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カフェー

この記事は クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0 のもとで公表されたカフェー (風俗営業) - Wikipediaを素材として二次利用しています。

 
 
当時のカフェーが立ち並ぶ夜の新宿

カフェーは、日本で20世紀前半に流行した風俗営業の一業態。古くは特殊喫茶社交喫茶という言い方もあった。

 

概要

カフェーの始まり

日本におけるカフェーの始まりは、1911年明治44年)3月、銀座日吉町に開業したカフェー・プランタンと言われる。経営者は洋画家平岡権八郎松山省三で、命名は小山内薫による。これはパリのCafeをモデルに美術家や文学者の交際の場とすべく始まったものであるが、本場のCafeとは異なり女給を置いていた(パリのカフェの店員は男性である)。

プランタンなどはインテリ向けの店で一般大衆は入りにくかったと言われる。プランタンに続き、美人女給を揃えたカフェー・ライオンなどカフェーを冠する店が増えるが、この頃のカフェーはまだ料理(洋食)、コーヒー、酒が主であり、後年のような風俗営業とは同列にできない。

風俗営業としてのカフェー

カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後と見られる。震災の翌年(1924年)、銀座に開業したカフェー・タイガーは女給の化粧、着物が派手で、客に体をすり付けて話をする、といったサービスで人気を博した[1]

昭和に入り、大阪の大型カフェ(ユニオン、赤玉など)の進出により「銀座は今や(…)大阪エロの洪水」という状態で[2]、女給は単なる給仕(ウエイトレス)というより、現在で言えば(バー・クラブの)ホステスの役割を果たすことになった。ちなみに当時の女給は多くの場合無給であり、もっぱら客が支払うチップが収入源だった[3]。1933年には、カフェーは特殊喫茶風俗営業)として警察の管轄下に置かれることになった。

昭和初期のエロ・グロ・ナンセンスの世相の中、夜の街を彩る存在として、カフェーは小説などの舞台にもなった。当時のカフェーを描いた小説として永井荷風つゆのあとさき」、広津和郎「女給」がある(後者は菊池寛のカフェー通いを描いて評判になった)。

また、谷崎潤一郎痴人の愛」のナオミは、15歳で浅草のカフェーに出ているという設定である。林芙美子がカフェー勤めの経験を「放浪記」に書いたこともよく知られている。エッセイでは松崎天民「銀座」、安藤更生「銀座細見」などがカフェー風俗を活写している。

大正後期から昭和初期にかけてカフェーをテーマにした歌が流行し、カフェー歌謡という[4]

第二次世界大戦

第二次世界大戦終戦後、いわゆる赤線地帯が発生し、かつての遊郭などがカフェー名目で営業を続けるようになったため、それまでのカフェーの方はバークラブなどと称するようになった。

法律用語の「カフェー」は今も残っており、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律第2条第1項第2号には「待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」という規定がある。

なお、「純喫茶」という呼称があるが、これは女給の接待を売りにするカフェー(特殊喫茶)に対して、(純粋に)コーヒーを売りにする店、という意味である。

注釈

  1. ^ 安藤更生『銀座細見』P81
  2. ^ 安藤前掲書P116
  3. ^ 安藤前掲書P129。チップ制の弊害もあり、1933年頃からチケット制を採用する店も増えたという(西沢爽『雑学東京行進曲』P348-349)。
  4. ^ 『演歌に生きた男たち』(今西英造・著)『さすらいのメロディー鳥取春陽伝』(菊池清麿・著)に詳細に記されている。

関連項目

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「カフェー (風俗営業)」の書誌情報