日本統治時代の朝鮮
この記事は クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0 のもとで公表された日本統治時代の朝鮮 - Wikipediaを素材として二次利用しています。
-
← 1910年 - 1945年 →
→(国旗) (国章) - 国の標語: 内鮮一体、一視同仁
- 国歌: 君が代
-
公用語 日本語, 朝鮮語 首都 京城府(総督府所在地) - 最後の元首
-
1926年 - 1945年 昭和天皇 - 最後の総督
-
1944年 - 1945年 阿部信行 - 面積
-
220,788.44km² - 人口
-
1920年国勢調査 17,264,119人 1930年国勢調査 21,058,305人 1933年推計 20,160,000人 1940年国勢調査 24,326,327人 1944年推計 25,120,000人 - 変遷
-
日韓併合条約が調印 1910年8月22日 日韓併合条約が発効 1910年8月29日 日本がポツダム宣言受諾 1945年8月15日 日本が降伏文書調印 1945年9月2日 アメリカ軍軍政[2] 1945年9月7日 朝鮮総督府降伏[3] 1945年9月9日 ソビエト軍軍政 1945年
通貨 朝鮮銀行券 時間帯 UTC +9:00(1910年-1911年はUTC+8:30)
日本統治時代の朝鮮(にほんとうちじだいのちょうせん)は、1910年8月29日の大日本帝国による韓国併合から、1945年9月9日の朝鮮総督府の降伏まで、35年間続いた。
呼称
日本では主に日韓併合、または韓国併合や日本統治時代などと呼んでいる。一方、現在の韓国においては、日帝時代、日帝暗黒期、日帝植民統治時代、日本植民地時代、日本統治時代、日政時代、倭政時代、対日本戦争期、対日抗争期、国権被奪期など様々な呼称があるが、国立国語院が管理する大韓民国標準語では「強制的に占領されていた時代」という意味で「日帝強占期」とされている。
概要
朝鮮の歴史 |
||||||||||
考古学 | 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC 無文土器時代 1500 BC-300 AD |
|||||||||
伝説 | (檀君朝鮮?) 箕子朝鮮? |
|||||||||
辰国? | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 楽浪・ 帯方郡 |
濊 貊 |
沃 沮 |
|||||||
三国 | 伽耶 ?- 562 |
百済 ?-660 |
高句麗 37 BC-668 |
|||||||
新羅 356- |
||||||||||
統一 新羅 |
唐熊津・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 676-892 |
安東 都護府 |
渤海 698 -926 |
||||||||
後三国 | 新羅 -935 |
後 百済 892 -936 |
後高句麗 901 -918 |
遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 |
高麗 918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) |
||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗 1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮 1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国 1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治 1910-1945 | |||||||||
現代 | 連合軍軍政期 1945-1948 | |||||||||
大韓民国 1948- |
朝鮮民主主義 人民共和国 1948- |
|||||||||
Portal:朝鮮 |
1910年、大韓帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって日本に併合され(韓国併合)朝鮮総督府の統治下に置かれた[4]。
日本による統治期間は1919年の三・一独立運動までの武断統治期、それ以降日中戦争に至るまでの文化統治期、および日中戦争、太平洋戦争(大東亜戦争)から終戦に至るまでの戦時体制期に大きく分けられる[5]。
併合当初は憲兵警察制度(併合年で7,712名。その内、朝鮮人は4,440名[6])や言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治により、朝鮮王朝末期から続いていた一部の抗日運動を抑えようとした。
1919年には三・一独立運動が起こったが、日本の憲兵警察により鎮圧された[7]。1920年の尼港事件では朝鮮人パルチザン400~1,000人程が加わった赤軍は日本軍守備隊を襲撃し全滅させ在留日本人までも虐殺している。
三・一独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は三・一運動や大正デモクラシーの影響などにより朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、言論や結社の自由が与えられたため、比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。
朝鮮は日本統治以前は厳しい身分制度に支えられた専制政治が行われており、民主的選挙による政治がなされることはなかったが、日本政府によって民主主義が導入された。
道議会議員の8割以上が朝鮮人であり[8]、また、忠清南道知事は初代以下ほとんどが朝鮮人によって占められており、その他の道知事も同様であった[8]。
朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた。満州国と接する北部国境地帯ではソビエト連邦の支援を受けた朝鮮独立を掲げる共産ゲリラと朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。
日本は新たに統治下に置いたものの、未開発である朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した。これにより朝鮮人の海外への流失を抑制し日本本土への流入も抑え本土の失業率上昇や治安悪化をも防止しようとした。[9][10]
1929年、カーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、
「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。・・・また朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしていることは明らかである」
などと[11]、李氏朝鮮時代よりも日本統治によって朝鮮人民は救われているとの評価をしている。
1931年7月2日に中国吉林省長春市郊外で、朝鮮移住民と中国農民の衝突事件(万宝山事件)が起こり、その報復として、朝鮮人による華僑虐殺事件(朝鮮排華事件)が朝鮮および日本本土で起き日中間の外交問題となった。
1931年9月、満州事変が勃発し、日本が瞬く間に満州全土を占領すると、満州に居た多数の朝鮮人小作人は親日へと転化した。
朝鮮半島でも「内鮮一体」が叫ばれ、皇民化推進団体が次々と結成された。
三・一独立運動の首謀者の一人である崔麟も大東亜戦争開戦のときには熱心な親日家となっており、大東亜戦争を「聖戦」と讃え、日本の支援を積極的に行った。
また、玄永燮は朝鮮語を禁じるべきだと主張し、李東華は朝鮮人にも日本人と同様に兵役の義務を与えるべきだと叫び、朝鮮神宮では「国威宣揚武運長久祈願祭」が挙行されるようになった。
李覚鐘は「私共は大日本帝国の臣民であります」「私共は互いに心を合わせて、天皇陛下に忠誠を尽くします」「私共は忍苦鍛錬して、立派な強い国民となります」と書かれた皇国臣民ノ誓詞を書いた。
「事変前には日本反抗の気分もあったが、第一に満州事変、次に支那事変によりて日本と合体することの朝鮮人にとりて有利ということが明らかになって、今では全く日本内地と協調しつつある」と述べている[12]。
第二次世界大戦中は、戦時下における国策として皇民化教育や創氏改名などが推進され、朝鮮人の日本人への同化がより求められた。
韓国併合後、朝鮮語は公教育で必須科目として教授されていたが、朝鮮教育令の改正に伴い1938年には随意科目となり、日本語使用家庭の顕彰、学校で朝鮮語を使用した生徒への罰則などを含む「国語常用」運動が繰り広げられた結果、朝鮮語教育は公立学校からほぼ完全に排除されていった[13]。
戦争激化に伴い物資・情報統制も強まり、1940年には朝鮮語媒体の『朝鮮日報』『東亜日報』が総督府の命令により廃刊させられたが、『毎日新報』と官報は存続した。
日本政府は李氏朝鮮時代から朝鮮人にも日本軍の幹部を養成する陸軍幼年学校や陸軍士官学校への入学を許可したので、日本軍の将官に栄達した者も多かった(李王垠、洪思翊など)。
1937年に日中戦争が勃発すると、朝鮮人から志願兵の申し出が行われるようになり[14]、朝鮮人の朴春琴衆議院議員から「朝鮮人志願兵制度」の請願が出され、1938年からは朝鮮人にも兵卒の志願を許可する陸軍特別志願兵令が公布され[15]、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した[16]。
しかし朝鮮人に徴兵制が施行されたのは1944年4月から、台湾人に対しても同年9月からであり、他の植民地保有国と比較して
(イギリスは第二次世界大戦中に300万人を超えるインド人兵士を動員し、イギリス連邦の構成国であるオーストラリア軍やニュージーランド軍も動員した。またフランスやアメリカも同様に植民地人を動員した)、
植民地人の軍事利用には消極的であった。
1944年9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は1945年1月から7月の間に限られた上に、朝鮮半島か日本内地における訓練中に終戦を迎え戦場に派遣されなかった[17]。
労働力としての徴用については、適用が控えられていた朝鮮においても1944年9月から1945年8月にかけて国民徴用令が実施された。
日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡線の運航が止まるまでの7か月間であり、内地(日本)における、国民徴用令による朝鮮人の徴用労務者はごく少数であった。
戦後、日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人であった(1959年の外務省の調べ)。
内地(日本)に渡航して来た朝鮮人の大半は職を求めての個別渡航や、工鉱業、土木事業等の募集に応じてきた者であった[18]。
この様な正式な調査結果があるにもかかわらず、2009年1月30日に韓国国務総理室傘下の日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は「およそ12万人の朝鮮人が徴用された」と発表し、それを「強制動員の被害者」としている[19][20]。
日本兵を相手に慰安婦として働く朝鮮婦人もおり、その慰安婦が在籍する慰安所営業者の半数は朝鮮人が占め、その運営に日本政府や軍は直接介在していなかった。
なお慰安婦の募集は新聞などの募集広告など一般公募で行われており、これに応募するのは自由意思による選択であった。
またそれらの業者に朝鮮人婦女子を拉致・誘拐して売り飛ばしていた者もいたが、その全ては朝鮮人であった[21]。
これらの事実がありながら、現代の韓国では、慰安婦について政府とマスコミは「日本軍の行った人権侵害である」という見解を取っており、慰安婦を勤労奉仕の女子挺身隊と混同し、今だに「従軍慰安婦問題」として日本に補償を求める動きがある[22][23]。
しかしこれに対し一部の韓国の学識者と日本の右派・保守派は、上記のような事実を元にして慰安婦について
「自主的に応募してきた売春婦である」という見解をとっている。また「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」とし、「日本版歴史修正主義」と反論しているものもいる[24]。
1945年8月15日、第二次世界大戦の終結により日本の朝鮮半島統治は終焉を迎えた(8月15日は現在、韓国では「光復節」として祝日となっている)。
日本のポツダム宣言受諾により、朝鮮半島の統治権は連合国側に移った。
1945年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリの甲板上で日本政府が公式にイギリスやアメリカ、中華民国やソ連をはじめとする連合国との間で降伏文書に調印した。
1945年9月9日、降伏文書調印に伴い朝鮮総督府は解体され、京城の朝鮮総督府庁舎には日章旗に代わり星条旗が掲揚された。
まもなく、アメリカ軍は降伏条件には定められていなかったが[25][26]日本政府および日本人の資産を没収した[27]。
終戦後、朝鮮半島や日本に在住する朝鮮人は日本人と同じ敗戦国民にもかかわらず「自分達は戦勝国民だ」と主張し、日本人引揚者たちは検問でソ連兵や朝鮮人への女性や金品の供出を強要され、日本上陸後に15歳以上の女性は妊娠・性病検査や堕胎手術を受けた[28]。
日本上陸時の引揚者たちの表情は一応に厳しいものであった[29]。
終戦直後、朝鮮総督阿部信行と朝鮮軍司令官上月良夫により朝鮮へは自治権が与えられ、朝鮮人によって朝鮮人民共和国が建国されたが、アメリカはこれを認めず、進駐の翌日9月9日に軍政を布告。
ソ連と共に朝鮮半島を北緯38度線を境に南をアメリカが、北をソ連が占領(分割占領)した。
その後、連合軍軍政期を経て北緯38度線より南側が大韓民国(韓国)、北側が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)としてそれぞれ独立を宣言する。アメリカが韓国を、ソ連が北朝鮮を支援し、1950年に朝鮮戦争が勃発した。
なお韓国政府は、1951年9月にサンフランシスコで行われた連合国と日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結の際に、自国を「第二次世界大戦における戦勝国(=連合国の1国)」として参加させるように求めたものの、大戦以前から日本の統治下にあり連合国として日本と交戦したことはなく、さらに多くの朝鮮人が日本軍の将兵として連合国と交戦したためにこれをはねつけた。
日本が残した産業資源の多くが北部に集中していたため、北朝鮮は朝鮮戦争からしばらくの期間、工業生産力・軍事力などの点で韓国を圧倒していたが、韓国はベトナム戦争への派兵にともなう特需と日本からの戦後賠償を含む莫大な規模の経済・技術援助によって「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を達成した。
李王家
李王家は王公族として日本の皇族に準じた華族より上位の身分とされ、貴族院に議席を持つとともに帝国陸軍軍人として奉職した。
李王家の李王垠には皇族梨本宮家から方子女王が嫁入りしている。
東京赤坂には李王家の邸宅が設けられた。
李鍝は日本陸軍中佐として太平洋戦争で戦死(軍務中に広島にて被爆死)している。
一方、朝鮮人の過激派からは、純宗が李完用へ全権委任状を出すなどした経緯から、日韓併合の主犯とも見做され、暗殺の対象とされた。
李王世子暗殺未遂事件などが起きている。
日本の敗戦後には連合国によって華族が廃止されたために爵位を失った。
連合国の承認を得て建国された大韓民国は、軍事独裁政権の障害になることを懸念して長年にわたり李王家の帰還を許さなかったため、李王垠や方子は在日朝鮮人となり、韓国への帰還を許されたのは晩年のことであった。
社会政策
朝鮮総督府により教育(日本統治時代の朝鮮の教育)や戸籍制度などの整備がおこなわれた。
1937年には白白教を取り締まった白白教事件など李氏朝鮮時代から続くカルトの撲滅を行った。
一方で公立学校を中心とした同化政策や、独立運動に対する警戒・取締は植民地化の経緯とあいまって朝鮮民族の日本(本国)への反感を強める人々もいた。
また、統治者としての在朝日本人の間では朝鮮人への侮蔑意識が本国の日本人以上に広まったとされ、そのことも反感を招いたともされる。
朝鮮総督府側も、「朝鮮人に対する侮蔑意識が統治への反感を無意味に掻き立て、円滑な統治を妨害しかねない」と懸念を表明することがあった[30]。
身分解放
統監府は1909年に戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた[31]。
これにより、身分開放された白丁の子弟も学校に通えるようになった[31]。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された[32]。
教育制度
教育制度の整備と識字率向上
朝鮮では1895年の甲午改革により近代教育制度が始まったが、1906年の時点でも小学校が全国で40校未満[33]であり、両班の子弟は書堂と呼ばれる私塾で漢籍の教育を受けているような状況だった。
初代統監に就任した伊藤博文はこの状況について、大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、学校建設を改革の最優先事項とした[33]。
伊藤が推進した学校建設事業は併合後も朝鮮総督府によって継続され、朝鮮における各種学校は1940年代には1000校を超えていた[33]。
朝鮮総督府は朝鮮人による自主的な教育については警戒、統制を行いつつ[34]、教育内容の整備を進め、日本語、朝鮮語をはじめ算数、日本史、朝鮮史(朝鮮史は「朝鮮事歴」という名前で教育されていた[35])、修身などの教育を公立学校を中心に展開した。
初等中等教育
併合当初、朝鮮における初等中等教育制度は日本内地人に対するものと朝鮮人に対する者に対するものが別個に存在していた。
内地人向けの小学校、中学校と、朝鮮人向けの普通学校、高等普通学校があったが、1938年の朝鮮教育令改正により普通学校、高等普通学校は廃止され、内鮮人の共学制が採用された。
日本統治下で初等教育が順次拡充され、初等教育への就学率は日本統治時代の最末期で男子が6割、女子が4割程度であった。
初等学校(普通学校・小学校・国民学校)の教員は、朝鮮の師範学校で養成される教員と日本内地から派遣される教員が混在していた[36]。
1946年度からは日本内地と同様の八年制義務教育制度(国民学校初等科及び高等科)を導入することが予定されていた。
高等教育
高等教育については、官公私立の旧制専門学校が多数設立されたほか、1924年に京城帝国大学が、朝鮮唯一の旧制大学として、また日本で6番目の帝国大学として日本内地の大阪帝国大学や名古屋帝国大学よりも早く設立された[37]。
日本統治時代後期において、京城帝国大学における内地人学生の比率は6割程度、朝鮮人学生の比率は4割程度であった。
朝鮮語
李氏朝鮮は清国の従属下にあり漢字が重視される一方、ハングルは軽視され、公文書でも採用されることもなかったが、李朝末期(1886年)になって開化派と井上角五郎の協力により朝鮮で初のハングル使用の新聞・公文書(官報)である『漢城周報』(1886年創刊)が発行された[38]。
また、一般人(特に女子)のための教育機関は皆無で、大多数の朝鮮人は読み書きができない状況だった[39][40]。
日本統治下になると学校教育における科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入されたため、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた[41]。
1911年に朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、朝鮮語は必修科目としてハングルが教えられることとなった[42]。
総督府は1912年に、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成し、それを用いた。
日中戦争以降、総督府は日本軍の兵士として朝鮮人を動員することなども視野に入れ、とくに1938年の国家総動員法をうけ朝鮮地域では内鮮一体の名の下で「朝鮮人」の日本人化を急ぐようになった。
また、「朝鮮が日本領である以上朝鮮語は日本語の方言であり、内地の方言同様最終的には消滅させるべきである」という朝鮮語方言論[43]や、
「帝国臣民である以上朝鮮人はその民族性を捨てて、大和民族に同化せねばならない」とする論[44]に基づき、朝鮮語を強制的に廃棄して日本語を母語化するよう求める意見が日本人言語学者たちから提出されるようになった。
1938年の第三次教育令で朝鮮語が随意科目となったことを皮切りに、1942年には用いる言葉を賞罰の対象にする運動を開始するなど「国語常用」運動が本格化し[45]、公教育からは朝鮮語が排除されていった。
「第八十六回帝国議会説明資料」(1944年12月、朝鮮総督府)によれば、1938年には「国語を解する朝鮮人」の割合が前年度の8%弱から13%強にまで伸びて(1943年末で22%)いる。
一方1945年の「解放」当時南朝鮮の12歳以上の総人口の78%は依然としてハングル文盲であった[46][47]。
普通初等学校への就学率は1910年で1.0%、1923年で2ケタ台にのり11.2%、1935年で21.7%、1943年で49.0%であった[48]。
1942年10月には朝鮮語学会の主要メンバーが治安維持法違反で逮捕されるという事件が起こった(朝鮮語学会事件)が、これは上海の大韓民国臨時政府と連絡をとりあっていたメンバーが朝鮮語学会を仮装組織としていた事で逮捕されたものであり(16名に対して予審を申請(予審申請のうち2名は死亡)、14名を起訴猶予、3名を不起訴)、朝鮮語の研究や普及の活動について検挙されたものではない[49]。
統治末期には、学校の会話で朝鮮語の使用が罰せられたとの証言もある[50]が、朝鮮語が日常会話や新聞などから完全に排除されたわけではなく、朝鮮総督府においても、1921年から1945年の日本統治終了に至るまで、朝鮮語能力検定に合格した職員を昇進・給与において有利に処遇していた[51]。
1943年時点で、日本語を解する朝鮮人は1,000人当たり221,5人(「朝鮮事情」1940-1944年版)で、8割の朝鮮人は日本語を話すことが出来なかった[52]。
文化保護
1934年に朝鮮総督府は李氏朝鮮の主な文化財の保護のための総督府令を出している[53]。
国宝に指定されたものには南大門などが含まれていた[53]。 また、朝鮮の民族文化は日本の統治の時期を通してより成長し、日本人学者とその朝鮮人の弟子達によって歴史・語学・文学などの韓国学研究の基礎が作られた[54]。
日中戦争の長期化による物資欠乏への対策や情報統制の必要から日本内地では1938年4月に国家総動員法が制定され、8月からの新聞用紙制限令による用紙制限や新聞の整理統合を通じ、739紙あった新聞を最終的に54紙にまで削減するなど、新聞紙法や出版法を厳しく適用しながら新聞・出版・言論統制を強めた。
朝鮮においても、1940年には「朝鮮日報」「東亜日報」が総督府命令により廃刊となり、朝鮮語新聞は総督府が発行する毎日新報と官報だけとなったが、硫黄島の戦いにおける日本軍の玉砕は朝鮮語でも報じられた。
創氏
創氏は、朝鮮の宗族による管理システム(本貫と姓)に新たに家族名である「氏」を加え、日本及び欧米で一般的な家族単位の管理システム下に組み入れるものである。
この過程で中国式の夫婦別姓を名乗っていた妻も夫と同じ一つの家族名の下で管理されることになった。
改名とは姓名を届け出する際に名を日本風に変更することを可能にする制度である。それまでは日本内地に見られる姓名は許可しないこととして厳しく制限されていた。1940年に取られたこれらの措置を「創氏改名」と呼ぶ。
前者は制度上必須であり、全ての朝鮮人に適用された。
後者は任意であり、当初南次郎総督自身もそのように言明していた。
水野直樹によれば、1940年2月11日の届出開始以降全戸数の中で姓名を届け出た人々の割合が4%程度と著しく低かったことから、朝鮮総督府は方針を転換し、下部機関を中心に朝鮮人に日本的な名字を名乗るよう推奨するキャンペーンを開始し、この過程で日本的な名字に対して抵抗を示した人々に対しては、さまざまな公的サービスからの排除、および警察からの監視などの圧力が加えられたとし、結果として80%以上の朝鮮人は日本的な氏の届出をしたとしている[55]。
一方、残りの2割(日本内地では約85%)は法定創氏により朝鮮式姓がそのまま氏として設定された。
朴春琴や洪思翊など、朝鮮式の氏を(設定創氏して)使い続けた事例もあった。また、朝鮮に居住している朝鮮人では改名者の割合は9.6%だった。
創氏改名の第一目標であった朝鮮人の名字を日本式に改めることに関しては、朝鮮に日本風の家制度を導入することが主眼とされていた[56]。
創地改名
植民地支配時、朝鮮固有の地名を日本式に強制的に変更したとして中央日報が2009年10月の記事で指摘した事例[57]。
例として慶北青松郡盈徳郡(キョンブク・チョンソングン・ヨンドククン)の周王山(チュワンサン)の竜湫(ヨンチュ)滝、中竜湫、竜淵(ヨンヨン)滝(あるいは上竜湫)を3つの滝について、第一の滝を仙女湯に変更した。
これは名前に竜が入っており、植民地民の気が強くなる懸念が高いという口実で改名した[58]とする。
慶尚北道慶山郡竜城面(キョンサンプクト・キョンサングン・ヨンソンミョン)にある争光里(ジェングァンリ)を「日光里」(イルグァンリ)に変更したが、「景色が良くて美しい日本の“日光”とまったく同じだ」として名前を変更[59]したとする。
大田(テジョン)の鶏足山(ケジョクサン)の地名はもと鳳凰山(ポンファンサン)だったが、鳳凰を鶏(ニワトリ)に「格下げ」し鶏足山にしたとする。
宗教政策
[60]李朝では崇儒抑仏政策により仏教が抑圧され、民衆は風水、巫覡、祭祀などの民間宗教や、儒教・仏教・道教の流れを汲む新興宗教に傾斜していた[61]。
その代表的な教義に「後天開闢」があり、天が直接光臨する時代が到来し、理想郷の地上天国が実現されるとする思想である。
江華島事件から19世紀末頃の情勢はこのようなものであり、キリスト教はすでに朝鮮半島に渡来していたが李朝はあへんと同じようなもの[63]と警戒しており[64]本格的な宣教が始まるのは1884年に長老派の医師Allenの朝鮮入国以降とされる[65]。
朝鮮におけるキリスト信者の成長率は世界のキリスト教宣教史上類まれなものであり、1895年に公称1590人の信徒が1910年には22万6791名に達した[66]。
神道は日本人居留民によりわずかに保持されているのみであり、明治初期に朝鮮宣教に乗り出したのは真宗大谷派などの仏教会である[67][68]。
朝鮮神社が設置されたのは併合から遅れること15年後の1925年であり、それ以前には朝鮮半島に社格をもつ神社はなかった。
朝鮮総督府が神社・神祠制度を確立するために法令を整備したのは1938年8月であり、神社参拝を公然と求めはじめたのは1937年以降である。
総督府による「宗教への介入」は直接的には合理的な利害を目的とした、朝鮮統治の警察権にもとづいた介入と懐柔融和策であった。
宗教団体は抗日活動における特異な位置を占めた。
キリスト教や仏教は朝鮮軍内の同調者により保護され、しばしば治外法権的地位を占め抗日活動家を保護した。
キリスト教教会はアメリカなど海外の所有施設であるとみなされ東学党の乱や日清戦争のさいに民衆の保護所となった。
日本軍の中にも篤実なキリスト教信者がおり教会員や財産の保護を約束した[69]。
仏教寺院は李朝の政策により抑圧されていた影響から人里離れた山奥に点在していたが、真宗大谷派など布教の成果もあって朝鮮の仏教寺院の多くは日本の仏教教団の末寺となっており保護を受けていた。
これらの末寺は1907年の大韓帝国国軍の解体以降の義兵運動の根拠地として格好の隠れ家となった[70]。
朝鮮総督府は抗日活動を取り締まるためキリスト教や仏教などを統制する必要があり、一方で帝国憲法に規定された信教の自由の制約から介入と懐柔を繰り返さざるを得ない状況にあった。
1911年に起きた105人事件を口実とした宗教弾圧においてはアメリカ人宣教師により世界に報道され国際世論が日本の司法制度を厳しく批判した[71]。
キリスト教教会は朝鮮人知識層を大量に受け入れ、民衆を動員した大規模な抗日・独立運動を展開した(→三・一独立運動)。
当時の朝鮮総督の斎藤実は、当初は三・一独立運動を鎮めるべく騒擾中に宣教師たちと会合を持ち、彼らを懐柔しようとしていた[72]が、1920年に入って方針を転換し[73]、キリスト教会が三・一独立運動の主要な組織者であったとして、キリスト教会への苛烈な弾圧を加えるようになった。
この弾圧によって、47の教会が破壊された。朝鮮京畿道水原(Keiki-do Suigen)の提岩里(Teiganri)教会では、閉じ込められた村人が教会ごと焼き殺された(提岩里教会事件)。
当時、朝鮮のクリスチャンは人口比で1.3%であったが、三・一独立運動で検挙された者のうちクリスチャンは17.3%であった[74]。総督府による苛烈な弾圧の模様は、中国に逃れた宣教師たちによって世界に報じられた。
神道の朝鮮半島への普及は進まず、1925年にようやく朝鮮神社が設置された。
この時、朝鮮神社にいかなる祭神を祭るかで論争(朝鮮神宮御祭神論争)が発生し、小笠原省三は「朝鮮神宮と内鮮融和」を取り上げて檀君の合祀を主唱した。
しかし総督府としては非公認宗教団体の中には檀君信仰をもつ教団もあり、民族運動勢力と結び付いたものと理解していた檀君信仰を認めることは不可能であり、鎮座祭直前の9月28日に京城本町警察署長から「一部学生」が「不逞計画」を立てているとの風説ありとの報告を上げ、総督府は神社界の主張を抑えて祭神論争に終止符を打った[75]。
1937年盧溝橋事件を期に日中戦争は全面化し、朝鮮における皇民化教育の一環として皇国臣民ノ誓詞が発布され、日韓合邦の実を挙げ帝国臣民化を図る目的として国家神道が利用され、神道非宗教説をもとにキリスト教会や仏教会は神社参拝が強要された[76][77]。
1938年前後から朝鮮各地に官幣神社が増設されてゆき「皇国臣民化」「内鮮一体」の重要な役割を担うようになる[78]。
キリスト教は一神教であり、キリスト教者にとっては他の神のために祈ることは、今まで築いた神との信頼関係を失うことであり受け入れがたいことであった[79]。
造林事業
1910年当時の朝鮮全体の山林面積は1585万ヘクタールで、全面積の71%に達していたが、木材資源を示す林木蓄積量は1ヘクタールあたり17立方メートルであり、2009年の韓国の16.5%水準に過ぎず、特に南部の海抜の低い低地帯では若い木と禿げ山が大部だった[80][81]。
朝鮮半島の造林事業は当初は河川保持などの砂防目的が主眼であり、地形調査の結果、朝鮮半島は花崗岩台地の山岳地帯で、緑が育ちにくいことが判明したことが始まりとされている。
森林が無ければ、降雨で土砂が流れ込み、農林業に影響を及ぼす。
1924年の京城日報によれば、造林事業は1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は個人の造林事業などを含めると約36万町、10億本に至ったと報告されている[82]。
造林方法は植林・接木や普通播種などもおこなわれたが、国有林制の導入などによる自然復元によるところが多い。
朝鮮半島北部では軍部が木材伐採事業を直接経営しており、ここでは当時の山林経営の常識として自然収奪(伐出)的側面のつよいものであった。
一方で保安林の確保や林道整備など評価される点も多いが戦争末期には朝鮮半島の造林事業は放置される傾向が強くなった。
大正8年 (1919年) | 大正9年 (1920年) | 大正10年 (1921年) | 大正11年 (1922年) | 明治44年以降累計 (1911年〜) | ||
---|---|---|---|---|---|---|
国費 | 面積 | 684 | 414 | 1046 | 655 | 5,012 |
本数 | 346 | 504 | 1,680 | 1,694 | 14,815 | |
地方費 | 面積 | 223 | 203 | 300 | 520 | 3,155 |
本数 | 1,051 | 729 | 1,612 | 2,940 | 14,267 | |
民営 | 面積 | 41,560 | 58,386 | 52,221 | 50,176 | 356,676 |
本数 | 117,807 | 156,720 | 143,949 | 145,564 | 1,029,622 | |
計 | 面積 | 42,467 | 59,003 | 53,567 | 51,351 | 364,843 |
本数 | 119,200 | 157,953 | 147,241 | 150,198 | 1,058,704 |
経済
「朝鮮は日本の脇腹に突きつけられた匕首だ」と云われ日本本土防衛の為の重要な要であり、また日本の中でも最も遅れている地域の一つであると政府は捉え、富国強兵政策に従い多額の国家予算を朝鮮半島に投じた。
鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など、最新鋭のインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島を近代化していった。
鉄道路線の路線は幹線ばかりでなく生活用の支線も多くが敷設され地方経済を活性化させた。
三菱製鉄(兼二浦製鉄所)や日本製鐵(清津製鉄所)による製鉄所の建設、日本窒素肥料(現:チッソ)の進出による水力発電所建設などが行われ、朝鮮総督府からの補助金による1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設、5億9千万本以上の植林や砂防ダム建設などの水利事業も行われた。
これは、それまでの欧米諸国による収奪的植民地政策には見られないものであった[83]。
1920から30年代の朝鮮半島の経済成長率は年間約4%で、同じ期間の欧州(1%台)や日本・アメリカ(3%)に比べて、より高い成長をしており、朝鮮半島1人当りの生産成長率も約2.4%と高い成長率を記録していた結果が出ている[84]。
他方、これらの開発工事において、主な労働力は当然ながら朝鮮人の中に求められた。
統治の前期においては賦役(無償労働)による工事なども行われており、過酷な負担であるとして3・1独立運動の原因の一つともなった[85]。
賦役の廃止後も、労働者の人権という概念の未発達と植民地人であるという要因などが重なり、朝鮮人労働者は多くの場合劣悪な環境に置かれた[86]。
李朝末期時点では大部分で道路の舗装などが行われていなかった京城(李朝時代の漢陽、現在のソウル)は、区画整理が行われ路面電車(ソウル市電)が走る都市となった。
衛生面では、生活面における衛生指導や集団予防接種が行われ、当時朝鮮半島で流行していたコレラ、天然痘、ペストなどの伝染病による乳児死亡率が減少し、平均寿命は24歳から56歳まで伸びた。
また農地の開発や農業技術の指導により食糧生産量も激増したことで、人口は併合時(1910年)の調査では13,128,780人[87]、1944年の調査では25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた[88][89]。
総督府は土地所有者の調査を実施し、所有者のいない土地は接収して東洋拓殖に買い取らせ、日本人移住者や朝鮮人有力者に分配した。
総督府が接収した農地は全耕作地の3.26%ほどである[90]。
李朝末期の朝鮮は道路、農地、山、河川、港湾などが荒廃しており、民衆は官吏・地主・両班に高利貸(トンノリ)による収奪を受けていた。
そのため日本が朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合もつくったことで、農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、朝鮮人農民に多大な利益をもたらすようになった。
また、水利組合の設立により安心して農耕ができるようになった[91]。
大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで多額の利益を得ていた。
その代表的な人物がサムスングループの創始者である李秉喆である。
彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に1938年に大邱にて三星商事を設立し、これがのちのサムスングループに発展していった[92]。
このように農地が新たに開墾され、水利事業によって生産能率が向上したことにより、食糧生産は年々増加し、併合前の1909年には745万7916石であった収穫高は、1918年には1529万4109石と2倍以上になったが、
米の多くが日本(内地)に輸出されたため朝鮮人1人当たりの米の消費量は1919年~1921年の平均0.68石(米1石は約150kg)に対して、1932年から1936年にかけては0.40石まで減少した[93]。
この状況を指して、「飢餓輸出」と呼ぶ研究者もいる[94]が。逆に全相仁らの研究によると日本時代の米の消費量は平均0.58石の水準を保ち、後半期にはむしろ消費量が若干増加している。
また朝鮮経済全体で見た場合、米以外の雑穀が大量に輸入されており、高価な米を売った代金で安い雑穀をより多く購入することで増加する人口を養っていたと考えられる。
「私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、教育されたものだ」としており
「食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくもの」と述べている[95][96]。
加えて、朝鮮人の身長が伸びていることから、少なくとも1920年代中頃までは「朝鮮人の生活水準が着実に向上していたのは明らか」である[97]。
一方で増え続ける人口を農村では吸収出来ず、京城などの大都市で労働者として生活の糧を求める人が出たが、都市でも産業が未発達で人口を十分に吸収することが出来ず、火田民となるもの、職を求めて日本や満州に渡航した者が数多く出た。
京城等における農村出身の労働者層の中には都市周辺部に粗末な小屋を建てたスラム街を形成し、「土幕民」と呼ばれるものも存在した[98]。
植民地近代化という性質上、この時期の朝鮮における経済発展の成果は多くが資本を出した在朝日本人や日本企業に分配され、朝鮮人(とりわけ農村部)への分配度は低く、日本人と現地人たる朝鮮人の間の所得格差も非常に大きなものがあったとされるが[99]、李栄薫によれば、それも市場を通じた商行為にすぎず[96]、利益を得ていた朝鮮人も存在し統治時代後期には多くの朝鮮人資本家が存在した。
朝鮮では株式会社に殆ど馴染みがなく朝鮮総督府は詐欺行為が多発するのを警戒して1910年に会社令を公布し株式会社を届出制でなく許可制とした。
1910年従業員5人以上の工場は朝鮮人経営39に対して日本人経営は112であったが1939年には朝鮮人経営4,185に対して日本人経営2,768と工場数が増加する一方で比率は逆転していた。
ただし、1939年においても規模が大きくなるほど日本人による経営が多かった[100]。
2004年、ソウル大学は、1911年から1937年にかけての朝鮮における産業構造の変化が、第1次産業で75%から45%、第2次産業で7%から22%、第3次産業で18%から33%にそれぞれ上昇し、資本経済化が急速に進んだこと、1912年から1937年にかけての年平均実質GDPが4.10%、実質GDEが4.24%の成長(同時代の日本本土やアメリカは3%台、欧州は1%台)をなしており、世界恐慌下においても飛躍的な成長を遂げていたとの調査結果を発表した[101]。
韓国や北朝鮮では、現在も朝鮮の資本主義の萌芽を李氏朝鮮時代に求め、
「芽生えた朝鮮の資本主義は成長する前に日韓併合による植民地化によって1945年まで大きく抑制されていた」という説が通説として流布されている。
これに対し、ハーバード大学教授で朝鮮史が専門のカーター・J・エッカートは、研究の結果、李氏朝鮮時代の経済規模は同時代の日本や中国と比べて小さく、当時の商人と後の時代の資本家とのつながりがほとんど無いため、資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、上記のような日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものであると発表している[102]。
人口推移
- ※李氏朝鮮による調査は徴税を目的としているため申告式であり、身分と収穫率にしたがって軍役と無関係な一部の女子、賎・奴などの疎外層は申告から除外されたり漏らされたりしているので、実際は調査結果の1.3倍程度の人口があった可能性がある。そのため、日本統治時代以前の戸籍調査は推測である可能性がある。
西暦 | 朝鮮半島居住の朝鮮人 | 1904年との対比(日韓併合時を100とする。しかし、1904年の李氏朝鮮時代の戸籍調査は正しいとは限らない。) | 備考 |
1753 | 730万人 | 102 | |
1850 | 750万人 | 105 | |
1864 | 802万人 | 113 | |
1876 | 804万人 | 113 | |
1885 | 897万人 | 126 | |
1891 | 788万人 | 110 | |
1904 | 710万人 | 100 | 日露戦争(1904年~1905年)*ここまでは李氏朝鮮による調査 |
1907 | 1167万人 | 164 | 2年前(1905年)に日本の保護国になる。(第二次日韓協約)*これより日本(韓国統監府および朝鮮総督府)による調査 |
1910 | 1313万人 | 184 | 韓国併合 |
1911 | 1383万人 | 194 | |
1912 | 1413万人 | 200 | |
1913 | 1517万人 | 213 | |
1914 | 1562万人 | 220 | |
1915 | 1596万人 | 224 | |
1916 | 1631万人 | 229 | |
1917 | 1662万人 | 234 | |
1918 | 1670万人 | 235 | |
1919 | 1678万人 | 236 | 三・一事件 |
1920 | 1692万人 | 238 | |
1921 | 1706万人 | 240 | |
1922 | 1721万人 | 242 | |
1923 | 1745万人 | 245 | |
1924 | 1762万人 | 248 | |
1925 | 1854万人 | 261 | |
1926 | 1862万人 | 262 | |
1927 | 1863万人 | 262 | |
1928 | 1867万人 | 262 | |
1929 | 1878万人 | 264 | |
1930 | 1969万人 | 277 | |
1931 | 1971万人 | 277 | |
1932 | 2004万人 | 282 | |
1933 | 2021万人 | 284 | |
1934 | 2051万人 | 288 | |
1935 | 2125万人 | 299 | |
1936 | 2137万人 | 300 | |
1937 | 2168万人 | 305 | |
1938 | 2195万人 | 309 | |
1939 | 2210万人 | 311 | |
1940 | 2295万人 | 323 | |
1941 | 2391万人 | 336 | |
1942 | 2553万人 | 359 |
通貨
日本円と等価の朝鮮圓(円)が朝鮮銀行より発行されていた。この通貨は内地(日本本土)では使用できなかったが日本銀行の円との等価交換が保証されていた。
この節の加筆が望まれています。 |
主な銀行
- 本店あり
- 支店のみ
交通
鉄道
朝鮮半島での鉄道は、李氏朝鮮から日本が「日韓暫定合同条款」に基き鉄道敷設権を1894年8月20日に得て、鷺梁津(漢江西岸)~済物浦間の鉄道を1899年に開通させたことに始まる。これは後に京仁線となった。
1905年には京釜線が全通、翌1906年には日露戦争の軍事輸送を目的として京義線を日本が全通させた。
京釜線・京義線は日露戦争後に日本が得た南満州鉄道(満鉄)への接続を図り、大陸進出の足がかりとしての役目を担うようになっていき、1910年の韓国併合で日本が朝鮮の統治権を得ると、京元線や中央線・湖南線などを敷設した。
路線数が少なかった1925年(大正14年)までは、朝鮮での鉄道経営を一体化する目的で南満州鉄道に委託したこともあったが、その後は朝鮮総督府の直轄の朝鮮総督府鉄道となって、地域経済の発展や住民の足を確保するために多くの路線が建設されていった。
朝鮮総督府鉄道は朝鮮への観光客の誘致にも力を入れ、朝鮮ホテルなどの西洋風ホテルの建築も行った。
また、朝鮮王朝末期には大部分で道路の舗装などが行われていなかった京城は区画整理が行われ、路面電車が敷設された。
自動車
乗合自動車やタクシーが走っていた。
船
日本内地と朝鮮の間には、関釜連絡船(釜山・下関間)を始めとする多くの航路が運航されていた。
航空
日本のフラッグ・キャリアの日本航空輸送(とそれを引き継いだ大日本航空)が日本内地から釜山、蔚山、京城などの間を結んだほか、満州国の満州航空が乗り入れていた。朝鮮独自の航空会社は存在しなかった。
日本内地との関係
朝鮮人の日本内地への移入
李氏朝鮮時代から貧しかった南朝鮮から多くの朝鮮人が日本に移入した[9][10]。
日本への渡航には渡航証明書が必要だったが[105]、多くの朝鮮人が日本内地へ密航した[106]。多くの密航業者が密航を斡旋し、巨万の富を築いた[105][107]。
2,000人を密航させた密航業者は一万数千円を荒稼ぎして妾を10人抱えるほどであった[107]。
密航は1930年代に入ると激増し、毎日のように摘発されるようになった[106]。このため、1934年には岡田内閣は朝鮮人の密航の取り締まりを強化するために「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定したがその後も密航は増加していった[9][10][106][108]。
余りの密航の多さに日本政府は渡航制限を緩和したが[109][110]、渡航条件を満たさないものたちによる密航は止まらなかった[110]。第二次世界大戦中にも密航が行われており、密航朝鮮人が検挙されている[111]。
朝日新聞の取材によって遠賀工業所で雇われていた朝鮮人鉱夫が高待遇で雇用されていたことが明らかにされている[112][113]。一方で旅費負担や高賃金などを謳った甘言募集に乗せられ、低賃金の中で宿代や食費など様々な名目で天引きされ、実際に自由に使える金額はほとんど無かったとする主張もある。[114][115] 。
1944年9月から1945年3月にかけては国民徴用令により徴用された朝鮮人が渡航した[116]。
1951年に講和条約が締結され連合軍による占領が終了すると日本に在留していた朝鮮人は朝鮮籍となり、1948年に建国された韓国の国籍を取得する者もいた。
朝鮮から渡航した人々の多くが九州、中国、近畿地方に在留していたため、戦後に韓国から密航した朝鮮人もこれらの地方に住む場合が多かった。
在日1世2世の中には朝鮮総督府による土地調査事業や日本軍などによる食料の収奪(徴用・供出)などにより生活に困窮し、日本に来たのだと主張する者もいる[117]。
朝鮮人の政治参加
1910年の大韓帝国の併合により大韓帝国の統治権は日本国皇帝に譲与され、大韓帝国により編纂されていた戸籍は日本国政府が担任することとなった。
朝鮮は併合の経緯から大韓帝国を日本国皇帝が譲与され統治することとなったため、「併合」(併合条約2条)とはしたものの、一つの帝国のもとに二つの国家が存在するかのような状態であり、なおかつ連邦的なものではなく保護国・被保護国を前提とした従属的国家結合にとどまり、選挙法など統治関連法は内地のものは直接適用されなかった。
併合条約締結の直後である1910年8月29日には韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件(明治43年勅令第318号)が発せられ即日施行されている。
朝鮮人は「帝国臣民」に編入され、日本人の朝鮮移住も進んでおり1910年12月末時点で朝鮮在留日本人は50,992戸(171,543人)に上っていた。
併合後の朝鮮統治は朝鮮総督府が直裁しており、朝鮮在住の「協力的朝鮮人」はむろん、在朝日本人さえ朝鮮半島における政治への参政権をもっていない状況にあった。
1913には日本人社会の居留民団が解体され、事実的な自治権は剥奪された。
1920年代以降の協力的朝鮮人を含む植民地朝鮮での参政権問題は政治的課題となり、ひとつの方法として日本国内の縁故地で衆議院議員として選出をめざし「植民地政策決定過程」に介入する手段を目指した[118]。
朝鮮半島では1931年に制限選挙による地方議会が開設された[119]が、議会選挙などの政治参加は戦争体制のため事実上凍結された[120]。
朝鮮人も帝国臣民の地位が付与されたため、内地に居住していれば参政権・被参政権とも認められており(→1925年普通選挙法)衆議院選挙に参加することは可能であった。
それまでは内地の選挙区からしか出馬できなかったが、1945年(昭和20年)4月1日に改正された衆議院議員選挙法によって台湾と朝鮮にも帝国議会の議席が与えられ、選挙によって外地からも衆議院に議員を送ることが出来るようになった。
ただし有権者は1年以上直接国税15円以上の納税という制限が課されており普通選挙ではなかった。
また議席数は、衆議院の定数466に対し台湾5名、朝鮮22名とされた。
また1943年(昭和18年)に内地に編入された樺太でも同時に3名の議席が認められた。しかし敗戦のため実施されずに終わった。
また貴族院でも台湾と朝鮮から勅撰議員を選出することが決められ台湾、朝鮮から合わせて10名の議員が選出された。
そのほか地方議会の議員を務めたり、中央官庁や地方公共団体に勤務する者もいた[121]。
その外にも多数のロビイストが「朝鮮通」として朝鮮統治に関するあらゆる法案や議案について提言をおこなっていた[122]。
1933年5月11日の朝鮮朝日(朝日新聞の外地版)によれば、朝鮮の13の道(日本で言えば「都道府県」)の当選議員のうち、約80%が朝鮮人となっている。
朝鮮人の独立運動
義兵闘争[123]などに見られるように、併合以前から日本の朝鮮支配計画に反抗する朝鮮人の運動は存在していたが、第一次世界大戦終結後にはアメリカ系キリスト教会の宣教師によりアメリカ大統領ウィルソンの提唱する民族自決理念が伝わり、更に高宗の死によって朝鮮人の独立要求は高まった。
1919年には三・一独立運動が起こって大規模な暴動にまで発展し、朝鮮中を巻き込んだ。
この独立運動は約一年間続き、暴動と総督府側による取締りによって多くの死傷者がでた(運動家に殺害された者も多い)。
事件直後に行われた調査結果を記した資料によれば、8,437人が逮捕された。
逮捕者への刑罰は主犯でも最高で懲役3年以下という軽いものであった。
死者数は553人(運動家に殺されたものも含む)、負傷数は1,409人である。
当時上海に亡命中の朴殷植は『韓国独立運動之血史』に46,948人が逮捕され、7,509人が死亡し、15,961人が負傷したと記している[124][125][126]。
女学生・柳寛順(ユ・ガンスン)は三・一独立運動を扇動した罪で投獄・拷問され16才で殺された[127]とされ、しばしば日本の蛮行についての象徴的物語として扱われることがある。なお柳寛順の物語には誇張が多く史実の裏づけに乏しいとの批判がある[128]。
三・一独立運動時、暴徒と化した民衆によって警察署・村役場・小学校などが襲撃され、放火・投石・破壊・暴行・殺人が多数行われている。
こうした暴動を鎮圧し治安を維持する為に武力を使うことはどこの国でも普通に行われることであるとする意見も存在する[129]。
こうした中、いくつかの悲劇が発生した。
最も有名な堤岩里事件は4月15日に小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑で堤岩里の成人男性住民30余名を教会堂に集めたところ、取調べ中に容疑者1名が逃げようとし憲兵に斬殺され、それを見た他の容疑者が暴徒化した為に全員が射殺され、放火などにより15村落317戸が延焼し、39人が死亡した事件である。
その違法性については日本側も認識していたらしく
「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコトヲ確メタリ。…之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上部に報告している。
三・一独立運動は大韓民国臨時政府樹立のきっかけとなり、また満州や沿海州を拠点とし、中朝国境では抗日ゲリラ組織の活性化にもつながり1920年の尼港事件のように日本軍を全滅させることもあった。
一方総督府も、過酷な統治だけでは植民地体制を持続させることはできないとして、文治政治と呼ばれる一連の懐柔策を打ち出した。朝鮮における憲兵警察制度は廃止され、限定的ながら言論や結社の自由が与えられた。
三・一独立運動後に活発となった満州や沿海州における朝鮮独立を掲げた抗日ゲリラは国境地帯で、良民や官公吏への襲撃・殺害といったゲリラ行為を繰り返すようになり、ついには1920年10月に満州の琿春で、馬賊の襲撃により、領事館警察署長を含む日本人13人が殺害される事件(間島事件)が発生した。
これにより総督府は中国側と折衝して吉林省都督から作戦の許可を取り付け、ゲリラ掃討を開始した(青山里戦闘)。
彼らが潜んでいるとされた村に対する焼き討ちや村民処刑なども含む態度で臨み、キリスト教の宣教師などからの抗議を受けたこともあるが、徹底的な討伐戦の結果、抗日ゲリラのほとんどはソ連領内へと逃げ込み中朝国境からは一時姿を消した[130]。
朝鮮人武装勢力は1921年6月28日にはスヴォボードヌイにいたが、ロシアの赤軍と衝突しほとんどが壊滅した(自由市惨変)。その後、1937年に普天堡が襲撃される事件も起きている。
大韓民国臨時政府の主張では第二次世界大戦において、1941年12月9日に連合国側に立ちドイツと日本に対して宣戦布告を行い、軍事部門である朝鮮解放軍は東南アジアの一部や中国等で中国共産党や国民党の軍隊に加わり、日本軍との戦闘に参加したという[要出典]。
しかし具体的にどのようにして宣戦布告を行ったかも不明であり、宣戦布告も戦争相手国には伝わっておらず、大韓民国臨時政府が組織的に日本軍と戦闘した記録は見つかっていない。そのため戦後に韓国が「戦勝国」として国際的には認められることはなかった [131]。
行政
総督府は朝鮮半島の行政・司法・立法をすべて総覧し、朝鮮半島駐留の日本軍の統率・防備権限を付与されていた(朝鮮総督府官制3条)。
総督府は鉄道や通信事業を経営し朝鮮銀行の監督権を有した(1924年まで)。
また林野事業(営林廠)や専売事業(タバコ・塩・朝鮮人参)などを経営していた。
朝鮮十三道には道長官(1919年から知事)が任命されそれぞれの支所で行政任務に従事した。
総督府令により1年以下の懲役もしくは禁錮、拘留、200円以下の罰金または科料の罰を課すことが認められていた(4条)が、それ以上の罪過あるいは総督府令によらない法令については日本内地の制定法による必要があった。
政務のすべては内閣総理大臣を経て天皇に直接上奏すれば良い(3条)とされたが、実際の実務は拓務省や内務省など内地行政機関の依命通牒[132]に従うことが多かった。
李氏朝鮮時代の朝鮮八道は高宗32年(1895年)に二十三府となり、続く高宗33年(1896年)に制定された十三道制を引き続き行政区画とした。
また、これら13道の下には府・郡が置かれ、郡の下に邑・面が置かれた。なお、13道は内地の都庁府県に、府・邑・面は内地の市町村にそれぞれ相当する。
警察
1905年(明治38年)11月、韓国統監府に警察を設置。1910年(明治43年)7月、大韓帝国より警察権の全面委託を受け、中央に警務総監部、地方に警務部を置いた。
このときに憲兵警察制度も採用した。一般警察と憲兵が同一の地域に混在していたわけではなく、フランスのフランス国家憲兵隊(ジャンダルムリ)のように担当の地域が決まっていた。軍警の地域分担は、おおむね以下の通りであった。
- 一般警察 - 鉄道沿線、港、都市部
- 憲兵 - 軍事上枢要の地、国境、一般警察が整備されていない地域
1910年(明治43年)8月韓国併合。この年、「憲兵警察」と「一般警察」を合わせた人数は、7712名(その内、朝鮮人は4440名)。うち「憲兵警察」は2019名(その内、憲兵補助員としての朝鮮人が1012名)であった[133]。
1915年(大正4年)3月、中央の警務総監部直轄だった京城府の警察事務を京畿道警務部に移譲。1919年(大正8年)3月、三・一運動が起こる。
同年8月には警務総監部を廃止し、警務局を置く。地方の道に警察権を移譲し、道庁に警察部を置き、また、三・一運動後、朝鮮総督府の「武断統治」に批判が高まったこと、日本の警察制度としては異例の形態であったことから憲兵警察制度を廃止した。
警察組織や道知事職は三・一運動後人気が高まり、例えば1922年の巡査職の競争率は約2.1倍水準だったが、文化統治が本格化した1920年代中盤以後は競争率が10倍を上回った[134]。
1945年(昭和20年)8月の終戦により、朝鮮総督府は解体され、朝鮮総督府警察は南北朝鮮の国家の警察に引き継がれた。
軍事
年次 | 志願者 | 合格者 | 志願倍率 |
1938 | 2,946 | 406 | 7.3 |
1939 | 12,348 | 613 | 20.1 |
1940 | 84,443 | 3,060 | 27.6 |
1941 | 144,743 | 3,208 | 45.1 |
1942 | 254,273 | 4,077 | 62.4 |
1943 | 303,394 | 6,300 | 48.2 |
合計 | 799,201 | 17,664 | 45.2 |
日露戦争を機に大韓帝国に駐留した韓国駐剳軍(ちゅうさつぐん)を前身とし、明治43年(1910年)の韓国併合に伴い朝鮮駐剳軍に名称変更、大正7年(1918年)に朝鮮軍となった。
司令部は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の京城府龍山(現・ソウル特別市龍山区)に移転した。
1937年に日中戦争が勃発すると、朝鮮人からも志願兵を募集[14]、1942年に行われた朝鮮出身者に対しての募兵では募集4,077名に対し、254,273名の朝鮮人志願兵が集まり、倍率は62.4倍に達した[15]。
ほか軍属として戦地に赴いた者も存在した。1944年4月の法改正によって1944年9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は1945年1月から7月の間に限られたため、訓練期間中に終戦を迎え、実戦に投入されることはなかった[17]。
昭和20年(1945年)2月、戦況逼迫に伴い第17方面軍が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。
この節の加筆が望まれています。 主に: 統治時代に朝鮮に存在した軍事・警察組織についてまとめるための節 |
文化
名産品
朝鮮の白菜、山七面鳥(野雁)、金剛山の岩茸、光洲の林檎、大邱の梨が嘉物として評価されていた[137]。
また、白頭山特産のツルチュク(クロマメノキ)飲料水が高評価を得ていた。
文学
映画
演劇
舞踊
崔承喜が世界的に活躍した。
音楽
日本の演歌と酷似したトロットが流行した[138][139]。
美術
高羲東(ko:고희동)や金観鎬(김관호)が日本に留学して洋画を学び、朝鮮に洋画をもたらした。
朝鮮総督府が朝鮮美術展覧会(鮮展)(ko:조선미술전람회)を開催した。
スポーツ
孫基禎が、ベルリンオリンピックのマラソンに日本代表として出場し、金メダルを獲得した。
放送
社団法人朝鮮放送協会が日本語と朝鮮語の両方でラジオ放送をしていた。
流行
名前
旧来の命名習慣が廃れていき、京城においては日本内地のように女性に「何子」と名づけるようなことが一般的となった[140] (史美子、金明子、李敬子、李光子、李美子、李民子など)。
飲料
大日本麦酒と地元資本の共同出資により朝鮮麦酒 (現ハイトビール)が設立された。また、麒麟麦酒子会社として昭和麦酒 (現OBビール)が設立された。朝鮮麦酒と昭和麦酒により、朝鮮でビールが普及した。
スパイ
北鮮の国境地帯では、豆満江(図們江)を挟んで、日ソのスパイ戦が行われていた[141]。
行楽地
交通の発達によって、行楽地への関心が広まった[142]。
- 花名所
|
|
|
- 海水浴場
|
|
|
|
- 水郷
|
|
|
|
- 新緑と紅葉の名所
|
|
|
- 温泉
|
|
|
|
- 登山
- スキー場
|
|
|
- キャンプ場
|
|
|
|
年表
日本統治前
- 1860年 - (オランダ領東インドの問題を描いた小説「マックス・ハーフェラール」がオランダで出版される。英語版は1868年、日本語版(朝倉純孝訳)は1942年2月に出版されている。)
- 1862年 - (フランスの植民地サイゴンでフランス語のみが公用語化され、漢字の代わりにラテン文字を元にしたクオック・グーの導入も開始、1887年のフランス領インドシナ成立後も続く)
- 1876年 - 日朝修好条規締結、釜山港開港
- 1878年6月 - 第一国立銀行が釜山浦支店を開設[143]
- 1879年8月 - 釜山商法会議所設立、1893年1月に釜山港日本商業会議所へと改名、1908年に釜山商業会議所へと改名[144]
- 1880年5月 - 日朝修好条規に基づき元山港開港
- 1880年5月 - 第一国立銀行が元山に出張所を開設[143]
- 1880年5月23日 - 元山に総領事館を開設[144]
- 1881年1月14日 - 元山に港会議所を設立、10月23日に居留民総代役所と商法会議所に分かれる。商法会議所は1891年に在元山日本人商業会議所へと改名、1893年に元山日本人商業会議所へと改名[144]
- 1882年8月30日 - 日朝修好条規続約締結、日本の公使館員が朝鮮各地に行けるようになり、その後、特命全権公使と韓国外部大臣の交渉によって開市場や居住地を広げていく。
- 1883年1月 - 日朝修好条規に基づき仁川港開港、仁川日本人商業会議所設立[144]
- 1883年3月 - 日朝間海底線敷設に関する条約を締結[145]
- 1883年11月 - 第一国立銀行が仁川に出張所を開設、1888年には支店に[143]。
- 1883年 - 第一国立銀行が釜山・元山・仁川で海関税収納事務の取扱を開始[143]
- 1886年 - (イギリス領インド帝国で後期中等教育開始)
- 1887年2月 - 在留邦人によって京城に商業議会が設立され、1892年4月に京城日本人商業会議所へと改名[144]
- 1888年 - 第一国立銀行が京城に出張所を開設
- 1890年9月12日 - 商業会議所条例が公布される (朝鮮内の商業会議所もこの条例に準じた定款で領事の許可を得て設立している[144])
- 1891年 - 帝国生命保険(現朝日生命保険)が釜山に代理店を設置
- 1894年 - 甲午農民戦争(東学党の乱)が発生、政府軍と褓負商の商兵[146]が東学軍と戦う
- 1896年 - 第一国立銀行が第一銀行になる。
- 1899年6月 - 仁川米豆取引所設立
- 1900年 - 平壌日本人商話会設立するも1904年に解散、1907年に平壌日本人商業会議所設立するも1909年に解散、1911年に平壌実業協会設立[144]
- 1901年 - (オランダ領東インドで倫理政策が始まる)
- 1902年 - 釜山に日本商品陳列所設立[144]
- 1902年 - 在鮮日本人商業会議所を統合して、商業会議所朝鮮総合会設立[144]
- 1902年 - 第一銀行が日本銀行券に交換可能な第一銀行券を発行開始
- 1904年 - 釜山に商品陳列館建設[144]
- 1905年 - 第一銀行券が韓国政府公認となる
- 1905年 - 朝鮮人によって京城商業会議所設立[144]
- 1905年5月28日 - 京釜鉄道開通式
- 1905年11月17日 - 第二次日韓協約(乙巳保護条約)締結
- 1906年 - 釜山で日韓博覧会開催[144]
- 1906年2月1日 - 韓国統監府設置
- 1906年12月7日 - 大邱日本人商業会議所設立、1910年9月に大邱商業会議所へと改名[144]
- 1907年6月25日 - ハーグ密使事件
- 1907年7月20日 - 高宗退位、純宗即位。翌年にかけて日本軍は反日義勇軍1万4千人との1,774回の戦闘を行った。
- 1907年8月1日 - 韓国軍解散
- 1908年4月1日 - 韓国標準時制定
- 1908年10月 - 仁川に朝鮮人商業会議所が設立される[144]
- 1908年9月 - 朝鮮皇室博物館(現韓国国立中央博物館)設立
- 1908年12月18日 - 東洋拓殖会社設立
- 1909年7月6日 - 日本、韓国併合方針を閣議決定
- 1909年10月 - 韓国銀行条例に基づき韓国銀行設立、第一銀行の中央銀行業務を引き継ぎ、金貨と日本銀行券に交換可能な韓国銀行券発行
- 1909年10月26日 - ハルビンで伊藤博文が暗殺される
- 1909年12月4日 - 韓国の一進会より「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が提出される
- 1910年3月14日 - 土地調査事業開始
- 1910年6月30日 - 憲兵警察制度発足
日本統治時代
- 1910年8月22日 - 韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)調印
- 1910年8月29日 - 朝鮮総督府設置
- 1911年 - 朝鮮銀行法に基づき、韓国銀行が朝鮮銀行に。
- 1911年5月1日 - 褓負商本部が設立される[146]
- 1911年8月23日 - 第一次朝鮮教育令。国語を日本語にする。
- 1912年1月1日 - 標準時を韓国標準時から日本標準時に変更
- 1912年4月 - 普通学校用諺文綴字法が確定
- 1914年3月1日 - 地方行政区画改正(府・郡・面制)
- 1915年10月1日 - 朝鮮商業会議所令施行、各地の日本人の商業会議所と朝鮮人の商業会議所が合併されていく。
- 1915年12月1日 - 朝鮮皇室博物館が朝鮮総督府博物館に改名
- 1916年11月 - 親日団体の大正親睦会が設立される
- 1918年9月19日 - 第一回朝鮮商業会議所総合会開催
- 1919年1月21日 - 高宗死去
- 1919年3月1日 - 三・一独立運動始まる。褓負商復興の機会として、褓負商団(商務研究会、総商社、総商協会、商務社)が鎮圧に協力[146]。
- 1919年8月12日 - 斎藤実、第3代総督に就任
- 1919年8月20日 - 憲兵警察制度廃止
- 1919年10月5日 - 金性洙、京城紡織株式会社設立
- 1920年3月5日 - 朝鮮日報創刊
- 1920年4月1日 - 東亜日報創刊
- 1920年5月 - 京城株式現物取引市場(京取市場)設立、8月15日より開業
- 1920年12月27日 - 総督府、産米増殖計画立案
- 1921年 - 朝鮮産業調査委員会設置
- 1922年5月 - 第1回朝鮮美術展覧会開催
- 1925年4月 - 朝鮮総督府図書館開設 (現韓国国立中央図書館)
- 1926年4月1日 - 京城帝国大学開設
- 1927年2月16日 - 社団法人京城放送局、ラジオ放送開始
- 1927年5月2日 - 朝鮮窒素株式会社設立
- 1928年1月 - 商工会議所法施行
- 1929年9月12日 朝鮮博覧会開催 ( - 10月31日)
- 1929年10月 - (世界恐慌)
- 1929年11月3日 - 光州学生事件( - 1930年3月)
- 1930年5月30日 - 間島共産党暴動
- 1930年 - 諺文綴字法制定
- 1931年1月8日 - 愛国団員・李奉昌、東京で天皇暗殺未遂事件(桜田門事件)
- 1931年4月29日 - 愛国団員・尹奉吉、上海爆弾テロ事件(上海天長節爆弾事件)
- 1931年7月2日 - 万宝山事件
- 1931年7月3日 - 朝鮮排華事件
- 1931年9月18日 - 満州事変勃発
- 1931年11月2日 - 朝鮮取引所令施行、仁川米豆取引所と京城株式現物取引市場が合併して朝鮮取引所に。
- 1932年 - 朝鮮総督府が農村の自力更生運動を唱道[147]
- 1932年 - 朝鮮総督府が北鮮開拓事業に着手
- 1932年4月7日 - 社団法人京城放送局、社団法人朝鮮放送協会に改組
- 1932年7月21日 - 新興満蒙博覧会が京城府で開催 ( - 9月8日)
- 1933年5月13日 - 朝鮮産業懇談会開催 ( - 14日)
- 1934年7月1日 - 石油業法施行
- 1935年6月25日 - 朝鮮石油設立
- 1935年4月20日 - 朝鮮産業博覧会開催 ( - 6月10日)
- 1936年 - 鮮満拓殖設立
- 1936年8月9日 - 孫基禎、ベルリンオリンピックマラソンで優勝
- 1937年 - 朝鮮重工業(現韓進重工業)設立
- 1937年 - 水豊ダム建設開始
- 1937年6月1日 - 金日成、普天堡襲撃事件を起こす
- 1937年7月7日 - 日中戦争勃発
- 1937年10月2日 - 「皇国臣民の誓詞」制定。
- 1938年2月26日 - 陸軍特別志願令公布
- 1938年3月4日 - 朝鮮教育令改正、朝鮮語の授業必須から外れる
- 1940年2月11日 - 創氏改名実施
- 1940年8月 - 朝鮮映画令施行
- 1941年3月31日 - 国民学校規定改正、朝鮮語の授業廃止
- 1941年12月8日 - 太平洋戦争勃発
- 1942年10月1日 - 朝鮮語学会事件
- 1944年4月1日 - 第1回徴兵検査開始
- 1944年8月23日 - 女子挺身隊勤労令公布
- 1945年8月9日 - ソ連対日参戦、豆満江を越える。
- 1945年8月13日 - ソ連軍、清津府を占領。(実質的に日本の統治から外れた最初の街)
- 1945年8月15日 - 日本政府、ポツダム宣言受諾。呂運亨、朝鮮建国準備委員会(建準)結成
- 1945年8月21日 - ソ連軍、平壌府進駐
- 1945年8月25日 - アメリカ軍、仁川府上陸
- 1945年9月2日 - 日本政府、降伏文書(休戦協定)に調印
- 1945年9月6日 - 呂運亨らは朝鮮人民共和国の樹立を宣言
- 1945年9月7日 - アメリカ極東軍司令部、朝鮮における軍政を宣言(即時独立否認)
- 1945年9月9日 - 総督府、降伏文書に調印[148]。
朝鮮への首都機能移転計画
韓国国土開発研究院長・キョンウォン大学総長を歴任した金儀遠は、日本政府が朝鮮人を満洲に追放してソウルを日本の首都することが決められており、そのために朝鮮半島を開発したのであると、自身が発見したとする古文書を根拠に韓国中央日報で発表している[149]。しかし、当時の日本政府は、朝鮮人が日本内地に密航して治安を悪化させている状況を打開するために、朝鮮半島の開発に力を入れていたことが閣議決定文書で明らかにされている[9][10]。
日本統治時代の朝鮮を舞台にした作品
- 映画
- 将軍の息子 三部作(1990年 - 1992年)
- 愛の黙示録(1997年)
- ロスト・メモリーズ(2002年) - 21世紀の現代も日本統治が続いている設定の作品。
- マイウェイ 12,000キロの真実(2011年)
- 道〜白磁の人〜(2012年)
- テレビドラマ
- 演劇
- ソウル市民三部作(1989年 - 2006年)
- 小説
- 竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記(1986年) - 日本敗戦時の引き揚げ者の自伝。
脚注
- ^ 韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件(明治43年勅令第318号)
- ^ “今日の歴史(9月7日)”. 聯合ニュース. (2009年9月7日) 2010年4月9日閲覧。
- ^ “今日の歴史(9月9日)”. 聯合ニュース. (2009年9月9日) 2010年4月9日閲覧。
- ^ 韓国併合条約の解釈については、欧米の研究者、日本政府の見解ならびに日本側の研究者の大半の意見では「有効」「合法(不当)」、対して韓国・北朝鮮の多くの研究者ならびに日本の研究者の一部の意見では「無効」「不法不当」となっている。 海野福寿 韓国併合条約等旧条約無効= 日本の 「不法な」植民地支配論をめぐって, 駿大史学, 112号 (2001年3月), 91-108. 平野健一郎 「韓国併合再検討」国際会議について, 国際問題, 501号 (2001年12月), p.82-93. 海野福寿 「韓国併合条約等旧条約無効説と国際法―条約の形式と締結手続きについて」, 日本植民地研究, 第14号 (2002年6月), p. 21. 木村幹 「第3回日韓併合再検討国際会議―「合法・違法」を超えて」, 日本植民地研究, 第14号 (2002年6月), p. 34. 鄭昌烈 乙巳条約・韓国併合条約の有・無効論と歴史認識, 日韓歴史共同研究委員会報告書 (第1期 2002-2005年). 坂元茂樹 日韓間の諸条約の問題―国際法学の観点から, 日韓歴史共同研究委員会報告書 (第1期 2002-2005年). 岡田邦宏 韓国併合「無効説」の誤謬, 日本政策研究センター, 2006年6月14日.
- ^ 佐野通夫 『日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応』, 社会評論社 (2006/02). ISBN 978-4-7845-0288-2
- ^ 水田直昌監修『統監府時代の財政』122頁
- ^ 三・一運動の取締りについては、たとえば「すさまじい弾圧」(朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』三省堂、1974、215頁)や「民衆の蜂起と日本の弾圧」(姜徳相『呂運亨評伝1: 朝鮮三・一独立運動』新幹社、2002、165頁)、「激しい弾圧」(吉田光男編著『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学振興会、2004、140頁)という表現を用いている。対して名越二荒之助『日韓2000年の真実』(国際企画)等では「鎮圧」としている
- ^ a b “2013年3月8日衆議院予算委員会 質疑”. 中山成彬. 中山成彬 (2013年3月8日). 2013年3月13日閲覧。
- ^ a b c d “朝鮮人移住対策ノ件”. 内閣. アジア歴史資料センター (1934年10月30日). 2010年4月2日閲覧。
- ^ a b c d “朝鮮人移住対策ノ件”. 内閣. 国立国会図書館 (1934年10月30日). 2010年4月2日閲覧。
- ^ 「米国視察団の眼に映ぜる朝鮮」『朝鮮総督府調査資料』
- ^ 神戸正雄『人生と経済』
- ^ 賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動(PDF文書)
- ^ a b 大阪朝日新聞・南鮮版 1937年9月8日付
- ^ a b 1942年に行われた朝鮮出身者に対しての募兵では募集4,077名に対し、25,4173名の朝鮮人志願兵が集まり、倍率は62.4倍に達した(国立公文書館 アジア歴史資料センター 朝鮮及台湾ノ現況(本邦内政関係雑纂/植民地関係)レファレンスコード:B20020312847)
- ^ 当時は陸軍を中心に、「日本内地人の徴兵適齢者は枯渇しつつあり、朝鮮人を始めとする外地人も兵力の給源とせざるを得ない」とする意見が広まっており、朝鮮における徴兵制はその帰結であったする意見もある(宮田節子「朝鮮民衆と『皇民化』政策」、p102~p103
- ^ a b 水間政憲 『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』 徳間書店 2010/7/31 p188. ISBN 978-4-19-862990-8
- ^ 『朝日新聞』 1959年7月13日 2面『大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人』
- ^ “Japan forcibly mobilized 120,000 Koreans as laborers: panel” (英語). 聯合ニュース. (2009年1月30日) 2010年4月3日閲覧。
- ^ “日本による強制動員の被害者、約12万人を確認”. 聯合ニュース. (2009年1月30日) 2010年4月3日閲覧。
- ^ 3-B.慰安婦関連 平成25年3月8日予算委員会 中山成彰 2013年3月8日
- ^ (朝鮮語)“教科書フォーラムの安秉直、「慰安婦は自発的」妄言で波紋”. デイリー・サプライズ (2006年12月6日). 2008年12月9日閲覧。
- ^ ブルース・カミングス 『現代朝鮮の歴史 第3章』、(横田安司・小林知子訳、明石書店、2003年)
- ^ 高橋哲哉『歴史/修正主義』岩波書店、2001年、ⅲ頁
- ^ 田中明彦研究室. “ポツダム宣言(米、英、華三国宣言)”. 東京大学東洋文化研究所. 2010年4月10日閲覧。
- ^ 田中明彦研究室. “降伏文書”. 東京大学東洋文化研究所. 2010年4月10日閲覧。
- ^ “今日の歴史(12月6日)”. 聯合ニュース. (2008年12月6日) 2010年4月9日閲覧。
- ^ pp165-167 「わが引揚げ体験と昭和の歌 」五木寛之・藤原正彦 文藝春秋 2007年5月号
- ^ “朝鮮からの引き揚げ者、戦後映像発見”. アメリカ軍. 日本経済新聞社 (1945-). 2010年8月15日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 宮田節子『朝鮮民衆と『皇民化』政策』
- ^ a b p95 大韓民国の物語 李榮薫著 永島広紀訳 文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101
- ^ p95,96 大韓民国の物語 李榮薫著 永島広紀訳 文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101
- ^ a b c キム・ワンソプ 『親日派のための弁明』 荒木和博・荒木信子、草思社、2002年。ISBN 4-7942-1152-X。104頁
- ^ 私立学校は1910年の2225校から1918年に775校に減少した。また書堂(朝鮮の儒教的私塾)に関しては1918年に書堂規則を公布して、書堂開設には道長官の許可が必要なこと、朝鮮語など漢文以外の科目に総督府編纂教科書を使用しなければならないことを規定した(糟谷憲一『朝鮮史』p.281)。
- ^ 國分麻里 『植民地期朝鮮の歴史教育―「朝鮮事歴」の教授をめぐって』新幹社 2011/01 ISBN 978-4884000936
- ^ 山下達也「植民地朝鮮における「内地人」教員の多様性―招聘教員と朝鮮で養成された教員の特徴とその関係―」、『日本の教育史学』50、p97-109
- ^ 朝鮮人による民立大学設立運動については、民族精神の再生産を行い、植民地統治への妨害になりかねないとして抑圧する姿勢をとったため、京城帝国大学は日本統治下の朝鮮で唯一の旧制大学となった(阿部洋『日本統治下朝鮮の高等教育-京城帝国大学と民立大学設立運動を巡って』p.77)
- ^ 井上角五朗と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に筑波大学 稲葉継雄
- ^ 姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』(朝日文庫)
- ^ 姜在彦『朝鮮の歴史と文化』明石書店
- ^ 崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』祥伝社
- ^ p150『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』 水間政憲 徳間書店 2010/7/31 ISBN 978-4-19-862990-8
- ^ 安田敏郎『植民地の中の「国語学」』 p189~192
- ^ 安田敏郎『植民地の中の「国語学」』 p133 - 134、p147 - 148
- ^ 熊谷明泰 "賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動"(PDF文書), 関西大学視聴覚教育, 2006, 29, p. 55-77.
- ^ 「日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策」井上薫(北海道大学教育学部紀要1997.6)[1]PDF-P.2なおこのデータはG.H.Q. U・S Army Forces, Summation of U・S Army Military Government Activities in Korea Vol.2. No.5-16, 1946, p.32による。
- ^ 戦後米軍政府により行われた統計(推計?)ではソウル市では68%が、南朝鮮全体で77%が仮名やハングルなどを含めた文盲であったとされる。「米韓関係における政治教育とソフトパワー」尹敬勲(埼玉学園大学紀要2009.12)[2](P.237)。なお日本側の調査では1934年10月調査で朝鮮全土で『仮名とハングルともに』読み且つ書ける者は朝鮮人で6.79%、日本人で6.21%であった。井上薫1997.06、PDF-P.12。
- ^ 井上薫1997.06、PDF-P.8
- ^ 「日韓新たな始まりのための20章」p47~49、三ツ井祟執筆。朝鮮語学会事件は学術団体を仮装した独立運動団体であるとみなされ治安維持法1条違反適用で33名を検挙、うち16名が起訴された事件。判決は「民族運動ノ一形態トシテノ所謂語文運動ハ民族固有ノ語ヲ含ム民族独立運動ノ漸進形態」[3]として5名が62年から6年の実刑判決[4]。咸興(ハムフン)刑務所に収監、崔鉉培、李熙昇、李克魯、鄭寅承らは1945年の解放まで3年の獄中生活を送り、李允宰、韓澄は獄死」[5]。もっともこの時期の朝鮮における治安維持法適用は神社参拝の強要に抗議した基督教徒に対して不敬罪、保安法、治安維持法を適用し、少人数で構成された読書会や研究会の活動も重刑の対象となっていた[6]。白楽濬は民族学会や震檀学会を設立した発起人でもあり[7]、とりわけ朝鮮古代史や震檀教団とのつながりが独立派(国権回復運動)とみなされる要因となったとの研究もある。なおアジア歴史資料センターに「第84回帝国議会説明資料朝鮮総督府法務局所管1帝国議会関係雑件」資料あり(レファレンスコード B02031404800 )。ここでは上海の大韓民国臨時政府と連絡をとりあっていた義本克魯(李克魯)、月城鉉培(崔鉉培)らが参与する独立運動の仮装組織として検挙、16名に対して予審を申請(予審申請のうち2名は死亡)、14名を起訴猶予、3名を不起訴したとの報告がある。
- ^ 『学校で朝鮮語を使うと「週番」という腕章を着けた上級生が手帳に名前を書いて先生に知らせ、立たされたり掃除をさせるなどの罰を受けた。』[8]西日本新聞
- ^ p152『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』 水間政憲 徳間書店 2010/7/31 ISBN 978-4-19-862990-8
- ^ p154『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』 水間政憲 徳間書店 2010/7/31 ISBN 978-4-19-862990-8
- ^ a b "FOUNTAIN" Our language could be our top treasure JoongAng Ilbo(中央日報) October 20, 2004
- ^ 「日本の植民支配は不幸中の幸い」 韓国教授の論文が論議に 朝鮮日報 2005/03/04
- ^ 水野直樹『日韓新たな始まりのための20章』p50~54
- ^ 当時の創氏改名のイデオローグ団体のひとつであった「緑旗日本文化研究所」は、創氏改名の意義について「従来は一身が宗族(朝鮮社会で男系先祖を共有するという意識によって支えられた集団)に結びつけられたが、今後は『各家庭が直接、天皇に結びつけられて居る』この理念が第一義となるのである」と力説している(「氏創設の新精神とその手続」p18、緑旗日本文化研究所編、1940年)。
- ^ 日本の“創地改名”の事例 2009.10.09 中央日報
- ^ 日本の“創地改名”の事例 2009.10.09 中央日報
- ^ 日本の“創地改名”の事例 2009.10.09 中央日報
- ^ この項目「植民地朝鮮における総督府の宗教政策 : 抑圧と懐柔による統治」徐鍾珍(2006)[9][10]から起筆した。
- ^ 徐鍾珍2006 P.21
- ^ 徐鍾珍2006 P.21
- ^ 徐鍾珍2006 P.34
- ^ 1866年には大院君によるキリスト教禁止令(丙寅教獄・丙寅迫害・丙寅邪獄)が起き、フランスによる軍事介入(丙寅洋擾)が発生している。
- ^ 徐鍾珍2006 P.35
- ^ 徐鍾珍2006 P.35
- ^ 徐鍾珍2006 P.13
- ^ 「海外布教において積極的な活動を展開した宗教は神道ではなかった。明治初期には全国約19万の神社を基礎とした神道界は民衆生活に根をおろすには教義の整理が必要であり、教化運動においての組織力は仏教に及ばない状況であった。明治維新後勢力を伸ばした神道界は(明治初期の)宗教政策が変化する過程で内部対立が露呈していた」徐鍾珍2006 P.17
- ^ 「初期韓国教会の民族教会的性格1/3」李徳周(翻訳常石希望)(愛知大学言語と文化No.16 2007年)[11]P.154
- ^ 徐鍾珍2006 P.28
- ^ 徐鍾珍2006 P.55
- ^ (『朝鮮の統治と基督教』青柳 綱太郎・朝鮮総督府[一九二一]、P.39-40)
- ^ この運動が宣教師によって扇動されたものであったとの認識を1920年に示した。姜徳相[一九六七]『現代史資料二六・朝鮮二』みすず書房 P.647
- ^ (『韓国キリスト教の受難と抵抗─韓国キリスト教史一九一九─四五』新教出版社。[一九九五]、四一ページ)
- ^ 徐鍾珍2006 P.110-111
- ^ 神社参拝とキリスト教会や仏教会との関係は日本内地においても同様の問題を抱えており、教皇庁布教聖省から「祖国に対する信者のつとめ」が出されたものの信仰を守り弾圧、投獄されるものが出た(→美濃ミッション、ホーリネス弾圧事件)(→日本キリスト教史#昭和から平成へ)
- ^ 朝鮮の教会は約70名の牧師が投獄、拷問にあい50名が殉教し、二千名の信徒が投獄され、約200の教会が閉鎖された。『教会の戦争責任・戦後責任』いのちのことば社
- ^ 徐鍾珍2006 P.125
- ^ なお、現代の韓国は反日、台湾は親日とよく言われるが、違いが目立つのはキリスト教信者の比率である。現代の韓国ではキリスト教信者が約30%を占め宗教的には最大勢力である。その内プロテスタントが約18%、カトリックが11%である。カトリックはフランス系、プロテスタントはアメリカ系が多い。約20%は仏教徒である。古来中国の影響から仏教が重要な宗教であり、日本同様伝統信仰と仏教の融合もなされている。韓国のキリスト信者の比率は絶対信者数、人口に占める割合ともに、東ティモール地域を除けばフィリピンに続きアジアでは第2のキリスト教国家である。韓国の宗教人口はほぼ半数で、残りのほぼ半数は無宗教者である。ただし彼らも祖先崇拝や法事は熱心に行う。台湾はプロテスタントは3%以下であり、韓国のプロテスタントが終始反日であったことを考えれば台湾に反日が少ない理由の1つのように思われる。(自由主義史観研究会理事 杉本幹夫「日韓関係の近現代史」[12])。
- ^ (朝鮮語) 100년전 우리 산림..민둥산에 어린소나무만, 連合ニュース, 2009/09/08. 参考日本語訳:100年前の我が国の山林、「禿げ山と若い松だけ」
- ^ 山林の荒廃は明治前期の日本でも同様の問題を抱えており、記紀時代からの森林保全や江戸時代の御用林、あるいは各藩における造林事業は明治期に一旦途絶し、各地で里山の乱伐がおこなわれ荒廃が進んだ。こういった背景から山林の権利関係や造林事業の法整備がおもにフランス・ドイツ法をもとに導入され1897年の森林法(日本)となった。「森林管理の歴史と法」北杜市産業観光部林政課(h20.3.28)[13]
- ^ 造林成績逐年良好に向う, 京城日報 1924.5.15(大正13)
- ^ Cumings Bruce (1984), "The Legacy of Japanese Colonialism in Korea" in Myers, Ramon H. and Mark R. Peattie (Editors) The Japanese Colonial Empire, 1895-1945, Princeton University Press, Princeton. ISBN 978-0691102221[要ページ番号]
- ^ 「1920〜30年代の成長率4.1%」, 朝鮮日報, 2004年3月3日.
- ^ 中野正剛, 『我が観たる満鮮』, 政教社, 1915年, p. 52-55.
- ^ この例の一つとして、日本窒素肥料の朝鮮における朝鮮人労働者への劣悪な取り扱いなどが挙げられている(岡本達明編 『聞書水俣民衆史 第5巻 植民地は天国だった』 草風館、2000年9月。ISBN 978-4883230341。 pp83-132
- ^ 併合の4年前1906年に行われた警務顧問部の日本人の調査によるものと思われる統計では9,781,671人であるが、朝鮮末期の人口統計には漏れがあるとし、水野直樹, 駒込武, 藤永壮編 『日本の植民地支配-肯定・賛美論を検証する』, 岩波書店 (2001/11), P. 30. ISBN 978-4000092524では当時の人口を1600万人程と推定している。
- ^ 朝鮮総督府 『統計年報』[要ページ番号]
- ^ 黄文雄 『歪められた朝鮮総督府』, 光文社 (1998/08), ISBN 978-4334006341[要ページ番号]
- ^ 山本有造 『日本植民地経済史研究』 名古屋大学出版会、1992年1月。ISBN 4-403-61051-X。pp 212-214
- ^ 朴泰赫 『醜い韓国人』 光文社、1993年3月。ISBN 4334005322。 p24
- ^ もっと知りたい韓国 三星, KBS WORLD, 2007年12月7日.
- ^ 『米穀關係法規・朝鮮米穀要覧』 朝鮮総督府農林局 (1935/02).[要ページ番号]
- ^ 姜在彦 『日本による朝鮮支配の40年』 朝日新聞 (1992/08), P. 111. ISBN 978-4022607249
- ^ ソウル大教授、日本による土地収奪論は神話, 朝鮮日報, 2004/11/20.
- ^ a b 李栄薫教授「厳格なジャッジなき学界が歴史を歪曲」李栄薫ソウル大教授インタビュー(3/4), 朝鮮日報, 2007/06/03, ”食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくものであり、強奪したわけではない”.
- ^ 日本統治時代の韓国人の平均身長, 朝鮮日報, 2006年2月18日.
- ^ 松本武祝 「4 植民地支配は朝鮮を豊かにしたか」 in 『日韓 新たな始まりのための20章』 田中宏 (経済学者), 板垣竜太編集, 岩波書店 (2007/02), p.36-37. ISBN 978-4000242448
- ^ 許粹烈, 『日帝下朝鮮経済の発展と朝鮮人経済』, 日韓歴史共同研究委員会報告書(第1期 2002-2005年)第3分科(近現代).
- ^ 桜井書店 中村哲「近代東アジア史像の再構築」p.55
- ^ 「1920~30年代の成長率4.1%」, 朝鮮日報, 2004/03/03.
- ^ カーター・エッカート 『日本帝国の申し子』ISBN 4794212755 ※この研究著書は「ジョン・ホイットニー・ホール・ブック賞」(アジア研究協会)、「ジョン・キング・フェアバンク賞」(アメリカ歴史学会)をそれぞれ受賞した。
- ^ geocities韓国・朝鮮 -03
- ^ naver人口
- ^ a b 大阪朝日新聞・南鮮版 1939年11月21日付『渡航證明書を偽造し 不敵、巨利を博す 惡運つきて遂に捕へらる』
- ^ a b c 水野直樹 (2008年6月25日). “戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索1868-1945”. 朝鮮近代史研究のページ (水野直樹のホームページ). 2010年8月6日閲覧。
- ^ a b 『数年間に二千人世話し一万数千円を捲あぐ/十人の妾をもち住所を転々/密航ブローカーの巨頭、犯行自白』 大阪毎日新聞 1936年9月26日
- ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1939年1月31日付
- ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1940年4月5日付『朝鮮人労働書の 内地渡航漸次緩和 林総督府社会課長談』
- ^ a b 大阪朝日新聞・北鮮版 1939年6月22日付
- ^ 『内地密航増加/釜山水上署で厳罰』 大阪毎日新聞 1943年6月15日
- ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1940年5月28日付『朝鮮人鉱夫の物凄い稼高 遠賀工業所で推賞の的』
- ^ 大阪朝日新聞・中鮮版 1940年4月21日付『朝鮮人鉱夫に特別の優遇設備 まるで旅館住まひ同様』
- ^ 金賛汀「証言朝鮮人強制連行」(1975年、新人物往来社)p41~42
- ^ 「強制連行はなかった」論と戦時下の朝鮮/樋口雄一[14]
- ^ 『朝日新聞』 1959年7月13日 2面
『大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人』
在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。これによれば在日朝鮮人の総数は約六十一万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者は二百四十五人にすぎないとされている。主な内容は次の通り。一、戦前(昭和十四年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約百万人で、終戦直前(昭和二十年)には約二百万人となった。増加した百万人のうち、七十万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの三十万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。また、国民徴用令は日本内地では昭和十四年七月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ昭和十九年九月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年三月の下関-釜山間の運航が止まるまでのわずか七か月間であった。一、終戦後、昭和二十年八月から翌年三月まで、希望者が政府の配船、個別引揚げで合計百四十万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和二十一年三月、連合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で三百五十人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち七五%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計六十一万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は二百四十五人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって残留したものである - ^ 在日本大韓民国民団民団公式サイト[15][16]
- ^ 「植民地朝鮮と多木久米次郎」金玄(神戸大学文化学研究科 港湾都市研究2009.03)[17][18]
- ^ 「日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策」井上薫(北海道大学教育学部紀要1997.6)[19]PDF-P.13
- ^ 「植民地統治と朝鮮人の対応」森山茂徳(ソウル・韓日歴史共同研究委員会2005.1.29)[20]PDF-P.3,4[21]
- ^ 杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』
- ^ 金玄2009.03
- ^ この過程において、日本側の戦死者は1907年8月から1910年までの3年半の間に133人、義兵側の死者は17,688人である(「朝鮮暴徒討伐誌」、1913年)。
- ^ 死傷者数は伝聞によるものであると『韓国独立運動之血史』の本書中で朴殷植は断っているが、韓国の教科書や研究者の一部はこの犠牲者数を参照としている。「エンサイクロペディア・ブリタニカ」では『韓国独立運動之血史』を参考にしており、デモの続いた一年間の間に7000人が日本の警察と軍隊により殺されたとある。
- ^ Lee, Ki-Baik; Translated by Edward W. Wagner with Edwar J. Shultz (1999). A New History of Korea (韓国史新論). Ilchorak/Harvard University Press. pp. p. 1080. ISBN 0-674-61575-1.
- ^ “March First Movement”. Encyclopedia Britannica Premium Service. 2006年3月1日閲覧。
- ^ 「朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち 烈士・柳寛順(下)朝鮮新報 2004.4.12
- ^ 中央日報「柳寛順への日本の蛮行、誇張多い」2002.2.26[22]
- ^ 名越二荒之助『日韓2000年の真実』国際企画
- ^ 「現代史資料(28) 朝鮮(四) 独立運 動(二)」姜徳相著、みすず書房出版
- ^ “「竹島は日本領」…中国、“独島”の名称なしで日本の主張を報道”. サーチナ. (2010年4月15日) 2010年4月15日閲覧。
- ^ 直接の権限はないが、上位職の指示命令により通知(アドバイス)する文書
- ^ 水田直昌監修『統監府時代の財政』122頁
- ^ “일제 때 조선통독부는 선망의 직장(?) (日帝時代の朝鮮総督府は羨望の職場?)” ((朝鮮語)). 聯合ニュース. (2009年5月14日) 2014年2月28日閲覧。
- ^ p182『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』 水間政憲 徳間書店 2010/7/31 ISBN 978-4-19-862990-8
- ^ “일 육사 졸업 뒤 항일연합군 공격“임정 입장서 박정희는 적군 장교”민족문제연구소 ‘박정희 친일 행적’ 신문 공개”. ハンギョレ (2009年11月5日). 2010年12月17日閲覧。
- ^ 美味求真 木下謙次郎 1925年
- ^ "MBCスペシャル"終わっていない、終わらない私たちの人生の"トロット"
- ^ 민중 어르고 달랜 ‘뽕짝 80년사’
- ^ 朝鮮の姓名氏族に関する研究調査 朝鮮総督府中枢院 1934年
- ^ 大陸縦断 山本実彦 1938年
- ^ 朝鮮旅行案内記 朝鮮総督府鉄道局
- ^ a b c d 開国五十年史 大隈重信
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 日本商業会議所之過去及現在 商業会議所連合会
- ^ 第四十四回逓信省年報: 昭和六年度 逓信省 1933年
- ^ a b c 朝鮮雑記 左社と右社 長風山人 台湾日日新報 1934年9月6日-1934年9月7日
- ^ 施政二十五年史 1935年10月1日 朝鮮総督府
- ^ 今日の歴史(9月9日) 聯合ニュース 2009/09/09
- ^ 「日本は朝鮮人を満州に追い出して韓半島に住もうとした」 中央日報 2009.06.10
参考文献
- 李榮薫 『大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ』 永島広紀訳、文藝春秋、2009年3月。ISBN 978-4-16-370310-7。
- カーター・J・エッカート 『日本帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源1876-1945』 小谷まさ代訳、草思社、2004年1月。ISBN 978-4-7942-1275-7。
- 『植民地は天国だった』第5巻、岡本達明・松崎次夫編、草風館〈聞書水俣民衆史〉、1990年7月。
- 『植民地は天国だった』第5巻、岡本達明・松崎次夫編、草風館〈聞書水俣民衆史〉、1997年2月、2版。ISBN 4-88323-034-1。
- 糟谷憲一 『朝鮮の近代』 山川出版社〈世界史リブレット 43〉、1996年12月。ISBN 4-634-34430-0。
- ブルース・カミングス 『現代朝鮮の歴史 世界のなかの朝鮮』 横田安司・小林知子訳、明石書店、2003年10月。ISBN 4-7503-1794-2。
- 姜在彦 『日本による朝鮮支配の40年』 大阪書籍〈朝日カルチャーブックス 17〉、1983年2月。ISBN 4-7548-1017-1。
- 姜在彦 『日本による朝鮮支配の40年』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1992年9月。ISBN 4-02-260724-6。
- 姜在彦 『朝鮮の歴史と文化』 大阪書籍〈朝日カルチャーブックス 72〉、1987年2月。ISBN 4-7548-1072-4。
- 姜在彦 『朝鮮の歴史と文化』 明石書店、1993年3月、新版。ISBN 4-7503-0490-5。
- 姜徳相 『朝鮮三・一独立運動』 新幹社〈呂運亨評伝 1〉、2002年6月。ISBN 4-88400-024-2。
- 『朝鮮 4 独立運動 2』 姜徳相編、みすず書房〈現代史資料 28〉、1972年。
- 『朝鮮 4 独立運動 2』 姜徳相編、みすず書房〈現代史資料 28〉、2004年8月。ISBN 4-622-06128-7。 - 1989年刊(第5刷)を原本としたオンデマンド版。
- 金完燮 『親日派のための弁明』 荒木和博・荒木信子訳、草思社、2002年7月。ISBN 4-7942-1152-X。
- 金完燮 『親日派のための弁明』 荒木和博・荒木信子監修・訳、星野知美訳、扶桑社〈扶桑社文庫〉、2004年11月。ISBN 4-594-04833-1。
- 黄文雄 『歪められた朝鮮総督府 だれが「近代化」を教えたか』 光文社〈カッパ・ブックス〉、1998年8月。ISBN 4-334-00634-5。
- 佐野通夫 『日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応』 社会評論社、2006年2月。ISBN 978-4-7845-0288-2。
- 杉本幹夫 『「植民地朝鮮」の研究 日本支配36年 謝罪するいわれは何もない』 展転社、2002年6月。ISBN 4-88656-214-0。
- 高橋哲哉 『歴史/修正主義』 岩波書店〈思考のフロンティア〉、2001年1月。ISBN 4-00-026434-6。
- 『日韓新たな始まりのための20章』 田中宏・板垣竜太編、岩波書店、2007年1月。ISBN 978-4-00-024244-8。
- 崔基鎬 『韓国堕落の2000年史 日本に大差をつけられた理由』 祥伝社、2001年11月。ISBN 4-396-61135-8。
- 崔基鎬 『韓国堕落の2000年史 日本に大差をつけられた理由』 祥伝社〈祥伝社黄金文庫〉、2006年6月。ISBN 4-396-31407-8。
- 『朝鮮の歴史』 朝鮮史研究会編、三省堂、1995年2月、新版。ISBN 4-385-35469-3。
- 『朝鮮総督府統計年報』昭和17年、朝鮮総督府編、朝鮮総督府、1944年3月。
- 朝鮮總督府農林局 『米穀關係法規・朝鮮米穀要覧』 朝鮮總督府農林局、1935年2月。
- 『朝鮮暴徒討伐誌』 朝鮮駐箚軍司令部編、山本栄一。
- 中野正剛 『我が観たる満鮮』 政教社、1915年。
- 中野正剛「我が観たる満鮮」、『大正中国見聞録集成』第1巻、小島晋治監修、ゆまに書房、1999年4月。ISBN 4-89714-665-8。
- 『日韓2000年の真実 写真400枚が語る両国民へのメッセージ』 名越二荒之助編著、国際企画、1997年7月。ISBN 4-916029-12-7。
- 『日韓共鳴二千年史 これを読めば韓国も日本も好きになる』 名越二荒之助編著、明成社、2002年5月。ISBN 4-944219-11-3。 - 「日韓2000年の真実」(国際企画1997年刊)の改題。
- 朴泰赫 『醜い韓国人 われわれは「日帝支配」を叫びすぎる』 光文社〈カッパ・ブックス〉、1993年3月。ISBN 4-334-00532-2。
- 朴泰赫、加瀬英明 『醜い韓国人 歴史検証編 これは本当のことではないのか』 光文社〈カッパ・ブックス〉、1995年3月。ISBN 4-334-01296-5。
- 水田直昌「統監府時代の財政」監修、『朝鮮近代史料研究』第2巻(財政)、友邦協会編、クレス出版〈友邦シリーズ〉、2000年12月。ISBN 4-87733-121-2。
- 『日本の植民地支配 肯定・賛美論を検証する』 水野直樹・藤永壯・駒込武編、岩波書店〈岩波ブックレット no.552〉、2001年11月。ISBN 4-00-009252-9。
- 朴贊雄 『日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想』 草思社、2010年8月。ISBN 978-4794217752。
- 水間政憲 『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』 徳間書店、2010年7月。ISBN 978-4-19-862990-8。
- 宮田節子 『朝鮮民衆と「皇民化」政策』 未来社〈朝鮮近代史研究双書 2〉、1985年7月。ISBN 978-4-624-42017-8。
- 安田敏朗 『植民地のなかの「国語学」』 三元社、1998年8月、新装版。ISBN 4-88303-040-7。
- 山下達也「植民地朝鮮における「内地人」教員の多様性――招聘教員と朝鮮で養成された教員の特徴とその関係―」、『日本の教育史学』 教育史学会〈教育史学会紀要 50〉、2007年10月。ISBN 978-4-906194-24-7。
- 山本有造 『日本植民地経済史研究』 名古屋大学出版会、1992年2月。ISBN 4-8158-0174-。
- 『韓国朝鮮の歴史と社会』 吉田光男編著、放送大学教育振興会〈放送大学教材 2004〉、2004年3月。ISBN 4-595-23759-6。
- 「初期韓国教会の民族教会的性格」李徳周(翻訳常石希望)(愛知大学言語と文化No.16 2007年)[23][24][25]
- 「日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策」井上薫(北海道大学教育学部紀要1997.6)[26]
- 「植民地朝鮮における朝鮮総督府の観光政策」李良姫(北東アジア研究第13号2007年3月 島根県立大学北東アジア地域研究センター)[27][28]
- 「日本植民地研究の回顧と展望:朝鮮史を中心に」板垣竜太、戸邉秀明、水谷智(同志社大学社会科学2010.8)[29][30]
- 申明直 『幻想と絶望~漫文漫画で読み解く日本統治時代の京城』 岸井紀子、古田富建訳、東洋経済新報社、2005年7月。ISBN 978-4492061398。
関連項目
- 朝鮮の歴史観
- 朝鮮総督府
- 京城府
- 武断統治
- 朝鮮総督府警察
- 憲兵警察制度 (朝鮮総督府)
- 朝鮮人日本兵
- 朝鮮銀行
- 朝鮮放送協会
- 韓国併合
- 国家神道-朝鮮神宮
- 慰安婦
- 3・1独立運動-提岩里事件
- 光復節
- 皇民化政策
- 植民地
- 日本統治時代
- 日本統治時代の台湾
- 親日派のための弁明
- チンイルパ
- 反日
- 嫌韓
- 李栄薫
- 万国公法
外部リンク
- 西日本新聞 連載「あの時代 韓国発 日本統治と私」(2009年8月7日、8日、11日、12日、13日、14日、15日)[31][32][33][34][35][36][37][38]
- 「韓国国有林における伐出・育林事業の展開過程に関する史的研究」白乙善(北海道大学農学部演習林研究報告1990-02)[39]
- 「戦前朝鮮の地場銀行と特殊金融機関」金珍奎(大分大学経済論集 56巻第6号)[40]
- 「なぜ米穀客主業は消滅したのか? -近代電気通信網と米穀取引における最適契約問題- 朝鮮開港場における客主消滅と米穀商成長の背景」李チャンミン(社會經濟史學 第76巻1号)[41]
|
|
|
|
「日本統治時代の朝鮮」の書誌情報
- 項目名: 日本統治時代の朝鮮
- 著作者: ウィキペディアの執筆者
- 発行所: ウィキペディア日本語版
- 更新日時: 2015年6月10日 21:22 (UTC)
- 取得日時: 2015年6月13日 20:29 (UTC)
- 版指定URI: http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE&oldid=55824321
- 主な執筆者: (改版集計情報)
- 項目の版番号: 55824321