神風特別攻撃隊

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 神風特別攻撃隊(しんぷうとくべつこうげきたい、かみかぜとくべつこうげきたい)は、大日本帝国海軍航空機による特別攻撃隊である。太平洋戦争の末期に資源・人材に困窮して追い詰められた大日本帝国海軍で、1944年10月20日大西瀧治郎海軍中将によって編成された艦船を目標とする航空機による特別攻撃隊であり、開始時こそ戦果を挙げたが、アメリカ軍の対策により一時的なものに終わり、戦局を覆すことはなかったが、1945年8月15日の終戦まで続けられた。最も有名な特別攻撃隊である。

「しんぷう」が正式な読み方であるが、訓読みの「かみかぜ」が定着する[1]。神風の名称は、一航艦首席参謀猪口力平中佐が郷里の道場神風(しんぷう)流」から取ったものである[2]。「神風特攻隊」「神風」と略されるほか、アメリカなどでは特攻全般を含めて「カミカゼ」と称されることもある。

特攻全般については「特別攻撃隊」を参照せよ。また、陸軍航空隊の特攻隊である万朶隊振武隊などとは戦史上厳密に区別されることに注意しなければならない。

  

 歴史

創設まで

後に神風特攻隊を創設する大西瀧治郎中将の下には、創設以前から特攻を求める意見が多数寄せられていた。

1943年(昭和18年)6月29日城英一郎大佐から敵艦船に対して特攻を行う「特殊航空隊」編成の構想が大西に上申されたが、大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答した[3]。城はマリアナ沖海戦が敗北に終わると、大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している[4]

マリアナ沖海戦後、岡村基春大佐も大西へ対して特攻機の開発、および特攻隊編成の要望があった[5]

さらに、252空司令舟木忠夫大佐も

「体当たり攻撃(特攻)以外、空母への有効な攻撃は無い」と大西に訴え[6]、大西自身もこの頃には

「何とか意義のある戦いをさせてやりたいが、それには体当たりしか無い。もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた[7]。この頃すでに、日本海軍の中央で特攻兵器の研究は進められていたが、これは神風特攻隊とは関係無い別物だった[8]

 

1944年(昭和19年)10月5日、大西が第一航空艦隊司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった杉山利一に対して

「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。

これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという[9]。大西は出発前、海軍省海軍大臣米内光政大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた[10]

また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は

「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」

[11]「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。それに対して大西は

「中央からは何も指示をしないように」と希望した[12]

大西は、軍令部航空部員源田実中佐に戦力を持って行きたいと相談するが、源田は現在それが無いことを告げ、その代わりとして零戦150機を準備すると約束した。その際にも、大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した[13]

 

1944年10月9日フィリピンに向けて出発した大西は、到着までに台湾・新竹で航空戦の様子を見学し、多田武雄中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話し、連合艦隊長官豊田副武大将にも

「(単独飛行がやっとの練度の)現状では被害に見合う戦果を期待できない。体当たり攻撃しか無い。しかし、命令では無くそういった空気にならなければ(特攻は)実行できない」と語った。

フィリピンに到着すると、大西は前任者の第一航空艦隊司令長官寺岡謹平中将に

「基地航空部隊は、当面の任務は敵空母甲板の撃破として、発着艦能力を奪って水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。

必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し、心構えを厳粛にして落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか…。いや、司令を通じた方が後々のためによかろう。

まず、戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然に続くだろう。水上部隊もその気持ちになるだろう。海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう」

と語り、必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して、寺岡から同意を得て一任された[14]

寺岡から同意を得た大西は、フィリピンで第一航空艦隊参謀長小田原俊彦少将を初めとする幕僚に、特攻を行う理由を

軍需局の要職にいたため最も日本の戦力を知っており、重油ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する。もう戦争を終わらせるべきである。

講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため、一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結んで満州事変の頃まで大日本帝国を巻き戻す。

フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。この犠牲の歴史が日本を再興するだろう」

と説明した[15][注 1]

同年10月19日、大西はマニラ隊司令部にクラーク空軍基地の761空司令前田孝成大佐、飛行長庄司八郎少佐と、マバラカット基地の201空司令山本栄中佐、飛行長中島正少佐を呼び出し、司令部内にて特攻の相談を行おうとしたが、前田・庄司は司令部に到着して相談できたものの、山本・中島は到着が遅れたため、大西が自ら出向くことにしたが、すれ違いとなり面会は叶わなかった[17]。しかし、小田原が代わりに山本と面会し、特攻決行の同意を得た[18]

創設

1944年10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口力平、二十六航空戦隊参謀兼一航艦参謀吉岡忠一中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。

大西は

空母を一週間くらい使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250㎏爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した[19]

これに対して玉井は、山本が不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西は小田原が山本と面会して既に同意を得ていることを伝え、同時に特攻を決行するかは玉井に一任した。

玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した[20]

「指揮官の選定は海軍兵学校出身者を」という猪口の意向を受け、玉井は関行男大尉を指名した[21]。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後

「ぜひやらせて下さい」と即答したという[22]が、玉井によれば、関は

「一晩考えさせて下さい」と即答を避け、翌朝になって承諾する返事をしたと語った。

いずれにせよ、関は特攻隊指揮官の指名を受けた後に自室へ戻って遺書を書き終え、海軍報道班員のインタビューに対して「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った[23]

特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛10期生を中心に33名を集めて特攻の志願を募り、最終的に24名の特攻隊を編成した[24][注 2]飛行長だった中島正によると、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという[27]

玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願したと話している[28]。しかし、志願した山桜隊・高橋保男によれば

「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚[29]」、同じく志願者の井上武によれば

「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という[30]

一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井が

「行くのか?行かんのか?」と叫んだことで一同の手がすぐに上がったと証言するものもおり[31]、志願した浜崎勇は「仕方なくしぶしぶ手をあげた[32]」、佐伯美津男は「強制ではないと説明された。

零戦を100機近く失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった」と話している[33]

猪口は、郷里の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、特攻隊の名称を「神風特別攻撃隊」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して大西がそれを認めた。また大西は、各隊に本居宣長の歌「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」から敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した[34]

特攻第一号

1944年10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。

したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。

同日、一航艦司令部に帰った大西は神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司親徳に命じたが、門司は不慣れであったため、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された[35]

 

機密第202359番電 1944年10月20日発信
「体当り攻撃隊を編成す」
1.現戦局に鑑み艦上戦闘機26機(現有兵力)をもって体当り攻撃隊を編成す
(体当り13機)。本攻撃はこれを四隊に区分し、敵機動部隊東方海面出現の場合、
これが必殺(少くとも使用不能の程度)を期す。
成果は水上部隊突入前にこれを期待す。 今後艦戦の増強を得次第編成を拡大の予定。本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す。 2.201空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、なるべく
十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし。 司令は今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし。 3.編成 指揮官海軍大尉関行男。 4.各隊の名称を敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。

 

同年10月21日、大西は甲板撃破のために時間的猶予を得るため、第一遊撃部隊突入時期の延期を南西方面艦隊司令長官三川軍一中将と協議するが、既に同月25日と定めて行動しており、困難であることを知った。

また、同年10月22日には第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に二航艦も特攻を採用するように説得したが、これは断られた[36]

神風特別攻撃隊の初出撃は同年10月21日で、大和隊・敷島隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃したが、同日は悪天候などに阻まれてほぼ全機が帰還したものの、大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった。

そのため、「特攻第1号」は敷島隊隊長・関行男ではなく、大和隊隊長・久納好孚大尉を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。

各隊は出撃を連日繰り返すも全て空振りに終わり、同月23日には大和隊・佐藤馨上飛曹が未帰還となる。そして同月25日午前10時49分、敷島隊指揮官の関(戦死後中佐)以下6機が空母「セント・ロー」を撃沈し、初戦果を挙げて活路を開いたが、突入する水上部隊だった栗田艦隊が突然反転したため、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。

10月26日、及川古志郎軍令部総長がその戦果を奏上し、神風特攻隊が初めて奏上されたほか、同月28日には御説明資料も作成された[37]

第一航空艦隊航空参謀・吉岡忠一中佐によれば

「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」

「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という[38]

軍令部部員・奥宮正武によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・淵田美津雄大佐の慎重な処置ではないかという[39]。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し

「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している[40]

拡大

敷島隊の特攻が戦果を挙げた後、大西は2航艦長官福留繁中将を説得して、現地で第一航空艦隊・第二航空艦隊を統合した「第一連合基地航空部隊」を編成し、神風特攻隊は拡大した[41]

大西は、第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊の攻撃は不可能なので少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話した[42]

大西の強引な特攻隊拡大に批判的な幹部もいたが、大西は

「今後、作戦指導に対する批判は許さん。反対する者は叩き切る」と指導した[43]。1944年10月27日、大西によって神風特攻隊の編成方法・命名方法・発表方針などがまとめられ、軍令部・海軍省・航空本部など中央に通達された[44]

神風特攻隊は1945年(昭和20年)8月15日の終戦まで続いた。

終戦後の1945年8月16日、神風特攻隊を創設した大西は、死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝すること、後輩に軽挙は利敵行為と思って自重忍苦し、日本人の矜持も失わないこと、平時に特攻精神を堅持して日本民族と世界平和に尽くすように希望する旨の遺書を残して割腹自決した[45]

この自決によって、大西も神風特攻隊の戦死者として名簿に記載された。

名称と発表

「神風特別攻撃隊」の名称は、命名者の猪口力平中佐によれば、郷里の道場神風(しんぷう)流」から取ったもので[46]、大西中将が特攻隊を提案した10月19日の晩、201空副長玉井浅一中佐と相談して「神風を吹かせなければならん」と言って決め、大西中将に採用されたものであるという[47]

しかし、大西瀧治郎中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日には海軍報道班員に対して「活躍ぶりを内地に報道してほしい」と依頼していた[48]

また、海軍省による発表の準備も進められており、現場の大西中将に発表方法を相談するための電文が10月13日に軍令部で準備されていた。電文に「神風攻撃隊」という名前も記載されているので、大西が東京を出発する前に中央と名前を打ち合わせていたとも言われる。

電文の発信は軍令部第一部長中沢佑少将、起案は軍令部航空部員源田実中佐が担当した。電文には海軍省の「人事局主務者」による意見が付されている[49]。特攻隊の編成命令を起案した門司親徳(大西の副官)によれば、起案日は誤記で23日ではないかという[50]。源田は、日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している[51]

この電文を特攻の指示、命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。

 

大海機密第261917番電 1944年10月13日起案 10月26日発信
「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。
各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等) ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」 人事局主務者の意見 「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト
致シ度」

 

この神風特攻隊は、1945年10月28日の「海軍省発表」で公表された。この公表は敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。

この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣米内光政大将と軍令部総長及川古志郎によるものであり、特攻のインパクトのために数より(海軍兵学校出身者による特攻という)質を重視した判断という指摘もある[52]

また、1944年10月初旬から既に新聞・ラジオで「神風」という言葉が頻出するようになっていた[53]

国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞各紙による海軍省発表、特攻第一号・関中佐の記事が最初だった[54]

方法

最初の神風特攻隊を編成した1944年10月20日、零戦を改修したものを利用した。改修は、もともと零戦で反跳爆撃の訓練が行われていたため、250キロ爆弾を搭載でき、爆弾発火装置を作動状態にするために風車翼螺止ピアノ線を操縦者が機上から外せるようにするだけでよく、体当たり直前に操縦者が抜ける簡単な装置であった。

その後500キロ爆弾になり、艦爆その他も特攻に使われるが、特別工作を必要とするものではなく、1945年以降も爆装さえしていれば、特攻に使用する機体は問題にするほどの工作は不要だった[55]。神風特攻隊に使われた零戦はもともと空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのは難しかった[56]

沖縄戦の戦訓として、当時の日本海軍は航空特攻の予期命中率について対機動部隊に対しては9分の1、対上陸船団に対しては6分の1と判断していた[57]

神風特攻隊の目標は、最初の隊は敵空母の使用不能を目標として1944年10月27日に目標を達成したが、レイテ島付近で戦闘が続いたため、目標を敵主要艦船に広げて、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった[58]

注釈

  1. ^ このコンセプトは米内光政海軍大臣によるものと言われる[16]
  2. ^ 甲飛10期生は、神風特攻隊の創始者を大西ではなく玉井と見ている。その理由として、「編成は現場を熟知している玉井によって既に作られていたような手早い段取り、組み合わせだったこと[25]」「玉井はフィリピンにおける特攻の最たる推進者で、マリアナ沖海戦後は早くから体当たり攻撃を提唱して甲飛10期生に『もう特攻しかない』『必ず特攻の機会をやる』と話していたこと」を挙げている[26]

脚注

  1. ^ “連載『昭和時代』 第3部 戦前・戦中期(1926~44年) 第48回「特攻・玉砕」”. 読売新聞: p. 18. (2014年2月15日) 
  2. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p52-53
  3. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322-324頁
  4. ^ デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上』時事通信社122頁
  5. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫509頁
  6. ^ 奥宮正武『海軍特別攻撃隊朝日ソノラマ45頁
  7. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』26-27頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁
  8. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 346頁
  9. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁
  10. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』p224
  11. ^ 丸『特攻の記録』光人社NF文庫13-16頁
  12. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 705頁
  13. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 109頁、森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫89頁
  14. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502-504頁
  15. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』63頁、神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコp197-199
  16. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年303-304頁
  17. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111
  18. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫37-41頁
  19. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111
  20. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111、森史朗『特攻とは何か』文春新書75-82頁
  21. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 112-113
  22. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p113
  23. ^ 文芸春秋編『完本太平洋戦争下』124頁
  24. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書87-88頁
  25. ^ 御田重宝『特攻』講談社23頁
  26. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書84-85頁
  27. ^ 丸『特攻の記録』光人社NF文庫95-96頁
  28. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p112
  29. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書105-107頁
  30. ^ 御田重宝『特攻』講談社15-16頁
  31. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書87-88頁
  32. ^ 渡辺大助『特攻絶望の海に出撃せよ』新人物往来社36頁
  33. ^ 零戦、かく戦えり!』零戦搭乗員会編 文芸春秋307-308頁
  34. ^ 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社45頁
  35. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦114頁、金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫61頁
  36. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 504頁
  37. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 526-527頁
  38. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年71、74頁
  39. ^ 御田重宝『特攻』講談社107頁
  40. ^ 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社281-282頁
  41. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p155-159
  42. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書150-152頁
  43. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 706頁
  44. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p161-163
  45. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期p475
  46. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p52-53
  47. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 112-113頁
  48. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年222-223頁
  49. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 108-109頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 503-504、538頁
  50. ^ 御田重宝『特攻』講談社32頁、神立尚紀『特攻の真意──大西瀧治郎 和平へのメッセージ』文藝春秋126-127頁
  51. ^ 御田重宝『特攻』講談社32頁
  52. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年306頁
  53. ^ デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上』時事通信社144ページ
  54. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年56-58頁
  55. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦136頁
  56. ^ 神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ193
  57. ^ 戦史叢書88海軍軍戦備(2)開戦以後141-142頁
  58. ^ 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社280-281頁

関連項目

参考文献

  • 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期
  • 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦
  • 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社
 
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