日本 1

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日本国
日本の国旗十六八重表菊
国旗 国章(慣例上)
国の標語:なし
国歌君が代
 
日本の位置
公用語 日本語(事実上[1]
首都 東京都(事実上[2]
最大の都市 東京特別区(23区を一つの自治体と見なす場合[3]
政府
天皇 明仁
(125代目:今上天皇
内閣総理大臣 安倍晋三
面積
総計 377,961.73km262位
水面積率 0.8%
人口
総計(2012年 1億2653万[4]人(10位
人口密度 337人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 名目478兆3,680億[5]
GDP (MER)
合計(2014年 4兆8460億[5]ドル(3位
GDP (PPP)
合計(2014年 4兆8350億[5]ドル(4位
1人あたり 38,053[5]ドル
建国 諸説あり(日本神話による初代天皇即位の日をグレゴリオ暦に換算すると前660年2月11日[6])。
通貨 (JPY)
時間帯 UTC +9(DST:なし)
ISO 3166-1 JP / JPN
ccTLD .jp
国際電話番号 81
  1. ^ 日本の公用語を日本語と定める法令は存在しない。詳しくは日本#言語および日本語#分布を参照。
  2. ^ 日本の首都を東京都と定める法令は現存しない。詳しくは日本の首都を参照。
  3. ^ 東京都にある特別区の集合体は地方自治法による地方公共団体ではない。
  4. ^ United Nations Department of Economic and Social Affairs>Population Division>Data>Population>Total Population
  5. ^ a b c d IMF>Data and Statistics>World Economic Outlook Databases>By Countrise>Japan
  6. ^ #建国をめぐる議論の節も参照。

日本国(にっぽんこく、にほんこく)、または日本(にっぽん、にほん)は、東アジアに位置する日本列島北海道本州四国九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島小笠原諸島などの諸島嶼から成る島国[1]。 

国号

 
日本の日の出(三重県伊勢市 伊勢神宮宇治橋

「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来しているのではないかとされる[2]。近代の二つの憲法の表題は、「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」であるが、国号を「日本国」または「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。[疑問点 ]ただし、日本工業規格 (Japanese Industrial Standard) では日本国、英語表記をJapanと規定。更に、国際規格(ISO)では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、日本国外務省から発給される旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊[3]を提示している。

日本語での発音

にっぽん」、「にほん」と読まれる。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている[4]雅語で「ひのもと」と読むこともある[5]

古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。 魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。

「日本」の国号が成立する以前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとする[6]が、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。

同時に、7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[7]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。

室町時代謡曲狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代ポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[8]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[9]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。

近代以降も「ニッポン」「ニホン」両方使用される中、1934年(昭和9年)には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。

その後、2009年(平成21年)6月30日には、政府が「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書閣議決定した[4]

現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣切手などに「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)、ほか日本放送協会日本テレビ[10]ニッポン放送日本武道館全日本空輸近畿日本鉄道西日本鉄道日本体育大学日本郵便NEXCO東日本NEXCO中日本NEXCO西日本[11]日本電気日本電信電話などで「NIPPON」(にっぽん)表記を用いる一方、「NIHON」(にほん)表記を用いる例は、日本大学日本航空日本経済新聞JR東日本JR西日本日本ユニシス日本相撲協会日本交通日本オリンピック委員会などがある。

(国会に複数議席を有したことのある)日本の政党名における読みは、次のとおり。

「ニッポン」
「ニホン」

別称

古くから多様である。

和語
  • あしはらなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。
    • 葦原中国」(あしはらのなかつくに)(『古事記』、『日本書紀』神代)
    • 「豊葦原(とよあしはら)」
    • 「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)
    • 「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代)
  • あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。
  • しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。
    • 「師木島」(『古事記』)
    • 「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)
    • 「敷島」
  • おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐対馬佐渡:本州。
  • ほつまのくに
    • 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武記)
  • くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。
  • たまかきうちのくに
  • やまと - 大和国(奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。
  • みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。
  • うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。
  • ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの
    • 「日出処」(隋書)
漢語
「倭」「倭国」「大倭国大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」[12]、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される[13]。このほかにも、「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。
皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている[14]。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後、"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後、「大日本帝国」の他、「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる[15]
倭漢通用
江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』[16]に、倭漢通用の国称が掲載されている。
  • 倭国
  • 「和面国」
  • 「和人国」
  • 「野馬台国」、「耶摩堆」
  • 氏国」、「女王国」
  • 「扶桑国」
  • 「君子国」
  • 「日本国」

その他の言語

英語の公式な表記は、Japanジャパン)。形容詞はJapaneseジャパニーズ)。略記は、JPNが用いられる。JAPジャップ)は、侮蔑的な意味があるので注意が必要である。Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPU等によるローマ字表記(1965年(昭和40年)以降)、郵便切手日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。
その他、各国語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(: an tSeapáin)、ヤーパン(: Japan)、ジャポン(: Japon)、ハポン西: Japón)、ジャッポーネ(: Giappone)、ヤポニヤ(: Japonia)、ヤポーニヤ(: Япония)、イープン(: ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング(Xipangu/Zipang/Zipangu)ないしジャパング(Japangu)を語源とすると考えられる。
漢字文化圏においては、ジーペン(: Rìběn;日本[17]、イルボン(: 일본;日本)、ニャッバーン(: Nhật Bản;日本[18]など、「日本」をそのまま自国語の発音で読んでいる。
欧州発行の古地図上での表記
  • 「IAPAM」1560年頃[19]
  • 「IAPAN」1567年頃[20]
  • 「IAPAM」1568年頃[21]
  • 「JAPAN」発行年不明[22]
  • 「IAPONIAE」1595年[23]
  • 「IAPONIA」1595年[24]
  • 「IAPONIÆ」1595年[25]
  • 「IAPONIA」1598年[26]
  • 「IAPONIA」1598年[27]
  • 「IAPAO」1628年[28]
  • 「Iapan」1632年[29]
  • 「IAPONIA」1655年[30]
  • 「IAPON」発行年不明[31]
  • 「Iapan」1657年[32]
  • 「IAPONIA」1660年頃[33]
  • 「NIPHON」1694年頃[34]
  • 「JAPAM」1628年[35]
  • 「YAPAN」1628年[36]
  • 「IAPON」17世紀[37]
  • 「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初[38]
  • 「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃[39]
  • 「IAPONIA」18世紀初[40]
  • 「IAPON」1720-30年[41]
  • 「IMPERIVM JAPONICVM」1727年[42]
  • 「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃[43]
  • 「JAPANIÆ REGNVM」1739年[44]

国号の由来

概説

旧唐書』・『新唐書』が記すように、「日本」国号は、日本列島を東方に見る国、つまり中国大陸からの視点に立った呼称である[45]平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[46]

日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国朝鮮は日本を「」と呼んできた。石上神宮七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗広開土王碑文も、すべて倭、倭国倭人倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった[47]

しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、『日本書紀』に「東天皇」、『隋書』に「日出処天子」とあり、倭を自称することを避けるようになっていたらしい。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて倭国と日本国とを併記し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭から日本に変わった理由を紹介している[48]

この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない[49]。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである[50]

詳細

日本書紀』では日本の初代天皇神武天皇神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言われ、饒速日命は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。

新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[6]

「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立したが勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎樺太)征伐を命じている。663年白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年飛鳥浄御原令から701年大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。

具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は2説に絞られる。

(1) 第一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である[51]。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[52][53]

(2) もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている[54]。但し『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[55]

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[56]。後代に成立した『旧唐書[57][58]、『新唐書[59]にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており[60]、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。

これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[61]。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる[62]

隋書東夷伝に、倭王皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある[63]

歴史

通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。しかし、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている[64]

時代の区分は、考古学上のものと歴史学上のものとがある。

(1) 考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代弥生時代、歴史時代、とするのが一般的である。

一方、(2) 歴史学上は、古代古墳時代から・飛鳥時代奈良時代平安時代)、中世鎌倉時代室町時代戦国時代)、近世安土桃山時代・江戸時代)、近代明治維新から1945年8月14日まで)および現代(1945年8月15日以降)の五分法が通説である[65]

日本の黎明

日本列島における人類の歴史は、次第に人が住み始めた約10万年前以前ないし約3万年前に始まったとされる。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで[66]、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると6千年前頃まで100m以上の海進が進んだ(縄文海進)。この時期の住民が縄文人である。この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった[67]。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。

紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、勾玉などが紀元前6世紀以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀頃に青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。1世紀2世紀前後に各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。

律令国家の成立と貴族政治の展開

朝鮮半島における覇権争いがヤマト王権の国家体制を変化させた。それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家である百済新羅に対して、度重なる出兵を行い朝鮮半島に影響力を持っていたが、663年、百済復興のために援軍を送った白村江の戦い新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を失う。その後間もなくヤマト王権は「日本」国号と「天皇」称号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。

日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、8世紀には渤海を朝貢国とした武家政権成立後も、13世紀元寇16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持した。

成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に(延久蝦夷合戦)領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。特に8・9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に新羅遠征も計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。

また、中央政治においては11世紀藤原北家が皇族の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。白河上皇治天の君として実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が生前譲位し、太上天皇となって、政を取り仕切る院政がしばしば見られるようになった。

武家政権の展開

10世紀から12世紀に掛け、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に中世国家へと移行した(荘園公領制職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」や「日本国」の表記が見られ始め、「日本」や「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。特に13世紀後半の元寇は、「日本」・「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」・「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている[68]室町時代までには、安東氏の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ。

14世紀から15世紀までの時期には、社会の中世的な分権化が一層進展したが、15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は、中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に日本の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太カムチャッカを含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀シャクシャインの戦いロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩藩島津氏琉球王国を侵攻して、奄美群島を直轄地にし、沖縄諸島および先島諸島宮古列島および八重山列島)の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させた[69]が、その後も琉球王国は、日本・中国への両属を続けた。

明治維新と近代日本の展開

19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「日本」・「日本人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「日本」・「日本人」意識と一致するまでに至った。[誰によって?]大航海時代以降、アジア各国が欧米列強の植民地とされる中で日本が独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。[誰によって?]江戸時代末期の1867年(慶応3年)に大政奉還がなされ、1868年明治元年)以降、明治維新に伴う近代化により、近代的な国民国家の建設を急速に進めた。同時に近隣国と国境の確定を行い、1875年明治8年)に樺太全域をロシア領とする代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、1876(明治9)年に小笠原諸島の領有を宣言[70]し、また、琉球処分を行うとともに1885年(明治18年)に大東諸島1895年(明治28年)に尖閣諸島を編入し、南西諸島方面の実効的な支配に成功した。ここに一旦、近代国家としての日本国の領域が確定した。

自由民権運動を経て1885年(明治18年)に内閣制度を確立し、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を制定し、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして、アジアで初めて憲法議会とを持つ、近代的な立憲国家となった[71]。(正確には、オスマン帝国で1876年に制定されたミドハト憲法の方が先であるが、短期間で停止された)

19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られ、日清戦争日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。日露戦争の勝因として1902年イギリスと日英同盟を締結したことが大きかった。両戦争を通じ、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土に収め、関東州租借権を獲得した。その後、1910年(明治43年)に韓国併合が実施された。

1914年(大正3年)第一次世界大戦がヨーロッパで勃発すると、日本は日英同盟に基づいて連合国側について参戦し、ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国に対して宣戦布告した。ドイツの租借地であった青島ドイツ領ニューギニアを攻略した。青島占領の後、日本は対華21ヶ条要求袁世凱政府に提示し、中国側の反発を招いた。 日本は戦勝国として1919年(大正8年)のパリ講和会議に参加し人種差別撤廃案を提出した(アメリカ合衆国などが反対)。また、発足した国際連盟において常任理事国となり、旧ドイツ領の南洋群島委任統治することとなった。大正デモクラシーが起こり、本格的な政党政治や男子普通選挙が実現した。

袁世凱亡き後の中国は、軍閥の割拠状態になっていたが、日本は段祺瑞率いる安徽派張作霖率いる奉天派支援して中国の内戦に介入していった。欧米の支援を取り付けた蒋介石率いる国民革命派の北伐軍に敗れて、張作霖が北京から撤退しようとすると、関東軍張作霖を爆殺した。 世界恐慌によって、植民地を「持てる国」である英米仏などがブロック経済化を進めて、日独伊などの「持たざる国」を締め出す動きを強めると、日本国内では対外進出によって、状況を打破しようとする動きが強まった。対支一撃論を主張する関東軍は、中国東北部への侵略を強め[72]、「満洲国」を建国して一定の支配権を得るに至った[73]若槻礼次郎内閣は、不拡大方針を打ち出し、事態の収拾を図ったが、対外強硬的な世論を背景とする陸軍の台頭を抑えきれなくなった。若槻内閣が総辞職すると、犬養毅に組閣の大命が下り、引き続き経済状況の打開と満州事変の処理にあたったが、五・一五事件で暗殺された。これによって、憲政の常道は幕を下ろした。1938年(昭和13年)には、新体制運動を主導する近衛文麿首相のもと、国家総動員法が制定され、議会は有名無実化した。日本の対外志向は、特にアメリカ合衆国を始めとする欧米諸国の権益と真っ向から衝突し、最終的に1945年(昭和20年)の第二次世界大戦十五年戦争アジア・太平洋戦争太平洋戦争大東亜戦争)の敗北によって破局に至った。

現代

アメリカ・イギリスなどの連合国により、史上初めて占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領土の領有権・統治権の総てを失った。連合国の指令のもと、国制の改革が進められ、憲法改正を行って日本国憲法を制定した。国共内戦における中国共産党の優勢が明るみになると、アメリカは対日政策を転換させ、東アジアにおける友好国とする政策を採るようになった。一方で、急激なインフレを抑制するべく実施された超均衡財政政策であるドッジ・ラインの強行により、中小企業の倒産が増大するなど深刻な不況に陥った。1952年(昭和27年)、サンフランシスコ平和条約によって全権を回復した。1955年(昭和33年)に講和条約への対応を巡り分裂していた社会党の再統一が実現すると、財界の強い要望を背景として、保守合同により、自由民主党が成立した。これにより形式的に二大政党制が実現したが、自由民主党優位の政治体制が40年以上にわたって続いた(55年体制)。1956年(昭和34年)、日ソ共同宣言により、ソビエト連邦との国交を回復し、同年国際連合に加盟した。戦後、復興と共に1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げ(高度経済成長#日本の高度経済成長)、世界有数の経済大国となった。1964年(昭和39年)には東京オリンピックが開催され、1970年(昭和45年)には日本万国博覧会大阪府で催された。交通網の整備も急速に進み、1964年(昭和39年)には東海道新幹線が開通、1965年(昭和40年)に名神高速道路1969年(昭和44年)には東名高速道路が完成した。マイカーブームの到来により、モータリーゼーションを迎えるとともに、トヨタ自動車日産自動車など国産自動車メーカの品質が向上し、先進国への輸出もなされるようになったが、大幅な貿易黒字を背景としてアメリカなどとの間で貿易摩擦も生じた。第一次産業の比率が下がり第二次産業第三次産業の比率が拡大する産業構造の高度化が見られた。1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)にかけてトカラ列島奄美群島1968年(昭和43年)に小笠原諸島1972年(昭和47年)に沖縄県の施政権がそれぞれアメリカから返還された(本土復帰沖縄返還)。

1970年代以降は先進国の一員として国際的役割を果たし、多くの発展途上国で成長モデルとして目標にされた。21世紀に至り、少子高齢化社会に伴う人口減少、国内産業の空洞化など先進国特有の問題が生じている。中国インドブラジルをはじめとする新興大国の政治的・経済的台頭のなか、欧米や日本などの先進諸国は相対的に不利な立場に立たされている。阪神淡路大震災東日本大震災などの巨大地震の発生は甚大な被害をもたらしており、防災減災行政の整備は目下緊急の課題となっている。情報通信技術の急速な発展によるインターネット携帯電話の普及に伴うユビキタス社会の到来やグローバル化の進展は、新たな需要を創出するとともに、人々の生活に大きな変化を生じさせつつある。

建国をめぐる議論

 
日本の初代天皇とされる神武天皇

国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成されて来ていて、明確な建国の時期を示す記録は存在しない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年1月1日〔旧暦〕、2月11日新暦〕)となっている。

日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰(1月1日)に即位したとの記述があり、古代以来、これが日本建国の画期と広く考えられていた。明治5年11月15日1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元西暦紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする紀年法・「皇紀」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用された[74]

公的には、この神武天皇即位紀元をもとに1957年頃から「建国記念日」制定に関する法案が9度に渡り提出されてきたが、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もあることから神話と見られ事実でないとするのが戦後の大勢であったため、いずれも成立には至らなかった。しかし1966年(昭和41年)建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)により、2月11日が"建国されたという事象そのものを記念する日"として「建国記念の日」が定められた。神武天皇の存在については実在論もあり、議論は続いている。戦後、皇紀の使用は、一部を除き殆ど見られなくなった[75]

建国の時期として、この他に「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることもある。しかし、国家としての日本は、長い歴史的な経緯を経て形成され、明確な建国の画期を見出すこと自体が困難と言え、主観的なものとなりがちである。

地理・地勢・自然・地域

 
日本の衛星写真
 
日本列島の地形図。国土は6,852の島から構成され、約70%が山岳地帯である。

日本は明治以来、憲法における領土規定がなく、これは比較法学の観点では特殊なものであった[76]島嶼部についての領有宣言、あるいは周辺諸国との条約がおもに領土領陸の法規範であり、第二次大戦後は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が主要な法規範を形成している。

地理・地勢

日本の領土はすべてから成っている。6,852の島(本土5島+離島6,847島)から成る島国である。[77]

アジア東アジアの中でも特に東方にあり、ユーラシアの東端にあたるため、欧米から極東東洋などとも呼ばれる。全体的に形状であり、領土面積は約37.8万km²(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第60位である。国土の約70%が山岳地帯であり、約67%の森林率である。

太平洋の北西部にある領土は、本州北海道九州四国などから成る日本列島を中心に、南に延びる伊豆小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島など)、および北東に位置する北方四島北方領土)など、多くの島から成り、全体として弧状列島を形成する。[78]

最東端
東京都南鳥島 (北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒)
最西端
沖縄県与那国島西崎 (北緯24度26分58秒・東経122度56分01秒)
「日本の最〜端」のなかで唯一、公共交通機関で訪れることができる場所である。
最南端
東京都沖ノ鳥島 (北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒)
最北端
北海道弁天島 (北緯45度31分35秒、東経141度55分09秒)(日本政府の実効支配下にある領域の最北端)
北海道択捉島カモイワッカ岬 (北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒)(日本政府が領有権を主張する領域の最北端)

周囲を太平洋、日本海東シナ海フィリピン海オホーツク海などの海洋に囲まれる。本州と四国との間の海は瀬戸内海と呼ばれる。地上の国境線が無く、ロシア北朝鮮台湾韓国中国フィリピン、アメリカと排他的経済水域が接している。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。沖合を暖流黒潮対馬海流寒流親潮リマン海流が流れる。

領土問題のある地域が数箇所存在する(#領土問題等を参照)。

自然地理的区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線を境に、南西日本と東北日本とに大別される。付近では、ユーラシアプレートフィリピン海プレート太平洋プレート北アメリカプレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯環太平洋火山帯環太平洋地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発なことから火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。温泉が多いことも火山の恵みと言える。

 
日本最高峰「富士山」(標高3,776m)

山岳は、最高峰は富士山(標高3,776m)の他、南アルプス北アルプスなど、2500m超えの山が本州中央に集中している。他、大雪山磐梯山阿蘇山などが有名である。富士山はその優美な風貌から数多くの芸術作品の題材とされることで芸術面でも大きな影響を与え、日本の象徴として広く世界に知られている。

河川は、利根川最上川などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短いこと、海抜高低差が急なこともあり、比較的流れが速い。集中豪雨が発生すると堤防が決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。

周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海を入れた領域の面積は約43万km²である[79]

日本政府が主張する日本の排他的経済水域EEZ)は領土面積の約12倍である約405万km²、領海とEEZを合計すると約447万km²であり世界では第6位となる[80]。ただし本来なら日本の正当な領土であり韓国に不法占拠されている竹島と日本の正式な領土であり実効支配しているが近年になって中国が不当に領有権を主張、侵略まがいの行為を行っている尖閣諸島周辺海域についてはそれぞれの国家間で重要な外交問題となっている。また、九州西方と東シナ海の領域については中国と韓国が自国の領海から延伸する大陸棚に関して国際法を無視して権利を主張している。

EEZとは別に国連海洋法条約において排他的な海底資源権益が与えられる法的な大陸棚については、2012年4月に国連大陸棚限界委員会が「四国海盆海域」、「小笠原海台海域」、「南硫黄島海域」、「沖大東海嶺南方海域」の4海域を日本の大陸棚と認定した[81]

気候・自然

 
日本の気候区分
気候
ケッペンの気候区分によると、本州以南沖縄諸島大東諸島以北の大半が温帯多雨夏高温気候(Cfa)宮古諸島八重山列島石垣島西表島与那国島波照間島)・沖大東島などでは熱帯雨林気候(Af))に属する一方、北海道などが亜寒帯湿潤夏冷涼気候(Dfb)を示す[82]モンスーンの影響を受け四季の変化がはっきりしているものの、全般的には海洋性気候のため大陸と比較して冬の寒さはそれほど厳しくなく温和な気候である。飛び地海外領土などを別にすれば、一国の領土内に熱帯から亜寒帯までを含む国家は珍しい。北半球では他にアメリカ合衆国中華人民共和国ぐらいである。(標高の高さによる寒冷地域は除く)
冬季は、シベリア高気圧が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海で暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため、日本海側を中心に国土の約52%が世界でも有数の豪雪地帯となる。太平洋側では、空気が乾燥した晴天の日が多い。
夏季は、太平洋高気圧の影響が強く、高温多湿の日が続く。台風も多い。但し、北部を中心にオホーツク海高気圧の影響が強くなると低温となり、しばしば農業に影響を与える。
比較的、降水量の多い地域である。主な要因は、日本海側での冬季の降雪、6・7月(沖縄・奄美は5・6月)に前線が停滞して起こる梅雨、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する台風など。年間降水量は、約1,700mmで地域差が大きい。南鳥島を除く日本全域がモンスーン地域で、山がちな日本列島の西岸および南岸の周りを暖流が流れている為に雲が発達しやすく、日照時間は約1800時間程度と世界の他の温帯地域と比べても少なめである。
生態系
南北に長く、また、森林限界を越える高山帯や広い海洋、四季の変化により、面積の広さに比べ、生息する動物植物の種類が豊富である。津軽海峡以北の北海道の生態系は沿海州の生態系に似ており、ブラキストン線という境界が提唱されている。屋久島と南西諸島の間には、温帯と亜熱帯の生態系の境界である渡瀬線が提唱されている。このほか海峡を主に複数分布境界線が提唱されている。
四方が海で囲まれているため、外部から新しい生物が侵入してくる可能性が低かった。それに加え、多くの離島があるため、その島独自の生態系が維持されてきた土地が多数ある。特に小笠原諸島や南西諸島は、古くから本土と比べて孤立した生態系を築いてきたため、その島に固有の動植物が多く生息している。小笠原諸島は、「東洋のガラパゴス」と呼ばれるほど特殊な生態系を持つ。南西諸島でも、西表島イリオモテヤマネコをはじめ、固有生物が島ごとに生息している例がある。だが、近年の開発や人間が持ち込んだ外来生物により、生態系は激変し、固有の動植物の生息が脅かされている場所が多い。
植物森林
熱帯のものから亜寒帯のもの、さらには高山ツンドラに生育する高山植物に至るまで植物の種類が豊富で多様性に富む。降水に恵まれ、高湿度に適した植物が多く分布している。コケ植物シダ植物などが特に豊富。大陸から離れた地形から、スギなどの日本固有種が広く分布する。慣習的に国花と同等の扱いを受ける。この他、各自治体でも独自の木や花を制定している。
陸地の約3分の2が森林(森林率66%[83]・森林面積:2,512万ha・2009年(平成21年)現在)である。亜熱帯から亜寒帯に渡る、どの地域でも年間の雨量が十分で、森林の成立が可能である。平地の植生は、南の約3分の2が常緑広葉樹林、いわゆる照葉樹林という型であり、北の約3分の1が落葉広葉樹林ブナ林を代表とする森林である。標高の高い地域では、更に常緑針葉樹林、一部に落葉針葉樹林がある。南西諸島の一部は熱帯に属し、沿海の干潟にはマングローブが発達する。
この森林面積の内訳は、天然林が53%(1,335万ha)、人工林が41%(1,036万ha)、その他(標高などの条件で未生育の森林など)が6%、となっている。内、人工林は、第二次世界大戦後の拡大造林の影響を受けたことから、スギ林が多数(452万ha)を占める。これは、高度経済成長期に木材需要の逼迫から大量の天然林が伐採され、木材の生産効率のみを考えたスギ・ヒノキ林に更新されたためである。その後海外からの輸入量が急増し、一転して木材の価格が暴落した結果、採算の取れない人工林の多くが取り残される結果となった。放棄されたスギ林では、下層植生が発達せず貧弱な生態系となり、防災や水源涵養の面でも問題が多い。
動物
哺乳類
100種強が生息し、その内、固有種が3割を超え、7属が固有属である。日本の哺乳類相は、北海道と本州との間にあるブラキストン線、また、南西諸島のうち、トカラ列島奄美群島との間にある渡瀬線で区切られ、これらを境に異なる動物群が生息している。
大型哺乳類では、北海道のヒグマエゾシカ、本州のツキノワグマニホンジカニホンカモシカなどがいる。
固有種であるニホンザルのうち、下北半島に住む個体群は、世界で最も北方に棲息するサルである。ニホンオオカミエゾオオカミニホンアシカ、日本のラッコ個体群、および、ニホンカワウソは絶滅。
鳥類
 
日本の国鳥のキジ
500種を越える鳥類が観察される。四方の海に加え、水源が豊富な日本では、河川や池、湖が多く、それに棲む水鳥の種類が豊富である。日本列島はシベリアで繁殖する鳥の越冬地であり、東南アジアなど南方で越冬した鳥が繁殖する地であり、さらに北方から南方に渡る渡り鳥が通過する中継地としても重要で、季節によって多彩な渡り鳥を観察することができる。近年、乱開発による干潟の減少や、東南アジアの森林の破壊が、日本で見られる鳥類の存続の脅威となっている。水鳥の生息地として国際的に重要な37の湿地が、ラムサール条約に登録され保護されている[84]
渡りをしない留鳥としては、国鳥キジなどがあげられる。人家の近くには、カラススズメハトツバメハクセキレイなどが生息し、古来より文化の中で親しまれてきた。最近ではヒヨドリムクドリが人家周辺に多い。
固有種は、メグロなどがある。トキの個体群は、絶滅。現在、佐渡市で人工的に繁殖されているトキは、中国の個体群から借り入れたものである。
爬虫類両生類
いずれも亜熱帯に種類が多く、南西諸島に半分以上の種が集中する。これは、島ごとの種分化が進んでいるためでもある。本土における島ごとの種分化は、さほど見られない。例外は、サンショウウオ類で、南西諸島に見られないが、本土の各地方での種分化が進み、多くの種を産することで世界的にも知られる。また、現存する世界最大の両生類であるオオサンショウウオは、日本を代表する両生類として世界的に知られる。
魚類
近海の魚類は、種類、数、共に豊かで、三陸海岸沖から千島列島に掛けてが世界三大漁場の一つに数えられる。近海を暖流と寒流とが流れ、これらの接点である潮境でプランクトンが発生しやすいことや、周辺に広い大陸棚や多様で複雑な海岸を持つこと、などが好条件となっている。淡水魚の種は、大陸に比べて河川の規模が小さいため、多くない。古代湖である琵琶湖などに多彩な種が棲息するものの、アユなど食用に供される種の人為的な放流や外来魚の勢力拡大により、希少種の絶滅や淡水魚類相の激変が問題となっている。他方、雨量の多い気候のために河口域に汽水域が出来やすく、貝類も豊富である。
また、2010年に海洋生物センサス(Census of Marine Life)が出した報告により、日本近海は、世界25箇所の代表的な海の中で最多となる、約3万3000種の海洋生物が生息していることが明らかとなった[85]。これは日本の気候が南北に渡って非常に多彩であり、同時に大きな海流に恵まれ、海水が多くの栄養を持っていることを示している。例えば北海道は流氷の南限であるのに対し、南西諸島および小笠原諸島はサンゴ生育の北限である。
昆虫
亜熱帯のものから亜寒帯のものまで種類が豊富で多様性に富む。森林が多いため、数も多い。都市部でも多くの昆虫が見られる。雨が多く、湿地や水田が各地にあるため、特にトンボの種類が多い。また、カブトムシなど里山に暮らす昆虫も多く見られたが、暮らしの変化と共に少なくなった。江戸時代頃からスズムシコオロギの鳴き声を楽しむために飼育が行われてきた。愛玩対象として昆虫を飼う文化は、世界的にも珍しい。オオムラサキが国蝶。
 
メガソーラーとして建設された米倉山太陽光発電所
環境公害
1950-60年代、四大公害病を始めとした大規模な公害の発生から、1967年(昭和42年)の公害対策基本法を始めに水質汚濁や大気汚染などの規制法が相次いで成立した。これを受け、日本企業は、オイルショックのためにマイナス成長下にあった1973年(昭和48年)-1976年(昭和51年)の前後に集中して公害の防止への投資を行い、1970年代以降、大規模な公害の件数が急速に減少した。また、この投資は、オイルショック下の日本経済の下支えの役割を果たしたため、「日本は公害対策と経済成長を両立させた」と言われる[86]
しかし、日本列島改造論が叫ばれた1970年代以降、地域振興を名目に道路建設や圃場整備などの公共事業リゾート開発などの大型開発が盛んに行われ、日本固有の風致や生態系は大きく損われてしまった。また、ゴミ問題のために富士山世界遺産登録を断念したことに象徴されるように、環境管理においても多くの課題を抱える。人工林の荒廃やダム建設などによって河川や山林の生態系が衰退していることにより、ニホンザルイノシシが市街地に出没するなど、人間の生活への影響も出ている。
高度経済成長期以降、日本人の食卓の変化や、海外の農産品の輸入増加、東京一極集中、天然林の伐採、地域振興における公共事業偏重など様々な要因により、農山村や農林水産業が衰退した。これに伴い、耕作放棄地の増加、人工林の荒廃、水産資源の減少などの問題が発生している。

地域区分

 
日本の地方、および各都道府県の位置

都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。但し、地域区分(地方区分)には、揺れが見られる。また、一部のは、行政上、別途政令指定都市中核市特例市に定められている。他にも、市町村や、町村をまとめたがある(全国市町村一覧参照)。

北海道地方
1.北海道
東北地方
2.青森県 - 3.岩手県 - 4.宮城県 - 5.秋田県 - 6.山形県 - 7.福島県
関東地方
8.茨城県 - 9.栃木県 - 10.群馬県 - 11.埼玉県 - 12.千葉県 - 13.東京都 - 14.神奈川県
上記は「一都六県」。「首都圏」はこれに山梨県を、「広域関東圏」には関東地方1都6県に親不知浜名湖線以東の新潟山梨長野静岡の4県を、それぞれ加える。
中部地方[87][88]
北陸地方[89][90][91]
15.新潟県 - 16.富山県 - 17.石川県 - 18.福井県
福井県嶺南地域近畿地方に含める場合がある。
新潟県北陸地方に含めず、長野県、山梨県とともに甲信越と称する場合も多い。
東山地方[92]
19.山梨県 - 20.長野県
中央高地[93]ともいう。岐阜県飛騨地域を加える場合もある。
東海地方
21.岐阜県 - 22.静岡県 - 23.愛知県
普通、「東海3県」というと、静岡県ではなく三重県を含めることが多い。なお、静岡県については関東甲信越各県と併せて広域関東圏とする場合も多い。
近畿地方
24.三重県 - 25.滋賀県 - 26.京都府 - 27.大阪府 - 28.兵庫県 - 29.奈良県 - 30.和歌山県
但し、三重県近畿地方に含めず中部地方もしくは東海地方に含まれることも多い。なお、近畿地方のことを「関西地方」と呼ぶ場合は通常、三重県を除く2府4県のことを指す(場合によっては三重県のうち伊賀地域を加えることもある)。
中国地方
31.鳥取県 - 32.島根県 - 33.岡山県 - 34.広島県 - 35.山口県
鳥取、島根、山口の一部で山陰と言い、岡山、広島、山口のほぼ全域で山陽という。また、山口県九州地方と併せて九州・山口地方とする場合もある。
四国地方
36.徳島県 - 37.香川県 - 38.愛媛県 - 39.高知県
四国山地より北を北四国、南を南四国とする。また、中国地方と併せて中国・四国地方とする場合もある。その場合、山陽と北四国とを併せて瀬戸内と言う。
九州地方
40.福岡県 - 41.佐賀県 - 42.長崎県 - 43.熊本県 - 44.大分県 - 45.宮崎県 - 46.鹿児島県
山口県と併せて九州・山口地方とする場合や、沖縄県と併せて九州・沖縄地方とする場合もある。
奄美諸島は、歴史・文化・自然等の面において九州よりも沖縄に近い[94][95][96]ため、奄美諸島沖縄県と併せて沖縄・奄美地方とする場合もある。
沖縄地方
47.沖縄県
沖縄県は九州地方に含む場合もある。九州地方に含める場合は九州・沖縄地方と呼称することもある。
沖縄県奄美諸島と文化的、自然的に近い[97][98]ため、奄美諸島と併せて沖縄・奄美地方とする場合もある。

都市

法定人口による政令指定都市の順位付け
参考のため、東京都区部を併記
順位都道府県市(区)法定人口推計人口増減率(%)種別推計人口の
統計年月日
00 東京都 特別区部 8,949,447 9,214,130 +2.96 特別区 2015年5月1日
01 神奈川県 横浜市 3,689,603 3,718,913 +0.79 政令指定都市 2015年5月1日
02 大阪府 大阪市 2,666,371 2,694,392 +1.05 政令指定都市 2015年5月1日
03 愛知県 名古屋市 2,263,907 2,280,415 +0.73 政令指定都市 2015年5月1日
04 北海道 札幌市 1,914,434 1,934,675 +1.06 政令指定都市 2015年3月31日
05 兵庫県 神戸市 1,544,873 1,536,499 -0.54 政令指定都市 2015年5月1日
06 京都府 京都市 1,474,473 1,469,107 -0.36 政令指定都市 2015年5月1日
07 福岡県 福岡市 1,463,826 1,527,612 +4.36 政令指定都市 2015年5月1日
08 神奈川県 川崎市 1,425,678 1,470,367 +3.13 政令指定都市 2015年5月1日
09 埼玉県 さいたま市 1,222,910 1,257,262 +2.81 政令指定都市 2015年5月1日
10 広島県 広島市 1,174,209 1,186,655 +1.06 政令指定都市 2015年5月1日
11 宮城県 仙台市 1,045,903 1,074,495 +2.73 政令指定都市 2015年5月1日
12 福岡県 北九州市 977,288 959,325 -1.84 政令指定都市 2015年5月1日
13 千葉県 千葉市 962,130 967,679 +0.58 政令指定都市 2015年5月1日
14 大阪府 堺市 842,134 838,541 -0.43 政令指定都市 2015年5月1日
15 新潟県 新潟市 812,192 806,621 -0.69 政令指定都市 2015年5月1日
16 静岡県 浜松市 800,912 789,781 -1.39 政令指定都市 2015年5月1日
17 熊本県 熊本市 734,294 739,638 +0.73 政令指定都市 2015年5月1日
18 神奈川県 相模原市 717,561 723,573 +0.84 政令指定都市 2015年5月1日
19 静岡県 静岡市 716,328 704,013 -1.72 政令指定都市 2015年5月1日
20 岡山県 岡山市 709,584 715,613 +0.85 政令指定都市 2015年5月1日

 

 

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