犬養毅

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日本の旗 日本の政治家
犬養 毅
いぬかい つよし
Inukai Tsuyoshi.jpg
礼装である大礼服を着用した犬養
生年月日 1855年6月4日
(旧暦安政2年4月20日
出生地 日本の旗 備中国賀陽郡庭瀬村
没年月日 1932年5月15日(満76歳没)
死没地 日本の旗 東京府東京市
出身校 慶應義塾中退
(現・慶應義塾大学
前職 統計院権少書記官
所属政党 (立憲改進党→)
(中国進歩党→)
(進歩党→)
(憲政党→)
(憲政本党→)
(立憲国民党→)
(革新倶楽部→)
立憲政友会
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
親族 犬養健三男
芳澤謙吉娘婿
緒方貞子曾孫
サイン InukaiT kao.png

内閣 犬養内閣
在任期間 1931年12月13日 - 1932年5月16日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第13・31代 文部大臣
内閣 第1次大隈内閣 (13)
第2次山本内閣 (31)
在任期間 1898年10月27日 - 同11月8日 (13)
在任期間 1923年9月2日 - 同9月6日 (31)

日本の旗 第27・29代 逓信大臣
内閣 第2次山本内閣 (27)
加藤高明内閣 (29)
在任期間 1923年9月2日 - 1924年1月7日 (27)
在任期間 1924年6月11日 - 1925年5月30日 (29)

その他の職歴
日本の旗 第45代 外務大臣
(1931年12月13日 - 1932年1月14日
日本の旗 第50代 内務大臣
(1932年3月16日 - 同3月25日
日本の旗 衆議院議員
1890年 - 1932年)
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犬養 毅(いぬかい つよし、1855年6月4日安政2年4月20日) - 1932年昭和7年)5月15日)は、日本政治家位階正二位勲等勲一等通称仙次郎木堂子遠

中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第1331代)、逓信大臣(第2729代)、内閣総理大臣第29代)、外務大臣第45代)、内務大臣第50代)などを歴任した。

 

生涯

生い立ち

 
犬養の生家

備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男としてうまれる(後に犬養と改姓)。父は水荘と称した備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士である。もともと、犬養家は庭瀬藩から名字帯刀を許される家格であったが、毅が2歳の時、父がコレラで急死する不幸に見舞われたため、生活はかなり苦しかったという[1]

同藩の経世学者楠之蔚の下で漢籍をおさめたのち[2]1876年明治9年)に上京して慶應義塾に入学し、一時共慣義塾渡辺洪基浜尾新主宰の塾)に通い、また漢学塾・二松學舍では三島中洲に漢学を学んだ。

慶應義塾在学中に、郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍(ちなみに、抜刀隊が「戊辰の仇!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。1880年(明治13年)藤田茂吉と共に、慶應義塾卒業前に栗本鋤雲(郵便報知新聞社主筆)に誘われて記者となる[3]

明治10年代はじめ頃に豊川良平と東海社を興し、『東海経済新報』の中心として保護主義経済(保護貿易)を表明している(田口卯吉らの『東京経済雑誌』は自由主義を表明し論戦となった)。統計院権少書記官をへて、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。また『日本及日本人』などで軍閥、財閥批判を展開。

代議士として

1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を作る。後に中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)が、進歩党憲政本党の結成に参加、1898年(明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。

1913年大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸をなめながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後革新倶楽部となる)。

 

 
1929年、盟友の頭山満(左)や日本亡命中に庇護していた蒋介石(右)らと

犬養は政治以外にも神戸中華同文学校横浜山手中華学校の名誉校長を務めるなどしていた。この頃、真の盟友である右翼の巨頭、頭山満と犬養は世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジーネルータゴール孫文らと並び称される存在であった。

1907年(明治40年)から頭山満と共に中国漫遊の途に就き、1911年(明治44年)に孫文らの辛亥革命援助のため中国に渡り、亡命中の孫文荒尾の生家にかくまう。漢詩にも秀でており、書道家としても優れた作品を残している。漢詩人の井土霊山は『木堂雑誌』に掲載された記事で犬養の手紙を「先づ上手」と賞している[4]

総理就任

犬養は第2次山本内閣で文相兼逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣護憲三派内閣)においても、逓信相を務めた。しかし犬養は、ほどなくして小政党を率いることに限界を感じて革新倶楽部立憲政友会に吸収させ、自身も政界から引退し、富士見高原の山荘に引きこもった。だが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けた。

 

 
演説する犬養(政友会総裁のころ)

さらに政友会総裁の田中義一が没すると後継総裁をめぐって鈴木喜三郎床次竹二郎が激しく争い、党分裂の恐れが出た。党内の融和派が引退状態の犬養担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得した。1929年(昭和4年)10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれた。1930年(昭和6年)、ロンドン海軍軍縮条約統帥権干犯を絡めて、鳩山一郎とともに政府を攻撃した。これは軍部に統帥権を武器として使えることを教え、自らの死につながった。

同年に勃発した満州事変を巡って第2次若槻内閣は閣内不統一に陥り、総辞職した。この頃は内閣が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第1党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた。

その上、元老西園寺公望は犬養が満州事変中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持つことを評価して、昭和天皇に野党・政友会総裁の犬養を推薦したのである。この時、犬養は数え年で77歳。新聞は白髪を黒く染めて戦った源平合戦の老武将・斎藤実盛になぞらえ「昭和の実盛」と書いた。

犬養は組閣の大命が下ると直ちに解散・総選挙を断行し、政友会の議席を大きく伸ばした。これによりまず国民の支持を取り付けた上で、高橋是清を蔵相に起用して経済不況の打開に取り組んだ。高橋は金輸出再禁止と兌換(だかん)停止を断行、同時に積極財政へと転換を図った。これで日本経済は徐々に回復の方向に向かった。

しかし、もう1つの課題の満州事変の処理は難物だった。犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。犬養の解決案は、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものだった。

かねて支援していた元記者の萱野長知上海に送って、国民党幹部と非公式の折衝に当たらせた。しかし不幸なことに、対中国強硬派の森恪内閣書記官長の職に居た。森も若い頃は三井物産の社員として中国で働き、孫文の革命運動を支援したこともあったが、政界入りしてから右傾化し、軍内部の大陸権益拡張派や右翼との親交を深めていた。

森は犬養の推進する対中融和路線には不満で、辞表を提出して犬養を困らせていた。犬養は秘密裡に交渉を進めていたが、交渉が煮詰まった段階で森の知るところとなり、森が萱野からの電報を握りつぶしてしまった。中国が最終的に犬養案を飲んだかという疑問は残るが、成功の可能性のあった交渉は挫折してしまった。

犬養はまた、軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱いていた。陸軍の長老・上原勇作元帥に手紙を書き、この風潮を改められないか訴えた。また天皇に上奏して、問題の青年将校ら30人程度を免官させようと考えていた。

犬養はその考えを娘婿の外相芳沢謙吉と森に喋ったため、森を通じて陸軍に筒抜けとなり、軍は統帥権を侵害するものと憤激した。何故森を書記官長に据えたかと聞かれたとき、犬養は「手放しておくと危険だから、手近に置いた」と答えたという。

暗殺

1932年(昭和7年)5月15日はよく晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいだ休日を過ごしていた。夫人、秘書官、護衛らも外出していた。犬養は往診に来た医者に鼻の治療を受けていた。

体にはなんの異常もなく、犬養は医者に「体中調べてどこも異常なしだ。あと100年はいきられそうじゃわい」と言っている。夕方5時半ごろ、警備も手薄の中、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団が、ピストルをふりかざして乱入してきた。

犬養は少しも慌てず、将校たちを応接室に案内した。しばらくして応接室から「撃つぞ」「撃て」という叫びが聞こえ、ピストルの音が響いた。女中たちが駆けつけると、犬養は鼻の穴から血を流しながらも意識ははっきりしており、「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と言っている。最期まで言論で説得しようとする犬養らしい姿だった。このときしゃべったとされる「話せば分かる」という文句は非常に有名。

10時ごろ大量の吐血をしたが、驚く周囲に「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」と逆に励ますほど元気だった。しかしその後は次第に衰弱し、午後11時26分に絶命した。享年77、「昭和の実盛」の壮烈な死だった。

事件後、森恪が手引きしたのではないかとの噂が絶えなかった。総理官邸に駆けつけた森の態度がおかしかったという古島一雄の証言もある。青年将校たちが、犬養の在宅をどうして知ったのかは事件後の取調べでもはっきりしなかったため、森の手引き説が消えなかったのである。

森が犬養批判を強め、その行動を監視して軍に通報していたという事実もある。ただし、もとより状況証拠としても不十分なものばかりで、若い頃から犬養と親しかった森がそこまでやるはずはないという見方もある。

5月19日、犬養の葬儀が総理官邸の大ホールでしめやかにとり行われた。たまたま来日中で官邸からほど近い帝国ホテルに滞在しており、事件当日には息子の健と会食していた喜劇王チャーリー・チャップリンから寄せられた「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す。」との弔電に驚く参列者も多かった。

墓所港区青山霊園と岡山にある。

犬養の死後

犬養の死は大きな後遺症を遺し、その後「大正デモクラシー」と呼ばれることになった大正末期からの政党内閣制が続いていた昭和史の分水嶺となった。

五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、満州や中国北部で枢要な地位についた。現職総理を殺した反逆者やそれを焚きつけたテロリストらに死刑も適用しなかったことが、さらに大掛かりな二・二六事件の遠因となったとも言われる。なお、五・一五事件の海軍側軍法会議の判士長は「殉教者扱いされるから死刑を出すのは良くないと思った」と語っている。

この事件後、テロを恐れるあまり政治家たちが反軍的な言動を差し控える風潮が広がった。新聞社は軍政志向への翼賛記事を書き始め、政治家は秘密の私邸を買い求め、ついには無産政党までが「憎きブルジョワを人民と軍の統一戦線によって打倒する」などと言い始めた。

昭和天皇は、続く二・二六事件に衝撃を受け、自身の政治発言が軍部を刺激することを自覚してしまったといわれる。中国戦線において、参謀本部に事変不拡大の意志を持つ石原莞爾がいるにもかかわらず、彼を後押しをすることが出来なかった。かくして日本は陸軍統制派による軍閥政治への道を歩み出していくことになる。

人物・挿話

犬養には常に毀誉褒貶が付きまとった。第1次護憲運動では尾崎行雄とともに「憲政の神様」と崇められ、東京朝日新聞の記者だった中野正剛は「咢堂が雄弁は珠玉を盤上に転じ、木堂が演説は霜夜に松籟を聞く」と評した。犬養の演説は理路整然としていて無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。

その犬養が一旦藩閥政権である寺内内閣への内閣不信任案の共同提出を憲政会(桂に引き抜かれた元国民党議員が所属)に対して呼びかけながら、不信任案反対派の政友会と憲政会の足の引っ張り合いを皮肉って、政権を巡って右往左往する憲政会の態度を切って捨てて、そのまま衆議院解散に持ち込み、総選挙では孤立した憲政会に大打撃を与えた上で寺内正毅の要請を受けて寺内内閣の臨時外交調査会に入ったため、たちまち「変節漢」の悪罵を浴びた。その落差は大きい。

 

 
頭山満(テーブルの向こう側中央)やボース(テーブルの向こう側の後ろ)、内田良平(頭山の右隣)らと
 
前列左から、五百木良三犬養毅頭山満古島一雄。後列左から、島野三郎、在東京回教僧正クルバンガリー、在神戸回教僧正シャムグノーフ足羽清美

その後も、山本権兵衛内閣や護憲三派による加藤高明内閣にも閣内協力をした。ただ、これだけで犬養を「変節漢」と呼ぶのはいささか酷かもしれない。

犬養は普通選挙の実現をはじめ、経済的軍備論、南方進出論、産業立国論など独自の政策を温めていた。その実現のために、よりましと思われる政権に加わったとも解釈できる。明治の政界で隠然たる影響力を誇っていた山縣有朋が「朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満犬養毅だけ」と語ったという話もある。

同じように藩閥支配に敵意を抱きながら、原敬は山県に接近し、その力を利用して自らの勢力拡大を図った。一方で犬養はその道をたどらず、ほとんど少数政党に身を置いて苦労を重ねた。

犬養は毒舌でも有名だった。親友の古島一雄は、犬養の毒舌がやたらに政敵を増やすのを見て「ご主人の出掛けに口を慎めと必ず言ってくれ」と夫人に頼んだほどである。これは、意志が強固で悪や卑劣を憎む犬養の性格からくるものからでもあったと思われる。

私生活では全く無欲の人で、細かいことには無頓着だった。嫌いな食べ物が出ても文句を言わず、着せられる着物を黙って着ていた。議会事務局で働く少年が病気になると、自宅に引き取って学校に通わせるなど、困った人を見ると援助の手を差し伸べずにはいられないところもあった。

宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国から亡命してきた孫文蒋介石インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまったこともあった。

宮崎は当初、犬養が大隈重信寄りだったため警戒していたが、自宅で会ってみると、煙草盆片手にヒョロヒョロと出てきて、あぐらをかいて煙草を吸い全く気取らない。宮崎は直感的に「好きな人」と判断したという。また囲碁本因坊秀栄と交友があり、後に日本棋院は三段を追贈した。

系譜

 
吉備津神社に建つ銅像
犬養氏
伝承によると、遠祖は吉備津彦命に従った犬飼健命(イヌカイタケルノミコト)、江戸時代には大庄屋を務めた豪家だった。遠祖・犬養健命は大吉備津彦命の随神であったとして吉備津神社への崇敬の念強く、神池の畔に犬養毅の銅像が建ち、吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫である。
曽祖父・犬飼幸左衛門当謙は訥斎と号し、京都の守中翁若林強斎に遊学し、垂加山崎闇斎の学問を、吉備津に伝えた(岡次郎直養編『強斎先生雑話筆記』)。犬飼木堂は、崎門の宿老であった。

孫左衛門次郎左衛門忠兵衛源左衛門當展幸左衛門當謙仙左衛門當則健蔵當吉源左衛門當済 ━ 仙次郎毅

家族

栄典

著作等

注釈

  1. ^ 犬養毅』 山陽図書出版 平沼赳夫 1975年 p.255
  2. ^ 犬養毅』 山陽図書出版 平沼赳夫 1975年 p.255
  3. ^ 岩淵辰雄犬養毅』P15 時事通信社 1986年 ISBN 4788785633
  4. ^ 井土靈山「惡札の裁判―木堂先生の屑籠埋葬―」『木堂雑誌』3号、1925、34-35頁.(同記事には犬養が霊山に語ったという「近頃の大學性なぞの手紙は丸るで腐つた女郎の手紙とでも云つたやうなもので、字體から文句から自體ものになつて居らぬ、そんな手紙が來ると讀むのが苦痛だから屑紙籠に葬って仕舞ふばかりだ」との言が見える。)
  5. ^ 『官報』第4606号、「叙任及辞令」1898年11月05日。
  6. ^ 『官報』号外、「叙任及辞令」1915年11月10日。
  7. ^ 『官報』第2431号、「授爵・叙任及辞令」1920年09月08日。
  8. ^ 『官報』第1610号、「叙任及辞令」1932年05月16日。

関連項目

外部リンク

 

公職
先代:
若槻禮次郎
日本の旗 内閣総理大臣
第29代:1931年12月13日 - 1932年5月16日
次代:
斎藤実
先代:
中橋徳五郎
日本の旗 内務大臣
第50代:1932年3月16日 - 同3月25日(兼任)
次代:
鈴木喜三郎
先代:
幣原喜重郎
日本の旗 外務大臣
第45代:1931年12月13日 - 1932年1月14日(兼任)
次代:
芳澤謙吉
先代:
前田利定
藤村義朗
日本の旗 逓信大臣
第27代:1923年9月2日 - 1924年1月7日
第29代:1924年6月11日 - 1925年5月30日
次代:
藤村義朗
安達謙蔵
先代:
尾崎行雄
鎌田栄吉
日本の旗 文部大臣
第15代:1898年10月27日 - 同11月8日
第35代:1923年9月2日 - 同9月6日
次代:
樺山資紀
岡野敬次郎
党職
先代:
田中義一
立憲政友会総裁
第6代:1929年 - 1932年
次代:
鈴木喜三郎
28
若槻禮次郎
29
1931年12月13日 - 1932年5月16日
30
斎藤実

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衛

寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一

濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎

阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂

片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曽根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹

宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎

安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
菅直人
野田佳彦

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