大徳寺
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大徳寺 | |
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仏殿(本堂) |
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所在地 | 京都府京都市北区紫野大徳寺町53 |
位置 | 北緯35度2分38.10秒 東経135度44分45.89秒 |
山号 | 龍寶山 |
宗派 | 臨済宗大徳寺派 |
寺格 | 大本山 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 正中2年(1325年) |
開基 | 宗峰妙超 |
正式名 | 龍寶山 大徳禅寺 |
文化財 | 方丈、唐門、絹本墨画淡彩観音猿鶴図ほか(国宝) 勅使門、三門、仏殿、法堂、木造大燈国師坐像ほか(重要文化財) 方丈庭園(非公開)(史跡・特別名勝) |
大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。
山号は龍寶山(りゅうほうざん、新字体:竜宝山)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。
本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)、播磨国(兵庫県)に、同国守護・赤松氏の家臣・浦上氏の子として生まれた。
11歳の時、地元の大寺院である書写山圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、のち禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に同郷の赤松円心の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立した。
これが大徳寺の起源という。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまった。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。
このため大徳寺は、足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。
五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。
このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467–77年)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興。
近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けた。
江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪の圧迫を受けたが、三代将軍家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。寺運は栄え今日に至っている。
伽藍
勅使門・三門・仏殿・法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
- 勅使門(重要文化財)
- 三門 (重要文化財)
- 仏殿 (重要文化財)
- 法堂 (重要文化財)
- 方丈および玄関 (国宝)
- 江戸時代初期の建築で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる日本様式の建物である。
- 方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、玄関は桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
- 方丈は寛永12年(1635年)、玄関はその翌年に豪商・後藤益勝の寄進で建てられたもので、開祖・大燈国師(宗峰妙超)300年遠忌を記念して新築されたものである。玄関は翌寛永13年に完成している。
- 「方丈」は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。
- 通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。
- 雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。
- 妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。
- 方丈の障壁画は狩野探幽の作。枯山水庭園は国の特別名勝および史跡に指定されている。
- 唐門 (国宝)
- 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。
- 仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。
- かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが明治19年(1886年)に明智門を南禅寺金地院に売却したことに伴い聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門が大徳寺方丈前に移築された。
- この門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。
- 平成14年(2003年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることがほぼ確定した。
別院・塔頭
大徳寺は別院2、塔頭22を有する。2014年現在、大部分の塔頭で一般参詣を認めておらず、常時拝観可能な塔頭は龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院である。
- 別院
- 塔頭
文化財
- 絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 国宝(1951年6月指定)
- 絹本著色大燈国師像 - (国宝)1953年3月指定
- 虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 国宝(1952年3月指定)
- 後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 国宝(1951年6月指定)
- 絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆、82幅 - 重要文化財
- 南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。
- 48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。
- 日本へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。
- その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。
- もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。
- どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。
- 秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。
- 明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。
- この少し前の明治21年(1888年)に、日本画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[1]。
国宝
- 唐門 - 1952年3月指定。
- 方丈及び玄関 - 1956年6月指定。
- 絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 1951年6月指定
- 絹本著色大燈国師像 - 1953年3月指定
- 虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 1952年3月指定
- 後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 1951年6月指定
※以上の国宝の解説は既出。
重要文化財
- 建造物
- 勅使門
- 仏殿(附明月橋)
- 法堂(附廊下)
- 山門
- 浴室
- 経蔵
- 廊下
- 寝堂
- 庫裏
- 侍真寮
- 鐘楼
- 絵画
- 絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり
- 絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり
- 絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり
- 絹本著色大燈国師像
- 絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛
- 紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり
- 紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆
- 絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆、82幅(解説は既出)
- 絹本著色後醍醐天皇像
- 絹本著色十王像
- 絹本著色楊柳観音像 - 1900年重文指定
- 絹本著色楊柳観音像 - 1907年重文指定
- 絹本著色楊柳観音像 - 1908年重文指定
- 紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
- 紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏
- 絹本墨画竜虎図 - 牧谿筆
- 絹本墨画竜虎図 - 伝牧谿筆
- 紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆
- 紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆
- 方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
- 彫刻・工芸品
- 木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
- 鳳凰沈金経箱
- 書跡典籍・古文書
- 花園天皇大燈国師御問答書 2幅
- 紺紙墨書法華経 - 近衞家熈筆
- 大蔵経 2018冊うち版本6冊
- 法華経 - 常子内親王筆
- 徹翁義亨墨蹟 言外号
- 虚堂智愚墨蹟 尺牘
- 花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛
- 宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
- 宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
- 大燈国師自筆法語(解夏小参語)
- 景徳伝燈録 - 宗峰妙超(大燈国師)筆
- 大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
- 大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
- 大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
- 大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
- 大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
- 大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
- 大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
- 中納言奉書並高家庄絵図
- 徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
- 大徳寺文書 4267通
史跡・特別名勝
- 方丈庭園
拝観
- 大徳寺本坊は非公開(例年10月上旬の日曜日に襖絵等を公開する曝涼展が行われる)。
- 塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
- 龍光院は常時非公開。
アクセス
- JR京都駅より京都市営バスで約30分、「大徳寺前」(1・12・204・205・206・北8・M1系統)下車。
- 京都市営地下鉄烏丸線北大路駅より京都市営バスで約5分、「大徳寺前」(101・102・204・205・206)下車。
脚注
参考文献
- 井上靖・塚本善隆監修、有吉佐和子・小堀南嶺著『古寺巡礼京都16 大徳寺』、淡交社、1977年
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛中』駸々堂、1984年
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』18号(大徳寺)、朝日新聞社、1997年
- 辞典類
関連項目
外部リンク
「大徳寺」の書誌情報
- 項目名: 大徳寺
- 著作者: ウィキペディアの執筆者
- 発行所: ウィキペディア日本語版
- 更新日時: 2015年5月28日 08:17 (UTC)
- 取得日時: 2015年6月19日 22:14 (UTC)
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