柳生石舟斎宗厳

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柳生宗厳
時代 戦国~江戸時代初期
生誕 大永7年(1527年
死没 慶長11年4月19日1606年5月25日
別名 石舟斎(新介、新次郎、新左衛門、右衛門)
戒名 芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士
墓所 芳徳寺
主君 筒井順慶松永久秀
氏族 柳生氏
父母 柳生家厳
厳勝久斎徳斎宗章宗矩

 

柳生 宗厳(やぎゅう むねよし/むねとし)、柳生 宗嚴、大永7年(1527年) – 慶長11年4月19日1606年5月25日))は、剣術新陰流継承者で、官位は但馬守。石舟斎、通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門。柳生家厳の子。新陰流第2世。

子に柳生厳勝柳生利厳の父)、江戸幕府に仕えた柳生宗矩柳生宗章ほか。

 

生涯

 
新陰流兵法目録事/宝山寺所蔵
 
芳徳寺

はじめ富田流戸田一刀斎、次いで新当流神取新十郎剣術を学んで名を挙げていたという。1563年永禄6年)、新陰流の上泉信綱と出会い、試合を申し込んだが、宗厳は信綱どころか、彼の弟子・疋田景兼にすら勝てなかった。

このため、宗厳は己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、1565年(永禄8年8月)に皆伝印可1571年元亀2年3月~6月まで)滞在していた信綱から一国一人の印可を受けるにいたった。

宗厳の孫の利厳を流祖とする尾張柳生家には、この時新陰流の正統は宗厳が継承し、疋田景兼は傍流とされる「疋田陰流」を創始したとする伝承がある。ただし景兼自身が疋田陰流を名乗った形跡は無い。(詳細は疋田陰流を参照)

筒井順慶、後に松永久秀の家臣となる。織田信長大和国入りの案内もした。しかし1566年には松永久秀の配下として多武峰衆徒と戦って拳を射られたり、1568年には柳生谷への帰路で落馬して重体に陥るなど、不幸もあった。更に1571年には嫡男である厳勝が辰市合戦で鉄砲によって重傷を負ったために剣を振るう事が出来なくなってしまった。

このため、ほどなくして宗厳は柳生に隠遁し、松永久秀が信長に謀反を起こした後は、その影響下からも離れ、代わって大和の支配者となった筒井順慶にも従わなかった様子で、筒井氏と当時敵対関係にあった十市遠長と結ぶなど独立体制を保った(多聞院日記)。

しかし、1585年羽柴秀長が大和に入国すると、太閤検地の際に隠田が摘発されて、所領を没収され浪人となり近衛前久に寄食したという。 医師の曲直瀬道三と親交があり、道三が宗厳と梅窓の両人を相手に健康管理のあり方を問答形式で語った『養生物語』がある[1]

1594年(文禄3年5月)、豊前の大名黒田長政が取成して京都鷹が峰、御小屋で徳川家康に招かれ家康本人を相手にして無刀取りの術技を示した。そして剣術指南役として出仕を請われたが、宗厳は老齢を理由に辞退し、代わりに五男の宗矩を推挙した。後に柳生に500石の所領を受けた。墓所奈良市芳徳寺法名は「芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士」。

脚注

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  1. ^ 宮本義己・吉田豊編纂『史伝健康長寿の知恵⑤健康への道 養生のすすめ』(第一法規出版、1989年)P135-158

関連項目

外部リンク

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