八紘一宇
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八紘一宇(はっこういちう)とは、古代中国でしばしば用いられた慣用句を元とし、『日本書紀』巻第三神武天皇の条に書かれた「掩八紘而爲宇」の文言を戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語。八紘為宇ともいう。大意は「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味である。
この言葉が日本でよく知られるようになったのは『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」(いわゆる橿原奠都の詔)にある[1]
「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」
(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。)
からの引用である。ここで「八紘」とは、
九州外有八澤、方千里。八澤之外、有八紘、亦方千里、蓋八索也。一六合而光宅者、並有天下而一家也。
— 『淮南子』地形訓
「……湯又問:『物有巨細乎?有修短乎?有同異乎?』革曰:『渤海之東不知幾億萬裡、有大壑焉、實惟無底之穀、其下無底、名曰歸墟。八紘九野之水、天漢之流、莫不注之、而無增無減焉。』……」
— 『列子』湯問
に見ることができる。すなわち「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語として解釈されている。
また、「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味している。
このような表現は中国の正史後漢書・晋書にもあり、例えば晋書では晋の武帝が司馬炎が三国志でも有名な呉・蜀を滅ぼし中国全土を統一したことを「八紘同軌」[2]といっている。
「文選に見えている王延寿の魯霊光殿賦のうちの辞句をとってそれを少しくいいかえたもの」といい、元来は
「(大和地方は服属したからさしあたって橿原に皇居を設けることにするが大和以外の地方はまだ平定しないから)日本の全土を統一してから後に、あらためて壮麗な都を開き、宮殿を作ろう」というだけの意味だという[3]。
それ以後、「八紘」の語は世界と同義語として若干使われた形跡がある。
例えば箕作阮甫が嘉永4年に著した「八紘通誌」は、世界地理の解説書である。
しかし大正期までこの言葉は文人が時々用いる雅語どまりで、それほど用例が豊富ではなかった。
ところが、これを大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が、「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果である「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる。[要出典]
これについては大正2年(1913年)3月11日に発行された同団体の機関紙・国柱新聞「神武天皇の建国」で言及している。
「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。」と述べている[4]。
尤も、田中の国体観は日蓮主義に根ざしたものであり、「日蓮上人によって、日本国体の因縁来歴も内容も始末も、すっかり解った」[5]とも述べていて、これが後に「日蓮を中心とした世界統一」を意味して田中が恣意的に造語したとも解説される一要因になっている。[要出典]
この用語に最初に着目した行政機関は軍部であり[要出典]、昭和11年(1936年)に発生した二・二六事件では、反乱部隊が認(したた)めた「蹶起趣意書」に、
「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とある。
この事件に参加した皇道派は粛清されたが、日露戦争以降の興亜論から発展したアジア・モンロー主義を推し進める当時の日本政府の政策標語として頻繁に使用されるようになった。[要出典]
「八紘一宇」という表現を内閣として初めて使ったのは、昭和12年(1937年)11月10日に内閣・内務省・文部省が国民精神総動員資料第4輯として発行した文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」であるとされる[要出典][6]。
昭和15年(1940年)には、第2次近衛内閣による基本国策要綱(閣議決定文書、7月26日)で、
「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」[7]と表現し、大東亜共栄圏の建設と併せて言及された。
同年9月27日には、日独伊三国同盟条約の締結を受けて下された詔書にて
「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ」と言及されるに至った。
その後の日中戦争から第二次世界大戦にかけても大日本帝国の政策標語としてしばしば言及され、当時発行された切手や10銭紙幣の意匠デザインにも使われた。
日本国内各所で東アジアにおける東亜新秩序実現の為のスローガンのひとつとして使われ、さらにはこの語の思想実現のため東京市では肇国奉公隊が結成されるなど市役所組織の軍事体制化に活用された。[要出典]
第二次大戦での日本の降伏後は一転し、連合国軍最高司令官総司令部によるいわゆる神道指令により国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書におけるこの語の使用が禁止された[8]。
現代のマスコミでもこれら神道指令を未だに墨守し、原義を解説せず悪語として批判するものが多い。
現在における日本の代表的な国語辞典では、「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」[9]、と説明している[10]。
評価
昭和21年(1946年)より開廷された東京裁判において、「田中上奏文 (Tanaka Memorial)」を歴史的真実として判決を導く裁判を進めていた検察側意見では
「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、…一九三〇年に先立つ十年の間…これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」
としたが[11]、東條の弁護人・清瀬一郎は『秘録・東京裁判』のなかで
「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている[12]。
昭和32年(1957年)9月、文部大臣松永東は衆議院文教委員会で、
「戦前は八紘一宇ということで、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発しておったようであります。」と発言した。
昭和58年(1983年)1月衆議院本会議では、総理大臣中曽根康弘も「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった。」と説明した[13]。
一方で、八紘一宇の考えが欧州での迫害から満州や日本に逃れてきたユダヤ人やポーランド人を救済する人道活動につながったとの評価がある。上杉千年は、
「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している[14]。
八紘一宇の提唱者の田中は、その当時から戦争を批判し死刑廃止も訴えていることなどから、田中の真の思想に反してこの語だけが当時の軍部(のち行政府)に発掘され政策に利用されただけという解釈もできる[誰によって?]。
田中は大正12年(1923年)11月3日、社会運動組織として立憲養正會を創設した。
「養正」の語も神武天皇即位前紀から取られている。
立憲養正會は1929年(昭和4年)、智學の次男、田中澤二が総裁となると、政治団体色を強め、衆議院ほか各種選挙に候補を擁立(田中澤二本人も選挙に立候補している(落選))。
衆議院の多数を制し、天皇の大命を拝し、合法的に「国体主義の政治を興立」することを目標とした。
その後同会は一定の政治勢力となり、田中耕が衆議院議員を2期(1期目は繰り上げ当選)務めたほか、地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属した。
しかし新体制運動や大政翼賛会を批判していたためかえって弾圧の対象となり、1942年3月17日には結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。
日蓮主義を政治に実現しようとすることは、軍部などが言う国体を無視する思想であると見なされたためである。
同年の翼賛選挙では現職の田中耕ほか元会員37名が無所属で立候補したものの全員が落選している。
戦後同会より衆議院議員に当選した齋藤晃は当時「護国の政治運動を展開していたが、大政翼賛会や憲兵から弾圧を受けた」という。
第二次大戦後、田中澤二は公職追放となったものの同会組織は復活し、再び衆議院に議席を獲得。
日本国憲法施行後も同会公認の浦口鉄男が衆議院議員に当選。浦口は他の小政党所属議員とともに院内会派を結成し、政権野党として活動した。
八紘一宇の塔
宮崎県宮崎市の中心部北西の高台、平和台公園(戦前は「八紘台」と呼ばれていた)にある塔。正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」。設計は、彫刻家の日名子実三。現在は「平和の塔」と呼ばれている。
神武天皇が大和に東征するまでの皇居と伝えられる皇宮屋(こぐや)の北の丘に1940年(昭和15年)、紀元二千六百年記念行事の一つとして建造された。
この塔の建立に当たっては日本全国からの国民の募金・醵出金がその費用の一部に充てられた。また、日系人が多く住む中南米やハワイ、同盟国であったナチス・ドイツの企業DEST、イタリア王国からの寄付もあった。さらに日本軍の各部隊が戦地から持ち帰った様々な石材が使用された。
高さ37m、塔の四隅には和御魂(にぎみたま)・幸御魂(さちみたま)・奇御魂(くしみたま)・荒御魂(あらみたま)の四つの信楽焼の像、正面中央に秩父宮雍仁親王の書による「八紘一宇」の文字が刻まれている。
内部には神武東征などを記した絵画があるが非公開。第二次世界大戦敗戦後に「八紘一宇」の文字と荒御魂像(武人を象徴)は一旦削られたが、後に再興された。この復元運動の中心となったのは、県の観光協会会長を務めていた岩切章太郎(宮崎交通社長)だった。
1964年(昭和39年)の東京オリンピックの際は、聖火リレー宮崎ルートのスタート地点にもなった。1979年(昭和54年)の昭和天皇宮崎訪問では、この塔の前での歓迎祝典が予定されていたが、天皇は固辞している。[要出典]
「八紘一宇」の用例
戦前
- 田中智學「日本国体の研究」(大正11年(1922年)初版)における『宣言 =日本国体の研究を発表するに就いて=』(初出:国柱会日刊紙『天業民報』、大正9年(1920年)11月3日)
- 天祖は之を授けて「天壌無窮」と訣し、国祖は之を伝へて「八紘一宇」と宣す、
- 偉なる哉神謨、斯の文一たび地上に印してより、悠々二千六百載、
廼 君臣の形を以て、道の流行を彰施す、 - 篤く情理を経緯し、具に道義を体現して、的々として人文の高標となれるものは、日本君民の儀表是也、乃神乃聖の天業、万世一系億兆一心の顕蹟、其の功宏遠、其の徳深厚、流れて文華の沢となり、凝りて忠孝の性となる、
- 体に従へば君民一体にして平等、用に従へば秩序截然として厳整、這の秩序の妙を以て、這の平等の真に契投す、其の文化は静にして輝あり、
- 是の故に日本には階級あれども闘争なし、人或は階級を以て闘争の因と為す、
- 然れども闘争は食に在て階級に関らず、日本が夙く世界に誨へたる階級は、平等の真価を保障し、人類を粛清せんが為に、武装せる真理の表式なり、
- 吁、真の平等は正しき階級に存す、人生資治の妙、蓋斯に究る。
- 陸軍教育総監部「精神教育の参考(続其一)」(昭和3年(1928年))
- 積、重、養と云ふは総合的広大持続を意味する生成発展の思想である、静的状態より動的状態への展開である。
- 今や天業恢弘の気運に向へり、養正を主とし積慶、重暉を加へ以て八紘を掩ふて一宇と爲さむとし給へるもの即建国精神の第三なり。
- 陸軍省出版班「躍進日本と列強の重圧」(昭和9年(1934年)7月28日)
- 関東軍参謀部第二課「関東軍軍歌」(1936年3月10日)
- 国際反共連盟「国際反共連盟設立趣意書」
- 内閣情報部「愛国行進曲」(1937年12月)
- 2番
- 起て一系の大君を
光と永久に頂きて
臣民我等皆共に
御稜威に副はむ大使命
往け八紘を宇となし
四海の人を導きて
正しき平和打ち立てむ
理想は花と咲き薫る
- 基本国策要綱(昭和15年(1940年)7月26日)第2次近衛内閣によって閣議決定された政策方針
- 「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」
- 日独伊三国軍事同盟締結における詔書(昭和15年(1940年)9月27日)
- 「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ・・・惟フニ万邦ヲシテ各〻其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ曠古ノ大業ニシテ前途甚ダ遼遠ナリ爾臣民益〻国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ」
- 『我言霊』(控訴審公判調書第7回昭和16年1月23日)
- 石原莞爾(軍事思想家)『最終戦争論・戦争史大観』
- 鈴木安蔵(マルクス主義憲法学者)『政治・文化の新理念』p. 44, 119 利根書房
- 今日占領しつつある諸地方に限らず、今後、全東亜は言うまでもなく、八紘為宇の大理想が今や単なる目標ではなくして、その実現の前夜にある…
- 東亜共栄圏と言い、八紘為宇と言うのは、わが指導権の範囲が一億同胞にとどまらず、全東亜、いな全世界におよぼすべき目標と使命と有する…
- 中村哲「民族戦争と強力政治」『改造』p. 66 昭和17年2月号
- 八紘為宇の精神が世界史の現段階において、いかに四隣に光被さるべきかの軌道を示し、東洋諸民族をして各々その所を得しむる偉大な国家的悲願の具体的発顕である
- 平野義太郎(マルクス主義法学者)『民族政治学理論』p. 259 日本評論社 昭和18年9月
- 八紘一宇の東亜政治の理想をその内在的な理念とする戦争論が樹立されねばならない
中村、平野は「世界共産化」という意味で「八紘一宇(為宇)」を用いていると中川八洋は述べている[15]。
- 蓑田胸喜(反共思想家)「学術維新」(昭和16年(1941年))
- 四王天延孝(反ユ思想家)「ユダヤ思想及運動」(1941年)
- 次は八紘一宇の大理想を以て進むべき大日本帝国は宜しく清濁合せ呑むの慨を以てユダヤ人をも包容し、之を愛撫して皇化に浴せしむべきだ、基督教徒や回教徒と、ユダヤ人との在来の対立の如きは日本の徳により解消させ得べきである。
- 日本自らがユダヤ人に対抗するが如きは自らを小さくするものであると云ふ風な議論であって、堂々たるものである。
- 議論としては宜しいが、実際に於て日本の経済も、政治も、道徳も、思想も、教育も既に大部ユダヤ思想にむしばまれ穴があいてゐる。
- 之を今修繕して何でも来いと云へる迄は暫くこの大風呂敷へ余り多くの物、殊にトゲのあるものや発火の虞ある品物など詰め込まない方が宜しい。
- 前章に述べたベロックの対策にある異物除去を吸収や同化で行ふと云ふのであるが胃腸が不健全の場合には六ヶ敷い、ことによると胃潰瘍の素地がもう出来てゐるかも知れない。
- 尚八紘一宇の大理想と云ふても、善も悪も皆共に抱擁すると云ふのではなく、荒振るものがあれば之を掃ってしまふことも八紘一宇の大理想に近く方法である。
- この頃八紘一宇と云ふ言葉が少し使ひ過ぎられる傾きがある。(p. 356-357)
- 松本誠「第四回全鮮金融組合理事協議会開会の辭」 ─ 朝鮮金融組合連合会『第八回金融組合年鑑』(昭和16年(1941年))より
- 宮城長五郎(裁判官、検察官、政治家)「法律善と法律悪」(1941年)
- 宮本武之輔(技術者、企画院次長)「大陸建設の課題」内「興亜日本の技術者に望む」(1941年12月。初出:1940年1月)
- 東亜の共同防衛、帝国主義的支配機構の廃絶、アジア的共同体制の樹立と新東方文化の昂揚を以て、その根本性格とする東亜新秩序建設は、東亜両民族の醇化統一による福利増進と共栄確保とを目的とする。
- 従って東亜新秩序と東亜国防国家とは一にして二ならず、征服精神、侵略精神を含まず、八紘一宇の世界観に立脚して『しらす』ことを以て本質とする、わが国体の大義を恢弘することを指導原理とする。
- 東亜国防国家は実に日満支善隣連環の東亜新秩序の上に構成せられなければならない。
- この故に東亜新秩序を目標とする経済ブロック建設と文化建設とは、アジア的共同体制における自給自足経済の確立と、東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化とを融合した東亜の新文化の創造を目標としなければならない。それが東亜国防国家の緊急の要請だからである。
- 市丸利之助(軍人)「ルーズベルトニ与フル書」(1945年)
諸外国による用例
アメリカは自国民に対し、映画で以て八紘一宇を以下のようにプロパガンダしようとしたが、公開前に終戦し戦争中に公開されることは無かった。
- アメリカ合衆国旧陸軍省依頼「Know Your Enemy: Japan」
- It is called as "Hakkō Ichiu". It became national ambition of Japan.
- [...]
- "Hakkō Ichiu" is coming true. Japs couldn't seem to make mistakes. [...]
- In 1927, one of them, baron Gīchi Tanaka made out a secret modern blueprint to archive this mad gree and handled it to the emperor. It is called a Tanaka Memorial, Japan's Mein Kampf.
戦後
- 坂口安吾『安吾巷談-野坂中尉と中西伍長-』 昭和25年(1950年)文藝春秋第3号
- 「私は日本映画社というところの嘱託をしていたが、そこの人たちは、軍人よりも好戦的で、八紘一宇的だとしか思われなかった。ところが、敗戦と同時に、サッと共産党的に塗り変ったハシリの一つがこの会社だから、笑わせるのである。今日出海を殴った新聞記者も、案外、今ごろは共産党かも知れないが、それはそれでいいだろうと私は思う。我々庶民が時流に動くのは自然で、いつまでも八紘一宇の方がどうかしている。八紘一宇というバカげた神話にくらべれば、マルクス・レーニン主義がズッと理にかなっているのは当然で、こういう素朴な転向の素地も軍部がつくっておいたようなものだ。シベリヤで、八紘一宇のバカ話から、マルクス・レーニン主義へすり替った彼らは、むしろ素直だと云っていゝだろう。」
その他
- 愛国行進曲の二番に「往け、八紘を一宇([いえ]とよむ。宇とも書かれる)となし」という歌詞がある。
脚注
- ^ 森博達の研究によれば、この巻第三は帰化人の山田史御方によるもので和臭があるという。森「日本書紀の謎を解く」中公新書
- ^ 『晋書』武帝紀に「廓清梁、岷、包懷揚、越,八紘同軌,祥瑞屢臻。」とあり、現代中国の代表的な辞書『漢語大詞典』では「八紘は広く天下を指し、八紘同軌とは天下一統をいう」としている。正史を元にした三国志演義では「四海為家」と言い換えている。四海も八紘に同じ。(三国志演義第百二十回)
- ^ 津田左右吉「日本歴史の研究に於ける科学的態度」二[1][2](「世界三」1946年(昭和21年)3月、津田左右吉歴史論集・岩波書店)
- ^ 近代デジタルライブラリー書誌情報 43036425 (p. 325) 原著p. 664
- ^ 日本国体の研究 大正11年発行(2頁目)。これは「仏法・覚道、即ち法華経の一念三千の法門、並びに日蓮の三大秘法の法門によって日本国の理義が明らかになり解決を得た」という田中の解釈である。
- ^ 国会図書館デジタル化資料。
- ^ 長谷川亮一は、「十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策」p. 38で「ここに至り、「八紘一宇」は「肇国の精神」にして「皇国の国是」という位置付けを得、さらに、新たに提唱された「大東亜新秩序」(大東亜共栄圏)とも結び付けられたことになる。」と解説している。
- ^ 神道指令(国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件(昭和二十年十二月十五日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第三号(民間情報教育部)終戦連絡中央事務局経由日本政府ニ対スル覚書)) 一のヌ「公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル」連合国軍最高司令部指令(文部科学省)
- ^ 大辞林(三省堂)
- ^ 「広辞苑」(岩波書店)、「大辞泉」(小学館)
- ^ アジア歴史資料センター (JACAR) リファレンスコードA08071307000 A級極東国際軍事裁判記録(和文)(No. 160)(105, 106枚目画像)(E-86, E-87)
- ^ 読売新聞1967年3月10日
- ^ 国会会議録
- ^ 上杉千年先生講演記録「猶太難民と八紘一宇」
- ^ 中川八洋『亡国の「東アジア共同体」』北星堂書店2007年
- ^ 被服協会 p. 23
参考図書
- 白川静『字通』
- 津田左右吉『日本歴史の研究に於ける科学的態度』
- 日本国体学会『日本の師表田中智学』錦正社、1968年
- 里見岸雄『国体学創建史 上』展転社、平成18年
- 田中巴之助『日本国体の研究』真世界社、1981年(昭和56年)復刻 (原著・大正11年発行)
- 被服協会 『国民服(男子用)の手引』 二木貞夫編集、被服協会、1940年5月5日。
- 長谷川亮一「十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策」[3](千葉大学大学院2006)
関連項目
外部リンク
- 松岡幹夫 (2001年). “田中智学における超国家思想の思想形成史 (PDF)”. 東京大学大学院 総合文化研究科 国際社会科学専攻. 2011年8月29日閲覧。
- 伊勢弘志「思想運動としての『銀河鉄道の夜』」
- “「戦争の塔」を「平和の塔」に、八紘一宇の塔 (PDF)”. 「平和の塔」の史実を考える会. 2009年4月14日閲覧。
- GHQ焚書図書開封 第40回
「八紘一宇」の書誌情報
- 項目名: 八紘一宇
- 著作者: ウィキペディアの執筆者
- 発行所: ウィキペディア日本語版
- 更新日時: 2015年4月7日 12:17 (UTC)
- 取得日時: 2015年6月23日 21:23 (UTC)
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