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昭和農業恐慌

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昭和農業恐慌(しょうわのうぎょうきょうこう)とは1930年昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて深刻だった大不況(昭和恐慌)の農業および農村における展開。単に農業恐慌(のうぎょうきょうこう)ともいう。

 

概要

昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。世界恐慌によるアメリカ合衆国国民の窮乏化により生糸の対米輸出が激減したことによる生糸価格の暴落を導火線とし他の農産物も次々と価格が崩落、井上準之助大蔵大臣デフレ政策1930年(昭和5年)の豊作による米価下落により、農業恐慌は本格化した。

この年は農村では日本史上初といわれる「豊作飢きん」が生じた。米価下落には朝鮮台湾からの米流入の影響もあったといわれる[1]。農村は壊滅的な打撃を受けた。当時、の二本柱で成り立っていた日本の農村は、その両方の収入源を絶たれるありさまだったのである。

1931年(昭和6年)には一転して東北地方北海道地方冷害により大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童[注釈 1]や女子の身売り[注釈 2]が深刻な問題となった。

小学校教員の給料不払い問題も起こった。また、穀倉地帯とよばれる地域を中心に小作争議が激化した。

1933年(昭和8年)以降景気は回復局面に入るが、1933年初頭に昭和三陸津波が起こり、東北地方の太平洋沿岸部は甚大な被害をこうむった。

また、1934年(昭和9年)は記録的な大凶作となって農村経済の苦境はその後もつづいた。 農作物価格が恐慌前年の価格に回復するのは1935年昭和10年)であった。

農業恐慌対策

  • 負債整理事業
  • 米価対策
  • 救農土木事業
  • 農村経済更正運動
  • 東北振興策

脚注

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注釈

  1. ^ 中村(1989)p.67によると、欠食児童は全国で約20万人いたといわれる。
  2. ^ (岩手放送)岩手百科事典 p.194 岩手県において身売り的出稼ぎは1930年6月末397人から1934年7月末1829人と激増した。

出典

参考文献

関連項目

 
 
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「昭和農業恐慌」の書誌情報