勝海舟

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勝 海舟 / 勝 安芳
Kaishu Katsu 2.jpg
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政6年1月30日1823年3月12日
死没 明治32年(1899年1月19日
改名 麟太郎(通称・幼名)、義邦、安芳
別名 海舟(号)
戒名 大観院殿海舟日安大居士
墓所 洗足池公園
官位 従五位下安房守、外務大丞、兵部大丞、
海軍大輔、従四位参議海軍卿正四位元老院議官、伯爵従三位・枢密顧問官、
正三位従二位正二位
幕府 江戸幕府
異国応接掛附蘭書翻訳御用、
海軍伝習重立取扱、講武所砲術師範役、
天守番頭過人、蕃書調所頭取助、
天守番頭格、
二の丸留守居格軍艦操練所頭取、
軍艦奉行並、海軍伝習掛、海軍奉行並、
陸軍総裁、軍事取扱
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
氏族 勝氏
父母 父:勝小吉、母:勝信子
兄弟 勝順子佐久間象山室)
正妻:民子 
妾:梶玖磨、増田糸、小西かね、清水とよ、森田米子
内田夢、疋田孝子、小鹿、目賀田逸子、四郎、梶梅太郎、八重、岡田七郎、妙子

 

勝 海舟(かつ かいしゅう) / 勝 安芳(かつ やすよし、文政6年1月30日1823年3月12日明治32年(1899年1月19日)は、江戸時代末期から明治時代初期の武士幕臣)、政治家位階勲等爵位正二位勲一等伯爵山岡鉄舟高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。 

概要

幼名および通称麟太郎りんたろう)。義邦 (よしくに)、明治維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。

勝本人は「アホゥ」とも読めると言っている。海舟はで、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったものである。海舟という号は元は誰のものであったかは分からないという。父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。幕末剣客男谷信友従兄弟に当たる。家紋は丸に剣花菱

10代の頃から島田虎之助に入門し剣術を学び直心影流剣術免許皆伝となる。

16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。

万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は、参議海軍卿枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。

李鴻章を始めとする清国の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、興亜会亜細亜協会)を支援。

また足尾銅山鉱毒事件田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。

生涯

生い立ち

文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町[注 1]の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した[注 2]

曽祖父・銀一は、越後国三島郡長鳥村[注 3]の貧農の家に生まれた盲人であった。

江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得て朝廷より盲官の最高位検校を買官し「米山検校」を名乗った。

銀一は長男の忠之丞に御家人・男谷(おだに)家の株を買い与えた[注 4]。 男谷忠之丞の孫が海舟の父・勝小吉である。

小吉は三男であったため、男谷家から勝家に婿養子に出された。

勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年(1575年)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父に当たる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。

幼少時、男谷の親類・阿茶の局の紹介で11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。

一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が早世したためその望みは消えることとなる。

生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。

修行時代

剣術は、実父・小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎道場、後に精一郎の高弟・島田虎之助道場[注 5]で習い、直心影流の免許皆伝となる。

師匠の虎之助の勧めによりも学んだ。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している[1]

蘭学は、江戸の蘭学者箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。

弘化3年(1846年)には住居も本所から赤坂田町に移る[注 6]

この蘭学修行中に辞書ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写した有名な話がある。1部は自分のために、1部は売って金を作るためであった。この時代に蘭学者佐久間象山の知遇を得た[注 7]。 象山の勧めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた[注 8]

長崎海軍伝習所

嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。

これに勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運を掴むことができた。

その後、長崎海軍伝習所に入門した。

伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。このときの伝習生には矢田堀景蔵永持亨次郎らがいる。長崎に赴任してから数週間で聴き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす[注 9]

この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ており、後の勝の行動に大きな影響を与えることとなる。

渡米

 
1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影

万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使節を米国へ派遣する。

この米国渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら一橋派の幕臣である。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順らが選ばれ、米国海軍のポーハタン号太平洋を横断し渡米した。

このとき、護衛と言う名目で軍艦を出すことにし、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣された。旅程は37日であった[注 10]

咸臨丸には軍艦奉行木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として勝、教授方として佐々倉桐太郎鈴藤勇次郎小野友五郎などが乗船し、米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉も同乗した。

通訳のジョン万次郎、木村の従者・福澤諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を福澤は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある[注 11]

古来、勝は咸臨丸艦長として渡米したと言われている(ブルックも同乗時からそう呼んでいる)が、それに反発する福澤の『福翁自伝』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれている。

しかし、実際にそのような役職はなく、上記のように木村は「軍艦奉行」、勝は「軍艦操練所教授方頭取」という立場であった。アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができた[注 12]

神戸海軍操練所

帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年(1862年)の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。神戸は碇が砂に噛みやすく水深も比較的深く大きな船も入れる天然の良港であるので神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍・徳川家茂にしている[注 13]

勝は神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた[注 14]。さらに、神戸海軍操練所も設立している。

後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。

勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。

勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだという[注 15]。 勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年(1864年)9月11日、大阪においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている。

慶応元年(1865年)には淀川の警備の為に右岸高浜台場、左岸に楠葉台場を奉行として完成させている。

長州征伐と宮島談判

慶応2年(1866年)、軍艦奉行に復帰し、徳川慶喜第二次長州征伐停戦交渉を任される。勝は単身宮島大願寺での談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功した。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。

駿府城会談と江戸城無血開城

慶応4年(1868年)、官軍の東征が始まると、対応可能な適任者がいなかった幕府は勝を呼び戻した。勝は、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担う。

官軍が駿府城にまで迫ると、幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。

まず3月9日、山岡鉄舟駿府西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整えた。

この会談に赴くに当たっては、江戸市中の撹乱作戦を指揮し奉行所に逮捕されて処刑寸前の薩摩武士・益満休之助を説得して案内役にしている[注 16]

予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日と14日には勝が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた。

勝は交渉に当たり、幕府側についたフランスに対抗するべく新政府側を援助していたイギリスを利用した。

英国公使パークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせ、さらに交渉が完全に決裂したときは江戸の民衆を千葉に避難させたうえで新政府軍を誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところにゲリラ的掃討戦を仕掛けて江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫った。

この作戦はナポレオンモスクワ侵攻を阻んだ1812年ロシア戦役における戦術を参考にしたとされている[注 17]

この作戦を実施するに当たって、江戸火消し衆「を組」の長であった新門辰五郎に大量の火薬とともに市街地への放火を依頼し、江戸市民の避難には江戸および周辺地域の船をその大小にかかわらず調達、避難民のための食料を確保するなど準備を行っている。

幕府の軍艦は新政府軍の兵糧と退路を絶つ為、東海道への艦砲射撃の準備をさせ、慶喜の身柄は横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる手筈になっていた。

この会談の後も戊辰戦争は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。

一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあったことなどがその理由である。

明治時代

 
明治期

維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞兵部大丞、参議海軍卿元老院議官枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。

明治6年(1873年)には、勅使として西四辻公業とともに鹿児島へ下向し、島津久光を東京へ上京させた。

大日本帝国憲法制定時の枢密院審議では、枢密顧問官として出席したが、終始一貫沈黙していた。[2] また座談を好み、西郷隆盛大久保利通を、その後の新政府要人たちと比較した自説を開陳しているが、その一方で自身はその政治的姿勢を團團珍聞などのマスメディアから厳しく批判された。[3]

徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し存在自体を疎まれていたが、その慶喜明治政府に赦免させることに尽力した。

この努力が実り、慶喜明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。

そのほかにも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。

また、江戸城無血開城維新の立役者であったが西南の役で逆賊の臣となってしまった、かつての敵側の将である西郷隆盛の名誉回復にも奔走し、天皇の裁可を経て上野への銅像建立を支援している[注 18]

勝は日本海軍の生みの親ともいうべき人物であり、連合艦隊司令長官伊東祐亨は、勝の弟子とでもいうべき人物だったが日清戦争には反対の立場をとった。

清国北洋艦隊司令長官・丁汝昌が敗戦後に責任をとって自害した際は勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。

勝は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった[4]

晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い妨害している[5]

ただしその独特な談話、記述を理解できなかった者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。

晩年は、子供たちの不幸に悩み続け、その上、の非行にも見舞われ、孤独な生活だったという[6]

明治32年(1899年)1月19日に風呂上がりにブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり、死去。最期の言葉は「コレデオシマイ」だった[注 19]

墓は勝の別邸千束軒のあった東京大田区洗足池公園にある。千束軒は後の戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。

略年譜

 
右から3人目が勝海舟。他は、大関増裕松平太郎稲葉正巳、石川重敬、ヴァン・ヴァルケンバーグ(アメリカ公使)、江連堯則(外国奉行)。

(明治5年12月2日までは旧暦)

  • 天保9年(1838年)7月27日、家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。
  • 安政2年(1855年
    • 1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用となる。
    • 7月29日、海軍伝習重立取扱となる。
    • 8月7日、小普請組から小十人組に組替。
  • 安政3年(1856年
    • 3月11日、講武所砲術師範役となる。
    • 6月30日、小十人組から大番に替わる。
  • 安政6年(1859年
  • 安政7年(1860年
    • 1月13日、品川から咸臨丸出航。
    • 2月26日、サンフランシスコに入航。
    • 閏3月8日、サンフランシスコを出航。
    • 改元して万延元年5月6日、品川沖に入航。
    • 5月7日、江戸に帰府。
    • 6月24日、天守番頭過人・蕃書調所頭取助となる。石高400石取りとなる。
  • 文久元年(1861年)9月5日、天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。
  • 文久2年(1862年
    • 7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。
    • 閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1,000石。
  • 文久3年(1864年
  • 慶応2年(1866年)5月28日、町奉行次席軍艦奉行に復職。
  • 慶応3年(1867年)3月5日、海軍伝習掛を兼帯。
  • 慶応4年(1868年
    • 1月17日、海軍奉行並に異動。役高5,000石。列座は陸軍奉行並の上。
    • 1月23日、陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座。
    • 2月25日、陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。
    • 3月13日・14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城
  • 明治2年(1869年
    • 7月13日、諱を安芳と改める。
    • 7月18日、維新政府の外務大丞に任官。
    • 8月13日、外務大丞を辞す。
    • 11月23日、兵部大丞に任官。
  • 明治3年(1870年)6月12日、兵部大丞を辞す。
  • 明治5年(1872年
    • 5月10日、海軍大輔に任官。
    • 6月15日、従四位に昇叙し、海軍大輔如元。
  • 明治6年(1873年)10月25日、参議に転任し、海軍卿を兼任。
  • 明治7年(1874年)2月18日、正四位に昇叙し、参議・海軍卿如元。
  • 明治8年(1875年
  • 明治20年(1887年
  • 明治21年(1888年
    • 4月30日、枢密顧問官に任官。
    • 10月、正三位に昇叙し、枢密顧問官如元。
  • 明治22年(1889年
    • 5月8日、枢密顧問官辞表を提出するが、翌日却下。
    • 12月、勲一等瑞宝章を受ける。
  • 明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に当選するものの辞退。
  • 明治27年(1894年)6月30日、従二位に昇叙し、枢密顧問官如元。
  • 明治29年(1896年)10月27日、枢密顧問官辞表を提出するが、11月4日、却下。
  • 明治31年(1898年)2月26日、勲一等旭日大綬章を受ける。
  • 明治32年(1899年
    • 1月19日、死去。
    • 1月20日、正二位法名:大観院殿海舟日安大居士。

栄典

人物

逸話

トラウマ
9歳の頃、狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている(「夢酔独言」)。このとき父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほどであったという[8]
福澤諭吉との関係
木村喜毅の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福澤諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、勝は伝染病の疑いがあったため自室にこもりきり艦長らしさを発揮できなかった。福澤はそれをただの船酔いだと考えていたようで、勝を非難する格好の材料としている。
海舟批判書状の『瘠我慢の説』への返事
「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ない」として、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬことと考えています)」
咸臨丸の実情
和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶ濡れになり、航海中晴れた日はわずかで乾かす間もなかった。
そのため艦内に伝染病が流行し、常時14、5人の病人が出た(今でいう悪性のインフルエンザか)。サンフランシスコ到着後には3人が死亡、現地で埋葬された。
ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名が自ら看病のため居残りを申し出た。
計9人の世話を艦長の勝海舟は現地の貿易商チャールズ・ウォルコットブルックスに託し、充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。
受爵の時
受爵の時の話を勝が亡くなった際に宮島誠一郎がこう話している。
「授爵の時は、伊藤サンから手紙が来た。勝が、御受けせぬであろうが、ドウゾ、君の尽力で、ススメてくれという事で。固より好まない事は知れているが、また固より受けても相当の事と思うから、行った。スルト、運動に出たという事でおばあさんが出てきて、断ったが、是非会って申さなければならぬことだからと言って、待っていたが、ドウしても還って来ぬ。ヤット十二時頃になって、今帰りましたということであった。それから、話すとイツモの調子ではなく、厳然として、その受けられぬ訳を答えた。真に、功もなく、恐れ多いというのだ。なかなかむつかしい。それで、これではイカヌと思って、コッチモ勝流をキメテ、ソウ言った。「勝サン、それはソウダガ、私は伊藤サンの使いだ。これが西郷ナラ、私も使いにはならんし、また自分で来るだろう。何しろ相手が伊藤サンだから、ソウイジメないでもイイではないか、モウこれで二時だが、ドウか受けて受けてくれ」と言ったら、ソレデようやくマトマッタ。」[9]
なお、この明くる日の受爵に本人は行かず代理で済ませたようである。
亡くなった時の様子について
勝が亡くなる直前の様子について、長年女中を務めていた増田糸子がこう話している。
「あの日は、お湯からお上りなすって、大久保の帰るのは(大久保一翁の子供の帰朝)昨日だか、今日だっけと、仰しゃっただけで、それからハバカリからお出になって、モウ褥の方へいらっしゃらず、ココの所へ倒れていらっしゃいますから、ドウなすったかとビックリしました。死ぬかも知れないよと仰しゃって、ショウガ湯を持って来いと仰しゃいましたが、間に合いませんから、ブランデーをもって参りました。油あせが出るからと仰しゃいますので、お湯はその時モウ落としてしまいましたから、あちらで取って参りましたから、それで一度おふきなすったのです。それで、奥さまに申し上げまして、コチラにお出でになりました時には、モウ何とも仰しゃらず、極く静かにお眠りでした。」[10]
徳富蘇峰との関係
徳富蘇峰は明治20年代に赤坂氷川の勝海舟の邸内の借家(名義は勝の長女の嫁ぎ先の内田氏)に住み勝の教えを受け、勝を生涯の師の一人と仰いでいる。
蘇峰は「勝先生と相見たのは先生の六十歳以後であり、立てば小兵で別段偉丈夫らしく見えぬが、ただ五尺の短身すべてエネルギーというべきもので、手を触れれば花火を飛ばすごとき心地がした。先生が正面から人を叱りつけたことは見たこともなく、聞いたこともなかったが、その上げたり下げたり、人をひやかすことの辛辣手段に至っては、いかなる傑僧の毒話も及ぶところではない。
誰でも先生に面会すれば、一度は度肝を抜かれた。先生は何人に対しても、出会い頭に真拳毒手を無遠慮に下した。それを辛抱して先生の訓えを聴かんとする者には必ず親切、丁寧に、手を取らんばかりに教え導いてくれた。」と書き残している[11]
上記のように勝の人となりを最大限に讃えている蘇峰だが、晩年の勝の放言には閉口することもあったようで、「惜しむらくはあまりにも多弁」とも書き残している。

語録

  • 勝ちを望めば逆上し措置を誤り、進退を失う。防御に尽くせば退縮の気が生じ乗ぜられる。だから俺はいつも、先ず勝敗の念を度外に置き虚心坦懐事変に対応した。
  • 自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。
  • オレは、(幕府)瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった。
  • どうも、大抵の物事は(外部からではなく)内より破れますよ。
  • 行政改革というものは、余程注意してやらないと弱い物いじめになるよ。 肝心なのは、改革者自身が己を改革する事だ。
  • やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末等を心配している人たちに)
  • いつ松を植えたか、杉を植えたか、目立たないように百年の大計を立てることが必要さ。
  • 文明、文明、というが、お前ら自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかぇ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。
  • 敵は多ければ多いほど面白い。(勝自身も、生きている間は無論、亡くなってからも批判者が多いことは、十分に理解していた)
  • 我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。(訪米使節から帰還し、将軍家茂に拝謁した際、幕閣の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われての答弁)
  • ドウダイ、鉱毒はドウダイ。山を掘ることは旧幕時代からやって居たが、手の先でチョイチョイ掘って居れば毒は流れやしまい。海へ小便したって海の水は小便になるまい。今日は文明だそうだ。元が間違っているんだ。(足尾銅山の公害が明白になってもなお採掘を止めない政府に対して)
  • 世の中に無神経ほど強いものはない。
  • 今までは人並みなりと思ひしに五尺に足りぬ四尺(子爵)なりとは[注 20]
  • 世間では(日清戦争を)百戦百勝などと喜んで居れど、支那では何とも感じはしないのだ。そこになると、あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代らうが、敵国が来り国を取らうが、殆ど馬耳東風で、はあ帝王が代つたのか、はあ日本が来て、我国を取つたのか、などいつて平気でゐる。風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代らうが、誰が来て国を取らうが、一体の社会は、依然として旧態を損して居るのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体(からだ)を蚊(か)か虻(あぶ)が刺すくらゐにしか感じないのだ。ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人はとても支那人には及ばないだらうと思ふと、俺は密かに心配するヨ。
  • 日清戦争には、おれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないじゃないか。たとえ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。

記念碑

 
勝海舟の銅像
墨田区役所うるおい広場)

評価

  • 日本史上稀代の外交手腕と慧眼を備えた政治家・戦略家・実務家と評し心酔するファンがいる一方、理科系の教養に暗く[12][13]、大言壮語する成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。
  • 坂本龍馬文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷隆盛大久保利通宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」、「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と書いている等、龍馬や西郷のような無私の人物からは高く評価されていたことがわかる。
  • 福澤諭吉の『瘠我慢の説』は福沢の持論の立国論が根本にあるが、名指しで勝と榎本武揚を新政府に仕えた「やせ我慢」をせぬものと批判している。『福翁自伝』でも勝に批判的なことからウマの合う合わないの点も推察される。
  • 死の3日後、氷川邸に勅使がきて勅語を賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。

幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻賵ヲ齎シテ以テ弔慰セシム

著作等

回想録として、吉本襄による『氷川清話』や巌本善治による『海舟座談』がある。

『氷川清話』は吉本襄が新聞や雑誌をまとめ漢語調や文章体であったものを口語体に統一した上で分類編集し書籍化したものであるが、底本とした原談話から吉本が歪曲・改竄している疑いのある個所も多い。

江藤淳松浦玲が編集しているものについては吉本が底本とした原談話と比較し歪曲・改竄の疑いがあるものについて指摘し解説がなされている。

特に『氷川清話』の『第一章 履歴と体験』この中には長崎海軍伝習時代や咸臨丸での太平洋横断、第二次長州征伐の講和談判、江戸城開城など幕末を語る勝の談話が多く載っているがこれに関しては底本となった原談話が少なく松浦玲も「校正の腕を振るいにくかった」と書いている[14]

一方、『海舟座談』は巌本善治による勝海舟筆記録で元は『海舟餘波』として勝死没直後の明治32年(1899年)3月に巌本が発行したものを昭和5年(1930年)に巌本自身が日付別に整理し『海舟座談』として文庫化したものである。

勝本人からの巌本による聞き書きで勝の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることができる。

ただし、時局に差しさわりのある発言は『海舟餘波』に載っていたものが『海舟座談』では削られてしまい一部は正反対の意味に書き換えられてしまっている[15]

こちらも江藤淳・松浦玲が編纂しているものについては『海舟餘波』などと比較した上で歪曲・改竄の疑いがあるものについて指摘し解説がなされている。また氷川清話についての勝自身の言葉が巌本善治の『海舟座談』にある。

明治30年(1897年)10月6日の座談
「吉本襄が来て、新聞に出た此方のはなしを集めて、(『氷川清話』を)出版したいと言うた。たいそう困るから、そうさせてもらいたいと言った。勝手にしなさいと言うて置いた。」
この言葉に対し巌本善治が(「序文はお書きにならぬが宜しいです。新聞に出たのはたいてい間違っておりますから」)と言うと、
「ナーニ、目くら千人目あき千人だから、構いやしない。吉本はイイやツだよ。少し頑固だけれどネ。」[16]と返している。

この巌本の言葉から吉本が元にした『氷川清話』の新聞記事そのものからして間違っており、さらにそこに吉本による歪曲・改竄が加わっているのだと考えられる。そのためそれを元にした『氷川清話』に勝の意志や談話が正しく反映されているのだとは言い切れない。同じく『海舟座談』の明治31年(1898年)10月23日の談話では続々氷川清話のことが載っている。

(「吉本襄がまた『続々氷川清話』を作るといってよこしました。私は、断りましたが、皆んなから、書いたものを集めるそうです」という巌本に対し)「そうかエ。もうよせばいいのに。前ので、もうかったということだ。尾崎が来てそう言ったから、確かだろう。少しも此方は関係しないのだが。この間も、二度ほど来たから、断わって返した。」[17]

この言葉から『氷川清話」は著作というよりも勝のこれまでの談話が載った新聞や雑誌の記事を吉本が勝の許可を得た上で書籍化したのだろう。

吉本の『たいそう困るから、そうさせてもらいたい』は吉本が金に困っていたということであり、その一年後の『続々氷川清話』についての勝の言葉「前ので、もうかったということだ」「少しも此方は関係しないのだが」からは『氷川清話』で吉本に多額の印税が入り続編が出ることになったこととその印税は勝の元には入らなかったであろうことがわかる。

膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。勝は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。また父・勝小吉も自伝『夢酔独言』(平凡社東洋文庫ほか)を書いている。

著名作(新版)

系譜

系図

勝家
小吉
 
安芳(海舟)
 
小鹿
 
知代
 
 
 
 
 
             
 
 
四郎
 
 
伊代
 
 
             
 
 
     
 
 
 
芳孝
 
芳邦
 
 
 
 
 
                       
 
 
道子
 
                             
 
 
喜子
 
                             
 
 
静子
 
                             
 
 
中子
 
                             
 
 
当子
 

家族・親族

  • 正妻:民子(薪炭商兼質屋・砥目家の娘、もと深川芸者との説あり)(1821年 - 1905年)
    • 長女:内田夢
    • 二女:疋田孝子
    • 長男:小鹿
    • 二男:四郎
  • 妾:梶玖磨(お久)
    • 三男:梶梅太郎
      • 孫:梅久(ウォルター)
      • 孫:和気(アディライン)
      • 孫:喜乃(ウィニフレッド)
      • 孫:幸(メーベル)
      • 孫:礼(エルザ)
      • 孫:勇(ヒルダ)
  • 妾:増田糸
  • 妾:小西かね
    • 四男:岡田七郎
  • 妾:清水とよ
    • 五女:妙子
  • 妾:森田米子

嫡男・小鹿(ころく)は海舟の最晩年に40歳で急逝したため、小鹿の長女・伊代に旧主徳川慶喜の十男・(くわし)を婿養子に迎えて家督を継がせることにした。海舟はこれを見届けるかのようにしてこの世を去っている。精は実業界に入り、浅野セメント石川島飛行機などの重役を勤めた[注 21]

三女・逸(いつ)は、専修学校(現:専修大学)の創立者である目賀田種太郎に嫁いだ。

愛人と隠し子がいたが、正妻・民子は異腹の九人の子供を分け隔てなく可愛がり、屋敷の人々から「おたみさま」と呼ばれて慕われた。だが民子は遺言で「勝のそばに埋めてくださるな。わたしは小鹿のそばがいい」と言い残したが、遺言の希望は聞き入れられず養子の精の一存で勝の隣に葬られてしまった[18]

財務省事務次官勝栄二郎および世界銀行副総裁の勝茂夫の兄弟は曾孫に当たるという伝説が、霞ヶ関などで流布されていたが、栄二郎は雑誌の取材に対して海舟との関係を完全に否定している[19]

出典

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  1. ^ 「武士道教育総論」(P155-182)
  2. ^ 清水伸『明治憲法制定史 下』原書房、1973年、57頁。
  3. ^ >湯本豪一 『図説明治人物事典 政治家・軍人・言論人編』 日外アソシエーツ、144頁。
  4. ^ 日鮮支三国合縦連衡論
  5. ^ 小野寺龍太 『古賀謹一郎』 ミネルヴァ書房、253頁-261頁。
  6. ^ 日本の墓:著名人のお墓:勝海舟』株式会社亘徳。、中川聖山 『お墓の履歴書』 講談社、76頁-77頁。
  7. ^ 『官報』第1351号、「叙任及辞令」1887年12月28日。
  8. ^ 永井義男. “深夜の遠吠えfile102・勝海舟は片キンか”. 2010年11月15日閲覧。
  9. ^ 巌本善治編・勝部真長解説 『海舟座談』 岩波書店岩波文庫]251頁
  10. ^ 巌本善治編・勝部真長解説 『海舟座談』 岩波書店岩波文庫]224頁-225頁
  11. ^ 『蘇翁夢物語 わが交遊録』中公文庫
  12. ^ 藤井哲博 『咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯』、45頁。「数学が必須の海軍伝習で、幕臣関係同期生39人中留年者は勝ほか4人であった。」
  13. ^ 土居良三 『軍艦奉行木村摂津守』、269頁。
  14. ^ 江藤淳・松浦玲編『氷川清話』講談社講談社学術文庫」解題 389頁
  15. ^ 江藤淳・松浦玲編『海舟語録』解題280頁
  16. ^ 巌本善治編・勝部真長解説『海舟座談』 岩波書店岩波文庫]131頁
  17. ^ 巌本善治編・勝部真長解説 『海舟座談』 岩波書店岩波文庫]82頁-83頁
  18. ^ 船戸安之勝海舟---物語と史跡をたずねて』、1953年
  19. ^ AERA』、朝日新聞出版、2010年8月23日

注釈

  1. ^ 現在の東京都墨田区両国の一部。当時の本所亀沢町と現在の墨田区亀沢とは町域が重なっていない。
  2. ^ 墨田区立両国公園(両国4-25)内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。また、墨田区役所敷地(吾妻橋1-23)内には勝海舟像が建つ。
  3. ^ 現在の新潟県柏崎市の一部。
  4. ^ 男谷家はそれを三男平蔵が忠之丞を継ぎ旗本となり子の彦四郎、忠之丞の子で下総守信友(剣聖・精一郎)が継いだ
  5. ^ 浅草新堀。現在の台東区元浅草、三筋付近
  6. ^ 氷川に移ったのはさらに後の1859年
  7. ^ 後に妹の順子は象山に嫁いでいる。
  8. ^ 後に日本統計学の祖となる杉亨二塾頭となる。
  9. ^ 第一期から三期まで在籍したことを「勝は成績が悪く、三度落第した」とする文献もある。航海術に必要な数学(算数)が苦手だったようである。ただし、これは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたいという反論もある。オランダ教官からは非常に評価されているとのことである。
  10. ^ 妻には「ちょっと品川へ船を見に行ってくる」とだけ言って出かけたらしい。
  11. ^ このときの勝の船酔いについては、実は勝が何らかの伝染病に罹っており、自らを隔離するために船室に引き籠もっていたとする説もある。
  12. ^ 帰路も米国人が乗船したとの説もある
  13. ^ 神戸は平安時代末の平清盛以来の国際貿易港であったが、それは朝鮮・中国を相手にしたものである。その神戸を西欧諸国との貿易のために活かそうとした点で勝の提案は斬新だった。
  14. ^ この塾頭が坂本龍馬だった
  15. ^ 逆にそうでない期間には本など読まなかったとも述べている。
  16. ^ 例えば高橋敏の「清水次郎長と幕末維新」(岩波書店 2003)などで清水次郎長とその配下に護衛を依頼したとする説を一次資料を提示しない「通説」としてとりあげているが高橋自身も賛同はしておらず『清水次郎長とその周辺』の増田知哉や藤田五郎、村本喜代作、長谷川昇、戸羽山翰も同様である旨を明記しておく。また海舟と次郎長について交際のあった一次資料はない。同じ3月に街道警護役を伏谷如水から押し付けられた件と混同している向きもある。
  17. ^ 勝自身は日記・座談で明言していないが、津本陽・檜山良昭ら多くの作家が調査のうえ、勝が知識としては持っており参考にした可能性が高いと結論づけている。
  18. ^ 当時、明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟を介して西郷の赦免、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを明治天皇に提案している。その後、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、菊次郎は外務書記生として米国公使館勤務となった。また、隆盛の弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、海舟は徳川家から借金をして寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡している。
  19. ^ 作家の山田風太郎は、自身の著書『人間臨終図巻』の中で、勝のこの言葉を「臨終の際の言葉としては最高傑作」と評している
  20. ^ 当初は子爵の内示だったが、左記の感想を述べ辞退、のちに伯爵を授爵したという説と伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌という説がある。だが、宮島誠一郎が語った上記の逸話を踏まえれば「伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌」という説の方が自然とも言える。勝の身長は実際に五尺ちょっとで、当時の人の中にあっては実際人並みであるが、西郷など長身だった者も維新で活躍した中には多く、その自身の身長に掛けている。事実、勝は自分のことをよく「小男」などと表現している
  21. ^  勝が没後、勝家は男子の後継者を法的に定めておらず、女戸主となり一旦爵位を返上している。[1]なお精の代に3回家宝の売立てを行っている。小田部雄次 『家宝の行方』、115頁。

参考文献

勝海舟を主題とした作品

小説

映画

テレビドラマ

謡曲

登場作品

テレビドラマ

外部リンク

 

爵位
先代:
勝小吉
勝伯爵家
初代:1887年5月9日 - 1899年1月19日
次代:
勝精
 
 
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勝海舟」の書誌情報