読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

マルクス 3

この記事は クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0 のもとで公表されたカール・マルクス - Wikipediaを素材として二次利用しています。

 

バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争

 
ミハイル・バクーニン
ロシア貴族出の革命家でマルクスの旧友だったが、インターナショナルでは地方団体独立を主張して中央のマルクスと敵対。更にユダヤ陰謀論からマルクスの正体を怪しんだ。

ミハイル・バクーニンはロシア貴族の家に生まれがら共産主義的無政府主義の革命家となった異色の人物だった。

1844年にマルクスと初めて知り合い、1848年革命で逮捕され、シベリア流刑となるも脱走して、1864年に亡命先のロンドンでマルクスと再会し、インターナショナルに協力することを約束した。

そして1867年以来スイスジュネーブでインターナショナルと連携しながら労働運動を行っていたが、1869年夏にはインターナショナル内部で指導的地位に就くことを望んでインターナショナルに参加した人物だった[497][498]

バクーニンは、これまでマルクスを称賛してきたものの、マルクス権威主義的組織運営に対する反感を隠そうとはしなかった[499]

彼はマルクスの中央権力を抑え込むべく、インターナショナルを中央集権組織ではなく、半独立的な地方団体の集合体にすべきと主張するようになった。この主張は、スイスやイタリアスペインの支部を中心にマルクスの独裁的な組織運営に反発するメンバーの間で着実に支持を広げていった[500]

しかしマルクスの考えるところではインターナショナルは単なる急進派の連絡会であってはならず、各地に本部を持ち統一された目的で行動する組織であるべきだった。だからバクーニンの動きは看過できないものだった[501]

しかもバクーニンは強烈な反ユダヤ主義者であり、インターナショナル加盟後も

ユダヤ人はあらゆる国で嫌悪されている。だからどの国の民衆革命でもユダヤ人大量虐殺を伴うのであり、これは歴史的必然だ」などと述べてユダヤ人虐殺を公然と容認・推奨していた[502]

だからマルクスとの対立が深まるにつれてバクーニンマルクス批判の調子もだんだん反ユダヤ主義ユダヤ陰謀論の色彩を帯びていった[503]

たとえば

マルクス共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」[504]

「この世界の大部分は、片やマルクス、片やロスチャイルド家の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルド共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。」

ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」

「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲となるだろう。ラテン系の人たちだけがユダヤの世界制覇の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である[502]

 

ヨーロッパ中でインターナショナルの批判が高まっている時であったからバクーニンのこうした粗暴な反ユダヤ主義はインターナショナル総評議会にとっても看過するわけにはいかないものだった。

評議会は1872年6月にマルクスの書いた『インターナショナルにおける偽装的分裂』を採択し、その中でバクーニンについて人種戦争を示唆し、労働運動を挫折させる無政府主義者の頭目であり、インターナショナル内部に秘密組織を作ったとして批判した[505]

同じころ、バクーニンの友人セルゲイ・ネチャーエフがバクーニンのために送った強請の手紙を入手したマルクスは、1872年9月にオランダハーグで開催された大会においてこれを暴露した。劇的なタイミングでの提出だったのでプルードン派もバクーニン追放に回り、大会は僅差ながらバクーニンをインターナショナルから追放する決議案を可決させた[506][507]

インターナショナルの終焉

バクーニンを追放することには成功したマルクスだったが、ハーグ大会の段階でインターナショナルにおけるマルクスの権威は失われていた。イギリス人メンバーがマルクスの反対派に転じていたし、親しかったエカリウスとも喧嘩別れしてしまっていた[508]

ハーグ大会の際、エンゲルスが自分とマルクスの意志として総評議会をアメリカ・ニューヨークに移すことを提起した。エンゲルスはその理由として「アメリカの労働者組織には熱意と能力がある」と説明したが、そうした説明に納得する者は少なかった。

インターナショナル・アメリカ支部はあまりに小規模だった[509][510]エンゲルスの提案は僅差で可決されたものの、「ニューヨークに移すぐらいなら月に移した方がまだ望みがある」などという意見まで出る始末だった[510][511]

ザ・スペクテイター英語版』紙も「もはやコミューンの運気もその絶頂が過ぎたようだ。絶頂期自体さほど高い物でもなかったが。そこがロシアでもない限り、再び運動が盛り上がる事はないだろう」と嘲笑的に報じた[511]

 

なぜエンゲルスマルクスがこのような提案をしたのか、という問題については議論がある。

マルクスは大会前に引退をほのめかす個人的心境をクーゲルマンに打ち明けており、彼が『資本論』の執筆のために総評議員をやめたがっていたことは周知の事実だった。このことから、マルクスはインターナショナルを終わらせるためにこのような提案をしたのだという見解がでてくる[512]

しかしこの説には疑問が残る。というのも、ハーグ大会でマルクスたちはむしろ総評議会の権限を強化しているし、大会後のマルクスエンゲルスの往復書簡の内容はどのように読んでも彼らがインターナショナルを見限ったと解釈できるものではないからだ。

したがってもう一つの説として、マルクスは本部をアメリカに移すことによってインターナショナルを危機から遠ざけ、ハーグ大会での「政治権力獲得のための政党の組織」(規約第7条付則)の決議に沿うようにアメリカで社会主義政党結成を支援していたインターナショナルの幹部フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲらアメリカのマルクス主義者を通じてその勢力を保とうとしたのではないか、という解釈も生まれる[513]

しかし結局のところ、アメリカでのインターナショナルの歴史は長くなかった。最終的には1876年のフィラデルフィア大会において解散決議が出され、その短い歴史を終えることとなった[506]

インターナショナルの再建にはその後13年待たなければならない(マルクスはすでに死去)。

再建された第二インターナショナルは、イギリス労働党フランス社会党ドイツ社会民主党ロシア社会民主党といった有力政党を抱えるヨーロッパの一大政治組織になった。第二インターナショナルはドイツのベルンシュタインからロシアのレーニンまで多様な政治的色彩をもつ党派の連合体だった。

 

『ゴータ綱領批判』

 
ヴィルヘルム・リープクネヒト
基本的にマルクスに忠実な部下だが、アイゼナハ派とラッサール派の合同はマルクスの意に沿わぬ形で行い、マルクスから『ゴータ綱領批判』で批判を受けた。

ドイツではラッサール派の信望が高まっている時期だった。

インターナショナルも衰退した今、アイゼナハ派のリープクネヒトとしては早急にラッサール派と和解し、ドイツ労働運動を一つに統合したがっていた。

ドイツの内側にいるリープクネヒトから見ればマルクスエンゲルスは外国にあってドイツの政治状況も知らずに妥協案を拒否する者たちであり、政治的戦術にかけては自分の方が把握できているという自負心があった[514]

すでにアイゼナハ派はオーストリアも加えたドイツ統一の計画を断念していたし、ラッサール派も1871年にシュヴァイツァーが党首を辞任して以来ビスマルク寄りの態度を弱めていたから両者が歩み寄るのはそれほど難しくもなかった。

ただ対立期間が長かったので冷却期間がしばらく必要なだけだった。だからその冷却期間も過ぎた1875年2月にはゴータで両党代表の会合が持たれ、5月にも同地で大会を開催のうえ両党を合同させることが決まったのである[515][516]

この合同に際して両党の統一綱領として作られたのがゴータ綱領ドイツ語版だった。

ラッサール派は数の上で優位であったにも関わらず、綱領作成に際して主導権を握ることはなかった。彼らはすでにラッサールの民族主義的な立場や労働組合への不信感を放棄していたためである。そのためほぼアイゼナハ派の綱領と同じ綱領となった[517]

リープクネヒトはマルクスにもこの綱領を送って承認を得ようとしたが、マルクスはこれを激しく批判する返事をリープクネヒトに送り、エンゲルスにも同じような手紙を送らせた[514]

この時のマルクスの手紙を後に編纂して出版したものが『ゴータ綱領批判』である。

マルクスから見れば、この綱領は最悪の敵である国家の正当性を受け入れて「労働に対する正当な報酬」や「相続法の廃止」といった小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるという迷信に立脚したものであり、結局は国家を支え、資本主義社会を支える結果になるとした[518]

マルクスは、綱領に無意味な語句や曖昧な自由主義的語句が散りばめられていると批判した[518]

とりわけ「公平」という不明瞭な表現に強く反発した[519]。自分の著作の引用部分についてもあらさがしの調子で批判を行った[520]。ラッサール派の影響を受けていると思われる部分はとりわけ強い調子で批判した。

綱領の中にある「労働者階級はまず民族国家の中で、その解放のために働く」については「さぞかしビスマルクの口に合うことだろう」と批判し[520]。「賃金の鉄則」はラッサールがリカードから盗んだものであり、そのような言葉を綱領に入れたのはラッサール派への追従の証であると批判した[520]

また綱領が「プロレタリアート独裁」にも「未来の共産主義社会の国家組織」にも触れず、「自由な国家」を目標と宣言していることもブルジョワ的理想と批判した[520]

 

リープクネヒトはマルクスからの手紙をいつも通り敬意をこめて取り扱ったものの、これをつかうことはなく、マルクスエンゲルスも党の団結を優先してこの批判を公表しなかった[518][521]

ゴータ綱領は、わずかに「民族国家の中で」という表現について「国際的協力の理想へ向かう予備的段階」であることを確認する訂正がされただけだった[521]。ゴータ綱領のもとにドイツ社会主義労働者党が結成されるに至った。

これについてマルクスは口惜しがったし[521]、この政党を「プチブル集団」「民主主義集団」と批判し続けたが[522]マルクスの活動的な生涯はすでに終わっており、受けた打撃もそれほど大きいものではなかったという[521]

マルクスの死後、ドイツ社会主義労働者党ではマルクス派が優勢になり、1891年にはドイツ社会民主党と党名を変更する。そのとき、ドイツ労働運動界の長老だったエンゲルスは、ラッサール主義からの脱却の意図を込めて長らく非公開だったこの『ゴータ綱領批判』を出版した。

 

晩年の放浪生活

マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちだったが、1873年には肝臓肥大という深刻な診断を受ける。

以降鉱泉での湯治を目的にあちこちを巡ることになった。

1876年まではオーストリア=ハンガリー帝国カールスバートにしばしば通った[523]

1877年にはドイツ・ライン地方のバート・ノイェンアール=アールヴァイラー(Bad Neuenahr-Ahrweiler)にも行ったが、それを最後にドイツには行かなくなった。マルクスによれば「ビスマルクのせいでドイツに近づけなくなった」という[524]

1878年からはイギリス王室の私領であるチャンネル諸島で湯治を行った[525]

 

1880年秋からイギリス人社会主義ヘンリー・ハインドマンと親しくするようになった。

ハインドマンは1881年にイギリスでマルクス主義を標榜する社会民主主義連盟英語版を結成する。この組織にはエリノア・マルクスウィリアム・モリスも参加していたが、ハインドマンが1881年秋に出版した『万人のためのイギリス』の中で、『資本論』の記述を無断で引用した(マルクスの名前は匂わす程度にしか触れていなかった)ことをきっかけに、日頃ハインドマンを快く思っていなかったマルクスは彼との関係を絶った。

彼の社会民主主義連盟はその後もマルクス主義を称したが、エリノアやウィリアム・モリスマルクスの死後脱退し、社会主義同盟を結成することになる。

マルクス自身は死の直前でハインドマンと和解したが、エンゲルスはその後も社会民主主義連合を批判した[526]

結局、イギリス労働運動はケア・ハーディトム・マンらの独立労働党(のちのイギリス労働党)に収斂することになる。イギリス労働党第二インターナショナルの議会派の一翼を形成する。

 

1881年夏には妻イェニーとともにパリで暮らす既婚の長女と次女のところへ訪れた。マルクスは1849年以来、フランスを訪れておらず、パリ・コミューンのこともあるので訪仏したら逮捕されるのではという不安も抱いていたが、長女の娘婿シャルル・ロンゲフランス語版ジョルジュ・クレマンソーからマルクスの身の安全の保証をもらってきたことで訪仏を決意したのだった[527]

パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれた。

マルクスの悲しみは深かった。

「私は先般来の病気から回復したが、精神的には妻の死によって、肉体的には肋膜と気管支の興奮が増したままであるため、ますます弱ってしまった」[528]と語った。

エンゲルスはイェニーの死によってマルクスもまた死んでしまったとマルクスの娘エリノアに述べている[529]

 

独り身となったマルクスだったが、病気の治療のために1882年も活発に各地を放浪した。1月にはイギリス・ヴェントナー英語版を訪れたかと思うと、翌2月にはフランスを経由してフランス植民地アルジェリアアルジェへ移った[530][528][531]

北アフリカの灼熱に耐えかねたマルクスはここでトレードマークの髪と髭を切った[532]アルジェリアからの帰国途中の6月にはモナコ公国モンテカルロに立ち寄り、さらに7月にはフランスに行って長女イェニーの娘婿ロンゲのところにも立ち寄ったが、この時長女イェニーは病んでいた。

つづいて次女ラウラとともにスイスヴェヴェイを訪問したが、その後イギリスへ帰国して再びヴェントナーに滞在した[533][532][534]

死去

1883年1月12日に長女イェニーが病死した。その翌日にロンドンに帰ったマルクスだったが、すぐにも娘の後を追うことになった。3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見されたのである。64歳だった[535][536][537]

 

その3日後にハイゲイト墓地無宗教墓区域にある妻の眠る質素な墓に葬られた。

葬儀には家族のほか、エンゲルスやリープクネヒトなど友人たちが出席したが、大仰な儀式を避けたマルクスの意思もあり、出席者は全員合わせてもせいぜい20人程度の慎ましいものだった[538][539]

葬儀でエンゲルス

「この人物の死によって、欧米の戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が被った損失は計り知れない物がある」

ダーウィンが有機界の発展法則を発見したようにマルクスは人間歴史の発展法則を発見した」

マルクスは何よりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作り出された国家制度を転覆させることに何らかの協力をすること、近代プロレタリアート解放のために協力すること、これが生涯をかけた彼の本当の仕事であった」

「彼は幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら世を去った。同志はシベリアの鉱山からカリフォルニアの海岸まで全欧米に及んでいる。彼の名は、そして彼の仕事もまた数世紀を通じて生き続けるであろう」と弔辞を述べた[540][541]

 

マルクスの死後、イギリスでは労働党が1922年に労働党政権を誕生させる。フランスでは1936年に社会党共産党による人民戦線内閣が誕生。ドイツではドイツ社会民主党がワイマール共和国で長く政権を担当する。そしてロシアではレーニンの指導するロシア革命を経て、ソヴィエト連邦が誕生した。

マルクスの遺産は250ポンド程度であり、家具と書籍がその大半を占めた。それらやマルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられた。

エンゲルスマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に『資本論』第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版する[542][543][注釈 20]

マルクスの墓は1954年に墓地内の目立つ場所に移され、1956年には頭像が取り付けられている。

その墓には「万国の労働者よ、団結せよ」という彼の最も有名な言葉と『フォイエルバッハに関するテーゼ』から取った「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけである。問題は世界を変革することである」という言葉が刻まれている[545]

 

マルクスのもともとの墓(ロンドン、ハイゲイト墓地) 
1954年に移されたマルクスの新しい墓(ロンドン、ハイゲイト墓地) 
東ドイツ時代に建てられたマルクスの巨大頭像(ドイツ・ケムニッツ) 
ソ連時代に建てられたマルクス像(ロシアモスクワ革命広場ロシア語版) 
マルクスの肖像画(北朝鮮平壌・外国貿易省) 
マルクスエンゲルスレーニンスターリンの肖像画を掲げての行進(東ドイツ・ベルリンのマルクス・エンゲルス広場ドイツ語版) 

 

人物

健康状態・体格

小柄で肥満体形だった[546]

娘婿のポール・ラファルグは舅マルクスの体格について

「背丈は普通以上で肩幅は広く、胸はよく張り、四肢はバランスが良い。もっとも脊柱ユダヤ人種によく見られるように、脚の割に長かった」と評している。要するに短足で座高が高いので座っていると大きく見えたようである[547]

マルクスは病弱者ではなかったが、生活が不規則で栄養不足なことが多かったので、ロンドンで暮らすようになった頃からしばしば病気になった[548]

肝臓病脳病神経病など様々な病気に苦しんだ[549]

資本論』第1巻を執筆していた頃にはお尻のオデキに苦しみ、しばしば座っていることができず、立ちながら執筆したという。

この股間の痛みが著作の中の激しい憎しみの表現に影響を与えているとエンゲルスが手紙でからかうと、マルクスも「滅びる日までブルジョワジーどもが私のお尻のオデキのことを覚えていることを祈りたい。あのむかつく奴らめ!」と返信している[550]

また新陳代謝機能に障害があり、食欲不振・便秘胃腸カタルなどに苦しんだ。

この食欲不振を打ち払うために塩辛い物をよく口にした[551]

オットー・リュウレドイツ語版は著書『マルクス、生涯と事業』の中でここにマルクスの極端な性格の原因を求め、

マルクスは食事に関する正しい知識を持っておらず、ある時は少なく、ある時は不規則に、ある時は不愉快に食べ、その代わりに食欲を塩っ辛い物で刺激した。」

「悪しき飲食者は悪しき労作者であり、悪しき僚友でもある。彼は飲食について何も食わないか、胃袋を満杯にするかの二極だった。同じく執筆について執筆を全く面倒くさがるか、執筆のために倒れるかの二極だった。同じく他者について、人間を避けるか、誰もが利益せぬ全ての人と友になるかの二極だった。彼は常に極端に動く」と述べる[551]

酒好きであり[8]、またヘビースモーカーだった。

マルクスがラファルグに語ったところによると「資本論は私がそれを書く時に吸った葉巻代にすらならなかった」という。家計の節約のために安物で質の悪い葉巻を吸い、体調を壊して医者に止められている[552][553]

趣味・嗜好

詩や劇文学を愛好した。

古代ギリシャの詩人ではアイスキュロスホメーロスを愛した。とりわけアイスキュロスはお気に入りで、娘婿のラファルグによればマルクスは1年に1回はアイスキュロスギリシャ語原文で読んだという[554]

ドイツ文学ではゲーテハイネを愛していたが、ドイツから亡命することになった後はドイツ文学への関心は薄れていったという。亡命後のドイツ文学への唯一の反応はワーグナーを「ドイツ神話を歪曲した」と批判したことだけだった[555]

フランス文学ではディドロの『ラモーの甥』のような啓蒙文学とバルザックの『人間喜劇』のような写実主義文学を愛した[556]。特にバルザックの作品はブルジョワ社会を良く分析したものとして高く評価し、いつかバルザックの研究書を執筆したいという希望を周囲に漏らしていたが、それは実現せずに終わった[557][558]

逆にシャトーブリアンロマン主義作家のことは嫌った[555]

ロンドン亡命後にはイギリス文学にも関心を持った。イギリス文学ではやはりなんといってもシェイクスピアが別格だった。マルクス家は一家をあげてシェイクスピアを崇拝していたといっても過言ではない[558]

フィールディングの『トム・ジョーンズ』も愛した[558]。またロマン主義を嫌うマルクスだが、ウォルター・スコットの作品は「ロマン類の傑作」と評していた[558]

バイロンシェリーについては、前者は長生きしていたら恐らく反動的ブルジョワになっていたので36歳で死んで良かったと評し、後者は真の革命家であるので29歳で死んだことが惜しまれると評している[558]

イタリア文学ではダンテを愛した[553][559]

 

前述したように食欲不振に苦しみ、それを解消するためにハム、薫製の魚料理キャビアピクルスなど塩辛い物を好んで食べたという[553]

チェスが好きだったが、よくその相手をしたヴィルヘルム・リープクネヒトに勝てた例がなかった。マルクスは彼に負けるのが悔しくてたまらなかったという[560]

 

「告白」というヴィクトリア朝時代に流行った遊びでマルクスの娘たちの20の質問に答えた際、好きな色として、好きな花として月桂樹、好きなヒーローとしてスパルタクス、好きなヒロインとしてグレートヒェンをあげた[561]

 

他人に渾名を付けるのが好きだった。妻イェニーはメーメ、三人の娘たちはそれぞれキーキ、コーコ、トゥシーだった[559][562]

エンゲルスのことは「安楽椅子の自称軍人」(彼は軍事研究にはまっていた)という意味で「将軍」と呼んだ[563][564]

ヴィルヘルム・リープクネヒトは「幼稚」という意味で「ヴィルヘルムヒェン(ヴィルヘルムちゃん)」[462]

ラッサールは色黒なユダヤ系なので「イジー男爵」「ユダヤニガー」だった[565]

マルクス自身もその色黒と意地悪そうな顔から娘たちやエンゲルスから「ムーア人」や「オールド・ニック(悪魔)」と渾名された[566][562][559]

マルクス当人は娘たちには自分のことを「ムーア人」ではなく、「オールド・ニック」あるいは「チャーリー」と呼んでほしがっていたようである[350]

家計

ロバート・L.ハイルブローナーは

「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」と語っている[567]

マルクス家の出納帳は収入に対してしばしば支出が上回っていたが、マルクス自身は贅沢にも虚飾にも関心がない人間だった[568]

マルクス家の主な出費は、マルクスの仕事の関係だったり、家族が中流階級の教育や付き合いをするためのものが大半だった。

マルクスは極貧のなかでも三人の娘が中流階級として相応しい教養をつけるための出費を惜しまなかったが、そのためにいつも借金取りや大家に追われていた。

マルクスは定職に就くことがなかったため(前述のように一度鉄道の改札係に応募しているが、断られている)、マルクス家の収入はジャーナリストとしてのわずかな収入と、エンゲルスをはじめとする友人知人の資金援助、マルクス家やヴェストファーレン家の遺産相続などが主だった。

友人たちからの資金援助はしばしば揉め事の種になった。

ルーゲやラッサールが主張したところを信じれば、彼らとマルクスとの関係が断絶した理由は金銭問題だった。1850年にはラッサールとフライリヒラートに資金援助を請うた際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたことがあり、マルクスは苛立って

「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口では言い表せないほど腹を立てている」と書いている[325]

エンゲルスの妻メアリーの訃報の返信として、マルクスが家計の窮状を訴えたことで彼らの友情に危機が訪れたこともある[568]。しかしエンゲルスは生涯にわたって常にマルクスを物心両面で支え続けた。

資本論』が完成した時、マルクスエンゲルスに対して「きみがいなければ、私はこれを完成させることはできなかっただろう」と感謝した[568]

人間関係

マルクス亡命者だったので、ロンドン、ブリュッセル、パリなどの亡命者コミュニティの中で生活した。

マルクスを支えたのは、イェニー、イェニーヒェン、ラウラ、エリノアなどの家族の他、エンゲルスのような親友、リープクネヒトやベーベルのような部下、ヴォルフやエカリウスのような同志たちだった。

マルクスはロンドンで学者コミュニティと接触があったようで、生物学者や化学者といった人たちと交流があった。ドイツの医師であるクーゲルマンとは頻繁に手紙のやり取りをしている。

マルクスダーウィンの仮説を称賛していて、自分の著した『資本論』をダーウィンに送っている。ダーウィンは謝辞の返信をだしているが、『資本論』自体はあまりに専門的すぎて最後まで読んでいなかったらしい。

マルクスは組織運営の問題や思想上の対立でしばしば論敵をつくった。マルクスの批判を免れた人には、ブランキハイネオコーナーガリバルディなどがいるが、プルードンフォイエルバッハバウアーデューリングマッツィーニバクーニンなどは厳しい批判にさらされた。

批判者からは以下のような意見が見られる。

 

1848年8月、当時ボン大学の学生だったカール・シュルツはケルンで開催された民主主義派の集会に出席したが、その時演説台に立ったマルクスの印象を次のように語っている。

「彼ほど挑発的で我慢のならない態度の人間を私は見たことがない。自分の意見と相いれない意見には謙虚な思いやりの欠片も示さない。彼と意見の異なる者はみな徹底的に侮蔑される。(略)自分と意見の異なる者は全て『ブルジョワ』と看做され、嫌悪すべき精神的・道徳的退廃のサンプルとされ、糾弾された。」[569]

アーノルド・ルーゲ

「私はこの争いを体裁の悪い物にしたくないと思って極力努力したが、マルクスは手当たり次第、誰に向かっても私の悪口を言う。マルクス共産主義者を自称するが、実際は狂信的なエゴイストである。彼は私を本屋だとかブルジョワだとか言って迫害してくる。我々は最悪の敵同士になろうとしている。私の側から見れば、その原因は彼の憎悪と狂気としか考えられない」と語る[195]

ミハイル・バクーニン

「彼は臆病なほど神経質で、たいそう意地が悪く、自惚れ屋で喧嘩好きときており、ユダヤの父祖の神エホバの如く、非寛容で独裁的である。しかもその神に似て病的に執念深い。彼は嫉妬や憎しみを抱いた者に対してはどんな嘘や中傷も平気で用いる。自分の地位や影響力、権力を増大させるために役立つと思った時は、最も下劣な陰謀を巡らせることも厭わない。」と語る[570]

マルクスの伝記を書いたE・H・カー

「彼(マルクス)は同等の地位の人々とうまくやっていけた試しがなかった。政治的な問題が討議される場合、彼の信条の狂信的性格のために、他の人々を同等の地位にある者として扱うことができなかった。彼の戦術はいつも相手を抑えつけることであった。というのも彼は他人を理解しなかったからである。彼と同じような地位と教育をもっていて政治に没頭していた人々の中では、エンゲルスのように彼の優位を認めて彼の権威に叩頭するような、ごく少数の者だけが彼の友人としてやっていくことができた」と評している[373]

マルクス主義者のフランツ・メーリングさえも

「(マルクスが他人を批判する時の論法は)相手の言葉を文字通りとったり、歪曲したりすることで、考え得る限りのバカバカしい意味を与えて、誇張した無軌道な表現にふけるもの」

と批判している[571]。メーリングはラッサールはじめマルクスが批判した他の社会主義者を弁護することが多いが、彼はその理由として

マルクスは超人ではなかったし、彼自身人間以上のものであることを欲しなかった。考えもなく口真似することこそは、まさに彼が一番閉口したことであった。彼が他人に加えた不正を正すことは、彼に加えられた不正を正すことに劣らず、彼の精神を呈して彼を尊敬することなのだ。」と述べている[572]

思想

エンゲルスとの関係

マルクスエンゲルスは生涯盟友として活動していたため、その思想はつねに一致していたとしばしば捉えられる。確かに彼らは頻繁に往復書簡で思想交流をしていたために大きな意見の違いはなかったが、マルクスエンゲルスの思想の差異を指摘する研究者もいる。

たとえばエンゲルスは『反デューリング論』でマルクス主義が一貫した体系という性格をもっていることを指摘したが、マルクス自身は自分の論稿を常に一貫した体系として提示したわけではなかった。

またエンゲルスは『自然弁証法』で弁証法哲学自然科学の領域にも応用できることを示したが、これについてマルクスは「ぼくは時間をとって、その問題についてじっくり考え『権威たち』の意見を聞くまでは、あえて判断をくださないようにしよう」と返信している[573]

とはいえマルクスエンゲルスは、多くの領域の著作を執筆段階で密接に意見を交換し合って執筆しており、基本的な認識及び価値観を共有していることは明らかである。エンゲルスマルクス死後、マルクスの著作の正当性を管理する立場に立った。

「決定論」

マルクスの思想体系は「経済決定論」だという批判がしばしばある。

その含意は、社会や政治や心理の発展過程はすべて経済に規定されているとマルクスは考えていた、というものである[574]。また、カール・ポパーアイザイア・バーリンマルクスヘーゲル主義的な「歴史決定論」に陥っていると批判している[575]

 

マルクスヘーゲルの言う「理性の狡知」の論理をしばしば用いたのは事実だが、マルクス自身は人間の主体性や歴史の偶然性を度々認めている。

たとえばイーグルトンマルクスが初期の著作で人間の類的存在と歴史に対する能動的な役割を認めていたことを指摘する[576]

またマルクスは『フォイエルバッハ・テーゼ』で

「環境の変革と教育に関する唯物論の学説は、環境が人間によって変革され、教育者自身が教育されなければならないことを忘れている」と書いているし[577]、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』では、マルクス自身がプルードンが歴史的決定論に陥っていると批判している[578]

 

E.H.カーは、カール・ポパーアイザイア・バーリンマルクス主義を歴史決定論であると批判したことに触れて、マルクスの立場は決定論ではなく、因果関係の重視であると反論している[579]

カーはマルクス

「もし世界史にチャンスの余地がなかったとしたら、世界史は非常に神秘的な性格のものになるであろう。もちろん、このチャンスそのものは発展の一般的傾向の一部になり、他の形態のチャンスによって埋め合わされる。しかし、発展の遅速は、初め運動の先頭に立つ人々の性格の『偶然的』性格を含む、こうした『偶然事』に依存する」

という発言を引用して、マルクスが単純な歴史決定論ではないより精緻な態度をとっていることを指摘している。

ユダヤ人観

マルクスは自分がユダヤ人であることを否定したことも、逆にそれを積極的にアピールしたこともなかった。これはマルクスの娘エリノア・マルクスが自分がユダヤ人であることを誇りを持ってアピールしていたのと対照的であった[580]

マルクス自由主義的なライン地方に生まれ育ち、6歳のときに親の方針でキリスト教に改宗していたのでハイネラッサールのようにユダヤ人の出自で苦しむということは少なかった[581]

しばしば見られる批判として、マルクスユダヤ人を蔑視していた、というものがある。マルクスがラッサールのことを「ユダヤニガー」と渾名したことや[注釈 21]マルクスが若い頃に書いた『ユダヤ人問題によせて』でユダヤ人のことを悪徳貸金業者として描写したことがその根拠となっている。

ユダヤ人問題によせて』でマルクスは、ブルーノ・バウアーユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに反論して、国家がユダヤ人を排除していることが職業へと向かわせていると指摘し、「実際的ユダヤ教」と「賤業」とを比喩的に同一視しながら、「クリスチャンがユダヤ人となり」、遂には人類全体を「実際的」ユダヤ教から解放する必要があると言っている[584]

また、

「他方、ユダヤ人が自分のこの実際的な本質をつまらぬものとみとめてその廃棄にたずさわるならば、彼らは自分のこれまでの発展から抜けでて、人間的解放そのものにたずさわり、そして人間の自己疎外の最高の実際的表現に背をむけることになる。」

ともいい、

ユダヤ人がユダヤ人的なやり方で自己を解放したのは、ただたんに彼らが金力をわがものとしたことによってではなく、貨幣が、彼らの手を通じて、また彼らの手をへないでも、世界権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教諸国民の実際的精神となったことによってなのである。ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になっただけ、それだけ自分を解放したのである。(中略)ユダヤ人の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である。」とも言っている[584]

労働者観

マルクスエンゲルス労働者を軽蔑していたという主張がある。

レオポルト・シュワルツシルトドイツ語版

マルクスエンゲルスは公にはプロレタリアートを人類の救済者と呼び、その独特の優れた性格を賛美してやまなかった。だが私的にはプロレタリアートについての彼らの言葉はますます尊大に侮蔑的になってきた。エンゲルスマルクスへの報告の中で、まるでプロイセン軍の軍曹が新兵に向かって用いるような言葉でプロレタリアを語っている。『あいつら』、『あの駄馬たち』、『何でも信じる愚かな労働者』」と主張する[585]

マルクスに批判的なシュロモ・アヴィネリ英語版

プロレタリアートが自らのゴールを設定し、他からの援助なしにそれを実現する能力に関してマルクスが懐疑的であったことは様々な資料からうかがい知れる。このことは革命は決して大衆から起こることはなく、エリート集団から発するものだという彼の見解とも一致する」と主張する[586]

ロバート・ペイン英語版

マルクスは人間を侮蔑していた。とりわけ彼がプロレタリアートと呼んだ人種を」と主張する[586]

 

一方フランシス・ウィーン英語版は、アヴィネリの批判について「様々な資料」というが何のことなのか具体的に指摘していないと批判し、そこには「雑魚に対するマルクスの侮辱は世界的に知れているので実証するまでもない」という態度があると批判する[587]

マルクスが労働者を侮辱した例としてアヴィネリが上げるヴィルヘルム・ヴァイトリングについては

マルクスはヴァイトリングに対して実に寛大だった。その信念のために罰せられた哀れな仕立て職人を邪険に扱うべきではないと言ったのは他でもないマルクスであり、二人の関係にひびが入ったのはマルクスが最下層の人間を侮蔑していたからではなく、ヴァイトリングの耐えがたいほど自己中心的な政治的および宗教的な誤謬のせいであった。むしろヴァイトリングが労働者階級ではなく中産階級者だったらもっと激しい攻撃を加えていただろう」と述べている[587]

またウィーンは、同じくアヴィネリがマルクスから侮辱を受けた労働者の同志として例示するヨハン・ゲオルク・エカリウスドイツ語版についても、マルクスは彼自身悲惨な生活を送っていた1850年代を通じてエカリウスの生活に気をかけていたことを指摘する。

ワシントンにいる同志のジャーナリストに依頼してエカリウスの論文が新聞に掲載されるよう取り計らったり、またエカリウスが病気になった時には、エンゲルスに依頼してワインを送ったり、エカリウスの子供たちが死んだ時にも葬儀費用を稼ぐための募金活動を行ったことを指摘した。

そして「にもかかわらず、マルクスはただの仕立職人には狭量な軽侮の念を抱いていたなどという旧態依然たる戯言を未だに繰り返す研究者がなんと多いことか」と嘆いている[588]

戦争観

マルクスは戦争を資本主義社会や階級社会に特有の付随現象と見ていた[589]。だが労働者階級が戦争に対して取るべき態度については、戦争の前提と帰結から個別に決めていく必要があると考えていた[589]。とりわけその戦争がプロレタリア革命にとって何を意味しているかを最も重視した[590][591]

1848年革命中の『新ライン新聞』時代には、諸国民の春に対してヨーロッパの憲兵として振舞ったロシアと開戦すべきことを盛んに煽ったし[299]クリミア戦争も反ロシアの立場から歓迎した[385]

イタリア統一戦争では反ナポレオン3世の立場からオーストリアの戦争遂行を支持し、参戦せずに中立の立場をとろうとするプロイセンを批判した[390]

普墺戦争も連邦分立状態が続くよりはプロイセンのもとに強固にまとまる方がプロレタリア闘争に有利と考えて一定の評価をした[465]

しかし弟子たちの模範になったのは、普仏戦争に対する次のようなマルクスの立場だった。

普仏戦争勃発時、マルクスは戦争を仕掛けたナポレオン3世に対してドイツの防衛戦争を支持したが、戦争がフランス人民に対する侵略戦争と化せば、その勝敗にかかわらず両国に大きな不幸をもたらすだろうと警告した。

「差し迫った忌まわしい戦争がどのような展開を見せようと、すべての国の労働者階級の団結が最後には戦争の息の根を止めるだろう。公のフランスと公のドイツが兄弟殺しにも似た諍いをしているあいだにも、フランスとドイツの労働者たちは互いに平和と友好のメッセージを交換し合っているという事実。歴史上、類を見ないこの偉大な事実が明るい未来を見晴らす窓を開けてくれる」[592]

マルクスのこの立場は、職業軍人による十九世紀的な戦争から、二十世紀的な国民総動員へと戦争の性格が変わっていくにつれ、彼の弟子たちにますます重視されるようになった。

 

各国観

プロイセン政府に追われてからのマルクスは、基本的にコスモポリタンで、『共産党宣言』には「プロレタリアは祖国を持たない」という有名な記述がある。

そのため、労働貴族が形成されつつあったイギリスの労働者階級や、ナポレオン三世の戴冠を許したフランスの労働者階級のナショナリズムにはしばしば厳しい批判を行っている[593]

他方、イギリスのチャーチスト運動やフランスのパリコミューンを遂行した労働者の階級意識は評価するなど、マルクスの各国観は民族的偏見というよりはむしろ階級意識が評価の基準だった[483]

ヨーロッパ列強に支配されていたポーランドアイルランド民族主義については、これを支援している。またマルクス自身はドイツ人だったが、自分をほとんどドイツ人とは認識していなかったようである。プロイセン政府は専制体制と評価し、これを批判していた。

十九世紀、ヨーロッパの憲兵として反革命の砦だったロシアには非常に当初厳しい評価を下している。E.H.カーはこれをスラブ人に対するドイツ的偏見と解釈していた[594]

マルクス自身はロシアの将来について、

「もし農民が決起するなら、ロシアの一七九三年は遠くないであろう。この半アジア的な農奴のテロル支配は史上比類ないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝のにせの改革につぐ、ロシア史上第二の転換点となり、次はほんとうの普遍的な文明を打ち立てるだろう」と予測している(『マルクスエンゲルス全集』12巻648頁)。

1861年の農奴解放令によって近代化の道を歩み始めて以降のロシアに対しては積極的に評価し、フロレンスキーの『ロシアにおける労働者階級の状態』を読み、

「きわめてすさまじい社会革命が-もちろんモスクワの現在の発展段階に対応した劣ったかたちにおいてではあれ-ロシアでは避けがたく、まぢかに迫っていることを、痛切に確信するだろう。これはよい知らせだ。ロシアとイギリスは現在のヨーロッパの体制の二大支柱である。それ以外は二次的な意義しかもたない。美しい国フランスや学問の国ドイツでさえも例外ではない」と書いている(『マルクス・コレクション7』p.340-342)。

更に死の2、3年前には

「ロシアの村落的共同体はもし適当に指導されるなら、未来の社会主義的秩序の萌芽を含んでいるかもしれぬ」とロシアの革命家ヴェラ・ザスーリッチに通信している[595]

植民地観

マルクスは、『共産党宣言』では、ポーランド独立運動において「農業革命こそ国民解放の条件と考える政党」を支持し[596]、1867年のフェニアンによるアイルランド反乱の際には、、植民地問題をイギリスの社会革命の一環として捉えるようになる。

マルクスによれば、当時イギリスに隷属していたアイルランドはイギリスの地主制度の要塞になっている。イギリスで社会革命を推し進めるためには、アイルランドで大きな打撃を与えなければならない。

「他の民族を隷属させる民族は、自分自身の鉄鎖を鍛えるのである。」

「現在の強制された合併(すなわちアイルランドの隷属)を、できるなら自由で平等な連邦に、必要なら完全な分離に変えることが、イギリス労働者階級の解放の前提条件である」[597]

 

他方、マルクスのインド・中国論にはオリエンタリズムという批判がある(たとえばサイードマルクス論)。しかし一方でマルクスのインド・中国論はヘーゲル的な歴史観によるものだという解釈もある[598]

マルクスによれば、イギリスのインド支配や中国侵略は低劣な欲得づくで行われ、利益追求の手段もまた愚かだった。しかしイギリスは、無意識的にインドや中国の伝統的社会を解体するという歴史的役割を果たした。マルクスによれば、この事実を甘いヒューマニズムではなく冷厳なリアリズムで確認するべきである。

「ブルジョワジーがひとつの進歩をもたらすときには、個人や人民を血と涙のなかで、悲惨と堕落のなかでひきずりまわさずにはこなかったではないか」。

 

ヨーロッパによって植民地、半植民地状態におかれたインドと中国の将来については、マルクスは次のように予測した。

「大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとってかわるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかりなげすてるか、このどちらかになるまでは、インド人は、イギリスのブルジョワジーが彼らのあいだに播いてくれた新しい社会の諸要素の果実を、取り入れることはないであろう。それはどうなるにしても、いくらか遠い将来に、この偉大で興味深い国が再生するのを見ると、期待してまちがいないようである」[599]

「完全な孤立こそが、古い中国を維持するための第一の条件であった。こうした孤立状態がイギリスの介入によってむりやりに終わらされたので、ちょうど封印された棺に注意ぶかく保管されたミイラが外気に触れると崩壊するように、崩壊が確実にやってくるに違いない」[600]

評価

マルクスの伝記作家フランシス・ウィーン英語版

「20世紀の歴史はマルクスの遺産のようなものだ。スターリン毛沢東チェ・ゲバラカストロも ―現代の偶像も、あるいは怪物も、みな自らをマルクスの後継者と宣言して憚らなかった。マルクスが生きていたら彼らをその通りに認めたかどうか、それはまた別問題だ。実際、彼の弟子を自称する道化たちは、彼の存命中からしばしば彼を絶望の淵に追いやることが少なくなかった。たとえば、フランスの新しい政党が自分たちはマルキシストであると宣言した時、マルクスはそれを聞いて『少なくとも私はマルキシストではない』と答えたという。それでも彼の死後、百年のうちに世界の人口の半数がマルキシズムを教義と公言する政府によって統治されるようになった。さらに彼の理念は経済学、歴史学、地理学、社会学、文学を大きく変えた。微賎の貧者がこれほどまでに世界的な信仰を呼び起こしながら、悲惨なまでに今なお誤解され続けているのは、それこそイエス・キリスト以来ではないだろうか」と評する[601]

 

同じくマルクスの伝記を書いたE.H.カー

マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」

「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」と述べつつ、

「彼の事業の最も良い弁護は結局バクーニンの『破壊の情熱は建設の情熱である』という金言の中に発見されるかもしれない。」

「彼の当面の目標は階級憎悪であり、彼の究極の目的は普遍的愛情であった。一階級の独裁、―これが彼の建設的政治学への唯一の堅固で成功した貢献であるが― は階級憎悪の実現であり延長であった。それがマルクスによってその究極の目的として指定された普遍的愛情の体制へ到達する可能性があるか否かは、まだ証明されていない」

「しかしマルクスの重要性は彼の政治思想の狭い枠を超えて広がっている。ある意味でマルクスは20世紀の思想革命全体の主唱者であり、先駆者であった」と評している[602]

 

同じくマルクスの伝記を書いたアイザイア・バーリン

マルクスは自分の思想が他の思想家に負うていることを決して否定しようとはしなかった。」

マルクスの求める指標は目新しさではなく、真理であった。彼はその思想が最終的な形を取り始めたパリ時代の初期に他人の著作の中に真理を発見すると自己の新しい総合の中にそれを組み入れようと努力した」

「それゆえマルクスが発展させた何らかの理論について、その直接の源流をたどってみることは比較的に簡単なことである。だがマルクスの多くの批判者はこのことにあまりにも気を遣いすぎているように思える。彼の諸見解の中で、その萌芽が彼以前や同時代の著作家たちの中にないようなものは、恐らく何一つないといっていい[注釈 22]。」

マルクスはこれら膨大な素材をふるいにかけて、その中から独創的で真実かつ重要と思えるものを引き出してきた。そしてそれらを参照しつつ、新しい社会分析の方法を構築したのである。」

「この長所は簡明な基本的諸原理を包括的・現実的にかつ細部にわたって見事に総合したことである」

「いかなる現象であれ最も重要な問題は、その現象が経済構造に対して持っている関係、すなわちこの現象をその表現とする社会構造の中での経済力の諸関係に関わるものであると主張することによって、この理論は新しい批判と研究の道具を作り出したのである。」

「社会観察の上に立って研究を行っている全ての人は必然的にその影響を受けている。あらゆる国の相争う階級、集団、運動、その指導者のみならず、歴史家、社会学者、心理学者、政治学者、批評家、創造的芸術家は、社会生活の質的変化を分析しようと試みる限り、彼らの発想形態の大部分はカール・マルクスの業績に負うことになる」

「その主要原理の誇張と単純化した適用は、その意味を大いに曖昧化し、理論と実践の両面にわたる多くの愚劣な失策は、マルクスの理論の名によって犯されてきた。それにも関わらず、その影響力は革命的であったし、革命的であり続けている」と評する[604]

 

マルクスの若いころの伝記を書いた城塚登マルクスは元々経済学の人ではなく、哲学の人であり、「人間解放」という哲学的結論に達してから経済学に入ったがゆえに、それまでの国民経済学者と異なる結論に達したと主張する[605]。そんなマルクスのことをフェルディナント・ラッサールは「経済学者になったヘーゲルであり、社会主義者になったリカード」と表現した[606]

 

家族

 
マルクスの非嫡出子を儲けたマルクス家のメイドのヘレーネ・デムートドイツ語版

1836年にトリーア在住の貴族ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンドイツ語版の娘であるイェニー(ジェニー)ドイツ語版と婚約し、1843年に結婚した[607][149]

マルクスは反貴族主義者だが、妻が貴族であることは非常に誇りにし、妻には「マダム・イェニー・マルクス。旧姓バロネッセ(男爵令嬢)・フォン・ヴェストファーレン」という名刺を作らせて、商人や保守派相手にはしばしばそれを見せびらかした[608]。また困窮の時でもドイツの男爵令嬢にみすぼらしい恰好をさせるわけにはいかないとイェニーの衣服には金を使い、債権者を怒らせた[609]

 

マルクスの伝記作家は概してヴェストファーレン家の貴族としての家格を誇張しがちであるが、実際にはヴェストファーレン家は由緒ある貴族というわけではなく、ルートヴィヒの父であるフィリップドイツ語版の代に戦功で貴族に列したに過ぎない。

同家はスコットランド王室に連なるなどという噂もあるが、ヨーロッパでは多くの家がどこかで王室と繋がっているため、それは名門であることを意味しない。

ルートヴィヒはトリーアの統治を任せられていたわけではなく、一介の役人としてトリーアに赴任していただけである。プロイセン封建秩序の中にあってヴェストファーレン家など取るに足らない末席貴族であることは明らかであり、実質的な生活状態は平民と大差なかったと考えられる。

ただ末席貴族ほど気位が高いというのは一般によくある傾向であり、その末席貴族の娘がユダヤ人に「降嫁」するのは異例と言えなくもない[610]

 

イェニーの兄でルートヴィヒの跡を継いでヴェストファーレン家の当主となったフェルディナントドイツ語版は、マルクスとは対極に位置するような徹底した保守主義者であり、妹を「国際的に悪名高いユダヤ人」から引き離したがっていた[611][149]

また彼は1850年代の保守派の反転攻勢期にプロイセン内務大臣となり、時の宰相オットー・フォン・マントイフェルの方針に背いてまでユンカーのための保守政治を推し進めた人物でもある[612]

一方イェニーの弟エドガードイツ語版マルクス夫妻の良き理解者であった。初期のマルクスの声明にはよく彼も署名していたが最後までマルクスと行動を共にしたわけではなく、後に渡米し、帰国後には自堕落に過ごしていた[613][614]

マルクスとイェニーは二男四女に恵まれた。マルクスは政治的生活では独裁的だったが、家庭ではおおらかな父親であり、「子供が親を育てねばならない」とよく語っていた[562]。晩年にも孫たちの訪問をなによりも喜び、孫たちの方からも愛される祖父だった[615]

長女ジェニー・カロリーナドイツ語版1844年-1883年)は、パリ・コミューンに参加してロンドンに亡命したフランス人社会主義シャルル・ロンゲフランス語版と結婚した[616][617]。彼女は父マルクスに先立って1883年1月に死去している[618]

次女ジェニー・ラウラドイツ語版1845年-1911年)は、インターナショナル参加のために訪英したフランス人社会主義ポール・ラファルグと結婚したが、子供はできなかった。ポールとラウラは、社会主義者は老年になってプロレタリアのために働けなくなったら潔く去るべきだ、という意見をもっていて、1911年にポールとともに自殺した[619]。彼らの自殺は当時ヨーロッパの社会主義者たちの間でセンセーションを巻き起こした。

長男エドガー(1847年-1855年)は義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレンに因んで名づけられた[620]マルクスはこの長男エドガーをとりわけ可愛がっていた。娘に冷たいわけではなかったが、息子の方により愛着を持っていた[621]

1855年4月のエドガーの死にあたってマルクスは絶望し、この3カ月後にラッサールに送った手紙の中で「真に偉大な人々は、自然の世界との多くの関係、興味の対象を数多く持っているので、どんな損失も克服できるという。その伝でいけば、私はそのような偉大な人間ではないようだ。我が子の死は私を芯まで打ち砕いた」と書いている[622]

次男ヘンリー・エドワード・ガイ(1849年-1850年)はイギリス議会爆破未遂犯ガイ・フォークスに因んで名付けたが[563]、ディーン通りに引っ越す直前に幼くして突然死した[623]

三女ジェニー・エヴェリン・フランセス(1851年-1852年)もディーン通りの住居で気管支炎により幼い命を落としている[624]

四女ジェニー・エリノア1855年-1898年)は、三人の娘たちの中でも一番のおてんばであり、マルクスも可愛がっていた娘だった。とりわけ晩年のマルクスは彼女が側にいないと、いつも寂しそうにしたという[625]

彼女はイギリス人社会主義エドワード・エイヴリング英語版と同棲するが、このエイヴリングは女ったらしで、やがて女優と結婚することが決まるとエリノアが邪魔になり、彼女を自殺に追い込む意図で心中を持ちかけた。

エリノアは彼の言葉を信じて彼から渡された青酸カリを飲んで自殺したが、エイヴリングは自殺せずにそのまま彼女の家を立ち去った[要検証 ]。明らかに殺人罪であるが、エイヴリングが逮捕されることはついになかった[626]

ヴェストファーレン家でイェニーのメイドをしていたヘレーネ・デムートドイツ語版(愛称レンヒェン)は、イェニーの母がイェニーのためにマルクス家に派遣し、以降マルクス一家と一生を共にすることになった。

彼女は幼い頃から仕えてきたイェニーを崇拝しており、40年もマルクス家に献身的に仕え、マルクス家の困窮の時にはしばしば給料ももらわず無料奉仕してくれていた[627][191]

彼女は1851年にディーン通りのマルクス家の住居においてフレデリック(フレディ)・デムートを儲けた[628]。フレディの出生証明の父親欄は空欄になっており、里子に出されたが、1962年に発見されたアムステルダムの「社会史国際研究所」の資料と1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙からフレディの父親はマルクスであるという説が有力となった[629]

このエンゲルス家の女中の手紙や娘のエリノアの手紙から、マルクスの娘たちはフレディをエンゲルスの私生児だと思っていて、エリノアはエンゲルスが父親としてフレディを認知しないことを批判していた事が分かる[630]

エンゲルス家の女中の手紙によれば、エンゲルスは死の直前に人を介してエリノアにフレディはマルクスの子だと伝えたが、エリノアは嘘であるといって認めなかった。それに対してエンゲルスは「トゥッシー(エリノア)は父親を偶像にしておきたいのだろう」と語ったという[631]

ちなみにフレディ当人は自分がマルクスの子であるとは最後まで知らなかった。彼はマルクスの子供たちの悲惨な運命からただ一人逃れ、ロンドンで旋盤工として働き、1929年に77歳で生涯を終えている[632]

マルクスの著作

 
1973年に東ドイツで出版された『資本論

 

脚注

[ヘルプ]

注釈

  1. ^ なお、2005年のイギリスBBCのラジオ番組の視聴者投票でもっとも偉大な哲学者に選ばれた[1]
  2. ^ プロイセン政府は1815年にもドイツ連邦規約16条に基づき、ユダヤ教徒公職追放を開始した。この措置とユダヤ人迫害機運の盛り上がりの影響でこの時期にユダヤ教徒から改宗者が続出した。ハインリヒ・ハイネエドゥアルト・ガンスらもこの時期に改宗している[16]マルクスの父ヒルシェルは当時トリーア市の法律顧問を務めていたため、やはり公職追放の危機に晒された。彼ははじめ改宗を拒否し、ナポレオン法典を盾に公職に止まろうとした。その主張は地方高等裁判所長官フォン・ゼーテからも支持を得ていたが、プロイセン中央政府法務大臣ドイツ語版フリードリヒ・レオポルト・フォン・キルヒアイゼンドイツ語版から例外措置はありえないと通告された。結局ヒルシェルはゼーテからの勧めで最終手段として改宗したのだった[17]
  3. ^ ヨーゼフ・シュンペーターマルクスの著作の傾向を看破したものとしてこの評価に注目しており、「マルクスがこの種の文体を使った時は、いつも何らかの隠さなければならない弱点があると見てよい」と評している[41]
  4. ^ ヘーゲルは、当時プロイセンで最も高名な哲学者だった。ヘーゲルは、「この世の全てのものは矛盾をもっているので、不可避で否定を持つが、絶対的なもの(彼はこれを精神と見た)の意思に従って、否定から否定へとジグザグに動いて矛盾を解消して、より理性的な状態へと近づけていく運動である」と考えた。この概念で把握することを弁証法という[70][71]ヘーゲルのこの考えに従えば、理性的なものは必ず現実に現れてくるはずだし、現在の状態は、必ず理性的な部分があるということになる。ヘーゲルは「理性の最高段階は国家であり、あらゆる矛盾は国家によって解消される」と考えた。そして、プロイセン王国こそがそれを最も体現している国であるとした。プロイセン政府にとっては、フランス革命的な西欧自由主義への対抗として、都合のいい哲学であった。しかし、ヘーゲル1831年に死去し、その思想の継承者たちは右派・中央派・左派に分裂した。自由主義啓蒙主義思想から封建主義的なプロイセンの現状の批判する左派は、現実の中に理性を探すのではなく、理性によって現実を審査すべきとしてヘーゲル批判を行うようになった。若き日のマルクスも、このヘーゲル左派の立場に立った[72]
  5. ^ 前王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は優柔不断な性格の王でヘーゲル派のカール・フォム・シュタイン・ツム・アルテンシュタインドイツ語版文部大臣にしていたため、これまでヘーゲル左派への弾圧も比較的緩やかであった[94]
  6. ^ デモクリトスエピクロスはアトム(原子)を論じた古代ギリシャの哲学者。デモクリトスはあらゆるものはアトムが直線的に落下して反発しあう運動で構成されていると考えた初期唯物論者だった。これに対してエピクロスデモクリトスのアトム論を継承しつつもアトムは自発的に直線からそれる運動(偏差)をすることがあると考えた[99]。近代まで長らくエピクロスデモクリトスに余計なものを付け加えた改悪者とされてきたが、自由主義の風潮が高まると哲学的観点から再評価が始まった。デモクリトスのアトム論では人間の行動や心までもアトムの運動による必然ということになってしまうのに対し、エピクロスは偏差の考えを付け加えることで自由を唯物論の中に取り込もうとしたのではないかと考えられるようになったからである。ヘーゲル左派もエピクロスストア派懐疑主義とともに自分たちの「自己意識」の立場の原型と看做した。マルクスもそうした立場を踏襲してエピクロスデモクリトスを比較する論文を書いたのだった[100]
  7. ^ ルーゲはマルクスの論文を含む掲載を認められなかった論文を1843年にスイスで『アネクドータ(Anekdote)』という雑誌にして出版している[112]
  8. ^ この新聞は自由主義的だが、ライン地方がプロイセン領であること自体は受け入れており、親仏的・反プロイセンカトリック新聞『ケルン新聞』への対抗としてプロテスタントプロイセン政府としても必ずしも邪魔な存在ではなく、その発刊に際しては好意的でさえあったという[114][118]
  9. ^ ただしこの論説のなかでマルクスは「プルードンの洞察力ある著作については研究の必要がある」ともしている[132][129][133]
  10. ^ 農民が森林所有者の許可なく木材を採取することを盗伐として取り締まる法案。マルクスはこの法案を貧民の慣習上の権利を侵すものとして反対した。ただしこの法案は森林所有者の財産権保護だけを目的とする物ではなく、当時凄まじい勢いで進んでいた森林伐採を抑えようという自然環境保護の目的もあった。そちらの観点についてはマルクスは何も語っていない[134]
  11. ^ 仮借ない批判で知られるマルクスだが、不思議なことにハイネだけは最後まで批判しなかった。マルクスとハイネの意見が相違しなかったからではない。ハイネはプロレタリアートが勝利した世界に芸術や美術の居場所はないと感じ取り、共産主義を好んでいなかった。また1856年に死去した際には神に許しを請う遺言書を書いている。このような「反共」や「信仰への墜落」にも関わらず、マルクスはハイネに対して何らの非難も発しなかったのである。マルクスの娘のエレナによれば「父はあの詩人をその作品と同じぐらい愛していました。だから彼の政治的弱さはどこまでも大目に見ていたのです。それを父はこう説明していました。『詩人というのは妙な人種で彼らには好きな道を歩ませてやらねばならない。彼らを常人の尺度で、いや常人ではない尺度でも図ってはならないのだ』」[174]
  12. ^ ブリュッセル時代にもモーゼス・ヘスマルクスエンゲルスはしばしば共同で研究をしていたが、ヘスは哲学的観点が抜けきれず、階級闘争など過激な路線を嫌い、階級間を和合させようとしたため、マルクスたちから「真正社会主義者」という批判を受けた[231]
  13. ^ たとえば貴族や聖職者がブルジョワへの復讐で提唱する「封建主義的社会主義キリスト教社会主義」、ブルジョワの一部が自分の支配権を延命させるべく主張する「ブルジョワ社会主義」、大工業化で零落した小ブルジョワによるギルド的な「小ブルジョワ社会主義」、哲学者が思弁的哲学の中だけで作っている「真正社会主義」、プロレタリアート革命なしで階級対立と搾取の無い世界を実現できるかのように語る「空想的社会主義」などである[256][257]
  14. ^ ルイ・フィリップ王は1830年7月革命復古王政が打倒された後、ブルジョワに支えられて王位に就き、多くの自由主義改革を行った人物である。しかしその治世中、労働者階級が台頭するようになり、労働運動が激化した。1839年に社会主義ルイ・オーギュスト・ブランキ一揆が発生したことがきっかけで保守化を強め、ギゾーを中心とした専制政治を行うようになった[262]。1847年の恐慌で失業者数が増大、社会的混乱が増して革命前夜の空気が漂い始めた。そして1848年2月22日、パリで選挙法改正運動が政府に弾圧されたのがきっかけで暴動が発生[261]。23日にはギゾーが首相を辞し、24日にはルイ・フィリップ王は国外へ逃れる事態となったのである[263][264]
  15. ^ たとえば『共産党宣言』では「あらゆる相続権の廃止」「全ての土地の国有化」となっていたのを、『ドイツにおける共産党の要求』では「相続権の縮小」「封建主義的領地の国有化」としている。また国立銀行の創設の要求について「国立銀行が貨幣を硬貨と交換するようになれば、万国の両替手数料は安くなり、外国貿易に金銀が使用可能となる」とブルジョワ目線で説明を付けている[282]
  16. ^ マルクスの独裁ぶりを象徴するのがケルン労働者協会会長で共産主義者同盟にも所属していたアンドレアス・ゴットシャルクドイツ語版をつまらないことで激しく糾弾したことだった。ゴットシャルクはこれにうんざりして共産主義者同盟から離脱してしまった。マルクスのゴットシャルク批判は方針の相違では説明を付け難い。フランシス・ウィーンは、「嫉妬がからんでいたということだけは言えるだろう」としている。ウィーンによれば、マルクスは自分の統括下にない組織や機関に批判的だったし、貧しい人たちへの医療活動で知られる医者のゴットシャルクは編集発行人のマルクスより多くの信奉者を得ていた。[293]
  17. ^ エンゲルスはロンドンに来た後、ロンドンの新聞社に務めることを夢見ていたが、その夢は叶わず、他の自活の手段も見つけられなかったので父親と和解し、1850年12月からマンチェスターにある父の共同所有する会社で勤務するようになった[345]。とはいえこの頃エンゲルスの給料も年100ポンドを超えることはなかったと見られており、また父の代わりにマンチェスターの大世帯をやり繰りしなければならなかったのでマルクスにやれる金にも限度があった[346]
  18. ^ これについてマルクスの伝記を書いたE・H・カーは「マルクスはラッサールに腹を立てていた。彼を軽蔑したり、時には憎悪したこともあった。彼に対して陰謀を企みもした。しかしラッサールには常に生々しい情熱、力強い人格、自己犠牲の献身、紛う方なき天才の閃きがあり、これがために否応なくマルクスから尊敬を、ほとんど愛情さえ勝ち得たのである。マルクスエンゲルスの冷静な批判の影響を受けたが、それに完全に納得したことは一度もなかった。恐らくマルクスゲットーユダヤ人を軽蔑していたにも関わらず、目に見えぬ、自分には気づかれぬ人種的親近性があったのであろう。二人の意見と性格がどれほど違っても、マルクスがラッサールに無関心であったことは一度もなかった。ラッサールの死はマルクスの生涯においてもヨーロッパ社会主義の歴史においても、一時期を画した」と評している[425]
  19. ^ たとえば『フレイザーズ・マガジン英語版』は「インターナショナルの影響について我々はあまり目にすることも耳にすることもないが、その隠された手は神秘的かつ恐ろしい力で革命装置を操っている」と書いた[490]。『ペルメル・ガゼット英語版』紙は「マルクスは生まれながらのユダヤ人であり、政治的共産主義を生み出すことを目的とする途方もない陰謀の長である」と書いた[491]。フランスのある新聞は「マルクスは陰謀家の最高権威であり、ロンドンの隠れ家からコミューンを指揮した。インターナショナルは700万人の会員を擁し、全員がマルクスの決起命令を待っている」などと報じている[492]
  20. ^ 資本論』第4部こと『剰余価値学説史』は、エンゲルスの死後カール・カウツキーの編集で出版されたが、これが本文の改竄を含んでいるという理由で、ソ連マルクスレーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるものである。その後、未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が日本語訳でも出版されている。『資本論』に関するもの以外にもマルクスエンゲルスの死後に発見された著作やノートには同様の問題をはらんでいるものがあり、特に1932年のいわゆる旧MEGAに収録された『ドイツ・イデオロギー』は原稿の並べ替えが行われ、廣松渉から「偽書」と批判された(詳細は『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)の「解説」および『廣松渉著作集』、岩波書店、第八巻参照)。『経済学・哲学草稿』は旧MEGA版、ディーツ版、ティアー版などの各版で順序や収録された原稿が異なる[544]
  21. ^ マルクス自身も色黒のユダヤ系であったが、マルクスはラッサールが色黒のユダヤ系なのを捉えて彼が黒人ユダヤ人であると揶揄していた。エンゲルスへの手紙の中で「彼(ラッサール)の頭の髪の伸び方(縮れ毛)がよく示している通り、彼はモーセユダヤ人を連れてエジプトから脱出した際に同行したニグロの子孫である。彼の母親か父親がニガーと交わったのでない限り。片やドイツとユダヤの混ぜ合わせ、かたやニグロの血、この二つがこの奇妙な生き物をこの世に誕生させたのだ。この男のしつこさは紛れもなくニガーのそれである」と書いている[565][582][583]
  22. ^ バーリンはその例として、唯物論スピノザドルバックフォイエルバッハに負うところが大きいこと、「人類の歴史は全て階級闘争」とする歴史観シモン=ニコラ=アンリ・ランゲフランス語版サン=シモンが主張していたこと、「恐慌の周期的発生の不可避」という科学的理論はシスモンディの発見であること、「第四階級の勃興」は初期フランス共産主義者によって主張されたこと、「プロレタリアの疎外」はマックス・シュティルナーマルクスより1年早く主張していること、プロレタリア独裁バブーフが設計したものであること、労働価値説ジョン・ロックアダム・スミスリカードら古典経済学者に依拠していること、搾取剰余価値説シャルル・フーリエがすでに主張していたこと、それへの対策の国家統制策もジョン・フランシス・ブレイ英語版ウィリアム・トンプソン英語版トーマス・ホジスキンらがすでに論じていたことなどをあげる[603]

出典

  1. ^ [http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-23/2005072301_02_2.html 「最も偉大な哲学者」マルクスが1位 英BBCラジオの視聴者投票]
  2. ^ Suzanne Michele Bourgoin and Paula Kay,ed.,"Encyclopedia of world biography"10,pp.304-308.
  3. ^ a b c d ウィーン(2002) p.21
  4. ^ カー(1956) p.14
  5. ^ a b 廣松(2008) p.16
  6. ^ a b 小牧(1966) p.39
  7. ^ a b c d e 廣松(2008) p.17
  8. ^ a b 石浜(1931) p.43
  9. ^ 廣松(2008) p.18/22
  10. ^ 城塚(1970) p.26-27
  11. ^ ウィーン(2002) p.17
  12. ^ a b ウィーン(2002) p.18
  13. ^ 石浜(1931) p.44
  14. ^ 城塚(1970) p.25
  15. ^ Nikolaus Sandmann: Heinrich Marx, Jude, Freimaurer und Vater von Karl Marx. In: Humanität, Zeitschrift für Gesellschaft, Kultur und Geistesleben, Hamburg; Heft 5/1992, p.13–15.
  16. ^ 廣松(2008) p.19
  17. ^ 廣松(2008) p.19-20
  18. ^ 廣松(2008) p.17-19
  19. ^ シュワルツシルト(1950) p.3/8
  20. ^ a b c d カー(1956) p.15
  21. ^ メーリング(1974) 1巻 p.36
  22. ^ シュワルツシルト(1950) p.4/9
  23. ^ Heinz Monz: Der Erbteilungsvertraag Henriette Marx
  24. ^ Manfred Schöncke: Karl und Heinrich Marx und ihre Geschwister, S. 307–309
  25. ^ Jan Gielkens, S. 220–221
  26. ^ シュワルツシルト(1950) p.9-10
  27. ^ 石浜(1931) p.46
  28. ^ メーリング(1974) 1巻 p.40
  29. ^ 廣松(2008) p.21
  30. ^ ウィーン(2002) p.21-22
  31. ^ a b 廣松(2008) p.25
  32. ^ 小牧(1966) p.43
  33. ^ a b c ウィーン(2002) p.22
  34. ^ ウィーン(2002) p.19
  35. ^ 廣松(2008) p.26
  36. ^ a b 廣松(2008) p.27
  37. ^ シュワルツシルト(1950) p.18
  38. ^ シュワルツシルト(1950) p.17
  39. ^ 廣松(2008) p.29
  40. ^ カー(1956) p.16-17
  41. ^ a b シュワルツシルト(1950) p.18-19
  42. ^ カー(1956) p.16
  43. ^ カー(1956) p.17
  44. ^ a b c 城塚(1970) p.30
  45. ^ 石浜(1931) p.52-53
  46. ^ 廣松(2008) p.64-65
  47. ^ ウィーン(2002) p.24
  48. ^ 廣松(2008) p.65-66
  49. ^ シュワルツシルト(1950) p.21
  50. ^ 廣松(2008) p.65-66
  51. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.43
  52. ^ a b ウィーン(2002) p.27
  53. ^ 廣松(2008) p.66
  54. ^ 石浜(1931) p.56
  55. ^ 廣松(2008) p.156
  56. ^ カー(1956) p.22-23
  57. ^ ウィーン(2002) p.26/28
  58. ^ ウィーン(2002) p.28
  59. ^ カー(1956) p.23
  60. ^ メーリング(1974) 1巻 p.45
  61. ^ 石浜(1931) p.57
  62. ^ a b c 城塚(1970) p.31
  63. ^ メーリング(1974) 1巻 p.51
  64. ^ 石浜(1931) p.55
  65. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.50
  66. ^ 石浜(1931) p.57-58
  67. ^ 廣松(2008) p.66-67
  68. ^ 廣松(2008) p.67-68
  69. ^ 石浜(1931) p.62-64
  70. ^ 小牧(1966) p.72
  71. ^ シュワルツシルト(1950) p.41-42
  72. ^ 小牧(1966) p.74-76
  73. ^ 石浜(1931) p.66
  74. ^ 廣松(2008) p.80
  75. ^ 廣松(2008) p.67
  76. ^ シュワルツシルト(1950) p.29
  77. ^ ウィーン(2002) p.39
  78. ^ a b c カー(1956) p.27
  79. ^ 城塚(1970) p.32
  80. ^ メーリング(1974) 1巻 p.54
  81. ^ 石浜(1931) p.68-69
  82. ^ メーリング(1974) 1巻 p.64
  83. ^ シュワルツシルト(1950) p.37
  84. ^ a b 廣松(2008) p.96
  85. ^ シュワルツシルト(1950) p.43
  86. ^ 廣松(2008) p.68
  87. ^ メーリング(1974) 1巻 p.56
  88. ^ シュワルツシルト(1950) p.33
  89. ^ ウィーン(2002) p.39-40
  90. ^ ウィーン(2002) p.43
  91. ^ a b 廣松(2008) p.93-94
  92. ^ 城塚(1970) p.42
  93. ^ a b ウィーン(2002) p.44
  94. ^ a b 廣松(2008) p.123-125
  95. ^ ウィーン(2002) p.43/45-46
  96. ^ 石浜(1931) p.72
  97. ^ 城塚(1970) p.59/61-62
  98. ^ 廣松(2008) p.105-106
  99. ^ 小牧(1966) p.67-68
  100. ^ 城塚(1970) p.54-59
  101. ^ カー(1956) p.28
  102. ^ a b c d e 廣松(2008) p.126
  103. ^ 廣松(2008) p.125-126
  104. ^ a b c d カー(1956) p.31
  105. ^ a b c ウィーン(2002) p.46
  106. ^ 城塚(1970) p.67
  107. ^ a b 廣松(2008) p.128
  108. ^ シュワルツシルト(1950) p.48
  109. ^ 石浜(1931) p.76-77
  110. ^ 城塚(1970) p.68
  111. ^ a b ウィーン(2002) p.49
  112. ^ 石浜(1931) p.77
  113. ^ 石浜(1931) p.79
  114. ^ a b 廣松(2008) p.130
  115. ^ カー(1956) p.32-33
  116. ^ 太田(1930) p.7
  117. ^ シュワルツシルト(1950) p.50
  118. ^ シュワルツシルト(1950) p.49-50
  119. ^ シュワルツシルト(1950) p.53-54
  120. ^ 石浜(1931) p.80-81
  121. ^ カー(1956) p.33
  122. ^ シュワルツシルト(1950) p.61
  123. ^ a b シュワルツシルト(1950) p.62
  124. ^ 廣松(2008) p.147
  125. ^ 城塚(1970) p.85
  126. ^ a b c 廣松(2008) p.152
  127. ^ シュワルツシルト(1950) p.66
  128. ^ 石浜(1931) p.82-83
  129. ^ a b ウィーン(2002) p.58
  130. ^ 城塚(1970) p.80
  131. ^ 廣松(2008) p.142-143
  132. ^ 石浜(1931) p.82
  133. ^ 廣松(2008) p.143
  134. ^ 廣松(2008) p.140
  135. ^ シュワルツシルト(1950) p.72
  136. ^ ウィーン(2002) p.62-63
  137. ^ 石浜(1931) p.85
  138. ^ カー(1956) p.35
  139. ^ a b 太田(1930) p.9
  140. ^ ウィーン(2002) p.64
  141. ^ 石浜(1931) p.87
  142. ^ 廣松(2008) p.152-153
  143. ^ 石浜(1931) p.89-90
  144. ^ カー(1956) p.37
  145. ^ 石浜(1931) p.90
  146. ^ 廣松(2008) p.155
  147. ^ ウィーン(2002) p.69
  148. ^ ウィーン(2002) p.68-69
  149. ^ a b c d シュワルツシルト(1950) p.78
  150. ^ 城塚(1970) p.87
  151. ^ 小牧(1966) p.81-82
  152. ^ 城塚(1970) p.88
  153. ^ 廣松(2008) p.190
  154. ^ カー(1956) p.100
  155. ^ バーリン(1974) p.84
  156. ^ 小牧(1966) p.104-107
  157. ^ 城塚(1970) p.90
  158. ^ 小牧(1966) p.107
  159. ^ a b 石浜(1931) p.89
  160. ^ 城塚(1970) p.91-92
  161. ^ 廣松(2008) p.163
  162. ^ 城塚(1970) p.94-96
  163. ^ 廣松(2008) p.171
  164. ^ 城塚(1970) p.97
  165. ^ 廣松(2008) p.167-170
  166. ^ 石浜(1931) p.90-92
  167. ^ カー(1956) p.38
  168. ^ 廣松(2008) p.195
  169. ^ 石浜(1931) p.92
  170. ^ シュワルツシルト(1950) p.79
  171. ^ 石浜(1931) p.94-95
  172. ^ a b 小牧(1966) p.111
  173. ^ a b c シュワルツシルト(1950) p.80
  174. ^ ウィーン(2002) p.84
  175. ^ カー(1956) p.55-56
  176. ^ 城塚(1970) p.127-128
  177. ^ a b 石浜(1931) p.95
  178. ^ 小牧(1966) p.111-112
  179. ^ バーリン(1974) p.106-107
  180. ^ 小牧(1966) p.113
  181. ^ 小牧(1966) p.115
  182. ^ 小牧(1966) p.116-117
  183. ^ 城塚(1970) p.114-116
  184. ^ 廣松(2008) p.219-221
  185. ^ 石浜(1931) p.96
  186. ^ 廣松(2008) p.222
  187. ^ ウィーン(2002) p.85-86
  188. ^ シュワルツシルト(1950) p.87
  189. ^ ウィーン(2002) p.85
  190. ^ 石浜(1931) p.105
  191. ^ a b c シュワルツシルト(1950) p.88
  192. ^ 廣松(2008) p.206
  193. ^ 小牧(1966) p.121
  194. ^ 石浜(1931) p.104-105
  195. ^ a b シュワルツシルト(1950) p.89
  196. ^ カー(1956) p.47
  197. ^ a b 小牧(1966) p.122
  198. ^ 城塚(1970) p.127-129
  199. ^ 城塚(1970) p.128
  200. ^ 小牧(1966) p.123-124
  201. ^ 城塚(1970) p.129-130
  202. ^ 城塚(1970) p.131
  203. ^ 城塚(1970) p.136-138
  204. ^ 小牧(1966) p.124
  205. ^ 小牧(1966) p.124-125
  206. ^ 城塚(1970) p.139
  207. ^ 城塚(1970) p.144
  208. ^ 小牧(1966) p.122-123
  209. ^ 石浜(1931) p.117
  210. ^ 小牧(1966) p.129-132
  211. ^ 石浜(1931) p.106-108
  212. ^ ウィーン(2002) p.87
  213. ^ シュワルツシルト(1950) p.106
  214. ^ a b カー(1956) p.58-59
  215. ^ 石浜(1931) p.108-109
  216. ^ a b ウィーン(2002) p.112
  217. ^ 小牧(1966) p.121-122/135
  218. ^ シュワルツシルト(1950) p.118
  219. ^ 石浜(1931) p.93/109
  220. ^ 小牧(1966) p.135-136
  221. ^ 石浜(1931) p.109
  222. ^ シュワルツシルト(1950) p.120
  223. ^ ウィーン(2007)
  224. ^ 石浜(1931) p.124
  225. ^ 石浜(1931) p.130
  226. ^ 小牧(1966) p.136
  227. ^ 石浜(1931) p.122-123
  228. ^ 小牧(1966) p.137
  229. ^ ウィーン(2002) p.115-116
  230. ^ 石浜(1931) p.125
  231. ^ 石浜(1931) p.137
  232. ^ 石浜(1931) p.129-130
  233. ^ 小牧(1966) p.138
  234. ^ 小牧(1966) p.138-139
  235. ^ 石浜(1931) p.144
  236. ^ 小牧(1966) p.141-142
  237. ^ 小牧(1966) p.142
  238. ^ 小牧(1966) p.142-143
  239. ^ 小牧(1966) p.144
  240. ^ 小牧(1966) p.145-146
  241. ^ 小牧(1966) p.146-147
  242. ^ 小牧(1966) p.153
  243. ^ 石浜(1931) p.146
  244. ^ 小牧(1966) p.154
  245. ^ ウィーン(2002) p.127
  246. ^ ウィーン(2002) p.127-131
  247. ^ シュワルツシルト(1950) p.147-158
  248. ^ ウィーン(2002) p.132
  249. ^ 石浜(1931) p.146-150
  250. ^ 小牧(1966) p.155
  251. ^ a b ウィーン(2002) p.138
  252. ^ 石浜(1931) p.153-154
  253. ^ 小牧(1966) p.156
  254. ^ ウィーン(2002) p.145
  255. ^ 小牧(1966) p.157-162
  256. ^ a b 石浜(1931) p.155
  257. ^ 小牧(1966) p.163-165
  258. ^ 小牧(1966) p.166
  259. ^ カー(1956) p.79
  260. ^ 石浜(1931) p.158-160
  261. ^ a b 小牧(1966) p.168
  262. ^ 石浜(1931) p.157-158
  263. ^ 石浜(1931) p.160
  264. ^ ウィーン(2002) p.151
  265. ^ 石浜(1931) p.162
  266. ^ 石浜(1931) p.163
  267. ^ エンゲルベルク(1996) p.257-258
  268. ^ 石浜(1931) p.162-163
  269. ^ 小牧(1966) p.169
  270. ^ 石浜(1931) p.166
  271. ^ a b カー(1956) p.83
  272. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.266
  273. ^ a b ウィーン(2002) p.153
  274. ^ ウィーン(2002) p.152
  275. ^ 小牧(1966) p.170
  276. ^ a b c ウィーン(2002) p.154
  277. ^
  278. ^ 小牧(1966) p.170-171
  279. ^ メーリング(1974) 1巻 p.267
  280. ^ ウィーン(2002) p.155
  281. ^ ウィーン(2002) p.156-157
  282. ^ ウィーン(2002) p.156-157
  283. ^ a b c ウィーン(2002) p.156
  284. ^ a b 石浜(1931) p.169
  285. ^ カー(1956) p.84
  286. ^ a b c d カー(1956) p.86
  287. ^ a b 石浜(1931) p.171
  288. ^ ウィーン(2002) p.157
  289. ^ a b ウィーン(2002) p.158
  290. ^ a b c 石浜(1931) p.173
  291. ^ メーリング(1974) 1巻 p.268
  292. ^ a b c ウィーン(2002) p.159
  293. ^ ウィーン(2002) p.161-162
  294. ^ 小牧(1966) p.172
  295. ^ a b カー(1956) p.87
  296. ^ a b 石浜(1931) p.174
  297. ^ 小牧(1966) p.172-173
  298. ^ バーリン(1974) p.185
  299. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.275-276
  300. ^ a b エンゲルベルク(1996) p.279
  301. ^ エンゲルベルク(1996) p.278
  302. ^ エンゲルベルク(1996) p.280
  303. ^ メーリング(1974) 1巻 p.271-272
  304. ^ メーリング(1974) 1巻 p.272-273/290
  305. ^ ウィーン(2002) p.164
  306. ^ ウィーン(2002) p.164-166
  307. ^ エンゲルベルク(1996) p.299-300
  308. ^ エンゲルベルク(1996) p.301
  309. ^ エンゲルベルク(1996) p.303
  310. ^ 石浜(1931) p.179
  311. ^ a b ウィーン(2002) p.173
  312. ^ メーリング(1974) 1巻 p.305
  313. ^ 石浜(1931) p.179-180
  314. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.306
  315. ^ ウィーン(2002) p.174-175
  316. ^ 石浜(1931) p.182
  317. ^ エンゲルベルク(1996) p.320
  318. ^ a b c ウィーン(2002) p.175
  319. ^ 小牧(1966) p.174-175
  320. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.317
  321. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.318
  322. ^ 小牧(1966) p.176
  323. ^ ウィーン(2002) p.176
  324. ^ ウィーン(2002) p.176-177
  325. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.319
  326. ^ 鹿島(2004) p.63-68
  327. ^ a b 鹿島(2004) p.79
  328. ^ ウィーン(2002) p.176-177
  329. ^ a b ウィーン(2002) p.177
  330. ^ バーリン(1974) p.190
  331. ^ ウィーン(2002) p.177-179
  332. ^ バーリン(1974) p.191
  333. ^ カー(1956) p.121-122
  334. ^ a b カー(1956) p.123
  335. ^ 石浜(1931) p.206
  336. ^ ウィーン(2002) p.199
  337. ^ バーリン(1974) p.205
  338. ^ シュワルツシルト(1950) p.265
  339. ^ カー(1956) p.127
  340. ^ 小牧(1966) p.180
  341. ^ ウィーン(2002) p.212
  342. ^ シュワルツシルト(1950) p.267
  343. ^ バーリン(1974) p.206
  344. ^ a b c d ウィーン(2002) p.215
  345. ^ a b c バーリン(1974) p.204
  346. ^ バーリン(1974) p.206-207
  347. ^ カー(1956) p.123/128
  348. ^ ウィーン(2002) p.178
  349. ^ メーリング(1974) 2巻 p.7
  350. ^ a b ウィーン(2002) p.183
  351. ^ 石浜(1931) p.187-188
  352. ^ a b 小牧(1966) p.177
  353. ^ a b カー(1956) p.122
  354. ^ ウィーン(2002) p.187
  355. ^ メーリング(1974) 2巻 p.7-8
  356. ^ 石浜(1931) p.189-190
  357. ^ 小牧(1966) p.177-178
  358. ^ バーリン(1974) p.209
  359. ^ バーリン(1974) p.210
  360. ^ 石浜(1931) p.211
  361. ^ バーリン(1974) p.217
  362. ^ カー(1956) p.186
  363. ^ メーリング(1974) 2巻 p.22-24
  364. ^ 石浜(1931) p.190-191
  365. ^ カー(1956) p.144
  366. ^ メーリング(1974) 2巻 p.24-25
  367. ^ 石浜(1931) p.191-192
  368. ^ メーリング(1974) 2巻 p.27
  369. ^ エンゲルベルク(1996) p.343-344
  370. ^ 石浜(1931) p.195
  371. ^ カー(1956) p.144-145
  372. ^ 石浜(1931) p.195-196
  373. ^ a b カー(1956) p.145
  374. ^ カー(1956) p.146
  375. ^ カー(1956) p.147
  376. ^ カー(1956) p.147-149
  377. ^ a b 小牧(1966) p.178
  378. ^ シュワルツシルト(1950) p.271
  379. ^ a b カー(1956) p.151
  380. ^ 石浜(1931) p.207-209
  381. ^ シュワルツシルト(1950) p.273
  382. ^ 鹿島(2004) p.118-139
  383. ^ a b c カー(1956) p.152
  384. ^ ウィーン(2002) p.225
  385. ^ a b c メーリング(1974) 2巻 p.80-81
  386. ^ カー(1956) p.184
  387. ^ カー(1956) p.207
  388. ^ メーリング(1974)2巻 p.126
  389. ^ 石浜(1931) p.224-225
  390. ^ a b メーリング(1974)2巻 p.126-128
  391. ^ メーリング(1974)2巻 p.133
  392. ^ メーリング(1974)2巻 p.134
  393. ^ 江上(1972) p.110-111
  394. ^ カー(1956) p.209-210
  395. ^ 江上(1972) p.107-108
  396. ^ a b ウィーン(2002) p.266
  397. ^ シュワルツシルト(1950) p.268
  398. ^ ウィーン(2002) p.266-270
  399. ^ a b バーリン(1974) p.240
  400. ^ ウィーン(2002) p.271
  401. ^ 石浜(1931) p.232-233
  402. ^ ウィーン(2002) p.269-270
  403. ^ シュワルツシルト(1950) p.269
  404. ^ 小牧(1966) p.185-187
  405. ^ 小牧(1966) p.188-189
  406. ^ バーリン(1974) p.228
  407. ^ 小牧(1966) p.196-199
  408. ^ 小牧(1966) p.199-204
  409. ^ 小牧(1966) p.203-206
  410. ^ 小牧(1966) p.208
  411. ^ a b c ウィーン(2002) p.296
  412. ^ 江上(1972) p.132
  413. ^ ウィーン(2002) p.297
  414. ^ ウィーン(2002) p.297-298
  415. ^ a b ウィーン(2002) p.298
  416. ^ ウィーン(2002) p.301-303
  417. ^ エンゲルベルク(1996) p.482-483
  418. ^ 江上(1972) p.167-189
  419. ^ 江上(1972) p.209
  420. ^ カー(1956) p.245-246
  421. ^ アウグスト・ベーベル『ベーベル自叙伝』
  422. ^ 江上(1972) p.261
  423. ^ カー(1956) p.248-249
  424. ^ メーリング(1974)2巻 p.194
  425. ^ カー(1956) p.249
  426. ^ カー(1956) p.251
  427. ^ ウィーン(2002) p.319-320
  428. ^ ウィーン(2002) p.320
  429. ^ ガンブレル(1989) p.136-137
  430. ^ ウィーン(2002) p.321
  431. ^ ウィーン(2002) p.322
  432. ^ ウィーン(2002) p.322-323
  433. ^ ガンブレル(1989) p.139
  434. ^ メーリング(1974)3巻 p.182
  435. ^ 石浜(1931) p.241-242
  436. ^ 石浜(1931) p.242-243
  437. ^ 鹿島(2004) p.178
  438. ^ 鹿島(2004) p.369-370
  439. ^ 石浜(1931) p.243
  440. ^ 江上(1972) p.210
  441. ^ カー(1956) p.255
  442. ^ カー(1956) p.259-261
  443. ^ カー(1956) p.259
  444. ^ カー(1956) p.262
  445. ^ 石浜(1931) p.245-249
  446. ^ a b c カー(1956) p.263
  447. ^ a b 石浜(1931) p.249
  448. ^ 石浜(1931) p.256
  449. ^ 小牧(1966) p.211
  450. ^ カー(1956) p.266
  451. ^ カー(1956) p.266-267
  452. ^ カー(1956) p.268
  453. ^ カー(1956) p.266/269
  454. ^ カー(1956) p.270
  455. ^ a b c d カー(1956) p.269
  456. ^ シュワルツシルト(1950) p.329-330
  457. ^ シュワルツシルト(1950) p.330
  458. ^ カー(1956) p.287
  459. ^ カー(1956) p.288-289
  460. ^ カー(1956) p.288-290
  461. ^ メーリング(1974)2巻 p.215-216
  462. ^ a b c カー(1956) p.291
  463. ^ メーリング(1974) 3巻 p.79
  464. ^ シュワルツシルト(1950) p.340-341
  465. ^ a b メーリング(1974) 3巻 p.78
  466. ^ a b カー(1956) p.292
  467. ^ a b カー(1956) p.295
  468. ^ メーリング(1974) 3巻 p.81-82
  469. ^ カー(1956) p.296-297
  470. ^ カー(1956) p.297
  471. ^ メーリング(1974) 3巻 p.79-80
  472. ^ a b c 小牧(1966) p.214
  473. ^ カー(1956) p.299
  474. ^ メーリング(1974) 3巻 p.80
  475. ^ ウィーン(2002) p.385
  476. ^ ウィーン(2002) p.387
  477. ^ カー(1956) p.298-299
  478. ^ カー(1956) p.299-300
  479. ^ カー(1956) p.300
  480. ^ ウィーン(2002) p.388-389
  481. ^ カー(1956) p.301
  482. ^ カー(1956) p.302-303
  483. ^ a b c d ウィーン(2002) p.391
  484. ^ メーリング(1974)3巻 p.97
  485. ^ カー(1956) p.303
  486. ^ 石浜(1931) p.269
  487. ^ メーリング(1974)3巻 p.103
  488. ^ a b カー(1956) p.304
  489. ^ カー(1956) p.307
  490. ^ ウィーン(2002) p.399
  491. ^ ウィーン(2002) p.400
  492. ^ ウィーン(2002) p.398
  493. ^ a b カー(1956) p.309
  494. ^ ガンブレル(1989) p.150
  495. ^ カー(1956) p.310
  496. ^ カー(1956) p.333
  497. ^ カー(1956) p.321-325
  498. ^ ウィーン(2002) p.380-383
  499. ^ バーリン(1974) p.243
  500. ^ バーリン(1974) p.242/274
  501. ^ バーリン(1974) p.242-243
  502. ^ a b ウィーン(2002) p.408
  503. ^ バーリン(1974) p.244
  504. ^ 外川(1973) p.390
  505. ^ ウィーン(2002) p.409
  506. ^ a b ウィーン(2002) p.416
  507. ^ バーリン(1974) p.273-274
  508. ^ カー(1956) p.354-355
  509. ^ ウィーン(2002) p.412-413
  510. ^ a b バーリン(1974) p.274
  511. ^ a b ウィーン(2002) p.413
  512. ^ ウィーン(2002) p.412-413
  513. ^ 渡辺孝次(1996)『時計職人とマルクス』同文館p.309-310
  514. ^ a b バーリン(1974) p.276
  515. ^ カー(1956) p.394-395
  516. ^ 石浜(1931) p.275-276
  517. ^ カー(1956) p.395
  518. ^ a b c バーリン(1974) p.277
  519. ^ カー(1956) p.396
  520. ^ a b c d カー(1956) p.397
  521. ^ a b c d カー(1956) p.398
  522. ^ シュワルツシルト(1950) p.411-412/414
  523. ^ カー(1956) p.401-402
  524. ^ カー(1956) p.402
  525. ^ カー(1956) p.403
  526. ^ カー(1956) p.405
  527. ^ カー(1956) p.406
  528. ^ a b カー(1956) p.407
  529. ^ バーリン(1974) p.292
  530. ^ 石浜(1931) p.280
  531. ^ メーリング(1974)3巻 p.215-216
  532. ^ a b カー(1956) p.408
  533. ^ 石浜(1931) p.281
  534. ^ メーリング(1974)3巻 p.216
  535. ^ カー(1956) p.410
  536. ^ 石浜(1931) p.281-282
  537. ^ メーリング(1974)3巻 p.217
  538. ^ 小牧(1966) p.221
  539. ^ メーリング(1974)3巻 p.219-221
  540. ^ 小牧(1966) p.221-222
  541. ^ メーリング(1974)3巻 p.219-221
  542. ^ ウィーン(2002) p.461
  543. ^ 石浜(1931) p.284
  544. ^ 『経済学・哲学草稿』、岩波文庫版、p.298
  545. ^ ガンブレル(1989) p.170
  546. ^ 石浜(1931) p.272
  547. ^ メーリング(1974)3巻 p.175
  548. ^ カー(1956) p.401
  549. ^ 石浜(1931) p.274
  550. ^ ウィーン(2002) p.354
  551. ^ a b 小泉(1967) p.29
  552. ^ ウィーン(2002) p.353
  553. ^ a b c メーリング(1974)3巻 p.176
  554. ^ メーリング(1974)3巻 p.176-177
  555. ^ a b メーリング(1974)3巻 p.177
  556. ^ メーリング(1974)3巻 p.177-178
  557. ^ バーリン(1974) p.291
  558. ^ a b c d e メーリング(1974)3巻 p.178
  559. ^ a b c バーリン(1974) p.290
  560. ^ カー(1956) p.126
  561. ^ ウィーン(2002) p.463
  562. ^ a b c カー(1956) p.124
  563. ^ a b ウィーン(2002) p.182
  564. ^ メーリング(1974) 2巻 p.75
  565. ^ a b ウィーン(2002) p.299
  566. ^ ウィーン(2002) p.51
  567. ^ ハイルブローナー(2001)
  568. ^ a b c ウィーン(2002) p.81
  569. ^ ウィーン(2002) p.163
  570. ^ バーリン(1974) p.118
  571. ^ シュワルツシルト(1950) p.109
  572. ^ メーリング(1974)2巻 p.184
  573. ^ テレル・カーヴァー(1995)『マルクスエンゲルスの知的関係』世界書院 p.153
  574. ^ オフェル・フェルドマン(2006)『政治心理学』ミネルヴァ書房 p.35
  575. ^ E.H.カー(1962)『歴史とは何か』岩波新書 p.134-136
  576. ^ イーグルトン(2011)『なぜマルクスは正しかったのか』河出書房新社 p.84
  577. ^ マルクス(2002)『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫 p.230
  578. ^ マルクス(2008)『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』平凡社 p.198
  579. ^ E.H.カー(1962)『歴史とは何か』岩波新書 p.149
  580. ^ ウィーン(2002) p.73
  581. ^ 江上(1972) p.13
  582. ^ カー(1956) p.243
  583. ^ シュワルツシルト(1950) p.311
  584. ^ a b マルクス(1844)『ユダヤ人問題によせて』
  585. ^ シュワルツシルト(1950) p.155
  586. ^ a b ウィーン(2002) p.333
  587. ^ a b ウィーン(2002) p.333-334
  588. ^ ウィーン(2002) p.334-335
  589. ^ a b メーリング(1974)3巻 p.77
  590. ^ 石浜(1931) p.219
  591. ^ メーリング(1974)3巻 p.77-78
  592. ^ ウィーン(2002) p.385-386
  593. ^ ウィーン(2002) p.244-245
  594. ^ カー(1956) p.183
  595. ^ カー(1956) p.316
  596. ^ マルクスエンゲルス大内兵衛向坂逸郎訳(1848:1946)『共産党宣言岩波書店p.86
  597. ^ マルクス「総評議会からラテン系スイス連合評議会へ」『マルクスエンゲルス全集 16巻』大月書店p.383.
  598. ^ 今村仁司「解説」『マルクス・コレクション6』440-444頁
  599. ^ マルクス「イギリスのインド支配の将来の結果」『マルクスエンゲルス全集 9巻』大月書店p.210-211.
  600. ^ マルクス「中国とヨーロッパにおける革命」『マルクス・コレクション6』296-297頁
  601. ^ ウィーン(2002) p.467-468
  602. ^ カー(1956) p.412-413
  603. ^ バーリン(1974) p.19
  604. ^ バーリン(1974) p.18-20/205
  605. ^ 城塚(1970) p.132
  606. ^ ウィーン(2002) p.276
  607. ^ 小牧(1966) p.51/229
  608. ^ ウィーン(2002) p.218-219
  609. ^ ウィーン(2002) p.218
  610. ^ 廣松(2008) p.155-156
  611. ^ ウィーン(2002) p.68
  612. ^ メーリング(1974) 1巻 p.47
  613. ^ 石浜(1931) p.133-134
  614. ^ メーリング(1974) 1巻 p.47-48
  615. ^ カー(1956) p.404
  616. ^ 石浜(1931) p.289
  617. ^ ウィーン(2002) p.392
  618. ^ 石浜(1931) p.290
  619. ^ ウィーン(2002) p.462
  620. ^ 石浜(1931) p.134
  621. ^ ウィーン(2002) p.261-262
  622. ^ ウィーン(2002) p.264
  623. ^ ウィーン(2002) p.200
  624. ^ ウィーン(2002) p.211
  625. ^ カー(1956) p.386-387
  626. ^ ウィーン(2002) p.461-462
  627. ^ カー(1956) p.121
  628. ^ ウィーン(2002) p.205-211
  629. ^ ウィーン(2002) p.205
  630. ^ ウィーン(2002) p.209
  631. ^ ウィーン(2002) p.206
  632. ^ ウィーン(2002) p.205/462

参考文献

関連項目

 
 

 

  カール・マルクス」の書誌情報