国会決議の内容は認めない」との趣旨の発言があったとされ、また発言も撤回していない。[39]
 
博物館[編集]
アイヌ民族博物館
北海道博物館
二風谷アイヌ文化博物館

関連団体[編集]
北海道アイヌ協会
アイヌ民族

脚注[編集]
1.^ 北海道大学名誉教授(北東アジア考古学) 菊池俊彦 「オホーツク世界と日本」2012
2.^ (1) 立教大学名誉教授(日本近世史) 荒野泰典 編集 「東アジアの中の日本の歴史〜中世・近世編〜」 の『「四つの口」の国際関係――近世日本国家の中華秩序からの自立を中心に――』より。
(2) 2009年-2013年度放送 「NHK高校講座 日本史」 第20回 「海外交流の実態 〜4つの窓口〜」の『4つの窓口』より。講師 琉球大学准教授 武井弘一。
3.^ 例えば、「イヌイット」はカナダ・エスキモーの自称であるが、これはイヌクティトゥット語で「人」を意味する Inuk の複数形、すなわち「人々」という意味である。また、7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中華王朝の史書では「倭人」と記載されているが、これは自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説がある。他にも、タイ族やアニ・ユン・ウィヤ族、カザフ族などにも、民族名に「人」の意が含まれる。
4.^ 当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称または「和人」のアイヌ読みともいわれる。
5.^ アイヌ語の母音「u」の発音は日本語のウとイコールではなくオにも聞こえる音であるため、主として近代以前の文献では「アイノ」と表記されることも多い。
6.^ 小学館デジタル大辞泉
7.^ 三省堂大辞林』第三版
8.^ a b c d e f g h i j k l m n o p 日本学術会議地域研究委員会人類学分科会「アイヌ政策のあり方と国民的理解」平成23年(2011年)
9.^ a b c 安達登・篠田謙一「[http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s5.html 北海道出土の縄文・続縄文時代人骨のDNA分析」2008年3月7日
10.^ a b c d 安達登・篠田謙一「北から見た縄文人起源論」「日本人起源論を検証する:形態・DNA・食性モデルの一致・不一致」2010年2月20日、国立科学博物館分館
11.^ a b c d e f g [1]北海道新聞2009.6.18.オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー。論文はAnthropogical Science(日本人類学会)
12.^ a b 篠田謙一「自然人類学から見たアイヌ民族有識者会議 2009.2.26
13.^ 【プレスリリース】日本列島3人類集団の遺伝的近縁性
14.^ http://www.natureasia.com/ja-jp/aj/jhg/highlights
15.^ 田島等"Genetic Origins of the Ainu inferred from combined DNA analyses of maternal and paternal lineages"2004年
16.^ 安達登・篠田謙一・梅津和夫・松村博文・大島直行・坂上和弘・百々幸雄 (2005) 北海道伊達市有珠モシリ遺跡出土人骨のミトコンドリアDNA多型解析.「DNA多型 vol.13」所収、日本DNA多型学会・小林敬典編、東洋書店、pp. 242-245.
17.^ a b c d 消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」北大が調査朝日新聞2009年2月4日
18.^ 『ハリストス正教徒としての千島アイヌ』Malgorzata Zajac
19.^ 2014年1月12日中日新聞朝刊サンデー版1面
20.^ 消滅の危機にある方言・言語,文化庁
21.^ “八丈語? 世界2500言語、消滅危機 日本は8語対象、方言も独立言語 ユネスコ”. 朝日新聞 (2009年2月20日). 2014年3月29日閲覧。
22.^ 他の7言語は与那国語八重山語が「重大な危険(severely endangered)」、宮古語、沖縄語、国頭(くにがみ)語、奄美語八丈語が「危険(definitely endangered)」に分類されている。
23.^ 「昭和21年(1946)12月19日、東京でデレヴャンコ中将と日本における連合国軍最高司令官代表ポール・J・ミューラー中将が、ソ連領とのその支配下にある地域からの日本人捕虜と民間人の本国送還問題に関する協定に署名した。協定では、日本人捕虜と民間人はソ連領とその支配下のある地域から本国送還されなければならない、と記されていた。日本市民はソ連領から自由意志の原則に基づいて帰還することが特に但し書きされていた。」(ネットワークコミュニティきたみ・市史編さんニュース №100 ヌプンケシ 平成17年1月15日発行
24.^ Russian Empire Census of 1897: TotalsRussian Empire Census of 1897: Sakhalin (ロシア語)
25.^ a b 北海道アイヌ協会
26.^ Poisson, B. 2002, The Ainu of Japan, Lerner Publications, Minneapolis,p.5.
27.^ 「しかしアキヅキトシユキは実際には1975年の樺太・千島交換条約の際に千島に住んでいた90人のアレウト族の末裔だったのではないかと推測している。そのアイヌがどこのだれのことを示しているのかということに関してそれ以上の情報はでてこなかった」 David L. Howell. “Geographies of Identity in Nineteenth-Century Japan”. University of California Press. 2014年7月13日閲覧。。 小坂洋右 『流亡: 日露に追われた北千島アイヌ北海道新聞社、1992年。ISBN 9784893639431。
28.^ 西浦宏巳『アイヌ、いま-北国の先住者たち』新泉社、1984年
29.^ さとうち藍アイヌエコロジー生活:治造エカシに学ぶ、自然の知恵』小学館、2008年、130ページ
30.^ “「アイヌ民族先住民族とすることを求める決議」に関する内閣官房長官談話”. 首相官邸 (2006年6月6日). 2013年10月24日閲覧。
31.^ アイヌ民族先住民族とすることを求める決議 平成20年6月6日 参議院本会議
32.^ “アイヌ先住民族決議、国会で採択”. All About (2008年6月10日). 2008年10月24日閲覧。
33.^ 北海道外に居住するアイヌの人々に対する奨学金の貸与について p4 北海道の区域外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の対象となる者を認定する業務に係る規則
34.^ 北海道の区域外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の対象となる者を認定する業務についての実施方針 平成26年2月26日 アイヌ政策関係省庁連絡会議申合せ
35.^ 札幌市議:「アイヌはもういない」 ネットで自説 毎日新聞 2014年8月17日
36.^ [http://www.j-cast.com/2014/08/17213275.html?p=all J-CASTニュース:「アイヌ民族もういない」札幌市議、過激発言連発 批判の声に「本当のことを言うと議員辞めなければならないのか」2014年8月17日
37.^ [http://www.sankei.com/politics/news/150413/plt1504130034-n1.html
38.^ http://ykaneko.net/article/403843702.html アイヌ施策に関するツイートについて: 札幌市議会 金子やすゆき ホームページ 2014年8月16日
39.^ [http://www.huffingtonpost.jp/2014/09/09/kaneko-sapporo-no-ainu_n_5794838.html アイヌ発言の札幌市議除名を決定 自民党の市支部連 47NEWS 2014年9月10日

参考文献[編集]
アイヌの本』別冊宝島EX 宝島社 1993年
安達登・篠田謙一「北海道出土の縄文・続縄文時代人骨のDNA分析」2008年3月7日
安達登・篠田謙一「北から見た縄文人起源論」「日本人起源論を検証する:形態・DNA・食性モデルの一致・不一致」2010年2月20日、国立科学博物館分館
新谷行『増補 アイヌ民族抵抗史 アイヌ共和国への胎動』三一新書 1977年 ISBN4-380-72011-X
荒野泰典 「東アジアの中の日本の歴史〜中世・近世編〜」 の『「四つの口」の国際関係――近世日本国家の中華秩序からの自立を中心に――』2012.
海保嶺夫 『エゾの歴史 北の人びとと「日本」』講談社選書メチエ 1996年 ISBN4-06-258069-1
萱野茂アイヌの碑』朝日文庫 1990年 ISBN4-02-260622-3
菊池俊彦 「オホーツク世界と日本」2012
篠田謙一「自然人類学から見たアイヌ民族有識者会議2009.2.26
日本学術会議地域研究委員会人類学分科会「アイヌ政策のあり方と国民的理解」平成23年(2011年)
本多勝一『先住民アイヌの現在』朝日文庫 1993年 ISBN4-02-260776-9
本多勝一アイヌ民族朝日文庫 2001年 ISBN4-02-261357-2
宮島利光『アイヌ民族と日本の歴史』三一新書 1996年 ISBN4-380-96011-0

関連項目[編集]
 ウィキメディア・コモンズには、アイヌに関連するカテゴリがあります。
アイヌの一覧 - アイヌ出身者
蝦夷
アイヌ絵 - アイヌを題材にした日本画、浮世絵
アラハバキ
ウイマム
オムシャ
俘囚
サンカ
マタギ
先住民族、部族
二風谷ダム
オホーツク文化

外部リンク[編集]
アイヌ文化入門(アイヌ民族博物館)
社団法人 北海道アイヌ協会
財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構
ピヤラ アイヌ民族の今 - 北海道新聞
オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー - 2012年6月18日の北海道新聞朝刊
樺太アイヌの碑(石狩) : ふるさと探見 : 北海道発 : YOMIURI ONLINE[リンク切れ]
二風谷アイヌ匠の道
平取町二風谷アイヌ文化博物館

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北海道
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アイヌ」の書誌情報

西周

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西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。勲一等瑞宝章(1897年)。周助ともいう。

生涯[編集]
石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。

漢学の素養を身につける他、天保12年(1841年)に藩校・養老館で蘭学を学んだ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道榎本武揚らとともにオランダに留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。オランダ留学中の1864年にライデンでフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会している。

慶応元年(1865年)に帰国した後、目付に就任[1]、徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。明治3年(1870年)には乞われて明治政府に出仕、以後兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任し、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係する等、軍政の整備とその精神の確立につとめた。

明治6年(1873年)には森有礼福澤諭吉加藤弘之中村正直西村茂樹津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力した。

東京学士会院(現在の日本学士院)第2代及び第4代会長[2]、獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長を務めた。

明治17年(1884年)頃から右半身が麻痺しはじめ、明治20年(1887年)、健康上の理由により文部省・陸軍省・学士会院会員の公職を辞職した。明治23年(1890年)には貴族院議員に任じられ、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[3]。明治24年(1891年)、体の衰弱が著しくなり貴族院議員を辞職した。明治25年(1892年)、大磯の別邸に移った。歩行は不自由で外出は不可能であったが、学問の研究は続けられ、西洋の心理学と、東洋の儒教・仏教の思想を統一した新しい心理学の体系を書き続けた。その著『生性発蘊』は、遂に未完に終わった。明治30年(1897年)、明治天皇は西の功績に対し勲一等瑞宝章、男爵の位を授けた。同年1月31日に死去。享年68。墓所は東京都港区の青山霊園

獨逸学協会学校[編集]
明治14年(1881年)、獨逸学協会の創立に参画し、2年後の開校にあたり初代校長に就任した。西は獨逸学協会学校開校式の演説において「そもそも、学をなす道はまず志を立つるにあり」「志を立てて学問に従事すれば、これに次ぐものは勉強にあり」と述べている。

人物[編集]
西洋語の「philosophy」を音訳でなく翻訳語和製漢語)として「希哲学」という言葉を創った[4]ほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である
上記のように漢字の熟語を多数作った一方ではかな漢字廃止論を唱え、明治7年(1874年)、『明六雑誌』創刊号に、『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載した。
著書に『百学連環』、『百一新論』、『致知啓蒙』など。
森鷗外は系譜上、親族として扱われるが、鷗外の母方の祖父母及び父が養子であったため血のつながりはない。

親族[編集]
養子 西紳六郎(海軍中将、林洞海六男)

著作・主な論考[編集]
西周全集(全4巻)』宗高書房、1960~1971年に刊行完結。 編集委員は大久保利謙
第1巻【哲学篇】 百一新論 (1874)
復某氏書 (1870年頃執筆)
致知啓蒙 (1874:日本初の形式論理学解説書)
知説 (1874:知識論)
美妙学説 (執筆年不明:美学の解説)
教門論 (1874:宗教論)
人世三宝説 (1875:道徳論)
心理説ノ一斑 (1886:心理学についての講演)

栄典[編集]
1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[5]
1897年(明治30年)1月27日 - 勲一等瑞宝章[6]
1897年(明治30年)1月29日 - 男爵[7]

伝記[編集]
清水多吉 『西周――兵馬の権はいずこにありや』 ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2010年5月。ISBN 978-4-623-05774-0。
西周と日本の近代』 島根県立大学西周研究会編、ぺりかん社、2005年5月。ISBN 4-8315-1105-6。

註[編集]
1.^ 小川恭一編著 『寛政譜以降旗本家百科事典』第4巻、東洋書林、1998年5月、2063頁。ISBN 4-88721-306-9。
2.^ 初代会長は福澤諭吉である。
3.^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
4.^ 「百一新論」[1](PDF-P6)[2]。「百一新論」は東京の山本覚馬(ヤマモトカクマ)により明治7年3月に出版されたもの(近代デジタルライブラリーで閲覧可能[3])。
5.^ 『官報』第3266号、「叙任及辞令」1894年05月22日。
6.^ 『官報』第4072号、「叙任及辞令」1897年01月28日。
7.^ 『官報』第4074号、「叙任及辞令」1897年02月01日。

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衆道

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衆道(しゅどう、英: Shudō)とは日本における男性の同性愛関係(男色)の中で、武士同士のものをいう。
「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、別名に「若道」(じゃくどう/にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)がある。

ここでは江戸時代頃からいわれるようになった武家社会における衆道について記す。そのほかの男色全般については、「日本における同性愛」参照。

概要[編集]
「日本における同性愛#江戸時代前期:男色文化全盛、庶民への広がり」および「日本における同性愛#武家における同性愛(衆道)」も参照

平安時代に僧侶や公家の間で流行した男色が、中世室町時代に武士の間でも盛んになり[1]、その「主従関係」の価値観と融合したとされる。
衆道の言葉がいつから使われるようになったかは不明だが、承応二年(1653年)の江戸幕府の「市廛商估并文武市籍寄名者令條(遊女并隠賣女)」に確認できる[2]。
現在確認されているものでは、幕府の公式令條で衆道が使われたのはこれが最初とみられ、江戸時代から武士の男色が衆道と呼ばれるようになったと考えられている。

1716年頃に書かれた『葉隠』には、武士道における男色の心得が説かれ、
「互いに想う相手は一生にただひとりだけ」「相手を何度も取り替えるなどは言語道断」「そのためには5年は付き合ってみて、よく相手の人間性を見極めるべき」としている。
そして、相手が人間として信用できないような浮気者だったら、付き合う価値がないので断固として別れるべきだと説き、怒鳴りつけてもまとわりついてくるようであれば、「切り捨つべし」と言い切っている。
また『葉隠』では武士における衆道は、命がけのものが最高のこととされた。

武士の男色(江戸時代より前)[編集]
武家社会の男色は、それまでの公家の美少年趣味とは異なり、女人禁制の戦場で武将に仕える美少年を「お小姓」として連れて行ったことなどが始まりだとされる。
時に女性の代わりに男色の相手をすることもあった。

岩田準一の『本朝男色考 男色文献書志』によると、武家社会の男色は、戦国時代より前から存在しており、貴族政治から武家社会に転じる鎌倉時代にその習俗はあったという。
そして「最初には、僧侶特有の風俗らしく思われていたものが、ついには武士によってほとんど奪われてしまったごとき奇観を呈する」と述べている。

白倉敬彦の『江戸の男色』によれば、将軍の小姓制度が確立したのは室町幕府の頃である。
能楽の創始者となった世阿弥なども足利義満の寵童の一人であり、
将軍に寵愛され庇護も受けるなど、男色は一つの手段でもあった。

氏家幹人は『武士道とエロス』で「戦術としての男色」を挙げている。
『新編会津風土記』巻七十四が伝える「土人ノ口碑」で、文明11年(1479年)に蘆名氏が男色の契りを戦略的に利用して敵方の情報を入手し、高田城に攻撃を仕掛けたという。
このように武家社会の男色は「出世の手段」や「戦術」、或いは軍団の団結強化の役割もあった[2]。

江戸時代 衆道の確立、そして衰退へ[編集]
ところが江戸の天下太平の世になると、このような男色の特色は機能しなくなっていった。
戦国時代末期(安土桃山時代)から江戸中期までを扱った『葉隠』(1716年)によると、江戸の時代の武家社会でも男色は盛んだったが、これまでの主従関係に加え「同輩関係」の男色も見られるようになっていった。
従前の君臣的上下関係はないが、念者(年長者)と若衆(年少者)という兄弟分の区別があり、若衆の多くは美貌を持つ少年だった[2]。
また前節で触れたように武士の男色が「衆道」といわれるようになったのも江戸期からだとされる。

ただ江戸初期でも、諸藩において家臣の衆道を厳しく取り締まる動きも現れた。
特に姫路藩池田光政(1609年-1682年)は家中での衆道を厳しく禁じ、違反した家臣を追放に処している[3]。
江戸時代中頃になると、君主への忠誠よりも男色相手との関係を大切にしたり、美少年をめぐる刃傷事件などのトラブルが頻発したため、風紀を乱すものとして問題視されるようになり、元禄も終わり江戸時代後半になると衆道は余り目立たなくなった[1]。
安永4年(1775年)には、米沢藩の上杉治憲は男色を衆道と称し厳重な取り締まりを命じている。

それでも武士道の精神と深く関わる男同士の情愛は様々な形で続き、薩摩藩衆道は幕末維新まで続いた[1]。
新撰組局長、近藤勇の中島次郎兵衛に宛てた書簡にも、局内で「しきりに男色が流行している」と記されている[4]。
最近の研究では、衆道が盛んだった薩摩が海軍に影響力を持っていた明治時代の後半頃まで衆道の影響が残っており、衆道が完全にが消滅したのは大正年間の頃だとされる[要出典]。

用語[編集]
念此(ねんごろ) - 男色の契りを結ぶ。
念者(ねんじゃ) - 衆道関係における年長者。兄分。
若衆(わかしゅ/わかしゅう) - 衆道における年少者。

脚註[編集]
1.^ a b c 「オトコノコノためのボーイフレンド」(1986年発行少年社・発売雪淫社)P132「日本男色史」より。
2.^ a b c 「『葉隠』における武士の衆道と忠義―『命を捨てる』ことを中心に―」(頼鈺菁)より。
3.^ 「「土芥寇讎記」の基礎的研究」所収「『土芥寇讎記』における男色・女色少年愛」P6。
4.^ 1864年(元治元年)5月20日の近藤勇が中村次郎兵衛に宛てた書簡。

参考文献[編集]
『武士道とエロス』氏家幹人 講談社現代新書 1995年 ISBN 406149239x
『江戸の男色』白倉敬彦

日本における同性愛
少年愛
同性愛
葉隠
男色
若衆
陰間茶屋

 

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葉隠

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葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に出された書物。肥前国佐賀鍋島藩藩士・山本常朝の武士としての心得についての見解を「武士道」という用語で説明した言葉を田代陣基(つらもと)が筆録した記録である。全11巻。葉可久礼とも書く。

概要[編集]
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。
後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。
同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。

文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。
また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。

当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。
元禄赤穂事件についても、主君・浅野長矩切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。
何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。
その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。

この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語
とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。

明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。

また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く禁書の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまうことが慣用とされていたといわれる。
そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。
これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。
2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。

浮世から何里あらうか山桜    常朝

白雲やただ今花に尋ね合ひ    陣基

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」[編集]

葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。
実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。

しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。
葉隠の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどである。
また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。

戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。

戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。

書名の由来[編集]
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。

脚注[編集]
1.^ 戒名「高伝寺殿日峯宗智大居士」から直茂を「日峯様」と呼ぶ。
2.^ 長矩の切腹元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、浪士達が義央を討ったのは元禄15年12月14日(1703年1月30日)で、1年9ヶ月を要した。

刊本[編集]
徳間書店 全2巻 ISBN 4192421445 ISBN 4192424886
岩波文庫 全3巻 ISBN 4003300815 ISBN 4003300823 ISBN 4003300831
中公クラシックス 全2巻 ISBN 4121600908 ISBN 4121600916 (現代語訳)
教育社新書 上中下 (原本現代語訳)
イースト・プレス 漫画版 「葉隠 まんがで読破」 ISBN 978-4-7816-0125-0

参考文献[編集]
井沢元彦葉隠三百年の陰謀』 (徳間書店、1991年) ISBN 4-19-124469-8
黒鉄ヒロシ葉隠 マンガ日本の古典 (26)』(中央公論社、1995年) ISBN 4124033044 、(中公文庫、2001年)ISBN 4122038340
小池喜明『葉隠 武士と「奉公」』(講談社学術文庫、1999年) ISBN 4061593862 『「葉隠」の叡智 誤一度もなき者は危く候』(講談社現代新書、1993年)

ジョージ秋山『武士道とは死ぬことと見つけたり』 (幻冬舎文庫、2005年)
奈良本辰也『葉隠 武士道の神髄』(徳間文庫新版、2006年)ISBN 4198923639
西部邁「『葉隠』における死のすすめと生のすすめ」『国民の道徳』(産経新聞出版、2000年)所収、585-588頁、ISBN 9784594029371
三島由紀夫葉隠入門』(新潮文庫、1983年)(初刊は光文社カッパブックス、1967年)ISBN 4101050333
山本博文『「葉隠」の武士道 誤解された「死狂い」の思想』(PHP新書、2001年) ISBN 4-569-61940-1

関連項目[編集]
武士道
侍政
戦陣訓

カテゴリ: 江戸時代の書籍
日本の思想史
東洋哲学
日本の哲学書
日本の美学
日本の保守主義
保守思想書
佐賀藩
武士

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葉隠」の書誌情報

戦陣訓

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戦陣訓(せんじんくん)は、
1.戦陣での訓戒のこと[1]。日本では室町時代や戦国時代に多く発表され、家訓などともに読まれた[1]。
2.また、特に1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した訓令(陸訓一号)を指す。
陸訓一号も軍人としてとるべき行動規範を示した文書で、このなかの
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が有名であり、
玉砕や自決など軍人・民間人の死亡の一因となったか否かが議論されている。

前史[編集]
戦陣訓とは戦陣(戦場)での訓戒であり、特に室町時代や戦国時代に多く発表され、
武士道の歴史においても家訓などともによく読まれた[1]。

軍人勅諭と日清・日露戦争[編集]

詳細は「軍人勅諭」を参照
1882年(明治15年)には軍人勅諭が明治天皇より発布された。

日清戦争中に第一軍司令官であった山縣有朋が清国軍の捕虜の扱いの残虐さを問題にし、
「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令が
「生きて虜囚の辱を受けず」の原型との指摘もある[2]。

敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。
決して敵の生擒する所となる可からず。
寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ。

— 1894年8月13日、山縣有朋平壌にて

日露戦争時に捕虜となった兵士が敵軍に自軍の情報を容易く話したため、これが問題となり、以降「捕虜になっても敵軍の尋問に答える義務はない」ということが徹底されたともいう。
日清・日露戦争の勝利に影響され、明治20年代には国家主義・日本主義が流行した[1]。
1905年(明治38年)に井上哲次郎は『武士道叢書』[3]を発表、戦国時代の戦陣訓や葉隠
「武士道とは死ぬことと見つけたり」等を収めたうえで、日清日露戦の勝利は日本古来の武士道によるとし、
天皇への唯一無二の忠誠を唱え、忠義や滅私奉公、国家のためには死をも厭わぬものとして武士道を解釈した[1]。
これはのちに昭和17年に『武士道全書』へと継承され、太平洋戦争における「皇道的武士道」へ影響を与えた[1]。

また俘虜の待遇に関する条約(ジュネーヴ条約)を調印しながら批准しなかった理由のひとつとして、
軍部による「日本軍は決して降伏などしないのでこの条約は片務的なものとなる」と反発した例
(官房機密大一九八四号の三『俘虜の待遇に関する千九百二十七年七月二七日の条約」御批准方奏請に関する件回答』)
や、1929年の「万国赤十字会議関係一件」では

帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざるに反し外国軍人の観念においては必しも然らず従て本条約は形式は相互的なるも実質上は我方のみ義務を負う片務的なものなり
…俘虜に関する優遇の保証を与えることとなるを以てたとえば敵軍将士が目的達成後俘虜たることを期して空襲を企図する場合には航空機の行動半径倍大し帝国として被空襲の危険大となる等我海軍の作戦上不利を招くに至る恐れあり(原文カナ)

とある[4]。

こうしたことから、太平洋戦争における日本兵の降伏拒否や自決は、東条英機の戦陣訓示達以前から発生しており、『戦陣訓』によって日本軍の玉砕や自決が強制されたようになったとは考えにくいとする意見もある。

昭和陸軍の戦陣訓[編集]

発案[編集]
支那事変での軍紀紊乱への対策として教育総監部が軍人勅諭を補足するものとして作成をはじめた[5]。
岩畔豪雄が発案したといわれ[6][7]、岩畔は軍紀紊乱対策として
「盗むな」「殺すな」「犯すな」を平易な言葉で表現したものとして提案したが、
完成された戦陣訓は古典的な精神主義を前面に出したもので
当初の岩畔の意図とは異なるものとなった[8]。

陸軍大臣畑俊六が発案し[要出典]、教育総監部が作成を推進した。
当時の教育総監であった山田乙三や、本部長の今村均教育総監部第1課長鵜沢尚信[6]、
教育総監部第1課で道徳教育を担当していた浦辺彰[6]、陸軍中尉白根孝之[6]らを中心として作成された。

国体観・死生観については井上哲次郎山田孝雄和辻哲郎・紀平正美[9]らが参画し、文体については島崎藤村[9][6]・佐藤惣之助土井晩翠[9]、小林一郎[9]らが校閲に参画した。島崎藤村は昭和15年(1940年)春に湯河原の伊藤屋旅館で「戦陣訓」を校閲した[10]。

東条英機陸軍大臣が戦陣訓を主導したという通説があるが、岩畔豪雄によれば戦陣訓は前任の板垣征四郎陸相阿南惟幾陸軍次官の時にすでに作成が開始されており、起草作業が長引き、東条が大臣の時に完成した[7]。

示達[編集]
陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において陸訓第一号として全軍に示達した。
同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。
読売新聞は
「昭和の軍人魂昂揚『戦陣訓』を制定す―けふ全将兵に配布―」
と題する記事で
「世界動乱に対応し最精強の皇軍錬成を目ざす陸軍では皇軍兵士が座右において実践服行するいはゆる昭和武人鑑ともいふべき「戦陣訓」を新たに制定、七日午後上奏御裁可を経たので八日の陸軍始観兵式の佳日を下し東條陸相の名において全軍に示達、各兵士に一葉宛を配布(後略)」
と報道し、『戦陣訓』の全文も掲載した。
また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。

軍人への浸透のため、陸軍省は『軍隊手牒』と同サイズの『戦陣訓』を作製した。
翌1942年の版からは軍隊手牒に印刷することとした。また別に『戦陣訓解釈』(1942年)も発行している。

当時は軍人や官僚が書籍を出版し印税という形式で賄賂を送り(あるいは媚びを売り)、他の出版物の出版許可を得る風潮があった[11]が、『戦陣訓』の印税受領は不明である。

構成[編集]
「戦陣訓」は「序」と「本訓」「結」から成っており、「本訓」はさらに「其の一」から「其の三」までに分かれている。


本訓(其の一) 第一「皇国」
第二「皇軍
第三「皇紀
第四「団結」
第五「協同」
第六「攻撃精神」
第七「必勝の精神」

本訓(其の二) 第一「敬神」
第二「孝道」
第三「敬礼挙措」
第四「戦友道」
第五「率先躬行」
第六「責任」
第七「生死観」
第八「名を惜しむ」
第九「質実剛健
第十「清廉潔白」

本訓(其の三) 第一「戦陣の戒」
第二「戦陣の嗜」

流布と影響[編集]
軍隊内部では、奉読が習慣になっていたといわれ、野砲兵第22連隊では起床後の奉読が習慣になっていた[12]。
同様の体験談がある一方で、軍人勅諭は新兵に対し丸暗記を強制させるほど重要性が高い物であったが、戦陣訓にはその様な強制が行われなかったという指摘もある[13]。
司馬遼太郎関東軍で教育を受け、現役兵のみの連隊(久留米の戦車第1連隊)に属してほんの一時期初年兵教育もさせられたが、
戦陣訓が教材に使われている現場を見たことがない、
幹部候補生試験などでも軍人勅諭の暗記はテストの対象になるが
戦陣訓はそういう材料になっていなかったように思える、と書いている[14]。

一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、以後も敗戦まで種々のものが出た[15]。
このほかに「戦陣訓カルタ」[16]なども作られた。
また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。
そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる[17]。

戦陣訓は歌謡化もなされ、ビクター、ポリドール、キングの各社競作で作られ、1941年4月に発売された。
『戦陣訓の歌』(ビクターレコード):梅木三郎作詞・須摩洋朔作曲・徳山璉歌。
『戦陣訓の歌』(ポリドールレコード):藤田まさと作詞・江口夜詩作曲・奥田良三、関種子、ヴォーカルフォア合唱団歌。
『戦陣訓の歌』(キングレコード):吉川英治作詞・永田絃次郎歌。

新聞記者出身の梅木三郎が詞を付け、軍楽隊の須摩洋朔が曲をつけ徳山璉が歌ったビクター盤が一番広く普及し歌われた。
1972年、フィリピンルバング島から発見された小野田寛郎元陸軍少尉が記者会見で、
ビクター盤の『戦陣訓の歌』の3番にある「一髪土に残さずも…」を引用して発言した。
なお現在でも陸上自衛隊中央音楽隊は行進曲『戦陣訓』[18]を演奏する。

また、戦国時代に「生きて虜囚の辱を受けず」を実践した人物をモデルとした映画法による国策映画『鳥居強右衛門』(日活1942年)で「生きて虜囚の辱を受けず」の一節が台詞として述べられた。

捕虜と「非国民」[編集]
太平洋戦争での日本人捕虜第1号となった酒巻和男海軍少尉(海軍兵学校卒)は 1941年12月8日真珠湾攻撃で、特殊潜航艇に艇長として搭乗した。
しかし、機器の故障や米軍の攻撃などで座礁した。
そこで自爆を試み、海に飛び込んだが、意識を失った状態で米兵に捕らえられた。
大本営は傍受したVOAの報道から捕虜第1号の存在を初めて知り、同時に出撃した10名の写真から酒巻だけを削除し、「九軍神」として発表した(大本営発表)。
酒巻の家族は人々から「非国民」と非難された[19]。
そして、それ以後捕虜になった者たちは親族が「非国民」とされるのを恐れ、偽名を申告し、ジュネーヴ条約に基づいて家族に手紙を出すようなことも控えることが多かった [20]。
結果、その者達は“未帰還”(戦死またはMIA)となった。

軍機漏洩[編集]
日本軍は兵士が捕虜になることを想定せず、捕虜となった場合にどうふるまうべきかという教育も一般兵士に施さなかった。
真珠湾攻撃の際に捕えられた酒巻は海軍兵学校出の将校であったため機密を漏らすことはなかったが、一般兵士はいったん敵軍に捕えられてしまうとどうふるまうべきかを知らなかった。
1942年、アメリカは日系二世兵士を中心とするATIS(南太平洋連合軍翻訳尋問部隊)を組織し、捕虜や日本兵の陣中日記から日本軍の情報を割り出していった。
捕虜から情報を引き出すには、手厚い待遇が功を奏したが、同時に「捕虜の本名を日本に伝える、という脅し方」も有効であったという[21]。

玉砕[編集]
『戦陣訓』は複数の戦場において、玉砕命令文中に引用された。
「玉砕」とは『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕、何能瓦全」(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)による表現である。

第二次世界大戦の中で最初に使われたのは、1943年5月29日のアッツ島の日本軍守備隊約2600名の全滅の発表時であった。

1943年5月29日、北海守備隊第二地区隊山崎保代大佐は
「非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり」
と軍属も含めて発令した。

アッツ島玉砕を伝えた朝日新聞1943年5月31日朝刊には、
「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践」との見出しで報道された[22]。
1944年7月3日にはサイパン島守備隊南雲忠一中将がサイパンの戦いにおいて総切り込みの行動開始時刻決定の際に「サイパン島守備兵に与へる訓示」を発表。

「断乎進んで米鬼(べいき)に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受**けず』。勇躍全力を尽して従容(しょうよう)として悠久の大義に生きるを悦びとすべし[23]。」

この結果、戦死約21,000名、自決約8,000名、捕虜921名となった。
そして南雲自身も自決したと伝えられている[24]。
沖縄戦では日本軍将兵による沖縄県民への集団自決強制が為され、結果、座間味島では少なくとも島民130人が死に追いやられたとされるがこれについては論争がある[25]。

解釈と評価[編集]
昭和陸軍の戦陣訓の評価は分かれている。
一部では、太平洋戦争中で発生したとされる日本軍の所謂バンザイ突撃と玉砕(=全滅)、
民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解される一方、
当時の将兵のなかには戦陣訓を批判したり無視しているものもあったといわれる(下記)が、
いずれにせよ軍部の暴走と腐敗は時局と戦局を悪化させ、大日本帝国は敗戦により滅亡した。

東條英機と対立していた石原莞爾陸軍中将(『戦陣訓』発令の同年8月東條により罷免され予備役)は、
1941年9月には著書『最終戦争論・戦争史大観』で戦陣訓について

蒋介石抵抗の根抵は、一部日本人の非道義に依り支那大衆の敵愾心を煽った点にある。『派遣軍将兵に告ぐ』『戦陣訓』の重大意義もここにありと信ずる。」
と述べ[26]、さらに
「軍人勅諭を読むだけで充分」
と部下には一切読ませなかったという説がある。また、同1941年(昭和16年)に菊池寛
「これは、おそらく軍人に賜りし勅諭の釈義として、またその施行細則として、発表されたものであろう。」
と述べている[27]。

戦陣訓はあくまで東條陸軍大臣の訓示であり、法的拘束力が曖昧で、そのため海軍はこれを無視していたといわれる[28]。
海軍のパイロットであった坂井三郎は戦陣訓は「強制されたものではない」と述べているが、他方で「(支給品である)落下傘をもって行ったけれど、座布団代わりに敷いていただけで、バンドは(各パイロットが自発的に)もって行かなかった」と証言している。

昭和18年、中国戦線において戦陣訓を受け取った伊藤桂一陸軍上等兵(のち戦記作家)によれば、一読したあと

「腹が立ったので、これをこなごなに破り、足で踏みつけた。いうも愚かな督戦文書としか受けとれなかったからである。

戦陣訓は、きわめて内容空疎、概念的で、しかも悪文である。自分は高みの見物をしていて、戦っている者をより以上戦わせてやろうとする意識だけが根幹にあり、それまで十年、あるいはそれ以上、辛酸と出血を重ねてきた兵隊への正しい評価も同情も片末もない。同情までは不要として、理解がない。

それに同項目における大袈裟をきわめた表現は、少し心ある者だったら汗顔するほどである。筆者が戦場で「戦陣訓」を抛(ほお)つたのは、実に激しい羞恥に堪えなかったからである。このようなバカげた小冊子を、得々と兵員に配布する、そうした指導者の命令で戦っているのか、という救いのない暗澹たる心情を覚えたからである。」

と述べている[29]。
また、「軍人勅諭」は筋が通って名文と評価する一方で、「戦陣訓」は「世界戦史の中でも最悪の文章」と酷評し「『生きて虜囚の辱めは受けず』なんてことは、言われなくても前線の兵士は分かっているんですよね。
文章全体に溢れている督戦的な匂いがいやだった」として、東條英機は「戦陣訓」を作った責任があると述べている。[30]。

生きて虜囚の辱を受けず[編集]
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」の一節が、戦後に製作された太平洋戦争を題材とした小説や映画・ドラマなどで日本軍の人命軽視の行動(バンザイ突撃)を否定する際に引用されることも多い。
ただしこの一文は「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」の一部を引用したものであり、全文では無い。
「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし」で知られる「第七 生死観」につづくもので、全文は以下の通りである。

恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ

— 『戦陣訓』「本訓 其の二」、「第八 名を惜しむ」

戦陣訓は「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節以外にも訓が記載されており、「生きて虜囚の辱を受けず」一節のみが主旨であったわけではない。たとえば「本訓 其の三 第一」「戦陣の戒」には次のように記されている 。

六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。

皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。

八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。
深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。

九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。
一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。

軍法との関連性[編集]
当時の陸海軍の軍法においては、「敵ニ奔リタル者」を罰する逃亡罪[31]や、指揮官が部隊を率いて投降することを罰する辱職罪の規定[32]が存在した。
他方、捕虜となることそのものを禁止したり捕虜となった者を処罰するような条文は存在せず、軍法において捕虜となる権利が否定されることは無かった。
事実、当時の大日本帝国憲法下の司法制度においても戦陣訓はあくまでも軍法に反しない解釈が行われなければ違法行為になってしまうため、軍法で認められている捕虜の権利を否定する解釈は違法判断になるはずである。
しかし、戦陣訓は勅命と解釈されたため、立法機関によって制定された軍法が上位の存在であることが明白であったにもかかわらず、実質的には戦陣訓が軍法よりも上位であるかのように扱われた。

このため、戦陣訓が一つの行政組織にすぎない陸軍の通達であったにもかかわらず、当時の軍部にはそのような法制度の認識は無かった。
結果、捕虜交換などによって捕虜となった者が帰ってきても、軍法会議は一切開かれることは無く、軍の判断によって自決が強要されたり、スパイ容疑をかけられたり、軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜は相当な数に上った[要出典]。

軍人勅諭との関係[編集]
戦陣訓で示された規範は『軍人勅諭』の内容とほぼ同じであるが、国史大辞典(1987年)は「生きて虜囚の辱を受けず」の徳目を例にあげて「(軍人勅諭)を敷衍するための説明であるという態度をとっているが」「新たに強調した徳目も多い」としている[33]。

脚注[編集]
1.^ a b c d e f 「明治期の武士道についての一考察」船津明生
2.^ この点については渡洋爆撃#不時着時の悲劇も参照
3.^ 井上哲次郎、有馬祐政共編『武士道叢書』博文館、1905年3月上巻/1905年6月中巻/1905年12月下巻
4.^ アジア歴史資料センター 万国赤十字会議関係一件/赤十字条約改正並俘虜法典編纂ニ関スル寿府会議(一九二九年)関係/条約批准及加入関係 第二巻 分割二 レファレンスコード B04122508600 p.1
5.^ 福田和也昭和天皇 第68回 対米対独対ソ連」『文藝春秋』2011年2月号
6.^ a b c d e 白根孝之「戦陣訓はこうしてつくられた」文藝春秋昭和46年(1971年)4月10日号、「文芸春秋にみる昭和史」第1巻所収。
7.^ a b 橋本惠「第一章岩畔豪雄の登場 6歪められた戦陣訓」
8.^ 産経新聞1998年11月8日「紙上追体験あの戦争「戦陣訓」神話の虚実」
9.^ a b c d 『続・今村均回顧録』芙蓉書房出版、1993年
10.^ [1]神奈川近代文学館「神奈川文学年表 昭和11年~20年8月」
11.^ 佐藤卓己言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家―』中央公論新社中公新書〉、2004年。
12.^ 武島良成 「京都師団の日常―文献史料による「戦争遺跡」の検証―」『京都教育大学紀要』108号、2006年、40頁。
13.^ 山本七平『私の中の日本軍』下巻、文藝春秋〈文庫〉、1983年、340頁。
14.^ 新潮文庫 『歴史と視点』 新潮社 ISBN 978-4101152264、11-12p
15.^ 国会図書館所蔵目録による。
16.^ 「戦陣訓カルタ」の画像
17.^ 高知工科大学における岡野俊一郎の講演
18.^ 発売:日本クラウン
19.^ 酒巻和男『捕虜第一号』新潮社、1949年
20.^ ハリー・ゴードン著・山田真美 訳『生きて虜囚の辱めを受けず ―カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走―』清流出版、 1995年
21.^ 山本武利『日本兵捕虜は何をしゃべったか』40頁
22.^ 谷萩那華雄大本営陸軍報道部長の談話
23.^ 南雲忠一海軍中将「最期の訓示」。全文はこの四倍ほどあるが末尾部分のみ引用した。
24.^ サイパンの戦い参照。サイパン島の民間人についてはバンザイクリフ参照
25.^ 大江健三郎岩波書店沖縄戦裁判も参照
26.^ 『戦争史大観』「第二節 歴史の大勢」。1941年9月に東亜聯盟協会関西事務所編『世界最終戦論』として刊行。本書は数十万部も売れたベストセラーであった。
27.^ 「話の屑籠」1941年(昭和16年)『文藝春秋』に連載
28.^ 『BC級戦犯を読む』日本経済新聞出版社,p38。秦郁彦
29.^ 平成20年新潮文庫 兵隊たちの陸軍史 伊藤桂一
30.^ 保坂正康『昭和の戦争』36-37頁
31.^ 陸軍刑法77条
32.^ 陸軍刑法40-41条
33.^ 国史大辞典編纂委員会『国史大辞典』第8巻、吉川弘文館、1987年、441頁。

参考文献[編集]
大原康男 『帝国陸海軍の光と影』 日本教文社
森山康平 『図説・玉砕の戦場』 河出書房新社
内海愛子 『日本軍の捕虜政策』 青木書店。

関連項目[編集]
軍人勅諭
捕虜
特別攻撃隊
武士道
海行かば
渡洋爆撃#不時着時の悲劇
竹永事件

 

「戦陣訓」の書誌情報

教育勅語

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教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)は、明治天皇山縣有朋内閣総理大臣芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与えた勅語。以後の大日本帝国において、政府の教育方針を示す文書となった。一般的に教育勅語(きょういくちょくご)という。1890年(明治23年)10月30日に発布され、1948年(昭和23年)6月19日に国会の各議院による決議により廃止された。

概要[編集]
教育ニ関スル勅語」(教育勅語)は、1890年(明治23年)10月30日、宮中において、明治天皇山縣有朋内閣総理大臣芳川顕正文部大臣に対して与えた勅語である。翌日付の官報[1]などで公表された。その趣旨は、明治維新以後の大日本帝国で、修身・道徳教育の根本規範と捉えられた。また、外地(植民地)で施行された朝鮮教育令(明治44年勅令第229号)、台湾教育令(大正8年勅令第1号)では、教育全般の規範ともされた。

さらに、紀元節(2月11日)、天長節天皇誕生日)、明治節(11月3日)および1月1日(元日、四方節)の四大節と呼ばれた祝祭日には、学校で儀式が行われ、全校生徒に向けて校長が教育勅語を厳粛に読み上げ、その写しは御真影天皇・皇后の写真)とともに奉安殿に納められて、丁重に扱われた。

しかし、1945年(昭和20年)に第二次世界大戦の敗北によってGHQの占領下に入ると、1946年(昭和21年)には、「勅語及び詔書等の取扱いについて」(昭和21年10月8日文部事務次官通牒)と題する通達により、教育勅語を教育の根本規範とみなすことをやめ、国民学校令施行規則も改正して、四大節の儀式で教育勅語を読み上げることも廃止された(昭和21年10月9日文部省令第31号)[2]。

翌1947年(昭和22年)には教育基本法(旧教育基本法)が公布・施行されて教育の基本に据えられ、学校教育から教育勅語は排除された。さらに、1948年(昭和23年)6月19日には、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ決議されて、教育勅語は学校教育から排除・失効されたことが確認された。

大日本帝国当時、国民が子弟に普通教育を施す義務(義務教育)、児童が教育を受ける権利(しかも個々人に適切な教育を)に関する基本規定は存在しなかった。制定されたのは戦後に日本国憲法が出来てからのことである。

内容[編集]
この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2014年1月)

独自研究が含まれているおそれがあります。(2014年1月)

教育勅語は、明治天皇が首相と文相にみずから与えた勅語であり、文中では「爾臣民」(なんじしんみん)、すなわち国民に語りかける形式をとる。

まず皇祖皇宗、つまり皇室の祖先が、日本の国家と日本国民の道徳を確立したと語り起こし、忠孝な民が団結してその道徳を実行してきたことが「国体の精華」であり、教育の起源なのであると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、一朝事ある時には進んで国と天皇家を守るべきことなど、守るべき12の徳目(道徳)が列挙され、これを行うのが天皇の忠臣であるばかりか、国民の先祖の伝統であると述べる。これらの徳目を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに天皇自らこれを銘記して、ともに守りたいと誓って締めくくる。

これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、それを直接日本人に適用するわけにもいかず、かといって伝統的に道徳観の基本として扱われてきた儒教や仏教を使うことも明治政府の理念からすれば不適切であった。このため、伝統的な道徳観を天皇を介する形でまとめたものが教育勅語とも言える。こうした道徳観は、伝統的な儒教とは異なるものであり、江戸時代の水戸学及び明の朱元璋の発表した六諭からの影響が指摘されている[誰によって?]。

12の徳目
1.父母ニ孝ニ (親に孝養を尽くしましょう)
2.兄弟ニ友ニ (兄弟・姉妹は仲良くしましょう)
3.夫婦相和シ (夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう)
4.朋友相信シ (友だちはお互いに信じ合いましょう)
5.恭儉己レヲ持シ (自分の言動を慎みましょう)
6.博愛衆ニ及ホシ (広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)
7.學ヲ修メ業ヲ習ヒ (勉学に励み職業を身につけましょう)
8.以テ智能ヲ啓發シ (知識を養い才能を伸ばしましょう)
9.德器ヲ成就シ (人格の向上に努めましょう)
10.進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ (広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
11.常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ (法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう)
12.一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ (国に危機があったなら自発的に国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)

発表の経緯[編集]
1890年(明治23年)10月30日に発表された教育勅語は、山縣内閣のもとで起草された。その直接の契機は、山縣有朋内閣総理大臣の影響下にある地方長官会議が、同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚文部大臣に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた。ところが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山県は腹心の芳川顕正を推薦した。これ対して、明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた。文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。

この中村原案について、山県が井上毅内閣法制局長官に示して意見を求めたところ、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対した。山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村原案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。

一方、天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、1879年(明治12年)には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた[3]。元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。

1890年(明治23年)10月30日に発表された「教育ニ関スル勅語」は、国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉として扱われたため、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。井上毅明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。

発表後[編集]
教育勅語が発表された翌年の1891年(明治24年)には、第一高等中学校の嘱託教員であった内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(内村鑑三不敬事件)をきっかけに、各校に配布された教育勅語の写しを丁重に取り扱うよう命じる旨の訓令が発せられた。また、同年に定められた小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)や、1900年(明治33年)に定められた小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などにより、祝祭日に学校で行われる儀式では教育勅語を奉読(朗読)することなどが定められた。これ以後、教育勅語は教育の第一目標とされるようになった。

1907年(明治40年)には、文部省が教育勅語を英語に翻訳し、そのほかの言語にも続々と翻訳した[4]。

その一方で、西園寺公望文部大臣は、教育勅語が余りにも国家中心主義に偏り過ぎて「国際社会における日本国民の役割」などに触れていないという点などを危ぶみ、『第二教育勅語』を起草した(西園寺による草稿は現在立命館大学が所蔵)。もっとも、この構想は西園寺の文部大臣退任により実現しなかった。

治安維持法体制下の1930年代に入ると、教育勅語は国民教育の思想的基礎として神聖化された。教育勅語の写しは、ほとんどの学校で「御真影」(天皇・皇后の写真)とともに奉安殿・奉安庫などと呼ばれる特別な場所に保管された。また、生徒に対しては教育勅語の全文を暗誦することも強く求められた。特に戦争激化の中にあって、1938年(昭和13年)に国家総動員法(昭和13年法律第55号)が制定・施行されると、その態勢を正当化するために利用された。そのため、教育勅語の本来の趣旨から乖離する形で軍国主義の教典として利用されるにいたった。

第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)は、教育勅語が神聖化されている点を特に問題視し、文部省は1946年(昭和21年)に奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないことを通達した。その後、1948年(昭和23年)6月19日に、衆議院では「教育勅語等排除に関する決議」が、参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ決議されて教育勅語は排除・失効が確認された。

教育勅語はその後、軍人の規律を説く軍人勅諭と同列におくことで軍事教育や軍国主義を彷彿とさせる傾向があるとされ、戦後日本においては公の場で教育勅語を聞くことはほぼ皆無となっている。時折、何らかの形で注目されて教育基本法の存在もふまえた議論が起こるときもある。

文部省・文部科学省中央教育審議会(中教審)、市区町村における教育関連の研究会・勉強会などでは、教育勅語勅令ではなく法令としての性質を持たなかったこと、教育基本法教育勅語を形骸化するものとなった一方で法令であること、教育勅語が過去に国会で排除・失効確認されていること、教育勅語の内容は道徳的な記述がなされているに過ぎない、等々をふまえ、教育基本法を論じる際には比較・参考の資料とされることも多く、一部では部分的な復活についての話題が出ることもあり、見直され、評価されることもある。教育勅語を教育理念の中に取り入れ、生徒に暗唱させている学校もある[5]。

文法誤用説[編集]
教育勅語に文法の誤用があるという説がある。すなわち、原文「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」部分の「アレバ」は、条件節を導くための仮定条件でなくてはならず、和文の古典文法では「未然形+バ」、つまり「アラバ」が正しく、「アレバ」は誤用である、とする説である。1910年代に中学生だった大宅壮一が国語の授業中に教育勅語の誤用説を主張したところ教師に諭された、と後に回想している[6]。 これに対して、教育勅語は漢文訓読調であるから、条件節であっても「已然形+バ」とするのが普通であり、誤りではないとする説もある。

なお、塚本邦雄も歌集『黄金律』114ページ[7]で「「アレバ」は「アラバ」の誤りなれば」として「秋風が鬱の顛頂かすめたり「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」」の歌がある。

脚注[編集]
1.^ “1890年(明治23年)10月31日付『官報』”. 国立国会図書館デジタル化資料. 2013年2月19日閲覧。
2.^ 四大節に儀式を行うこと自体は廃止されず、単に「祝賀」することが定められた。なお、同令施行後に初めて行われた明治節(11月3日)の儀式は、同日が日本国憲法の公布日でもあったことから、新憲法の公布を祝賀する意義も付け加えられた。
3.^ もっとも、教学聖旨は、儒教と読み書き算盤を柱とするあまりにも前近代的な内容であったため顧みられることはなかった。
4.^ 文部省 『漢英仏独教育勅語訳纂』 文部省、1909年12月。
5.^ “開成幼稚園 幼児教育学園 (旧:南港さくら幼稚園幼児教育学園)” (2011年3月23日). 2011年3月23日閲覧。
6.^ 大宅壮一 『実録・天皇記』 鱒書房、1952年。 はしがき。大宅壮一 『実録・天皇記』 大和書房〈だいわ文庫〉、2007年、343頁。ISBN 978-4-479-30072-4。 資料一。
7.^ 花曜社 『黄金律』、1991年4月。ISBN 4-87346-077-8。

参考文献[編集]
大原康男教育勅語 教育に関する勅語』 ライフ社、1996年10月。ISBN 4-89730-034-7。
海後宗臣 『教育勅語成立史の研究』 厚徳社〈明治教育史研究 第1冊〉、1965年。 海後宗臣 『教育勅語成立史研究』海後宗臣著作集 第10巻、東京書籍、1981年6月。ISBN 978-4-487-75550-9。

佐藤秀夫 『現代の視座』 阿吽社〈教育の文化史4〉、2005年11月。ISBN 4-900590-83-5。
清水馨八郎 『「教育勅語」のすすめ 教育荒廃を救う道』 日新報道、2000年1月。ISBN 4-8174-0457-4。
杉浦重剛教育勅語 昭和天皇の教科書』 所功解説、勉誠出版、2002年10月。ISBN 4-585-10365-1。
八木公生 『天皇と日本の近代 下 「教育勅語」の思想』 講談社講談社現代新書〉、2001年1月。ISBN 4-06-149535-6。
伊藤哲夫教育勅語の真実』 致知出版社致知出版社〉、2011年1月。ISBN 978-4884749392。

教育ニ関スル勅語」の書誌情報

阿部定事件

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阿部定事件(あべさだじけん)は、仲居であった阿部定が1936年(昭和11年)5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件。事件の猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。

阿部 定(あべ さだ、1905年(明治38年)5月28日生まれ)。東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)出身。

概要[編集]

事件発生[編集]
芸者や娼婦などをしながら各地を転々として暮らしていた阿部定は、交際していた大宮五郎の紹介で東京・中野にある鰻料理店「吉田屋」の女中として田中加代という偽名で働き始め、その店の主人・石田吉蔵に惹かれる。吉蔵も次第に阿部定に惹かれ、次第に二人は関係を持つようになり、他人に気づかれないように店を離れたびたび二人で会うようになる。石田と定は駆け落ちし、待合を転々としながら、尾久の待合旅館「満佐喜」に滞在した。愛の行為の間、定はナイフを石田のペニスに置いて、「もう他の女性と決してふざけないこと」と凄んだが石田はこれを笑った。二夜連続のセックスの最中、定は石田の首をしめ始め、石田は続けるように定に言った。性交中に首を絞める行為は快感を増すと石田は定に言ったという(窒息プレイ)。

1936年(昭和11年)5月16日の夕方から定はオルガスムの間、石田の呼吸を止めるために腰紐を使いながらの性交を2時間繰り返した。強く首を絞めたときに石田の顔は歪み、鬱血した。定は石田の首の痛みを和らげようと銀座の資生堂薬局へ行き、何かよい薬はないかと聞いたが、時間が経たないと治らないと言われ、気休めに良く眠れるようにとカルモチンを購入して旅館に戻る。その後、定は石田にカルモチンを何度かに分けて、合計30錠飲ませた。定が居眠りし始めた時に石田は定に話した 「俺が眠る間、俺の首のまわりに腰紐を置いて、もう一度それで絞めてくれ…おまえが俺を絞め殺し始めるんなら、痛いから今度は止めてはいけない」と。しかし定は石田が冗談を言っていたのではと疑問に思ったと後に供述している。

5月18日午前2時、石田が眠っている時、定は二回、腰紐で死ぬまで彼を絞めた。定は後に警察で「まるで重荷が私の肩から持ち上げられたように、石田を殺したあと、私はとても楽になった」と供述している。定は包丁で彼の性器を切断した。雑誌の表紙にペニスと睾丸を包み、逮捕されるまでの3日間、彼女はこれを持ち歩いた。そして彼女は血で、シーツと石田の左太ももに「定、石田の吉二人キリ」と、石田の左腕に「定」と刻んだ。石田のステテコとシャツを腰巻の下につけると、定は宿の人間に「(吉蔵は)具合が悪くて寝ているので午後になるまで起こさないで」と言い、午前8時頃に宿を出た。

宿を出た後、定は大宮五郎に会い繰り返し彼に謝罪した。しかし定の殺人をまだ知らない大宮は定がもう一人の恋人を連れて行ったことを謝罪していると勘違い。大宮はさほど気にせず、その夜は定と肉体関係を持った。定の謝罪は、自分と大宮の交際がスキャンダルを引き起こすにちがいないということを知っていたからである。しかし、5月19日に新聞は阿部定事件を報じた。大宮も後に法廷で定との関係を証言することになる。

阿部定パニック[編集]
この事件はすぐに国民を興奮させた。そして彼女の捜索について引き続いて起こる熱狂は「阿部定パニック」と呼ばれていた。瓜実顔で髪を夜会巻きにした細身の女性を、定と勘違いし通報を受けた銀座や大阪の繁華街は一時騒然としてパニックになった。定が現れたという情報が流れるたびに、町はパニックになり、新聞はそれをさも愉快に書きたてた。この年に起こった失敗した二・二六事件クーデターの引用で、目撃例の犯罪が「試みイチ-ハチ」(「5-18」または「5月18日」)と諷刺的に呼ばれた。国民は美しいこの猟奇殺人者を二・二六事件で暗くなった世相を吹き飛ばす女神のような扱いをして歓迎した。「上野動物園クロヒョウ脱走事件」「二・二六事件」とあわせて「昭和11年の三大事件」[1]と呼ばれている。

5月19日、定は買い物をし映画を見た。5月20日に品川の宿(品川館)に大和田直なる偽名を使い宿泊、大阪へ逃亡する予定であった。そこで、彼女はマッサージを受けて、3本のビールを飲んだ。彼女は、大宮五郎、友人、石田に別れの手紙を書いていた。午後4:00、高輪署安藤刑事は偽名で逗留している彼女の部屋に来た。「阿部定を探しているんでしょ?あたしがお探しの阿部定ですよ」と、さらりと言うと逮捕された。刑事達は定の落ち着いた態度に驚いた。

逮捕[編集]
定は逮捕されると「私は彼を非常に愛していたので、彼の全てが欲しかった。私達は正式な夫婦ではなかったので、石田は他の女性から抱きしめられることもできた。私は彼を殺せば他のどんな女性も二度と彼に決して触ることができないと思い、彼を殺した…」なぜ石田の性器を切断したかは「私は彼の頭か体と一緒にいたかった。いつも彼の側にいるためにそれを持っていきたかった」と供述している。

この犯罪の詳細が公表されたときのデマでは、石田のペニスが驚異的なサイズであると切り出した。しかし逮捕の後、定に質問した警官はこれを否定した。「石田のモノはちょうど平均であった。私を性的に喜ばせたいというテクニックと奉仕的な愛撫をする石田が好きだった」と定は答えている。定の逮捕後、石田のペニスと睾丸は東京医科大学の病理学博物館へ送られた。第二次世界大戦後まもなく、一般に公開していたようだ。

裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年の判決を受けて服役、1941年(昭和16年)に「紀元二千六百年」を理由に恩赦を受け出所している。

その後[編集]
釈放後、定は「吉井昌子」と名前を変え市井で一般人としての生活を送っていたが、終戦直後に乱造された「お定本」と呼ばれるカストリ本の一つ『昭和好色一代女 お定色ざんげ』をめぐって著者と出版社を名誉毀損で告訴した。告訴した頃は埼玉県でサラリーマンの男性と結婚をしていたが(未入籍のため事実婚)、男性は自分の妻が阿部定だと知ったことが原因で破局している。さらに、その後この事件を基にした劇や映画も製作されている(後述)。
その後再び各地で色々な仕事を転々とするようになったが、1971年(昭和46年)に置き手紙を残して失踪し、以後消息不明となった。しかし、1987年頃まで石田の永代供養をしていた寺へ毎年命日に花が贈られており、これは定によるものではないかと考えられている。
瀬戸内寂聴NHKラジオの番組で語ったところによると、事件後、芝居・見世物一座で本人が講釈し、石田の男根の模型を見せる事もしていたという(浅香光代も子供時代に阿部定劇を見たと語っている)。
1953年(昭和28年)にもこの阿部定事件と同様の事件が東京都文京区で発生している。また1972年(昭和47年)4月29日にも同様の事件が東京都杉並区荻窪で発生、アパート2階にて徳島出身の当時予備校生だった旅館の跡取り息子(21歳)を、この旅館の仲居として働く女性(32歳)が別れ話のもつれから性器を包丁で切りつけた。予備校生の性器は皮一枚を残して殆ど切断された状態となり、元通りに縫合する事は困難とされた。これを当時のマスコミは「昭和の阿部定事件」と騒ぎ立てた。

切断部位の表現[編集]
事件発生後、阿部定が切断した性器をどう表現するか、各新聞社は頭を悩ませた。「ちんぽ」「おちんちん」などでは品位がないし、「男性器」「生殖器」などでは生々しすぎたからである。またこの事件のメインテーマでもあるため、お茶を濁して誤魔化すわけにはいかなかったのである。苦慮の末、「局所」「下腹部」という表現が用いられて報道され、これ以後は性器部分をあらわす言葉として定着した。

作品[編集]
この事件を元にした数々の映画や小説なども製作された。

小説[編集]
「妖婦」織田作之助 1947年(昭和22年)
失楽園渡辺淳一 1997年(平成9年)

映画[編集]
「明治大正昭和 猟奇女犯罪史」 1969年(昭和44年) - 阿部定本人が登場し、インタビューに答えている。
「四畳半襖の裏張り」1973年(昭和48年) - R18+指定
「実録 阿部定」 1975年(昭和50年) - R18+指定
愛のコリーダ」 1976年(昭和51年) - R18+指定
失楽園」 1997年(平成9年) - R15+指定
「SADA」 1998年(平成10年) - ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞受賞
「平成版・阿部定 あんたが、欲しい」 1999年(平成11年)
愛のコリーダ2000」 2000年(平成12年) - 1976年(昭和51年)公開の「愛のコリーダ」のノーカット版
「JOHNEN 定の愛」 2008年(平成20年) - R18+指定
阿部定 最後の七日間」 2011年(平成23年) - R18+指定

愛のコリーダ[編集]
監督は大島渚。この作品は1976年(昭和51年)に『愛のコリーダ』(L'Empire des sens)のタイトルでカンヌ国際映画祭で上映され、世界各国で公開されるが、日本では大幅な修正が施されて上映された。その後、ノーカット版(正確には一部が修正された)が2000年(平成12年)に公開される。
1976年(昭和51年)の初公開時、この映画の写真と脚本をまとめた単行本の著者と出版社がわいせつ文書販売罪で検挙されるも、裁判は被告人有利となり1982(昭和57)年東京高裁で検察の控訴が棄却され無罪が確定した。

脚注[編集]
1.^ <文化環境研究所 News> 第41号(2011年9月17日時点のアーカイブ)
参考文献[編集]
前坂俊之編『阿部定手記』(中公文庫、1998.2 /ISBN 4122030722)

カテゴリ: 昭和時代戦前の殺人事件
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酒鬼薔薇事件

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神戸連続児童殺傷事件(こうべれんぞくじどうさっしょうじけん)とは、1997年(平成9年)に兵庫県神戸市須磨区で発生した当時14歳の中学生(以下「少年」と表記)による連続殺傷事件。別名『酒鬼薔薇事件』『酒鬼薔薇聖斗事件』とも呼ばれる。この事件で、2名が死亡し、3名が重軽傷を負った。

概要

数ヶ月にわたり、複数の小学生が殺傷された事件である。通り魔的犯行や遺体の損壊が伴った点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件であった。また、犯人がいわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与えた。

兵庫県警察は聞き込み捜査の結果、少年が動物虐待行為をたびたびおこなっていたという情報や、被害者男児と顔見知りである点などから、比較的早期から彼に対する嫌疑を深めていたが、対象が中学生であるため、極めて慎重に捜査は進められた。

事件の発覚

1997年5月27日早朝、神戸市須磨区の中学校正門に、切断された男児の頭部が放置されているのを通行人が発見し、警察に通報。5月24日から行方不明となっていた近隣マンションに住む11歳の男児のものとわかった。耳まで切り裂かれた被害者の口には、「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」名の犯行声明文が挟まれており、その残虐さと特異さからマスメディアを通じて全国に報道された。6月4日に犯人から第二の犯行声明文が神戸新聞社に郵送され、報道はさらに過熱。警察の捜査により、6月28日に犯人逮捕。マスコミが報じていた推定犯人像(がっちり体型の30~40代)と異なり、犯人が14歳の中学生であったこと、連続殺傷事件であったことが判明した。

事件の経緯

第一の事件

1997年(平成9年)2月10日午後4時ごろ、神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がゴムのショックレス・ハンマーで殴られ、1人が重傷を負った[1][2]。

犯人がブレザー着用、学生鞄を所持していたと聞いた女児の父親は、近隣の中学校に対し犯人がわかるかもしれないので生徒の写真をみせてほしいと要望する。しかし、学校側は警察を通して欲しいとして拒否したため、父親は兵庫県警察に被害届を出して生徒写真の閲覧を再度要求したものの、結局、開示されることはなかった。

この事実により、犯人逮捕後、学校側に対し、「この時点で何らかの対応をしていれば第二・第三の事件は防げたのではないか」、「結果的に犯人をかばっていたことになる」との批判が起こった。

なお、この事件に関しては被害者の家族の要望もあり、非公開とされていた[3]。

第二の事件

3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で、付近にいた小学4年生の女児に手を洗える場所はないかとたずね、学校に案内させた後、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」(少年の日記より)といい、振り返った女児を八角げんのう(金槌の一種)で殴りつけ逃走した[4]。女児は病院に運ばれたが、3月23日に脳挫傷で死亡した[4]。

さらに、午後0時35分ごろ、別の小学生3年生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺して2週間の怪我を負わせた[5]。ナイフの刃先は胃を貫通して、背中の静脈の一歩手前で止まっていた[6]。仮に静脈まで達していたら、救命は不可能だったという[6]。また、手術の時に、1.8リットルの輸血を要した[6]。

第三の事件
5月24日

5月24日午後、通称「タンク山」と呼ばれている近所の高台に付近に住む小学5年生の男児を誘い出し、殺害。

少年は人を殺したいという欲望から、殺すのに適当な人間を探すために、昼過ぎにママチャリに乗って家を出た[7]。町内を約10分くらいブラブラしながら自転車を走らせ、その後、多井畑小学校の北側を東西に走っている道路の北側の歩道を、東から西に自転車を走らせていたところ、多井畑小学校の北側の歩道上に少年とは反対に、西から東に、1人で歩いてくる男児を偶然見つけた[8]。

男児は同地区に住む放射線科医師の次男で、当時11歳であった。男児は祖父の家に行くといって午後1時40分ごろ、自宅を出ていた。少年が男児を知った時期ははっきりとは覚えてはいないものの、多井畑小学校の5年生ころで同じ小学校のなかに、身体障害者のための「なかよし学級」があり、そのなかに男児がいることを知った。その後、男児が少年の家に遊びに来るようになった。これは少年が直接知り合ったわけではなく、少年の一番下の弟が同級であったからである。その際に少年の家で飼っていたカメに男児が興味を示したことからカメが好きなことを知る。

咄嗟に「○君なら、僕より小さいので殺せる」と思い、男児の方へ近づいた[8][9]。少年は男児に対し「向うの山にカメがいたよ。一緒に見に行こう」とタンク山に誘い出し、その場で絞殺して遺体を隠した[8]。

殺害は絞殺であったが、当初は腕で締めていたものの、なかなか死なないため腕が疲れ、さまざまな体位で試み、ナイフで殺そうと考えるが、ナイフを忘れたことに気付く[10]。そこで埋まっていた石があったため、撲殺を思いつき石を持とうとするが土中深く埋まっていたため、動かなかった[11]。このため、今度は自らの運動靴の紐で絞殺をしようと考え、左足の運動靴の紐を少しずつ解いていき、それを輪にして首にかけうつ伏せになった男児の腰付近に馬乗りになり、力一杯両手で持ち上げる[12]。殺そうとするが死なない男児に対し、少年は腹を立て、男児の顔や頭を踵で蹴ったり顔を殴ったりしている[12]。最後は、仰向けになった男児の腹部に馬乗りになり靴紐を力一杯引く[13]。この時、少年の手には首の肉にギュッと食い込む手応えがあり、しばらく締め続けたところで呼吸音が止まった[13]。さらに、死んだかどうか分からなかったため、靴紐の端を施設のフェンスか桟に結びつけ、さらに締め続けた[13]。ようやく死んだと思い、その後、男児の左胸に右耳を当て心音を確認し、心音が聞こえなかったので、完全に死んだと確認した。

男児をそのままにして少年は登ってきた道順と同じ道順でタンク山を降り、ママチャリに乗り、5分ほど走らせて、コープリビングセンター北須磨店へ向かった[14]。そこで、糸ノコギリと南京錠を万引きした[14]。そして、山へ引き返し、アンテナ施設を取り囲んでいるフェンスの入り口に掛けられている古い南京錠のUの字部分を金鋸で切り、死体を施設の中に運び入れた[14]。金鋸をフェンスに沿った溝側にたまっている落ち葉の下に隠し、入り口に新しい南京錠を掛け替えて山を下りた。

友人と4時にビデオショップ「ビブロス」の前で待ち合わせしていたため急いで向かい、4時30分ごろに着いた[15]。その後家に帰ると、少年の母が「○君がおらんようになったみたいよ」と言うと、少年は「ふうーん」と返事をした[16]。

午後8時50分に被害男児の家族より須磨警察署に捜索願が提出された[17][18]。

5月25日

少年は10時から12時にかけて起床し、自分でパンを焼いて食べ、午後1時から3時の間に、男児の首を切るために自宅を出た[19]。少年は男児の頭部を入れるため、黒色のビニール袋2枚を準備する[20]。ケーブルアンテナ施設の枯葉に隠していた金鋸を運び出すために、学校で使用している補助カバンも持って出る[20]。さらに、「龍馬のナイフ」と呼んでいる鞘付きのくり小刀を一本、ジーパンのポケットか腹に差して持って出た[20]。

検事調書では、「ママチャリに乗って、直接「タンク山」へと向かいました」と言っているが、少年の父親によれば正午前後にコープ北須磨の自転車置き場で出会っており、ビブロスの方向に走って行ったという[20]。タンク山はビブロスと反対方向にあるが、ビブロス方向に走って行ったことに関して、父親は「よく思い出せません」とも話している[20]。

黒いビニール袋の上に置いた男児の遺体を、糸ノコギリの両端を持ち、一気に左右に2回切ると、ノコの歯が細かったためか、スムーズに切れ、切り口が見えた[21][22]。人間の肉が切れることを確認した少年は左手で男児の額のあたりを押さえながら、右手で首を切っていく[21]。この時、少年は「現実に人間首を切っているんだなあと思うと、エキサイティングな気持ちになった」と供述している[21]。首を切っていく内に、段々と頭の安定が悪くなったため、男児の首の皮が1枚になった時に左手で髪をつかんで上に引っ張り上げ、首の皮を伸ばして一気に首の皮を切った[21]。その後、しばらく地面に置き、正面から鑑賞しながら、「この不可思議な映像は僕が作ったのだ」という満足感に浸った[23]。首を切断して射精した[23]。

ところが、しばらくすると、男児の目は開いたままで、眠そうにみえ、どこか遠くを眺めているように少年には見えた[23]。さらに、男児は少年の声を借りて、少年に対して、「よくも殺しやがって 苦しかったじゃないか」という文句をいった、と供述している[23][24]。それで、少年は男児に対し、「君があの時間にあそこにいたから悪いんじゃないか」といい返した[22][23]。すると、男児の首はさらに文句をいった[22][23]。少年は、これは死体にまだ魂が残っているためだと考え、魂を取り出すため、また、眠たそうな男児の目が気に入らなかったため、「龍馬のナイフ」で男児の両目を突き刺し、さらに、2、3回ずつ両方の瞼を切り裂き、口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた[22][23]。その後は文句を言わなくなったという[23]。さらに、「殺人をしている時の興奮をあとで思い出すための記念品」として持ち帰ろうと考え、舌を切り取ろうとしたが、死後硬直でかなわなかった[25]。さらに、ビニール袋に溜まった男児の血を飲むが、金属をなめているような味がしたと述べている[22][25]。少年は血を飲んだ理由として、「僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められると思ったからです。幼い子供の命を奪って、気持ち良いと感じている自分自身に対する自己嫌悪感の現れなのです」と供述している[22][25]。

少年は、人目につかない場所でもう一度じっくりと鑑賞しようと思い、タンク山を下りて、北須磨高校への獣道をたどり入角ノ池へ向かう[26]。入角ノ池の水辺の木の根元でビニール袋をひらいて頭部を眺めた[26]。思ったより感動はなかったため、2、3分ほど眺めたあと、再びビニール袋にもどし、木の根元に隠した[26]。首の切断に使った金鋸は、友が丘西公園のとなりにある向畑ノ池に投げ捨てた[26]。

5月26日

男児の行方不明事件として午前11時40分に須磨警察署が公開捜査を開始[27]。警察、PTA、消防団合わせて150名が捜索にあたった[27]。

少年は昼過ぎに「首をじっくり鑑賞したい」と池へ向かったが、興味を失ったため、男児の頭部を家に持ち帰る[25][28]。そして、土や木の葉で汚れた頭部を風呂場で15分ほどかけて洗って、自分の部屋の天井裏に隠した[28]。少年は首を洗った理由を「理由は二つ。一つは、殺害場所を特定されないように、頭部に付着している土とか葉っぱ等を洗い流すためでした。あと一つの理由は、警察の目を誤魔化すための道具になってもらう訳ですから、血で汚れていたので『せいぜい警察の目から僕を遠ざけてくれ。君の初舞台だよ』という意味で、顔を綺麗にしてやろうと思ったのです」と供述している[29]。少年は首を洗った時も興奮して勃起し、髪の毛にクシを入れながら射精した[29]。


少年は「警察は自分の学校に首を置くはずはないと思い、捜査の対象から逸れると考えた」と、友が丘中学校の正門前に男児の首を置くことを決めた[30][31]。また、ただ首を置くだけでは捜査が攪乱できるかどうかわからないと考え、「偽りの犯人像」を表現する手紙を咥えさせようと考えた[30]。漫画「瑪羅門の家族」第3巻の目次から引用したり、別の本で覚えていた言葉を組み合わせて、手紙を書き上げた[30][32]。


さあゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
 ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを

学校殺死の酒鬼薔薇

5月27日

5月27日未明、頭部が入ったカバンを自転車の前カゴに入れて、中学校の校門前に遺棄した[25][34]。正門前に頭部を置いて、手紙を口に咥えさせ、その光景を5、6分見ていた[34]。少年は初め、正門右側塀の上に首を置こうとしたが、据わりが悪く、地面に落ちたため「正門の前だと一番目につくところだし、地面なら据わりもいいだとろうと思い、正門の鉄扉の中央付近に顔を道路側に向けて置きました。手紙を取り出し"酒鬼薔薇聖斗"の文字が見えるように縦に『酒』いう文字の方を口にくわえさせたのです」と供述しており、その時の光景を「学校の正門前に首が生えているというような『ちょっと不思議な映像だな』と思って見ていたのです」と供述している[34][35]。また、この時少年は「性的興奮は最高潮に達し、性器に何の刺激も与えてないのに、何回もイッてました」という[9]。少年はのちにその時の光景を「作品」と呼んでいる[34]。

警察は記者会見で「酒鬼薔薇聖斗」を「さけ、おに、ばら…」と文字ごとに分割して読み、何を意味するか不明と発表、報道機関も発表と同じ表現をした。テレビ朝日の特別報道番組でジャーナリストの黒田清が「サカキバラセイトという人名ではないか」と発言。これ以降、マスコミや世間でも「さかきばら・せいと=人名」という解釈が広がった。犯人が未成年で本名が公開されなかったことから、事件解決後の今でも、この事件の犯人を「酒鬼薔薇」または「酒鬼薔薇聖斗」と呼ぶ人もいる。

5月28日以降

6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復する、としたものだった。「鬼薔薇」と聞いたのは、5月27日に児童相談所でニュースを見ていた時である[36]。また自身を「透明なボク」と表現、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯した、と記載している。この二通目の声明文には校門前で発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は一部文面を修正した形で報道されていたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文の一通目には、修正前と同じ文章で同封されていた。具体的には、遺体と共に発見された文面の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である[37]。声明文を書くにあたって、少年は次のような犯人像をイメージして書いたという[38]。

高校時代に野球部に所属したことがある三十歳代の男。父親はおらず、母親からは厳しいスパルタ教育を受けながら、学校では相手にされず孤立している。学校関係の職場で働いていたが解雇され、今は病身の母親と二人暮らし。学校時代にいじめにあったので、自分を「透明な存在」と思うようになり、そんな自分を作り出した義務教育を怨んでいる。被害妄想と自己顕示欲が人一倍強く、社会を憎み、密かに復讐を考えている。

しかし、少年は「はっきり言って、調子づいてしまった」と供述しており[39]、「新たに手紙を書けば、僕の筆跡が警察に分かってしまうと思ったが、僕自身、警察の筆跡鑑定を甘く見ていた。『あれで捕まるんやないか、失敗したなぁ』と思ったが、どうしようもなかった」と逮捕後供述している[40]。捜査関係者によると「もともと、数多く著作からの寄せ集めだから、原本は簡単に割り出せなかったが、Aが浮上して彼の作文などを調べたら、すぐに同一人物の筆致だと分かったよ。特に『懲役13年』という作文は大いに参考になった」という[40]。また、用紙の余白に「9」という数字を書いたことについて少年は「僕が1番好きな数字が9であり、切のいい数字が10だと思っているので、その一つ前がいいからだ」と供述しているが、少年が浮上した段階で間接証拠の一つとして使われていたという[41]。なお、少年の作文と二つの犯行声明文の筆跡鑑定を行ったが、鑑定結果は「類似した筆跡が比較的多く含まれているが、同一人の筆跡か否か判断することは困難である」というものであり、そのために少年の逮捕状を請求出来なかったという[42]。

神戸新聞社

 この前ボクが出ている時にたまたま、テレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた
人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも、謎かけでも当て字でもない。嘘偽りないボクの本名である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない
 だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない
 そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」
その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。
しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性さがとしか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。
最後に一言
この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。


———— ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている ————

6月28日、現場近くに住む少年に朝から任意同行を求め、事情を聞いていたところで犯行を自供[43]。少年は当初犯行を否認していたが、取調官が第一の犯行声明文のカラーコピーを取り出して、「これが君の書いたものであるということは、はっきりしている。筆跡が一致したんや」と突きつけると、声を上げて泣き出し、自供を始めた(前述のように実際には少年の筆跡が一致したという証拠はなかった)[44]。午後7時5分、殺人及び死体遺棄の容疑で少年を逮捕[43]。同時に、通り魔事件に関しても犯行を認めた[43]。

事件の舞台となった須磨ニュータウンは神戸市中心部から六甲山脈を隔てた北西部に位置し、もともと山地と農村地帯が広がる丘陵地であったが、1964年(昭和39年)から開発が始まり、ニュータウンとして早い地区で1970年から入居が始まった地域である。その後1969年(昭和44年)の西神戸有料道路(現市道夢野白川線)開通、1984年(昭和59年)の山麓バイパス開通、1977年(昭和52年)の神戸市営地下鉄西神・山手線開通によって神戸市中心部とのアクセスが飛躍的に向上し、ベッドタウンとしてこのニュータウンは急拡大していった。そのうち第三の事件は南部にある北須磨団地内で起こった。

殺害・遺体損壊現場として何度もその名が登場する「タンク山」は通称であり、地名としての山名は竜の山たつのやまである。タンク山の通称はこの山の東側中腹に巨大な給水タンクを備えた神戸市水道局北須磨特1高層配水池[45]があることによるもので、竜の山自体が小高い丘のような山であるため周辺からは非常に目立つ存在であった。
1.男児連れ去り現場:多井畑小学校北側路上 - 神戸市須磨区友が丘三丁目106番地先
2.殺害現場:タンク山山上 ケーブルテレビ受信施設 出入口前(敷地外) - 神戸市須磨区友が丘九丁目22番地座標: 北緯34度40分13.2秒 東経135度5分37.5秒
3.切断器具窃盗現場:コープリビングセンター北須磨店 - 神戸市須磨区多井畑字渋人谷上1番地1
4.遺体切断現場:タンク山山上 ケーブルテレビ受信施設 局舎西側(敷地内) - 神戸市須磨区友が丘九丁目22番地
5.切断器具処分現場:向畑ノ池 - 神戸市須磨区友が丘四丁目19番地
6.一時的な頭部遺棄現場:入角の池 畔の山林 - 神戸市須磨区多井畑字入角20番地
7.最終的な頭部遺棄現場:神戸市立友が丘中学校 正門 - 神戸市須磨区友が丘七丁目283番地1

少年逮捕以降の動き
6月28日 - 少年逮捕[46][47]。
6月29日 - 兵庫県警察捜査本部は、少年を男児殺害・死体遺棄容疑で神戸地検に送検。10日間の拘置が認められる。
6月30日 - 頭部を一時、自宅に持ち帰ったなどの供述が報道される。
7月1日 - 頭部切断は儀式とする供述が報道される。
7月2日 - 逮捕少年の顔写真が掲載された写真週刊誌『FOCUS』が発売される。犯行の経緯について「カメを見せる」と誘ったなど供述が報道される。
7月6日 - 兵庫県警察が向畑ノ池の捜索を開始[46][47]。
7月8日 - 拘置期限が切れたこの朝、地検は拘置延長を請求。神戸地裁は10日間の拘置延長を認める[46][47]。池から金槌が発見される[46][47]。
7月9日 - 別の金槌2本と細刃のナイフが向畑ノ池で発見される[46][47]。3月の通り魔事件と2月の殴打事件に使われた凶器と特定[46][47]。
7月11日 - 少年をバスに乗せ、タンク山とその周辺を実況見分
7月15日 - 2月と3月の通り魔事件で少年を再逮捕[46][47]。
7月16日 - 午前に捜査本部は通り魔事件で少年を送検、10日間の拘置請求が地検で認められる。
7月19日 - 少年宅から押収された犯行メモの内容が報道される[46][48]。
7月21日 - 警察官2名が、少年の二人の弟に対し、少年が再逮捕された通り魔事件について、少年の学校での行動、言動などを聞く。特に少年の母方の祖母の死の前後の様子を執拗に尋ねる。
7月24日 - 警察官が少年の両親に対して、被害者側に対し電話なり、詫びをすることを促す。この際、警察官は「誤認逮捕はありえない。もし、誤認逮捕であれば、兵庫県警は今後存続しないでしょう」と話す。切断された男児の首を校門の塀の上に置けなかったことに関し「作品を完成できずに悔しい」と供述した旨の報道がされる。午後、少年を伴い通り魔事件の実況見分
7月25日 - 神戸地検が、男児殺害、通り魔事件で神戸家裁に一括送致[49][50]。午後には少年は神戸家裁から神戸少年鑑別所に移送。午後、須磨署捜査本部が解散。
8月1日 - 神戸家裁により少年の審判開始が決定される[49][50]。

精神鑑定結果と犯行の動機

成人の刑事裁判と異なり、少年審判は非公開であり、審判の内容は公開されず、審判の結果も公開されないか報道されない事例が大部分であり、多くの人々に注目された事件の審判の結果(初等少年院中等少年院医療少年院への送致など)が公開され報道される程度であるが、この事件は人々からの注目度が著しく高かったので、家庭裁判所は例外的に精神鑑定の結果を公開した[51]。

精神鑑定結果として下記に示す少年の特徴が解明された[52]。
脳のX線検査、脳波検査、CTやMRIによる脳の断層検査、染色体の検査、ホルモン検査に異常は無い。
非行時・鑑定時とも精神疾患ではなく、意識は清明であり、年齢相応の知的能力がある。
非行時・鑑定時とも離人症状と解離傾性(意識と行為が一致しない状態)があるが、犯行時も鑑定時も解離性同一性障害ではなく、解離された人格による犯行ではない。
未分化な性衝動と攻撃性の結合により、持続的で強固なサディズムがこの事件の重要な原因である。
直観像素質(瞬間的に見た映像をいつまでも明瞭に記憶できる)者であり、その素質はこの事件の原因の一つである。
自己の価値を肯定する感情が低く、他者に対する共感能力が乏しく、その合理化・知性化としての虚無観や独善的な考え方がこの事件の原因の一つである。
この事件は長期的に継続された多様で漸増的に重症化する非行の最終的到達点である。

少年は小学校5年の時から動物に対する殺害を始め、最初はなめくじやかえるが対象だったが、その後は猫が対象になった[53][54][55]。少年自身が友人に、全部で20匹ぐらいの猫を殺したと語っている[54]。標準的な人は性的な発育が始まる以前の段階で、性欲や性的関心と暴力的衝動は分離されるが、少年は性的な発育が始まった時点で性欲や性的関心と暴力的衝動が分離されず(鑑定医はその状態を未分化な性衝動と攻撃性の結合と表現した)、動物に対する暴力による殺害と遺体の損壊が性的興奮と結合していた。性的な発育過程にある標準的な感覚の男子は、自分の周囲の同年代の女子や少し年上の女性を、性欲を発散する対象として想像しながらオナニーをして(または生身の女性と現実の性交をして)性欲を発散し、性的な経験を積み重ねながら肉体的・精神的な成長をして行くのだが、少年は動物を殺害して遺体を損壊することに性的な興奮を感じるようになり、猫を殺して遺体を損壊する時に性的な興奮や快楽を感じて性器が勃起し射精した。少年はその性的な興奮や快楽の感覚や要求が、人を殺害して遺体を損壊することによって、猫の殺害と遺体損壊よりも大きな性的な興奮や快楽を得たいとの欲求へとエスカレートし、それが自分の運命と思い込むようになり、この事件を行ったのであり、殺人の動機の類型としては快楽殺人である。

少年は鑑定医から被害者を殺害したことについて問われると、自分以外は人間ではなく野菜と同じだから切断や破砕をしてもいい、誰も悲しまないと思うと供述した[56]。被害者の遺族の悲しみについて問われると、あの時あの場所を通りかかった被害者が悪い、運が悪かったのだと供述した[57]。女性に対する関心はあるかと問われて、全く無いと答えた[58]。

精神鑑定結果は、少年に完全な責任能力はあるが、成人のパーソナリティ障害に相当する行為障害(18歳未満の場合は人格形成途上なので行為障害と表現する)があり、鑑定医の意見としては、行為障害の原因を除去して、少年の性格を矯正し、Aが更生するためには、長期間の医療的処置が必要(医療少年院への送致が最も適切な処遇)との提案がされた。

その後の少年の処遇

 神戸家庭裁判所1997年(平成9年)10月13日 - 神戸家庭裁判所は少年を医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移される。
1999年(平成11年) - 第二の事件で死亡した女児の遺族と少年側で約8,000万円の慰謝料を支払うことで示談成立。
2001年(平成13年)11月27日 - 治療が順調であるとの判断から、東北中等少年院に移る。
2002年(平成14年)7月 - 神戸家庭裁判所は、治療は順調としながらも、なお綿密な教育が必要として、収容継続を決定。
2004年(平成16年)3月10日 - 成人した少年は少年院を仮退院。この情報は法務省を通じ、被害者の家族に連絡された。
2005年(平成17年)1月1日 - 少年の本退院が認可される。
2005年(平成17年)5月24日 - 被害者少年の八周忌。少年が弁護士を通じて、遺族に献花を申し出ていた事が明らかになる。遺族は申し出を断った。
2007年(平成19年)3月 - 第二の事件で死亡した女児へ、医療少年院退院後、初めて謝罪の手紙が届けられた。しかし遺族は「必死に生きようとする姿が見えてこない」と賠償についても疑問を投げかけた。現在遺族への慰謝料は、少年の両親が出版した本の印税の他、1ヶ月に少年から4,000円と両親から8,000円支払われていると報道された[59]。

少年の更生

法務省は従来の矯正教育計画を見直し、収容期間を2年以上に延長した新課程「G3」を新設し、関東医療少年院は、精神科医や法務省教官など専門家で作るプロジェクトチームを編成した[60]。

精神鑑定で家庭における親密体験の乏しさを指摘されたのに対し、関東医療少年院は男性の主治医を父親役、女性の副主治医を母親役に配するなど「疑似家族」を作り上げるという前例のない治療体制が組まれた[61]。更生は一定の効果を見せたように思えたが、少年が入院して1年ほど経った頃、少年院の工作の実科(授業)で、新聞広告のチラシを切り抜いて画用紙に貼り付け、コラージュを制作した時に、少年は乳児の写真を目や耳、手足など部位別に一つ一つハサミで細かく切り刻んで、それを画用紙にわざとバラバラに貼った作品を作って、「精神と肉体の融合」の題を付けて発表した[62]。また、少年が「理想の母親のような」人と慕う女性精神科医について、院生の一人が「色っぽい白ブタ」と発言し、その途端、少年は物凄い形相で激昂して、近くにあったボールペンを逆手に持って、院生の目を突き刺そうとした[63]。少年院関係者は「この言葉によって、少年の殺意の引き金がひかれてしまい、それまでやっと積んできた矯正教育の成果がパーになってしまったわけだ」と語っている[64]。また、少年自身が少年院仲間に「いくら遺族の手記を読んでも、薬を飲んでも、治らないんだよ。僕は性格が異常なんだから……」「闘争と破壊こそ真の世界の姿だが、少年院ではいい子にしていなければ出られないから気をつけなくちゃ……」と発言している[65]。

2001年11月、東北中等少年院に移送された後に、院生からいじめを受け、さらに院生の一人がたまたま教官の持っていた書類を盗み見たところ、少年が偽名であることが発覚[66]。「お前、まさかあの酒鬼薔薇なのか」と問いかけると、少年がニヤッと笑って頷いたという噂がひろまり、少年の正体が一部の収容者にばれたという[66]。その後、いじめが過激になり、2002年初夏に突然、半裸状態で意味不明の奇声を発し、職業訓練で使うカッターナイフを振り回し、周りを威嚇し始めたという[67]。教官らが駆けつけ、ほかの院生を連れ出し、少年を取り囲んで説得を始めたが、カッターナイフで自分の性器を切り付けたという[67]。少年は直ちに個室に軟禁されて、事情聴取を受けたが、なかなか興奮が冷めず危険なうえ、動揺が激しく、何を言っているのか分からなかったため、最終的に「奇行」と断定された[67]。

この騒動の後、神戸家裁が「少年の犯罪的傾向はまだ矯正されているとは言えない」と判断を下し、2004年末まで少年院収容継続を決定した[68]。しかし、関東医療少年院は2003年3月に少年の仮退院を申請している[68]。被害者からは「神戸家裁の判断から半年余という短い期間で突然、少年が変身したとでも言うのか」という批判や疑問の声が上がった[68]。

少年の現在

一橋文哉が、2004年秋に法務省幹部に取材を行ったところ、「ある団地の一室で法務省関係者と同居し、一緒に炊事や買い物を行うなど社会勉強中です。少年院で取得した溶接の資格を生かし、仮退院の数日後から毎朝8時、篤志家の一人が経営する工場に歩いて出勤し、仕事ぶりは極めて真面目。夕方5時に退社後は、保護司宅で面談を受ける日々です。ほかに毎週1回、精神科医のカウンセリングを受け、10日に1回程度は、母親とも会っているようです」と語っている[69]。また、法曹関係者は「別の身元引受人と養子縁組して名前を変えたほか、出生地や学歴など偽のプロフィールを用意し、同僚や付近住民も正体を分かっていません。年齢も22歳になり、少年院で毎日、5階までの階段ダッシュを15往復、腕立てと腹筋を各100回こなし、身長170センチ、体重70キロと心身ともに逞しくなった。事件当時の写真を見た人でもまず、今の彼は分からないでしょう」「犯罪者予防更生法で1週間以上の旅行は許可が必要など、ある程度の制約は受けていますが、酒は飲めるし、好きなテレビゲームに嵌まるなど基本的に自由な生活を送っています。しかも04年末までの保護観察期間が過ぎれば、同居者も姿を消し完全フリーになるんです」と語っている[70]。

少年の居住地や勤務先について、法務省は「彼の更生には世間の温かい理解と協力が重要だ。公表は支障をきたす」とノーコメントを通し、マスコミや市民団体に、意図的に偽情報を流しているフシがあるという[71]。全国各地で「酒鬼薔薇が東京都内の保護司宅で新しい生活を始めた」「埼玉県に住む身元保証人と養子縁組し、全くの別人に生まれ変わった」などの情報が乱れ飛んだ[71]。少年が住んでいた神戸市でも、地元住民が「少年が家族とともに舞い戻るのではないか」と疑心暗鬼に陥っているという[71]。

一橋の取材によると、少年の更生プログラムの病理診断の欄に「現時点にあっても、少年の病理は『寛解』段階に過ぎない」とあり、「現時点」は「退院しても問題ない」とされる「総括期」を指しており、少年の性的サディズムは治癒しておらず、退院直前でも再発する可能性が十分あることを、法務省が認めていたことになっている[72]。また、前述のように退院間近の少年が少年院で問題を起こして、誰もが「性障害が完治していなかった」と医療少年院に戻されると思っていたが、「何しろ、この段階で少年を送り帰そうものなら、仮退院はパー、国家の威信をかけた更生プログラムを組んだ法務省の面子は丸潰れになる。そこで院内には厳重な箝口令が敷かれ、何と少年の奇行はウヤムヤになり、社会復帰のための最終的な研修は予定通り終了したことになってしまった。上層部は保身に走り、現場の少年院も『やるべきことはすべてやった。こうなれば一刻も早く、少年を手放したい』という腫れ物に触るような弱腰姿勢が見え見えだった。もっとも更生したかどうかの決定的な証拠など、何もないからね」と法務省幹部が語っており、一橋は「冗談ではない。人間の一生や人々の安全というものは、役人の面子や保身で決める話ではあるまい」と批判している[73]。

少年に関するエピソード

少年が在籍していた友が丘中学校の当時の校長である岩田信義は、少年には問題行動、正確にいえば、風変わりな行動が多かったと証言している[74]。

他の生徒の靴を隠して燃やす、ラケットで何もしていない生徒の頭を叩く、カッターナイフで他の生徒の自転車のタイヤを切るといった行為があったといわれ、少年が在籍していた小学校からは「刃物を一杯突き刺した不気味な粘土細工を制作していた」という報告を受けたという[75]。

担任の話によると、少年の表情は総じて動きに乏しく、注意しても教員の顔を直視することがなく、心が別のところにあり、意識がずれ、言葉が届かない感じを受けたという[76]。

しかし、これら少年の行動は思春期前期の子供にままみられるパターンであり、非行と奇行のはざまにある行動だと岩田は指摘している[76]。

中学校では入学早々から繰り返される少年の問題行動に手を焼いていた。少年の保護者も精神科医に診察を受けさせていたが、精神科医は学校の中で指導する方がいいという判断を下し、児童相談所には通所させなかった。それを受けて、学校は重点的に少年を指導し、事実、1年生の2学期になると問題行動は減ったという[77]。

それでも、教員の一部にはうちの学校で事件をやったとするならば少年ではないかという認識が煙のように漂っていたという。岩田はそういう話を聞くたびに「軽々しく口にすべきではない」と制止したが、岩田も「ひょっとしたら」と思っていたという[78]。

1996年(平成8年)5月11日、当時、中学2年生の少年は母の日のプレゼントに母の花嫁姿の絵を描いて渡す。前日に「母さん、何がほしい?」と聞く少年Aに、母は「気持ちさえこもっていたら、別に何でもええよ。無理せんで」と答える。すると、少年は両親の結婚式の写真を押入れから出すと、「母さん、この女の人、誰や?」と問うので、「母さんなんやけど」と答えると「へー」といって、少年はその写真を見た後、マンガ用の画用紙の裏に一気にその絵を描き上げ、母に手渡すと、スーッと2階へ上がっていった。少年が母にプレゼントをしたのはこれが初めてであった。

少年は、第3の事件の犯行の9日前の5月15日から、友が丘中学校には登校せず、母親とともに神戸の児童相談所に通い始めていた[81]。これは、5月13日に同級生を公園に呼び出し、自分の拳に時計を巻き付けて殴り、歯を折るなどの怪我を負わせたため、5月14日に学校から父親が呼び出しを受け、その後、両親が相談の上、学校を休ませ、児童相談所を紹介してもらったためである。暴行の原因は「竜が台の通り魔事件の犯人にまちがいない」と被害者の同級生がいいふらしていたためと少年の仲間は答えているが、少年は「犯行ノート」に「アングリ(聖なる儀式)」を遂行する第一弾として学校を休むことにした」と書いていた。

加害者である少年の父親はその後文藝春秋より『「少年A」この子を生んで…』を刊行している。事件後、父親は親戚の元へ身を寄せ、また離婚して苗字を改名した。他にも弟二人がいたが、追及を避けるため、別の土地で暮らす手段が採られた。

ある時、被害者への謝罪に関し、警察官は少年の父に対しこう質問した。「お父さん、2月10日、3月16日の被害者の名前はご存知ですか?」-これに対し、少年の父は答えられなかった。警察官は、父親に、加害者家族の苦痛を斟酌した上で、それ以上に被害者の家族が苦しみながら生きていることを諭した。

マスコミ報道の様子

被害少年の首が学校の校門に晒されるという猟奇的な事件であった点から、マスコミはこの事件の報道を連日行った。この事件は海外においても報道の対象になっている。

犯人像

読売新聞大阪本社版の朝刊では「劇画やアニメの影響を受けた無口な犯人」と報道した。言語学者からは、挑戦状に出てくる難しい熟語は劇画では頻繁に登場し、長文ながら口語調がほとんどない点について、犯人が日頃会話が少ないことの表れと分析している。

朝日新聞には多数の意見が寄せられ、「高い教育程度」「孤独な30代」「複数の可能性」などの犯人像が報じられた。

犯行声明文の文章の組み立ても論理的なことから高い教育を受けている。

—弁護士

年齢は30歳代と思う。10代や20代の若者では、声明文にあった「銜える」などの漢字を使おうという発想を持たないだろうし、逆にあえてこの漢字を使ったところに若さが抜けない30代ならではの背伸びを感じる。

—作家

単独犯人説が強いが、私はあえて知的レベルの高い複数犯と考える。

—作家

台北発として産経新聞は「挑戦状の一部が中国語と符合」と報じた。記事によれば、犯人が被害者に残した挑戦状に中国語と類似する表現が含まれていることが、犯罪問題に詳しい台湾筋などで指摘されているという。被害者の口に残されたメモには「酒鬼薔薇聖斗」など、日常の日本語とはかけはなれた感じの表記が多く見られるという。台湾筋の指摘によると、「酒鬼」は「大酒飲み」を意味する標準中国語(北京語)の口語表現、「学校殺死」として登場する「殺死」も、「殺害する」という意味の動詞であり、中日大辞典は「殺死」の項目で「首を切り落として殺すことをいうことが多い」と説明している。しかし、挑戦状の新しい解釈として興味をひかれたものの、犯人との結びつきについては言及していない。

ニュースでの光景

少年が逮捕された数時間後、須磨警察署からのニュース報道が行われたが、茶髪の少年が後ろでピースサインをしたり携帯電話で電話しているという姿が映し出された。

この光景に対して、神戸小学生殺人事件を考える会が行った調査では、半数以上が「馬鹿・恥知らず」という回答だった。「馬鹿の見本市のようだった」「あの時間に須磨にいるのだから、全員が地元の子だろう。地元にいて、なぜあんなことができるのか。考える頭がないのでは?」「ことの重大さがわかっていない。親の顔が見たい」という意見があった。また、「恥ずかしい・情けない」と答えた10代の回答者も多くいた。「ピースサインはまだしも、携帯をかけていたのにはびっくりした。友達に『俺、映ってる?』と言ったのだろうが、見ているこっちが恥ずかしくなった」「最近の若者は馬鹿、と言われても仕方がないと思った」「酒鬼薔薇と同じように、あの少年たちの顔もモザイクでもかけてやったほうがいい。あんなにばっちり顔が映っては、将来に傷がつく」などの意見があった。その一方で、「あれが普通の少年」という回答もあった。「子供を殺しているよりは罪がない」「いつでもどこでもああいう子供たちはいる。無邪気で健全といえないこともない」といった意見も見受けられた。また、他には「友が丘中学、タンク山近辺は他府県ナンバーの車が観光にやってきている。中学の校門前で、記念撮影している大人もいた。震災直後に崩壊した建物の前で記念撮影をしていた人たちを思い出した」といった意見もあった。

アメリカでの報道

事件当初、アメリカでは大した規模での報道は行われていなかった。しかし、犯人が14歳の中学生と分かった翌日の6月29日に各紙で取り上げられた。日本社会に大きな影響を与えた事件として、事件の全容を概括している。

1ヵ月前に発生した猟奇的殺害事件は、比較的凶悪犯罪の少ない日本全体を震撼させる大事件であり、橋本総理も解決に全力を傾けるよう、警察当局に指示を与えていた。犯人は警察や新聞に「殺人が楽しくてたまらない」など挑戦状を送り付け、次の犯行予告まで行い、犯罪心理学者らはその犯人像を20-40歳と推測していた。
 警察当局は500人の警官を投入して遂に被疑者逮捕にこぎ着けたが、発表によると被疑者は同地区に居住する14歳の中学生ということであった。この地域は最近、猫が殺されるなど残虐行為の痕跡があり、これをつめることが逮捕に至ったようだ。
 容疑者逮捕は一応、人々の心を落ち着かせたようだが、容疑者が14歳であるという事実が再度、国中に衝撃を与えているようだ。社会の風潮、インターネットなど、今度はかかる若年者を殺人者に仕立てていく日本の内部構造の解明が新たな要望として浮上してくる。

ワシントン・ポスト

日本をゆるがした小学生殺人・遺棄事件で、日本社会全体をはじめ警察をも犯人を凶悪な大人と想定して調査を続けてきたが、28日、この事件は14歳の中学三年生が容疑者として連行され、事情聴取の末、自白に追い込むという結末を迎えた。日本では19歳以下を少年法対象として保護するが、本件犯人も少年で刑事被告の対象とならない。最終的には20歳までの保護処分といったことになろう。
 日本はこの事件のショックに動揺し、改めて家庭、社会、教育に関する議論が活発となる。10代の倫理道徳に関する議論も盛んとなっている。だが、日本の犯罪は統計的に見れば欧米のそれよりも遥かに低い。

ニューヨーク・タイムズ

日本中を騒がせた猟奇殺人事件で14歳の中学生が容疑者として逮捕された。
 少年は被害者の知己であり、地域社会の普通の中学生である。この犯人は書状を新聞社などに送り付け、捜査を混乱させるとともに、世間には変質的な大人の犯行を思わせてきた。
 近隣の住民は犯人逮捕に安堵したと同時に、それが地域内の少年であった事実にショックを隠せない。警察は当初から大人数の捜査官を投入していたが、鳩や小動物を殺していた学生を犯人として追い込んだ手順に関してはその説明を拒否している。

ワシントン・タイムズ

少年の情報漏洩騒動

少年法61条に、「家庭裁判所の審判に付された少年犯の氏名、年齢、住所、容貌などが明らかとなる記事や写真を、新聞および出版物に掲載してはならない」と制定されている。だが「審判に付される前」を狙って、新潮社が少年の顔写真を掲載した雑誌を出版した。

写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』(1997年7月9日号)に少年の顔写真と実名が掲載されることが判明すると、直ちに大半の大手業者は販売を自粛決定したが、新潮社は回収せず販売を強行、一部の書店で販売された(即刻完売)。さらに翌日、『週刊新潮』が少年の顔写真を目隠し入りで掲載して販売。翌日、法務省が『FOCUS』および『週刊新潮』に回収勧告するが、双方は拒否。『FOCUS』発売直後、ウェブサイトで犯人の顔写真が数多く流布された。

また、審判終了後、『文藝春秋』(1998年3月号)に、検事供述調書が掲載される事が判明。一部で販売自粛、各地の公立図書館で閲覧停止措置となる。後の法務省の調査で、供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしてフロッピーディスクに保存していたことが判明し、塩田明男が逮捕された(神戸事件をめぐる革マル派事件)。立花隆は、これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、2時間で7枚に及ぶ調書を精読、「どんなことがあっても掲載すべき」との判断を下す。少年法61条に抵触するか否かについては、この法令が報道することを禁じているのは、あくまで、本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない-従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くないと判断。掲載を推薦し「文藝春秋」(1998年3月特別号)に掲載された。立花隆自身バッシングが起こることは確実と予想してのことであった。 立花は『FOCUS』に少年の顔写真と実名が掲載されたことについては、別の理由から反対している。

その後も『FOCUS』には、少年の犯行記録ノートや神戸市教育委員会の指導要録など、本来なら外部に流出するはずのない資料が次々と掲載された。

なお、ワイドショーで少年の家を映した際、表札が見えたという証言がある。

被害者側の人権

特に、この事件をきっかけにして、大きくクローズアップされだしたのが、被害者側の人権問題であった。これまでも、この種の少年犯罪による事件では、犯罪者側の人権は十分に保護されるにもかかわらず、被害者側は個人のプライバシーまで暴き出され、マスコミからもさまざまな迷惑や圧力を蒙ることが問題視されてきたが、特に世間が大きく注目したこの事件がきっかけとなり、その後、多少の変化の兆しが見られるようになった。また、被害者側の働きかけにより、この事件の審判の過程においても異例の措置がとられるなど、司法側にも幾分の配慮が見られた。

少年法の壁

いわゆる少年事件では加害者の住所氏名すら被害者に伝えられず、審判は非公開でどんな事実認定がなされたかすら知るよしもない。それは、わが子を失った親が、「子供はどれほど苦しんだのか。何か言葉を残したのか。そして、目は閉じていたのか」(土師守『淳 それから』)すら知りえるすべがないということである。加害者が嘘をついたり、被害者に対し中傷したとしても、被害者側は反論や否定すら出来ない上、処分が出てもその内容すら知りえない。被害者側は完全に蚊帳の外に置かれる。第三の事件の被害者の父とその弁護人である井関勇司が取り組んだのは、まず「少年審判への関与と情報開示の要求」であった。そのため、まず担当判事である井垣康弘に要求したのは「加害者の法律記録および社会記録(鑑別結果、調査票など)を見せてほしい」ということであった。これらは、加害者側の弁護人には閲覧や謄写が認められているが、被害者側の弁護人には認められていない。従って、この要求に対して井垣判事は拒否した。また、「遺族に審判廷で意見を述べさせてほしい」との要求も行ったが、これも否認された。これに対して「それならば、少年は退廷させてからでいいから、審判廷で意見を述べさせたい」との要求を行ったが、これも却下された。しかし、その後の粘り強い井関弁護士の交渉が実を結び、最終的には、公式の審判では無理だが、判事室で判事が被害者遺族に会って話を聞くということになった。これは、画期的な異例の事態であった。

この「異例の意見聴取」は、第4回審判が開かれたのと同じ10月13日、約30分間にわたって行われた。17日には神戸家庭裁判所での最終審判で、少年Aの医療少年院送致宇の保護処分が決定したが、家裁は「正確な報道のための資料提供の観点から」という理由で「処分決定の要旨」をマスコミに公表した。これはあくまでもマスコミに向けたものであって、被害者へはあくまでもマスコミを通して知らされた。言うまでもなく、それまでも事件に関する情報は、被害者側が知るルートはすべてマスコミであった。

マスコミによる暴力

上記のごとく、被害者側が知りえる事件の情報はすべてマスコミを通じたものであったが、同時に被害者はマスコミから24時間監視され、多大な苦痛を味わっている。特に猟奇的な犯行であった第三の事件では、犯人が逮捕されるまでは、被害者宅に数多くのマスコミが張り付き、周囲の道路は違法駐車の車で交通渋滞ができ、被害者宅ではカーテンすら開けられない状況が続いた。かつ、犯人は両親ではないかとの憶測すら乱れ飛んだ[113]。土師守はこれを「マスコミによる暴力」と表現した。また、1998年(平成10年)2月10日には、文藝春秋社から、犯人の供述調書(検事調書)7枚分が掲載され「少年Aの全貌」という見出しの『文藝春秋』3月号が発売された。事前に警察からこの情報を聞かされていた土師守は勤めている病院の売店で買い求めるが、最初の解説の部分を少し読んだだけで、その後の記事は読んでいない。奇しくもこの日は、被害男児の誕生日でもあった。弁護士の井関勇司は「遺族の心情を考慮すると問題だ、興味本位で読まれるのはつらい」と土師にかわってコメントを発表した。

民事訴訟

1998年(平成10年)8月26日、第三の事件の被害者の両親は、少年およびその両親に対して総額1億4000万円の支払いを求める民事訴訟を起こす。訴訟に先駆け、弁護人である井関勇司らによって、少年の両親の資産状況が調査されたが、すんでいた家屋も借家で、支払能力なし、との判断であり、また訴訟に対して犯人の両親は事実関係をすべて認めるとの意思を示していたため、争点にならず、開示も期待できない状況であったが、「裁判所という公式なものの中で、きちんと犯人の両親の責任を認めてほしい」という2人の強い意志により、訴訟は起こされた。途中、和解勧告が出されたものの、成立せず、1999年(平成11年)3月11日に全額の支払いを命ずる判決が出た。両親は、「現在の法律では、少年犯罪の場合、その責任の所在と償いということがうやむやになっている場合が多いが、その意味においても、この判決は意義のあるものだと思います」とのコメントを出した。

このしばらく後に、少年の両親が手記を出版することになった(『「少年A」この子を生んで…父と母悔恨の手記』 文藝春秋)。被害者の両親の疑問に答えること、賠償金支払いの目的などがあったとされるが、内容が少年Aを終始擁護する記述であったため、被害者側は不快に感じ、出版の中止を望んだ。

世間の反応

14歳の中学生が起こした事件として、世間は大きく騒がれた。以下の調査は神戸小学生殺人事件を考える会によるもの。

犯人が14歳の中学生

犯人が14歳の中学生であったことに関して、半数以上が「驚いた」という意見だった。その次に多かったのが「信じられなかった」という意見である。その一方で、少数ではあるが「やはり、と思った」という意見もあった。しかし、その中でも「10代だとは思っていた。しかし14歳とは……」という意見が多数だった。逆に、「14歳だからかえってあんな事ができたのか」という人も少数ながらいた。また、「恐ろしい」という意見もあった。「14歳でこんなことをしてしまう酒鬼薔薇が怖い」「こんなことが中学生にできてしまうという現実が恐ろしい」などがあったが、何を恐ろしいとするかは人それぞれだった。

少年法

犯人が少年法に守られていることに関して、「許せない」「納得できない」といった意見が7割を占めた。その一方で、「仕方ない」といった意見も多く、「そうなっているなら仕方ない」「仮に少年法が改正されても、酒鬼薔薇には適用されない。ここまで放置してきてしまったのだから、もう遅い」「おかしいとは思うけど、法治国家とはこういうものでは?」「酒鬼薔薇だけ特例にしたら、秩序がなくなる」などの意見があった。30歳以上の中には「14歳では責任能力がない。成年と同じ処罰を与えるのは無理」と、「守られて当然」という意見もあった。しかし、10代はほぼ全員「許せない」「納得できない」という意見だった。

フォーカス

犯人である少年の顔写真が掲載されたフォーカスを手に入れた人は1割にも満たなかった。しかし、コピーを含めると約4割が見たことがあるという。

顔写真を見た印象としては、「普通の子と変わらない」という意見が最も多かった。次に多かった順に、「恐い」「陰湿な印象」といった意見だった。

フォーカスに顔写真を載せたことに関しては、6割以上が賛成といった意見だった。

新聞

犯人逮捕後、新聞での報道は日が経つにつれ、教育問題などを背景とする記事を取り上げることが多くなったが、これに対しては「偽善的」といった意見が多かった。「悪いのは社会、というように酒鬼薔薇を擁護するような書き方が多い」「罪を憎んで人を憎まず、という姿勢がかえって不気味」という意見があった。また、「人権侵害ということにびびりまくっている感じ」「少年法に守られている容疑者だから、言いたいようことの半分も言えないのだろう」と「歯切れが悪い・つっこみが甘い」といった意見も多かった。一方、年配者には「新聞は興味本位で書き立てるべきではないし、事実のみを伝えるもの」と「これが妥当」といった意見も多かった[121]。逮捕後は識者のコメントや分析が目立つようになったが、10代の中には「心理学者だの小説家がわかったふうなことを書いているのには腹がたった。勝手に酒鬼薔薇の気持ちを推理して決めつけていたが、こんな人たちにわかるはずがないのに、と思った」「最近の若者という枠で、酒鬼薔薇のことを語らないで欲しい。あんなヤツと一緒にされたくない」という意見が出た。

ホラービデオなどの規制

犯行声明にバイオレンスコミックが引用されていたり、部屋にホラームービーが何本もあったことから規制の声があがった。実際、規制すべきといった意見が多かった。「小学生が読むマンガでも、暴力シーンが多い。あまりにも簡単に人が死ぬので、子供に『死』というものを軽くとらえられている気がする」「ガイドラインを作って、一斉に規制するのは検閲のようでよくない。作者や発売元の良心に任せる程度の規制が望ましい」「いちばん影響が大きいのはテレビゲームだと思う。大抵のゲームが、相手を倒して自分が生き残る、強くなるものばかり。幼稚園の子供が『死ね、死ね』と叫びながらコントローラーを持っている姿は怖い」という意見があった[123]。しかし、規制は必要ないといった意見も多く、「ホラービデオ愛好家がみんな殺人を犯すわけではない」「表現の自由の侵害。ビデオを見なくても、人ぐらい殺せる」「規制しても意味がないと思う。いまだって未成年でも酒もたばこも買えるし、アダルトビデオも見られる」「マンガを規制するくらいで犯罪が減るなら、この世に犯罪者はいない。『水戸黄門』ファンの殺人犯だっているはずだ」「国が法律で規制するのではなく、親がチェックすべき問題だと思う」といった意見があった。また、他には「規制しろ、ともっともらしいことをいうテレビ番組で『これが犯行声明に引用されたマンガです』と何度も紹介していた。宣伝してどうする?」「宮崎事件のときはオタクはみな危ないといい、今度はマンガやホラー。なぜすぐにわかりやすい原因をみつけたがるのか?」という疑問の声も上がった。

有識者の反応

事件の特異性から、各分野の専門家がそれぞれの立場から事件に対する意見を表明した。愛知教育大学の2006年の研究報告によると、佐木隆三は「日本の凶悪犯罪史上において、犯行者の低年齢化という意味で、エポックメーキングな出来事」、小田晋は「快楽殺人」という観点から生物学的問題を指摘、町沢静夫は行為障害、性的サディズムとした精神鑑定を妥当としながら注意欠陥・多動性障害を追加、福島章は行為障害、青年期発症型重症と診断のうえ「喪と殺人」という視点を提起、宮台真司は少年が『寄生獣』を愛読していたことから少年の犯罪は「自分の意思であると同時に神に捧げられており、これは弱い人間がノイズに満ちた環境から身を守るための智慧といえるが、年若い少年がこれほど強力な自己防衛ツールを発動したのは母親とのコミュニケーションが原因ではないか」と推測し、高山文彦も少年が造り上げた奇怪な想像世界の分析により、母親による虐待を大きな原因とし、無理心中に近い行為と指摘、村瀬学はイニシエーションという観点から、境界を意識した人間の行為と考察、岩宮恵子もイニシエーションに関し、学校という異界での試練を挙げた。

事件の影響

この事件を教訓に、こども110番の家が設置されるようになった。事件の残虐性に加え、逮捕されたのが14歳の少年であった点も、社会に強い衝撃を与えた。結果、この事件を境に、少年事件やそれに関連する法整備、少年事件における「マスコミの対応」などが大きく注目されるようになった。さらにこの事件を皮切りに当時の内閣が少年法改正に動く事にまで影響が及んでいる。

また、テレビ番組が少年に与えた影響が取りざたされたため、猟奇シーンの含まれる番組(『銀狼怪奇ファイル』、『エコエコアザラク』など)の放送や新シリーズ制作が中止になったり、特撮番組においてヒーローが切断技で怪獣の首をはねたり胴体を真っ二つに切断し倒す演出が自粛されるようになった。

また当時、大人気であったミニ四駆の全国大会「ジャパンカップ」関西大会の地区予選が、社会情勢を考慮するとの理由で中止になっている。

少年は冤罪か

逮捕された少年が犯行を認め、関連する犯罪についても述べているものの、冤罪を指摘する声もある。 その多くは被害少年の首を切断した際の警察の報告書に対する疑問点や、捜査の手法、判決を批判したものである。また、物的証拠に不足、不自然な点があるとも指摘される。

多くの冤罪事件を手がけてきた弁護士の後藤昌次郎や、『神戸事件を読む―酒鬼薔薇は本当に少年Aなのか?』(鹿砦社)の著者の熊谷英彦、少年が在籍していた中学校の校長(当時)の岩田信義らが冤罪であると主張しており、特に、熊谷の著作は冤罪主張派にとって重要視されている。冤罪説の指摘のうち主なものを以下に記す。
第二の事件で殺害された女児の頭の傷は八角げんのうを左手に持って殴りつけてできたと考えられ、右利きの少年がやったとは考えにくい(「#右利きと左利き」も参照)。
第三の事件で殺害された男児の首は遺体を冷凍して切断した可能性が考えられる。岩田は若いころ、来客に料理をふるまうためにニワトリを屠殺した経験があり、ニワトリの首は簡単に切れなかったと述べている。岩田は糸ノコギリで人間の首は切断できないのではないかと疑問を呈している。
筆跡鑑定の結果は声明文が少年によって書かれたものだと断定はできないというものであった。のちに、鑑定結果を弁護士から知らされた少年は「騙された、悔しい」といって泣いたといわれている。ただし、赤インクの太字と定規を使用したと見られる直線で描かれたもので、筆跡をごまかしているため、鑑定の結果自体は冤罪の根拠とはならないという意見もある。ただし、少年の中学での国語の成績は入学以来常に5段階評価の「2」で、事件直前の授業の作文と比較して犯行声明のような高度な文法や複雑な読みまわしの漢字を書く能力があったかどうかには疑問が残っている。
取り調べにおいて警察は声明文の筆跡鑑定が確定的であるかの様に説明し、それを受けて少年は自白を始めた。これは違法行為であるため、家裁審判においてこの自白調書は証拠として採用されなかったが、少年の弁護士は非行事実について争おうとはしなかった。
少年の素行についての証言が逮捕直後から多数報道されていたが、調査してみると多くは伝聞情報ばかりで直接の目撃証言が確認できない。
判決文による非行事実は荒唐無稽で実行不可能な部分が多い。
14歳少年に実行可能な犯罪とは到底考えられない。犯行声明文は14歳少年が作成したものとは思えないほど高度である。岩田は、この犯行声明文は全体的に難解な論理を特異な比喩を使いながら展開しているにもかかわらず論旨は明快で、成績の悪い少年Aに到底書けるとは思えなかったと述べている。

少年の母が2002年5月に少年と面会し、「お母さん、あんたの口からハッキリと聞いておきたいことがある。○君を殺したの? ○君を殺したんは、本当にお前なんか? あの事件は冤罪ということはあり得へんの?」と冤罪の可能性について尋ねた際、彼は「あり得へん。間違いなくそうです。自分がやりました」と語っている。


参考文献
「少年Aの全貌 供述調書」、『文藝春秋』、文藝春秋、1998年3月。
後藤昌次郎 『神戸酒鬼薔薇事件にこだわる理由—「A少年」は犯人か—』 現代人文社、2005年1月30日、初版。ISBN 4-87798-239-6。2009年6月23日閲覧。
岩田信義 『校長は見た!酒鬼薔薇事件の「深層」』 五月書房、2001年5月28日、初版。ISBN 4-7727-0349-7。2009年6月23日閲覧。
「少年A」の父母 『「少年A」この子を生んで—父と母悔恨の手記—』 文藝春秋、1999年4月10日。ISBN 4-16-765609-4。
産経新聞大阪本社編集局 『命の重さ取材して—神戸・連続児童殺傷事件—』 産経新聞ニュースサービス、1997年10月。ISBN 4-594-02354-1。
朝日新聞大阪社会部 『暗い森—神戸連続児童殺傷事件—』 朝日新聞出版、1998年4月5日。ISBN 4-02-25724-6。
河信基 『酒鬼薔薇聖斗の告白—悪魔に憑かれたとき—』 元就出版社、1998年5月28日。ISBN 4-906631-35-5。
安倍治夫 『真相—神戸市小学生惨殺遺棄事件—』 小林紀興、早稲田出版、1998年10月。ISBN 4-89827-194-4。
高山文彦 『地獄の季節—「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所—』 新潮文庫、2001年5月1日。ISBN 4-10-130431-9。
熊谷英彦 『神戸事件を読む—酒鬼薔薇は本当に少年Aなのか?—』 鹿砦社、2001年5月25日。ISBN 4-8463-0414-0。
草薙厚子 『少年A矯正2500日全記録』 文藝春秋、2004年4月6日。ISBN 4-16-365860-2。
今一生 『「酒鬼薔薇聖斗」への手紙—生きていく人として—』 宝島社、2003年10月15日。ISBN 4-7966-3594-7。
土師守 『淳』 新潮社、1998年9月。ISBN 4-10-426501-2。
土師守、本田信一郎 『淳 それから』 新潮社、2005年10月15日。ISBN 4-10-426502-0。
山下京子 『彩花へ—「生きる力」をありがとう—』 河出文庫、1997年12月。ISBN 4-309-01206-X。
神戸小学生殺人事件を考える会 『神戸小学生殺人事件 わたしはこう思う 〜455人の声』 同文書院、1997年。ISBN 4-8103-7439-4。
高山文彦 『「少年A」14歳の肖像』 新潮文庫、2001年11月1日。ISBN 978-4-10-130432-8。
一橋文哉 『未解決 —封印された五つの捜査報告—』 新潮文庫、2011年11月1日。ISBN 978-4-10-142627-3。
鈴木伸元 『加害者家族』 幻冬舎新書、2010年11月27日。ISBN 978-4-344-98194-2。
吉岡忍 『M/世界の、憂鬱な先端』 文春文庫、2003年1月10日。ISBN 4-16-754703-1。

関連項目
少年犯罪
少年法
家庭裁判所
少年院
郊外型犯罪
猟奇殺人
快楽殺人
厳罰化
神戸事件をめぐる革マル派事件
職場体験・トライやる・ウィーク(この事件を機に始まった)
不謹慎ゲーム
『凶悪犯罪ファイル』(神戸連続児童殺傷事件編)
キレる17歳
注意欠陥・多動性障害
京都小学生殺害事件 - 「てるくはのる」名で犯行声明文を出すなど類似が見られた

「神戸連続児童殺傷事件」の書誌情報

麻原彰晃

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麻原 彰晃
 (本名:松本 智津夫)
誕生
1955年3月2日(60歳)
熊本県八代市

ホーリーネーム
マハー・グル・アサハラ(麻原彰晃

ステージ
尊師、神聖法皇

教団での役職
代表(設立者)

関係した事件
坂本堤弁護士一家殺害事件
松本サリン事件
地下鉄サリン事件など

判決
死刑(控訴棄却)

麻原 彰晃(あさはら しょうこう、本名:松本 智津夫(まつもと ちづお)、1955年(昭和30年)3月2日 - )は、日本の宗教家、宗教団体オウム真理教(現Aleph)の元代表、教祖であり、日本で唯一の「最終解脱者」を自称していた[1]。一連のオウム事件を起こし、現在は確定死刑囚。

1996年(平成8年)6月19日以降は、教団内部での地位は開祖。同団体は宗教団体「アレフ」に一旦改組され「アーレフ」に改称するも、さらに「Aleph」に改称。Alephにおいての公式呼称は「旧団体代表」とされた[要出典]。

著書では「真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師」名義を用いていた。宗教団体オウム真理教の信者からは尊師、もしくは本来ヒンドゥー教の導師を指すグルと呼ばれ、崇拝の対象となっていた。宗教団体Alephでは、尊師・グルの呼称の使用及び、写真・イラスト・その他その肖像を表したものを団体施設の祭壇及び個人所有の祭壇に備え付けることを禁じたが、2011年に入り、麻原の「生誕祭」や肖像の掲示を公然と行うようになっている[2]。

教団は日本支配を画策しており、国家の憲法に相当する基本律の草案では神聖法皇と呼称されていた。

経歴

成年前

1955年3月2日午前3時34分、麻原彰晃こと松本智津夫は、熊本県八代市高植本町[3]の畳職人の家庭の4男(6男3女の9人兄弟の第7子)として生まれた[4][5][6][7]。先天性緑内障のため生来、左目がほとんど見えず、右目は視力1.0程度だった[6]。12歳年上の長兄は全盲、5男も弱視だった[要出典](藤原新也は、「麻原兄弟の視覚障害水俣病の影響であり、それゆえに同じく視覚障害を起こすサリンを使ったのでははないか」という仮説を立て、全盲の長兄に事件後インタビューしている[8]。
長兄の証言によると、彼も智津夫の視覚障害に関し同様の疑いを持ち、「水俣病患者として役所に申請」したことがあるが、却下されたという[9])。父親は敗戦で朝鮮から引き上げ、叔父を頼り八代に住み、当時地場産業であった畳職人として働くようになった[要出典]。しかし畳の需要は落ち、7人の子を抱え生活は逼迫していた[要出典]。両親は働きづくめで、智津夫は兄や姉を親代わりに幼少期を送った[10]。

週刊現代』1995年5月27日号「麻原オウム真理教統一協会を結ぶ点と線」p.44で「麻原の父親は朝鮮から日本へ渡ってきた人だったんです」と栗本慎一郎が主張した[11]。一方『週刊文春』2000年新年合併号によると、「松本の祖父は熊本県出身の警察官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に引き揚げた」という[要ページ番号]。また、高山文彦は『麻原彰晃の誕生』で、「松本家は朝鮮半島の出自ではなく、朝鮮から引き揚げてきた日本人」との親族の言葉を紹介しており、松本の父は現在の大韓民国全羅北道益山郡春浦面の生まれであるとしている[12]。
オウム真理教大辞典』(東京キララ社、2003年)の「麻原彰晃」の項によれば、本人による「在日」「部落」発言があったという噂のため「在日説、部落出身説があったが、これらはデマである」としている[4]。

1961年(昭和36年)4月に、一旦は八代市立金剛小学校に入学するが[13]、視覚障害者(隻眼)を理由に同年秋(6歳)より当時熊本市出水町今(現在の熊本市中央区水前寺)に所在した熊本県立盲学校に転校、寄宿舎に移住[14][15][注 1]。しかし、智津夫は全盲の兄とは異なり目が見えたのに、学費も寄宿舎代も食費も不要な盲学校へ入れられたことを親に捨てられたと思い不満をぶつけ[17]、転校の際には泣いて嫌がったという[18]。20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残った[10]。

盲学校では、強い権力欲を見せ、目が見えるために他の子供たちを子分扱いにし、暴力で支配していた[要出典]。全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり[19]窃盗を命じたり[20]、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などと言ってお金を巻き上げていた[要出典]。寄宿舎の消灯時間が過ぎたにもかかわらず部屋の明かりを点けたことを寮母がとがめた際には、ふてぶてしい態度で「宿舎ば(を)焼いて明るくするぐらいのこつば(ことを)やってやっぞ」と言った[21]。
生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」とうそぶくこともあった[22]。金への執着も強く、同級生への恐喝によって卒業するまでに300万円を貯金していた[10]。ただし、高等部での担任教師であった人物は、盲学校時代の報道を聞いて「そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかった」、「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた」と述懐している[23]。

部活動は柔道に打ち込む[24]一方で、小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長、寮長に立候補するが、全て落選している[25][26][27][7]。

その後、成績は中程度であったにもかかわらず、「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」[28]と熊本大学医学部を志望するようになり[29]、高等部3年の3月に同医学部を受験するが失敗[30]。高等部専攻科に進学する[30]。1975年(昭和50年)1月12日には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段講道館)を取得[31](一連のオウム事件の裁判が進むと講道館より段位を剥奪した事が記者会見で発表され、その様子がテレビや新聞各社、近代柔道誌などで報道された)。
鍼灸免許も取得した松本は、この頃より「東京大学法学部卒の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志すようになった[31]。1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業した[32]。

成人後

東京大学文科1類受験を目指すため、1975年(昭和50年)3月末に東京都江東区大島、8月に品川区戸越に移住するが、9月には八代市の実家に戻る[33]。1976年(昭和51年)1月熊本市春日に移住し長兄の漢方薬店の助手を務める[34]。3月、受験勉強をするために学生街のある熊本市黒髪町に下宿するが、5月にはまた実家に戻り、長兄の店を手伝う[35]。1976年(昭和51年)7月20日、長兄の店の元従業員が兄を侮辱したため頭部を殴打し負傷させ、9月6日、八代簡易裁判所にて1万5千円の罰金刑を受ける[36]。

1977年(昭和52年)春(22歳)に再上京し、代々木ゼミナール渋谷校(現在は廃校により存在しない)に入学[36]したが、東大受験は3度諦めている[7]。同年頃から仙道やヨーガの修行を始める[要出典]。

1978年(昭和53年)1月7日、代々木ゼミナール渋谷校で知り合った妻、松本知子(旧姓石井)と結婚し、千葉県船橋市湊町に新居を構え、そこに鍼灸院「松本鍼灸院」を開院[37]。同年9月15日「松本鍼灸院」を廃し、同市本町 に診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業[38]。同年12月、船橋市新高根に新居を購入し移住[39]。1980年(昭和55年)7月、保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される[40]。同年8月25日(25歳)、新興宗教団体阿含宗に入信し、3年ほど在籍する[41]。
1981年(昭和56年)2月、船橋市高根台に健康薬品販売店「BMA薬局」[注 2]を開局したものの、1982年(昭和57年)に無許可の医薬品を製造販売したため同年6月22日に薬事法違反で逮捕され、20万円の罰金刑を受ける[43]。このころより知人に「最も儲かるビジネスは何か知っているか? それは宗教だよ[要出典]」ともらしていた。

オウム真理教

1983年(昭和58年)夏(28歳)、東京都渋谷区桜丘に、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設、松本はこのころから「麻原彰晃」と名乗り始める[44]。1984年(昭和59年)2月、学習塾「鳳凰慶林館」をヨガ道場「オウムの会」に変更し、5月28日には株式会社オウムを設立[45][注 3]。1986年(昭和61年)4月、ヨガ道場「オウムの会」を宗教団体「オウム神仙の会」と改称[47]。同年7月、ヒマラヤで最終解脱と称す[48]。

1987年(昭和62年)7月(32歳)には「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に改称し[49]、世俗化、形骸化した宗教を打ち破り、すべての魂を救済するとして布教活動を展開[要出典]。空中浮揚などのショー的なアピールや自著、オカルト雑誌への広告記事を利用し徐々に信者を獲得していった。この年には8名の弟子を解脱に導いたとする[要出典]。

1988年(昭和63年)(33歳)、ダライ・ラマ14世と親交のあるペマ・ギャルポに接近。「自分の修行がどの程度のものなのかチベット仏教の長老に見ていただきたい」と申し出、ダラムサラの宗教・文化庁を紹介される[50]。現地で長老らと一緒に瞑想した結果、高く評価され、ダライ・ラマ14世との接見を認められる。この際の接見の様子をのちに自己宣伝に利用することとなる[51]。

1990年(平成2年)2月の衆議院議員選挙では、真理党代表として東京4区(5人区)から出馬したが、13位で落選[要出典]。その数日後に弟子に対し「この世はもはや救えない、これからは武力で行く」と述べる[要出典]。直後よりボツリヌス菌製造を開始する[要出典]。

2010年(平成22年)オウム真理教元幹部の上祐史浩は、2010年12月3日号の『FRIDAY』誌での対談において「麻原は人の心を読む感受性は鋭く、超能力のようなものは確かにあったが、能力と人格が一致しない人物だった。麻原の根源は、逆恨みと被害妄想。弱視だった子供時代からの逆恨みを社会に広げた人物だ」と断言している[52]。

逮捕・裁判

オウム真理教事件」も参照

1995年(平成7年)5月16日(40歳)に山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)のオウム真理教の教団施設「第6サティアン」内で地下鉄サリン事件の首謀者として逮捕された[要出典]。

捜査本部は当初、「麻原は1階と2階の間の部屋に隠れている」という遠藤誠一の供述を元に該当箇所を捜索したが見つからず、第6サティアンの南側入り口1階から2階への階段天井部分に造られた隠し部屋(高さ約50cm、幅103cm、奥行き335cm)で、現金960万円の札束と寝袋を抱えて隠れていた所を発見した[53]。逮捕後警視庁への護送は、迅速かつ安全を考え当初警視庁が当時保有していた大型ヘリコプターで護送させる予定だったが、当日は悪天候のため飛べず、警察車両での護送に切り替えられた[要出典]。

最終的には13事件で27人殺人(裁判では殺人26人と逮捕監禁致死1人)の首謀者として起訴される[要出典]。1996年(平成8年)4月24日に東京地方裁判所で初公判が行われたが、僅か48席の一般傍聴席に対して、12,292人という、日本の刑事裁判史上最も多い傍聴希望者が東京地裁前に殺到した[54]。
弁護側は、事件は「村井元幹部を中心とした、弟子たちの暴走によるもので、松本自身は一切指示をしていない」と無罪を主張したが、2004年(平成16年)2月27日、東京地裁は「救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で一連の事件を起こした」と認定し、死刑判決を言い渡した[55]。

2006年(平成18年)9月15日、最高裁判所は特別抗告を棄却し、1審通り松本への死刑判決が確定した[56]。オウム真理教事件で死刑が確定するのは2人目。2015年現在、東京拘置所に収監されている。

2015年、東京地検で捜査を指揮した神垣清水は朝日新聞の取材に答え、地下鉄サリン事件から20年が経過し、オウム事件をリアルタイムで知らない世代も増えてきていることに絡み、麻原らの死刑が執行されれば事件がますます風化する可能性が高く、逆説的だがと断ってあえて執行を延ばし、風化に抗うことも選択肢ではないかと述べた[57]。

裁判

起訴された罪状

最後まで起訴されていた罪状
##男性信者殺害事件(殺人罪
##坂本堤弁護士一家殺害事件(殺人罪
##サリンプラント建設事件(殺人予備罪)
##薬剤師リンチ殺人事件(殺人罪・死体損壊罪)
##滝本弁護士サリン襲撃事件(殺人未遂罪)
##自動小銃密造事件(武器等製造法違反)
##松本サリン事件(殺人罪・殺人未遂罪)
##男性現役信者リンチ殺人事件(殺人罪・死体損壊罪)
##駐車場経営者VX襲撃事件(殺人未遂罪)
##会社員VX殺害事件(殺人罪
##被害者の会会長VX襲撃事件(殺人未遂罪)
##公証人役場事務長逮捕監禁致死事件(逮捕監禁致死罪)
##地下鉄サリン事件殺人罪・殺人未遂罪)

途中で取り下げられた罪状
##チオペンタール密造事件(薬事法違反)
##LSD密造事件(麻薬及び向精神薬取締法違反)
##覚醒剤密造事件(覚せい剤取締法違反)
##メスカリン密造事件(麻薬及び向精神薬取締法違反)

第1審

1審の初公判は当初は1995年(平成7年)10月26日に設定されたものの、麻原は初公判前日の10月25日に私選弁護人の横山昭二を解任[58]。裁判所は期日を取り消し、国選弁護団の選任に踏み切ったが、初公判は延期を余儀なくされた。1996年(平成8年)4月24日、1審の初公判(阿部文洋裁判長)が開かれた。日本テレビはこの時点から、「麻原-」から「松本-」と本名で報道するようになった。その後、民放全局・産経新聞中日新聞東京新聞)などを除くほとんどの新聞社も本名で報道するようになった。NHKは結審までは松本を芸能人として扱い、「麻原-」を使用していた。

裁判では初公判で阿部裁判長は「全世界がこの事件に注目している。判決は5年以内に出したい」と述べたが、弁護側が引き延ばし戦術を展開したため[要出典]に長期裁判の様相を見せ、一時は1審に30年はかかると言われた[注 4]。事件ごとの並行審理を提案したが、弁護団側が拒否したため、一事件ずつの審理となった。月4回の開廷ペースに反発し、審理をボイコットする騒ぎもあった。
また、弁護側は検察側が申請した被害調書や共犯者の供述調書などの1万5687点の証拠に対し1万5472点と約98.62%に不同意。そのために171人の検察側の証人を直接出廷させて証言させることになったが、検察側の尋問時間が計206時間であったのに対し、弁護側の尋問時間は1053時間 (検察側の5倍) に及んだ。また弁護士の証人尋問の内容も「職場のどのプリンターで印刷したものか(地下鉄サリン事件で、営団地下鉄の職員が、都内の地下鉄のダイヤの表について)」「サリンを見たことあるのか(サリン患者に関する医師のカルテについて)」と枝葉末節でチマチマと重箱の隅を突つくような尋問を浴びせ掛けて実質的な証拠調べが遅れる例が度々あった[59]。

検察側は長期裁判を避けるため、1997年(平成9年)12月に松本・地下鉄両サリン事件の重軽症者を約4000人から18人に減らす訴因変更を行い、2000年(平成12年)10月に被害者がいない薬物密造など4事件の起訴を取下げて案件を13事件に絞り込むなど、裁判の迅速化を余儀なくされた。被告人の麻原は公判では突如英語を話したり、居眠りをするなどの異常行動が目立ち、しばしば裁判長から注意や退廷命令を受けた。当初は起訴案件の罪状認否に関しては留保したが、1997年(平成9年)4月に保留していた罪状認否について、起訴された17事件のうち16事件で無罪を主張した(駐車場経営者VX襲撃事件のみ留保)。

2003年(平成15年)4月、1審の検察の論告で「わが国の犯罪史上最も凶悪な犯罪者」と指弾して死刑を求刑[60][61]。同年10月31日、弁護側が「一連の事件は弟子たちの暴走であり被告は無罪」旨の最終弁論を行い結審。地裁の公判回数は257回となり第1審の判決まで7年10カ月を要した。2004年(平成16年)2月27日、一連の事件を首謀したと認定して東京地方裁判所小川正持裁判長)は求刑通り死刑判決を言渡した。これに対し弁護側は東京高等裁判所に即日控訴した。

控訴審

1審を担当した国選弁護団は終了後に全員が辞任。12人の国選弁護人に支払われた弁護士報酬は計4億5200万円になった[62]。松井武と仙台在住の松下明夫の2人の弁護団が後を引き継いだ。東京高等裁判所控訴趣意書の提出期限を2005年(平成17年)1月11日と定めた[63]。弁護団は1審判決後、松本に計36回接見したものの、弁護団の問いかけに無反応で意味不明な声を漏らし意思疎通が不可能であるとして、公判停止を申し立てた[64]。一方、高裁の須田賢裁判長は2004年12月10日に松本と面会し、「控訴趣意書は弁護士に作ってもらってもよい」「提出期限を延ばすつもりはなく、棄却もありえる」と説明した[65]。

2005年(平成17年)1月6日、東京高裁は松本の精神鑑定を求める特別抗告を棄却しつつ、控訴趣意書の提出期限を同年8月31日まで延長することを決めた[66]。

同年8月19日、高裁は弁護団に対して精神鑑定の実施を伝えた[67]。弁護団によれば、このとき高裁は「鑑定形式による鑑定人の意見が出るまでは控訴棄却はしない」と明言したとされる[68]。提出期限の8月31日、弁護側は控訴趣意書の「骨子」を持参したが、高裁の鑑定への立ち会いや公開法廷での鑑定人尋問などに関する申し入れが拒否されたことを理由に提出を拒んだ[68]。9月3日、高裁は控訴趣意書を「直ちに提出することを強く求める」文書を弁護団に送付した[69]。2005年(平成17年)9月、東京高裁は麻原被告の精神鑑定を西山詮に依頼した[70]。

2004年(平成16年)10月以降、弁護団は独自に精神科医に依頼して鑑定を実施した[71]。中島節夫・中谷陽二・野田正彰・秋元波留夫・加賀乙彦など、計7人の精神科医はいずれも訴訟能力を否定または疑問視している[72][73][74]。一方、高裁の依頼を受けて鑑定を行った西山は「拘禁反応はあるが拘禁精神病の水準には達しておらず訴訟を続ける能力を失っていない」とし、高裁は2006年2月にこの鑑定書を受けとった[70]。

高裁はこの鑑定書への反論意見書の提出を2006年3月15日までとした[75]。弁護側は提出期限の1ヶ月延長を高裁に申し立てたが[76]、認められず[77]、結局期日通りに意見書を提出した[78]。

2006年(平成18年)弁護団は3月28日に控訴趣意書を提出することを表明していたが、東京高裁はその前日の3月27日に控訴棄却を決定した[70]。この控訴棄却の決定は、控訴審の審理が結審した後に下される控訴棄却の判決とは異なり、控訴趣意書が正当な理由なく期限までに提出されなかったため、刑事訴訟法の規定に従って、控訴審を開始せずに裁判を打ち切るという決定である。

弁護団はこの決定に対し、2006年(平成18年)3月30日に東京高等裁判所(白木勇裁判長)へ異議申立てを行ったが同年5月棄却が決定された[79]。「裁判所は『精神鑑定の意見が出るまでに提出すれば認める』と明言した」とする弁護団の主張については、「裁判所はその日のうちに見解を訂正した」として退けた[79]。

特別抗告

弁護側は最高裁判所へ特別抗告を行った。最高裁では死刑判決の是非ではなく、被告人の訴訟能力の有無、弁護側の控訴趣意書の提出遅れが「やむを得ない事情」に該当するかの有無、提出遅れという弁護活動の不備による不利益を被告に負わせることの可否の3点が争われた。同年9月15日に最高裁堀籠幸男裁判長)は特別抗告を棄却し、松本への死刑判決が確定した[80]。27人殺人(司法の認定としては26人殺人と1人逮捕監禁致死)は死刑囚としては戦後最悪の数字である[注 5]。

また東京高裁は2006年(平成18年)9月25日に控訴趣意書の提出遅延に関して、日弁連に対し「審理の進行を妨げた」として、刑事訴訟法に基づく処置請求を行い、担当した弁護士2人の処分を求めたが、日弁連は訴訟終結後は処置請求はできないと判断した。2008年(平成20年)9月に弁護士1人に戒告の懲戒処分が、2009年(平成21年)7月27日に弁護士1人に業務停止1カ月の懲戒処分が出た(ただし、日弁連に対する審査請求の結果、処分は戒告に変更された)。

再審請求

1度目の再審請求
##2008年(平成20年)11月に遠藤誠一の供述を元に再審請求を行ったが、2009年(平成21年)3月に東京地裁が棄却、同年7月に東京高裁が抗告を棄却した。
##2010年(平成22年)9月13日に最高裁が特別抗告を棄却し、再審は認められなかった[81]。

2度目の再審請求
##2011年(平成23年)5月9日、2度目の再審請求も東京地裁が棄却した。同月16日にこれを不服として東京高裁に即時抗告した[82]。その後、東京高裁で請求を退けられ、最高裁へ特別抗告した。
##2013年5月10日、最高裁判所第1小法廷(裁判長:横田尤孝)は抗告を退け、再審を認めない決定を下した[83]。

訴訟能力、詐病

前述のように、麻原は1審から不規則な行動・発言を繰り返すようになり、2審では弁護士と意志疎通ができなくなっている(#奇行を参照)。このことから、2審弁護団は訴訟能力は無いと主張し、b:刑事訴訟法第314条による公判停止を求めていた[84]。また、b:刑事訴訟法第479条によると「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によって執行を停止する」とあり、ドキュメンタリー作家の森達也は麻原がその状態にあるのではないかとしている[85]。

訴訟能力があるか否か、または詐病であるか否かについて以下のように見解が分かれている。

訴訟能力はある、詐病であるとする見解
##検察は詐病の疑いが強いとして高裁に意見書を提出した。
##東京高等裁判所に精神鑑定を依頼された西山詮は「無言状態は偽痴呆性で、精神病の水準にない」とし訴訟能力はあると判断した[70][86]。 意思決定に偏りがあるのは不自然であり、黙秘で戦うのが松本の決心であると結論づけた[75]。
##東京高裁(須田賢裁判長)は控訴棄却決定書において、1審後に「なぜなんだ、ちくしょう」と大声を発したことなどから、法廷での態度は自ら装ったものであり、訴訟能力を欠いていないとした[87]。
##最高裁判所堀籠幸男裁判長)もまた、特別抗告棄却において、前述の「なぜなんだ、ちくしょう」と叫んだことに加え、脳波検査で異常がないことや西山の鑑定から訴訟能力はあると認定した[80]
##四女は面会時に詐病であることを確信した[88]。
##平田信は「詐病だと思う。そういうことをする人間だ」と話したとされる[89]。
##東北学院大学名誉教授の浅見定雄は「現実から逃避しているだけ」と評した[90]。
##滝本太郎弁護士は訴訟能力の鑑定はしたほうがいいとしつつも、「なんら訴訟能力に問題のないことが分るのだけれどね。」と断じ[91]、その後、精神状態について議論すること自体がナンセンスだとしつつ、「ウンチを壁に塗り付けるまではしていないのだから、統合失調症などにはなってないと思ってます」「ウンチって漏らすことに馴れると実は楽なのではと思います」と述べた[92]。
##ノンフィクション作家の高山文彦は、「正常」のひとつの表れ方としての「狂気」ではあるが異常とは思えず「異常」のふりをしているだけ、と評した[93]。

訴訟能力はない、詐病ではないとする見解
##控訴審の松井武弁護士は意思疎通できず、訴訟能力は無いとし、高裁に公判停止を求めていた。
##松本の二女、三女は2004年秋から2006年3月まで20回から30回あまり接見を重ねているが、呼びかけに反応したことはなく、拘禁による精神障害であるとして治療を訴えている[94]。また、西山の鑑定書について三女は「ウソばっかり」であるとした[94]。
##弁護団の依頼で接見した7人の精神科医は、いずれも訴訟能力を否定または疑問を呈している。ただし、正式な精神鑑定でなく接見時間が限られている点には注意が必要である。 ##元北里大学助教授の医師中島節夫は「器質性脳疾患の疑いが濃厚」とした[72]。
##弁護士に接見の依頼を受けた二人目の精神科医は「拘禁反応によって混迷状態にある」「訴訟能力はない」とした[72]。
##筑波大学教授の中谷陽二は「拘禁反応が慢性化・固定化している」可能性が高く、「訴訟能力は欠如している」とした[72]。
##関西学院大学教授の野田正彰は、公判当初には訴訟能力に問題はなかったが、その後意志能力が消失したと考え、治療によって軽快ないし治癒する可能性が高いとした[95][72]。
##金沢大学名誉教授の秋元波留夫もまた訴訟能力を否定し、西山の鑑定に対し「水準とは何かが不明。偽痴呆性との診断は症状と矛盾し、根拠がない」「科学者のとるべき態度ではない」などと批判した[86][72]。
##作家で精神科医の加賀乙彦は、拘禁反応の状態を示しており言語による意思の疎通は不可能で訴訟能力はないとし、西山の鑑定は「被告の空想虚言症を見落としているうえ、医学用語の使用にも誤りがある。到底信頼できない」とした[96][97][72]。また、環境を変えたり投薬によって治る可能性があるとし、一方で精神状態が変動していることから精神病ではないと説明した[98]。
##精神科医の斎藤学は「痴呆に似ているが断定できない」としつつ、治療可能性があると印象を語った[99]。また自身のブログにおいて接見の様子を報告している[100]

##死刑判決のみを傍聴した森達也は、主観であるとしつつ「壊れている」ように見えたと感想を述べている[101][102]。

子供

麻原には12人の子供がいる[103]。うち妻の松本知子の子は6人である。ここでは、知子の子供である6人を述べる。

長女1978年(昭和53年)生まれ。ホーリーネームはドゥルガー。教団での地位は正悟師。省庁制の際には流通監視省大臣であった。

次女1981年(昭和56年)生まれ。ホーリーネームはカーリー。
2000年(平成12年)1月に長男を連れ去ろうとした事件で2月19日に逮捕され、保護観察処分となった[注 6]。その後も長男達の住んでいる龍ケ崎市に在る住居に時々遊びに来ていたという。

三女:麗華(りか)1983年(昭和58年)4月生まれ。教団での地位は麻原に次ぐ正大師でホーリーネームはアーチャリー。家庭教師は石川公一。省庁制の際には法皇官房長官であった。2000年(平成12年)1月に長男を連れ去ろうとした事件で2月19日に逮捕され、保護観察処分となった。2004年(平成16年)3月に合格した和光大学から入学拒否されたとして提訴し、東京地裁は「入学拒否は違法」と認定、和光大学に30万円の慰謝料支払を命じた。2013年(平成25年)7月からブログを立ち上げ、麻原を案ずる文面をつづっている[105][106]。
2015年3月19日、NNN系列の報道番組『NEWS ZERO』のインタビューで出演。初めて松本麗華という実名で登場する。2015年3月20日、地下鉄サリン事件から20年目の日に松本麗華名義で手記『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社、ISBN 978-4062194808)を上梓[107]。ニコニコ生放送に出演して田原総一朗と対談した[108]。

四女1989年(平成元年)生まれ。龍ケ崎市に転居した時は、市の方針でその市の学校の転入拒否[注 7]で2人の弟共々学校にも通えなかったという[104]。協力者達のお陰で何とか学校に通えるようになったものの、学生時代はいじめに遭い、中学の校長からは「父親の所行を考慮すれば貴方は死んでも仕方のない人間だ」と評された[109]。
2003年(平成15年)に教団との関係を保つ家族のあり方に疑問を抱き、後見人となった江川紹子の下に身を寄せる(後に江川は後見人を辞任している)。

麻原に死刑判決が下る2004年(平成16年)までは地下鉄サリン事件の詳細を知らず、自らインターネットや書籍を調べて自分に対する世間の冷たい視線の背景に初めて気付いた[110]。その後はオウムや一家と絶縁し、自殺未遂を繰り返す。ネットカフェ難民やホームレスのような生活をしながらも贖罪の道を模索している。

2010年(平成22年)、ペンネーム「松本聡香」名義で著書『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』(徳間書店、ISBN 978-4198627539)を刊行。ひかりの輪はこの著書に誤りが含まれているとしている[111]。2014年(平成26年)のインタビューにおいても、自殺未遂が続いていることを明かし、「死にたいというよりも死ななくてはいけない」「オウム事件について知ってからは、幸せとか喜びを感じるたびに、オウム真理教は普通の人のそういう喜びを奪ってしまったのだなと感じざるをえない」と語った[105]。

三女の松本麗華に対しては、2015年3月20日に放送されたFNN系列の報道番組でのインタビューの中で、「姉は被害者に対して謝罪していない」「本の内容はでたらめで私の知っている真実とは異なる」と述べ非難している。長男1992年(平成4年)生まれ。教団から皇子の称号を与えられた。1996年(平成8年)6月に教団の教祖となる。四女と次男同様学校に籍を置くことが許されず、ほとんど学校に通わせて貰えなかったという。

姉や弟共々晴れて2001年(平成13年)4月から正式に学校に通うことになったが、始業式の日はテレビ局や新聞記者等が駆け寄ったため、協力者が追い払うことになった[104]。学校生活では、次男同様友達は出来たようである[104]。2014年10月24日、Alephに対し、名誉棄損による損害賠償4000万円の請求、ならびに写真と名前の無断使用の禁止を求める提訴を東京地裁に起こす。訴状ではAlephと密接な関係にあり、教祖になるかのように扱われ大きな精神的苦痛を受けたとした[112][113]。

次男1994年(平成6年)生まれ。教団から皇子の称号を与えられた。1996年(平成8年)6月に教団の教祖となる。小学1年生は1学期しか登校しておらず、その後は龍ケ崎市に引越し四女と長男同様学校に通えなかったが、協力者のお陰で学校に通うことが出来た。しかし、約8か月も学校に通えていない時期が続いていたため、小学2年生から学校生活を正式にスタートした[104]。
2004年(平成16年)秋、拘置所で麻原被告と対面し「会えてうれしいです」と声をかけたが、返事はなかった[114]。2006年(平成18年)に春日部共栄中学校に合格したものの、「麻原の息子」だという理由で入学を拒否された[115]。次男らは、憲法で禁止された不当な差別によって精神的苦痛を受けたとして、共栄中学校に損害賠償を求める訴えを起こした[114]。


書籍

1990年代前半に多くの著書を出し、ベストセラーになった。中でも『キリスト宣言』は1991年(平成3年)11月の全国月間ベストセラーランキングで3位を記録した。『麻原彰晃の世界パート13・これが尊師!(ISBN 978-4-87142-021-1)』は1992年(平成4年)2月の全国月間ベストセラーランキングで4位を記録し、以後5月までベストセラーのトップテンにランクインし続けた(ランキングは日経産業新聞に掲載されていたトーハン・日販調べによるもの)。

詳細は「オウム真理教の出版物」を参照

発言・思想・質疑応答
##(動物たちはどうやって救われるのか?)動物はカルマがあって動物になっているわけだから、カルマが解き放たれたとき、つまり死が救済だ。人間に生まれ変わることは救済にはならない。人間界自体が非常に低い世界だから[48]。
##(人間の転生については?)現代人は、地獄か餓鬼、動物に生まれ変わると思って間違いない。なぜなら殺生をする、盗みをする、邪淫をする、嘘をつく、酒は飲む。これはもう救済の方法がないと考えたほうがいい[48]。
##(共産主義は必要ないか?)貧富の差は必要だ。なぜかというと、貧富の差こそカルマだからだ。豊かな人が貧者に功徳を積むのは当然だし、それがその者たちのカルマを浄化する。私は共産主義が好きか嫌いかは言わない。共産主義によいところがあれば学べばいい。しかし、共産主義は完璧ではない。いや、共産主義社会ははもうすぐつぶれる。あと20年か、30年でつぶれると思う。(資本主義が最高と考えるか?)いえ、資本主義が最高とも考えない。功徳による政治が最高と考える[48]。
##1995年3月22日の強制捜査後に公開された手記の中で「マハーポーシャブランドのコンピューターは個人ユーザーの間では1、2を争う売り上げをなしている」とし、コンピューター雑誌『DOS/V FAN』の創刊号アンケートで3位になったことを根拠に「IBMに次ぐ大企業に発展」としていた[116]。
##空中浮揚で高さ40センチメートル飛んだことがあると自称していた[要出典]。3秒間の滞空時間があったともされる。
##1987年、「麻原の前世が古代エジプトのイムホテップ王であった」ということから、同人が埋葬されているピラミッドの視察目的でエジプトツアーを行った[117]。後に麻原は自著において「ピラミッドはポアの装置だ」と述べた[117]。
##1992年11月12日、釈迦が悟りを開く瞑想に入った最高の聖地であるインド・ブッダガヤの大菩提寺にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた[118]。

マスメディア関連
##衆院選出馬していた時、女性記者から「もしも、麻原さんが総理大臣になった場合、日本の国民の全員がオウム真理教に入信しなければならないのか」と尋ねられ、麻原は高笑いをし「信仰というものは個人が好きな宗教を選べばよいと思うので、そういうことはない」と断言した[119][1]。
##日本テレビとんねるずの生でダラダラいかせて!!』内のコーナー「麻原彰晃の青春人生相談」で、女性視聴者からの「尊師は髪を洗う時にリンスは使っているんですか?」という質問に対して「リンスは使っていません。シャンプーはベビーシャンプーを使っています」と笑顔で返答した[120]。
##『おはよう!ナイスデイ』(フジテレビ)に出演した際[いつ?]、被害者の会と口論となり、「あなた方がやっていることは宗教弾圧じゃないですか! 完全に!」と激怒。被害者の会の一人の「あなたがたはヤクザですか?」との反論に対して「あなたたちがこのマスメディアを使って宗教弾圧をしていることはまちがいないでしょう?」と答えた。
##タイム誌の1995年4月3日号において、カバーパーソンとなった[121]。これは日本人としては1987年8月31日号の岡政偉以来、約7年半振りである[122]。
##1995年5月にTBSで放送された『報道特集』におけるオウム真理教のドキュメンタリーで、関係のないシーンで30分の1秒単位という知覚できない速度で急に麻原の顔写真やキリスト教の裏切り者をあらわすイスカリオテのユダのサブリミナルカットが何度も放映された[123]。その後、TBSは郵政省による事情聴取ののち厳重注意を受けた[124]。
##よみうりテレビサンライズが製作したアニメ『シティーハンター3』第11話(1989年12月24日放送)の中で麻原の画像のカットが使用され[125]、後年問題になった[要出典]。

女性関係
##結婚した松本知子のほかにも、石井久子[126]、タントラギーター[127]、スメーダー[128]、イシュタ・ヴァジリニー[129]、マハームドラー・ダーキニー[130]の愛人がいた。四女の著書によれば、教団内に愛人は約100人おり、夜毎尊師の部屋には彼女たちが入れ替わり立ち代り呼ばれたが、その際には妻である松本知子は部屋の前で落ち着きなくうろうろしていた。なお、女性信者を誘う際「今度、特別なイニシエーションがあるから」と称していた[131]。

好きな有名人
##秋吉久美子[132]、あべ静江[133]、西城秀樹[134]のファンだった。また、前世では宮沢りえと夫婦だったとも語った。
##石原慎太郎を尊敬する。理由は、知的、スマート(頭がいい)なところで、こういう人が日本のトップに立つと面白いと語る。

嗜好
##実家は貧しかったが、父が旧金剛村で最初にテレビを購入しており、子供のころ、そのテレビで『あんみつ姫』や『8マン』をよく観ていたという[135]。
##盲学校中学部・高等部時代に、他の寄宿生らを集め西城秀樹尾崎紀世彦の歌を歌う「松本智津夫ショー」を何度も開催していた[26]。空き缶をマイクの代わりにして西城秀樹の当時のヒット曲「傷だらけのローラ」を歌ったこともある[26]。校内で結成したバンドでもボーカルを務め、西城の「情熱の嵐」を十八番としていた[136]。
##専攻科時代、運動会の応援団長を務めることになった松本は、運動会当日モヒカン頭の出立ちで現れ周囲を驚かせた[137]。
##若いころ極真会館に入門したが、すぐ辞めてしまった。入門当時は、極真会館総本部三代目師範代であった真樹日佐夫がよく稽古をつけていた[138]。
##「今のままだと、来世は巨人軍のエースだ」と自称していた[139]。
##逮捕前、メロンとパーコー麺とステーキを好んで食べていたという[要出典]。しかし、本人は「私が好きなのはバナナなのに」と主任弁護人に伝えていた。留置所では、家族から弁当の差し入れを毎日もらっていたが「今日の弁当は鮭が小さかった」と残念がる時もあった[要出典]。
##日本航空に搭乗を拒否されたため、海外移動の際には全日空アエロフロートへ搭乗していた。なお、全日空に搭乗する際はファーストクラスを貸し切りにすることが多かった[140]が、専用の椅子を持ち込もうとして拒否されたこともある。

逮捕後
##1審の初公判で裁判長に「(本名は)『松本智津夫』ではないのですか」と尋ねられたとき「『松本智津夫』という名前は捨てました。(今の名前は)『麻原彰晃』です」と述べた。
##1審で死刑判決を受けたとき「何故なんだ! ちくしょう!」と叫んだ。このことは裁判所による控訴棄却決定要旨にも記述されている。精神鑑定で正常と判断された根拠の1つに、腕を捻って「痛い!」と言ったことが挙げられる[注 8]。
##東京拘置所そばの建造物(高速道路の柱)から超望遠レンズを付けたカメラにより、車椅子に乗った麻原の姿が撮影され、1996年(平成8年)4月25日号の週刊文春に掲載されている[141](当時、東京拘置所の塀の一部が工事のため内部が見えていた。これに気づいた宮嶋茂樹は同僚と協力し撮影に成功した。週刊誌に掲載後、工事されていた塀はさらに嵩上げされ、撮影場所の建築物付近の警戒が厳しくなっており、近づいたら警察が駆けつけるようになっている)。

視力
##「視力が無い」と自称していたが、他のオウム関連の裁判に証人として出廷した際、宣誓書を弁護士の言う通りに比較的短時間で書き上げた。裁判長も一瞬で麻原の書いた宣誓書を判読できたため、視力障害者特有の文字の重なりなどはなかったと思われる。また、「目が見えない」のに宮沢りえのヌード写真集を持っていたとの報道もあり、視力に関しては非常に疑わしいと言える[注 9][142]。
##取調べの際も目が見えないことを強調し、それを理由に供述調書へのサインを拒むなどしていたが、その一方で「刑事さんは竜雷太みたいでカッコイイですね」や「刑事さん、太陽にほえろのボスみたいですね」と語ったり、的確に障害物を避けるなどをしている[注 9]。
##1982年に無許可製造医薬品販売の容疑で麻原を取り調べた刑事は「事件後に実は目が見えているとか、そんな報道がずいぶんありましたよね。だけど、あのころからやっぱりほとんど見えていなかったね。どっちだっけな。片方は0・06だったね。もうひとつはほとんど見えていなかったよ。」と語っている。また「警察の取調べで刑事に盛んに媚びていたという情報がありました。刑事さんは石原裕次郎に似ていますねとか何とか言ったとか」という質問に対して「媚びはしないね。そういうタイプじゃない。どちらかといえば寡黙でしたよ」と否定している[143]。

奇行
裁判中の奇行##他の証人が証言している最中に英語でつぶやいたり、突然大声を発することもあった[144]。英文法的には間違いが目立っていたが、単語は難易度の高いものを使っていた。さらに基本的な単語を度忘れした時、弁護人が教える場面も見られた。
##「このような話を本日、エンタープライズのような原子力空母の上で行なうのは、うれしいというか悲しいというか、複雑な気分であります」「第三次世界大戦が起きていますから」「今の名前はない。ブラックホールを背負っている」など意味不明な発言[145][146][147]。
##宣誓を拒むなどして何度か退廷させられた[147]。
##居眠りなど、審理に関心を示さない[148]。
##森達也はある司法記者から、しばしば午前と午後で松本のズボンが替わっており、失禁しているらしいと伝え聞いた[149]。
拘置所での奇行##拘置所の運動場では、「甲子園の優勝投手だ。大リーグボール3号だ」と発言した[要出典]。
##獄中で糞尿を垂れ流すため、おむつを使用していると報じられている。風呂に自力で入れないので看守等に洗われるわけであるが、体に付着した大便のせいで風呂場は汚物まみれの極めて不衛生な状態とまでなるとのこと。掃除の際は飛び散った大便を長靴で踏んで排水口に流せるほど細かくして流し、クレンザーで殺菌するらしい[150]。
##獄中での食事は、他の受刑者がその日の献立による普通の食事であるのに対し、麻原の場合は同じ献立の食事のメニューを全て1つの食器に入れて、それを食べさせているという。食事に使う食器はスプーンで、このスプーンは澱粉製である[注 10]。
##控訴審の弁護人である松井武によると、麻原は東京拘置所における松井との接見の最中に服の上から股間を擦り、さらに陰茎を露出させて自慰行為をおこない、射精に至ったという[151]。自分の娘たちとの接見でも自慰行為を行ったことがあった[152]。2005年8月、3人の娘と面会の際には麻原はせわしなく動かしていた手を止めると、スウェットパンツの中から性器を取り出すと自慰行為を始めた。3人の娘たちが沈黙している不自然な空気を感じ取った看守が気付き「やめなさい!」と制止したものの、3回ほど繰り返した。3人の娘たちは絶句したまま呆然と父の自慰を見つめたまま接見時間の30分が過ぎた[88]。
このような奇行について、詐病であるか否かで見解が分かれている(#訴訟能力、詐病)。

1.^ 松本が高等部1年時の1970年(昭和45年)9月1日には、現住所の熊本市東区東町に校舎が移転している[16][15]。
2.^ BMAは「ブッダ・メシア・アソシエーション」の略[42]。高山文彦はこの名称について、宗教団体のGLA(ゴッド・ライト・アソシエーション)に倣ったものではないかと推測している[41]。
3.^ この時麻原は、長兄に対し「教祖になってくれないか」と依頼している[46]。
4.^ 元連合赤軍幹部で、印旛沼事件・山岳ベース事件・あさま山荘事件に関与した坂口弘は17人の殺人で起訴され、結審まで21年を要した。
5.^ それまでは1993年(平成5年)2月に確定した連合赤軍事件の坂口弘の17人殺人(司法の認定としては16人殺人と1人傷害致死)が最悪であった。
6.^ 逮捕理由は教団施設への「住居侵入」であるが、それは教団の実態は酷いと感じた次女が、長男を教団から救出・保護するための手段であったという[104]。
7.^ この要因は龍ケ崎市の転入拒否で市の戸籍を作って貰えなかったことが大きい。
8.^ ただし、麻原以外の精神障害者でもこのようなことをされれば痛みを訴えることはある。
9.^ a b ただし、麻原は隻眼ではあるが、視力が全く無いわけでは無い。また、視力を失ってはいても、他の感覚(聴覚や触覚等)でそれを補う人も居るのは事実なため、麻原もその1人だと言える。
10.^ これは誤ってスプーンを食べてしまっても大丈夫なようにとの拘置所側からの配慮である。

出典

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3.^ 八代郡金剛村は1954年4月1日に八代市に編入され、智津夫の出生時には消滅していた。
4.^ a b 東京キララ社 2003, p. 9.
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10.^ a b c NCC宗教研究所、富坂キリスト教センター『オウムからの問い、オウムへの問い』新教出版社、2004年2月27日。
11.^ 当該記事前半 当該記事後半
12.^ 高山 2006, p. 20.
13.^ 高山 2006, p. 22.
14.^ 高山 2006, p. 25.
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55.^ オウム松本被告に死刑判決、犯行指示認定 弁護団は控訴
56.^ オウム・松本被告、死刑が確定…特別抗告を棄却
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60.^ 「史上最も凶悪な犯罪者」 松本被告に死刑求刑
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114.^ a b “私立中を賠償提訴へ 入学拒否の松本被告次男”. 朝日新聞 朝刊 (朝日新聞社): p. 33. (2006年4月7日)
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120.^ 麻原尊師 生でダラダラいかせて出演
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138.^ JNN報道特集より。
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142.^ 青沼陽一郎『オウム裁判傍笑記』新潮社、2004年2月
143.^ pp.308,311森達也『A3』集英社インターナショナル、2010年11月
144.^ “[オウム裁判]松本智津夫被告・第35回公判 「教祖の法廷」全記録(その2止)”. 毎日新聞 東京朝刊 (毎日新聞社): p. 17. (1997年4月26日)
145.^ “[オウム裁判]松本智津夫被告・第34回公判 「教祖の法廷」全記録(その3止)”. 毎日新聞 東京朝刊 (毎日新聞社): p. 13
146.^ “麻原彰晃こと松本智津夫被告の罪状認否 97年4月24日”. カナリヤの会. 2013年7月5日閲覧。
147.^ a b “麻原被告また退廷”. 東京新聞 夕刊 (中日新聞社): p. 10. (2000年4月28日)
148.^ “麻原被告公判、きょうで丸3年 長期化避けられず 松本サリンで遠藤被告「麻原被告が指示」”. 中日新聞 朝刊 (中日新聞社): p. 33. (1999年4月24日)
149.^ 森 2012, p. 16.
150.^ 麻原控訴審弁護人編『獄中で見た麻原彰晃インパクト出版会、2006年。
151.^ 麻原控訴審弁護人編『獄中で見た麻原彰晃インパクト出版会、2006年、p.101
152.^ 「独占手記『麻原彰晃四女』獄中の父が『詐病』と悟った瞬間」『週刊新潮』2008年2月7日号

参考文献
##高山文彦麻原彰晃の誕生』 文藝春秋〈文春新書〉、2006年2月。ISBN 978-4166604920。
##森達也 『A3 上』 集英社集英社文庫〉、2012年12月。ISBN 978-4-08-745015-6。
##東京キララ社編集部 『オウム真理教大辞典』 三一書房、2003年11月。ISBN 978-4380032097。
 
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上野動物園黒豹脱走事件

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上野動物園クロヒョウ脱走事件(うえのどうぶつえんクロヒョウだっそうじけん)は、1936年(昭和11年)7月25日早朝、恩賜上野動物園で飼育されていたクロヒョウのメス1頭が脱走した事件である[1][2][3]。脱走したクロヒョウは約12時間半後に捕獲され、特段の被害もなかった[1]。この事件は当時の人々に大きな衝撃を与え、同年に発生した「阿部定事件」、「二・二六事件」と並んで「昭和11年の三大事件」と評された[1][2][3] 。なお、第2次世界大戦中に実施された上野動物園での戦時猛獣処分はこの事件の影響があったといわれる[4][5]。

経緯[編集]
事件の発生[編集]
事件の「主役」となったクロヒョウのメスは、シャム(後のタイ王国)で捕獲された野生の個体であった[1][3][6]。このクロヒョウはシャムを経済使節として訪問した実業家の安川雄之助を通して贈られたもので、1936年(昭和11年)5月18日に川崎から陸揚げした後、上野動物園にトラックで運搬したものであった[1][5][6]。クロヒョウは体長が4尺5寸(約1.364メートル)、体重14貫(約52.5キログラム)、年齢6歳といい、上野動物園の猛獣舎に収容されることになった[1][2][3][6]。捕獲されてすぐに贈られてきたためにクロヒョウは環境にも人間にも馴染まず、寝室内の暗い隅にいることが多くて運動場にさえなかなか出ようとしなかった[1][2][3]。

7月になると暑さが厳しくなり、クロヒョウは事件発生の10日前あたりから食欲不振となった[3][6]。事件前日の7月24日、上野動物園主任技師を務めていた古賀忠道と飼育担当者は、クロヒョウの体調を気遣って夜間なら運動場に出るのではとの配慮から、その日初めて寝室と運動場の仕切り戸を開放したままにしておいた[注釈 1][1][2][3][6]。飼育担当者は、その日の宿直当番になっていた[3]。深夜の午前2時に巡回したときには、特段の異常を認めなかった。翌日の早朝、午前5時過ぎに飼育担当者が巡回した際、クロヒョウは姿を消していた[1]。この事態を受けて直ちに職員約100人を動員しての捜索が行われたがクロヒョウの発見には至らず、動物園は臨時休園となった[1][6]。

上野動物園は、上野警察署と上野憲兵分隊クロヒョウ脱走を通報した[1]。警視庁からは「新選組」という異名で呼ばれていた特別警備隊が出動し、赤羽にあった第一軍用犬養成所[注釈 2][4][7]と日本犬保存会からもそれぞれ2頭の犬が捜索用に駆り出された[1][4][6]。捜索は猟友会の鉄砲組や警防団なども加えて、総勢700人余りが参加する大規模なものとなり、「戊辰戦争彰義隊以来の大騒動」と評されるほどの騒ぎとなった[1][6]。

上野公園への一般市民の立ち入りは禁止され、厳戒態勢の中で捜索が続けられた[6]。やがて、動物園と美術学校(後の東京芸術大学)の境界にある千川上水が開渠部分から暗渠部へと入っていく入り口付近で、クロヒョウの足跡と思われるものが発見された[1]。捜索は上野公園内の暗渠部分に焦点が絞られ、公園内にあるマンホールの蓋を1つずつ開ける作業が始まった[1]。

同日午後2時35分になって、上野公園の職員が東京府美術館(後の東京都美術館)と当時の公園事務所があった二本杉原という場所の間の小道にあるマンホールの下で、暗がりに光るクロヒョウの目を見つけた[注釈 3][1][3]。この知らせを受けて、捕獲作戦が実行された。クロヒョウが暗渠の先に逃げないように、次のマンホールの下を障害物で塞いで退路を断った。暗渠の大きさに合わせて板の盾を作り、トコロテンを押し出す要領で暗渠内のクロヒョウを追い詰める計画を立てた[1][3]。盾の中央部には穴をあけて、その穴に重油のたいまつを差し込んでクロヒョウを追い詰めるとともに煙でいぶし出すという作戦であった[1][3]。この盾を押す役を受け持ったのは、上野動物園のボイラー係を務めていた原田国太郎であった。7月26日付の読売新聞記事は、原田は横須賀の重砲隊にいた頃に手に負えない荒馬を乗り鎮めて癖馬矯正大会で1等賞を獲得した経験があり、谷中地区の草相撲で大関を張っていると紹介している[1][3][注釈 4]。

クロヒョウが発見されたマンホールの入り口は、蓋を外して代わりに檻を設置し、さらにその上を網で覆った[1][3]。原田は足跡が見つかった暗渠部の入り口から暗渠内に入り込み、盾を押しながら奥へと進んでいった。逃げ場を失った上に煙でいぶされたクロヒョウは、ついにマンホールから飛び出し、午後5時35分に捕獲された[1][3]。脱走発覚から捕獲まで約12時間半が経過し、クロヒョウも人間側にも全く被害は出なかった[1][3]。

クロヒョウ脱走の原因[編集]
『動物園の昭和史』の著者、秋山正美は当時小学校1年生で、このクロヒョウを観るために芝大門の自宅から何度も上野動物園に通っていた[8]。秋山によると、最初の数回は鉄柵の外に「クロヒョウ」と記された札が出ていたにもかかわらず、クロヒョウ自体はどこにも見当たらなかったという[8]。秋山は諦めずに上野動物園通いを続け、運動場から別の檻への出入り口の奥にクロヒョウの臀部が少し見え隠れしているのに気づき、存在を確かめることができた[8]。

後にクロヒョウがたまたま姿を現したとき、秋山もその場に居合わせた[8]。クロヒョウはコンクリート製の岩石の上に這い上がって行き、そこでほとんど動かなくなった。秋山がなおも見守っていると、檻の天井にあたる高所まで登っていき、宙吊りのような姿勢でまた動かなくなっていた[8]。秋山はこのことについて、『いまになって振り返れば、クロヒョウが高いところへ行きたがることに、飼育係は、もう少し早く注目すべきであったろう』と指摘している[8]。

上野動物園の猛獣舎に付属している運動場は屋外に設置された檻であるため、陽射しを遮る屋根がなかった[8]。屋根の代わりに放射状に伸びた鉄棒が組み合わされていて、運動場の上を天井のようにすっぽりと覆う形になっていた[8]。しかし、天井代わりの鉄棒と鉄棒の間に、わずかながら幅の広いところと狭いところができていて、1カ所のみクロヒョウの頭部が入り込める程度のすきまがあった[1][8][6]。その部分には、真っ黒な毛が数カ所にこびりついていて、クロヒョウはここから脱走したものと判明した[2][8]。また、後には天井部の鉄棒については、檻の外周に使われている鉄棒よりやや細かったこともわかっている[8][6]。

事件への反応[編集]
翌日(7月26日)の新聞各紙は、この事件をこぞって取り上げた。読売新聞は社会面の見出しで、『大活劇!黒豹生捕りの巻 火責め水攻め苦心の末 現はれ出たる一勇士 金剛力トコロテン戦法に凱歌』と報じた[3]。東京日日新聞は、『黒豹脱走 帝都・真夏のスリル!』と題し、社会面のほとんどをこの事件報道に当てた[5]。東京朝日新聞は、『帝都の戦慄 上野動物園の黒豹けさ檻を破って脱出 新撰組二個中隊出動』と報じるなど、各紙の扱いはいずれも大きいものであった[1][3][5]。

上野動物園は、同じ7月26日の新聞紙面に謝罪広告を掲載した。その文面は次のようなものであった。

謹謝

昨廿五日早朝上野動物園飼育の黒豹(雌)一頭脱出し市民各位に多大の御憂慮相懸け候段洵に恐縮に存上候 黒豹は園内暗渠内に潜伏し居るを発見致し同日午後五時卅五分無事捕獲収檻致候間何卒御休心被下度此段御報告申上候也

東京市 上野恩賜公園動物園

市民各位[1][3][6]

この謝罪広告の他に、上野動物園は8月1日付の東京市公報においても謝罪文を掲載した[6]。謝罪文では今回の事件について謹謝の意を述べるとともに、事件に対する処置と今後の対策について万全の策をとる旨を記述している[6]。

作家の吉村昭は、事件発生当時小学校3年生だった[5]。吉村は上野動物園にほど近い日暮里で生まれ、当時もそこで暮らしていた[5]。事件の発生した7月25日は夏休みに入って初めての日曜日で、脱走の一報はたちまち町内に広まったという[5]。ラジオからはクロヒョウの獰猛さをしきりに強調し、十分に警戒するようにとの放送が繰り返し流されていた[5][9] 。そのため町内は大騒ぎになり、各町会では家の戸を固く閉ざして外には出るなと触れて回った。吉村も雨戸を固く閉めた家の中にいたものの、今にも戸を破ってクロヒョウが飛び込んでくるような予感に怯えていた[5]。

やがてクロヒョウ捕らわるという知らせが届き、吉村は外へ出た[5]。近所の人たちも、知らせを聞いて安堵した様子を見せていた[5]。ただし、吉村は長い間クロヒョウが日暮里から鶯谷方面への京成電車の高架線のくぼみに潜んでいたところを発見されて捕獲されたと思い込んでいた[5]。後年になって吉村は、当時の東京日日新聞を読み返して、自分の記憶違いに気づいた[5]。吉村はこの件について、『あらためて記憶というものが不確かなものであるのを感じた』と記述している[5]。

上野動物園に長年勤務していた澤田喜子は、少女時代に体験したこの事件の記憶を書き残している[注釈 5][9][10][2]。当時の澤田一家は、上野動物園のすぐ近所に住んでいた。事件当日の朝、彼女の父は通常なら開いている動物園の裏門が閉ざされていたことについて、「何か変だ」と話していた[2][9]。程なくして動物園の職員が家を訪ねてきてクロヒョウの脱走を知らされたため、町会長だった父は町内への連絡に忙殺された[2][9]。

時間の経過につれて警戒は大規模になっていった[9]。姉の1人が「今日は夕飯の支度を早めにして、暑くても雨戸を閉めなければ」と言う声に澤田が我に返ったとき、「クロヒョウ捕獲」の知らせが届いた[2][9]。夜になると、「上野動物園」と書かれた提灯を下げた動物園の職員が家を訪ねてきた。職員たちは深夜まで、町内の家々を回って今回の事件についての陳謝を伝えていた[2][9]。

『もう一つの上野動物園史』の著者、小森厚はこの事件について、『その時の思い出を尋ねると、ほとんどの人が、一週間も雨戸を締めたままで、怖い思いをしたと語るのである』と記述している[1]。実際には12時間半の脱走であった旨を説明しても、絶対にそんなことはないと主張する人もいたという[1]。小森は『これはこの事件が世間に与えた衝撃の大きさを如実に示すものといえよう』と続けている[1]。なお、クロヒョウ脱走事件は、同年に発生した「阿部定事件」、「二・二六事件」と並んで「昭和11年の三大事件」と評された[1][2][3]。

事件の収拾[編集]
クロヒョウ脱走事件からわずか5日後の7月30日、今度はシカの脱走事件が発生した[1][3]。このシカは同年1月に寄贈されたメスで、7月30日午前11時に寝室入り口から脱走して上野公園内を走り抜け、上野広小路の洋品店前までさしかかったところで群衆によって取り押さえられた[3]。上野動物園の飼育主任を務めていた福田三郎が山下交番でシカを引き取り、上野警察署まで運搬していったものの、その途上の午前11時40分にシカは心臓麻痺を起こして死んでしまった[3]。

連続する脱走事件の責任を取って、上野動物園の最高責任者である主任技師職を務めていた古賀忠道は進退伺を提出した[注釈 1][3]。古賀は免職にはならなかったものの、10月31日付で「市則第八十九条ニ依リ」過怠金5円の行政処分を受けた[2][3]。なお、当時古賀の年俸は1,800円であった[3]。飼育主任の福田は10月30日付で譴責処分を受け、シカの飼育担当者は11月15日付で「30日間日給20銭の減給」という行政処分を受けた[3]。動物の脱走事件で飼育担当者が行政処分を受けたのは、このときが初めてのことであった[注釈 6][3]。その一方で、クロヒョウ捕獲に活躍した原田国太郎には10月30日付で特別賞与金として5円が与えられた[1][2][3]。

保健局公園課長の井下清は、東京市長牛塚虎太郎宛の報告書を7月26日付で提出した[6]。その後、工費8,570円をかけて応急施設工事が実施された[6]。その内容は警報器設備一式、移動投光器3台、コンセント設備増設8カ所、錠前改造などであった[6]。猛獣舎については、金網が430平方メートルにわたって設置されている[6]。

その後[編集]
捕獲されたクロヒョウは、事件後約4年間生きた。クロヒョウが死んだのは、1940年5月12日のことであった[2]。その死因は、下あごにできた腫瘍であった[2]。

第2次世界大戦中に実施された上野動物園での戦時猛獣処分は、この事件の影響があったといわれる[4][5]。1943年(昭和18年)8月16日、当時の東京都長官大達茂雄は、上野動物園などに対して猛獣の殺処分を発令した[11]。これに従って上野動物園では、ゾウ、ライオン、トラ、クマ、ヒョウ、毒蛇などといった14種27頭の殺処分を行った[11]。吉村昭は処分の話を聞いてクロヒョウ脱走事件を思い出し、猛獣が空襲下に逃げだしたら大変だという説明になるほど、と思ったというが、ゾウたちが薬殺も注射殺もできず結局餓死させたという話にやり切れない思いをしたと記述している[5]。

第2次世界大戦後の上野動物園では、1967年(昭和42年)と1977年(昭和52年)にそれぞれインドゾウが飼育場から逃げ、2010年(平成22年)は1月と6月にニホンザルが逃走した[注釈 7][12]。上野動物園多摩動物公園では、1年交代で猛獣脱出対策訓練を実施している[12]。

脚注[編集]
注釈[編集]
1.^ a b 事件発生当時の上野動物園には「園長」という正式な職名はなく、古賀の肩書も「主任技師」であった。
2.^ 帝国軍用犬協会は日本警察犬協会の前身にあたる組織で、1932年(昭和7年)に設立され、1933年(昭和8年)、赤羽に第一軍用犬養成所を開設した。(養成所は後に武蔵境へ移転した)なお、帝国軍用犬協会は1945年(昭和20年)の終戦とともに消滅し、1947年(昭和22年)に日本警察犬協会として再出発している。
3.^ このマンホールがあった場所は、現在は東京都美術館の建物の下になっている。
4.^ 昭和11年7月26日の読売新聞記事では「國太郎」(上野動物園百年史 本編138ページ掲載)
5.^ 澤田喜子は1918年(大正7年)に東京市下谷区上野花園町(現、東京都台東区池之端)で生まれた。1940年(昭和15年)から1982年(昭和57年)まで、40年以上にわたって上野動物園の職員として勤務し、退職後に上野動物園での見聞や経験を回想録としてまとめた。2004年(平成16年)没。没後、生前に書き綴った回想録が『平和を考える わたしの見たかわいそうなゾウ』(今人舎刊)として2010年(平成22年)に刊行された。
6.^ 1928年(昭和3年)10月3日にはアカゲザル2頭が脱走し、そのうちの1頭は人家伝いに逃げ回って3日がかりでようやく捕獲することができた。1929年(昭和4年)9月12日には飼育舎内からは出なかったものの、巨大なニシキヘビが檻から脱出して騒ぎを起こしたこともあった。この2つの事件については、飼育担当者への処分は特段行われていなかった。
7.^ 東京都庁ウェブサイトでは触れられていないが、『上野動物園百年史 資料編』371頁-380頁には1954年(昭和29年)のニホンザル脱走、1972年(昭和47年)のハラジロウミワシ脱走(中学生1名軽傷)、1973年(昭和48年)のボンゴ脱走が記録されている。

参考文献[編集]
秋山正美 『動物園の昭和史 おじさん、なぜライオンを殺したの 戦火に葬られた動物たち』 データハウス、1995年。 ISBN 4-88718-303-8
小宮輝之 『物語 上野動物園の歴史』 中央公論新社中公新書〉、2010年。 ISBN 978-4-12-102063-5
小森厚 『もう一つの上野動物園史』 丸善ライブラリー、1997年。 ISBN 4-621-05236-5
澤田喜子 『平和を考える わたしの見たかわいそうなゾウ』 今人舎、2010年。 ISBN 978-4-901088-91-6
東京都恩賜上野動物園上野動物園百年史 本編』 東京都生活文化局広報部都民資料室、1982年。
東京都恩賜上野動物園上野動物園百年史 資料編』 東京都生活文化局広報部都民資料室、1982年。
吉村昭吉村昭自選作品集 別巻』 新潮社、1992年。 ISBN 4-10-645016-X

カテゴリ: 上野公園の歴史
1936年の日本

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上野動物園クロヒョウ脱走事件」の書誌情報

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。

日本の藩[編集]

日本史で言う藩は、江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構を指す歴史用語である[1]。江戸時代の儒学者が中国の制度になぞらえて用いた漢語的呼称に由来する。

用語[編集]

藩という呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかったためこれを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』等)。明治時代に初めて公称となり、一般に広く使用されるようになった。

元々は「藩」という語は、古代中国で天子である周の王によってある国に封建された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれになぞらえて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地を与えられた(と観念された)大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだことに由来する。あくまで江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無い。

当時の江戸幕府は、大名領は領分(りょうぶん)、大名に仕える者や大名領の支配組織は家中(かちゅう)などの呼称が用いられていた。いずれも、その前に大名の苗字もしくは拠点(城・陣屋所在地)とする地域名を冠して呼んだ。

今日の歴史学上では、大名領およびその領地の支配組織を藩、藩の領主である大名のことを藩主(はんしゅ)、大名の家臣のことを藩士(はんし)という事が多い。なお、同じく現代歴史用語として、藩に対して幕府の直轄領のことを天領(てんりょう)と呼ぶ事も多い。

しかし、江戸時代には、たとえば「仙台藩士」とはほとんど言わず、公的には松平陸奥守家来(伊達家は将軍家より松平姓を賜っていた)と称された。また「藩主」より、封地名に「侯」をつけて呼び現されることが多かった。例えば「仙台侯」、「尾張侯」、「姫路侯」といった具合である。

江戸時代[編集]

藩の内側は将軍と江戸幕府の権威・権力の枠の内側で一定の自立した政治・経済・社会のまとまりを持ち、小さな国家のように機能した。

藩は、守護大名が荘園を解体し、各農村に所領を持つ国人級の武士や、武士化した名主層(地侍)を被官化し、一円的領域支配を築いていったことに始まる。室町時代以前の武士の所領支配とは異なった新しい支配の形態である。戦国大名は領域の一円支配をさらに推し進める一方、家臣である配下の武士を城下町に集めて強い統制下に置く傾向が始まる。織田信長は取り立てた武士の所領を勢力・進展とともに次々に動かし、豊臣秀吉徳川家康ら服属した戦国大名を彼らの地盤である領国から鉢植え式に新領土に移封させたので、安土桃山時代に武士と百姓間の職業的・身分的な分離が進み、関ヶ原の戦いと江戸時代初期の大大名の盛んな加増・移封によって完成された。

藩士である武士を城下町に集めて軍人・官吏とし、彼らの支配のもとで城下町周辺の一円支配領域にある村に石高を登録された百姓から年貢を現物徴収して、藩と藩主の財源や藩士の給与として分配する形態が藩の典型であるが、徳川氏によって新規に取り立てられた小藩の中には支配する領地が飛び地状に拡散していて一円的な支配が難しいものもあった。

明治[編集]

1868年に明治新政府が旧幕府領を天皇直轄領(天領)として府・県に編成した際に、大名領は天子たる天皇の「藩」であると観念されたこともあり、「藩」は新たに大名領の公称として採用され、藩主の居所(城持ち大名の場合は居城)の所在地の地名をもって「○○藩」という名前が初めて正式の行政区分名となった(府藩県三治制)。翌1869年までに版籍奉還が行われて藩主は知藩事に改められ、1871年の廃藩置県によりさらに藩が県に置き換えられた。これによって江戸時代以来の藩制は廃止され、藩領は整理された。

なお琉球は、その実質的な支配者である薩摩藩が廃藩置県によって県となったことを受け、翌1872年、独立王国から日本国に帰属する琉球藩へと改められた。以後1879年の琉球処分まで、琉球は廃藩置県後の日本国内において唯一藩制が行われていた地域である。

現在の県は廃藩置県時の諸県を統廃合して生まれたものだが、国主の格式を持っていた大藩の場合はかつての藩の領域と現在の県の領域がほぼ一致する場合がごく稀にある。

藩の呼び方(藩名)[編集]

明治以降に歴史用語として藩名を呼ぶ場合には次の三通りの方式がある[2]。
所領名(国名) 例:加賀藩
大名名 例:前田藩
城下名 例:金沢藩

脚注[編集]
1.^ 『三百藩藩主人名事典』(新人物往来社)のように豊臣政権期にあたる関ヶ原の戦い当時に存在していた大名の領域およびその支配機構に対しても「藩」を用いている文献もある。
2.^ 『江戸幕府崩壊論』藤野保著、2008年、塙書房

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「藩」の書誌情報

蔵米

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蔵米(くらまい)は、ごく広義には蔵に納められる米のことであるが、一般には江戸時代において、幕府や藩などの蔵に年貢として収納された米のことを指す。この米は大きく分けて俸禄支給と換金とにまわされるため、さらに蔵米には以下で述べるふたつの意味が生じた。切米(きりまい)とも呼ばれる。

俸禄としての蔵米[編集]

この意味での蔵米は、武士の俸禄制度のひとつ。庫米、廩米、稟米とも書かれた。またその制度により支給される米(玄米)を「俵」単位で表した支給形態を指す。これに対し、現米・げんまい(諸藩では切米・きりまい)は「石高」表示で現物の米(金銭)を支給する形態をさす。

例えば幕府の直臣の場合、旗本・御家人などは知行地を与えられ、その知行地から収納する年貢米が収入となる(知行取り)。しかし中・下級の旗本や御家人の中には知行地を与えられず、幕府の天領から収納され幕府の蔵に納められた米から、俸禄として現物支給された者たちもいた。この現物支給される米のことを蔵米と言い、こうした者たち、あるいはその階層のことを「蔵米取り」とされた。蔵米取りの者の禄高は「蔵米三百俵」のように俵数で表されるのが一般的であった。蔵米取りの場合、俸禄は年3回に分けて支給されるのが常で、2月と5月に各1/4、10月に1/2が支給された。それぞれ「春借米」「夏借米」「冬切米」と呼んだ(「借米」は「かしまい」と読む)。ただし、俸禄は全量米だけで支給されるわけではなく、米の一部はその時季の米価に応じて金銭で支払われるのが通例であった。浅草の札差がそれらの米を百俵に付き金1分の手数料で御米蔵から受取り、運搬・売却を金2分の手数料で請け負った。

幕府では1俵=3斗5升入(0.35石)、加賀藩では1俵=5斗入で換算されていた。米の品質は、幕府の場合、上米・中上米・中米・中次米の4等級にわかれ、高職者に上米、並の役職者に中米、無役者に中次米を支給していた。

俸禄としては知行取り1石=米1俵、現米35石=100俵、1人扶持=米5俵で換算されていた。つまり、知行取り100石=蔵米100俵=現米35石=20人扶持=金35両(名目レート:現米1石=1両換算)となる。

諸藩においても、中・下級家臣の俸禄を蔵米とする場合があった。また特に譜代諸藩などでは、家臣に実際に知行地をあたえる地方知行(じかたちぎょう)が、例えば越後国では転封先での相給による地方知行拝領や給人の権限の制約などでほぼ寛永以降に、代官が給人に代わってまとめて税を徴収して藩庫に納めた上で改めて家臣に支給するという方式による地方知行が定着して次第に形骸化し、知行を与えられながら実際は蔵米を支給される例も多くなっていった(「新潟県史・通史3・近世一」)。このような形態を蔵米知行と呼ぶ。

近世武家の俸禄形態には知行取り、蔵米取りの他現米取り(切米取り)と扶持取りがある。

このように蔵米で拝領する点では蔵米取りも蔵米知行も同じだが、柳川藩の分限帳を例にすると蔵米知行の場合は分限帳において石単位で基本的に表記され、算定の根拠は地方知行が元となっている。対して蔵米取りは俵・扶持単位で表記されている(「柳河藩立花家分限帳」)。

市場における蔵米[編集]

この意味での蔵米は、幕府や藩の蔵から換金のために市場に放出された米のことを指す。江戸時代の諸藩は、収納した米をより有利な形で換金するために、江戸や大坂といった大都市に蔵屋敷を設けて廻米をおこない、これを市中の米市場に放出・売却した。なおこれに対して、こうした蔵屋敷を経由せずに商人の手で大坂などの大都市に集荷される米を納屋米といった。

執筆の途中です この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。

「蔵米」の書誌情報

インターネット・アーカイブ

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インターネットアーカイブ(広義) > ウェブアーカイブ > Internet Archive (archive.org)

曖昧さ回避 この項目では、アメリカの団体(archive.org)のウェブアーカイブについて説明しています。 その他のウェブのアーカイブについては「ウェブアーカイブ」をご覧ください。
グーグルによるニュースグループ Usenetのアーカイブについては「Googleグループ」をご覧ください。

 

ウィキペディア インターネットアーカイブウェイバックマシンWikipedia から参照するためのテンプレートについては、 Template:Wayback をご覧下さい。

 

インターネット・アーカイブ(The Internet Archive)は、WWW・マルチメディア資料のアーカイブのひとつを運営している団体である。本部はカリフォルニア州サンフランシスコのプレシディオに置かれている。

アーカイブにはプログラムが自動で、または利用者が手動で収集したウェブページのコピー(ウェブアーカイブ)があり、これは「WWWのスナップショット」と呼ばれる。その他、ソフトウェア・映画・本・録音データ(音楽バンド等の許可によるライブ公演の録音も含む)などがある。アーカイブは、それらの資料を無償で提供している。

歴史[編集]

アーカイブは1996年にブリュースター・ケールによって設立された。

公式サイトによれば、その使命は以下のとおりである:
大抵の社会はその文化、歴史遺産の保存を重視している。そのような資料が無ければ、文明はその成功または失敗から学ぶための手段も記憶も持てない。我等の文化は現在電子形態での資料を大量に生産している。アーカイブの使命は、これらの電子資料の保存を支援し、研究者・歴史家・学界のためのインターネットライブラリを構築することにある。
アーカイブはアメリカ議会図書館やスミソニアン博物館などの他機関との恊働も行う。
人類の知識と遺産を保存してそのコレクションを公開するというその目標からか、アレクサンドリア図書館に例えられることもある。

ウェイバックマシン[編集]

ウェイバックマシンが提供しているサイト例:
Amazon
Microsoft
BBC News
Google
Open Directory
Yahoo! JAPAN
Wikipedia 日本語版ウィキペディア

Internet Archive (Bibliotheca Alexandrina)
インターネットアーカイブは、アレクサ・インターネットのデータを元にした「ウェイバックマシン (Wayback Machine)」も運営している。このウェブアーカイブサービスを使えばウェブページの保存された時点の情報を見ることができ、また「Save Page」にURLを貼り付けることでそのページを保存できる。アーカイブはこれを「3次元インデックス」と呼んでいる。

ウェイバックマシンのアーカイブは徐々に増加し公開されている。アーカイブされたものの公開までには半年から一年かかっている。永続的に資料を保存し、すぐにそれを参照するための代わりとなるサイトとして、Archive-It systemなどもある。
ウェイバックマシンが保持しているデータ容量は、2001年時点ではおよそ100テラバイトに過ぎなかったが、2004年時点ではおよそ1ペタバイトであり、月に20テラバイトの割合で増加を続けている。この増加率は2003年の報告の増加率月あたり12テラバイトのおよそ倍の速度になる。またこれは、議会図書館など世界最大規模の図書館の文書量をはるかに上回るものである。そして2012年にはデータ総量は10ペタバイトを超えた[2]。

このデータのコピーは新アレクサンドリア図書館でも保存されている。

ウェイバックマシン」という名称はロッキー・アンド・ブルウィンクル・ショー(英語版)の一シーンからとられた。このアニメシリーズは学者風の蝶ネクタイをした犬のピーボディ先生と人間の助手シャーマンが「ウェイバックマシン (WABAC machine)」と呼ぶタイムマシンを使って歴史上の有名な事件にちょっかいを出すというコメディアニメである。

公的な保存とは別途、個人のレベルでも、特定の個人がインターネット上に運営していたWebサイト、Blogを個人の死後も管理、保存することがどのようにして可能か、といった話題もWeb Magazine、Web ニュースなどに出てくるようになった。
保険会社などが遺言の執行と合わせて、こうしたサービスを行っているようなものはないが、難病での闘病生活をおくった人のドキュメントやさまざまな公益的で共有すべき内容を持ったもの(人権、環境、社会問題、女性、健康と福祉、情報公開、特殊な個人的体験など)、オンラインソフトウェアの開発サイトなどが、関係者によって保存、維持されている例はある。こうしたものには、Webサイトを保存しているものと、故人を追悼するためのものとが混在している。

ただし、閉鎖された過去のサイトがすべて完全に見られるわけではなく、HTMLファイル以外は保存されないこともある。保存に成功したサイトであっても、年数経過によりアーカイブ上からでも見られなくなることがある。

2009年後半以降ほとんどのサイトが保存されていないと言われがちであったが、最近は保存され公開されるようになった。尚、2011年中期以降も、ほとんどのサイトが保存されていないようだが、現在は保存中であって将来公開されるのを待つしかない。

Recall サーチエンジン[編集]

またInternet Archiveのデータベース的側面としては、現在の特定URLを必要とする形以外のアクセス方法として、2003年9月、Internet Archiveに保存されたウェブページ全体を対象にした検索エンジン「Recall」のベータ版が公開された。検索した単語の頻度をグラフ化して表示する機能があり(2byte文字は未対応)、ネットワーク上の流行調査などに有益なものだったが、2004年9月中旬に停止した。これは「Recall」の開発者であったAnna Pattersonがプロジェクトから離れたためである。Internet Archiveのフォーラムでは新たな検索システムの構築を望む声が多くあがっており、動向が注目される。

ブラウザ拡張機能[編集]

Google Chrome向けの拡張機能(非公式)が公開されている。表示しているサイトのURLをデータベースから検索する方式で、手軽に利用できる。

コレクション[編集]

動画、書籍、録音の多くがパブリックドメインにあるか、クリエイティブ・コモンズのライセンスで提供されている。音楽部門には、コンサートでの演奏の録音を許可しているアーティストや演奏家グレイトフル・デッドストリング・チーズ・インシデント、トード・ザ・ウェット・スプロケット、311、fugaziなど)による音源とともに、独立系ミュージシャンの音源も数多く含まれている。

オープンライブラリ[編集]

インターネットアーカイブはオープン・ライブラリの運営も行っている。ここではいくつかのスキャンしたパブリックドメイン書籍が容易に閲覧、印刷ができる形式で入手可能である。

動画像コレクション[編集]

商用映画に加え、動画像コレクションには以下のようなものがある: ニュース映画コレクション、昔のアニメ(カートゥーン)コレクション、戦争映画・反戦映画などのプロパガンダコレクション、Skip ElsheimerによるA/V Geekコレクション、プレリンガー・アーカイブズによる短編ものコレクション(広告用、教育用、工業用などや家庭用の動画コレクション)

ブリックフィルムコレクションにはレゴによるストップモーション・アニメーションがあり、中には映画のリメイクものをしているものもある。Election 2004 (2004年選挙)コレクションは、2004年アメリカ合衆国大統領選挙に関連する動画資料を中立の立場からまとめた資料である。Independent NewsコレクションにはインターネットアーカイブのWorld At War competition from 2001(歴史的事物へのアクセスの重要性を示すための短編映画コンテスト)のようなサブコレクションもある。最もダウンロードされたビデオファイルは、2004年のスマトラ島沖地震の惨禍をとらえたものとなっている。

インターネットアーカイブには以下のような映画が1,500本前後存在する:

戦艦ポチョムキン
国民の創生
『M』
散り行く花
ヒズ・ガール・フライデー
『愛のアルバム』
復活の日
ナイト・オブ・ザ・リビングデッド
吸血鬼ノスフェラトゥ
プラン9・フロム・アウタースペース』
『リーファー・マッドネス』
『三十九夜』
『スタア誕生』
ジェーン・エア』 Jane Eyre

論争[編集]

サイエントロジーサイト[編集]

2002年後半に、インターネットアーカイブサイエントロジーの批判サイトをいくつもウェイバックマシンから削除した[3]。ウェイバックマシンのエラーメッセージには、この削除は「サイトオーナーの要望による」との文言が載せられていたが[4]、後に明らかになったところによればサイエントロジー教会の弁護士が削除を要求したものであった。この削除要求の法的根拠は不明であり、実際のサイトオーナー自身が削除を要求したものではなかった[5]。

アーカイブ内のウェブページの証拠能力[編集]

2004年10月の「ポーランド・テレビ・SA社 対 エコースター・サテライト社」の裁判において、ウェイバックマシンのアーカイブが法的証拠の情報源として使われた。ポーランド・テレビはポーランドのテレビ局TVPポロニア (TVP Polonia) の提供元であり、エコースター・サテライトはアメリカの衛星テレビ放送ネットワークである、ディッシュ・ネットワークの運営元である。
裁判の過程で、エコースター社はテレウジャ・ポルスカ社のウェブサイトの過去の内容の証拠として、ウェイバックマシンのスナップショットをあげた。テレウジャ・ポルスカ社は、伝聞および非公式情報に基づくものとしてやめさせようとしたものの、下級審判事のアーランダー・ケイズは、スナップショットを伝聞とするテレウジャ・ポルスカ社の主張を退け、インターネットアーカイブ社従業員による宣誓供述をスナップショットの信頼性を保証するものとして採用した。
Internet Archive’s Web Page Snapshots Held Admissible as Evidence (スタンフォード大学サイト内)

グレイトフル・デッド[編集]

2005年11月、グレイトフル・デッドのコンサートの模様を収録した資料の無料ダウンロードが削除された。ニューヨーク・タイムズ紙の報道によれば、ジョン・ペリー・バーロウはこの変化の原因として、ボブ・ウィアー、ミッキー・ハート、ビル・クロイツマンのバンドの元メンバー3名の名を挙げた[6]。元メンバーのフィル・レッシュは2005年11月30日付けでこの削除について個人サイト上でコメントを出した[7]:
グレイトフル・デッドのショーの全てが感謝祭前にArchive.orgから消えたのが気になった。
私はこの決定に関与していないが、これら資料の引き上げについて聞かされていなかった。私はこの音源こそがグレイトフル・デッドの伝説であると信じているし、これらが求める人全ての手に入ることを望む。
ブリュースター・カールが11月30日にフォーラムへ投稿し、「観客による録音資料はダウンロードもしくはストリーム配信可能である。しかしながら、ミキサーでの録音資料はストリーム配信にのみ限られる。」とのバンドメンバーとの合意に達した内容をまとめた[8]。

ホスティング環境[編集]

ネット上のすべてのデータを収拾するサイトである性格上、そのホスティング環境は巨大なものである。2009年まではHDD4台を搭載した800台のLinuxクラスターで運用していたが、2009年春からはSun MicrosystemsのSun Fire X4500 63台でホスティングされている。OSはSolaris10で、1台あたり1テラバイトHDDを48台搭載(=総計3ペタバイト)、ファイルシステムZFSを採用しているとのこと。施設も専用のSun Modular Datacenterを使用している[1]。

脚注[編集]
1.^ “archive.org Site Overview”. 2015年6月1日閲覧。
2.^ http://blog.archive.org/2012/10/26/10000000000000000-bytes-archived/
3.^ CNETの記事
4.^ archive.orgのフォーラムへの投稿
5.^ LawMemeの記事
6.^ Wrath of Deadheads stalls Web crackdown, ニューヨーク・タイムズの記事 (インターナショナル・ヘラルド・トリビューンサイト内)
7.^ Phil Lesh's Hotline, 論争に対する2005年11月30日付コメント
8.^ Good News and an Apology: GD on the Internet Archive, ブリュースター・カールによるarchive.org内のフォーラムへの投稿

関連項目[編集]
ウェブアーカイブ
アレクサ・インターネット
電子図書館
デジタルアーカイブ - 実際のものを電子的に保存すること。
Heritrix(英語版) - Internet Archiveのクローラ。
リンク切れ(デッドリンク、死にリンク)
プロジェクト・グーテンベルク
クローラ(ロボット)
ウェブ魚拓

外部リンク[編集]
Internet Archive (英語) Internet Archive - web (英語)
Open Library (英語)
Petabox, a useful invention created in collaboration with the Internet Archive (英語)
Wayback Machine (英語)
Pictures and descriptions of the Wayback Machine hardware, with cost information (英語)
Form 990-PF for Internet Archive (2003) (英語)
Archive-It (英語)
Warrick (英語) - ウェブサイトをインターネットアーカイブサーチエンジンのキャッシュから復旧するためのツール
Wayback Machineからの削除 - アーカイブ削除依頼の英文メール例

ミラーサイト[編集]
International School of Information Science (英語)(新アレクサンドリア図書館にあるインターネットアーカイブ

カテゴリ: オンライン情報源
カリフォルニア州の企業
電子図書館
1996年設立
アメリカ合衆国のウェブサイト

「インターネット・アーカイブ」の書誌情報

アレクサ・インターネット

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Alexa Internet(アレクサ インターネット)は、カリフォルニア州サンフランシスコに本社を置くインターネット関連企業。1996年に設立され、1999年Amazon.comの傘下となった。

事業内容は、ウェブ巡回技術を使ってウェブサイト情報や利用状況に関するデータを集め、ウェブサイトがどれだけの人に見られているかを調査すること。alexa.comでは、ドメインのアクセス量(トラフィック)や訪問者数、1回の訪問あたりの閲覧ページ数などを表示できる。また、Alexa InternetはWayback Machineのデータ提供元でもある。

1997年にAlexa Toolbarを発表。これをインストールすると、Internet Explorerでウェブサイトを閲覧した際にその訪問情報がAlexa Internetに送信される。Netscape NavigatorInternet Explorerの関連ページ機能の核として採用されたことで膨大なトラフィックデータを収集しだしたが、アンチスパイソフトウェアの中にはこれをスパイウェアとみなして削除するものもある。

外部リンクAlexa Internet

 

項目名: アレクサ・インターネット

著作者: ウィキペディアの執筆者

発行所: ウィキペディア日本語版

更新日時: 2015年4月12日 00:52 (UTC)

取得日時: 2015年6月3日 05:43 (UTC)

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主な執筆者: (改版集計情報)

項目の版番号: 55090919

 

電子図書館

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電子図書館でんしとしょかん、e-library)とは、現代のIT(情報技術)化によるコンピュータデータベースを利用した新たなウェブサイトによる図書館である。インターネット上にある電子化テキストを集積したサイトを指すことが多い。

それ以外にも、電子データベースの充実した図書館や、インターネットから蔵書の検索・予約などが出来るシステムが導入されている図書館も「電子図書館」と呼ばれることがある。

 

 概要

電子図書館には、旧来の図書館と違い、インターネットでどこからでもいつでもアクセスできるという利点を生かして、日本では青空文庫アメリカではプロジェクト・グーテンベルクのように、著作権が消滅したり、著者が著作権を放棄した文学作品やエッセイなどを収録、無料公開している所がある。収録のための活動は、青空文庫の場合はボランティアの手による。無料で公開している所と、有料(会員制)の所がある。

また、大学研究者などが、研究のために、著作権の問題は無いものの、容易にアクセスすることのできない貴重な文献や資料を、専門家の注釈などを加えて単独で公開しているようなケースもある。こうした単独での公開サイトのリンク集をインターネット上につくり、それをインターネット上の日本文学web図書館というかたちで公開する場合もある。

大学や研究所など学術機関においては、説明責任や社会的要請の変化に伴い機関内で生産された論文紀要を電子化して公開したり、市民対象の公開講義をインターネット上で公開しているものも増加している。現在では「機関リポジトリ」上に構築されていることが多く、電子図書館という名称でないこともある。

日本の大学で初期に構築された電子図書館の例として長尾真らによる実験モデル「アリアドネ」(1994年)が挙げられる。日本初の実用型は奈良先端科学技術大学院大学砂原秀樹らが1996年に構築したものとされる。

有料ライブラリーとしては、世界最大のオンライン・ライブラリーと銘打ったQuestiaのような有料サイトも出現している。最新とはいかなくても、著作権がまだ消滅していない学術書が無数に収録されている。

利点

物理的な境界無し 利用者は図書館へ現実に行く必要が無い。世界中の人が、インターネットに接続できる限り、同じ情報を得る事ができる。
24時間運営 昼夜を問わず、いつでも情報を得ることができるのは、電子図書館ならでは利点の一つである。
同時アクセス可能 たくさんの利用者が同時に同じ資料を使うことができる。
構造的アプローチ 例えば、本の目次から読みたい章に直接アクセスするのが簡単にできる。
検索が容易 全蔵書から特定の語句を検索することができる。見つかった本には、クリックするだけで簡単にアクセスできる。
保護と保存 品質を損ねること無く、何度でも、オリジナルを複製できる。
膨大なスペース 従来の図書館では書籍の保管場所に限りがあるのに対し、電子図書館は潜在的に遥かに沢山の情報を保管することができる。
電子的な情報は物理的なスペースをほとんど必要としないからである。従来の図書館に場所が足りなければ電子的な拡張が唯一の解決策である。
図書館同士の連携 ある電子図書館から別の電子図書館の資料へのリンクを提供するのが極めて容易である。資源共有のシームレスな統合が実現できる。
低コスト 電子図書館の維持コストは、物理的な図書館に比べ、極めて低い。
従来の図書館では、職員の雇用や書籍のメンテナンス、貸し出し業務、蔵書の追加に莫大な費用を要するが、電子図書館はこれらを必要としない。

問題点

電子図書館著作権法に妨げられて、従来の図書館のように様々な時代の作品を提供できない可能性がある。多くの場合、電子図書館のコンテンツはパブリックドメインのものか自分自身で作成したものに限られる。プロジェクト・グーテンベルク青空文庫など、著作権法外の作品を電子化して一般に自由に配布する所もある。商業的にコンテンツの権利を得て配布する電子図書館もあり、この形態は著作権の使用料の支払いやコンテンツの複製配布をより上手く管理できる。

電子図書館は従来の図書館の環境をそっくりそのまま再現できない。更に、テクノロジーの発展が仇となって、時代遅れになった形式のコンテンツにアクセスできなくなる可能性もある。

現在電子図書館とその収集物へのアクセスは安定したITインフラ(電力、コンピュータ、通信の接続など)に依存している。そのため、経済的な事情で本から知識を得るのが難しい人々(例えば第三世界の人々)の利用が困難になって情報格差が発生するという逆説的な結果が生まれている。

理論上は、電子図書館の維持コストは従来の図書館より低い。しかし、運営の方法によっては、従来の図書館よりむしろ高くつくこともありうる。印刷物のデジタル形式への変換作業や、管理に技術力のある職員を雇用、オンラインアクセスの維持コスト(サーバ代、帯域コストなど)など、大きな費用がかかりうる。加えて、電子図書館の情報は、数年ごとに最新のメディアに移行しなければならない(データマイグレーションを参照)。この処理に要する機器と技術者の確保の費用は、巨額になりうる。

近況

書籍を電子化する巨大な計画がGoogleMillion Book ProjectMSNYahoo!によって押し進められている。光学文字認識 (OCR) や電子書籍といった技術が継続的に向上し、代替保管場所の問題やビジネスモデルが整備された結果、電子図書館の規模は急成長している。Internet Archiveなど従来の図書館と同様に音声や映像を収集している所もある。

関連項目

言語別無料電子図書館一覧リンク

総合
日本語
韓国語(日本でID取得が可能)
英語
ドイツ語
フランス語
中国語
 
 最終更新 2013年8月11日 (日) 13:54

 

胡適

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 胡適」の書誌情報

胡 適漢音:こ せき、慣用音:こ てき)は、中華民国の学者・思想家・外交官。原名は嗣穈希疆、後にと改名した。「適者生存survival of the fittest(スペンサ-の造語)」に由来する。適之。アメリカの哲学者ジョン・デューイのもとでプラグマティズムを学ぶ。北京大学教授のち学長。国民党を支持したため戦後は米国に亡命したのち、1957年に台湾に移住した。

来歴・人物

 
胡適別影
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
 
台北市南港区胡適公園にある胡適の胸像

1891年江蘇省川沙県(現・上海市浦東新区)で生まれ、本籍地の安徽省績渓県で育った。上海中国公学を卒業後、1910年宣統2年)にアメリカコーネル大学農学を学び、次いでコロンビア大学ジョン・デューイのもとでプラグマティズム哲学を学んだ。

1917年民国6年)、陳独秀の依頼に基づき、雑誌『新青年』に「文学改良芻議(ぶんがくかいりょうすうぎ)」をアメリカから寄稿し、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱し、理論面で文学革命を後押しした。ただし、彼自身にもいくつかの作品があるが、文学的才能には恵まれなかったようで、実践面は魯迅などによって推進された。同年、北京大学学長だった蔡元培に招かれて帰国、北京大学教授となりプラグマティズムにもとづく近代的学問研究と社会改革を進めた。

1919年(民国8年)、『新青年』が無政府主義共産主義へと傾いて政治を語るようになると、胡適李大釗と「問題と主義」論争を起こし、社会主義を空論として批判した。やがて『新青年』を離れて国故整理に向かい、中国伝統の歴史・思想・文学などを研究整理した。

胡適マルクス・レーニン主義を批判し、1922年(民国11年)、『努力週報』を創刊し改良主義を主張した。1925年(民国14年)前後にに関する論考を著し始める。1930年(民国19年)、大英博物館敦煌文書調査で発見した荷沢神会の遺文をもとに、『神会和尚遺集』を発表する。満州事変が起こると、1932年(民国21年)、『独立評論』を創刊し、日本満州支配を非難している。

胡適は「華北保存的重要」という文章を発表して、現今の中国は日本と戦える状態ではないと指摘し、「戦えば必ず大敗するが、和すればすなわち大乱に至るとはかぎらない」かゆえに“停戦謀和”すべしと唱えた。胡適はさらに、「日本が華北から撤退し停戦に応じるのであれば、中国としては満洲国を承認してもよい」とさえ主張している。

1935年(民国24年)には「日本切腹中国介錯論」として知られる評論を発表。この中では米ソ両国と衝突する日本はいずれ自壊の道を歩み、中国は数年の辛苦を我慢してそのときを待てば、「切腹」する日本の「介錯人」となるだろうと記した。蒋介石政権に接近し、1938年(民国27年)駐米大使となってアメリカに渡った。1942年(民国31年)に帰国し、1946年には北京大学学長に就任した。1949年(民国38年)、共産党国共内戦に勝利すると、アメリカに亡命し、1957年(民国46年)から台湾に移り、外交部顧問、中央研究院長(1957-62年)に就任した。

水経注』や禅宗史の研究に取り組んだ。1949年にはハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議で鈴木大拙と禅研究法に関して討論を行う。

1939年にはノーベル文学賞候補にノミネートされたが[2]、受賞を逃した。

 

著書

なお、李大釗との論争は西順三島田虔次編訳『清末民国初政治評論集』(平凡社、1971)において伊藤昭雄訳で参照することが可能

 

参考文献

  • 小野川秀美「清末の思想と進化論」、『清末政治思想研究』みすず書房、1960
  • 林毓生 著、丸山松幸・陳正醍 訳『中国の思想的危機-陳獨秀・胡適魯迅』研文出版、1989
  • 清水賢一郎「胡適」、佐藤慎一編『近代中国の思索者たち』大修館書店、1998

 

 

関連項目

 
最終更新 2015年1月12日 (月) 07:40

 

 

UTC・協定世界時

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協定世界時(きょうていせかいじ、UTC英語: Coordinated Universal Timeフランス語: Temps Universel Coordonné[1][注釈 1])は、国際原子時 (TAI) に由来する原子時系の時刻で、その名の通りに世界時の UT1(したがって地球の自転)に歩調を合わせるように調整された基準時刻を指す[2][注釈 2]

協定世界時 (UTC) は、国際度量衡局 (BIPM) が国際地球回転・基準系事業 (IERS) の支援をうけて維持する時刻系であり、協定された標準周波数報時信号発射の基礎になっている。協定世界時 (UTC) はSIに基づく国際原子時 (TAI) とまったく同じ歩度(秒の間隔)に対応するが、整数秒だけ異なっている。また、協定世界時 (UTC) は世界時の UT1 に近似的に一致することを保証するために、秒を挿入または除去する閏秒調整を行っている[3][4]。UT1 と UTC の差は、国際地球回転・基準系事業 (IERS) のWebサイト[5]で見ることができる[6][7]

現在、世界各地の標準時協定世界時 (UTC) を基準として決めている。例えば、日本標準時 (JST) は協定世界時より9時間進んでおり、「+0900 (JST)」のように表示する。

 

略称

協定世界時の略称はUTCである[1]

国際電気通信連合 (ITU) は、協定世界時の略称を1つだけにしようと考えていた。協定世界時頭字語で表すと、英語では coordinated universal time[1] なので“CUT”、フランス語では temps universel coordonné[1] なので“TUC”、イタリア語では tempo coordinato universale[1] なので“TCU”となり、言語によって表記が異なって不便だからである[8]。“UTC”でも世界時 (UT) の変形という意味合いを表すことができ、また既にあるUT0、UT1などとも整合がとれる。

略称から逆成される形で、: "Universal Time, Coordinated", : "universel temps coordonné" などのような展開がなされることもあるが、これらはあくまでも非公式な呼称である[9]

 

国際原子時との関係

1972年以降の協定世界時 (UTC) は国際原子時 (TAI) とまったく同じ歩度(秒の間隔)に対応し、UTC と TAI との差が整数秒となるように維持されている[10][11]

この国際原子時 (TAI) は、1970年国際度量衡委員会 (CIPM) が「国際単位系 (SI) における時間の単位であるの定義に従って、いくつかの機関で運転されている原子時計の指示値に基づいて国際報時局 (BIH) が定める基準となる時刻の座標」と定義しており[12]1988年からは国際報時局 (BIH) に代わって国際度量衡局 (BIPM) が管理している[13][14]。国際原子時 (TAI) は世界時の一種である UT2 の1958年1月1日0時0分0秒を起点として時刻を決めている[注釈 3][15]

協定世界時 (UTC) の各国における現示は、時に関する国立研究所が実施しており、これらの研究所国際度量衡局 (BIPM) への原子時計データを送信することにより、国際的な時刻目盛の算出に参加している[2]

世界時および調整

1972年以降の協定世界時 (UTC) は、国際原子時 (TAI) との差を整数秒に維持しながら、世界時の UT1 に近似的に一致することを保証するために、秒を挿入または除去する閏秒調整を導入している[10][11][4]

この世界時の UT1 は、各国の天文台から集められた地球の自転の観測データをもとに国際地球回転・基準系事業 (IERS) が決定する[16][17]。世界時の基準となる地球の自転周期は、種々の要因によりミリ秒単位の不規則な変動があり、かつ10年のオーダーで長くなったり短くなったりしている。

協定世界時 (UTC) は世界中の法的な時刻の基礎であり、UTC と UT1 との差が0.9秒(1975年改訂)を超えないように、閏秒として1秒が挿入または除去される[18][4]。この閏秒調整は、国際地球回転観測事業 (IERS) の中央局が ΔUT1 (UT1-UTC) の予測値に基づいて決定する[16][17]。2012年7月1日現在、UTCはTAIから正確に35秒だけ遅れている。

協定世界時の調整

1971年まで使われていた旧協定世界時 (UTC) は、歩度(間隔)をできるだけ変更せずに、世界時の UT2 に近似的に一致することを保証するために、歩度を世界時の UT2 に近似させる周波数オフセット(50 × n × 10-10、n は整数)を1年間一定とし、世界時の UT2 と 0.1 秒以上の差を生じたときは月の1日0時UTに 0.1 秒のステップ調整が行われた。オフセット及び秒信号の修正の量と時期は国際報時局(BIH、現IERS)が関係天文台と協議の上で決定していた[19][20]

協定世界時 (UTC) では、公認されたセシウム原子の振動数を F_0 とすると、周波数や秒間隔は F=F_0\times(1+s) で決定することとし、その F を1年間固定していた。この式の s をオフセット値という[21][20]

標準電波で発射される報時信号は搬送波位相同期しなければならないことになっており[22][20](CCIR勧告460[23])、また周波数は時間逆数であらわされるので、周波数オフセットは時間(周波数)を時刻の方に合わせるための手段となる。周波数を基準値から故意にずらすことで、これを積算した時刻信号の歩度が世界時の UT2 の歩度に近似するようにしてた[24]

また、世界時の UT2 は UT1 の既知の季節変動を補正して平滑化したものであるが、地球の自転角速度は不規則に変動するので、歩度を1年間一定にする旧協定世界時 (UTC) は世界時の UT2 と差が生じる。このため世界時の UT2 との差は月初めに0.1秒の単位でステップ調整していた[19][20]

歴史

協定世界時

協定世界時は、標準電波報時信号を同期する国際協定に基づいて、1960年頃から試験的に運用が始まり、1961年1月1日から制度を開始し、1964年1月1日から正式に採用されて、1971年末まで使われた[25][22][26]

1950年代セシウム原子時計が実用化され、標準電波は周波数については原子周波数標準器を基準とし、時刻については地球の自転に基づく世界時の UT2 を基準とする報時信号が発射されていた[27]。しかし報時信号は各国の報時機関がそれぞれ独立に発射しており相互に無関係であった[28]。一方、人工衛星の国際観測が盛んとなり、これらの全世界データを整約するために、国際的に統一した方法で UT2 の時刻を利用できることが強く望まれるようになる。こうした背景から、1959年アメリカ合衆国イギリスが中心となって、標準電波の周波数や報時信号の同期に関する打ち合わせが行われ、報時信号については ±1 ms、標準周波数については ±1×10-10 を目標として同期することとされた[25]

協定世界時の周波数オフセットとステップ調整[29][30]
年月日オフセット値 (×10-10)ステップ調整 (s)
1960 -150 なし
1961-01-01 -150 なし
1961-08-01 -150 +0.050
1962-01-01 -130 なし
1963-01-01 -130 なし
1963-11-01 -130 -0.100
1964-01-01 -150 なし
1964-04-01 -150 -0.100
1964-09-01 -150 -0.100
1965-01-01 -150 -0.100
1965-03-01 -150 -0.100
1965-07-01 -150 -0.100
1965-09-01 -150 -0.100
1966-01-01 -300 なし
1967-01-01 -300 なし
1968-01-01 -300 なし
1968-02-01 -300 +0.100
1969-01-01 -300 なし
1970-01-01 -300 なし
1971-01-01 -300 なし

そして、1960年の国際電波科学連合 (URSI) 第13回総会や1961年にバークレーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第11回総会では、報時信号の国際同期に関する問題が討議され具体化された。この際、セシウム原子振動標準の周波数 (9192621770 Hz) が公認されている[31][32]

天測航法測地人工衛星観測などには地球の自転に基づく世界時が必要である一方で、物理学者などには時間単位だけが必要で世界時はこの意味では不適当である。この二つの要求をみたすため、標準電波の周波数は原子時に基づき、時刻は世界時に基づくものとすることになった。この報時方式では、公認されたセシウム原子の振動数を F_0 とすると、周波数や秒間隔は F=F_0\times(1+s) で決定することとし、その F を1年間固定することになる。この式の sオフセット値といい、例えば1960年は -150×10^−10 であった。この報時方式では標準時計の歩度が1年間固定される一方で地球の自転角速度は不規則に変動するので、報時される時刻は世界時とは差が生じる。このため世界時との差は月初めに 50 ms (URSI の決定)の単位でステップ調整することになった。なお、周波数オフセットは国際天文学連合 (IAU) が毎年決定することが採択された[33][32]

この報時方式は、1960年頃からアメリカ合衆国とイギリスの両者で試験的に始め、日本フランススイスカナダなどの数ヶ国が順次参加した[22]。これらの国々は相談の上、国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)や国際天文学連合 (IAU) による正式な採択を待たずに実施しており、日本では郵政省電波研究所(RRL、現NICT)のJJYで1961年9月から実施した[34][35]

その後、1963年ジュネーブで開催された国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)第10回総会の決議[27]を経て、1964年ハンブルクで開催された国際天文学連合 (IAU) 第12回総会において、報時は世界時に近似するように1年間一定の周波数オフセット(50 × n × 10-10、n は整数)とし、世界時と 0.1 秒以上の差を生じたときは月の1日0時UTに 0.1 秒のステップ調整をおこない、オフセット及び秒信号の修正の量と時期は国際報時局(BIH、現IERS)が関係天文台と協議の上で決定して、報時信号を国際的に同期する旧協定世界時 (UTC) 方式が勧告された[19][20]。多くの国にとって、この勧告を実施するには相等の設備と研究が必要なことから、非常に激しい議論が行われた末に、ようやく可決された[35]

しかし、旧協定世界時 (UTC) の報時方式が完全に国際的同一歩調で行われた訳ではなかった。原子周波数標準器を保有していない国々では、UTC を保時することが不可能である。また、西ドイツは独特の形式での報時を継続しており、ソビエト連邦ではステップ調整を 0.05 の幅で実施していた。

1967年プラハで開催された国際天文学連合 (IAU) 第13回総会で協定世界時 (UTC) について議論が行われた。そこでは方式の変更をもとめる意見もあったが、利用者がようやく習熟した方式をみだりに変更すべきでないことや、殊にソビエト連邦の代表が 0.1 秒のステップ調整ならば同調してもよいとの言明もあり、当時すでに実施していた方式を続けることに落ち着いた[36][37]

協定世界時の改善

1967年1968年の第13回国際度量衡総会 (CGPM) でセシウム原子周波数標準に基づく現在のSIの定義が採択されると[38]物理学計測の関係者を中心に旧協定世界時 (UTC) の周波数オフセットを廃止すべきとの意見が多くなる[24]

協定世界時 (UTC) は運用が煩雑で1秒の刻みも一様でないなどの不都合から、1970年ブライトンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第14回総会で、旧協定世界時の大幅な改善策が決議され、周波数オフセットの廃止、閏秒の導入、協定世界時 (UTC) と国際原子時 (TAI) との差 (TAI-UTC) を整数秒とすること、少なくとも 0.1 秒の精度で世界時の UT1 を求めることができる情報(標準電波のDUT1)を報時信号に含めることなどが勧告される[10][11]

1971年の国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)の中間会議で、細部の具体策を含めて現行の協定世界時 (UTC) が決定され、TAI-UTC を整数にする特別調整を含めて1972年1月1日0時0分0秒UTC(1972年1月1日0時0分10秒TAI)から実施された。これにより協定世界時 (UTC) に閏秒が導入され、閏秒調整日は1月1日または7月1日で、協定世界時 (UTC) は世界時の UT1 との差が 0.7 秒を超えないように国際報時局(BIH、現IERS)で調整・管理される。これ以後は、世界時 (UT0, UT1, UT2)、暦表時 (ET)、国際原子時 (TAI) が協定世界時 (UTC) を仲介して結ばれる[39]

なお、旧協定世界時では UT2 を基準にステップ調整を実施していたのに、閏秒調整では基準を UT1 に乗り換えたのは、UT1 が地球の自転角度そのものを示すのに対して、UT2 は単にこれを平滑化したものなので、測地天測航法には UT1 の方がより直接的に利用できるからである[40]

また、国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)が決議した標準電波時刻の基準は、旧協定世界時までは UTC ではなく UT2 が基準であったが、現行の協定世界時が採択されたときに UT1 や UT2 ではなく UTC を基準とするように変更された[27]

1973年シドニーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第15回総会で、協定世界時の管理規則改訂が決議され、UT1-UTC許容差が ±0.7 秒以内から、±0.950 秒(DUT1の最大値を0.9秒にとどめるため)に拡大すること、また、閏秒の実施時期を追加することが勧告された[41][18]。その後、1974年3月に開催された国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)の会議で協定世界時 (UTC) の運用規則(CCIR勧告460[3]、現 ITU-R勧告TF.460[4])が改訂され、UTC-UT1 の絶対値の許容限界を 0.9 秒以内に広げること、また、時刻調整(うるう秒)の実施予定日を従来の協定世界時 (UTC) の6月末および12月末を第一優先とし、さらに3月末および9月末を第二優先として加えることにし、1975年1月1日より、この改訂を実施することになった[42]

協定世界時に基づく標準時の推奨

1973年シドニーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第15回総会において、第4委員会()と第31委員会(時)の共同決議第1号(1973年8月採択25)で、SIに基づく単一の世界的に協調された時計の時間が望まれること、協定世界時 (UTC) からSI秒に基づく国際原子時 (TAI) を得ることが一般的に可能であること、および、UTC標準電波)が航法測量で必要とされる精度の平均太陽時を直接的に提供することを考慮し、すべての国の標準時の通報のための基礎として、UTC を採用することが勧告された[18]

さらに、1975年の第15回国際度量衡総会では、「協定世界時」(UTC) と称される時系が、極めて広く使用されていること、その時系が多くの場合、報時発信局によって放送されていること、かつ、その放送が利用者に対して、同時に標準周波数、国際原子時及び近似的な一つの世界時(又は平均太陽時としてもよい)を提供していることを考慮し、この協定世界時が、多くの国で法定常用時の基礎となっていることを確認し、この使用が十分に推奨に値するものであると評価することが決議された[43][44]

IERSの設立と国際度量衡局への移管

1985年デリーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第19回総会において、それまで協定世界時 (UTC) を管理してきた国際報時局 (BIH) を廃止して、国際地球回転観測事業(IERS、現国際地球回転・基準系事業)を1988年1月から発足させることになる。そして、国際報時局 (BIH) が管理していた国際原子時 (TAI) を国際度量衡局 (BIPM) に移管すること認め、新組織の国際地球回転観測事業 (IERS) の中央局が世界各地の観測値をもとに、ΔUT1 (UT1-UTC) や極運動を決め、閏秒の決定も行うことになった[16][17]

そして、1988年からは、国際報時局 (BIH) が行っていた、国際原子時 (TAI) や協定世界時 (UTC) などの原子時計や標準周波数に関する業務は国際度量衡局 (BIPM) が責任を持つことになり、国際度量衡局 (BIPM) が世界各国の関係機関が管理する原子時計のデータから、国際原子時 (TAI) や協定世界時 (UTC) を決定し維持管理するようになる[13][14]

同義語

歴史的な理由から、協定世界時 (UTC) には特定の分野で同義語として扱われる用語がいくつかある。

用語“G.M.T.”および“Z”は、航法通信の分野で UTC と同義語として認められる[10][11]。 通信の分野では“UTC”を示すのに「Z時」や“ZULU time”が使われることがある(通話表で文字 Z に使用する語は Zulu)。これは本初子午線を中心とする標準時間帯を文字 Z で表すことに由来する[45]

また、GMT と世界時 (UT) は時刻の最大精度整数秒である法令、通信、民生用その他の目的では UTC の意味で使用される。ただし、GMT は適切な名称(UTC または UT)で置き換えられる[46][47]

注釈

  1. ^ 本来は「調整された世界時」という意味だが、多くの国で法定常用時の基礎になっていることから、日本語では協定と意訳している。
  2. ^ 国際原子時 (TAI) に調整を加えて作られた世界時であり、国際協定に基づき人為的に維持されている時刻系である。
  3. ^ なお、SIは「セシウム133原子基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射周期9192631770倍に等しい時間」と定義されている。1967年の国際度量衡総会でこのSI秒の定義が決議された

脚注

  1. ^ a b c d e ITU-R 2013, p. 5.
  2. ^ a b BIPM 2014.
  3. ^ a b 電波研究所 1983, p. 310.
  4. ^ a b c d ITU-R 2002, p. 3.
  5. ^ IERS (2013年5月21日). “Earth orientation data (html)” (英語). IERS Data / Products. ドイツ連邦地図測地庁 (Federal Agency for Cartography and Geodesy). 2014年1月5日閲覧。このページにリンクがあるPlotsのグラフ
  6. ^ IERS (2013年5月21日). “Plots: EOP 08 C04 (IAU2000) one file (html)” (英語). Earth orientation data. ドイツ連邦地図測地庁 (Federal Agency for Cartography and Geodesy). 2014年1月5日閲覧。二段目左のUT1-UTCのグラフで、1972年以後で不連続になっている箇所が閏秒の挿入である。
  7. ^ IERS (2013年5月21日). “Plots: FINALS.DATA (IAU2000) (html)” (英語). Earth orientation data. ドイツ連邦地図測地庁 (Federal Agency for Cartography and Geodesy). 2014年1月5日閲覧。二段目左のUT1-UTCグラフが最近の確定値と予測値。赤線が確定値、青線が予測値
  8. ^ (英語) Frequently asked questions (FAQ), National Institute of Standards and Technology, (2010-02-03), http://www.nist.gov/pml/div688/utcnist.cfm#cut 2012年5月10日閲覧。 
  9. ^ BelleSerene (2009-05-27) (英語), French time: "heure légale", http://www.ybw.com/forums/archive/index.php/t-202760.html 2012年5月10日閲覧。 
  10. ^ a b c d 弓滋 1970, p. 284.
  11. ^ a b c d IAU 1970, p. 20.
  12. ^ BIPM 2006, pp. 68, 付録1.
  13. ^ a b 新美幸夫 1997, pp. 478-479, §6.
  14. ^ a b BIPM 1987.
  15. ^ BIPM 2006, pp. 23,65-66, §2.1.1.3、付録1.
  16. ^ a b c 古在由秀 1986, pp. 71-72.
  17. ^ a b c IAU 1985, pp. 3-7.
  18. ^ a b c IAU 1973, p. 20.
  19. ^ a b c 虎尾正久 1965, pp. 4-6, §8.
  20. ^ a b c d e IAU 1964, pp. 16-17.
  21. ^ 虎尾正久 1965, pp. 4-5, §8.
  22. ^ a b c 虎尾正久 1965, p. 5.
  23. ^ 電波研究所 1983, p. 309.
  24. ^ a b 安田嘉之 1983, p. 6.
  25. ^ a b 飯島重孝 1971a, pp. 54-55, §2.
  26. ^ 新美幸夫 1997, p. 478, §5.
  27. ^ a b c 安田嘉之 1983, p. 5, 第1表.
  28. ^ 虎尾正久「原子時と原子時計(<小特集>計測・制御)」、『日本機械学會誌』第72巻第607号、日本機械学会東京都1969年8月5日、 1093頁、 ISSN 0021-4728NAID 110002467594NCID AN001873942014年2月2日閲覧。オープンアクセス
  29. ^ 飯島重孝 1971a, p. 58, 表1.
  30. ^ 安田嘉之 1983, p. 6, 第2表.
  31. ^ 飯島重孝 1971a, p. 54-55, §2,§3.
  32. ^ a b IAU 1961, p. 33.
  33. ^ 宮地政司IAU総会だより(6) 位置天文学関係の諸分科会 (PDF) 」 、『天文月報』第55巻第1号、日本天文学会、東京都三鷹市1961年12月、 21-22頁、 ISSN 0374-2466NCID AN00154555NDLJP:33044632014年1月19日閲覧。
  34. ^ 飯島重孝「雑報-0.1秒の報時信号調整 (PDF) 」 、『天文月報』第55巻第1号、日本天文学会、東京都三鷹市1963年12月、 8-9頁、 ISSN 0374-2466NCID AN00154555NDLJP:33044902014年1月26日閲覧。
  35. ^ a b 虎尾正久 1964, p. 256.
  36. ^ 虎尾正久 1967, p. 43, §4.
  37. ^ IAU (1967). “ⅩⅢth General Assembly, Prague, Czechoslovakia, 1967 / ⅩⅢe Assemblée Générale, Prague, Tchécoslovaquie, 1964” (英語/フランス語) (pdf). IAU General Assembly. Paris: The International Astronomical Union. p. 19. http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1967_French.pdf 2014年1月18日閲覧。 
  38. ^ BIPM 2006, pp. 65-66, 付録1.
  39. ^ 飯島重孝 1971b, pp. 324–325, §4,§5.
  40. ^ 飯島重孝 1971b, p. 325, §4.
  41. ^ 飯島重孝「IAU第15回総会に出席して」、『日本時計学会誌』第68号、日本時計学会、東京都1973年12月25日、 57-60頁、 ISSN 0029-0416NAID 110002777404NCID AN001957232014年1月26日閲覧。オープンアクセス
  42. ^ 古賀保喜「第7回 CCDS 会議に出席して」、『日本時計学会誌』第73号、日本時計学会、東京都1975年3月30日、 60頁、 ISSN 0029-0416NAID 110002777471NCID AN001957232014年2月1日閲覧。オープンアクセス
  43. ^ BIPM 2006, p. 70, 付録1.
  44. ^ BIPM (1975年). “BIPM - Résolution 5 de la 15e CGPM (html)” (フランス語). BIPM - Résolutions de la 15e CGPM. BIPM. 2014年1月30日閲覧。
  45. ^ ITU-R 2013, p. 18.
  46. ^ 飯島重孝「IAU第16回総会に出席して」、『日本時計学会誌』第80号、日本時計学会、東京都1977年3月15日、 51-58頁、 ISSN 0029-0416NAID 110002777551NCID AN001957232014年1月26日閲覧。オープンアクセス
  47. ^ IAU (1976). “ⅩⅥth General Assembly, Grenoble, France, 1976 / ⅩⅥe Assemblee Generale, Grenoble, France, 1976” (英語/フランス語) (pdf). IAU General Assembly. Paris: The International Astronomical Union. p. 27. http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1976_French.pdf 2014年1月17日閲覧。 

参考文献

関連項目

 
 

協定世界時」の書誌情報

 

 

 

5・15事件

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五・一五事件
May 15 Incident.jpg
場所 日本の旗 日本 東京府
日付 1932年昭和7年)5月15日
概要 大日本帝国海軍青年将校たちが総理大臣官邸等を襲撃した。
武器 拳銃
死亡者 犬養毅警察官1名

 

五・一五事件(ご・いち・ごじけん)は、1932年(昭和7年)5月15日日本で起きた反乱事件。武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。

 

背景

当時の日本は議会制民主主義が根付き始めたが、1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。1931年(昭和6年)には関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形だった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。ところが、立憲民政党民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。

計画

この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉古賀清志で、死亡した藤井斉とは同志的な関係を持っていた。事件は血盟団事件につづく昭和維新の第二弾として決行された。古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、大川周明らから資金拳銃を引き出させた。農本主義者・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。時期尚早と言う陸軍側の予備役少尉西田税を繰りかえし説得して、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。

3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。計画は二転三転した後、5月13日、土浦の山水閣で最終の計画が決定した。具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期して行動を開始、

  • 第一段として、海軍青年将校率いる第一組は総理大臣官邸、第二組は内大臣官邸、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。つづいて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が三菱銀行爆弾を投げる。
  • 第二段として、第四組を除く他の3組は合流して警視庁を襲撃する。
  • これとは別に農民決死隊を別働隊とし、午後7時頃の日没を期して東京近辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、東京を暗黒化する。
  • 加えて時期尚早だと反対する西田税を計画実行を妨害するものとして、この機会に暗殺する。

とし、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う、というものであった。

経過

首相官邸

5月15日は日曜日で、犬養首相は終日官邸にいた。

第一組9人は、海軍中尉三上卓以下5人を表門組、海軍中尉山岸宏以下4人を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせた(1名が5月26日に死亡する)。

三上は食堂で犬養首相を発見すると、ただちに拳銃を犬養首相に向け引き金を引いたが[注釈 1]、たまたま弾が入っていなかったため発射されず、犬養首相に制止された。そして犬養毅自らに応接室に案内され、そこで犬養首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。その後、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養首相の腹部を銃撃、次いで三上が頭部を銃撃し、犬養首相に重傷を負わせた。襲撃者らはすぐに去った[注釈 2]

それでも犬養首相はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。

首相官邸以外

首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、被害は軽微であった。

  • 第一組の一部は首相官邸を襲撃した後、警視庁に乱入して窓ガラスを割るなどし、その後日本銀行に向かい車の中から日本銀行手榴弾を投げ、敷石等に損傷を与えた。
  • 第二組の古賀清志海軍中尉以下5人はタクシーに乗って内大臣官邸に向かい、午後5時27分頃に到着、これを襲撃し、門前の警察官1名を負傷させたが、牧野伸顕内大臣は無事だった。その後、第二組は警視庁に乱入、ピストルを乱射して逃走した。これにより居合わせた警視庁書記1人と新聞記者1人が負傷した。
  • 第三組の中村義雄海軍中尉以下4人はタクシーに乗って立憲政友会本部に向かい、午後5時30分ごろに到着、玄関に向かって手榴弾を投げ、損傷を与えた。
  • 第四組奥田秀夫(大学生で血盟団の残党)は、午後7時20分頃に三菱銀行前に到着、ここに手榴弾を投げ込み爆発させ、外壁等に損傷を与えた。
  • 別働隊の農民決死隊7名[注釈 3]は、午後7時ごろに東京府下の変電所6ヶ所を襲ったが、単に変電所内設備の一部を破壊しただけに止まり、停電はなかった。
  • 血盟団員の川崎長光西田税方に向かい面会し、隙を見て拳銃を発射、西田に瀕死の重傷を負わせた。

第一組・第二組・第三組の計18人は午後6時10分までにそれぞれ麹町の東京憲兵隊本部に駆け込み自首した。一方、警察では1万人を動員して徹夜で東京の警戒にあたった。

6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。7月24日、橘孝三郎ハルビン憲兵隊に自首して逮捕された。9月18日、拳銃を提供したとして本間憲一郎が検挙され、11月5日には頭山秀三が検挙された。

後継首相の選定

 
犬養毅の葬儀

後継首相の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老西園寺公望にたいして後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、この時は西園寺は興津から上京し、牧野内大臣の勧めもあって、首相経験者の山本権兵衛若槻礼次郎清浦奎吾高橋是清、陸海軍長老の東郷平八郎海軍元帥上原勇作陸軍元帥、枢密院議長の倉富勇三郎などから意見を聴取した。(詳細は重臣会議を参照)

当時、誰を首相にするかについては様々な意見があった。

  • 総裁を暗殺された政友会は事件後すぐに鈴木喜三郎を後継の総裁に選出し、政権担当の姿勢を示していた。
  • 昭和天皇からは鈴木貫太郎侍従長を通じて後継内閣に関する希望が西園寺に告げられた。その趣旨は、首相は人格の立派な者、協力内閣か単独内閣かは問わない、ファッショに近いものは絶対に不可、といったものであった。
  • 陸軍の内部では平沼騏一郎という声が強く、政友会でも森恪らはこれに同調していた。また陸軍の革新派には荒木貞夫をかつぎだし軍人内閣を作れという要求もあった。いずれにせよ陸軍は政党内閣には反対であった。

結局西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために元海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を次期首相として奏薦した。斎藤は民政・政友両党の協力を要請、挙国一致内閣を組織する。西園寺はこれは一時の便法であり、事態が収まれば憲政の常道に戻すことを考えていたらしいが、ともかくもここに8年間続いた政党内閣は崩壊し、第二次大戦後まで復活することはなかった。

裁判

 
関与した民間人に対する裁判

事件に関与した海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。

当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。

評価

犬養首相は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らない点だったといわれる。不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をしており、それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。

犬養首相は中華民国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友だった。ゆえに犬養首相は満州地方への進軍に反対で、「日本は中国から手を引くべきだ」との持論をかねてよりもっていた。これが大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。犬養首相が殺されたのは、彼が日本の海外版図拡大に反対だったことがその理由とも考えられる[要出典]

本事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデターテロ事件として扱われるが、犯人のうち軍人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達され、また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強く、これに対して本事件は暗殺テロの色彩が強い。

また犬養首相の暗殺が有名な事件だが、首相官邸立憲政友会(政友会)本部・警視庁とともに、牧野伸顕内大臣も襲撃対象とみなされた。しかし「君側の奸」の筆頭格で、事前の計画でも犬養に続く第二の標的とみなされていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪などが裏で糸を引いていたのでは、と推測している[2]。だが、中谷武世は古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したもので、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたが、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ており、また中谷は大川と政党人との関係が希薄だったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している[3]

この事件によりこの後斎藤実岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。もっとも実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養の死が満州国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

事件の前日にはイギリスの喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日し、事件当日に犬養首相と面会する予定であった。また「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者の間でチャップリン暗殺も画策されていた。しかしチャップリンが当日、思いつきで相撲観戦に出掛けた為難を逃れた。

関係者

実行者

首相官邸襲撃隊

内大臣官邸襲撃隊

立憲政友会本部襲撃隊

民間人

反乱予備罪

  • 伊東亀城 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
  • 大庭春雄 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
  • 林正義 - 海軍中尉。禁固2年、執行猶予5年
  • 塚野道雄 - 海軍大尉。 禁固1年、執行猶予2年

裁判関係

脚注

注釈

  1. ^ 元々、犯人の青年将校らは問答などに時間をとられては殺害に失敗する恐れがあるため、犬養首相を見つけ次第射殺する計画だった。
  2. ^ 犬養が殺害された際「話せば分かる」「問答無用、撃て!」のやり取りが有名だが、これは犬養首相の最期の言葉というわけではない。「話せば分かる」「問答無用」という言葉については、元海軍中尉山岸宏の次の回想がある。

    『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。『問答いらぬ。撃て。撃て』と言ったんです。

    また、元海軍中尉三上卓は裁判で次のように証言している。

    食堂で首相が私を見つめた瞬間、拳銃の引き金を引いた。弾がなくカチリと音がしただけでした。すると首相は両手をあげ『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と二、三度繰り返した。それから日本間に行くと『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ』と申された。私が『靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか』というと何か話そうとされた。その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て』と叫んだ。黒岩が飛び込んできて一発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかみに小さな穴があき血が流れるのを目撃した。

  3. ^ 農本主義橘孝三郎の指導する茨城県の愛郷塾生より成っていた。大川周明等も資金縁者や武器を供給していた[1]

出典[編集]

  1. ^ 遠山茂樹今井清一藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店岩波新書355〉 1959年 91ページ
  2. ^ 昭和史発掘
  3. ^ 『昭和動乱期の回想』

関連項目

 

 

 項目名: 五・一五事件

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3. 利用許諾の付与

このライセンスの諸条件が定める範囲内で、許諾者はあなたに、全世界的で、ロイヤルティー・フリーの、非排他的な、(当該著作権の保護期間中)永続的な、本作品に関する権利の利用許諾を、以下に述べられている通りに与える:

  1. 本作品を複製すること、本作品を1つまたはそれ以上の編集物に組み込むこと、編集物に組み込まれている本作品を複製すること。
  2. 二次的著作物(どのような媒体へのどのような変換をも含む)を、元になった本作品に変更が施されたことを、ラベル付けするか区別するかあるいはそのほかの形で識別できるように、合理的な処置をして、作成しまた複製すること。例えば、翻訳を「元の作品を英語からスペイン語に翻訳しました」と記し、改作物を「元の作品を改作しました」と示すことができる。
  3. 本作品(編集物に組み込まれたものも含む)を頒布または公共で上演すること。
  4. 二次的著作物を頒布または公共で上演すること。
  5. 錯誤回避のために詳述すると、
    1. 放棄できない強制許諾制度について。著作権使用料を徴収する権利が法令や強制許諾制度によって放棄できない法域の中では、このライセンスであなたに与えられた権利の行使について、許諾者はそのような著作権使用料を徴収する独占的な権利を保有します。
    2. 放棄可能な強制許諾制度について。著作権使用料を徴収する権利が法令や強制許諾制度によって放棄できる法域の中では、このライセンスであなたに与えられた権利の行使について、許諾者はそのような著作権使用料を徴収する独占的な権利を放棄します。
    3. 自主的許諾制度について。このライセンスであなたに与えられた権利の行使について、個別にであるとか所属している著作権管理団体が自主的許諾制度を行なっているかどうかに関わらず、許諾者はその著作権使用料を徴収する権利を放棄します。

以上の権利は、現在知られているか今後考案されるかどうかに関わらず、あらゆる媒体や形式において行使することができます。以上の権利は、他の媒体や形式で権限を行使するために技術的に必要な修正を行なう権利も含まれています。第8節第f項によれば、許諾者によって与えられた全ての権限がここにはっきりと保持されているというわけではありません。

4. 制限

前第3節により付与された利用許諾には、明示的に次の制限を伴います。

  1. あなたはこのライセンスの条項に基づく限りにおいて、本作品を頒布または公共で発表することができます。 あなたは、頒布または公共で発表する本作品の複製物の各々に、このライセンスの写しあるいはそのURIを添付または表示しなければなりません。 あなたは、このライセンスによって付与される利用許諾受領者の権利の行使を変更または制限するような条件を提案したり課すことはできません。 あなたは、本作品を再利用許諾することはできません。 あなたは、本作品の頒布または公共での発表にあたって、作品の複製物の各々にこのライセンスおよびその免責条項に関する注意書きの内容を変更することなく、かつ見やすい状態でそのまま掲載しなければなりません。 あなたは、本作品の頒布または公共での発表にあたって、このライセンスによって付与される利用許諾受領者の権利の行使を変更または制限するような技術的保護手段を用いることはできません。 第4節a項の制限は、作品が編集物に組み込まれた場合、組み込まれた部分に対して等しく適用され、その余の部分についてはこのライセンスの条項に従う必要はありません。 もしあなたが編集物を創作した場合、あなたは許諾者からの通知があれば実行可能な範囲で要求に応じ、編集物から第4節c項で要求される許諾者または原著作者への言及を全て除去しなければなりません。 もしあなたが二次的著作物を創作した場合、あなたは許諾者からの通知があれば実行可能な範囲で要求に応じ、二次的著作物から第4節c項で要求される許諾者または原著作者への言及を全て除去しなければなりません。
  2. あなたは、以下のいずれかのライセンスに基づく限りにおいて、二次的著作物を頒布または公共で発表することができます。 (i) このライセンス。 (ii)このライセンスの新しいバージョンで、同じライセンス要素を持つもの。 (iii) クリエイティブ・コモンズが管轄するライセンスのうち、本ライセンスのライセンス要素を全て含むライセンス(例えば Attribution-ShareAlike 3.0 US)。 (iv) クリエイティブ・コモンズ互換ライセンス。 あなたが二次的著作物を(iv)のいずれかのライセンスで頒布または公共で発表する場合、そのライセンスの条件に従ってください。あなたが二次的著作物を(i)、(ii)、(iii)いずれかに該当するライセンスで(以下、「適用するライセンス」といいます)頒布または公共で発表する場合、適用するライセンスの条件ならびに下記の各条件に従わなければなりません。 (I) あなたは、頒布または公共で発表する二次的著作物の複製物の各々に、適用するライセンスの写しあるいはそのURIを添付または表示しなければなりません。 (II) あなたは二次的著作物に適用するライセンスによって付与される利用許諾受領者の権利の行使を変更または制限するような条件を提案したり課すことはできません。 (III) あなたは頒布または公共で発表する二次的著作物の複製物の各々に、本作品に含まれる適用されるライセンスとその免責条項に関する注意書きの内容を変更することなく、かつ見やすい状態でそのまま掲載しなければなりません。 (IV) あなたは、二次的著作物の頒布または公共での発表にあたって適用するライセンスによって付与される利用許諾受領者の権利の行使を変更または制限するような技術的保護手段を用いることはできません。 第4節b項は二次的著作物が編集物の一部となった場合にも適用されます。しかし、編集物のその余の部分が適用されるライセンスに従っている必要はありません。
  3. あなたが作品あるいは二次的著作物または編集物を頒布あるいは公共で発表する場合、第4節a項による許諾者からの通知が無い限り、作品に付帯するあらゆる著作権表示をそのままにしておかなければならず、かつ以下の各項目を頒布あるいは公共での発表に用いる手段において合理的な形態で表示しなければなりません。 (i) 原著作者名(変名を用いていれば変名)。もしあれば原著作者および、または許諾者が指定した、あるいは作品の帰属(例えば後援機関、出版者、掲載誌など)の許諾者に対する著作権表示、利用規約他の合理的な手段で表明された第三者の名前。 (ii) もしあれば作品のタイトル。 (iii) 許諾者が本作品に添付するなど、指定したURIがあれば、合理的に実行可能な範囲でそのURIを表示しなければなりません(ただし、そのURIが作品の著作権表示またはライセンス情報を参照するものでないときはこの限りではありません。) (iv) 第3節b項と同様に二次的著作物が対象になる場合、原作品も表示しなければなりません(例えば「原著作者による作品のフランス語訳です」「原著作者の作品を元にした映画です」など。) 第4節c項の条件を満たすために必要かつ合理的ないかなる方法を用いることもできます。 しかし、作品が二次著作物あるいは編集物の一部として扱われる場合、各作品のクレジットは最小限に抑えるものとします。例えば、二次的著作物あるいは編集物の各作品に関与した著作者の全てを表示しようとするならば、各著作者名もお互い同じよう表示されなければならないためです。 この点、予め誤解を招かぬよう更に詳述すると、あなたは本節で要求される表示を上記の帰属を示す目的においてのみ行い、別個に事前の書面による許諾が無い限りこのライセンスの元で権利を行使することによって暗黙的あるいは明示的を問わず原著作者あるいは許諾者もしくは帰属する第三者による関係、スポンサーシップあるいは支持を表示あるいは暗示することはできません。
  4. 許諾者による書面による同意あるいは法的に許される場合を除き、あなたが作品自体を、あるいは二次的著作物または編集物の一部として複製あるいは頒布または公共で発表する場合、原著作者の名誉を著しく毀損するような改変を行うことはできません。許諾者は、ある国の法体系が(例えば日本のように)このライセンス第3節b項の権利(二次的著作物を作成する権利)の行使が原著作者の名誉を毀損すると判断された場合、その法体系において利用許諾受領者が最大限の第3節b項の権利(二次的著作物を作成する権利)の行使するような形に本節の帰属表示を免除あるいは主張しないことに同意するものとします。

5. 表明、保証、免責事項

両当事者が書面にて別途に合意しない限り、許諾者は作品を現状のまま提供し、この作品に関して、明示的、暗黙的、法的、その他にも所有権の保証、商品価値、特定の目的のための適合性、違反や侵害がないこと、潜在的もしくは非潜在的な欠陥がないこと、正確さ、見つけられるかどうかに関わらず誤りがないことを含むがこれに限らず、いかなる表明や保証もしません。 いくつかの法域においては、このような保証の暗黙的な除外が認められていないので、このような例外はあなたに適用されないかもしれません。

6. 責任制限

適用法によって必須とされている範囲を除き、特別であっても、付帯的であっても、結果として生じたものであっても、懲罰的であっても、典型的であっても、このライセンスや作品の使用に起因するあらゆる損害に関するいかなる法理論においても、許諾者はあなたに対して義務や責任を負いません。

7. 終了

  1. このライセンスに基づく利用許諾は、あなたがこのライセンスの条項に違反すると自動的に終了します。 しかし、二次的著作物または編集物をあなたからこのライセンスに基づき受領した第三者に対しては、その受領者がこのライセンスを遵守している限り、この利用許諾は終了しません。 第1節、第2節、第5節から第8節は、この利用許諾が終了してもなお有効に存続します。
  2. 上記a項に定める場合を除き、この利用許諾に基づくライセンスは作品に含まれる著作権法上の権利が存続するかぎり継続します。 許諾者は上記の規定に関わらず、いつでも作品を異なるライセンスで利用許諾あるいは頒布を中止する権利を保有します。 ただし、許諾者がこのライセンスに基づく頒布を将来中止した場合でも、このライセンスに基づいてすでに本作品を受領した利用者に対しては、このライセンスに基づいて過去及び将来に与えられるいかなる利用許諾も終了することはありません。また、上記によって終了しない限りこのライセンスは全面的に有効なものとして継続します。

8. 細則

  1. あなたが本作品または本作品を含む編集物をこのライセンスに基づいて頒布あるは公共で上演するごとに、許諾者は本作品または本作品を含む編集物の受領者に対してこのライセンスの下であなたに許可された利用許諾と同じ条件の本作品の利用許諾を与えるものとします。
  2. あなたが本作品の二次的著作物をこのライセンスに基づいて頒布または公共で上演するごとに、許諾者は本作品の二次的著作物の受領者に対してこのライセンスの下であなたに許可された利用許諾と同じ条件の本作品の利用許諾を与えるものとします。
  3. このライセンスのいずれかの規定が、適用法の下で無効または執行不能の場合であっても、このライセンスの他の条項の有効性及び執行可能性には影響しません。 また、本作品の利用許諾に責任を負う当事者による指示がないかぎり、そのような規定は可能な限り少ない変更で有効かつ執行可能な形になるよう解釈するべきです。
  4. この利用許諾の条項の全部または一部の放棄あるいはその違反に関する承諾は、これが書面にされ当該放棄又は承諾に責任を負う当事者による署名がなされない限り行うことができません。
  5. このライセンスは、ここでライセンスされた作品に関係する団体間の完全合意を構成します。 ここで指定されていない作品に関係する、いかなる合意や協定、主張もここには含まれていません。 許諾者は、あなたからの通知に含まれるかもしれない、いかなる追加条項にも束縛されません。 このライセンスは、許諾者とあなたとの相互合意書なしに修正することはできません。
  6. このライセンスで与えられる権利や参照されている主題は、1979年9月28日に修正された文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約、1961年の実演家・レコード製作者及び放送機関の保護に関する国際条約、1996年の著作権に関する世界知的所有権機関条約、1996年の実演及びレコードに関する世界知的所有権機関条約、1971年7月24日に改正された万国著作権条約の用語を利用して下書きされました。 これらの権利や主題は、適用可能な国内法令におけるこれらの条約条項の適用に対応する条項に従い施行されようとしているその利用許諾条項の管轄法域の影響を受けます。 適用可能な著作権法において、このライセンスで与えられていない権利が与えられている場合、そのような権利はこのライセンスに含まれているとみなされます。このライセンスは、適用法令において許可されているいかなる権利をも、制限することはありません。

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注釈

  1. ^
    「条件を放棄できる」とは?
    クリエイティブコモンズのライセンスでは、許諾者は、例えば「表示」などの、特定の許諾条件を放棄することを認めています(参考:"Can I change the terms of a CC license or waive some of its conditions? " - Frequently Asked Questions, CC Wiki)。

関連項目

 最終更新 2012年9月14日 (金) 02:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC

 

初めての寄付

ウィキペディアに初めて寄付したけど、英語版に飛ばされて参った;

なんとなく読める、程度で、コメント書けとか言われてもまともに書けない;

 

まぁこれでもう堂々とウィキペディア使ってやるぜ!みたいな。

そんな気分にはなれたw

 

アカ持ってるから自分でまともに勉強したこととか、編集にも

協力出来る部分には協力してみたいんだけど、やっぱ気が引ける;

 

でもオープンソースで知識を共有するという理念は思いっきり高く評価する。

いちいち本屋や図書館に行かなくてすむw

 

日露戦争

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表された日露戦争 - Wikipediaを素材として二次利用しています。

 

日露戦争(にちろせんそう、英語: Russo-Japanese War、ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国ロシア帝国[7]との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。
両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

戦争目的と動機[編集]
ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、 朝鮮半島と日本帝国の安全保障[8]を主目的とした。

観戦武官[編集]
日露双方に多数の観戦武官が派遣され日本にはイギリス、アメリカ合衆国ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデンノルウェー連合、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国の13ヶ国から70人以上の武官が派遣されていた。
日英同盟を結んだイギリスからの派遣が最多の33人となっている。
観戦武官が持ち帰った日露戦争の戦訓は、第一次世界大戦の各国で活かされることになる。

イギリス:エイルマー・ホールデン(英語版
アメリカ:アーサー・マッカーサー・ジュニア、副官として息子のダグラス・マッカーサーを連れていた。

戦争の性格[編集]
日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また二国間のみならず帝国主義宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。
このことから、横手慎二は日露戦争第0次世界大戦 (World War Zero) であったとしている[9]。

背景[編集]
朝鮮半島をめぐる日露対立[編集]
大韓帝国冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。
ロシアは高宗を通じ売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、
ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。

当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。
1904年(明治37年)2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。

大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。

一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。
戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。

日英同盟[編集]
ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。
ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。
これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。

近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。
朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。

世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。
ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年(明治31年)に租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満洲への進出を押し進めていった。

1900年(明治33年)にロシアは清で発生した義和団の乱義和団事変、義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた。
ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。
ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。

ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年(明治35年)に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。

日本政府内では小村寿太郎桂太郎山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。

1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山縣の別荘・無鄰庵で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰菴会議」が行われた。
桂は、
満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること[10]」、
「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず[11]」
という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。

桂は後にこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映されることになる。

日本が二国以上と戦う時は、イギリスの参戦を義務づける条約となっていたことから、露清密約による清国の参戦は阻止された。

直前交渉[編集]
開戦時の戦力比較 (露・日 歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、砲撃支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千、予備部隊400万対46万)

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。
しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。

さらにニコライ2世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。
常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。
ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(後の十月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。
ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。
またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。
そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。
同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。

各国の思惑[編集]
南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行った。
露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側であったが具体的な支援は行っていない。

なお、イギリスとフランスは開戦直後の1904年4月8日に英仏協商を結んでいる。

外貨調達[編集]
[12]戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。
当時、政府の戦費見積もりは4億5千万円であった。
日清戦争の経験で戦費の1/3が海外に流失したので、今回は1億5千万円の外貨調達が必要であった。
この時点で日銀の保有正貨は5千2百万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかった。

外国公債の募集には担保として関税収入を当てることとし、発行額1億円、期間10年据え置きで最長45年、金利5%以下との条件で、高橋是清(外債発行団主席)は桂総理・曾禰蔵相から委任状と命令書を受け取った。

開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。
これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。
とくにフランス系の投資家はロシアとの同盟(露仏同盟)の手前もあり当初は非常に冷淡であった。
またドイツ系の銀行団も慎重であった。

是清は4月にイギリスで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行の成算を得た。

またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視するドイツ系のアメリカユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得、ニューヨークの金融街として残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した[13]。
この引き受けについてはロンドン金融街としてもニューヨークの参加は渡りに舟の観があった。
第1回は1904年5月2日に仮調印にこぎつけた。
なお、イギリスのデーヴィッド・キャメロン首相の高祖父は、当時の香港上海銀行ロンドン支店長であり、高橋が戦費調達のため、イギリスを訪れた際には、この支店長から助力を得たというエピソードがある[14]。

結果当初の調達金利を上回る6%での調達(割引発行なので実質金利は7年償還で約7%)となったが、応募状況はロンドンが大盛況で募集額の約26倍、ニューヨークで3倍となり大成功の発行となった。
1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0%(償還7年で実質約7.4%)を底として、1905年3月の第3回では4.5%での借り換え調達(3億円、割引発行なので償還20年で実質5.0%、担保は煙草専売益)に成功した。
第3回からはドイツ系の銀行団も参加し募集は大盛況、第5回からはフランス系の銀行団も参加したが(英・仏ロスチャイルドもこの回でともに参加)このときにはすでに日露戦争は終結していた。

結局日本は1904年から1906年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1億3000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行した。
この内最初の4回、8200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。
完済したのは1986年(昭和61年)である。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。

 国の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2629万円とされる[15][16]。

経過[編集]

日露戦争の経過
開戦時の両軍の基本戦略[編集]
日本側
海軍が第一艦隊と第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。
その後陸軍が第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。
さらにこれらに第三軍、第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。
のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。
海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。
軍令機関が陸海軍並列対等となった初めての戦争である。

ロシア側
日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。
鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。
迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引き付けながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。
太平洋艦隊は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。
ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦オスリャービャが間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかった。

開戦[編集]
日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。
この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。
同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。
瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。
2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた[17]。
2月23日には日本と大韓帝国の間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。

ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。
連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。
4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。

一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。
これに対し日本海軍は第三艦隊に代わり上村彦之丞中将率いる第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。
この時捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった[18]。

旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦[編集]
黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。
続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。
南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。
東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。
第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。
6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。

旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定した。

だが海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。

4月6日に行われた陸軍の大山巌参謀総長児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文には「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある[19]ように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し続け、閉塞作戦失敗後は機雷による封鎖策に転換し、4月12〜13日に実施されたが失敗した。

ロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。
このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。
軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が命された。

6月20日現地総司令部として満州軍総司令部が設置され、大本営から指揮権が移された。

6月8日に大連に到着した第三軍司令部は、既に上陸していた第一、第十一師団(共に第二軍より抽出された)を貴下に加えて前進を開始し、6月26日までに旅順外延部まで進出した。
7月12日には伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入る。
8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向け砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。
これを受けて旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。

この海戦で旅順艦隊が失った艦艇はわずかであったが、今後出撃できないような大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦コルサコフ海戦)。
ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈するなど(常陸丸事件)活発な通商破壊戦を続けていたが、8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。
第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与えその後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。
旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。
だがロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。

8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。
8月24日-9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。
ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。
10月9日-10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。
こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。

10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。

旅順攻略[編集]
第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。
しかしながら港湾への大弧山からの観測射撃を8月~10月まで、黄海海戦を挟んで実施し旅順艦隊の壊滅には成功していた。
しかし日本側にそれを確認することができず、その後の作戦運用に混乱をもたらすことになった。

第三軍は、要塞東北方面の防衛線を突破しその背後にある、旅順要塞で最高峰である「望台」を占領することで要塞の死命を制し、海軍の要望も果たそうとした。
9月19日と10月26日の前後に分けて行われた第二回総攻撃は、突起部を形成している第一回総攻撃で占領した拠点の周辺を安定化させることを目的とし、203高地以外の作戦目標を攻略して目的を達成していたが、中央には失敗と判断された。

この際に第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼ全てを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引き籠っている海域だけが俯瞰できず、このころより海軍は、より旅順港を一望できる203高地の攻略を優先するよう要請をしだす。
この海軍の要請に大本営も追認するが、第三軍と、上級司令部である満州軍は東北方面主攻を主張し続け対立。
大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針を変更するよう促す。

11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが、途中より乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取り止め、203高地攻略に方針を変更する。
戦況を懸念した満州軍総参謀長児玉源太郎大将は、大山巌元帥の了承をもらって旅順方面へ向かっていたが、直前に乃木が攻撃目標を変更したことを受けて、その攻略に尽力した。

激戦の末、12月4日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。
しかしその後も要塞は落ちず、第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行し、翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領。
これを受けてロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意。
旅順艦隊は203高地を奪われた時点で、既に艦砲と乗員を陸地に揚げて防衛戦に投入しており、戦力としては無力化していたが、観測射撃を受けるようになった。
しかし日本側の砲弾の品質問題などで殆どの艦は船底を貫通されることはなく、殆どの艦艇は要塞降伏前後に、すぐさま使用できないように全て自沈させられた。

沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導のもと、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。
一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。2月には第三軍が戦線に到着した。

奉天会戦[編集]
日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。
2月21日に日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。
ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。
3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。
日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。

この結果を受けて日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。
一方両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。

日本海海戦[編集]
バルチック艦隊は7ヶ月に及んだ航海の末日本近海に到達、5月27日に連合艦隊と激突した(日本海海戦)。
5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。
これに対して連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻という、近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。

欧米各国における「ロシア有利」との予想をくつがえすだけでなく、バルチック艦隊が壊滅するという予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、
トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させた。
この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされたロシア側も和平に向けて動き出した。

樺太攻略[編集]
日本軍は和平交渉の進むなか7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。
この占領が後の講和条約南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる[20]。

講和へ[編集]
ロシアでは、日本軍に対する相次ぐ敗北とそれを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、国民の間には厭戦気分が蔓延し併せて経済も停滞の一途をたどり、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。
さらにバルチック艦隊が壊滅し制海権も失っていた上に、日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけ、国家としての戦争継続が困難な情勢となっていた。

日本は勝利に次ぐ勝利でロシアを土壇場まで追い詰めたものの、19か月の戦争期間中に戦費17億円[要出典]を投入、戦費のほとんどは戦時国債によって調達し、
また当時の日本軍の常備兵力20万人に対して総動員兵力は109万人に達したことなどから、国内産業の稼働が低下し経済的にも疲弊するなど国力の消耗が激しかったことから、講和の提案を拒否しなかった。

アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

1904年
2月 6日 : 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。 23日 : 大韓帝国と日韓議定書を結ぶ  12日 : 清国が局外中立を宣言する
8日 : 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸。
8日 : 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
9日 : 仁川沖海戦
10日 : 相互宣戦布告
24日 : 第一次旅順口閉塞作戦
3月 27日 : 第二次旅順口閉塞作戦   
4月  1日 : 非常特別税法、煙草専売法を公布する  8日 : 英仏協商が締結される
5月 1日 : 鴨緑江会戦   
8日 : 日本軍、遼東半島に上陸開始
6月  15日 : 常陸丸事件
20日 : 満州軍総司令部を設置する    
7月   28日 : ヴャチェスラフ・プレーヴェ内務大臣、暗殺される 
8月 10日 : 黄海海戦 22日 : 大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ  
14日 : 蔚山沖海戦
19日 : 第一回旅順総攻撃
30日 : 遼陽会戦
9月    
10月 9日 : 沙河会戦   
15日 : バルチック艦隊出航
11月 26日 : 第二回旅順総攻撃   
12月 5日 : 日本軍、旅順口203高地を占領   
31日 : 第三回旅順総攻撃
1905年
1月 2日 : 旅順開城 1日 : 非常特別税法改正法、塩専売法、相続税法を公布する
28日 : 竹島を命名し島根県の管轄とする閣議決定 22日 : 血の日曜日事件が起きる
各地でストライキが起きる 
25日 : 黒溝台会戦
2月    
3月 1日 : 奉天会戦 8日 : 鉱業法を公布する  31日 : 第一次モロッコ事件
4月    
5月 27日 : 日本海海戦   
6月 9日 : セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告   各地で反乱・暴動起きる(ロシア第一革命の始まり)
14日 : 戦艦ポチョムキンの反乱が起きる 7日 : ノルウェースウェーデンからの分離独立を宣言する
12日 : ロシア、講和勧告を正式に受諾
7月 7日 : 日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始) 29日 : 桂・タフト協定を締結する 23日 : ニコライ2世ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世とビヨルケ密約を結ぶ 
31日 : 日本軍、樺太を占領
8月 9日 : ポーツマスで日露講和会議が始まる 12日 : 日英同盟を改訂する  20日 : 孫文、中国同盟会を結成(於東京)
9月 1日 : 日露両国、休戦議定書に調印(休戦) 5日 : 日比谷焼打事件  
5日 : 日露両国、日露講和条約ポーツマス条約)調印
10月 14日 : 日露両国、日露講和条約ポーツマス条約)批准(終戦)  ゼネラル・ストライキが起きる
17日 : ニコライ2世、十月詔書に署名する 
 
影響[編集]

日本[編集]
日本はこの戦争の勝利でロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで日露関係は急速に改善し、革命によりロシア帝国が崩壊するまでその信頼関係は維持された。
この条約により相互の勢力圏は確定され日本は朝鮮半島の権益を確保した上、ロシア帝国の軍事的脅威を排除して当面の安全保障を達成した。
また新たに東清鉄道の一部である南満洲鉄道を獲得するなど満洲における権益を得ることとなった。

こうして、日本は最大の目標は達成した。
しかし講和条約の内容は、賠償金を取れないなど国民にとって予想外に厳しい内容だったため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こった。
結果戒厳令が敷かれるにまでに至り、戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。

これはいかなることであれロシア側へ弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民の期待を煽ったために修正が利かなくなっていたこともあり、
国民の多くはロシアに勝利したものの日本もその国力が戦争により疲弊しきっていたという実情を知らされず、相次ぐ勝利によってロシアが簡単に屈服したかのように錯覚した反動から来ているものである。

なお、賠償金が取れなかったことから、大日本帝国はジェイコブ・シフのクーン・ローブに対して金利を払い続けることとなった。
日露戦争で最も儲けた」シフは、ロシア帝国ポグロム反ユダヤ主義)への報復が融資の動機といわれ、のちにレーニンやトロツキーにも資金援助をした。

しかし、当時列強諸国からも恐れられていた大国であるロシアに勝利したことは、同盟国のイギリスやアメリカ、フランスやドイツなどの列強諸国の日本に対する評価を高め、
明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与したのみならず、非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、後には「五大国」の一角をも占めることとなった。

この戦争において日本軍および政府は、旅順要塞司令官ステッセルが降伏した際に帯剣を許すなど、武士道精神に則り敗者を非常に紳士的に扱ったほか、戦争捕虜を非常に人道的に扱い日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。
日本軍は国内各地に捕虜収容所を設置したが、愛媛県の松山にあった施設が著名であったため、ロシア兵側では降伏することを「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある[21]。
終戦後、日本国内のロシア兵捕虜はロシア本国へ送還されたが、熊本県の県物産館事務所に収容されていたロシア軍士官は帰国決定の日に全員自殺している[22]。

また、元老でありながら参謀総長として戦争を指揮した山縣有朋の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論[23]とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱えて、1907年には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「帝国国防方針」案が纏められる。
だが、戦後の財政難から師団増設は順調にはいかず、18師団を20師団にすることの是非を巡って有名な2個師団増設問題が発生することになった。

日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦後、ロマン・コンドラチェンコによって築かれていた旅順要塞の堡塁を模倣し、
永久防塁と呼ばれた演習用構造物を陸軍習志野錬兵場内に構築、演習などを行い要塞戦の戦術について研究したというエピソードが残されており、当時の陸軍に与えた影響の大きさを物語っている。
なお、脚気惨害については、「陸軍での脚気惨害」、「海軍の状況」を参照のこと。

ロシア[編集]
不凍港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、この敗北を期に極東への南下政策を基にした侵略を断念した。
南下の矛先は再びバルカンに向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。
このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの侵略を企むオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。

また、戦時中の国民生活の窮乏により、血の日曜日事件戦艦ポチョムキンの叛乱等より始まるロシア第一革命が発生することになる。

西欧[編集]
イギリスは日露戦争に勝利した日本への評価を改め、1905年8月12日にはそれまでの日英同盟を攻守同盟に強化する(第二回日英同盟協約)。
また日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ日露協約、英露協商を締結した。
既に締結されていた英仏協商と併せて、欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟の対立へと向かった。
こうしてイギリスは仮想敵国を、日露戦争の敗北により国力が疲弊したロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大していく。

イギリスでは「教育勅語」こそ日本発展の原動力として、菊池大麓博士に講演を依頼したほどであった。ドイツのヴィルヘルム2世はドイツ軍に「汝らは日本軍隊の精神にならえ」と訓話をした。

アメリカ[編集]
アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでおり、日露講和後は満州でロシアから譲渡された東清鉄道支線を日米合弁で経営する予備協定を桂内閣と成立させていた(桂・ハリマン協定、1905年10月12日)。
これはアメリカの鉄道王ハリマンを参画させるというもので、ハリマンの資金面での協力者がクーン・ローブすなわちジェイコブ・シフであった。
この協定は小村外相の反対によりすぐさま破棄された。
日本へ外債や講和で協力したアメリカはその後も「機会均等」を掲げて中国進出を意図したが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。

大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され1906年ノーベル平和賞を受賞したが、彼の対日感情はポーツマス講和への協力以降、急速に悪化してゆく。またルーズベルト大統領は新渡戸稲造の『武士道』を陸海軍に教科書として配布した。

急激に国力と存在感を高めた黄色人種国である日本への人種差別感情に併せて、中国利権からの締め出しによる焦り、さらに日比谷焼打事件の際、日本の群衆の怒りが講和を斡旋したアメリカにも向けられて東京のアメリカ公使館などが襲撃の対象となったことなどを受けて、アメリカの世論は憤慨し黄色人種への人種差別感情をもとにした黄禍論が高まっていく。

これら日米関係の急速な悪化により、第二回日英同盟協約で日本との同盟を攻守同盟の性格に強化したばかりのイギリスは、新たに巻き起こった日本とアメリカの対立に巻き込まれることを恐れ始めた[24]。

清朝[編集]
日露戦争の戦場であった満洲清朝の主権下にあった。
満洲族による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという封禁政策を取り、中国内地のような目の細かい行政制度も採用しなかった。
開発も最南部の遼東・遼西を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れ、東清鉄道やハルビンを始めとする植民都市の建設まで許すこととなった。
さらに義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。
1901年の北京議定書締結後もロシアの満洲占拠が続いたために、張之洞や袁世凱は東三省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。
しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。

終戦後は、日本は当初唱えていた満洲に於ける列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。
こうした状況に危機感をつのらせた清朝は直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努め、終戦の翌々年の1907年には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。
ある推計によると、1880年から1910年にかけて、東三省の人口は743万4千人から1783万6千人まで増加している[25]。
さらに同年には袁世凱の北洋軍の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。

また、日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。
また、1917年のロシア帝国崩壊後は日本が一手に利権の扶植に走り、1932年には満州国を建国した。
第二次世界大戦で日本が敗れて満州国が滅亡すると、代わって侵攻してきたソ連が進駐に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。
中華民国を継いだ中華人民共和国満洲を完全に掌握したのは1955年のことであり、日露戦争から50年後のことであった。

現代中国の高校歴史教科書では日露戦争について、日本あるいはロシアの近代化過程の一部として触れられているものの、詳しく言及はしない(清朝の領土で起きた点を中心に記述するのが多い)。[要出典]

大韓帝国[編集]
開戦前の大韓帝国では、日本派とロシア派での政争が継続していたが、日本の戦況優勢を見て、東学党の系列から一進会が1904年に設立され、大衆層での親日的独立運動から、日本の支援を受けた合邦運動へ発展した。ただし当初の一進会の党是は韓国の自主独立であった。

戦争後、ロシアによる脅威がなくなった朝鮮半島では日本の影響が絶大となり、のちに大韓帝国は様々な権利を日本に委譲することとなり、さらには日本の保護国となる。
1910年(明治43年)の日韓併合条約の締結により、大韓帝国は日本に併合し滅亡した。

モンテネグロ公国[編集]
モンテネグロはロシア側に立ち、1905年日本に宣戦布告し、ロシア軍とともに戦うため義勇兵満州に派遣していた[26]。
しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。
後に第一次世界大戦ではともに連合国として戦うことになったが、モンテネグロ王国はその最中セルビア王国によって併合された(ユーゴスラビア王国)。
その後第二次世界大戦においてはユーゴスラビアと日本は戦争状態になったが、1952年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国との間で書簡が交わされ、日本とユーゴスラビアの間の戦争状態は日本国との平和条約発効の日(1952年4月28日)をもって終了することが合意された[27]。

しかしその後、セルビア・モンテネグロ(旧名ユーゴスラビア連邦共和国)からモンテネグロが独立する際にこの問題がとりあげられた。モンテネグロおよびセルビア・モンテネグロユーゴスラビア社会主義連邦の継承国であると認められておらず、モンテネグロと日本との戦争状態に関する条約は不在の状態となった。
2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男衆議院議員は、
「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議モンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか。」
との内容の質問主意書を提出した[28]。
これに対し日本政府は、
「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない。」
との答弁書を出している[29]。

2006年6月3日のモンテネグロ独立宣言に際し、日本政府は、6月16日に独立を承認し、山中あき子外務大臣政務官を総理特使として派遣した[30]。UPI通信は、6月16日、ベオグラードのB92ラジオのニュースを引用し、特使は独立承認と100年以上前に勃発した日露戦争の休戦の通達を行う予定と報道した[31]。ただし日本国外務省からは、特使派遣報告をはじめとして日露戦争や休戦に関連する情報は出されていない[32]。(参考:外交上の終結まで長期にわたった戦争の一覧)。

なお、日英同盟の規定により、当時の日本が二ヶ国以上と戦争状態になった場合、イギリスにも参戦義務が生じることとなる。仮に日本がモンテネグロの宣戦布告を無視しなかった場合、かなり厄介な問題を引き起こすこととなった[33]。

その他各国[編集]
当時、欧米列強の支配下にあり、第二次世界大戦後に独立した国々の指導者達の回顧録に
「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」
と記される[34]など、欧米列強による植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる[35]。
ほかにもトルコでは「東郷通り」などの名称をつけられ、子供に「トーゴー」や「ノギ」の名前を付ける人が今でもいるという。

また、第一次エチオピア戦争で、エチオピア帝国イタリア王国に勝利した先例があるが、これは英仏の全面的な軍事的支援によるものであった。
そのため、日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える。また、絶対君主制ツァーリズム)を続ける国に対する立憲君主国の勝利という側面もあった。
いずれにしても日露戦争における日本の勝利が及ぼした影響は大きく、日本に来ていたドイツ帝国の医者エルヴィン・フォン・ベルツは、自分の日記の中で日露戦争の結果について「私がこの日記を書いている間にも、世界歴史の中の重要な1ページが決定されている」と書いた。

実際に日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文辛亥革命オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えている。

なお、日露戦争での日本の勝利は、当時ロシアの支配下にあったフィンランドをも喜ばせ、東郷平八郎の名が知れ渡り「東郷ビール」なるビールが製造されたとの逸話があるが、これは誇張ないし誤りである。
実際にフィンランドのビール会社が製造した「東郷ビール」は、全24種のラベルがある「提督ビール」(Amiraali Olut) のうちの一つに過ぎない。この提督ビールには、東郷平八郎以外にも山本五十六、そしてロシア海軍の提督の肖像が使われている。

その後の日露関係[編集]
満州へのアメリカ進出を警戒した日露両国は次第に接近した。1907年、日露両国は第一次日露協約を締結し、相互の権益を保全するという合意を締結した。以降、日露関係はほとんど同盟状態に近いものとなった[36]。しかしロシア革命の勃発によってこの関係は崩壊することになる。

発行物[編集]
特殊切手として(1906年4月29日)、1銭5厘、3銭の切手が発行された。

日露戦争を題材とした作品[編集]

小説[編集]
司馬遼太郎坂の上の雲』全8巻、文春文庫、1999年、ISBN 4167105764, ISBN 4167105772, ISBN 4167105780, ISBN 4167105799, ISBN 4167105802, ISBN 4167105810, ISBN 4167105829, ISBN 4167105837
吉村昭 『海の史劇』、新潮文庫、1981年、ISBN 4101117101
田山花袋 『一兵卒』(青空文庫

詩[編集]
与謝野晶子『君死にたまふことなかれ』(1904年9月、雑誌『明星』に掲載)

脚注[編集]
1.^ 露清密約(特に1900年締結第二次露清密約)により、ロシア帝国の事実上の植民地状態にあった。
2.^ 靖国神社資料、靖国神社戦争別合祀者数による。日本長期統計総覧によれば死没84,435人(帝国書院[1])、(戦死戦病死は「日清戦争ヨリ満州事変ニ至ル日本外交ノ経済的得失」[2]によれば55,655人
3.^ 日本長期統計総覧による帝国書院[3])
4.^ 時事ドットコム日露戦争のロシア将兵捕虜(2012/11/26-14:36)
5.^ Samuel Dumas, Losses of Life Caused By War (1923)
6.^ 時事ドットコム日露戦争のロシア将兵捕虜(2012/11/26-14:36)
7.^ ロシアと同盟を結んでいたモンテネグロ(当時はモンテネグロ公国)も日本に対し宣戦を布告したという説もある。いずれにせよ実際の戦闘には参加せず。
8.^ NHK高校日本史・日清戦争 〜中国観の変化〜
9.^ 横手慎二『日露戦争史――20世紀最初の大国間戦争』(中央公論新社[中公新書], 2005年)、John W. Steinberg・Bruce W. Menning・David Schimmelpenninck van der Oye・David Wolf・横手慎二共著“The Russo-Japanese War in Global Perspective (History of Warfare)”BRILL; illustrated edition edition (February 28, 2007)
10.^ 徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』541ページ(原本の漢字表記は旧字)
11.^ 徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』539-540ページ(原本の漢字表記は旧字)
12.^ この項目、「マーチャント・バンク」山本利久(新潟産業大学経済学部紀要 弟29号)[4]より起筆した。
13.^ 「財務省今昔物語7」寺井順一(財務総合政策研究所主任調査官)[5][6]
14.^ “日露戦争の戦費、英首相の高祖父から助力…首相”. 読売新聞. (2013年6月20日) 2013年6月20日閲覧。
15.^ 帝国書院・資料統計・歴史統計・戦争別戦費[7]

16.^ 日露戦争ではしばしば高橋による外債工面が注目されるが、金本位制においては正金は交換の媒体にすぎず、海外からの物資調達は日本からの交易品輸出により支弁され正金はその融通のための仮の穴埋め(ヴェール)にすぎない。
高橋の外貨調達がなければ決済資金不足により海外との交易が途絶する可能性があったためロンドン金融街とシフらによる与信供与の重要さは特筆されるものであるが、彼らが日本人の為に費用を負担してくれたのかと言えばそうではなく、日本人を信用して資金を用立ててくれたという事である。
最終的な戦費は(外債用の支払い利息を含め)すべて日本政府(すなわち日本人)が負担した。ポーツマス条約で戦争賠償金が期待できないことが明らかになるとロンドンにおける日本国外債の評価は一時混乱した。

17.^ 日本軍による戦闘行為は国交断絶後に開始されており当時は国際法上合法とされた。
18.^ 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』「江田島移転のころ」(原書房)、アジア歴史資料センター「????三隻の被補者員数取調の件」(Ref:C04014276700 )
19.^ 長南政義「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)132p。他にも同書132pには期日が不明ながら軍令部参謀山下源太郎の「(陸軍の)上陸直後、海軍は旅順の陸上攻撃を要求せざるべし」との発言があったといい、なるべく陸軍の援助なく独力にて旅順を陥れんとする野心があった。
20.^ 北海道新聞サハリンの日本兵慰霊碑再建を 苫小牧の梅木さん訴え」2008年10月14日
21.^ 捕虜も参照。
22.^ この内、東部シベリア狙撃第13連隊に所属していた「イグナティアン・ドレヴイチャセウイチ」の墓が熊本市のフランシスコ修道院の近くに現存する(熊本市教育委員会『島崎 -歴史と文化財-』1988年)。
23.^ 従来は、島国である日本本土の防衛を重視して海軍の充実が主唱されてきたが、アジア大陸最東部の満洲・韓国を支配圏に置いた以上は、日本も大陸国家としての備え(即ち強力な陸軍)が必要であるとする主張のこと。
24.^ 「日露戦争と日本外交」伊藤之雄[8]PDF-P.63
25.^ 曹樹基著『中国人口史 第5巻』復旦大学出版社、2001年5月、704ページより。やや時間のとっているスパンが長いが、同時期の人口の急激な増加がうかがえる。
26.^ Montenegrina, digitalna biblioteka crnogorske kulture (Montegreina, digital library of Montenegrin culture), Istorija: Đuro Batrićević, citing Batrićević, Đuro. (1996). Crnogorci u rusko-japanskom ratu (Montegegrans in the Russo-Japanese War); retrieved 2011-05-12; compare Dr Anto Gvozdenović: general u tri vojske. Crnogorci u rusko-japanskom ratu (Dr. Anto Gvozdenovic: General in Three Armies; Montegegrans in the Russo-Japanese War)
27.^ 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について- 外務省
28.^ “一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問主意書” 2011年3月19日閲覧。
29.^ “衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問に対する答弁書” 2011年3月19日閲覧。
30.^ モンテネグロの承認及び山中総理特使のモンテネグロ訪問について 外務省 平成18年6月16日
31.^ "Montenegro, Japan to declare truce," UPI通信社 (US). June 16, 2006; "Montenegro, Japan End 100 Years' War," History News Network (US). citing World Peace Herald, June 16, 2006; 2014年8月9日閲覧
32.^ 山中外務大臣政務官のモンテネグロ共和国訪問(概要) 外務省 平成18年6月
33.^ 日英同盟の主旨の一つは、日本とロシアが戦争に突入した際に、フランスなどロシアの友好国が参戦するのを牽制することである。イギリスが簡単に参戦してしまっては、逆にロシアの友好国が参戦する呼び水になってしまう。
34.^ ネルー『父が子に語る世界史』
35.^ たとえばカナダサスカチュワン州ウクライナ系移民は自分達の町にミカドと名付けている。
36.^ Baryshev Eduard第一次世界大戦期における日露接近の背景--文明論を中心として

参考文献[編集]
 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2008年4月)

歴史書[編集]
デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー(著)、妹尾作太男・三谷庸雄(共訳)『日露戦争全史』、時事通信社、1978年、ISBN 4788778254
軍事史学会編 『日露戦争(一)-国際的文脈』、錦正社、2004年、ISBN 4764603187
軍事史学会編 『日露戦争(二)-戦いの諸相と遺産』、錦正社、2005年、ISBN 4764603195

従軍記・回想録[編集]
水野廣徳 『此一戦』、明元社、2004年、ISBN 4902622017
櫻井忠温 『肉弾』、明元社、2004年、ISBN 4902622025
アレクセイ・ノビコフ=プリボイ(著)、上脇進(訳)『ツシマ―バルチック艦隊の壊滅』上、下、原書房、2004年版、ISBN 4562037865, ISBN 4562037873
ニコライ・エドゥアルドヴィチ・ゲインツェ(ロシア語版) 『В действующей армии (Письма военного корреспондента)』(軍では ─従軍記者の手紙より─) (ロシア語)

近年刊行の関連書籍[編集]
野村實 『日本海海戦の真実』、講談社現代新書、1999年、ISBN 4061494619
長山靖生日露戦争 もうひとつの「物語」』 新潮新書、2004年
柘植久慶 『あの頃日本は強かった 日露戦争100年』、中公新書ラクレ、2003年、ISBN 4121501063
山室信一日露戦争の世紀―連鎖視点から見る日本と世界』、岩波新書、2005年、ISBN 4004309581
黒岩比佐子日露戦争 勝利のあとの誤算』、文春新書、2005年、ISBN 4166604732
横手慎二 『日露戦争史 20世紀最初の大国間戦争』 中公新書、2005年、ISBN 4121017927
森貞彦 『日露戦争と「菊と刀」』、東京図書出版会、2004年、ISBN 4434040065
日露戦争研究会 『日露戦争研究の新視点』、成文社、2005年、ISBN 4915730492
児島襄 『日露戦争』全8巻、文春文庫(品切れ)、1994年、ISBN 4167141469, ISBN 4167141477, ISBN 4167141485, ISBN 4167141493, ISBN 4167141507, ISBN 4167141515, ISBN 4167141523, ISBN 4167141531
岡田和裕 『ロシアから見た日露戦争』、2010年、ISBN 4769826680
ゲームジャーナル坂の上の雲5つの疑問』、2011年、ISBN 4890632840


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日露戦争」の書誌情報

第二復員省

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第二復員省の開庁

第二復員省(だいにふくいんしょう)は、海軍省を改組して1945年昭和20年)12月1日に設置された、海軍軍人復員等を主管する中央省庁の1つである。

 解説

1945年(昭和20年)12月1日付を以て海軍省が廃止され、第二復員省が設置された。「第二復員省官制」(昭和20年勅令第680号)に基き設置され、「第一復員省官制の廃止等に関する勅令」(昭和21年勅令第314号)によって廃止された。第二復員省資料整理部(旧軍令部第一部作戦課が中心)では海軍再建の研究も行われ[1]、それらの出身者は海上保安庁から海上警備隊を経て海上自衛隊の創設へと貢献した。

各局長は勅任の、各部長は勅任又は奏任の、秘書官は奏任の第二復員官の中からこれを補された。第二復員書記官は選任1人が定員であった。第二復員属は専任142名が定員であった。第二復員省に勤務する旧海軍将校は1945年(昭和20年)11月30日海軍省廃官により予備役に編入のうえ即日充員召集され、12月1日からは第二復員官[2]、1946年(昭和21年)4月1日からは第二復員事務官[3]として勤務する形式が採られた。

1946年(昭和21年)6月15日に廃止され、第一復員省(旧・陸軍省)と統合して復員庁(旧第二復員省は復員庁第二復員局)となった。

極東国際軍事裁判対策

極東国際軍事裁判では、旧海軍軍令部出身者の豊田隈雄元大佐らを中心に昭和天皇への訴追回避、旧海軍幹部への量刑減刑に秘密裏に奔走した。 裁判開廷の半年前には、永野修身元帥以下の海軍トップを集めて、天皇の責任回避のための想定問答集の策定を行い、米内光政GHQ側と折衝させるなどの工作を行った。そうした結果、昭和21年3月6日にはGHQボナー・フェラーズ英語版准将から米内に対して、天皇免責のために裁判では日本側が証言をするなどの努力が欲しいこと、陸軍に開戦の責任の大部があるなど、裁判についての内々の回答を得たという。

また、BC級戦犯裁判においては、中央への責任問題の波及を避けるため、現地司令官レベルで責任を完結させる弁護方針を立てて証人を隠すなどの工作も行っている。

第二復員大臣

 
第二復員大臣の公印。

第二復員大臣は内閣総理大臣が兼任した(前身の海軍大臣も後身の復員庁総裁も首相が兼任した例はない)。第二復員大臣は海軍大臣の所掌した事項であって、復員及びこれに関するものを掌った。

  1. 幣原喜重郎(1945年(昭和20年)12月1日 - )
  2. 吉田茂(1946年(昭和21年)5月22日 - 6月15日)
第二復員政務次官
  1. 田中亮一(1945年(昭和20年)12月1日 - 12月26日
第二復員次官
  1. 三戸寿海軍中将(1945年(昭和20年)12月1日 - 1946年(昭和21年)6月15日)

出仕には保科善四郎(元海軍中将)、栗原悦蔵(元海軍少将)、矢野志加三(元海軍中将)などがいる。

大臣官房

大臣官房は特に次の事務を掌った。

  1. 需品、燃料及び衣糧に関する事項
  2. 史実調査に関する事項
  3. 終戦連絡に関する事項であって、他の所掌に属しないもの
  4. 医務に関する事項
  5. 海軍における廃止諸部の残務整理に関する事項
  6. 通信に関する事項
大臣官房史実調査部長
  1. 富岡定俊海軍少将(1945年(昭和20年)12月1日 - 1946年(昭和21年)3月31日
大臣官房連絡部長
  1. 横山一郎 元海軍少将(1945年(昭和20年)12月1日 - )

史実調査部には淵田美津雄大佐も属した。また大臣官房臨時調査部法廷係であった冨士信夫少佐(1946年(昭和21年) - )は極東国際軍事裁判東京裁判)の審理の傍聴に当り、後に極東国際軍事裁判の審理について多数の著書を表した。

総務局

総務局は次の事務を掌った。

  1. 所管行政の総合調整に関する事項
  2. 部外交渉一般に関する事項
  3. 特別輸送艦船の運航に関する事項
  4. 掃海に関する事項
  5. 他の所掌に属しない事項
総務局長
  1. 山本善雄 元海軍少将(1945年(昭和20年)12月1日 - 1946年(昭和21年)6月15日)
復員庁に改組後、第二復員局総務部長に。一時同局資料整理部長を兼ねる。

中山定義(元海軍中佐。後に海上幕僚長海将)も総務部に勤務した。掃海課長には、田村久三(元海軍中佐。後に保安庁第二幕僚監部航路啓開部長・警備監)が就いた。

人事局

人事局は人事に関する事務を掌った。

人事局長
  1. 川井巌 元海軍少将(1945年(昭和20年)12月1日 - 1946年(昭和21年)6月15日)
復員庁に改組後、第二復員局人事部長に。

経理局

経理局は次の事務を掌った。

  1. 予算決算資金契約及び給与に関する事項
  2. 会計の監査に関する事項
  3. 国有財産に関する事項
経理局長
  1. 山本丑之助海軍主計中将(1945年(昭和20年)12月1日 - 1946年(昭和21年)6月15日)
復員庁に改組後、第二復員局経理部長に。

法務局

法務局は次の事務を掌った。

  1. 司法及び刑務に関する事項
  2. 規律の維持に関する事項
法務局長
  1. 由布喜久雄 元海軍法務少将:1945年(昭和20年)12月1日[4] - 1946年(昭和21年)1月25日[5]、以後1946年2月1日まで法務局長を置かず。
  2. 島田清 元海軍法務中将:1946年2月1日[6] - 1946年5月28日[7]

地方復員局

日本国内の旧鎮守府と旧警備府計6ヶ所に地方復員局を置き、掃海作業や復員作業の実務を担当させた。

横須賀地方復員局

横須賀地方復員局長官
  1. 古村啓蔵 元海軍少将:1945年12月1日[12] -

呉地方復員局

呉地方復員局長官
  1. 岡田為次 元海軍少将:1945年12月1日[12] - 1946年2月27日[13]
  2. 森下信衛 元海軍少将:1946年2月27日[13] - 1946年6月15日 (復員庁第二復員局に改組。引き続き呉地方復員局長として勤務[14]

佐世保地方復員局

佐世保地方復員局長官
  1. 石井敬之 元海軍少将:1945年12月1日[12] - 1946年3月31日[15]
  2. 一宮義之 元海軍少将:1946年3月31日[15] - 1946年6月15日 (復員庁第二復員局に改組。引き続き佐世保地方復員局長として勤務[14]

舞鶴地方復員局

舞鶴地方復員局長官
  1. 鳥越新一 元海軍少将:1945年12月1日[12] - 1946年6月15日 (復員庁第二復員局に改組。引き続き舞鶴地方復員局長として勤務[14]

大阪地方復員局

  • 管轄区域[8]大阪府和歌山県奈良県兵庫県
  • 大阪地方復員局所管の艦船 (1945年12月1日現在)
    • 掃海艦船[9]
      • 第31、134号哨戒特務艇
        第4、27、183、185、221、241号駆潜特務艇
        第21、22号掃海特務艇
      • 第2鮮友丸、第3鮮友丸、榊丸、安津丸、第3高島丸、太東丸、親和丸
        その他曳船3隻[10]
大阪地方復員局長官
  1. 松崎彰 元海軍少将:1945年12月1日[12] - 1946年6月15日 (復員庁第二復員局に改組。引き続き大阪地方復員局長として勤務[14]

大湊地方復員局

大湊地方復員局長官
  1. 鹿目善輔 元海軍少将:1945年12月1日[12] - 1946年6月15日 (復員庁第二復員局に改組。引き続き大湊地方復員局長として勤務[14]

脚注

  1. ^ 職員の一部が勤務時間外にそのような研究をしていたが、同省同部がそれをおこなっていたわけではない。
  2. ^ 昭和20年11月30日付 勅令第686号。
  3. ^ 昭和21年4月1日付 勅令第191号。
  4. ^ 昭和20年12月26日付 第二復員省辞令公報 甲 第21号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072157700 
  5. ^ 昭和21年2月21日付 第二復員省辞令公報 甲 第65号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072158600 
  6. ^ 昭和21年3月6日付 第二復員省辞令公報 甲 第76号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072158700 
  7. ^ 昭和21年6月4日付 第二復員省辞令公報 甲 第149号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072159300 
  8. ^ a b c d e f 昭和20年12月1日『官報』第5667号。国立国会図書館デジタルコレクション 「官報. 1945年12月01日」 で閲覧可能。
  9. ^ a b c d e f 昭和20年12月1日付 第二復員省 内令第5号。
  10. ^ a b c d e f 昭和20年12月1日付 第二復員省 内令第7号。
  11. ^ a b c d 昭和20年12月1日付 第二復員省 内令第6号。
  12. ^ a b c d e f 昭和20年12月8日付 第二復員省辞令公報 甲 第7号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072157700 
  13. ^ a b 昭和21年3月26日付 第二復員省辞令公報 甲 第92号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072158800 
  14. ^ a b c d e 昭和21年6月24日『官報』第5831号。国立国会図書館デジタルコレクション 「官報. 1946年06月24日」 で閲覧可能。
  15. ^ a b 昭和21年4月16日付 第二復員省辞令公報 甲 第108号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072158900 

関連項目

外部リンク

 
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海軍飛行予科練習生

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海軍飛行予科練習生(かいぐんひこうよかれんしゅうせい)とは、大日本帝国海軍における航空兵養成制度の一つ。志願制。“予科練”(よかれん)と略称で呼ばれることが多い。

戦前

1929年(昭和4年)12月、海軍省令により予科練習生の制度が設けられた。「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戦技教育が行われた。全国からの志願者5807名から79名が合格し、1930年昭和5年)6月、第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した(後の乙飛)。

1936年(昭和11年)12月、「予科練習生」から「飛行予科練習生」へと改称。1937年(昭和12年)、更なる搭乗員育成の為、旧制中学校4学年1学期修了以上(昭和18年12期生より3学年修了程度と引き下げられた)の学力を有し年齢は満15歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設けた。従来の練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。甲飛の募集の際、海軍兵学校並みの待遇や進級速度が喧伝され、また甲飛の応募資格が海軍兵学校の応募資格(旧制中学校4学年修了程度)と遜色なかったために、海軍の新設航空士官学校との認識で甲飛に入隊した例も多かった。ところが、兵学校相当の難関試験に合格し、晴れて入隊した練習生に与えられた階級は海兵団で訓練中の新兵らと同じ最下級の四等水兵で、制服も水兵服であった。それらの低待遇に失望した生徒が、母校の中学後輩に「予科練は目指すな」と愚痴をこぼすまで問題になった。

当初は、横須賀海軍航空隊追浜基地がその教育に用いられたが、手狭なため、1939年(昭和14年)3月、予科練の教育を霞ヶ浦海軍航空隊に移した。翌年同基地内に新設された土浦海軍航空隊に担当が変更された。

1940年(昭和15年)9月、海軍の下士官兵からの隊内選抜の制度として従来から存在した操縦練習生(操練)・偵察練習生(偵練)の制度を、予科練習生の一種として取り込み、丙種飛行予科練習生(丙飛)に変更した。

戦中

 
当時の予科練生

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まると、航空機搭乗員の大量育成の為、予科練入隊者は大幅に増員された。甲飛1期生-11期生の採用数は各期200名-1000名程度であったが、12期生4000名、13期生以降は、各期3万人以上の大量採用となる。養成部隊の予科練航空隊は全国に新設され、土浦航空隊の他に岩国海軍航空隊三重海軍航空隊鹿児島海軍航空隊など、最終的には19か所に増えた。

1943年(昭和18年)から戦局の悪化に伴い、乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。また、1944年(昭和19年)10月頃に、海軍特別志願兵制度で海軍に入隊していた朝鮮人日本兵台湾人日本兵を対象にした特別丙種飛行予科練習生(特丙飛)が新設され、特丙飛1期が乙飛24期と同じ12月1日に鹿児島空へ配属された[1]

戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の中核を占めた。故に戦死率も非常に高く、期によっては約90%が戦死するという結果になっている。また昭和19年に入ると特攻の搭乗員の中核としても、多くが命を落としている。

昭和19年夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かった。中には、航空機搭乗員になる事を夢見て入隊したものの、人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいた。

終戦間際は予科練自体の教育も滞り、基地や防空壕の建設などに従事する事により、彼等は自らを土方(どかた)にかけて「どかれん」と呼び自嘲気味にすごした。例えば三重の予科練では、朝鮮半島の人々を予科練教官が指揮して、軍艦を隠すための穴を掘らせるなどの行為が行われた。1945年(昭和20年)6月には一部の部隊を除いて予科練教育は凍結され、各予科練航空隊は解隊した。一部の特攻要員を除く多くの元予科練生は、本土決戦要員として各部隊に転属となった。

教育

教育は、普通学(12科目)・軍事学(9科目)・体育(10種目)など多岐にわたり、当初の履修期間は2年11か月だった。その後、履修期間は徐々に短くなり、終戦直前には1年8か月で、海軍二等飛行兵から海軍飛行兵長に昇格し終了した(乙飛、1942年以降の階級)。甲飛の履修期間も当初の1年2か月から終戦前には6か月に短縮された。修了後は練習航空隊で飛練教育を受け、その後実戦部隊に配備された。

分類

 
十八期の碑(京都市
  • 甲種飛行予科練習生(甲飛)
    • 1937年(昭和12年)発足。
  • 乙種飛行予科練習生(乙飛)
    • 1930年(昭和5年)発足。
  • 丙種飛行予科練習生(丙飛)
    • 1940年(昭和15年)発足。操縦練習生・偵察練習生の制度に代わるもの。特乙飛制度の新設によって廃止となった。
  • 乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)
    • 1942年(昭和17年)12月発足。
  • 特別丙種飛行予科練習生(特丙飛)
    • 1944年(昭和19年)12月に第1期教育開始。海軍特別志願兵の朝鮮人日本兵・台湾人日本兵対象。実例は1期(朝鮮出身者50人・台湾出身者50人)のみで、鹿児島空で教育開始後、1945年6月に土浦空へ異動して教育中に終戦[1]

甲飛と乙飛の対立

甲種飛行予科練習生制度の導入以降、両制度を甲・乙と言う優劣を表す名前に変更した為、また昇進速度の違いなどもあり、練習生間での対立が問題となった。予科練航空隊を増設する際、甲飛・乙飛を分離する計画もあったが、戦況の悪化によって後発航空隊による甲乙分離計画は立ち消えとなり、末期まで尾を引いた。

その他

予科練を表す軍歌として『若鷲の歌』がある。

1942年(昭和17年)11月からは制服を軍楽兵に範を取った「七つ釦」の制服を採用する事になった。制服には7個のボタンが付いており、"7つボタン"と言えば予科練を表す言葉であった。練習生の制服には佩刀の制度はない。服制の詳細については、軍服_(大日本帝国海軍)#飛行練習生等参照。

予科練出身者の顕彰と平和学習のための施設として、土浦海軍航空隊の跡地に「予科練平和記念館」が開館している。

予科練出身の著名人

映像

原作・脚色:伏見 晃 監督:佐々木 康
出演:本郷英雄、水島光代、日下部 章、石山隆嗣、飯田蝶子笠智衆
脚本:山崎謙太、山本嘉次郎 監督:山本嘉次郎
出演:伊東薫原節子藤田進英百合子河野秋武
脚本:八住利雄 監督:渡辺邦男
出演:高田稔原節子、小高まさる、英百合子黒川弥太郎
  • 映像資料『海軍飛行予科練習生-予科練の若き戦士たち-』
製作:株式会社 日本映画新社 平成9年(1997年)製作
販売:日本クラウン株式会社

脚注

  1. ^ a b 日高(2007年)、256-257頁。

参考文献

関連項目

外部リンク

 最終更新 2015年4月15日 (水) 08:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

「海軍飛行予科練習生」の書誌情報

 

海軍兵学校

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海軍兵学校(かいぐんへいがっこう、1876年明治9年) - 1945年昭和20年))は、明治から昭和の太平洋戦争終戦まで存続した大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関である。

 

概要

戦前、江田島といえば、海軍兵学校を意味した。

海軍兵学校は、海軍機関学校海軍経理学校とともに生徒三校と呼ばれた。その規模ではイギリス王立海軍兵学校アメリカ合衆国海軍兵学校とともに、世界でも最大の兵学校の一つで、全78期[1]から、総計1万2433名の卒業生を出している。

江田島に通った軍人は、同じ釜の飯を食った海軍兵学校の同期(クラスと呼ばれた)を何よりも大切にした。日本海軍にいる限り、どうしても出世に差が生じ、クラスでも上官と部下になることもあったが、職務を離れれば「貴様と俺」で話が通じる対等の立場であるという不文律があった。クラス同士の会合は準公務として扱われ、またクラスが戦死した場合残された家族は生き残ったクラスが可能な限り面倒を見るという暗黙の了解が存在していた[2]。こうしたことは美風として語られ、戦後に至るまで兵学校出身者の絆は強かった。

第二次世界大戦中、国内の諸学校で英語教育が敵性語であるという理由で廃止縮小されるなか、井上成美校長の強い信念で従前通り英語教育が継続され、徹底した教養教育もなされた。このことが礎になって、坂元正一東京大学名誉教授(皇族産婦人科担当医を長年務める)や、建築家池田武邦(日本の高層建築のパイオニア)など、戦後、各界でリーダーとして活躍している卒業生、元生徒も多い[3]

戦後の学制改革に伴い、学歴としての「海軍兵学校卒業」は、その他の「海軍生徒学校卒業」および「陸軍生徒学校卒業」とともに、国・地方自治体・民間企業等における学歴免許等資格区分では短期大学卒と同等と扱われるようになった[4]

批判

行過ぎたエリート意識、貴族趣味、排他性が機関科士官、特務士官や戦争末期の学徒出陣による予備士官に対する差別、下士官兵への露骨な差別に繋がったとの批判もある[5]

江田島兵学校の所在地に選定された理由は、

  1. 軍艦の錨泊が出来る入江があること。
  2. 文明と隔絶し、いわゆる娑婆の空気に汚されずに教育に専念できる環境を持つこと。
  3. 気候が温暖で、安定していること。

この3点を備えていたためである。

沿革

 
海軍兵学寮の碑(左)及び海軍軍医学校の碑(右) 国立がん研究センター築地キャンパス構内 兵学寮の碑の揮毫者は齋藤實
 
教育参考館(2010年代に撮影)

1869年(明治2年)、前身の海軍操練所が東京・築地の元芸州屋敷内に創立開設された。1870年(明治3年)、海軍兵学寮と改称し、1876年(明治9年)、改称されて海軍兵学校が開校。築地時代に明治天皇が皇居から海軍兵学校まで行幸した道が、現在のみゆき通りである。

1888年(明治21年)に呉市呉鎮守府に近接した広島県安芸郡江田島町(現在の江田島市)に移転した。「本校舎の赤煉瓦は一つ一つ紙に包まれ軍艦でイギリスから運ばれた」と伝えられているが、実際は当時レンガの生産を始めた安芸津町(現在は東広島市安芸津町)で作られたという説もある。[要出典]

海軍機関学校関東大震災で校舎が全焼したため、一時期江田島海軍兵学校の校舎を借りて教育が行われた。海軍兵学校の52期から55期まで、海軍機関学校の33期から36期までの生徒が同じ地で教育を受けて関係を深めた。

1939年(昭和14年)より、採用生徒数(71期)は1936年(昭和11年)の採用生徒数(300人)と比較して倍増(600人)した。これは1937年(昭和12年)の第3次軍備拡張計画により、大型戦艦の建造、航空隊が倍増されるための要員確保のためであり、1941年(昭和16年)には採用生徒数(73期)は900人となり、その後の採用生徒数は拡大の一途を辿った。

 

1943年(昭和18年)11月15日には岩国分校が、1944年(昭和19年)10月1日には大原舞鶴分校、1945年(昭和20年)3月1日には針尾分校がそれぞれ開校された。このうち舞鶴分校は海軍機関学校の分校として開学した。針尾分校は1945年(昭和20年)7月に防府通信学校疎開して閉校となった。1945年(昭和20年)12月1日までに全校が廃校となり、消滅した。

江田島兵学校跡は、1956年(昭和31年)以降、海上自衛隊第1術科学校および幹部候補生学校になっており、明治時代の赤煉瓦の校舎や、教育参考館などが残されている。

生徒の採用

以下の事柄は時代によって多少の違いがあるが、必要受験資格は受験年齢は16歳から19歳の年齢制限があり、身体条件を満たす者、中学校第四学年修了程度の学力、独身者、犯歴の無い者とされた。銓衡にあたり、最初に身体検査、運動機能検査で学術試験受験者が決定され、学術試験は5日間連続で行われた。学術試験は数学に始まり、英語(和訳)と歴史、物理、化学と国語(漢文も含む)、英語(英作文、文法)と地理の順に行われ、それぞれの学術試験の採点結果は当日に発表され、所定の合格点数に達した者のみが次の学術試験を受験できる篩い落とし選考であった。その後、面接試験を経て最終合格者が決定された。志願者の増加と共に内申書による事前選考が行われるようになった。日本海軍の人事政策では兵学校出身者は特別の事情がない限り、大佐まで昇進させる方針を採っており、採用生徒数は海軍の軍備政策と密接な関係にあった。

海軍兵学校設立の明治時代から、この海軍兵学校に入学するための予備校的な学校が、全国に存在していた。主な予備校的な学校には、明治初期は、東京の攻玉社、明治中期以降は、東京の海軍予備校海城中)が有名で、数多くの合格者を出した[6]。その他に、神奈川の湘南中横須賀中逗子開成中、兵庫の鳳鳴義塾、広島の修道中、山口の鴻城中、高知の海南学校、佐賀の三養基中などがあった。その後、大正時代頃になってくると、先駆的な私立の予備校的学校の進学実績は減少していった。なお、これらの予備校的な学校は、戦後の学制改革により制度が変更がされ、海上自衛隊との関連はなくなった。

また、第65期(昭和9年4月入学)から第69期(昭和13年)4月入学)の入学試験倍率は20倍を超えていた[7]。この期は、東京府ナンバースクールに、湘南中、横須賀中、横浜一中などの他、仙台一中麻布中神戸一中広島一中呉一中済々黌佐賀中鹿児島一中に、外地の朝鮮・竜山中、台湾・台北一中なども含めた全国の数多ある中学が上位合格者数を競いあっていた[8]

なお、海軍兵学校は、兵科上級将校になるためには通らなければならない学校であった[9]。一方、大学工学部などを卒業し技術士官になる途はあった。東京帝国大学等の成績優秀な学生で海軍委託生になれば、海軍に籍を置き士官に准ずる給与支給があり、卒業後は技術士官の地位が約束された。海軍委託生は海軍兵学校生より運動系の科目の内容は緩和されていた。また、一般の大学生と違い陸軍の軍事教練の単位を取る必要も無く、この面でも優遇されていた[10]

生徒の教育

教育期間は始め3年制、1927年(昭和2年)より3年8ヶ月、1932年(昭和7年)から4年制となったが、中国における事変拡大の影響を受け、1934年(昭和9年)入校の66期が3年9ヶ月に短縮された後、戦線の激化に伴い1935年(昭和10年)入校の67期(3年3ヶ月)、1936年(昭和11年)入校の68期(3年4ヶ月)、1937年(昭和12年)以降の69期 - 71期(3年)、1940年(昭和15年)入校の72期(2年10ヶ月)、1941年(昭和16年)入校の73期(2年4ヶ月)と教育期間が短縮されていった。兵学校においては、最上級生を1号、以下2号、3号、4号と称した。

英国式の術科重視の教育が行われ、卒業後は少尉候補生として練習艦隊に配属され、遠洋航海など実地訓練や術科講習を経て任官した。当初は兵学校生徒のままで参加したが、1897年(明治30年)より、24期生が少尉候補生として航海を行った。この練習航海も太平洋戦争の開戦により、1941年(昭和16年)の69期生の航海を最後に終了した。

第二次世界大戦中も英語教育は継続された。陸軍士官学校が英語教育を廃止し入試科目からも外すと、海軍兵学校もこれにならうべきだという声[誰?]が強くなった。しかし、井上成美校長は、

「一体何処の国の海軍に、自国語しか話せないような海軍士官がいるか」、「いやしくも世界を相手にする海軍士官が英語を知らぬで良いということはあり得ない。英語が今日世界の公用語として使われているのは好む好まないに拘らず明らかな事実であり、事実は素直に事実と認めなければならぬ。外国語のひとつも習得しようという意気のない者は、海軍の方から彼らを必要としない。私が校長である限り英語の廃止などということは絶対に認めない」

と却下し、英語教育継続に伴っておきた校長排斥運動に関しても、

「これらの運動に従事する人物の主張するところ、概ね浅学非才にして島国根性を脱せず」

と断じ、兵学校の英語教育は従来通り行った。海軍兵学校内では従来通り外来語の使用も容認している。このことは、戦後、大学に入り直すなどして再出発することになった卒業生達から相当感謝されている[11]

五省

海軍兵学校の教えとして有名な「五省(ごせい)」は松下元校長が考案したもので、兵学校の精神を代表するものとして名高い。諸外国の軍人をも感動させたといい、戦後、英訳されてアナポリス海軍兵学校でも採用された。海上自衛隊にも引き継がれている。

ただし、これが考案されたのは1932年(昭和7年)で、海軍兵学校の歴史から見れば末期の一時期のこととも言える。どの程度重視したかは当時の校長や教官の姿勢にも左右されており(永野修身校長の時代は重視されず、唱和されることもあまりなかったという証言もある)、常に重んじられていた訳でもないらしい。リベラリズムと柔軟性を重んじた古参の海軍軍人の中には「帝国海軍の風潮になじまない」として好感を持たない者も少なからず存在していた[12]

生徒の待遇

兵学校生徒には、海軍一等兵曹(昭和17年以降は海軍上等兵曹)と海軍兵曹長の中間ともいえる階級を与えられていた。これは、陸軍士官学校予科生徒が“赤タン”(無階級)であったのに比べれば、非常に優遇されていたと言える。夏の帰省時には、純白の第二種軍装が一際映え、郷里の誇りとして町を挙げての歓迎会が開かれたほど人気があった。


海軍兵学校の卒業生は卒業席次(ハンモックナンバー)順に昇進していった。これが人事の硬直化を招いた[13]

選修学生

1920年大正9年)から1942年(昭和17年)の間、兵学校の教育は、上記の将校生徒選修学生(第23期まで存在する)の二本立てであった。選修学生制度とは、優秀な准士官(海軍兵曹長)および海軍一等兵曹の中から選抜して、生徒教育に準じた教育を行う課程であった。この制度は、海機、海経にも設置されていた。ただ、この課程を卒業したとしても、特務士官という立場に変わりはなかった。なお、陸軍士官学校士官候補生少尉候補者(乙種学生)の二本立てであった。

職員

職員として、校長、副校長副官教頭教官、監事長、監事、分隊長軍医長、主計長、附など置かれた(時代により違いがある。)。このうち、教官は、教頭の命を承け学術教育を担任した。監事は監事長の命を承け訓育を担任した。

海軍機関学校

海軍の機関科に属する士官を養成するために、1881年(明治14年) - 1887年(明治20年)と1893年(明治26年) - 1945年(昭和20年)に海軍機関学校が置かれる。

1874年(明治7年)に横須賀に海軍兵学寮分校が置かれる。1878年(明治11年)海軍兵学校附属機関学校となる。1881年(明治14年)に海軍機関学校となる。1887年(明治20年)に廃止される(機関学校第4期生は海軍兵学校に編入され、兵学校第16期生となる。井出謙治海軍大将がこのケースに該当する)。1893年(明治26年)に再置される。関東大震災によって校舎が罹災したため、1923年(大正12年) - 1925年(大正14年)は江田島海軍兵学校内に移り同校生徒と共に教育を受ける。

1925年(大正14年)に京都府中舞鶴に移転する。1942年(昭和17年)11月に、従来、将校を兵科と機関科とに区分していた将校制度が改正されて機関科将校が「将校」へ統合されたことに伴い、1944年(昭和19年)10月に廃止され、新たに海軍兵学校舞鶴分校となる(兵機一系化)。ただし、「機関学校」の名称は横須賀・大楠に既設の海軍工機学校が改正して継承された。舞鶴分校は1945年(昭和20年)11月30日に廃校となる。

機関術・整備技術を中心に機械工学・科学技術(火薬・燃料の調合技術)・設計などメカニズムに関わるあらゆる事象の研究・教育を推進した。また、機関科将校の術科学校であり、投炭技能や造船技術の訓練を下士官に施していた工機学校が閉校していた1914年(大正3年) - 1928年(昭和3年)の間は、工機学校に代わる組織として「練習科」を併設した。

なお従来の機関将校育成コースは「生徒科」と称した。しかし、機関学校卒業生徒の昇進の最高位は「中将」までで、それ以上の職位は兵学校出身者が就いた。そのため、志願者の多くは兵学校を志望するので、機関学校の合格者は兵学校の入学試験前に入校手続きを行い、兵学校の受験を禁じる措置が執られていた。

また、将来将校となるべき生徒以外にも、准士官および下士官を選修学生として教育した。

海軍経理学校

海軍の主計科に属する士官を養成するために、1882年 - 1883年と1889年 - 1945年に海軍経理学校が置かれる。

1882年(明治15年)に海軍主計学舎が置かれる。1886年(明治19年)に海軍主計学校となる。1883年(明治16年)に廃止される。再開までの期間は、政府主計官から選抜した。1899年(明治32年)に海軍主計官練習所として再置される。1907年(明治40年)より海軍経理学校に改名。1945年(昭和20年)11月30日に廃校となる。

主計官は兵科・機関科と比べて視力・色覚の制限が緩く、海軍志願ながら不合格となった者達にとって、数少ない受け入れ先であった。

主計官の任務は金銭出納・需品管理のみならず、酒保の運営や調理などの軽作業から、戦闘詳報の記録や「お写真」[14]の管理など重要な記録・儀式まで幅広い。経理学校では簿記のみならず主計官の職分すべてを教育した。

その他

陸軍士官学校と違って、外地人、外国人の入校は許可されなかった。

関連人物

校長

主な卒業生

脚注

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  1. ^ 1945年(昭和20年)3月に卒業した第74期生が最後の卒業生となったが、終戦時にはまだ第75期生から第78期生までが在校していた。海軍兵学校が廃校されることになると、同年10月には第75期生に限って卒業扱いにしている。
  2. ^ このことから野坂昭如の小説『火垂るの墓』の設定は、現実を無視した虚構であるとの宮崎駿による批判がある(稲葉振一郎ナウシカ解読―ユートピアの臨界』より)。主人公らの父親は原作では大尉、アニメ版では巡洋艦艦長(中佐・大佐)、ドラマ版では戦艦艦長(大佐)と設定されているところ、このような者が戦死した場合にその子弟が餓死するなどほぼあり得ない話だからという。
  3. ^ 例えば、海軍兵学校76期期友の動静によれば、1970年7月に実施された同期卒業3,522人の職業状況は、水産19,鉱業26,建設83,食品42,繊維62,パルプ・紙22,化学104,石油19,ゴム12,ガラス・土石25,鉄鋼49,非鉄金属17,金属製品23,機械49,電気機器74,輸送用機械41,放送22,精密機械11,その他製造業25,商社117,商店(自営)91,金融・保険33,不動産11,陸運73,海運19,空運7,倉庫業7,電力・ガス47,サービス12,国家公務員123,防衛庁79,地方公務員165,公団公社63,その他公職15,教職320,農業22,宗教10,弁護士13,会計士・税理士20,建築士12,弁理士2,司法書士2,映画・芸能7,放送22,新聞出版・著述27,広告11,医師219,薬剤師2,病院事務長3,林業木材業5,設備工事7,団体46,その他72,職業不明939,死亡96であり、海軍兵学校のかつての在校生が戦後、広範な職業に就いていることがわかる。
  4. ^ 豊丘村規則第5号(昭和49年6月19日)別表第3
  5. ^ 坂井三郎阿川弘之らの著作に顕著。「Sol(・ゾル;兵。兵学校出身者) vs spare(・スペア;交換可能な「消耗品。」 学徒兵のこと)」。
  6. ^ 中村文雄の『軍諸学校入学資格獲得をめぐる私学と官学との抗争』には、海軍兵学校・海軍機関学校合格者の学校別の内訳がある。
  7. ^ 海軍三校入試状況調べ(自 昭和 9年 至 昭和20年)
  8. ^ 海軍兵学校第69期(1938年4月入学)名簿などによる
  9. ^ ただし、兵科士官の絶対数が不足した1942年以降、旧制高等学校旧制専門学校卒業以上の学歴を有する者が海軍予備学生を経て兵科士官になる制度が導入された
  10. ^ この制度で委託生を経て技術士官になった者に、盛田昭夫などがいる。
  11. ^ 阿川弘之井上成美
  12. ^ 大井篤などは「あんなの我々の時代にはやっていない」と述べている。
  13. ^ のちに大将、海軍大臣になった米内光政(29期。125人中68番)や及川古志郎(31期。189人中76番)、海軍大学校すら出ていないのに中将になった木村昌福(118人中第107位)などの例外もあり、人事の硬直化はむしろ「軍令承行令」の絶対化によるものとされる。
  14. ^ 御真影、海軍の特に士官は陸軍と文部省が用いた御真影という語を用いず、また、お写真は海軍大元帥の姿であった。昭和天皇は海軍訪問時には海軍式の敬礼を行った。

参考文献

関連項目

外部リンク

海軍兵学校」の書誌情報

大和

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概要[編集]

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役し[5]、1942年(昭和17年)2月12日に連合艦隊旗艦となった[6]。この任は司令部設備に改良が施された同型艦「武蔵」がトラック島に進出する1943年(昭和18年)2月まで継続した。1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦において米軍機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。

当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した、桁外れの戦艦であった。建造期間の短縮、作業の高効率化を目指し採用されたブロック工法は大成功を納め、この大和型建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の礎となり重要な意味をなす(大和型戦艦を参照)。

艦名「大和」は、奈良県旧国名大和国に由来する。日本の歴史的原点としての代名詞ともなっている大和の名を冠されたことに、本艦にかかった期待の度合いが見て取れる[7]。同様の名称として扶桑型戦艦がある。正式な呼称は“軍艦大和”。沈没してから半世紀以上が経過したが、本艦を題材とした映画やアニメが度々作られるなど、日本人に大きな影響を与え続けている[8]。その存在が最高軍事機密であったうえ、戦争が始まってから完成したためにその姿をとらえた写真は非常に少ない。

 

沿革[編集]

 

建造[編集]
ロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた1934年(昭和9年)、失効後に米英海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された[9]。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、飛行将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた[10]。

1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると[11]、5年後の1942年(昭和17年)6月15日を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市の呉海軍工廠の造船船渠で起工[12]。戦艦「長門」や空母「赤城」を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて[13]、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された[14]。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった[15]。また艦の性能値も意図的に小さく登録された[16]。

機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、船台の周囲には魚網などに使われる棕櫚(しゅろ)を用いたすだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた[17]。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、大騒ぎになったという逸話が残っている。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた[18]。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた[19]。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の秘密だった[20]。海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が「大和」の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという[21]。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している[22]。

1940年(昭和15年)7月25日、海軍が艦名候補として「大和」と「信濃」を挙げ、昭和天皇は「大和」を選択した[23][24]。軍艦の命名は、海軍大臣複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた[25]。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を「大和(ヤマト)」と命名した[4]。

 

そして8月8日進水[12]。ただし進水といっても「武蔵」のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、「大和」の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった[26]。昭和天皇進水式行幸する予定もあったが[27]、結局は天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄)臨席のもと[28]式は厳かに行われた。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、「大和」と呼んだ[29]。

10月19日と20日に航行試験を行い、30日に全力公試27.46ノットを記録[1]、11月25日には山本五十六連合艦隊司令部が「大和」を視察した[30]。公試が終了したのは1941年(昭和16年)12月7日、真珠湾攻撃の前日だった。この真珠湾攻撃には、「第三号艦(翔鶴)」「第四号艦(瑞鶴)」が参加している。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦「長門」「陸奥」「扶桑」「山城」「日向」「伊勢」、空母「鳳翔」、第四水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う[31]。呉帰投後の「第一号艦(大和)」は12月16日附で竣工[12]。同日附で第一戦隊に編入された[32]。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された[33]。「大和」の1/500模型は昭和天皇天覧ののち、海軍艦政本部の金庫に保管されたという[34]。

「大和」には当時の最新技術が多数使用されていた。日本海軍の軍艦では一番最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、煙突などにおける蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備など、進水時には世界最大最精鋭の艦型だった。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後電波探信儀が漸次装備されていった。

 

連合艦隊旗艦[編集]
1942年(昭和17年)2月12日、「大和」は連合艦隊旗艦となる。参謀達はそれまで旗艦だった戦艦「長門」に比べ格段に向上した「大和」の居住性に喜んでいる[35]。3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う[36]。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した[37]。5月29日、ミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため直接米軍と砲火を交えることはなかった。6月10日、米軍潜水艦に対して二番副砲と高角砲が発砲した[38]。同6月14日柱島に帰投する。

機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく、空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母「加賀」の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノットで大和型戦艦より劣速である。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。

アメリカ海軍側はミッドウェー海戦の報を受け、戦艦「テネシー」、「ミシシッピ」、「アイダホ」、「ニューメキシコ」、護衛空母ロングアイランド」を中心とする第1任務部隊をサンフランシスコより出撃させている。この部隊はハワイ西北1,200浬で戦艦「コロラド」、「メリーランド」と合同し、日本艦隊の西海岸攻撃に備えており、この時点では空母部隊を前衛として戦艦を運用するという思想には両軍とも差がなかった。日本艦隊が空母喪失後もあくまでミッドウェー攻略に固執した場合、アメリカ戦艦6隻は同島防衛に動く可能性もあった。

1942年(昭和17年)8月7日、米軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まる。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた「大和」は、空母「大鷹(春日丸)」、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する[39]。8月21日、グリメス島付近を航行し[40]、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。「大鷹」と「曙」をラバウルに向かわせたのち、「大和」「潮」「漣」は8月28日、チューク諸島トラック泊地に入港した[41]。入泊直前、米潜水艦「フライングフィッシュ」から魚雷4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している[42]。その後、ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなった[43]。第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦「霧島」が「大和」と同世代の米新鋭戦艦「サウスダコタ」と「ワシントン」との砲撃戦により大破、自沈した。この点で、大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性と米国の積極性を比較する意見もある[44]。

 

1943年(昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務を「大和」の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型2番艦「武蔵」に移譲。5月8日、空母2隻(冲鷹、雲鷹)、重巡2隻(妙高羽黒)、駆逐艦3隻(潮、夕暮、長波、五月雨)と共にトラック出航、各艦は18日に呉や横須賀の母港へ戻った[45]。呉では対空兵器を増強し、21号電探と22号電探などレーダーを装備する[46]。再びトラックに向かったのは8月16日。ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、本艦はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている[47]。作戦行動を終えた駆逐艦が「大和」に横付けし、駆逐艦乗組員が「大和」の巨大で整った風呂を利用することも多かったという[48]。10月中旬、マーシャル群島への出撃命令が下る。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦「武蔵」以下、「大和」、「長門」などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する。

1943年(昭和18年)12月、「大和」は戊一号輸送部隊に参加する。これは「大和」と駆逐艦「秋雲」、「山雲」、「谷風」が横須賀から宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊と軍需品を日本からトラック泊地へ輸送する作戦である[49]。12月20日、「大和」「山雲」「谷風」は横須賀を出発、12月25日、トラック島北西150浬でアメリカ海軍の潜水艦「スケート」より攻撃を受け、3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷する[49]。4度の傾斜を生じたが、約770トンの注水で復元、速力20ノット前後でトラック泊地へ向かった[49]。魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという[50]。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた[51]。浸水量は3000-4000トンである[52]。

敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった[53]。工作艦「明石」に配属されていた造船士官によれば、トラック泊地着後の「大和」は「明石」に「右舷後部に原因不明の浸水があり調査して欲しい」と依頼、工作部員達は注排水系統の故障を疑ったものの異常はなかった[54]。そこで潜水調査をしたところ右舷後部に長さ十数m・幅五mの魚雷破孔を発見し、驚いたという[54]。トラックで応急修理を受けた後、内地に帰還。この欠陥に対して、水密隔壁を新たに追加し浸水を極限する改修が行なわれた。修理と並行して、両舷副砲を撤去。高角砲6基と機銃を増設し、対空兵装の強化を図った。

 

1944年(昭和19年)5月4日、宇垣纏中将が「長門」から移り、第一戦隊旗艦となる[55]。6月14日、ビアク島に上陸した米軍を迎撃するため渾作戦に参加するが、米軍がサイパン島に上陸したことにより渾作戦は中止となった[56]。「大和」は「武蔵」と共に北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日、マリアナ沖海戦に参加する。「大和」は栗田健男中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している[57]。「大和」は発砲していないという証言もある[58]。同日、日本軍機動部隊は米潜水艦の雷撃により空母大鳳」「翔鶴」を失う。6月20日、「大和」はアメリカ軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。「大和」が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である[59]。6月24日、日本に戻った[60]。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載してシンガポールへ向い、7月16日、リンガ泊地に到着した[61]。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した[62]。

 

レイテ沖海戦[編集]
1944年(昭和19年)10月22日、「大和」はレイテ沖海戦に参加するため、第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃した[63]。23日早朝に栗田艦隊旗艦・重巡洋艦愛宕」が潜水艦に撃沈されたため、「大和」座乗の第一戦隊司令官宇垣纒中将が一時指揮を執った。夕方に栗田健男中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれた[64]。24日、シブヤン海で空襲を受け、姉妹艦「武蔵」を失う。「大和」にも艦前部に爆弾1発が命中した[65]。25日午前7時、サマール島沖にて米護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行う[66]。

 

この戦闘で「大和」は主砲弾を104発発射した。32,000mの遠距離から放った「大和」の砲撃は第一斉射から目標を挟叉し、アメリカ側から「砲術士官の望みえる最高の弾着」との評価を受けている。[要出典]ただし、「カリニン・ベイ」は「射程距離は正確だが、方角が悪い」と評している[67]。当時の大和砲術長だった能村(後、大和副長)は、射撃した前部主砲6門のうち徹甲弾は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言している[68]。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で[69]、最初の「正規空母」は護衛空母「ホワイトプレインズ」、次の艦は「ファショウ・ベイ」である[70]。

至近弾による振動で「ホワイトプレインズ」は黒煙を噴き、「大和」ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい[71]。米軍側の記録では、「ホワイトプレインズ」は命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている[72]。能村は、第一目標に四斉射した後「米軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想している[68]。また、軍艦大和戦闘詳報第3号でも敵空母が煙幕を張り大和から遠ざかる様に回避したため目標を他に移したと報告さている。

戦闘中、「大和」は米軍駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまで米軍空母と反対方向に航行することになった[73]。さらに米軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施した[74]。この戦闘では、「大和」の右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発射され、森下艦長と能村副長が制止するという場面があった[75]。

 

アメリカ護衛空母ガンビア・ベイ」に大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、重巡「利根」艦長黛治夫大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している。米側記録にも該当する大火災発生の事実はなく、「ガンビア・ベイ」は午前8時15分に重巡羽黒」と「利根」の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている[76]。「ガンビア・ベイ」への命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている[77]。

アメリカ側では0725-0730頃、米駆逐艦「ホーエル」「ジョンストン」が戦艦からの主砲・副砲弾を受けた。アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛では0714に砲撃を開始し、2射目が有効であったとしているが、0715には大和、長門、榛名も駆逐艦巡洋艦を目標に砲撃を行っている他、「ホーエル」が艦橋に命中弾を受け通信機能を失った0725には、大和が巡洋艦を目標に砲撃を行い撃沈を報じている。このため、0728に「ジョンストン」0725に「ホエール」に命中したのは大和、長門、金剛、榛名いずれかの主砲弾である可能性がある。

また、第五戦隊の羽黒、鳥海 第七戦隊の利根、筑摩も「ホーエル」「ジョンストン」を砲撃しており、特に「ホーエル」は0750以降に重巡部隊と大和、長門による集中砲火を浴び、40発の命中弾を受け、0830にその内の8インチ砲弾一発がエンジンルームを破壊して航行不能に陥ったが、0834に大和は他艦と共にこのホエールに対して追撃を加え、0835にはホエールは船尾より沈み始め、0855に遂に転覆する事となった。[78]「ジョンストン」は、0725の砲撃で被害を受けたものの、スコールに退避する事に成功したため、応急修理を行った後再び戦闘に復帰していたが、0845に「矢矧」を先頭に第十水雷戦隊が空母群に魚雷攻撃を仕掛けようと、急速に接近している事を認めたジョンストンは軽巡「矢矧」に砲撃を加え水雷戦隊が空母群に接近する事を防ぐ事に成功したものの、0940に水雷戦隊に包囲され集中砲火を浴び轟沈している。

このため、この海戦で「大和」が単艦で敵艦を葬った可能性はないという事になる。[79]なおこの海戦で、0850以降に「大和」が重巡洋艦「鳥海」を味方撃ちしたという説もあるが、大和は0834以降は砲撃を行っておらず、唯一0847に金剛が砲撃を行っていたのみであるため、大和が「鳥海」及び「筑摩」を誤射した可能性は無い。

アメリカ軍の損害は、アメリカ護衛空母ガンビア・ベイ」と「ジョンストン」、「ホーエル」、護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」が沈没というものだった。この直後、関行男海軍大尉が指揮する神風特攻隊敷島隊が護衛空母部隊を急襲、体当たりにより護衛空母「セント・ロー」が沈没、数隻が損害を受けた[80]。

サマール島沖砲撃戦の後、栗田長官は近隣にアメリカ機動部隊が存在するとの誤報を受けて、レイテ湾に突入することなく反転を命じた[81]。宇垣の著作には、当時の「大和」艦橋の混乱が描写されている[82]。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍航空隊機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した[83]。

往復の航程でアメリカ軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た。第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う。また前甲板の爆弾は鋲座庫付近(錨鎖庫ではないか?)に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水した[84]。

 

10月28日、ブルネイに到着する[85]。11月8日、多号作戦において連合軍空軍の注意をひきつけるためブルネイを出撃、11日に帰港したが、特に戦闘は起きなかった[86]。11月16日、B-24爆撃機15機の襲撃に対し主砲で応戦、3機を撃墜する[87]。同日夕刻、「大和」は戦艦「長門」、「金剛」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「浦風」、「雪風」、「磯風」、「浜風」とともに内地に帰還したが、台湾沖で「金剛」と「浦風」が潜水艦に撃沈されることとなる[88]。11月23日、呉に到着。宇垣中将は退艦、森下信衛4代目艦長にかわって有賀幸作大佐が5代目艦長となる(森下は第二艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦)[89]。

 

姉妹艦「武蔵」の沈没は、大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え[90]、いずれ「大和」も同じ運命をたどるのではと覚悟する者もいた[91]。宇垣は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記した[92]。

 

レイテ沖海戦で連合艦隊は事実上壊滅した。大和型戦艦3番艦を空母に改造した「信濃」も呉回航中に米潜水艦の襲撃で沈没、「大和」と「信濃」が合同することはなかった。「大和」以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続けている[93]。1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかった。

同年3月28日、「次期作戦」に向け「大和」(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた[94]。

3月30日に、アメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。関門海峡は貨物船が沈没して通行不能だった[95]。

 

海上特攻準備[編集]
4月2日、第二水雷戦隊旗艦・軽巡洋艦「矢矧」での第二艦隊の幕僚会議では次の3案が検討された[96]。
1.航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する[96]。
2.好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する[96]。
3.揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする[96]。

この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた[97]。伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていた[98]。

 

一方連合艦隊では、連合艦隊参謀神重徳大佐が戦艦大和による海上特攻を主張した。連合艦隊参謀長草鹿龍之介はそれをなだめたが神は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神が計画した。神は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。神は参謀長を通さずに豊田副武連合艦隊長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。豊田は「大和を有効に使う方法として計画した。50%も成功率はなく、うまくいったら奇跡だった。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと決めた」という。草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。淵田美津雄参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という[99]。

 

神は軍令部へ向かったが、作戦課長富岡定俊に燃料がないと反対されたため、軍令部次長小沢治三郎中将から直接承認を得た。小沢によれば「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と許可を与えたという。及川古志郎軍令部総長は黙って聞いていたという。神は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し草鹿参謀長は戦艦「大和」の伊藤整一司令長官に作戦命令を伝え説得しに行ったが、なかなか納得しない伊藤に草鹿は「一億総特攻の魁となって頂きたい」と説得すると伊藤は「そうか、それならわかった」と即座に納得し、大和による海上特攻が決定した。[100]。

4月5日、特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた[101]。自身も作戦に疑問を持っていた草鹿中将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという[102]。一方で、草鹿の回想録では4月6日に訪れたことになっている[103]。

『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである[104]。宇垣は及川の対応を批判している[105]。また草鹿の回想録にも「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と記されている[106]。

 

特攻作戦であることは乗組員には事前に伝えられなかった。命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた[107]。しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたという。ただし、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していた[108]。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦[109]。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った[110]。

 

4月30日、昭和天皇米内光政海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた[111]。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した[112]。

4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

 

4月6日、「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任される。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」[113]を掲げた。片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて3往復の燃料を積んでいたともされている(下記も参照)。

 

第二艦隊は「大和」以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月)、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧、槇)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。

アメリカ軍偵察機F-13『スーパーフォートレス』(B-29偵察機型) により上空から撮影された出撃直後の「大和」の写真が2006年7月にアメリカにて発見された。当時の「大和」の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。

 

天一号作戦(菊水作戦、坊ノ岬沖海戦も参照のこと)の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることである。もし沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていた[114]。しかし「大和」を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた。

 

実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが[要出典]、上記に理由で却下されている。アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の意義はまさに一億総特攻の魁(さきがけ)であった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米軍潜水艦「スレッドフィン」と「ハックルバック」に行動を察知された[115]。4月6日21時20分、「ハックルバック」は浮上して大和を確認。艦長フレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡した。この電報は「大和」と「矢矧」に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡された[116]。

 

当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた[117]。しかし「大和」が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。しかし実際には、スプルーアンスが戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャーが先に攻撃部隊を送り込んでしまった[118]。「武蔵」は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャーは何としても「大和」を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという[119]。またミッチャーは、各部隊の報告から「大和」が沖縄へ突入すると確信し[120]、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた[121]。なお、スプルーアンスは、アメリカ留学中の伊藤と親交を結んだ仲であった[122]。

 

坊ノ岬沖海戦[編集]
4月7日6時30分ごろ、「大和」は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた[123]。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した[124]。九州近海までは、レイテ沖海戦で「大和」に乗艦していた宇垣中将率いる第五航空艦隊第二〇三航空隊(鹿児島県南部笠、原飛行場)の零式艦上戦闘機が艦隊の護衛を行った[125]。能村はF6Fヘルキャット3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する[126]。一方、日本軍機の編隊を見たという証言もある[127]。実際に護衛は行われたが、天候不良で第二艦隊を発見できず引き返す隊や、第二艦隊の壊滅により発進中止となる隊があるなど、急遽決定した特攻作戦のため準備不足の中途半端な護衛になってしまった[128]。

 

その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還し、入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇などの偵察機が艦隊に張り付くようになる[129]。「スレッドフィン」が零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる[130]。米軍の記録によれば、8時15分に3機のF6Fヘルキャット索敵隊が「大和」を発見[131]。8時23分、別のヘルキャット索敵隊も「大和」を視認した[131]。このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった[132]。「大和」は主砲を3発撃ったが、米偵察機を追い払うことはできなかった[133]。

4月7日12時34分、「大和」は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した[134]。8分後、空母「ベニントン」第82爆撃機中隊(11機)のうちSB2C ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下する[135]。中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、米軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した[136]。「大和」は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している[134]。後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった[137]。前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た[138]。

また、一発が「大和」の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある[誰によって?]。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された[139]。さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村は副砲弾庫温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという[140]。建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた[141]。実際には攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している。前部中甲板でも火災が発生したとする研究者もいる[142]。清水副砲長は沖縄まで行けるかもしれないと希望を抱いた[143]。

 

米軍は戦闘機、爆撃機雷撃機が同時攻撃を行った。複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされながらの対処だったため、巨大な「大和」が完全に回避する事は困難だった[144]。「ベニントン」隊に続き「ホーネット」第17爆撃機中隊(ロバート・ウォード中佐)が「大和」を攻撃。艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を主張し、写真も残っている[145]。12時40分、「ホーネット (CV-12) 」第17雷撃機中隊8機が「大和」を雷撃し、魚雷4本命中を主張した[146]。「軍艦大和戦闘詳報」では12時45分、左舷前部に1本命中である[134]。戦後の米軍対日技術調査団に対し、森下参謀長、能村副長、清水副砲術長は爆弾4発、宮本砲術参謀は爆弾3発の命中と証言[147]。魚雷については、宮本砲術参謀は3本、能村は4本、森下は2本、清水は3本(全員左舷)と証言した[148]。

これを受けて、米海軍情報部は艦中央部左舷に魚雷2本命中と推定、米軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフなフネだった」と述べている[149]。「大和」では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた[150]。左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。

13時、第二波攻撃が始まる[151]。米軍攻撃隊94機中、「大和」に59機が向かった[152]。第83戦闘爆撃機中隊・雷撃機中隊が攻撃を開始。雷撃隊搭乗員は、「大和」が主砲を発射したと証言している[153]。射撃指揮所勤務兵も、砲術長が艦長の許可を得ずに発砲したと証言するが[154]、発砲しなかったという反論もある[155]。いずれにせよ米軍機の阻止には至らず、「エセックス」攻撃隊が「大和」の艦尾から急降下し、爆弾命中によりマストを倒した[156]。さらに直撃弾と火災により、「大和」から米軍機を確認することが困難となる[156]。米軍機は攻勢を強めた。「エセックス」雷撃隊(ホワイト少佐)が「大和」の左右から同時雷撃を行い、9本の魚雷命中を主張[157]。「バターン」雷撃隊(ハロルド・マッザ少佐)9機は全発射魚雷命中、もしくは4本命中確実を主張[158]。「バンカーヒル」雷撃隊(チャールス・スワッソン少佐)は13本を発射し、9本命中を主張した[159]。「キャボット」雷撃隊(ジャック・アンダーソン大尉)は、「大和」の右舷に照準を定めたが、進行方向を間違えていたので、実際には左舷を攻撃した[160]。魚雷4本の命中を主張し、これで第一波、第二派攻撃が「大和」に命中させた魚雷は29本となった[160]。これは雷撃隊が同時攻撃をかけたため、戦果を誤認したものと考えられる[160]。

 

防空指揮所にいた塚本高夫艦長伝令、渡辺志郎見張長は、米軍が見た事のない激しい波状攻撃を行ったと証言している[161]。宮本砲術参謀は右舷に魚雷2本命中したとする。「大和」は速力18ノットに落ち、左舷に15度傾いた[162]。左舷側区画は大量に浸水し、右舷への注水でかろうじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた[163]。左舷高角砲発令所(左舷副砲塔跡)が全滅し、甲板の対空火器が減殺された[164]。13時25分、通信施設が破壊された「大和」は「初霜」に通信代行を発令した[165]。

 

13時30分、「イントレピッド」、「ヨークタウン」、「ラングレー」攻撃隊105機が大和上空に到着した[166]。13時42分、「ホーネット」「イントレピッド」第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した[167]。この頃、上空の視界が良くなったという[168]。

このように14時17分まで、「大和」はアメリカ軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機[169]による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、「大和」の対空火力を破壊した。

 

『軍艦大和戦闘詳報』による主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また「大和」を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない[170]。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。
12時45分 左舷前部に魚雷1本命中[134]。
13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障[151]。
13時44分 左舷中部に魚雷2本命中[151]。
13時45分 副舵を中央に固定。応急舵で操舵[151]。
14時00分 艦中央部に中型爆弾3発命中[171]。
14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中[171]。
14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中[171]。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜急激に増す[171]。
14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし[172]。総員上甲板(総員退去用意)を発令。

 

沈没[編集]
 大和の爆煙
「大和」は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生。艦上では、爆弾の直撃や米軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。水面下では、米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである[173]。後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった[151]。このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる[誰?]。また、「大和」が左舷に傾斜したため、右旋回が出来なくなったとする見方もある[174]。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという[175]。これらのことにより、米軍は容易に「大和」に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された[151]。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった[176]。

 

また傾斜復旧のために、右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが[177]、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。船体の傾斜が5度になると主砲、10度で副砲、15度で高角砲が射撃不能となった。

14時、注排水指揮所との連絡が途絶し、舵操舵室が浸水で全滅する[178]。有賀艦長は最後を悟り、艦を北に向けようとしたが、「大和」は既に操艦不能状態だった[179]。「大和」は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた[180]。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった[181]。護衛駆逐艦からは航行する「大和」の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた[182]。

「大和」への最後のとどめになった攻撃は、空母「ヨークタウン」第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃である[183]。14時10分、トム・ステットソン大尉は、左舷に傾いたため露出した「大和」の艦底を狙うべく、「大和」の右舷から接近した[184]。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した[185]。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する[186]。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した[187]。後部への魚雷は、空母「ラングレー」隊の可能性もある[188]。

 

この魚雷の命中は、「大和」の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している[189]。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した[190]。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた[191]。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。

 

最後の複数の魚雷が右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた[192]。伊藤長官は森下と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った[193]。森下は第二艦隊幕僚達に対し、駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は「大和」を操艦するため艦橋に残った[194]。有賀は号令機で「総員最上甲板」を告げたが[195]、すでに「大和」は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた[196]。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた[197]。有賀は羅針儀をつかんだまま海中に没した[198]。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下が若手将兵を脱出させていた[199]。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた[200]。

 

14時20分、「大和」はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している[201]。右舷外側のプロペラは最後まで動いていた[202]。14時23分、上空の米軍攻撃隊指揮官達は「大和」の完全な転覆を確認する[203]。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある[204]。「大和」は直後に大爆発を起こし、艦体は2つに分断されて海底に沈んだ。沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分[205]、「初霜」の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している[206]。

 

所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた[207]。軽巡洋艦「矢矧」から脱出後、17時20分に駆逐艦「初霜」に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた[208]。「大和」では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名[209]または276名[210]。第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名である[211]。護衛していた軽巡洋艦「矢矧」446名(沈没)、駆逐艦「磯風」20名(自沈)、「浜風」100名(轟沈)、「冬月」12名、「涼月」57名(大破)、「雪風」3名、「霞」17名(自沈)、「朝霜」326名(轟沈)、第二艦隊将兵計3721名が戦死した[212]。「初霜」は負傷者2名だった。

 

菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいた[213]。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたもの、及び海上護衛総隊割り当て分7,000トンの内4,000トンを第2艦隊向けに割り振ったもので、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。とはいえ、空襲への回避運動や敵艦隊との水上戦が発生したなら、長時間に及ぶ高速での迂回航行を想定する必要があったし、また戦術的な擬装航路の実行なども合わせて考えるなら、決して余裕のある燃料量ではなかったとも言われている。

 

うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。「大和」を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも駆逐艦「浜風」に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている[214]。

戦艦「大和」の沈没によって連合艦隊は完全に洋上行動能力を失い、その後艦隊として出撃することはなかった。4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、「大和」の名前も詳細も明らかにされることはなかった[215]。4月25日、連合艦隊だけでなく海上護衛総隊及び各鎮守府をも指揮する海軍総隊が設けられ、終戦まで海上護衛及び各特攻作戦の指揮を執る。大和沈没の報は親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという[216]。同様の感想は、「大和」の沈没を目撃した米軍搭乗員も抱いている[217]。終戦後の1945年(昭和20年)12月9日、GHQNHKラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で「大和」の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した[218]。米軍の認識であるため、「大和」は排水量4万5000トンの戦艦として紹介されている[218]。

 

沈没要因[編集]
沈没要因としては以下が考えられている。
「大和」が爆発した際の火柱やキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。だが、視認距離を求める公式 L1(km)= 116.34 \times \sqrt{ho}(km)+ \sqrt{ht}(km) (L1は水平線上の最大視認距離、ho は水面からの眼高。ht は目標の高さ。坊の岬最高点は96.9m 爆煙が雲底到達した高度は1,000m)に当てはめてみると視認距離は152.6kmとなり、計算の結果は213km以上も離れた鹿児島県からは確認できないこととなる。徳之島から見えたという伝承がある[219]。

 

爆発は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる。米軍と森下、清水は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが[220]、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である。能村は「主砲弾の自爆」という表現を使っている[221]。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している[222]。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高いとされるが[223]、三番主砲弾薬庫の爆発によるものであるとする報告もある[224]。

 

同型艦「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、「大和」は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた[225]、「武蔵」に比べ米軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど[226]、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀幸作艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である[227]。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀が巨艦「大和」の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある[228]。1945年(昭和20年)以降の「大和」は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった[229]。有賀も海兵同期の古村啓蔵第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている[230]。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下信衛は[231]「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている[232]。航海士の山森も、沖縄特攻時の米軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした[233]。その一方で、森下ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある[234]。

 

アメリカ軍航空隊は「武蔵」一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという[235]。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった。だが意図的に左舷を狙ったという米軍記録や証言は、現在のところ発見されていない。

さらに、米軍艦載機が提出した戦果報告と、日本側の戦闘詳報による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想[236]。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本[237]。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発[238]。米軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発[238]。米軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が「大和」を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張[239]。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている[238]。米軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、米軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた[240]。米軍は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した[241]。海底の「大和」の調査でも、残存している部分だけで戦闘詳報に記載のなかった魚雷命中跡が4箇所確認されている[242]

 

現在[編集]
戦闘詳報による沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分[243]。だが実際の「大和」は、北緯30度43分 東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176km、水深345mの地点に沈没している[244]。艦体は1番主砲基部と2番主砲基部の間を境に、前後2つに分かれていた[245]。右舷を下にした艦首部より2番主砲塔前(0 - 110番フレーム付近、約90m)までの原型をとどめた部分は[222]、北西(方位310度)に向いている[245]。転覆した状態の2番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部(175 - 246番フレーム付近、約186m)は[222]、東(方位90度)方向を向いている[245]。あわせると276mとなる。原型をとどめぬ艦中央部は3つの起伏となり艦尾艦首の70m南に転覆した状態で[245]、根元から脱落した艦橋は艦首の下敷きとなり、各々半分泥に埋まった状態で沈んでいる[246]。

 

主砲と副砲塔はすべて転覆時に脱落した。特に3基の主砲は、砲塔の天蓋を下にして海底に塔のように同一線上に直立している[247]。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味している。主砲の砲身自体は泥に深く埋もれており、観察できていない[248]。また艦首切断部付近で発見された2番主砲塔は、基部が酷く破損しており[249]、基礎部分から下が横倒しになっている。沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠とされている[250]。1番(艦首から70m)と3番主砲塔(艦尾部プロペラ付近)には著しい損壊は認められていない[249]。副砲は砲身が視認されており損傷もない[251]。

4本のプロペラのうち、3本は船体に無傷で付いているが、1本は脱落して、海底に突き刺さっている[252]。沈没時の爆発でプロペラシャフトが折れて、脱落したものと思われる。主舵には損傷はなく、正中の位置となっている。艦首部分には左右に貫通している魚雷命中穴があり、その他にも多数の破孔がある。2009年(平成21年)1月になって「大和」の母港であった呉市海事歴史科学館呉商工会議所中国新聞日本放送協会広島放送局等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指している。一方で、遺品の引き揚げに立ち会った大和乗組員が複雑な気持ちを抱いたという証言もある[253]。

 

「大和型戦艦」らしき2隻の戦艦が動く映像が発見されたことがあるが、のちにこれは東京湾での降伏調印式へと向かうアイオワ型戦艦の戦艦アイオワと戦艦ミズーリの物だと分かった。アメリカ公文書館IIには、B-24に対して主砲を発射した「大和」の映像が残されているが、遠距離撮影のため不鮮明である[254]。1988年(昭和63年)11月、保科善四郎(元海軍中将)は松永市郎(元海軍大尉)を通じてアナポリス海軍兵学校に「大和」の絵画(靖国神社遊就館展示絵の複製)を寄贈[255]。松永がアーレイ・バーク海軍大将とエドワード・L・ビーチ・ジュニア海軍大佐にその事を語ると、二人とも「大和は美しい船だった」と語っている[256]。

 

 

「大和 (戦艦)」の書誌情報

東郷平八郎

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概観[編集]
明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人である。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」(旅順攻囲戦における第3軍司令官乃木希典陸軍大将と絡め「陸の乃木 海の東郷」とも[1])と称され国民の尊敬を集めた。

生涯[編集]

生い立ち[編集]
弘化4年12月22日(1848年1月27日)、薩摩国鹿児島城下の加冶屋町二本松馬場(下加治屋町方限、現・県立鹿児島中央高校化学講義室付近)に、薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。幼名は仲五郎。14歳の時、元服して平八郎実良と名乗る。文久3年(1862年)薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣、慶応3年(1867年)6月に分家して一家を興す。戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟・箱館に転戦して阿波沖海戦箱館戦争宮古湾海戦で戦う。体型は小柄ではあるが下の写真でも分かるように美男子であり、壮年期においては料亭「小松」においては芸者より随分もてたとされる。

イギリス留学[編集]
明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが色よい返事はもらえなかった。後で東郷は大久保が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後は寡黙に努めた。それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになった。大久保の次に西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定した。

当初ダートマス王立海軍兵学校への留学を希望したがイギリス側の事情で許されず、ゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミー(英語版)で学び、その後に商船学校のウースター協会(英語版)で学ぶことになる。留学先では「To go, China(=「支那に行け」の意)」とからかわれるなど苦労が多く、おしゃべりだった性格はすっかり無口になってしまったと言われている。しかし宮古湾海戦に参戦していたことを告げると、一躍英雄として扱われることとなった。

この留学の間に国際法を学んだことによって、日清戦争時に防護巡洋艦「浪速」の艦長として、停船の警告に応じないイギリスの商船「高陞号」を撃沈する(高陞号撃沈事件)にあたって、このことは国際法に違反しない行為であると正しく判断できたのだとされている。さらに、このときの沈着な判断力が、のちに連合艦隊司令長官に人選される要素となった。

帰国途上、西郷隆盛西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際、東郷の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。

ハワイでのクーデターに際して[編集]
明治26年(1893年)、ハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。この時、日本は邦人保護を理由に東郷率いる巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した[2]。 女王を支持する先住民らは涙を流して歓喜したといわれる[3]。また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。しかしアメリカによるハワイ併合は明治31年(1898年)に実現される。

日清戦争[編集]
明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(高陞号事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。

日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年(1899年)に佐世保鎮守府司令長官となり、同34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。これは後の対米戦備での位置づけから閑職であったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアのウラジオストク軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。但し、東郷自身は中央への異動を希望していたようである。

しかし、日露開戦前の緊迫時期に海軍大臣山本権兵衛に呼び戻され、明治33年(1902年)12月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。本来は常備艦隊司令長官である日高壮之丞がそのまま就任するのが筋であったが、山本が我の強い日高を嫌って命令に忠実な東郷を据えたのだといわれる。しかし実際には、日高が健康問題を抱えており指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷が至極順当に選ばれたというのが真相であった。明治天皇に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われているが、内田一臣によれば「この人が、ちょっといいんです」だったという[4]。

日露戦争[編集]
明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊(後に第一太平洋艦隊へ改称)の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。6月6日には大将に昇進する。

そして明治38年(1905年)5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」[5]との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した[6]。東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。

この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国においても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった[7]。 その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった[7]。 ただし、「トーゴー通り」の名称は、「Toygar sokagi」で、「Toygar」はヒバリを意味する単語なので、東郷とは何の関係もない可能性もある。

日露戦争後[編集]
日露戦争終了直後、訪問艦にて同盟国のイギリスに渡洋、他の将校や乗組員とともにサッカー(フットボールリーグ、ニューカッスル・ユナイテッドのホームゲーム)を観戦[8]。

明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。明治40年(1907年)には伯爵を授爵。大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年(1926年)に大勲位菊花章頸飾を受章。当時の頸飾受章者は皇太子・裕仁親王閑院宮載仁親王だけだった。また、タイム誌の同年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなった。

晩年[編集]
末次信正、加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用し軍政に干渉した。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題[9]はその典型であるが、その他に明治以来の懸案であった、兵科と機関科の処遇格差の是正(海軍機関科問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても改善案について相談を受けた東郷は「罐焚きどもが、まだそんなことを言っているか!」と反発し、結局、この問題は第二次世界大戦の終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。

壮年時代はよく遊び、料亭に数日間も居続けたり、鉄砲打ちに出かけたりしたが、晩年は質素倹約を旨とし、趣味といえば盆栽と碁を嗜む程度であった。自ら七輪を用いて、料理をすることもあったという。しかし新聞記者に対し妻が、新婚時代内職して家計を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配を掛けたことはないと激怒した[10]。

死去[編集]
昭和9年(1934年)5月30日、膀胱ガンのため満86歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。死去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。

6月5日に国葬が執り行われた。国葬の際には参列のために各国海軍の儀礼艦が訪日し、イギリス海軍支那艦隊の重巡洋艦「サフォーク」(司令長官ドレーヤ(英語版)大将、艦長マナーズ(英語版)大佐)、アメリカ海軍アジア艦隊(英語版)の重巡洋艦オーガスタ」(司令長官アッバム(英語版)大将、艦長ニミッツ大佐)、フランス海軍極東艦隊の軽巡洋艦「プリモゲ」(司令長官リシャール少将、艦隊参謀長兼艦長ルルー大佐)は儀仗隊を葬列に参加させ、日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射した。イタリア海軍東洋艦隊の巡洋艦「クアルト」(艦長兼極東イタリア海軍首席指揮官ブリヴォネジ大佐)の横浜入港は夕刻となった。中華民国練習艦隊の巡洋艦「寧海」(司令・王壽廷中将、艦長・高憲申大佐)は国葬時刻に間に合わぬと判断し、儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせて弔意を示し、寧海の横浜入港は翌6日となった[11]。

葬儀委員長には有馬良橘海軍大将、副委員長には内閣書記官長・堀切善次郎が5月30日に任命された[12]。 しかし、有馬が明治神宮宮司を務めていたため、神官が葬儀に関わることを禁止した通達(神官葬儀ニ関スヘカラサル事 明治十五年一月二十四日内務省達 乙第七号)に抵触するのではないかとの議論が持ち上がり6月8日には辞任となった[13]。 16日、葬儀委員長に副委員長から堀切善次郎、副委員長に委員から長谷川清が昇格した[14]。 更に、内閣交代により7月10日に葬儀委員長は河田烈に交代した。

当時のイギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった。」、ドイツは「東洋のティルピッツが逝去した。」と自国の海軍の父的人物に準えて、哀悼した。
遺髪はイギリス海軍のホレーショ・ネルソンの遺髪と共に海上自衛隊幹部候補生学校江田島)に厳重に保管されている。また鹿児島市の多賀山公園の墓所にも遺骨の代わりに埋葬されている。
旧蔵書は、広島県呉市にある海上保安大学校図書館が所蔵する「旧海軍大学校図書」のうちに残る。
私邸跡は東郷元帥記念公園として使用され、現在でも獅子像などが残っている。
使用していた総義歯は現在東洋学園大学の東洋学園史料室に保存されている[15]。

影響[編集]

神格化[編集]
死後東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現福津市)に「東郷神社」が建立され神として祭られた。但し東郷自身は生前乃木神社建立の時、(陸軍に対抗するために)将来自身を祭る神社の設立される計画を聞いて驚き、「止めて欲しい」と強く懇願したが、願いは聞き入れられず結局神社は建立されている。墓所も生前、母親の益子の眠る青山墓地への埋葬を希望したがこれも聞き入れられず多磨霊園に埋葬されることとなった。また銅像が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園と鹿児島県鹿児島市の多賀山公園にある。東京都府中市には別荘地に建立された東郷寺があり、桜の名所である。

晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた[16]。 海軍省内では軍令部総長伏見宮博恭王と共に「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障害とみなされた。そして伏見宮すら「自分と東郷の意見が分かれるようなことがあってはならん」と気にしていた。井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐したうえで、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と語っている。また岡田啓介米内光政山本五十六なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。昭和期の海軍内の抗争において、東郷・伏見宮は艦隊派を後援し、岡田らは条約派に属した。

東郷に関する著作物中、重要なものは「東郷の私設副官」といわれた小笠原長生による[17]が、日本海海戦時に「三笠」艦上にあった今村信次郎は東郷の前で事実と異なる点を指摘し、東郷は「証人がいては仕方ない」と小笠原に訂正を指示している[18]。山路一善は小笠原に対し「閣下の東郷元帥に関する著書や講演のなかには、潤色が度に過ぎて誇大に失するものがあり、日本の歴史を誤るのではないかと憂える」と述べたとされる[17]。

米海軍での東郷崇拝[編集]
第二次世界大戦後、GHQによって日本の軍事的モニュメントの撤去作業が行われたが、米国海軍は東郷に関するものには手を触れさせなかった。戦後、戦艦「三笠」は荒れ果て、アメリカ軍人のため娯楽施設「キャバレー・トーゴー」[19]や水族館が設置されたり、上部構造物はおろか取り外せそうな金属類は機関部に至るまで全て盗まれ、チーク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされるなど荒廃していた[20]。 チェスター・ニミッツはその姿を憂い本を著して売り上げを寄付するなどして、東郷と若い頃への思いを込めて三笠の復興と保存に協力した。

レイモンド・スプルーアンスウィリアム・ハルゼー[21]も、東郷への尊敬の念が強かった。

東郷の名を冠した事物[編集]
「東郷ビール」
名越二荒之助#「東郷ビール」伝説の普及により、フィンランド産の東郷がラベルとなったビールが昭和46年(1971年)から平成4年(1992年)まで販売された。
これはフィンランドのピューニッキ醸造所において生産された「提督ビールシリーズ」のラベルの一つで、当初は東郷やネルソン等の世界的に有名な提督6名(6種類)のラベルでスタートした。その中にはロシア海軍・バルチック艦隊の提督であったマカロフとロジェストヴェンスキーのものもあったという。
その後に数が増えて24名の提督シリーズで販売されるに至った。日本人では東郷と山本五十六の2名がラベルになった。日本でその存在が知られるようになったのは、昭和58年(1983年)にフィンランドを視察した佐藤文生が持ち帰って、東郷神社に献納したのがきっかけであるともいう[22]。
なお現在日本で販売されている「東郷ビール」は、ピューニッキ醸造所が被買収により提督ビールシリーズの生産を停止した後に、オランダで製造されているビールに「提督ビールシリーズ」で使われた東郷ラベルを貼付しているものである。
[22][23]フィンランドの元首相カレヴィ・ソルサはシンポジウム『新時代のきずな 日本とEU』において、このビールを「トーゴービール」と呼び、日露戦争においてフィンランドを統治していたロシアが敗れたことで、フィンランドでは独立の機運が高まったこともあり、フィンランド国民はこの東郷ラベルのビールを飲んで往時をしのぶ、と語ったことが平成9年(1997年)10月6日の朝日新聞で伝えられた。
また東郷ラベルには「東郷平八郎提督に敬意を表して」とわざわざ日本語で書かれているものもあったという[24]。

ブラジルのタバコ
東郷が没した昭和9年(1934年)、ブラジルのカステロエス社が、「東郷へのオマージュ」として『Cigarros Guensui』という銘柄のタバコを販売した。宣伝には日本語で、「聖将東郷元帥永久の思ひ出にシガーロス『元帥』を日本の皆様に捧ぐ」と書かれていた。
トウゴウカワゲラ
水生昆虫 カワゲラには、トウゴウカワゲラ属(Togoperla )がある。これは、チェコ人昆虫学者のFrant Klapálekが、東郷に因んで名づけたものである。[25]
東郷鋼
東郷の生前、東郷本人の許可を得てその名を冠した「東郷鋼(はがね)」という鉄鋼製品があった。ここから、東郷に反発する海軍内の佐官や将官は「東郷バカネ」という地口を作り、流布したという。
ただ実際は海外鋼輸入問屋河合鋼鉄のライバル流通が考え出した洒落という説もある。日本の産業界が当時、国産第一を標榜していた背景で考察する事も可能である[26]。

東郷の郵便切手[編集]
逓信省(現在の日本郵便)が昭和12年(1937年)に発行した普通切手のうち、当時の封書基本料金用の4銭切手に東郷の肖像が使われている。その後、郵便料金の改定に伴い5銭と7銭の額面の切手が発行されている。
 
東郷の肉声[編集]
「陸の乃木 海の東郷」ともにその肉声を残しているが、乃木の肉声が「私は乃木希典であります」の一言しか残っていないのに対し、東郷は最晩年の昭和6年(1931年)に日本ビクターに、昭和8年(1933年)に日本コロムビアにそれぞれ肉声を録音し、2枚ずつ計4枚8面分の肉声が残されている。内容は以下のとおりである。
日本ビクター盤[27]「所感 軍人勅諭奉戴五十周年記念(上)」53190-A
「所感 軍人勅諭奉戴五十周年記念(下)」53190-B
「追憶 日本海海戦第一報告とその信号」53444-A
「奉読 軍人勅諭五ヶ條」53444-B

昭和7年(1932年)1月4日は軍人勅諭下賜50周年記念日にあたり、その記念の一環として東郷の記念講演の生放送が1月4日夜に企画された[28]。
放送は麹町の東郷邸に放送機材を持ち込んで行われたものであるが、東郷が高齢であるため、放送当日に身体上の理由で放送ができなくなる可能性も考えられた[28]。
そこで、海軍省は日本ビクターに命じて昭和6年12月27日に同じ内容の講演を事前に録音させ、万一の時は東郷邸からレコードを放送する手はずを整える事となった[28]。
この録音にたずさわった日本ビクターの録音技師・楠本哲秀の回想によれば、録音当日、東郷は元帥制服に威儀を正し、居間に置かれたマイクの前で最敬礼をしたあと、直立不動の姿勢で一連の録音を吹き込んだ[29]。
この録音は楠本にとって、「一生忘れられない思い出」の一つだった[29]。
このレコードは当時は発売されずに海軍省内で限定的に配布されたが、国葬当日夜に放送された後、「軍人勅諭奉戴五十周年記念」は東郷の五十日祭にあたる昭和9年(1934年)7月19日に、残りは昭和10年(1935年)5月27日に一般に発売された[28]。
また、長田幹彦は日本ビクターに対して「聯合艦隊解散之辞」も録音してはとアドバイスしたが、相手にされなかった[30]。:日本コロムビア盤[27]「聯合艦隊解散式訓示(上)」28000-A

聯合艦隊解散式訓示(下)」28000-B
「三笠艦保存記念式祝辞」28346-A
「海と空の博覧会における祝辞」28346-B

前述のように、日本ビクターは長田幹彦からの「聯合艦隊解散之辞」の録音の要請話に取り合わなかった。
そこで長田は、次に日本コロムビアに録音話を持ちかけたところ、日本コロムビア側が承諾して録音が実現した[30]。さらに、東郷の家族から祝辞の録音も要請された[30]。
録音は昭和8年(1933年)2月18日にビクター盤と同様に東郷邸で行われ[30]、「聯合艦隊解散式訓示」(聯合艦隊解散之辞)はビクター盤と同じ昭和9年(1934年)7月19日に、二つの祝辞は昭和10年(1935年)5月20日に発売された[28]。
なお、「海と空の博覧会」とは昭和5年(1930年)3月20日から5月31日にかけて上野恩賜公園と「三笠」で開かれた博覧会で、博覧会初日には東郷が祝辞を読み上げ、この模様はJOAK東京放送局)が生中継した[31]。当時の東京朝日新聞は「ラジオを通じて始めての東郷元帥の親し味あるすんだ声もファンの耳に入ったので大喜びであった」と書いた[31]。
その他、明治38年(1905年)10月29日に青山霊園で挙行された海軍弔慰祭でも、東郷の朗読する祭詞の録音が小笠原長生の発案で行われる事になっていたが、朗読する東郷の写真を撮ろうとした写真屋に対して東郷が「お下げなさい」と一喝、驚いた写真屋はあわてて逃げ出し、ついでに幕の後ろで待機していた録音技師までもが逃げ出したため、録音は行われなかった[31]。

逸話[編集]
一般に寡黙、荘重という印象があるが時として軽忽な一面もみせた。晩年学習院に招かれた際、講演中に生徒に「将来は何になりたいか」と質問し「軍人になりたい」と答えた生徒に「軍人になると死ぬぞ」 「なるなら陸軍ではなく海軍に入れ。海軍なら死なないから」と発言し、陸軍大将であり、諧謔のセンスの乏しい乃木希典院長を激昂させ、同時に半ば呆れさせたというエピソードがある。

ユトランド沖海戦については「逃げた奴は負け」と北海の制海権を維持できたイギリス側の勝利と判定している。日本海海戦時の参謀であった秋山真之も「ドイツも善戦したが、イギリスの北海制海権を破れなかったので敗北」と東郷の意見と同じ見解を示している。
昭和天皇学習院時代、院長であった乃木希典については「印象深く、尊敬もしている」と述べているが、東宮御学問所総裁であった東郷については、後年、記者の質問に「何の印象もない」と答えている。
錬度を上げることに熱心であった。『聯合艦隊解散之辞』に「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という言葉を残している[46]。

ワシントン軍縮条約の結果、主力艦の保有比率が対英米6割と希望の7割より低く抑えられたことに憤激する将官達に向かって、「でも訓練には比率も制限もないでしょう」と諭したと言われる。(伊藤正徳著「連合艦隊の最後」)

東郷は宮古湾海戦にて奮戦、戦死した甲賀源吾を軍人として尊敬していた。
また、明治新政府によって逆賊として斬首に処せられた小栗忠順の名誉を後に回復している。
日本海海戦バルチック艦隊を破って後、東京で暮らしていた小栗の遺族を私邸に招き、「日本海海戦で勝利を得たのは、(小栗が生前に建造した)横須賀造船所で艦隊の十分な補給と整備を受けることができたからである」と故人の功績を称え、感謝の言葉を惜しまなかったという。

東郷の国葬に併せて英米両国から日本向けに追悼のメッセージがラジオで放送された。
イギリスからはボルトン・イヤーズ=モンセル海軍大臣のメッセージが英国放送協会から、アメリカからはウィリアム・スタンドレイ海軍作戦部長のメッセージがNBCからそれぞれ放送されたが、アメリカからの放送では予定より早く終了したため、時間調整に日本の曲として『お江戸日本橋』『かっぽれ』(ともに山田耕筰編曲「日本組曲」[47]より)という、おおよそ追悼に似つかわしくない音楽が放送されてしまうという出来事が起こり、日本国内ではアメリカ側の選曲、特に『かっぽれ』を問題視する声が一部で出た[48]。

また、海軍当局が「放送を止めなかった」JOAKに抗議を申し入れる事態も起きている[48]。協栄生命保険元取締役[49]でSPレコード愛好家の志甫哲夫は、NBCは『お江戸日本橋』と『かっぽれ』を「適当な日本曲だと思って放送に使った」とする[22]。また、その音源の由来は、国葬に先立つ4月29日に行われた日米交換放送で、日本側から送った音源をNBCが録音したものであった[22]。

国際連合事務総長のブトロス・ガリは、日本に来ると必ず東郷神社に参拝した。エジプト出身であるガリは「小さい頃、ものすごく励まされた、心を解放された」と言っている。

日本海海戦の際、旗艦三笠に掲げられた大将旗は明治43年(1911年)に、イギリス国王のジョージ5世の戴冠式明治天皇の名代・東伏見宮依仁親王に随行して出席した際、かつての留学先だった海員練習船「ウースター」校に寄贈されていた。
日本側にこうした経緯を記した記録がなかったため、長らく所在不明となっていたが、平成16年(2004年)に東郷神社の松橋暉男宮司が著書の執筆にあたり調査したところ、ウースター校の財産を引き継いでいる財団マリン・ソサエティーが、同時に寄贈された銀杯や東郷元帥の胸像とともに所蔵していることがわかった。神社側が翌年の大祭の際に貸してもらうよう申し入れたところ、無償で永久貸与されることになった。

日本海海戦カール・ツァイスの双眼鏡を敵の沈没状況や降伏確認に使用した。この双眼鏡は発売されて間もない明治37年(1904年)に小西屋六兵衛店(現コニカミノルタホールディングス)が輸入したもの。現在は三笠記念館に収蔵されている。
2010年2月16日に放送されたテレビ東京開運!なんでも鑑定団」には、東郷平八郎大正天皇から下賜されたという刀が出品され、鑑定額は5000万円と評価された。
初めて日本で肉じゃがを作らせたと言われている(諸説有り)。

親族[編集]
長男 東郷彪(貴族院侯爵議員)
次男 東郷実(海軍兵学校40期生・少将) その子で72期生の東郷良一(少尉で重巡洋艦摩耶に乗組み、比島沖海戦で戦死し2階級特進で大尉になった)、曾孫の防衛大学校卒の幹部海上自衛官東郷宏重がいる[50]。

係累の東郷良尚は日本ユニセフ協会の副会長である。
二女 園田千代子 園田実(海軍少将・男爵)と結婚。

脚注[編集]
1.^ 『日本の歴史 明治』
2.^ 山中速人 『ハワイ』 岩波書店岩波新書〉、1993年,127頁
3.^ 同書,127頁
4.^ #生涯海軍士官384頁
5.^ 秋山真之参謀が起草
6.^ #東郷の肉声へ
7.^ a b 『ニュータイプ中学歴史資料 学び考える歴史』浜島書店
8.^ ニューカッスル・ユナイテッド、初期の黄金期の出来事である。ニューカッスルは造船所や兵器工廠、砲廠のアームストロング社などがあり、日本にとって重要な取引先であり留学先でもあった。日本海海戦にもこの造船所で作られた戦艦が多数参加、主力艦を占めた。
9.^ この時には昭和天皇直々に「元帥は凡てに付き達観するを要す」と実質的戒告を受けた。茶谷誠一著「昭和天皇側近たちの戦争」 2010年、吉川弘文館、ISBN 4-642-05696-3
10.^ 実際、当事の海軍士官の俸給が内職を必要とするほど寡少であったとは考えにくい。
11.^ アジア歴史資料センター第2576号 9.6.2 外国海軍指揮官接待に関する件 レファレンスコード:C05023436600
12.^ アジア歴史資料センター海軍大将有馬良橘外十七名葬儀委員長葬儀副委員長並葬儀委員被仰付 レファレンスコード:A10110759500
13.^ アジア歴史資料センター第一編 第三章 第三節 宮司ノ葬儀委員長 第一 序説 レファレンスコード:A10110735000
14.^ アジア歴史資料センター第二編 第二章 第一節 三 葬儀委員長、副委員長ノ更送及委員ノ異動 レファレンスコード:A10110736600
15.^ 永藤2012
16.^ ただし、天皇の諮問機関である軍事参議官会議では最古参の大将(東郷の生前では最古参の元帥に等しい)が議長となるため東郷にはその職責はある。東郷は1929年に井上良馨が死去した後は海軍最古参の元帥であり、翌年に奥保鞏が死去した後は陸軍をも含めての最古参の元帥となった。
17.^ a b 野村 1999 p.203
18.^ 野村 1999 pp.224-225
19.^ この状態の三笠の写真が残っている
20.^ 神奈川新聞 昭和21年4月24日
21.^ ただしハルゼー自身は日本海海戦は日本の卑怯な奇襲攻撃、舞踏会の日本人はニヤニヤした顔の裏でよからぬ事を企んでいると、この年別のパーティーで東郷と出会っていたニミッツやスプルーアンスとは異なる感慨を抱いていたと言われる(詳細はウイリアム・ハルゼーの項を参照のこと)。
22.^ a b c d 志甫 2008、p.126
23.^ http://www.choumi.jp/SHOP/t-db01.html
24.^ 1988年5月17日 南日本新聞のコラム「南風録」
25.^ 他にもオオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)、カミムラカワゲラ(上村彦之丞)と、何れも日本の偉人に因んだ命名がある。
26.^ 参考、「たたらのはなし」日立金属HP
27.^ a b 志甫 2008、p.119
28.^ a b c d e 志甫 2008、p.120
29.^ a b 歌崎 1998、p.179
30.^ a b c d 志甫 2008、p.121
31.^ a b c 志甫 2008、p.124
32.^ 『官報』第3521号、「叙任及辞令」1895年03月29日。
33.^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年08月21日。
34.^ 『官報』第4483号、「叙任及辞令」1898年06月11日。
35.^ 『官報』第7771号、「叙任及辞令」1909年05月24日。
36.^ 『官報』第8510号、「叙任及辞令」1911年10月31日。
37.^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
38.^ 『官報』第4267号、「叙任及辞令」1926年11月12日。
39.^ 『官報』第2221号、「授爵・叙任及辞令」1934年05月30日。
40.^ 『官報』第2221号・号外、「辞令」1934年05月30日。
41.^ 『官報』第2223号、「故元帥海軍大将侯爵東郷平八郎葬儀」1934年06月01日。
42.^ 『官報』第2222号、「叙任及辞令」1934年05月31日。
43.^ 『官報』第6819号、「叙任及辞令」1906年03月27日。
44.^ 『官報』第4066号、「叙任及辞令」1926年03月17日。
45.^ 『官報』第5811号、「辞令」1902年11月15日。
46.^ これは東郷の発言として有名であるが、聯合艦隊解散の辞を起草したのは秋山真之である。後に海軍兵学校の講義で井上成美は、この主張に対しもし敵の初弾が1/100の確率で味方の砲に当たった場合、反撃の手段を失うことになるとの確率論を根拠にこれに反証し、過度の精神主義に頼ることを批判した。
47.^ 1912年に作曲された管弦楽組曲で、『お江戸日本橋』、『かっぽれ』、『さらし(越後獅子より)』の三曲で構成(志甫 2008、p.126)
48.^ a b 志甫 2008、pp.125-126
49.^ 志甫 2008、巻末参照
50.^ 東郷平八郎曾孫東郷宏重「心に住む曾祖父」、日本随想録編集委員会編『日本海海戦随想録<永久保存版>』(合資会社歴研、2003年初版、2005年永久保存版)第三篇 子孫が伝える「日本海海戦」、所収。

参考文献[編集]
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星亮一 『沈黙の提督―海将 東郷平八郎伝』 ISBN 4-7698-0989-1
生出寿 『海軍の父 山本権兵衛~日本を救った炯眼なる男の生涯』 ISBN 4-7698-0450-4 ISBN 4-7698-2054-2
『日本戦艦史』(『世界の艦船』増刊号)海人社、1988
ノビコフ, プリボイ 『ツシマ―バルチック艦隊の壊滅 (上・下)』 ISBN 4-562-01476-8 ISBN 4-562-02251-5 ISBN 4-562-02252-3
司馬遼太郎坂の上の雲』 文春文庫(1999年版): 1 ISBN 4-16-710576-4、2 ISBN 4-16-710577-2、3 ISBN 4-16-710578-0、4 ISBN 4-16-710579-9、5 ISBN 4-16-710580-2、6 ISBN 4-16-710581-0、7 ISBN 4-16-710582-9、8 ISBN 4-16-710583-7

吉村昭 『海の史劇』、新潮文庫、ISBN 4-10-111710-1
中村悌次 『生涯海軍士官 戦後日本と海上自衛隊中央公論社、2009年。ISBN 978-4-12-004006-1。
歌崎和彦(編) 『証言 日本洋楽クラシックレコード史 (戦前編)』 音楽之友社、1998年。ISBN 4-276-21253-7。
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永藤欣久「16)元帥東郷平八郎使用と伝わる総義歯 : 入交直重東洋女子歯科医学専門学校教授所蔵」、『日本歯科医史学会会誌』第29巻第4号、日本歯科医史学会、2012年9月30日、 284頁、 ISSN 0287-2919、 NAID 110009544213。

 

東郷平八郎」の書誌情報

なんか嬉しかったこと

ウィキペディアに小額だけど寄付したらすごい丁寧な礼状が届いた。

テンプレの電子メールなのに、なんか真摯な気持ちが伝わってきて

嬉しかった。

紹介してもまずいことはないだろうと思うので

差し障りの無いとこだけちょと引用します。

 

ウィキメディア財団からの感謝

**** 様

貴重な寄付をお寄せいただき、世界中のすべての人に知識を届ける活動に参加頂きまして、誠にありがとうございました。

 私、ライラ・トレティコフは、ウィキメディア財団の事務長を務めさせていただいております。百科事典を278の言語に拡大し、世界中のより多くの人がアクセスできるようにするという私たちのこの一年間の努力は、あなたのような支援者の方々からの寄付によって支えられてきました。私たちは特に、教育を受けるのが難しい人たちの状況改善のために邁進してまいりました。例えば、インドのソーラープルで生まれた、アクシャヤ・アイエンガーがいます。織物業が盛んな小さな町で育ったアクシャヤは、ウィキペディアを主な情報源として学んできました。本は手に入りにくいものの携帯のインターネットは使えるこの地域の学生にとって、ウィキペディアは学習の手段なのです。アクシャヤは、インドで大学を卒業後、今ではアメリカでソフトウェアエンジニアとして働いており、彼女の知識の半分がウィキペディアのおかげだと語っています。

このような話は特別なものではありません。私たちは志高い使命をもち、幾つもの課題に立ち向かっています。ウィキペディア非営利団体によって運営され、寄付によって成り立っていることを知って、多くの利用者は驚かれます。毎年、ウィキペディアという「人類の知識の総和」をすべての人に提供し続けるために足るだけの寄付をいただいています。この使命を実現可能なものとしてくださる支援者の皆さまに、心より感謝いたします。

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ありがとうございました。
ライラ

ウィキメディア財団
事務長
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私もインドのアクシャヤさんと同じだ。

通信制でも大学で学ぼうと思えばそれなりのお金がかかるし、

専門書も買えば高い。ウィキペディアなら自分がいつも使ってる

回線の維持費だけで、いくらでも知りたいことを学べる。

 

このブログを「アルシーブ」というタイトルにしたのは

まさに「人類の知識の総和」に個人的なベクトルでアクセスして

自分がマンガ描くために使う資料ノートを作るためだった。

 

知ることは楽しい。純粋に楽しいからもっと知りたくなる。

ウィキペディア使ってる人に寄付を呼びかけようとかそういう

おこがましいことは思わないけど、ちゃんとした人たちが

やってるってことは伝えたいと思った。

表示・継承ライセンスも4.0にしたし、これからもせっせと

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海軍戦争検討会議記録

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 海軍戦争検討会議記録(かいぐんせんそうけんとうかいぎきろく)とは、1945年昭和20年)12月22日から翌1946年(昭和21年)1月23日にかけて、第二復員省(旧海軍省)に太平洋戦争開戦前後の日本海軍の首脳メンバーが一堂に会し、4回にわたって「特別座談会」という名の会議をひらき、開戦の経緯を中心に戦争の総括をおこなった際の記録。のちに新名丈夫が編纂して出版された。

 

概要

会議の目的は、日本海軍がなぜ太平洋戦争に突入したかを検討することであった。出席者は、毎回出入りはあるものの、

など全部で29名であった。

日独伊三国軍事同盟成立に際して「(同盟が)出来た時の気持は、他に方法がないということだった」「陸軍はクーデターを起こす可能性あり。ひいては国内動乱の勃発を憂慮せられたり」と述べる豊田、及川に対し、英米派の井上は 「先輩を前にして甚だ失礼ながら、敢えて一言す」として「海軍が陸軍に追随せし時の政策は、ことごとく失敗なり。二・二六事件を起こす陸軍と仲よくするは、強盗と手を握るが如し。同盟締結にしても、もう少ししっかりしてもらいたかった。陸軍が脱線する限り、国を救うものは海軍より他にない。内閣なんか何回倒してもよいではないか」と批判している。

また、井上が日独伊三国軍事同盟成立時の海軍大臣であった及川に「何故、海軍は戦えません、とはっきり言わなかったのか」と質したのに対し、及川は日本海海戦の英雄東郷平八郎元帥の怒鳴り込みにおびえたと答えている。

記録は英訳されて連合国軍総司令部GHQ)に届けられたといわれている。開戦時の真相を知り、軍部の戦争責任を考えるための歴史資料として重要であるが、問題点としては、出版後、海軍善玉・陸軍悪玉という風潮(陸軍悪玉論)をつくりあげるのに一役買ってしまったことが掲げられる。

 

「記録」の出版

この記録は、もともと部外に出すつもりはなかったといわれている。毎日新聞社の海軍記者であった新名丈夫がスクープ、編纂して会議の開かれた30年後に『海軍戦争検討会議記録』(毎日新聞社、1976年12月)として出版された。

 

海軍反省会

海軍反省会は、1980年(昭和55年)より11年間、旧日本海軍軍令部将校が中心となって秘密に集まっていた会合である。この会の記録は2009年8月に「日本海軍 400時間の証言」としてNHKで放送された。

 

関連項目

「海軍戦争検討会議記録」の書誌情報

海軍反省会

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海軍反省会(かいぐんはんせいかい)は、1980年から1991年まで、大日本帝国海軍軍令部第二復員省OBが一般には公にせず内密に組織した旧海軍学習グループである。

 

概要

会合の場所を水交社とし、11年間に131回開催されたといわれる。特に、旧海軍大佐・豊田隈雄が残した会議の記録、および400時間にわたる録音テープが残された。テーマの性格上既に知られている事実も多いが、それらに対して反省会参加者を中心とする関係者がどのような見解を抱いていたかを知ることが出来ると言う意味では、価値を見出すことが出来る。また極東国際軍事裁判での、第二復員省による戦犯旧海軍幹部への量刑減刑工作への関与の実態などの中には、初めて公になった事実もあるとされる[1]。さらに今まで語られてこなかった陸海軍の確執と海軍の開戦責任[2]、そして日本国民の開戦責任についてはじめて触れられた[3]

会が開かれるまでの経緯

1977年(昭和52年)7月11日水交会にて中澤佑中将の体験を語る談話会で、海軍には反省すべき点があり反省会のようなものを作ってはどうかと中澤が提案した。このとき出席していた野元為輝が意見を述べ、三代一就も同意した。その後、兵学校50期卒業者を中心に賛同を得て会合が開かれることとなる。当初は野元の名をとり「野元会」とされたが、第1回会合にて「海軍反省会」と正式に決められた。

第1回は1980年(昭和55年)3月28日に開かれ、第131回の1991年(平成3年)4月25日まで開催されているが、最終回は明らかになっていない。

メディアでの紹介

史料調査会で文書整理を行っていた戸高一成は旧海軍関係者との親交を通じて反省会の録音テープが残存していることを知った。テープは3箇所ほどに分散して保存されており、当初はその在り処すら把握出来ていない状態だったが、オーラルヒストリーとしての価値を重視した戸高やテープ保管者などの意向、関係者が物故したこと、期間を空けてからであれば公表しても良いとされていたことなどの事情により、最終的にほぼ全ての録音を集めることが出来た。その内冒頭の議事がテープ起こしされ、PHPより単行本として出版された。また、テープは長期に渡り一般家庭などで保管されていたため劣化していた物もあったが、NHKにて復元作業が行われた。

更に、単行本の出版と併せメディアミックス的な展開として2009年8月9日 - 11日の3日間、NHK総合NHKスペシャル』にて反省会をテーマとしたドキュメント番組が放映された[5]

海軍反省会の発言者

第1回から第10回までの発言のあった会員を示す。

脚注

  1. ^ もっとも、過去にも「初出」「初公開」を銘打って公表されたという触れ込みの史料、出版物は数多く、研究者やメディア関係者は宣伝文句として上述のような文句を好んで使う傾向がある。同期生や部隊関係者で作る親睦団体内で発行される会誌や親睦会内で行われた講話を伝えるニュースなども、この反省会と似た性格を持つ内容が収録されている例があるが、インターネット上で公表されるまでは公になっていなかったものが多い。ある史料の内どの部分が本当の意味で「初公開」であるのかは、留意が必要である。
  2. ^ 満州事変以来勢力を拡大せる陸軍は之と対抗的立場にある海軍との協力を好まず独善に陥り且海軍も亦政治力を強力に利用し之が是正に努力を払わざりし為。陸軍を主体とする武断政治は論理的なる国是国策を欠きたる情況に於いて複雑多岐なる国際間の機微に処する方途を誤り、満州事変支那事変共に天皇の掌握外に於いて現地陸軍独自の行動に依り発生せるものにして政治組織は各省並頭にして之を統制裁断すべき中心勢力なく同一事項の処理各省に跨り互に縄張争を事とし官吏は実体を把握せざるのみならず指導力乏しく放棄の末節に拘泥にして事務は甚だしく渋滞し戦況不利となるに及んで傍観的態度を採るに至れり陸、海及民は各其の立場に於いて競合対立し大局的見地に於いて協力せず」
  3. ^ 「我が国其の歴史的発展過程よりして世界の他民族及他国家との交渉触接の機会少なく、国民性は世界性を有せざる単純潔癖偏狭にして協調融和変通性を欠き国民理念は論理性包容性を欠き東亜及欧米民族をして之が理解納得の内容具備と涵養不足にして在外邦人は至る所排斥せられ経済的発展も多く排撃を被り国家として当然なりとする主張も彼等の容認する所とならざる場合多し」
  4. ^ 太平洋戦争開戦経緯の研究を振り返って―思索し、資料を.. 三輪宗弘教授
  5. ^ NHKスペシャル 2009年8月9日「日本海軍 400時間の証言」

参考文献

関連項目

外部リンク

 
 

海軍反省会」の書誌情報

軍令部

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海軍省・軍令部の碑(現在の中央合同庁舎第5号館敷地内。揮毫者は中曽根康弘

軍令部(ぐんれいぶ)は、日本海軍の中央統括機関(海軍省と共同で行う)である。海軍省内閣に従属し軍政人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼(ほよく)する立場から、海軍全体の作戦指揮を統括する。

概要

長たるものは軍令部長(後に軍令部総長)であり、天皇によって海軍大将又は海軍中将が任命される。また、次長は総長を補佐する。この二官は御前会議の構成員でもある。

軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。

設置当初、政府上層部は陸軍を尊重していたため、戦時大本営条例に基づき、大本営では陸軍の参謀総長天皇に対して帝国全軍の作戦用兵の責任を負うこととされた。これに対して海軍では一貫して陸軍と対等の地位を要求し続けた。

そして日露戦争の直前に、山本権兵衛海軍大臣から海軍軍令部条例を改め、名称を「参謀本部」にしたい(すなわち陸海軍の参謀本部を同格にしたい)と上奏を受けた明治天皇は、1903年9月12日にこの件を元帥府に諮ることを命じた。しかし元帥府はこの上奏を受け入れず、10月21日明治天皇徳大寺実則侍従長を通じて山縣有朋元帥陸軍大将に再考を促した。

結局、陸軍が折れ、戦時大本営条例が改定された。(しかし軍令部の改名は受け入れられなかった)これにより、海軍軍令部長参謀総長と対等の立場で作戦用兵に責任を負うこととなった。さらに伏見宮博恭王軍令部長の時には軍令部の位置づけが強化され、海軍の独立性がより高められた。

しかし、組織的には陸軍の方が圧倒的に大きく、海軍は常に陸軍への吸収と隣り合わせだった。実際、近衛首相の時には日米開戦を避けるために「アメリカ海軍に勝てない」と海軍に告白させようと圧力がかけられ、海軍の存在意義が問われる事態に陥ったことがあった。

これに苦慮した海軍省は「海軍は無敵である」と盛んに宣伝し、海軍の存在意義を保とうとするが、軍令部はこれに困惑した[1]。また、太平洋戦争中、権力の集中を図るため東條首相の命で、嶋田繁太郎海軍大臣軍令部総長を兼任した際には、海軍内部で大きな反発が起きたほか、戦力強化のため陸軍からたびたびも統合案が持ち出されたが、統帥権を盾に統合を阻んだ。

海軍の独立が確保できなければ終戦工作はより困難なものになっていたのではないかと反省会では指摘されている。

太平洋戦争の開戦から敗戦に至るまでについての内幕や反省点については、開戦時に一部一課で作戦を担当した佐薙毅をはじめとした部員達の証言が海軍反省会に残されている。

沿革

大日本帝国海軍
大日本帝国海軍旗
官衙
海軍省
軍令部
艦政本部
航空本部
外局等一覧
地方組織
鎮守府
警備府
要港部
艦隊
連合艦隊
北東方面艦隊
中部太平洋方面艦隊
南東方面艦隊
南西方面艦隊
第十方面艦隊
支那方面艦隊
海上護衛総司令部
海軍総隊
他作戦部隊
海軍航空隊
海軍陸戦隊
主要機関
学校一覧
歴史・伝統
日本海軍の歴史
日本海軍の軍服
その他
階級一覧
艦艇一覧
兵装一覧
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組織

海軍軍令部時代

1893年5月の海軍軍令部発足時の組織は次の通りであった[2]

  • 海軍軍令部長(大将又は中将)
  • 副官2人(大尉)
  • 第1局(出師、作戦、沿岸防禦の計画、艦隊、軍隊の編制及び軍港、要港に関する事項についての部事を分担する。局長大佐、局員は少佐2人、大尉4人。)
  • 第2局(教育訓練の監視、諜報及び編纂に関する事項についての部事を分担する。局長は大佐、局員は少佐1人、大尉3人、局員ではない職員として機関少監[3]又は大機関士1人[4]、海軍編修1人、海軍編修書記5人。)
  • 出仕将校(臨時に佐官又或いは大尉4人を置くことができた。)
  • 公使館附将校(佐官或いは大尉8人)
  • 海軍文庫主管(大尉)
  • 書記3人、技手1人。

昭和時代

  • 副官部
  • 第一部 作戦担当

  第一課(作戦・編成)   第二課(教育・演習)

  • 第二部 軍備担当

  第三課(軍備・兵器)   第四課(出動・動員)

  • 第三部 情報担当

  第五課(米大陸情報)   第六課(中国情報)    第七課(ソ欧情報)    第八課(英欧情報)

  • 第四部 通信担当

  第九課(通信計画)    第十課(暗号)

  • 臨時戦史部・特務班

 

歴代軍令部総長

海軍軍令部の長は以下のとおり

海軍軍令部の長一覧
姓名就任時
階級
出身海兵海大
卒業期
就任備考次長
1 仁礼景範 海軍少将 鹿児島   1886年3月16日 海軍軍令部長から参謀本部次官、
更に参謀本部海軍部長に改称。
 
2 伊藤雋吉 海軍少将 京都   1889年3月8日 海軍参謀部長に改称。  
3 有地品之允 海軍少将 山口   1889年5月17日    
4 井上良馨 海軍少将 鹿児島   1891年6月17日    
5 中牟田倉之助 海軍中将 佐賀   1892年12月12日 海軍軍令部長に改称。  
6 樺山資紀 海軍中将 鹿児島   1894年7月17日    
7 伊東祐亨 海軍中将 鹿児島   1895年5月11日   諸岡頼之
伊集院五郎
上村彦之丞
出羽重遠
伊集院五郎
8 東郷平八郎 海軍大将 鹿児島   1905年12月20日   伊集院五郎
三須宗太郎
9 伊集院五郎 海軍中将 鹿児島 海兵5期 1909年12月1日   藤井較一
10 島村速雄 海軍中将 高知 海兵7期 1914年4月22日   山下源太郎
佐藤鉄太郎
山屋他人
竹下勇
11 山下源太郎 海軍大将 山形 海兵10期 1920年10月1日   安保清種
加藤寛治
堀内三郎
斎藤七五郎
12 鈴木貫太郎 海軍大将 千葉 海兵10期
海大1期
1925年4月15日   斎藤七五郎
野村吉三郎
末次信正
13 加藤寛治 海軍大将 福井 海兵18期 1929年1月22日   末次信正
14 谷口尚真 海軍大将 広島 海兵19期
海大3期
1930年6月11日   永野修身
百武源吾
15 伏見宮博恭王 海軍大将 皇族 海兵16期 1932年2月2日 軍令部総長に改称。 高橋三吉
加藤隆義
嶋田繁太郎
古賀峯一
近藤信竹
16 永野修身 海軍大将 高知 海兵28期
海大8期
1941年4月9日   近藤信竹
伊藤整一
17 嶋田繁太郎 海軍大将 東京 海兵32期
海大13期
1944年2月21日   塚原二四三
18 及川古志郎 海軍大将 岩手 海兵31期
海大13期
1944年8月2日   塚原二四三
小沢治三郎
19 豊田副武 海軍大将 大分 海兵33期
海大15期
1945年5月29日   大西瀧治郎

高柳儀八

関連項目

脚注

  1. ^ 「攻めるのには不十分だが守るのには十分」とある様に、当時の日本海軍は、2度に渡る海軍軍縮会議の影響もあり、抑止力を保つために存在するという位置づけだった。
  2. ^ 明治26年勅令第37号。
  3. ^ 機関少監とは、機技部の上長官で、少佐相当。
  4. ^ 機関士とは、機技部の士官で、大尉相当。

参考文献

講談社、1987年) ISBN 4-06-203155-8
講談社文庫、1993年) ISBN 4-06-185556-5
  

「軍令部」の書誌情報

大日本帝国海軍

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大日本帝国海軍
Naval Ensign of Japan.svg
軍艦旗
創設 1869年-1947年
国籍 日本の旗大日本帝国
兵科 海軍
任務 海戦
行進曲 軍艦行進曲
記念日 5月27日
主な戦歴 日清戦争
日露戦争
第二次世界大戦
指揮
大元帥 明治天皇
大正天皇
昭和天皇
著名な司令官 伊東祐亨
東郷平八郎
山口多聞
山本五十六
南雲忠一
識別
軍艦旗 Naval Ensign of Japan.svg
国籍旗 Merchant flag of Japan (1870).svg

大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん、旧字体大日本帝國海軍)は、明治4年(1872年) - 昭和20年(1945年)まで日本に存在していた軍隊組織である。通常は、単に日本海軍帝国海軍と呼ばれた。戦後からは旧日本海軍もしくは旧帝国海軍とも呼ばれる。 

概要

軍政海軍大臣軍令軍令部総長が行い、最高統帥権を有していたのは大元帥たる天皇であった。大日本帝国憲法では、最高戦略、部隊編成などの軍事大権については、憲法内閣から独立し、直接天皇統帥権に属した。したがって、全日本軍(陸海軍)の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、軍政については海軍大臣陸軍大臣天皇輔弼し、一方、作戦面については天皇を補佐する帷幄の各機関の長、即ち海軍は軍令部総長陸軍参謀総長がこれに該当していた。

元々は軍政の下に置かれていた軍令が対等となり陸軍と海軍も対等とされたため、戦略がなおざりにされ「統帥二元」という問題が生じることとなる。一方がもう一方に従う必要がないため、効率的・統一的な作戦行動を取ることが出来ず、作戦は常に双方に妥協的な物が選択されたのであった。諸外国の多くの軍隊のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職(ポスト)は存在しない。また、戦時(後に事変を含む)には陸軍と合同で大本営を設置した。

 

日本はそもそも四方を海洋に囲まれている海洋国家であるため、帝国海軍は西太平洋制海権を確保することにより敵戦力を本土に近づけないことを基本的な戦略として、不脅威・不侵略を原則としてきた。また、一方でイギリス海軍に大きな影響を受けていたため、戦闘においては好戦的な姿勢を尊び「見敵必殺」を旨として積極的攻勢の風潮があった。

 

海軍の戦略戦術研究の功労者として佐藤鉄太郎中将が挙げられる。明治末期から昭和にわたり海軍の兵術思想の研究に携わり、その基盤を築いた。1907年(明治40年)に『帝国国防史論』を著述し、「帝国国防の目的は他の諸国とはその趣を異にするが故に、必ずまず防守自衛を旨として国体を永遠に護持しなければならない」と述べ、日本の軍事戦略軍事力建設計画に影響を与えた。その一方で帝国陸軍とは関係が悪く、しばしば官僚的な縄張り争いによって対立を見た。

 

所属する艦艇は、艦名の前に艦船接頭辞はもたない。英語圏の文献では、艦船接頭辞をもつ英米軍の艦艇との記述の一貫性のため、「HIJMS」(His Imperial Japanese Majesty's Ship、日本国の天皇陛下の軍艦の意)を冠する場合がある。

平時の任務

海軍は戦時の他、平時にも以下の任務を負う[1]

  • 領海権の保護(海賊船の逮捕、難破船の救助など)
  • 航通権の保護(公海交通を阻害するものの除去など)
  • 局外中立の維持(他国相互に戦争を開始した場合、交戦国の軍艦が逃走し自国の港湾内に侵入したり、炭水、糧食などを強求した場合、これを駆逐しなければならない)
  • 通商貿易の保護
  • 外交問題の後援
  • 在外国民の保護
  • 国交の儀式への参列

組織

軍部高官

海軍区

1938年(昭和13年)時点の海軍区の区画、軍港、要港一覧[2]

昭和13年、海軍区の区画・軍港・要港 一覧
海軍区管轄
鎮守府
陸上区画・海上区画とも同一鎮守府の管轄海上区画の管轄陸上区画の管轄[3]軍港要港
第一 横須賀 樺太、北海道、青森、岩手、秋田、宮城、福島、茨城、千葉、東京、神奈川、静岡 愛知、三重 山形、新潟、栃木:*、群馬*、埼玉*、山梨*、長野* 横須賀 大湊(青森)
第二 和歌山、大阪、兵庫、岡山、広島、山口、富山、石川、福井、京都、鳥取、島根、徳島、高知、愛媛、香川 山形、新潟、大分、(宮崎[4])、(福岡[5] 愛知、三重、岐阜*、奈良*、滋賀* 徳山(山口)、舞鶴(京都)
第三 佐世保 鹿児島、佐賀、長崎、熊本、沖縄、朝鮮台湾 (福岡[6])、(宮崎[7] 大分、宮崎、福岡 佐世保 鎮海(朝鮮)、馬公澎湖島
関東州 佐世保 関東州およびその海上 - - - 旅順(関東州)
南洋 横須賀 南洋諸島委任統治区域及びその海上 - - - -

兵器

艦艇の種類を以下に示す[8]戦艦巡洋艦海防艦砲艦駆逐艦潜水艦潜水母艦航空母艦敷設艦掃海艦、特務艦。

略史

 
日本海軍発祥之地碑
宮崎県日向市美々津

 

伝承によると日本神話における神武天皇の船出の地(詳しくは神武東征を参照)、宮崎県日向市美々津日本海軍発祥の地とされており、美々津港には海軍大臣米内光政による「日本海軍発祥の地」碑が現存している[9]

 

一方直接の祖先と言えるのは中世より日本史上に姿をあらわす水軍である。徳川家の配下であった幕府水軍は江戸期に一度廃れたが、後に幕府海軍となって強化された他諸藩の水軍も多くが初期の日本海軍に合流した。初期の日本海軍の構成者の多くが水軍の伝統のある地域出身であったとされる。また、多くの艦船を建造した浦賀や連合艦隊の根拠地柱島等はかつて水軍の根拠地でもあった。

 

江戸時代幕藩体制においては鎖国が行われ、諸藩の大船建造は禁止されていたが、各地に外国船が来航して通商を求める事件が頻発するようになると、幕府や諸藩は海防強化を行うようになる。軍艦奉行長崎海軍伝習所が設置され、開国が行われたのちの1860年には咸臨丸が派遣される。1864年(元治元年)には初の観艦式が行われる。(幕府海軍参照)

 

王政復古により成立した明治政府は、江戸幕府海軍操練所海軍伝習所などの機関を継承し、幕府や諸藩や海援隊の人員や装備を整理・編成したのが基礎になる。

1870年(明治3年)に陸海軍が分離され、1872年(明治5年)に海軍省が東京築地に設置される。初期には川村純義勝海舟が指導する。1876年(明治9年)に海軍兵学校1893年には軍令部をそれぞれ設置する。明治初期には陸軍に対して海軍が主であったが、西南戦争により政府内で薩摩藩閥が退行すると、陸軍重点主義が取られるようになる。

参謀本部が設立され、海軍大臣西郷従道山本権兵衛らが海軍増強を主張し、艦隊の整備や組織改革が行われ、日清戦争時には軍艦31隻に水雷艇24隻、日露戦争時には軍艦76隻水雷艇76隻を保有する規模となる。またこの時期、軍艦は「常備艦隊」と「西海艦隊」に振り分けられていたが、これを統合し「連合艦隊」を組織するという案を出した。これが連合艦隊編成のきっかけとなり、日清戦争開戦の6日後にはじめて連合艦隊が編成された。以降日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となる。

 

日露戦争後は、1920年大正9年)に海軍増強政策である八八艦隊案を成立させ、アメリカを仮想敵国に建艦競争をはじめる。1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約及び1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約により主力艦の建艦は一時中断されるが、ロンドン海軍軍縮会議が決裂した後に再開され、大東亜戦争開戦時には戦艦10隻を含む艦艇385隻、零戦などの航空機3260機余りを保有する規模であった。

また、日露戦争で当時、第3位の海軍力を誇ったロシア帝国海軍を日本海海戦で打ち破った後はイギリス海軍アメリカ海軍と共に「世界三大海軍」と世界で並び称され、繁栄を謳歌した。

 

1932年(昭和7年)には第一次上海事変上海共同租界の防衛で活躍した。同年、海軍青年将校10名により、白昼犬養毅総理大臣を射殺するというクーデター未遂事件(五・一五事件)が発生する。中国ではその後も中山水兵射殺事件上海日本人水兵狙撃事件大山事件など対日テロの標的とされた。

二・二六事件が発生した際、襲撃された岡田啓介総理・鈴木貫太郎侍従長斎藤実内大臣が共に海軍大将であったこともあり、反乱兵士に対し断固とした態度を取り、第1艦隊(戦艦長門以下の戦艦群)を東京湾に投錨させ、横須賀鎮守府配属の海軍陸戦隊を派遣し東京の警備に出動させるなど、反乱軍に対して軍事的圧力を加えた。

 

1937年第二次上海事変では日本から陸軍の援軍が到着するまで上海海軍特別陸戦隊が数万人の国民革命軍を相手に戦った。

明治政府による富国強兵政策による好戦的な国民思想の浸透や日露戦争の勝利によって日本国民は自信を深め、日本国内では好戦的な雰囲気が強まっていたが、特に満州事変以来の日本国内では成果を出している陸軍と比べ、海軍は日本国民から軽んじられていたという。1941年(昭和16年)11月頃「海軍士官は、制服で町を歩いているか、あるいは乗り物に乗っているときに、町の人から面罵されて、海軍の弱虫ということを言われる」有様であったという [10]

 

太平洋戦争大東亜戦争)が勃発し、イギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダなどの連合国海軍と戦闘を行い南方作戦等にて戦線を拡大した。しかし戦争の長期化による数と質の低下は否めず、特に1944年のマリアナ沖海戦以降は櫛の歯が欠けるように凋落していった。

この海戦での未曾有の大敗北で稼働状態の空母機動部隊を全て失い、残された水上戦闘艦レイテ沖海戦にて戦艦武蔵」を始めとする、主力艦艇の大半を失った。その他の空母水上戦闘艦も南方からの燃料の運搬が困難になり、作戦行動不能となった。また、航空機の燃料の調達や操縦員の訓練も滞る状況になり、帝国海軍は戦闘困難となった。

戦時中、帝国海軍は軍艦、人材の大多数を取り込んだ連合艦隊に重きを置く一方で、本来の重要任務となるべきシーレーンを軽視した。それは、絶頂期に本格的な通商破壊戦を行わなかったため、敵の物資供給を止めることができなかったことや、対潜哨戒部隊や海上護衛隊の育成に後れを取ったため、敵潜水艦・機雷等による商船の大量喪失・港湾封鎖に繋がり、日本国そのものを飢餓状態へと追い込むことになる。

 

その後1945年(昭和20年)5月に残存部隊を指揮する海軍総隊が新設された。しかし多くの艦艇が失われ、空母や戦艦をはじめ数多く生き残った艦艇も燃料不足で水上艦艇は殆ど活動出来なかったため、海軍の主力は陸上基地を拠点とする航空部隊となった。また、特殊潜航艇、人間魚雷などの特攻兵器からなる特別攻撃隊に移り敗戦まで戦った。

新造空母をはじめとする敗戦時に残存した艦艇の多くは外地からの引き上げに使用されたほか、多くの水上戦闘艦ソ連中華民国、アメリカに賠償艦として渡った。また、作戦用航空機のみでも約7500機、陸軍機と併せると1万機以上の作戦用航空機が敗戦時に残存していたが、これらの航空機は連合国軍の研究用に一部が持ち出された後に破壊された[11]

 

敗戦後、武装解除に伴い海軍省第二復員省に改組され、海軍の元艦船・元乗組員も復員事業に従事し、旧軍令部メンバーは極東国際軍事裁判対策などに従事した[12]

なお、太平洋戦争の開始から作戦指導の誤り、敗戦、極東国際軍事裁判に至るまでについては戦後に海軍の高級幹部OBが行った海軍反省会に証言記録が残されている。

第二復員省は1946年復員庁第二復員局へ、1948年(昭和23年)に厚生省第二復員残務処理部となり、水路部、保有艦艇、掃海部隊などは運輸省海上保安庁)へ、海軍病院は国立病院(現国立病院機構)へ移された。その後復員事業は厚生省外局の引揚援護庁へ統合される。引揚援護庁は1954年(昭和29年)閉庁。また、1952年(昭和27年)には海軍再建を目指す山本善雄吉田英三などの旧海軍軍人主導で海上警備隊が発足し[13]、事実上の後身である海上自衛隊では旧海軍の伝統と文化を重んじる傾向にある。

脚注

  1. ^ 昌弘社 編輯部「最新百科知識精講」昌弘社、1930年、761頁
  2. ^ 出典は社団法人同盟通信社編纂『昭和14年版時事年鑑』1938年(昭和13年)、146頁である
  3. ^ 海のない県には * 印をつけた。
  4. ^ 有明湾を除く宮崎県の海上
  5. ^ 宗像郡および遠賀郡・以東の海上
  6. ^ 第二海軍区に含まれない海上
  7. ^ 宮崎県の海上の内、有明湾のみ。
  8. ^ 昌弘社 編輯部「最新百科知識精講」昌弘社、1930年、765頁
  9. ^ 宮崎観光写真
  10. ^ 戸高一成編前掲書 3、53 頁
  11. ^ 「囚われの日本軍気秘録」P.118 野原茂著 光人社
  12. ^ 海軍では「復員」ではなく「解員」という呼称を使った
  13. ^ NHK報道局「自衛隊」報道班 海上自衛隊はこうして生まれた―「Y文書」が明かす創設の秘密 P.259

参考文献

関連項目

外部リンク

 
 

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