浅草

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浅草(あさくさ)は、東京都台東区町名。または、旧東京市浅草区の範囲を指す地域名である。 

浅草(地域)

東京都台東区のおよそ西半分を範囲とし、江戸東京下町を構成している地域のひとつである。浅草は下谷本所深川と並ぶ、東京下町の外郭をなす。概ね東京旧市内高台に比べ低地を多く占める旧区分を下町としている。そのため旧浅草区に属する浅草地域は下町にあたる。

下谷区との合併後も住居表示導入以前は「浅草○○町」と旧浅草区内大半の町が浅草を冠称していた。区画ごとに住居表示実施による町名変更を行ったため、旧下谷区と旧浅草区との境目を、一目で境目を判別するのは難しくなっている。現在においては町会、警察署や消防署の管轄などで当時の区境や町境を継承している。

江戸時代以降より繁華街のひとつとして栄えてきた。関東大震災では浅草台地の固い地盤で揺れによる被害よりも主に火災で焼かれた後、東京府都市計画により道路拡張をはじめ新たに市街地化された。高度経済成長期以降は山手線沿線の池袋新宿渋谷などの発展により、東京都が制定する副都心(7か所)として、上野駅近辺と共に上野・浅草副都心を形成。現在も下町情緒を感じさせる観光の街として賑わっている。

浅草地域西端と下谷地域の境にあたる合羽橋道具街では厨房で使用する業務用調理器具関連用品を取り扱う個性的な商店街が存在。浅草地域南部には問屋街が広がっている。

裏浅草と称されている浅草寺以北の浅草地域には多くの中小の工場や日雇い街、吉原跡にはソープランド街が存在。浅草地域は様々な意味合いで下町らしさが色濃いエリアある。

歴史

 
広重「猿わか町の夜」。猿若町(現・浅草6丁目)には江戸三座があり、劇場街として賑わった

628年推古天皇の時代、この土地の漁師、檜前浜成・竹成兄弟が、隅田川で観音像を網で掬い上げ礼拝供養した。

浅草寺一帯は太古の時代から浅草台地の微高台で現在の待乳山弁天山蔵前鳥越神社付近などから陸地化が進み隅田川の河口近くで海の幸にも恵まれ官道も通り、やや高台でもあって災害からも避難しやすい土地だったため町の発展が早かった。

吾妻鏡」の1181年養和元年)の条に浅草の名が見える。古くから浅草寺門前町として栄えていた。

また江戸湊品川湊と並んで、武蔵国の代表的な港である浅草の港が、石浜(現在の台東区橋場)や今津(現在の台東区今戸町)にあったとされる。また、隅田川は江戸時代に境目が変更される以前は武蔵国下総国の境目であり、中世後期には浅草から石浜にかけて境目の城である石浜城が築かれていた(ただし、荒川区南千住に所在地を比定する説もある)。

江戸時代に浅草が発展した要因は、浅草御蔵(蔵前)に米蔵が設置され札差株仲間)が登場してきたためと言われている。

蔵前では、日本全国から集められた侍や江戸庶民たちの食用米、城で働く武士たちの給料としての米などを保管していた。いわば金蔵みたいなもので、これを守るために大勢の警備が配置され、下級役人が暮らしていた。

江戸時代、武士の給料は米で支払われていたため、武士たちのために米を保管するだけでなく現金にも替えてくれる札差という商人が出てきた。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡していた。

そして現物で手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料を付けて売っていた。札差は武士と小売の両方から手数料を取るため莫大な利益が出た。さらに儲かったお金を武士たちに利子を付けて貸していたため札差は大富豪が多く豪遊する場として浅草は江戸文化が発展した。

また両国(現在の東日本橋)を中心に蔵前商人は店を構えていたので、商人や武士たちの多くが浅草周辺に集まった。

中でも浅草は江戸で最も人が集中するところで人・物・金が集まってきた。 1657年(明暦3年)の明暦の大火の後、日本橋芳町(現在の日本橋人形町)から新吉原遊廓が移転してきた。

1841年天保12年)人形町中村座の失火をきっかけとして市村座浄瑠璃の薩摩座、操り人形の結城座が焼失したことから、河原崎座を含めた江戸市中の芝居小屋を現在の浅草六丁目一帯(丹波園部藩主、小出邸の跡地面積約一万坪)に集め、猿若町と名づけて芝居町とした。

札差は武士と共に新吉原歌舞伎座を借り切りし豪遊(接待)したり、舟遊びをしたと伝えられる。当時、芝居小屋や吉原に出入りしては(いき)を競い、豪遊を行った町人を通人(つうじん)と呼んだが、中でも「十八大通」と呼ばれた人々がおり、その多くは札差連中であった。歌舞伎の演目「助六」のモデルとも言われている大口屋暁雨などが有名である。浅草の庶民文化、江戸の粋にはこのような背景がある。

明治には東京市15区の名前の一つに「浅草」が採用された。また浅草寺を中心とした地区を近代的に公園化。それが東京初の都市公園とされる浅草公園となった。

浅草公園を6つの区に分けたことから、『浅草公園六区』と呼称されるようになった。なお浅草公園周辺の最も賑わいを見せた繁華街を第六区と呼称する場合も多い。

 

明治に12階建ての凌雲閣が建てられ、新たに演芸場や劇場等が建ち、東京らしい文化の発信地として知られるようになった。関東大震災以降の興行界は松竹の進出が本格的となり戦前の昭和においては有楽町に進出した東宝と覇を争った。戦後は松竹歌劇団(SKD)の本拠地である国際劇場ロック座フランス座などのストリップ興行で賑わった。

昭和に入り、戦災により一時期の繁栄の勢いが失われたが、戦後には千束地域には朝鮮マーケットが開かれ[1]浅草寺周辺をはじめ、田原町、蔵前合羽橋周辺の旧浅草区の道路インフラ整備が進み、拡幅された碁盤の目をもつ街並みとなった。 昭和初期には西浅草に森下仁丹が広告塔を建設。仁丹塔の愛称で戦後も長らく親しまれたが1986年に解体された。

テレビの普及に因り昭和30年代後半から六区にあった映画館が次々と閉館し、それらの煽りで昭和40年代に入るとめっきり人通りは減少した。しかし平成を迎え浅草サンバカーニバル隅田川花火大会などの開催がテレビで取り上げられるようになると徐々に活気を取り戻すようになる。

加えて地方から観光バスが来るようになり、また人力車などの観光ガイドなどが雷門周辺に現れるようにもなった。更には昭和を懐かしむ高齢の観光客が増加していることや、羽田空港成田空港の両空港と鉄道で直結されるようになったこと、つくばエクスプレスの開通効果でマンション建設、飲食店の新規出店、雑誌やTV番組のグルメレポートで紹介された店目当てに訪れる人々が増えたこともあって平日でも賑わうようになってきている。そして外国人観光客は移り変わりの激しい銀座よりも昔ながらの佇まいを色濃く残す浅草を東京の名所として訪れる傾向が強くなる。

2000年代初頭には複数の映画館が所在し映画館の街を保ってきた浅草であったが、2012年中映複数の映画劇場を閉鎖、そのため現在浅草地域に映画館は存在しない。特に2000年代以降の映画館事情は大きな動きを見せ、墨田区錦糸江東区木場及び豊洲シネマコンプレックスタイプの映画館を新設。2010年代後半には上野に映画館の新規建設が予定されているなど映画館の街浅草は過去の話になっている。

地域

浅草(町名)

浅草
Asakusa
Flag of Japan.svg 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
特別区 Flag of Taito, Tokyo.svg 台東区
地域 浅草地域
郵便番号 111-0032

 

浅草1丁目から7丁目まで設けられている。浅草寺を囲んだ観光の街及び中小工場の街である。

地理

浅草地域東部に位置し、墨田区向島)との区境にあたる。

河川・架橋

施設

行政

公園

教育

観光

店舗

交通

鉄道

バス

道路

著名人

作品

文学
漫画
ドラマ
映画
テレビ

画像

脚注

  1. ^ 第010回国会 法務委員会 第12号”. 衆議院. 国立国会図書館 (1951年3月22日). 2010年3月21日閲覧。

関連項目

外部リンク

 
 
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