隣組

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隣組による炊き出し

 

隣組(となりぐみ)は、日本の昭和[1]において戦時体制の銃後を守る、国民生活の基盤の1つとなった官主導の隣保組織である。

 

概要

もともと江戸時代に五人組・十人組という村落内の相互扶助的な面もある行政下部組織が存在していて、この慣習を利用したものでもある。

国家総動員法国民精神総動員運動、選挙粛清運動[2]と並び、前年に決定し、1940年昭和15年)9月11日内務省が訓令した「部落会町内会等整備要領(内務省訓令第17号)」(隣組強化法)によって制度化された。

5軒から10軒の世帯を一組とし、団結や地方自治の進行を促し、戦争での住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行った。また、思想統制や住民同士の相互監視の役目も担っていた。第二次世界大戦太平洋戦争の敗戦後の1947年(昭和22年)、GHQにより解体された。

現在でも、回覧板の回覧など、隣組単位で行なわれていた活動の一部は、町内会・区(政令指定都市の区ではない)・自治会に引き継がれている。地方によっては、単身者核家族が居住するワンルームマンションの増加など、近隣地域と住人の関係が疎遠になる例もあり、地元神社氏子への加入や、祭礼の寄付などをめぐり問題を生じている地域もある。

隣組や町内会のような活動が廃れた一因に、その活動単位が政府の言うところの所謂標準世帯での活動を主眼においたものであり、現役世代の単身者や多忙な共稼ぎ世帯などには負担が大きすぎることがあげられる。

京都市内、埼玉県秩父地方など一部の地域では現在でも隣組が残っている(参照:京都の元学区)。

埼玉県秩父地方では、慶弔時の花環に「隣組一同」と書かれたものがよく見受けられ、結婚式葬儀にも隣組が動員される為、隣組の慶弔事が勤務先(但し、秩父地方内の企業に限る)を休む正当な理由となる。

列車における隣組

空襲時における車内の秩序維持、混乱防止のため車内隣組が結成された。1両ごとに乗客中で隣組長(1名)副隣組長(1名ないし2名)が選定され、選定された者は腕章をつけ、座席にはその旨掲示された。

警報が発令されると車掌から組長に伝達され組長は車内に通知する。乗客は窓を開け鎧戸やカーテンを締め荷物は落下防止のため網棚からおろし鉄兜や防空頭巾を着用し腰掛けをはずして窓に立てかけ低い姿勢で防御する。停車したときもみだりに下車せずに係員の指示に従うようにされた[3]

脚注

  1. ^ 1938(昭和13)年5月には「交隣相助、共同防衛」の目的をもった隣組制度が制定された。(遠山茂樹今井清一藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店岩波新書355〉 1959年 164ページ)
  2. ^ 1935(昭和10)年、岡田内閣の選挙粛正運動の下部組織として隣保組織の整備が支持されたのが手始めである。兵士の壮行行事、遺族・留守家族への救援活動などを通して、町内会隣組の組織と機能が強められた。(遠山茂樹今井清一藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店岩波新書355〉 1959年 164ページ)
  3. ^ 運輸省鉄道総局業務局指導「旅と防空」『科学画報』1945年1月号

参考文献

関連項目

 
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