石原莞爾

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石原 莞爾
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石原莞爾(1934年)
渾名 帝国陸軍の異端児
生誕 1889年1月18日
日本の旗 日本 山形県西田川郡鶴岡
死没 1949年8月15日(満60歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1909年 - 1941年
最終階級 帝國陸軍の階級―肩章―中将.svg 中将
除隊後 立命館大学教授
墓所 山形県飽海郡遊佐町菅里
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石原 莞爾(いしわら かんじ[注 1]明治22年(1889年1月18日戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年8月15日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将栄典従四位勲三等功三級[1]、「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。

関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた。 

生涯

幼少年時代

明治22年(1889年1月18日山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩[注 2]飯能警察署長の石原啓介とカネイの三男として生まれる。但し戸籍上は1月17日となっている。

啓介とカネイは六男四女を儲け、莞爾は三男であるが長男の泉が生後二ヶ月で、二男の孫次が二週間で亡くなり、莞爾が事実上の長男である。

四男の次郎は海軍中佐となるが1940年6月に航空機事故で殉職する[注 3]。 五男の三郎は一歳で亡くなり、六男の六郎は戦後莞爾と共に行動して昭和51年(1976年)まで西山農場で暮らす。長女の元は医者の家へ、二女の志んは軍人の家へ嫁ぎ、三女の豊、四女の貞は24歳でなくなっている。

父親の転勤のため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であり、まだ小学生でなかった石原を姉が子守のため学校に連れて行った時には教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らした。

しかし利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績であり、また石原の三年生の頃の成績を見てみると読書算数作文の成績が優れていた[2]

また病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている[2]。 石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた[2]

軍学校時代

明治35年(1902年)に仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特にドイツ語数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操剣術などの術科は不得意であった。

明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を施された。石原は学校の勉強だけでなく戦史哲学などの書物をよく読んでいた。田中智学法華経に関する本を読み始めたのもこの頃である。

成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には横山勇、島本正一などがいる。また東京に在住していたため、乃木希典大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている[3]

明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。学科成績は350名の中で3位だったが、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。

士官学校卒業後は歩兵第六十五連隊に復帰して見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。

ここで軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。

南次郎よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて共に「支那革命万歳」と叫んだという。

連隊長命令で不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。

受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。

部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してやる気はなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。

しかし合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは戦術学、戦略軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想宗教の勉強に充てていた。

その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。

在外武官時代

ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。

また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。

そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたといわれる。

関東軍参謀時代

昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。

昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手にわずか1万数千の関東軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州占領を実現した。

柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。

満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。

日本人国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であったが、その実は石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。

二・二六事件の鎮圧

昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。この時の石原の態度について昭和天皇

「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している[4]

この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。

安藤輝三大尉は部下に銃を構えさせて石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に

「何が維新だ、陛下の軍隊を私するな!この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ!」

と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった[5]

また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか?」と威嚇的に訊ねられるも、

「俺にはよくわからん。自分の考えは軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ!やめないと討伐するぞ!」と罵倒し、石原の凄まじい気合いにおされて栗原は殺害を中止、事なきを得ている。

左遷

1930年代後半から、関東軍が主導する形で、華北内蒙古を国民政府から独立させて勢力圏下とする工作が活発化すると、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原は、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたく不拡大方針を立てた。

1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章

「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

1937年(昭和12年)の支那事変日中戦争)開始時には参謀本部作戦部長であったが、ここでも作戦課長の武藤などは強硬路線を主張、不拡大で参謀本部をまとめることはできなかった。

石原は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に

「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」

と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。

戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷された。

ふたたび関東軍へ・東條英機との確執

 
1940年に満洲国から贈られた勲一位柱国章(日本の勲一等瑞宝章に相当)の勲記

 

昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。

翌年の春から参謀長の東條英機満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。

石原は満州国満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。

以後、石原の東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと罵倒し、事ある毎に東條を無能呼ばわりしていく。

一方東條の側も石原と対立、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。

昭和13年(1938年)に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長に補せられるが、これは東條の根回しによるものと考えられる。

太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。

立命館大学国防学研究所長

現役を退いた石原は昭和16年(1941年)4月に立命館総長中川小十郎が新設した国防学講座の講師として招待された。

日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。

昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。

さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任した。

講師には第一次世界大戦史の酒井鎬次中将、ナポレオン戦史の伊藤政之助少将、国体学の里見岸雄などがいた。

週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。

しかし東條による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。

大学への憲兵特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。

送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。

この年の講義をまとめた『国防政治論』を昭和17年(1942年)に聖紀書房から出版した。

評論・政治活動

太平洋戦争(大東亜戦争)に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。

石原の事態打開の策は奇しくも最後通牒といわれるハルノートとほぼ同様の内容であった。

戦中、ガダルカナル島の戦いにおいて海軍大佐であった高松宮宣仁親王の求めに応じ、石原はガダルカナル島からの撤退、ソロモンビスマークニューギニヤの放棄、サイパンテニアングアムの要塞化と攻勢終末点(西はビルマ国境から、シンガポールスマトラなどの戦略資源地帯を中心とする)及び東南アジアとの海上輸送路の確立をすることにより不敗の態勢が可能である旨も語っている[6]

また周りには、中国人への全面的な謝罪と中華民国からの即時撤兵による東亜諸国との連携をも説き、中国東亜連盟の繆斌を通じ和平の道を探るが、重光葵米内光政の反対にあい、失敗した[注 4]

独ソ戦に対しては、石原は1941年10月当時から、ドイツは地形の異なるバルカン半島においても西部戦線と同一の戦法を採っており、また東部戦線においてもその戦法に何ら変化の跡が見られないことから、ドイツはソ連に勝てないと断言していた[7]

世界最終戦論』(後に『最終戦争論』と改題)を唱え東亜連盟

(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)

構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。

熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争と捉えていたことはあまり知られていない。

最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。

その前提条件としていたのは、核兵器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。

比喩として挙げられているのは織田信長で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしている。

東條英機の暗殺計画

 東條英機を暗殺しようとした柔道家の牛島辰熊

 

昭和19年(1944年)6月、柔道家の牛島辰熊津野田知重少佐が東條英機首相暗殺を企てた[8]。共に東亜連盟で石原莞爾に師事していた。

津野田は大本営参謀部三課の秘密文書を読み、予想以上の日本軍の惨敗ぶりに愕然とし、牛島辰熊に相談した。

「このままでは国民は全滅だ」と悟った2人は、東條を退陣させて戦争を止めるために皇族への「大東亜戦争現局に対する観察」という献策書を書き上げ、三笠宮高松宮らを通じて直接お上へ渡してもらうことにした。

2人は献策書を持って石原が蟄居する山形県を訪ねた。

石原は献策書を通読すると「一晩考えさせてくれ」と言って2人を泊まらせた。

その献策書の欄外にははっきりと「非常手段、万止むを得ざる時には東條を斬る」と書かれていたからである。

次の日の朝6時、津野田と牛島を座敷に通した石原は「今の状態では万事が手遅れだ」と言って赤鉛筆を取り、献策書末尾に「斬るに賛成」と書いた[9]

 

石原の賛意を得た津野田と牛島は勇んで東京に戻り暗殺方法について話し合った。

結果、習志野のガス学校で極秘開発されていた青酸ガス爆弾「茶瓶」を使い、牛島辰熊が実行することになったが、直前になって東條内閣が総退陣となった。

しかし東條退陣後、どこで計画が漏れたのか、2人は9月に逮捕される。

後年、作家の増田俊也は著書「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の中で、この時牛島は弟子の木村政彦を鉄砲玉(実行犯)として使おうとしていたと記した[10]

戦後・東京裁判

 1945年頃の石原莞爾

 

石原は、東條との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。また、実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。

石原は東亜連盟を指導しながらマッカーサートルーマンらを批判。

また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきとし、大アジア主義の観点から

「我等は国共いづれが中国を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亜的指導原理の確立に努力すべきである」と主張した。

 

病で動けなくなっていた石原は、昭和21年(1946年)東京飯田橋逓信病院に入院していた。この際、東京裁判の検事から尋問を受けているが、終始毅然とした態度を崩さず検事の高圧的な態度に怒りをもって抗議し、相手を睨みつけたという。

同席した米記者マーク・ゲインは「きびしく、めったに瞬きもせず、私たちを射抜くような眼」と評している[11]

東京裁判には証人として山形県酒田の出張法廷に出廷し(これは病床の石原に尋問するために極東裁判所が特設したものである)、

重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないと持論を主張した[12]

なお、酒田出張法廷に出廷するため、リヤカーに乗って酒田へ出かけたが、この時のリヤカーを引いていたのが曺寧柱と大山倍達だといわれている。

この出張法廷では、判事に歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ日清日露戦争までさかのぼる」との回答に対し、

「それなら、ペルリ(ペリー)をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」と持論を披露した[13]

また、東條との確執についての質問には、「私には些細ながら思想がある。東條という人間には思想はまったくない。だから対立のしようがない」といい、ここでも東條の無能さをこきおろしたという。

人物・逸話

人柄

石原はタバコをたしなまなかった。将校団の宴会の席で連隊長から三度飲酒を強要された時に「飲まん」と大声で怒鳴りつけた。以後、連隊長に気に入られることはなかった。

ただしかなりの甘党で、菓子を食べながら議論や勉強をすることを好んでいた。

また、ドイツ滞在中は、どこに行くのも羽織で押し通したとされているが、あくまでパーティーなどのときであり、普段は背広を着用し、また当時流行のコートをも着こなしていた[14]

また、当時ドイツ国内でも「誰も見向きもしない」と評されたライカカメラを購入し、愛用していた。

石原はその奇行が面白おかしく脚色されることもあったが、とはいえ相当な変わり者であったことも確かで、東條英機の副官を務めた西浦進(陸士34期)は

「石原さんはとにかく何でもかんでも反抗するし、投書ばかりしているし、何といっても無礼な下戸だった。軍人のくせに酒を飲まずに周りを冷たい眼で見ている、だから嫌われるのも当然だ」と評した[15]

しかしその反面、宗教教祖的なカリスマがあったことも事実であり、多くの信奉者が存在した。辻政信服部卓四郎花谷正などは初対面のときから石原の存在感に圧倒され、生涯を通じての石原崇拝者になった[16]

戦時下、東條の命令を受けて憲兵隊や特高警察に監視されていたが、憲兵隊や特高警察の中には監視にあたって石原に挨拶にいくものも少なくなかった。

ところが彼らの多くが、石原の優れた見識に驚いて石原を尊敬するようになってしまい、東條への報告書を加減して提出するようになってしまった。

幼少期・幼年学校・士官学校

幼少の頃からその秀才ぶりと奇抜な行動がエピソードとして残っている[2][17]

明治28年(1895年)、子守のため姉二人が石原を学校に連れて行ったところ教室で暴れた。矢口校長が石原に試験をやらせてみると1年生では1番の成績であったため、1年間自宅で準備学習していたという名目で同年に2年生に編入することとなった。

仙台幼年学校では総員51人中最高の成績であり、代数学植物学ドイツ語が特に高得点であり、3年間第二位を大きく引き離して一番の成績を維持した。

当時、将校には写生の技能が必要であり、授業があった。

同期生一同がこれに困っていると、石原は自分の男根を写生し、「便所ニテ毎週ノ題材ニ苦シミ我ガ宝ヲ写生ス」と記して提出し、物議を醸して石原退学まで検討された。

この時は校長が石原の才能を惜しんで身柄を一時預かるということで一応解決した。

石原は学校の勉強よりも戦史、政治、哲学などの文献を読み、夏休みも帰省せずに勉強した。これは両親、特に父親との関係が不仲であったことが理由とされている。

陸軍士官学校でも軍事学よりも歴史学哲学の勉強に励んだ。

一方で軍事雑誌をよく読んで興味深い戦術問題が掲載されると答案を送り、次回に示される講評や出題者意見を興味深く読んでいた。

陸軍大学に関して

第65連隊から一人も陸大に入学した者がおらず不名誉だとして、陸士成績が最優秀だったために石原を受験させることが本人の意思とは関係なく決められた。

石原はこれを断ったが、連隊長命令によって受験させられることになった。

しかし石原は一日中部隊勤務に励んでおり、同僚はいつ勉強しているのかと不安に思っていた。石原はどうせ受からないのだから勉強は不要だとして試験期間に入ってからも一切勉強しなかった。

5日間の試験期間中も試験の解答をさっさと提出して勉強せずに受験会場となった駐屯地の部隊の訓練を見学した。しかし連隊からは石原だけが合格した。

 

陸大入試の口頭試問で「機関銃の有効な使用法」を聞かれ、「飛行機に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。

更にその詳細については黒板に図を書いて「酔っぱらいが歩きながら小便をするように連続射撃する」と答えた。当時、機関銃を飛行機に装備する着想はまだなかった。

陸大では他兵科の運用についても学習するため夏休みには他兵科部隊勤務が実施された。

その一環で砲車を車庫から出してこれを編成して行軍し、陣地に侵入するために砲列で射撃し、また車庫に収めるまでの行動を一人ずつ試験された。

学生は複雑な号令で指揮することになるが、最後の番であった石原は指揮官の定位置について指揮刀を抜刀し、「いつも通りにやれ」と命令した。

陸大学生時代は成績は本来は首席であったが、何らかの都合で点数が変更されたため2位であった。

これについては冬でも薄汚れた夏服を着用する石原を天皇の前で講演させることに抵抗があったという説や、石原の講演内容について大学の注文を石原が拒否したためという説、朝敵であった庄内藩出身であったためという説があり、明らかではない。

連隊長・師団長として

歩兵第4連隊第2師団所属。本拠地は仙台)長に就任すると、貧しい東北出身の兵が満期除隊後に生活の一助となるよう、厩舎でアンゴラウサギの飼育を教え、除隊する兵に土産として持たせた。

また内務班の私的制裁を撲滅するために、同じ出身地同士の兵を中隊に集めた。

連隊長自身が、兵食を食べて食事内容と味の向上を図り、浴場に循環式の洗浄装置を設置して清潔なお湯を供給し、酒保を改善するなど、兵士の生活改善に尽力したといわれる。

連隊長時代、二年兵が満期除隊を迎えるのを見送っていた。

ある年、羽織袴姿で並ぶ満期兵を前にして、かつての中隊長が長々と訓示をしていると突然、にわか雨が降り出したが、中隊長は訓示を止めない。

その時、石原は「中隊長のバカヤロー、紋付きは借り物であるぞ!」と怒鳴り、訓示を中止させた[18]

石原が京都第16師団長の頃には、形式的な儀礼や行事を省略していった。

特に陸軍記念日の際には、通常は閲兵式・分列行進で3時間かかる式典であったが、石原は指揮官一人とともに馬を駆け足で各部隊の前面を走って閲兵を済ませ、「解散」と述べて引き揚げてしまった。

通常は3時間の式典が5分程で終わり、将校や見物人はあっけにとられたが、末端の兵士達は早く帰営し外出できるため大喜びだったという。[19]

上官に対して

自分の意見は、たとえそれが上司であっても大声で直言したと伝えられる。言われた側もその意見に従わざるを得ない不思議な気迫と雰囲気を持っていたという[20]

石原は東條英機を嫌っていたが、真崎甚三郎も毛嫌いしていた。

石原が満州からの参謀本部への転勤を命じられたとき、真崎甚三郎が「君は素晴らしい逸材だ。君の新しい部署を決めるのに三月もかかったのだ」と褒めちぎった。

真崎が自身を満州国から引き離す黒幕と気づいていた石原は、「陸軍の人事は私の関知するところではありません」と握手を拒み、その後も真崎の酒席の誘いを拒むなど徹底的に嫌った。

二・二六事件のとき、石原は東京警備司令部の一員でいた。そこに荒木貞夫大将がやって来たとき、石原は

「バカ!おまえみたいなバカな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけた。荒木は「なにを無礼な!上官に向かってバカとは軍規上許せん!」とえらい剣幕になり、石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ?」とさらに言い返した。

そこに居合わせた安井藤治東京警備参謀長がまぁまぁと間に入り、その場をなんとかおさめたという。[21][22]

上層部や上官の多くに対して嫌悪感と敵対心を顕わにした石原だが、阿南惟幾は数少ない別格で「阿南さんが言うなら……」とその指示に素直に従ったという。

技術に対しての軽視

昭和11年(1936年)8月、閑院宮春仁王陸軍大学の研究部主事となり、昭和10年に開発されたディーゼルエンジン搭載の「八九式中戦車」の機動兵団の運用について、参謀本部や石原に意見を聞いた。

しかし参謀たちはおろか、石原も大局的な国防論は話しても、戦車をどう使っていくかという戦略的な技術についてはなにひとつ聞けなかった。現場の技術者および新しい技術を軽視する立場は他の参謀たちと変わらなかった。

戦犯自称の真相

よく東京裁判の法廷において

「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない」「満州事変の責任は自分にある。私を裁け」[23]

と述べたと書かれることが多いが、実際には『石原莞爾宣誓供述書』によると

満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります」

満州事変満州国建国について、自分が意図したのではないと述べ、自らが戦犯とされるのを避けるとともに、板垣・土肥原の弁護に繋がる発言をしていた。

なお、柳条湖事件関東軍の謀略であるという確たる証言が得られたのは、板垣・石原の指示で爆破工作を指揮した関東軍参謀花谷正が昭和30年(1955年)に手記を公表してからである[12][24][25]

ちなみに、石原は法廷に先立って重慶通信社の特派記者から取材を受けている。

満州国の運営が理想通りに進まなかったことについて言及した後、

「わしが理想郷を心に描いて着手した満州国が、心なき日本人によって根底からふみにじられたのである。在満中国人に対する約束を裏切る結果となってしまった。その意味において、わしは立派な戦争犯罪人である。独立に協力した中国人に対してまことにすまなかった、と思っている。」

と述べ、中国当局に独立へ協力した人々へ理解を願う発言を行っている。[26]

東亜連盟

東亜連盟は日本人のみならず、中国人朝鮮人からも多くの支持者がおり、東亜連盟等を通じて石原莞爾に師事したものに

等がいる。

年譜

本人著作・資料

石原莞爾が登場する作品

ノンフィクション
小説
漫画
アニメ
映画

脚注

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注釈

  1. ^ 読みは「いしわら」だが、「いしはら」と誤読されることがある。工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿天皇』(日本経済新聞社 ISBN 978-4532165635)153ページには、「いしはら」とルビが振られている。
  2. ^ 祖父の石原重道は、庄内藩物頭久留多門の四男で、石原家を相続し、酒田町奉行を務めた。曽祖父久留多門は、松山藩付家老久留郡司の孫[27]
  3. ^ 1940年6月28日、石原二郎海軍中佐は美幌航空隊建設委員長として航空機で会議へ向かう途上で北海道亀田郡椴法華村において濃霧に遭遇したために山腹に激突し、殉職した。二郎は中学校を経て海軍兵学校に入学し、戦艦霧島の砲術長から海軍兵学校砲術科長に転出する。莞爾がこれを知った時には二千六百年奉の演習で神武東征の新航路の途上であった[28][29]
  4. ^ なお、この工作の失敗を機に、当時の内閣であった小磯内閣も瓦解している。

出典

  1. ^ アジア歴史資料センター』「第二十一軍司令官陸軍中将安藤利吉外四千六百四十四名叙勲並勲章加授ノ件」(レファレンスコード A10113292600) 4ページ
  2. ^ a b c d 阿部博行 2005a.
  3. ^ 早瀬利之 2003, p. 14.
  4. ^ 昭和天皇独白録
  5. ^ 早瀬利之 2003, p. 151.
  6. ^ 佐治芳彦 2001, p. 558.
  7. ^ 『敗因を衝く軍閥専横の實相』田中隆吉 山水社(1946年1月20日)74p
  8. ^ 津野田忠重 1991.
  9. ^ 吉松安弘 1989.
  10. ^ 増田俊也 2011.
  11. ^ 保坂正康『昭和陸軍の研究』P・127~128 朝日文庫 朝日新聞社2006年
  12. ^ a b 戦後著作集 1996.
  13. ^ 小松茂朗 2012, p. 246-251.
  14. ^ 佐治芳彦 2001, p. 192.
  15. ^ 文藝春秋2007年6月号「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」112頁 座談会 半藤一利の発言より。
  16. ^ 蒋介石の密使 辻政信』渡辺望 祥伝社新書 2013年
  17. ^ 阿部博行 2005b.
  18. ^ 本城廣信 (1936) (日本語). 非常時! 陸軍を擔ふ人々. 普及社. pp. 14–15. http://openlibrary.org/works/OL13849686W/Hijoji!_Rikugun_o_ninau_hitobito 2012年9月17日閲覧。. 
  19. ^ 小松茂朗 2012, p. 194-196.
  20. ^ 半藤一利保坂正康2008『昭和の名将と愚将』文藝春秋:174
  21. ^ 岡田啓介回顧録』毎日新聞社(1950年12月25日)166p
  22. ^ 小松茂朗 2012, p. 170-171.
  23. ^ 日本博学倶楽部 『【図解】あの軍人たちの「意外な結末」』 PHP研究所、2007年12月、37頁。ISBN 978-4-569-65927-5
  24. ^ 講談社『写真秘録 東京裁判
  25. ^ 中央公論社 児島襄『東京裁判
  26. ^ 小松茂朗 2012, p. 255.
  27. ^ 『新編庄内人名辞典』
  28. ^ 阿部博行 2005a, p. 8.
  29. ^ 阿部博行 2005a, p. 463.

参考文献

(資料目録)

関連項目

外部リンク

軍職
先代:
笠原幸雄
関東軍参謀副長
第5代:1937年9月27日 - 1938年12月5日
次代:
矢野音三郎
先代:
加藤守雄
舞鶴要塞司令官
第25代:1938年12月5日 - 1939年8月1日
次代:
北島驥子雄
先代:
藤江恵輔
第16師団長
第16代:1939年8月30日 - 1941年3月1日
次代:
森岡皐
 
 
 
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