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千葉県

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表された千葉県 - Wikipediaを素材として二次利用しています。

 

千葉県(ちばけん)は、日本の関東地方の南東側、東京都の東方に位置する県。房総半島と関東平野の南部にまたがる。県庁所在地は千葉市

平野と丘陵が県土の大半を占め、海抜500m以上の山地がない日本で唯一の都道府県である。地勢上、広大な可住地と長大な海岸線を持つ。

概要[編集]
関東地方の南東部に位置する県で、三方を海に囲まれ、県土の大部分が房総半島に含まれる。起伏の少ない県であり、関東平野の一部である北部は、海岸(東京湾・太平洋)や河川(利根川・江戸川など)沿いの低地と下総台地とからなる。南部側は房総丘陵などの丘陵地帯だが、最高峰は標高408mの愛宕山であり、全都道府県のうち最高峰(点)が最も低い。標高329mの鋸山や鹿野山など、観光地化されているところもある。

千葉県は律令制以来の『房総三国』である上総国安房国の全土と、下総国の一部から成り立っている。「下総国」のうち、猿島郡結城郡豊田郡・岡田郡の4郡と相馬郡葛飾郡2郡中の一部は、茨城県に、葛飾郡のさらにまた一部は東京都と埼玉県に編入されている。

1873年(明治6年)6月15日に、北西部の印旛県と南部の木更津県が合併し、千葉県が成立した。その後、1875年(明治8年)5月7日に新治県の利根川以南の領域を編入、同時に旧印旛県利根川以北の領域を茨城県に、江戸川以西の区域を埼玉県に移管した。その後、1899年(明治32年)に香取郡のうち利根川以北・横利根川以西の区域が茨城県稲敷郡に編入され、現在の県域がほぼ確定した。

都道府県人口・都道府県人口密度・都道府県昼間人口[1]はいずれも全国6位。面積は全国28位(南関東1都3県では最大)である。

平地の割合が大きく、可住地面積が広いことや、東京都に隣接しており首都圏の一角をなすことなどから、古くから住宅開発が進んでいる。県北西部の人口は稠密であるが、東部や中南部では多くの地域で人口の減少が進んでいる。また、一部の市町は過疎地域に指定されている。
浦安市から富津市までの東京湾沿岸には広大な埋立地が広がり、京葉工業地域の中枢として市原市の石油化学コンビナートや、千葉市君津市にある製鉄所などが立地している。一方、地勢を生かした農漁業も盛んに行われており、農業産出額、漁業総生産量とも全国で有数である。2008年度の県内総生産は19兆6889億円であり、世界の過半数の国の国内総生産より大きな規模を有している[2]。

地理・自然[編集]

千葉県の県庁所在地である千葉市を中心にコンパスで円を書くと、南西諸島以外の日本列島は半径1000km圏内に殆ど収まる位置にある。千葉県の大きな地理的特性としては、広義的には関東平野に含まれるが、その大部分は、東と南を太平洋、西は東京湾と三方を海に囲まれた(房総)半島になっていることである。また、日本で唯一500m以上の山が無いという特徴もある。
常に半島であるという地理的条件により、陸上交通中心の見地から袋小路的な閉鎖性が問題視されると同時に、外洋に面していることから古来から開放的で外来文化が渡来しやすいという良い側面もあった。また、隣接する都県とは利根川、江戸川、東京湾、太平洋によって画され、古くは外敵の進入を防ぐ役割や覇者の起死回生の地としての役割を担ってきた。
野田市我孫子市香取市の一部地区を除き橋(トンネルも含む)を渡らずに、東京都を含む他県に行くことは不可能である。

千葉県の北半分は、大半が関東平野で、南半分は房総丘陵などからなる丘陵地である。最も高い愛宕山でも海抜408mであり、沖縄県の最高峰である於茂登岳の525.5mを下回り、全都道府県の中でもっとも最高峰の標高が低い。なお、県内最高峰の愛宕山は現在航空自衛隊峯岡山分屯基地があり、都道府県の最高峰中唯一、法的な立入が規制されている。

平均海抜は46mとなっており、これは沖縄県の43mに次ぐ低い数値である[3]。そのため、縄文海進が最大規模となった紀元前4000年ごろには千葉県の多くの低地が海面下であった。現在の南部の古東京湾と北部の香取海によって本州と分断されており、後に赤堀川・逆川が開削される微高地で僅かに繋がっている状態であった。現在でも、10mほど海面が上昇すると、千葉県は本州沖合いに浮かぶ島のひとつになるという試算が国土地理院によって示されている[4]。

房総半島の東京湾側は内房(うちぼう)、太平洋側は外房(そとぼう)と呼ばれ、内房では近年埋め立てが進み、浦安市などでは面積が増えた。そのため県の面積が一時愛知県を上回っていたが、中部国際空港の建設に伴い再び愛知県の方が広くなっている。

印旛沼長門川と印旛放水路の二つの川と接続しており、長門川は印旛沼から利根川へ流れる河川であるが、印旛放水路は利根川の増水時に長門川による印旛沼の排水が困難になった際に東京湾に排水を行う役目を持つのが特徴である。

東京湾沿いは埋立地が多く、浦賀水道の対岸に三浦半島がある。太平洋沿いは九十九里浜が面し、九十九里平野が広がる。半島南部には房総丘陵、半島中央部には上総丘陵と上総台地 、半島北部には下総台地があり、これらの台地や丘陵には縄文期の侵食によってできた谷底平野(谷津田)が見られる。一方で半島の北部から中部にかけて下総台地を囲む形で北西に江戸川低地、西に東京湾岸低地、北に利根川下流低地、東に九十九里沖積低地が分布する。

地質[編集]
第三紀層および白亜紀堆積層。 鋸山の周辺で採石される石は房州石(ぼうしゅういし)と呼ばれ[5]、このうち鋸山頂上付近でとれるものを金谷石、元名石と呼び[6]、高宕山でとれるものを高宕石と呼ぶ。これらは、上総層群の竹岡層からなる凝灰岩でできている。上総層群は三浦半島に分布する三浦層群と同時期に形成されたことがわかっている。[5]

地形[編集]
平野・丘陵平野・台地 下総台地、上総台地、九十九里平野
丘陵 房総丘陵、上総丘陵

千葉県は大部分が平野部と低山で構成されているので、急な流れの川や大きな川は少なく、そのような川は多くが利根川のように他県から流れてくるものである。
利根川夷隅川、栗山川、小櫃川、養老川、一宮川、小糸川、南白亀川、村田川、作田川、木戸川、塩田川

湖・沼
霞ヶ浦手賀沼印旛沼大利根用水、両総用水、成田用水、東総用水、利根運河利根川河口堰、黒部川水門、北千葉導水路、房総導水路、行徳可動堰、江戸川水閘門(江戸川水門)

海・海岸
浦賀水道(館山湾)、東京湾、太平洋、鹿島灘


愛宕山、富山、伊予ヶ岳、鋸山、鹿野山、清澄山、安房高山、三郡山、嶺岡浅間、高宕山

湧水
千葉県内には多くの湧水地があり[7]、久留里一帯では住民が管理する複数の井戸があり、名水として知られている。ただし、「千葉県地下水汚染対策連絡会」の「砒素含有地下水に係る調査対策部会」が作成した2000年
(平成12年)3月に地下水砒素濃度分布図 (PDF) によれば、県内でも相当数の井戸においてヒ素が地下水の環境基準を超過していることが公表されているため、安全性の確認が取れた井戸で湧水を飲むのが望ましいと考えられる。

自然公園[編集]
国定公園水郷筑波国定公園南房総国定公園県立自然公園県立養老渓谷奥清澄自然公園、県立九十九里自然公園、県立印旛手賀自然公園、県立高宕山自然公園、県立嶺岡山系自然公園、県立富山自然公園、県立大利根自然公園、県立笠森鶴舞自然公園

気候[編集]
半島に位置するうえ、平均標高も低いため全体的には年間通して温暖な気候で全域が太平洋側気候に属する。しかし、一年中温暖な海洋性気候である南房総や北東部沿岸地域に対して、下総台地などの内陸部は内陸性気候で冬の寒さはより厳しく、高い山地がないにもかかわらず意外にも多様性に富んでいる。

しかし、天気予報などで示される地点は、気象台や旧測候所(現・特別地域気象観測所)のある銚子、千葉、勝浦、館山といずれも海洋性の気候が強い地点のみであるため、県内内陸部の気温とは大きくかけ離れている点も少なくない。

 

下総台地 ・・・ 県北西部から北東部にかけての内陸地域で、内陸性気候の特色が強い。千葉市若葉区などの内陸部も含まれる。特に、佐倉市成田市香取市周辺にかけては筑波颪が吹き付けるために県内で最も寒さの厳しい地域である。1月の平均最低気温は成田が-2.4℃[8]、佐倉で-2.0℃に達し、時には-5℃から-8℃前後まで下がることもある。佐倉では1984年に-12.7℃を記録している[9]。雪が降っても積雪量は数センチということがほとんどであるが、1951年には千葉市白井で133センチの積雪を記録している[10]。夏季は日中は西へ行くほど暑くなり、真夏日も多いが、逆に北東へ行くほど北東気流の影響で涼しくなる。朝晩は気温が下がり熱帯夜は比較的少ない。

 

東葛地域 ・・・ 柏市松戸市我孫子市などが属し、京葉地域に並ぶ人口密集地である。市川市船橋市などの葛南地域の内陸部もここに該当する。筑波颪による冷気のため、冬の寒さは東京都心部より厳しく、連日氷点下まで下がる。内陸に位置しているため沿岸からの暖気の吹き込みに影響されにくいという点から、時に南岸低気圧通過時には県内で唯一、雨に変わらずに雪のまま推移することで大雪をもたらすこともあり、30cm~40cmもの積雪を記録することもある。近年はヒートアイランド現象の影響が著しく、冬の冷え込みが和らぐ一方、夏は熱帯夜が続くことが多くなっている。千葉県北西部の天気予報は一括して旧千葉測候所の天候が基準となるために、東葛地域の実際の天候・気温とは異なることも多い。そのため、2002年には気象庁予報警報区分では二次細分区域として「東葛飾」[11]という区分が誕生した。

 

京葉地域(東京湾沿岸地域) ・・・ 浦安市から市川市船橋市千葉市市原市までの東京湾に隣接した沿岸地域を示す。農地が少なく、県内では東葛地域と並び人口密度が高い地域である。そのため、夏は蒸し暑く熱帯夜が多く、冬は氷点下になることが少ないなど県内で最もヒートアイランドの影響を色濃く受けており、ほぼ、東京都心の気候と変わらないといってよい。千葉市の1月の最低平均気温は1.9度で、これは南房総鴨川1.5℃や館山1.0℃よりも高く、銚子2.7℃、勝浦2.6℃に次いで3番目の高さとなっている。千葉県北部地域が南岸低気圧による大雪の時、千葉市は雪や霙、市原市では雨や霙の場合が多い。8月の平均最低気温は千葉市が23.9℃と県内で最も高く連日熱帯夜となり海風の影響で湿気も高いために非常に過ごしにくい地域である。

 

北東部 ・・・ 九十九里浜に沿って太平洋に面した地域で、海洋性気候となり年中温暖な気候である。特に銚子の夏は関東平野部の中では最も涼しく、冬の最低気温も県内で最も高い。しかし、ヒートアイランドの影響が少ないため、少し内陸に入ると冬季は冬日になることも多く横芝光の1月最低平均気温は-0.6℃と氷点下であり、冬型時は千葉市よりも冷え込む。冬季の南岸低気圧通過時はこの地域には暖気を巻き込むことが多いため、積雪となることは非常に少ない。また、全般に夏は冷涼ながらも、茂原市などの南部内陸部は夏の日中は県内で最も暑くなる。

 

南部 ・・・南部は温暖な気候と一括されがちであるが、実際には、寒冷な房総丘陵の内陸部と、温暖な沿岸部に二分され、さらに外房と内房で気候は異なる。房総丘陵地域は標高の高い丘陵地帯であるため、年間の寒暖の差は大きく内陸性気候となる。冬は、アメダス地点の牛久や坂畑など氷点下まで冷え込むことがほとんどで、氷点下5度を下回ることも珍しくない。標高が高いために、時に大雪となることがある。夏は市原市牛久では2004年に県内最高となる40.2℃が観測されたこともあるなど暑い。
しかし、朝晩は涼しく熱帯夜は少ない。一方、君津市坂畑は亀山湖に近い立地からか夏も涼しく、標高120m程度の場所としては関東では冷涼な地点のひとつである。一方、温暖な沿岸部、特に、南房総地域は黒潮海流の影響で気候は年間通して温暖で、夏には多くの海水浴場が開設され、冬には避寒地として多くの観光客が訪れる。外房沿岸地域は特に温暖で、霜が降りることはあまりなく、南房総市の南端部は関東で最も春の訪れが早い地域である。
一方、内房は外房ほどの温暖さはなく、館山特別地域気象観測所などでは冬日を観測することも多い。気象区分では南部に属するものの木更津市などは千葉市の気候と変わらない。夏は、御宿町勝浦市などでは海流や風の影響で涼しく、勝浦の8月の平均最高気温は28.8℃にしかならないなど真夏日日数も少ない避暑地でもある。

 

動植物[編集]
陸の動植物
房総半島南部にはニホンザルニホンジカが生息している。一方、他県に見られるクマなどは生息していない[13]。

以下は房総の陸上に生息する主要な動植物である[14][15]。
ニホンザル : 房総丘陵に位置する高宕山周辺のニホンザルは天然記念物に指定されている。
ニホンジカ[16]
ホンドテン
海・川の動植物
三方を海で囲まれた地形であり、地形・海流の関係により多様な生態系が築かれている。

東京湾は閉鎖性水域と呼ばれる、海水の流出入量が少ない海域である。複数の河川が注ぎ、富栄養化が進んでいる影響で、赤潮青潮などの現象が度々発生している。湾奥の三番瀬や、富津干潟、盤州干潟などの広大な干潟が現在も残る。これらの干潟にはアサリやバカガイなどの貝が生息し、春から夏にかけて潮干狩りが行われている。
アシハラガニやガザミといった甲殻類から、アジサシやカワウなどの鳥類も生息[17]する。小櫃川河口には東京湾固有種の「キイロホソゴミムシ」が生息し[18]、アシ原(ヨシ原)を形成しているアシ(ヨシ)をはじめ、ハマダイコンなどの植物やアマモなどの海藻が生息する[19]。

富津市と鋸南町の境界付近にある明鐘岬周辺より南の海域からは、わずかながらサンゴが生息している[20]。これは、黒潮の影響を受けた海水温と透明度の高い海水が流入するためである。そしてこの近辺からは東京湾海底谷が広がり、メガマウスミツクリザメなどの貴重な深海生物が多く生息している。
館山市周辺海域には造礁サンゴが分布している[21]。日本は黒潮の暖かい海流により世界的に見て造礁サンゴが広い範囲に分布しているが、その中で館山の造礁サンゴは北限とされている。

そのほか東京湾および館山湾周辺にはスズキやメバルにイイダコ、アカエイなど豊富な魚類が生息している。

館山周辺の沿岸から夷隅地区はイセエビが豊富に生息しており、いすみ市および県全体では漁獲高全国一位を誇る。鴨川市には特別天然記念物にも指定されている鯛の浦がある。これは群泳せず浅い海を泳がないマダイが群泳する姿を、海面近くでみることができるためである[22]。

房総半島は標高が低いこともあり、水温の低い谷川はない。そのため、カワゲラやカゲロウは全体として少なく、ヤマメや大卵型のカジカは生息していない。[14]

外来生物
勝浦市にはかつて行川アイランドと呼ばれる観光地があり、この施設から逃げ出したとされるキョン勝浦市周辺で繁殖しており、県内には数千頭生息しているとされている[23]。また盤洲干潟や富津干潟などにはサキグロタマツメタと呼ばれる貝が流入している[24]。
これは本来、中国近海の干潟や瀬戸内海などにしか生息していない貝であったが、中国などからのアサリの輸入に際して混入してきたとされる。この貝はアサリなどの二枚貝を捕食するため、潮干狩りやその他漁業への被害が発生している。これによりサキグロタマツメタは在来種であるツメタガイとともに干潟の多くのアサリの天敵となっている[25]。

 

歴史[編集]

県名の由来[編集]
千葉県という県名は、1873年(明治6年)に木更津県と印旛県が合併して当県が設置された際に千葉郡千葉町に県庁が置かれたことに由来する。県庁所在地名と郡名が同じため、そのいずれに由来するかは不明である。
また、千葉という地名自体がいつの頃に発生したのかは定かではないが、律令制以前の国造名(千葉国造)や律令制以来の郡名(千葉郡)に見ることができる。その地名の由来については諸説あるが、一説によると「数多くの葉が繁茂する」の意で、

1.実り豊かな豊穣の地を示している
2.たくさんの草木が生い茂る原野だったから
3.土地と子孫の繁栄を願っての地名

などとも説かれる。なお、『日本書紀』と『古事記』の両書には、応神天皇が大和から近江に向かう途中、山城の宇治野の丘で遠く葛野一帯を望んでの国見歌で現れる「千葉の」は数多くの葉の意味で、葛の葉が良く繁栄したことから葛の枕詞として用いられたのだと、契沖以来考えられており、古代人が「千葉」という地名に託した願いを知る上での重要な資料のひとつといわれている(和歌については、以下を参照)。

(和歌)千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ
(訳)千葉の葛野を眺めると、数多くの富み栄える民の家々も見える。国の中でもっとも繁栄したところにも見える

現存の文書中、千葉という地名がもっとも古くに見えるのは、『万葉集』20巻の千葉郡出身の防人大田部足人の詠んだの一首だといわれている(和歌については、以下を参照)。

(和歌)千葉の野の 児手柏の 含まれど あやにかなしみ 置きて高来ぬ
(訳)千葉の児手柏の葉がまだ開ききっていないように、若くあどけない彼女(娘)が何とも痛々しくて、手も触れずに遠くはるばるとやってきた

先史時代[編集]
地殻変動により隆起して半島が形成された。上総の山稜地帯はその名残である。

今から約12万年前は、関東平野のほとんどは海面下で、現在の千葉県は房総半島南部の山脈と銚子周辺の高台が小島として水面上に出ていたのみと考えられる。約2万年前のヴュルム氷期になると、海岸線の大幅な後退と周辺山脈の活発な火山活動などに伴い海面は、現在より、80 - 100mも低くなり、東京湾は盆地(陸地)となっていたとされる。
台地から流れ出た水は、最終的に古東京川(現東京湾沖にあった)と呼ばれる大河を形成し、古太平洋へと注いでいたという。富津沖の中ノ瀬は、当時の川中島であり、観音崎から急に水深が深くなっているのは、古東京川の流れがえぐったためではないかと考えられている。
縄文時代が始まる約1万年前から気温が上昇し、氷河が溶けると海水面は再び上昇し、現在よりも5 - 10mほど高くなり、関東平野には古東京湾と古鬼怒湾(後の香取海)の2つの湾が形成され、島状になっていたとされる。

房総の最初の住人は、約3万数千年前の旧石器時代の人々だと言われている。

千葉県の旧石器時代の人々は、古鬼怒川沿いに石器の原材料を求め北は高原山から南は房総半島の嶺岡山地の間約200km以上にも及ぶ長い領域の間を移動しながら生活を営み、主な狩場である常総台地ではナウマンゾウやオオツノシカなどを食料にした狩猟生活を営んでいたと考えられている。
そのため、狩猟に使用するための石器などを使用した道具が進化した。石器は、黒曜石やサヌカイトを使用したものが著名で、千葉県最初の旧石器時代の黒曜石は、市川市国府台にある立川ローム層等から発見された。千葉県には、石器の原料となる産地が乏しく、高原山や甲信地方の中央高地などから運ばれたと考えられている[26][27]。

千葉県の旧石器時代の遺跡は、300数十箇所ほど発見されており、県北部の台地に多い。そして、印西市(旧・印旛村)では、日本初のナウマンゾウの全身骨格が発見され、成田市(旧・下総町)では、ナウマンゾウの頭骨が発見されている(共に国立科学博物館収蔵)。

縄文から古墳時代まで[編集]
縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られている。縄文時代の貝塚は日本各地に約2300か所[28]を数え、関東地方には、約1000か所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚の宝庫と呼ばれ、約600か所が密集しており、千葉県の東京湾域、利根川流域の台地には644か所[28]ほどの遺跡が見られる。
千葉市にある加曽利貝塚が有名で、千葉市若葉区の台地には、加曽利貝塚博物館が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の堆積状態を観察することができる。また、縄文遺跡の落合遺跡(東京大学検見川総合運動場)から発掘されたハスの実は発芽に成功し、大賀ハス古代ハス)と呼ばれ、世界中に株分けされた。

県内では、成田市の荒海貝塚から縄文から弥生時代へ移り変わる頃の籾殻痕がついた土器が見つかっており、イネの栽培が行われていたと推定されている。ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていない。
農耕社会に入ると、『ムラ』の形態が変化し、これまでの採集経済に代わり、生産経済が展開されていく。この過程の中で環濠集落が出現するが、千葉県では1979年(昭和54年)から行われた佐倉市の六崎大崎台遺跡の発掘で発見されている。遺跡は台地にあり、周辺の低地には、水田が広がり、そこでは技術的に完成された農業が営まれていたと推測されている。
環濠集落は、政治的施設や生産工房を府置した政治的軍事的な「城塞集落」で、佐賀県吉野ヶ里遺跡は、前者の数十倍の規模があり、陸橋・門柱・柵列や物見櫓が見つかっている。また、環濠内には弥生墳丘墓や祭祀施設も備わっていたことがわかっている。

弥生時代末期になると六崎大崎台遺跡の環濠は消滅し、ムラの景観が一変する。台地の北に大型住居を伴ったムラが作られ、南には墳墓を有する大型の方形周溝墓が作られた。こうした変化は、墓がムラの共通空間として認識されるようになったこと示唆している。ムラの首長のあり方が変化し、地方豪族が誕生、社会変動の過程で新たな墓が出現するようになり、古墳時代に至る。

関東では、関西より100年遅れて2世紀から3世紀頃まで、弥生時代となる。房総の古代文化は、黒潮による南西日本との文化交流の影響が見られることから、俗に「黒潮文化」と呼ばれ、地域の文化や風習(例:漁法・建築様式等)などにその影響が見られる。

古墳時代の房総半島は、「捄国」(ふさのくに。古くは捄=麻がよく育ったことに由来、「総」は後世の当て字)と呼ばれた。『古語拾遺』によると、神代の時代に古代豪族の忌部氏の祖である天富命が阿波(徳島県)から黒潮に乗って渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地が捄国で、忌部(斎部)の一部の居住地には、阿波の名を取って安房としたのが起源だとされる。
これら房総三国を一括する語が「吾妻」である。『記紀』神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。安房国造の任命に際しては、出雲国造、紀国造とともに特別の任官方式が取られ、忌部氏氏神とされる安房大神(安房神社)は、8世紀前半までは、東国では鹿島神に次ぐ扱いで、香取神を上回っていたとされる。

また、『常陸国風土記』によれば、阿波忌部氏に続き、多氏(神八井耳命の末裔の肥後国造の一族)が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として鹿島神宮を建立したとされる。なお、香取神宮もこの際に出雲の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが起源だとされている。因みに平安時代から近代にかけて「神宮」の称号で呼ばれていたのは、伊勢神宮鹿島神宮香取神宮の三社のみである。

県内にある古墳時代初期の遺跡としては、市原市の神戸4号墳・5号墳を始め、各地で前方後円墳が出現する直前の首長墓が確認されている。また、市原市の稲荷台1号古墳から出土した「王賜銘」鉄剣からは房総におけるヤマト王権の影響力が見られる。その勢力下にいつ頃入ったのかは明確ではないが、現在の研究では、前方後円墳が盛んに築造されるようになった5世紀の半ばとする考えが通説で、国造制によって県域には、11の国造が置かれたとされる。

県域は香取海周辺に集中する古墳郡の分布からも分かるように、古来より、海上交通を通じて発達し、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多く、1990年(平成2年)時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されている。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。

なお、遺跡の多くは山(標高20m - 30m程度の高台)側に多く分布している。これは、縄文海進の影響によって当時の水位は現在よりずっと高く、現在の千葉県の多くの低地が海中に沈み、県域は、北部の香取海、南部・東部の古太平洋と西部の古東京湾によって、本州と完全に仕切られた「島」となっていたためで、この影響は、平安時代から鎌倉時代まで続いたとされる。この影響は、日本武尊に関する説話など、各地の伝承や伝説などにも見受けられる。

岩屋古墳
6世紀後半になると、畿内では前方後円墳は姿を消し、古墳は小型化する。7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、7世紀初めまで前方後円墳が築造されていた。千葉県にある同時期の遺跡としては、栄町および成田市にある龍角寺古墳群(古墳総数は111 - 124基)がある。遺跡は、印旛沼の東岸(印波国造の影響域と推定されている)にあり、周辺は千葉県立房総のむら(体験博物館)として整備されている。龍角寺古墳群は6世紀に始まったとされ、7世紀末までの200年間、複数古墳と寺院が築造されたもので、東国における墳墓(古墳から寺院)形態の変化を知る上でも重要な遺跡として全国的にも著名である。
浅間山古墳(竜角寺111号墳)の副葬品は7世紀中葉までに及び、墳丘長が78mで、全国的に見ても最後の大型前方後円墳のひとつといわれる。この直後に造られたのが岩屋古墳(竜角寺105号墳)で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、終末期の方墳としては、日本最大である。

飛鳥から平安時代まで[編集]
そして、岩屋古墳の北北西約1kmの場所には龍角寺跡がある。この寺院は、東日本最古(創建は640年代から7世紀の第3四半期頃と推定)の寺院として知られる。調査によると山田寺式の瓦が葺かれ、三重塔と金堂が東西に並んだ法起寺式の伽藍配置だったことがわかっており、同地の有力者がヤマト王権の豪族と結び仏教を広めようとしたのではないかと考えられている。
また、寺院の北西には、龍角寺の瓦を生産した窯跡があり、「加刀利」などの文字が書かれた瓦が出土している。その文字瓦には「朝布」「赤加賀」「玉作」などの文字や絵模様が描かれた1800点程の種類がある。このことは、7世紀代の文字資料が少ないこともあり、旧来の「遅れた東国」というイメージが強かったが、関東での文字の使用が奈良時代以前に遡ることを証明する貴重な資料のひとつと言われている。

大化の改新後、珠国[要出典][29]は畿内に近い方が上総国、遠い方が下総国となり、さらに718年(養老2年)に上総国から安房国が分離し三国となった。なお、一時、安房国は再び上総国に編入されたが、757年(天平宝字元年)に再び分割された。地理的には北から順に下総、上総、安房となっているが、これは当時、東海道の正式なルートが相模国から安房国へ渡る舟を経由するのが主流であり、上総の方が畿内に近いとされていたためで、『日本書紀』には日本武尊の武勇伝でも上総国に上陸する場面が見られる。
日本国内にあった68の各国は、国力等の政治・経済上の基準で大国(たいごく)から下国(げこく)の4等級に区分されていたが、上総国下総国とも大国、安房国は中国と『延喜式』には記されている。また、上総国は大国の中でも親王国司を務める3つの親王任国のひとつとなっており、平高望、良兼や菅原孝標がそうであったように、国府の実質的長官は上総介が握っていた。

安房・上総・下総の各国には、駅(駅家)が設置され、駅馬と伝馬が配備されていた。この三国が属した東海道は中路[30]とされた。安房国には駅馬[31]が白浜・川上各5頭が配備、上総国には駅馬が大前・藤潴(ふじぬま)・島穴・天羽の各郡に5頭、伝馬[32]は海上・望陀・周淮・天羽の各郡に5頭、下総国には駅馬が井上10頭、浮嶋・河輪各5頭、茜津・於賦(おう)各10頭、伝馬が葛飾郡10頭、千葉・相馬の各郡5頭が配備されていた(『延喜式』)。

701年(大宝元年)には、国には国司が政務をとる国庁と国府が設置された。上総国の国府は市原市、下総の国府は市川市国府台の地に、安房国府は安房郡三芳村府中に置かれた。安房国府の遺構は見つかっていない。郡には郡家が設置された。
上総国海上郡家が市原市西野遺跡、下総国埴生郡家が栄町大原遺跡など発見されているが、その他の郡家跡は明確でない。また、田祖・正税を納める倉庫である郡家の正倉は、我孫子市日秀西遺跡が下総国相馬郡のものと想定されている。他方、国分寺(金光明四天王寺護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)については、上総は市原市、下総は市川市国分に所在し、安房はまだ不明である。

東国の武士の勇猛さは知れ渡っており、九州筑紫の防衛をする防人に東国出身の兵士が、充てられた。その上総・下総国出身の防人の歌が『万葉集』巻20に出ている。防人は難波津に集結し、海路で筑紫に向かった。難波までは食料自弁であった。筑紫では空き地が与えられ稲や雑穀を栽培し食料とした。

平安時代中期、都では、藤原氏が隆盛に向かう頃、県域では、中央から派遣された国司などの(任期期間が過ぎた)役人が土着し、在地領主や富豪農民などの新興勢力が誕生し始める。特に高望王の子孫である桓武平氏系の氏族が勢いを振るったが、平安時代平将門、次いで平忠常が反乱を起こし、房総三国は、一時「亡国」と言われるほど荒廃した(この時、朱雀天皇によって、平将門の乱平定のため、僧寛朝が派遣され、祈祷を行なったことが、後の成田山新勝寺の起源となる)。

鎌倉から戦国時代まで[編集]
この荒廃の中で台頭してきたのが、忠常の嫡流の子孫の千葉氏(上総氏も含む)である。千葉氏は下総国千葉荘を本拠とした豪族で、坂東八平氏・関東八屋形のひとつに数えられる名門氏族として総州で栄えたといわれている。
千葉氏系の氏族としては、相馬氏 、武石氏、大須賀氏、国分氏 、東氏、葛西氏、椎名氏、臼井氏、原氏、遠藤氏、円城寺氏、高城氏などの諸流がよく知られている。このうち、相馬氏と遠藤氏、高城氏は明治維新まで存続する。

しかし、千葉氏も平安時代までは、俗に言う私営田領主(地方領主)で、国司が交代する度に荘園の認定を得なければならなかった。そのため、平氏政権の影響が地方にも及ぶ頃には、下総国司だった藤原親通によって官物未進(租税滞納)を理由に相馬御厨や立花荘(東荘)が没収されるなど、困難な状況に追い込まれていた。
千葉氏は、これらの荘園の回復のため、長期間奔走するが、懸命の努力にもかかわらず、源義朝を経て、藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張し、介入してきた常陸の佐竹義宗に奪われるなど、平家方の親通が土着する過程で、被害を受ける在地領主の一人にしか過ぎなかった。そのような困難な状況を打開する転機となったのが、平安時代末期の鎌倉幕府創設への貢献だった。

1180年(治承4年)、石橋山の戦いに破れ、安房国へと落ち延びた源頼朝を、千葉氏を始めとする総州の諸侯(安西氏、和田氏、葛西氏など)が支援したことによって、わずか1か月で関東武士の恭順と結束を固め、鎌倉幕府を築くための原動力となったことは著名である。この功績によって千葉氏当主だった千葉常胤は、鎌倉幕府の重臣となり、鎌倉時代から室町時代にかけて、総州の支配者としての確固たる地位を築くと共に、奥羽(後の奥州千葉氏)・九州(後の九州千葉氏)にも所領が与えられ、一族の一部が移住、勢力が拡大する。

一方の上総氏は、頼朝の政権獲得の過程で、当主広常が謀殺され、領地も没収されてしまったため、以後の歴史書や系図で不当に扱われてきたという経緯がある。

鎌倉時代前期には、千葉氏(上総の千葉常秀を除き)は、畠山氏や三浦氏のように北条氏とは争わず、千葉常胤の嫡男太郎胤正が千葉宗家(千葉介家)、次郎師常が下総国相馬郡、三男胤盛が武石郷、四郎胤信が大須賀保、五郎胤通が国分郷、六郎胤頼が東庄を本拠とし、世に千葉六党と称され最盛期を迎える。鎌倉時代中期の蒙古来襲の際には、千葉氏も九州に所領を持っていたことから、当主の頼胤、宗胤がそれぞれ、文永の役弘安の役に参加している。

しかし、同時期から千葉介の継承を巡り、千田胤貞と千葉貞胤の間で、内紛が起こるようになり、1333年(元弘3年、正慶2年)に鎌倉幕府を打倒すると、対立は表面化、それぞれ、足利尊氏新田義貞双方に属し、1336年(南朝:延元元年、北朝建武3年)に胤貞が没するまで争いが繰り広げられた。また、1365年(南朝:正平20年、北朝:貞治4年)の氏胤没前後からは、貞治・応安の総論の展開による下総での国内問題や千葉家の筆頭家老の座を巡る原氏と円城寺氏の争いなど、千葉宗家・千葉六党・家臣(同族)間の対立や内紛が後も絶えずに起こる。

この頃、房総では日蓮上人が日蓮宗を興した。

さらに室町時代になると、関東では、鎌倉公方室町幕府との対立が激化、関東管領の上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった争いが相次ぎ、長い戦乱が続いた。現在の県域も巻き込まれ、荒廃した。この一連の戦いは、関東管領鎌倉公方(古河公方)を始め、関東の諸氏の勢力を衰えさせた。千葉氏も例外ではなく、1455年(康正元年)の享徳の乱の際には、一族の重鎮である馬加康胤を擁した重臣原胤房によって千葉宗家が滅ぼされるなど、戦国時代には大きく勢力が衰退していた。この状況に乗じ、戦国時代になると小田原の北条氏が関東各地を次々と支配下に置き、台頭してきた。千葉氏は、北条氏に従属し、安房を本拠とする里見氏(詳細は国府台合戦を参照)や上杉氏(詳細は北条征伐を参照)との争いに巻き込まれていく。

上総国では、上総武田氏が台頭、古河公方の分家筋である足利義明小弓公方として擁立し勢力の拡大を目指した。

安房国では、1440年(永享12年)の結城合戦に破れ、安房に上陸した里見義実が領主だった安西氏を追放し台頭する。里見氏は、戦国時代になると北条氏と房総の覇権を争うことになる(里見氏の結城合戦後の詳細は不明で諸説有)。

安土桃山から江戸時代まで[編集]

1590年(天正18年)、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉小田原征伐北条氏が没落すると、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。一方、里見氏も房総半島南部一帯に勢力を伸ばしていたが、小田原征伐の際の軍事行動が私的な戦闘行為とみなされて安房一国に削減された。

北条氏滅亡後に徳川家康駿河遠江三河・甲斐・信濃の5か国から下総・上総を含む関八州に移封されたことにより、房総の大部分がその支配下に入る。上総・下総には、常陸佐竹氏と安房里見氏を警戒して、本多忠勝を始めとする徳川家の譜代家臣団が配置されるも、里見家は存続し、引き続き安房を領有する。だが、江戸時代初めに起きた大久保長安事件の余波を受けて改易、その後断絶することになる。

江戸幕府が開かれると、徳川家康が鷹狩りなどのため船橋、御茶屋、東金などに御殿を建造し、御成街道も整備された。江戸に近いことから、大きな大名家は置かれず、小大名領と旗本領・天領に細かく分割された。房総で最も大きな大名は、下総佐倉藩(11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正睦が老中としてアメリカとの交渉役を務めた。
また、下総関宿藩も著名である。この藩は佐倉藩に次ぐ規模で、幕末には、藩主の久世広周が同じく老中を務め、公武合体政策などを推し進めた。下総国には、他に小栗原藩、高岡藩、小見川藩、多古藩、生実藩が、上総国には鶴牧藩、請西藩、飯野藩、一宮藩、佐貫藩、久留里藩、大多喜藩が、安房国には勝山藩、船形藩、館山藩がそれぞれ置かれた。また、明治維新徳川家達静岡藩移封に伴い、静岡藩に編入された駿河遠江両国にあった藩が代替地として与えられたこの地に移封して成立した藩があり、廃藩置県まで続いていく。

江戸時代前期には、房総最大の百姓一揆佐倉藩で起こったが、この時に一揆の指導にあたった佐倉惣五郎は、重税に苦しむ百姓を救おうとした『伝説的義民』として、芝居や歌舞伎の演目に描かれ、庶民の尊敬を集めた。しかし、小規模な領主が多かったこの地域では例外を除き、殆どの地域の場合、このような大きな一揆が起きるのは稀で、多くの場合、税率も平均的な天領並か少し高いくらいで恵まれた地域であった。

江戸時代を通じて、県域各地は、幕政改革の影響を強く受け、印旛沼治水工事や椿海干拓などの大規模な土木事業や新田開発が盛んに行われた。また、風土や立地に恵められていたことから、薬草や農産物などの栽培所が設置され、試験栽培などが行われた。有名な話としては、飢饉[33]対策のため、サツマイモ栽培を関東で広めるために、下総国の馬加村(現千葉市花見川区幕張町)、上総国九十九里浜の不動堂村(現九十九里町)において試験栽培が実施され、1735年(享保20年)関東地方でも栽培が可能であることを確認。
これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけを作ったことは有名である。なお、下総薬園台(現船橋市)では、朝鮮人参や黄蓮の栽培も試みられている。

また、房総は江戸に近く、軍馬の養成に適した平地が多かったことから、旧官牧地を利用した3つの幕府直轄牧(小金牧・佐倉牧・嶺岡牧)が設置されていた。その牧の風景や様子は、旅人には珍しかったようで、房総名所や江戸名所のひとつに数えられ、松尾芭蕉小林一茶歌川広重などの作品や紀行文にも登場する。なお、嶺岡牧では、徳川吉宗時代にインド産の白牛を放牧・繁殖、白牛酪(バター)などが日本で初めて生産[34]された。

江戸時代中期になると江戸で人気を馳せた歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居が打ったことなどから成田参詣と呼ばれる個人参詣運動が盛んになり、江戸から成田を結ぶ佐倉街道は人々で賑わい、街道や水運なども整備され、宿場町や間の宿が形成された。

下総国武蔵国との境界の変化
近世初期(1683年(天和3年)、また一説によれば寛永年間(1622年(元和8年) - 1643年(寛永20年))、下総国葛飾郡の一部、すなわち隅田川から利根川までの地域(現在の墨田区江東区・葛飾区・江戸川区等)[35]を武蔵国に編入、境界を改め武蔵国葛飾郡とした。

明治から第二次世界大戦まで[編集]
慶応4年4月(1868年)の江戸城無血開城に前後して、下総西部から下野地方の一帯では3月から4月にかけて結城城の争奪戦が行われ、4月には旧幕府歩兵奉行大鳥圭介の部隊2000人が市川、結城、宇都宮、さらに会津へと転戦していった。一方、上総西部に旧幕府撒兵隊が「徳川義軍府」を称して侵入し、周辺各地から物資や武器、兵員を徴発し、4月下旬には下総西部まで進軍した。海上では旧幕府海軍副総裁榎本武揚が軍艦7隻を率いて館山湾に入り、一部は上陸した。しかし市川・船橋戦争と呼ばれる戦闘が生じたのみで、戊辰戦争に巻き込まれずに明治を迎える。

明治元年(慶応4年)9月(1868年10月)、明治と改元される。すでに政体書によって決まっていた府藩県三治の地方制度が、6月頃から関東地方で実施され始めた。幕末期の房総地方には17藩が所在したが、その間転封が命じられ、明治元年末(1869年初め)には23藩の多数にのぼった。そのため明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県が実施されると、26県という多数の県が並立することとなった。
しかし、同年11月の全国的な県の廃合で新治県・木更津県・印旛県の3県に統合された。次いで、1873年(明治6年)6月15日、印旛県と木更津県の合併により千葉県が誕生、県庁が千葉町(千葉市街地)に開設された。千葉県権令には柴原和が就任した。
1875年(明治8年)5月7日に新治県の茨城県編入に伴い、千葉県であった結城郡猿島郡・岡田郡・豊田郡4郡と葛飾・相馬両郡の一部を茨城県に譲渡して、香取郡匝瑳郡・海上郡を旧新治県から編入した。次いで葛飾郡のうち江戸川以西を埼玉県に移管し(のち中葛飾郡を経て北葛飾郡の一部)、さらに1899年(明治32年)4月1日に香取郡利根川以北が茨城県に編入されている。これにより、現在の県域がほぼ確定した。

明治2年(1869年)には、明治政府によって、東京在住の旧士族出身者を始めとする失業者の救済のために旧幕府牧の開墾事業が計画され、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三などの村が新しく作られた。

また、東京に近かったことから、1873年(明治6年)に明治天皇習志野原へ御幸して以来、首都防衛を名目に、習志野を始め千葉、市川、柏、松戸、佐倉、四街道、茂原、木更津、富津、館山のような多くの軍事拠点(軍郷)が造られた。
太平洋戦争(大東亜戦争)の際には、風船爆弾によるアメリカ本土空襲のための前線基地も置かれた。なお、県や各市町村も、このような軍事拠点を造ることが重要な産業基盤につながると捉え、競って誘致を推進した。その中でも千葉市は、千葉連隊区司令官を始め多くの軍学校や軍営施設が造られたことから、軍都千葉と呼ばれた。

1904年(明治37年)に勃発した日露戦争では、習志野騎兵連隊の活躍は有名で、沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術を駆使して活躍、秋山好古少将と共に千葉県の知名度を高めた。また、映画「戦場に架ける橋」のモデルとなった鉄道連隊もよく知られており、県内では現在の東武野田線久留里線小湊鉄道などのインフラ整備に貢献している。

近代になると、官主導のもと近代産業の育成が行われたが、千葉県では地下資源に恵まれなかったことから、近代工業が育たず、開発から大きく取り残される形となった。だが、江戸時代以降の醤油・みりんといった醸造業は近代に入っても発展を続け、1928年(昭和3年)には戦前の労働争議でも最大規模の野田醤油労働争議が発生した。
他の発達産業としては、従来の農業・水産・林業に加え、銚子の缶詰産業や旧幕府牧馬跡などを利用した酪農が有名である。1875年(明治8年)に旧佐倉牧の跡地(現・成田市)に下総牧羊場(後の宮内庁下総御料牧場)が設置されると、酪農に関する研究も盛んに行われ、県の主要産業のひとつとなった。しかし、御料牧場は、1969年(昭和44年)に新東京国際空港の建設計画に伴い、栃木県高根沢町に移転することになる。

一方、南房総では、地場産業であったヨード製造の事業を背景に、実業家の森矗昶によって森コンツェルンが創業された。森コンツェルンはアルミニウムなどの金属産業、電気産業、化学工業産業などを中心とするコンツェルンに発展、日本産業日本窒素肥料日本曹達理化学研究所とともに新興コンツェルンと呼ばれた。

大正・昭和初期にかけて鉄道を始めとする交通機関が発達すると東京湾沿線沿いや銚子、一宮などの九十九里浜沿岸、南房総には、避暑地や観光地が整備された。また、谷津遊園、中山競馬場などの娯楽施設が造られ、観光産業[36]が盛んとなった。

1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まると、千葉県も重要な食料生産拠点として、食糧増産が各地で行なわれ、肥料の不足や徴兵による人手不足の中で、厳しい供出割当が組まれた。大戦末期になると、航空機燃料のための松根油の生産も北総地域を中心に盛んに行われた。一方、工業方面では、東京に近い市川市船橋市津田沼町、千葉市にかけて軍需工場が次々と移転、地域の中小企業も合併が進められ、その多くは、陸海軍関係の下請け工場として再編成された。1942年(昭和17年)には、東京湾の埋め立工事が進められ、日立航空機千葉工場が建設された。さらに大戦末期には、大網・茂原・興津・鴨川などに大規模な地下工場も造られ、千葉県の工業化比率は大きく進んだ。新たに東京帝国大学第二工学部(現在の東京大学生産技術研究所千葉実験所)が千葉市に新設されると、造兵研究の拠点ともなった。

1944年(昭和19年)、サイパン島グアム島テニアンが占領され、日本本土への空襲が本格化すると、房総半島はB-29爆撃機の進入ルートとなり、現在の成田市から習志野市の上空では激しい航空戦が行なわれるようになった。しかし、県内の被害は軽微で、空母や硫黄島から飛来した航空機(F6FヘルキャットF4Uコルセア・P51ムスタングなど)が軍関係施設や港湾施設、工場や学校、集落に対して機銃掃射を加えたり、爆撃隊が帰還途中に不要爆弾破棄のため、投下するようなことはあったが、千葉空襲、銚子空襲以外に本格的な空襲が実施されることはなかった。

大戦末期になると、本土決戦の可能性が高まり、連合国軍の上陸の可能性が最も高い場所として、日本軍と連合国軍両者[37]とも同じく九十九里浜を挙げており、日本軍および大政翼賛会は住民志願者を募り、国民義勇軍防衛隊を組織、竹槍による軍事教練や陣地構築が実施されたが、日本の降伏により、県内では地上戦は行われずに終戦を迎えた。この時、小磯国昭首相に代わり、下総関宿藩士出身の鈴木貫太郎海軍大将が内閣を組織、終戦工作に奔走し、終戦内閣と呼ばれた。

第二次世界大戦後から現在まで[編集]

1945年(昭和20年)9月3日敗戦に伴い、米軍が富津・館山に上陸県内各地に展開し、武装解除と日本軍施設および一部の公共施設が進駐軍に接収された。同年10月に千葉市に進駐、千葉県庁本館2階に占領政策のため本部が設置された。翌年の1946年(昭和21年)7月には千葉軍政部に改称、1949年(昭和24年)11月まで、GHQの軍政下に置かれる。また、県内各地の特攻隊基地(震洋・桜花・回天・海竜・蛟竜・S特攻部隊等)や館山海軍砲術学校、陸軍習志野学校を始めとする旧日本軍関係施設が進駐軍によって調査される。※日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。

県内各地で、食糧難から買い出し者が集まり、闇市が自然に発生する。戦中から戦後にかけて東京方面などから多数の空襲被災者が千葉県(主に葛飾地域)に流入し、浮浪者が増加、都市部を中心に治安が一時、悪化する。また、住居不足が深刻化し、被災者用の住居建設や開拓農地開発営団習志野事業部による習志野開拓や下志津開墾などの救済事業が実施される。

1950年(昭和25年)以降、東京湾沿岸の埋め立て、印旛沼干拓を始め、県内各地での開発が活発化し、県・国・民間が関わる大規模開発が続々推進された。東京湾沿いには、京葉工業地域が建設され、重化学工業が発展する。ベッドタウンの開発が進み、いわゆる『千葉都民』が急増する。
県内の主なニュータウンとしては、海浜ニュータウン、成田ニュータウン千葉ニュータウンなどがある(千葉県のニュータウン一覧)。また、東京に近い好立地を活かして、湾岸沿いを中心に谷津遊園(1925年(大正14年) - 1982年(昭和57年))、船橋ヘルスセンター(1955年(昭和30年) - 1977年(昭和52年))、マザー牧場(1960年(昭和35年) - )、東京ディズニーランド(1983年(昭和58年) - )などの大規模レジャー施設が数多く誕生した。1978年(昭和53年)には新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港、1989年(平成元年)には幕張メッセがオープン。周辺地域は大きな発展を遂げた。しかし、その反面、東京湾干潟利根川流域の水郷風景など、房総固有の風致(特に水辺空間)の多くが失われてしまった。

経済発展の一方で、千葉県では急激な開発と行政の無策のため、生活排水や工業排水、農薬などが垂れ流しにされ、干拓や埋め立て、護岸による湿地帯・干潟の衰退があいまって、県内各地の河川や湖沼の水質は著しく悪化した。東京湾でも、水質汚染が一時、深刻な問題となり、漁業権を放棄する漁業協同組合が相次いだ。特にこの時期は利根川水系の生態系が大きく毀損され、この地域の内水面漁業は壊滅状態となった。また、天然ガス採掘や地下水を過剰汲み上げしたことによる地盤沈下が深刻化し、船橋市では1974年(昭和49年)に「地盤沈下非常事態宣言」を発令する。
モータリゼーションによる排気ガスの増加や、工場などから排出される煙などによる、光化学スモッグ、ゴミ焼却によるダイオキシン問題等の大気汚染も深刻化した。近年においては、産業廃棄物や感染性医療廃棄物、硫酸ピッチなどが農地や山林に埋められるなど、不法投棄も問題になっている。このため、千葉県では、環境系のNPOや市民団体を積極的に支援したり、2008年(平成20年)に千葉県環境基本計画を制定するなど、環境方面に力を入れる傾向が見られる。

1997年(平成9年)には、東京湾アクアライン(木更津 - 川崎間)が開通。房総半島部の開発が進むことが期待されたが、利用は予想ほど伸びず、半島部の商業拠点は、アクアラインによるストロー現象により衰退の傾向が見られる。三番瀬埋め立て反対を掲げて当選した堂本暁子知事の時に臨海部の埋め立てが中止されたが、館山自動車道首都圏中央連絡自動車道の建設など、道路建設は引き続き推進されている。近年の千葉県では、成田空港の存在と東京近郊の立地を生かし、『観光立県ちば推進ビジョン』を作成し、『花と海』をテーマにイメージアップを図ろうとしている。
豊富な天然ガス資源の活用や、近年、注目されているバイオ燃料の生産のための研究も行われるなど、新たなエネルギー産業の育成も試みられている。また、市民ベースだが、エコツアーやアグリツーリズム、使用されなくなった農耕地を利用した市民農園クラインガルテンを設置など、地域風土(自然環境や農業・漁業等の地場産業)を活かした新たな体験型観光ビジネスモデルに関しての模索も行われている。そのほかにも従来の近郊農業に加え、農産物や酪農、林業などの分野に関する研究も行われており、新たなブランド品種の開発も試みられている。

年表[編集]
明治以降の県内の行政区画に関する変遷は#県・市町村の変遷を、県政に関する事項は#県政史を参照。

明治時代[編集]
1868年(慶応4年):市川・船橋戦争。近藤勇が流山で官軍に捕らわれる。
1869年(明治2年):小金・佐倉牧の開墾が始まる。野島埼灯台が完工。
1873年(明治6年):木更津県と印旛県が統合。千葉県となる。
1873年(明治6年):明治天皇行幸。歴代天皇のうち、千葉県下への行幸はこれが初。大和田原を「習志野原」と命名する。
1874年(明治7年):犬吠埼灯台完工。
1875年(明治8年):新治県を廃止。香取、匝瑳、海上の3郡を千葉県に編入する。
1878年(明治11年):千葉県立千葉中学校(現・千葉県立千葉高等学校)が創設される。
1885年(明治18年):下総種畜場が農商務省から宮内省の所轄となり宮内省下総種畜場(後・宮内庁下総御料牧場)となる。
1890年(明治23年):利根運河が開通する。
1894年(明治27年):総武鉄道の市川駅-佐倉駅間、市川駅-本所駅(現・錦糸町駅)間が開通する。
1896年(明治29年):房総鉄道の千葉駅-大網駅間が開通する。日本鉄道の土浦線(現・常磐線) 田端駅 - 土浦駅間が開通する。
1897年(明治30年):成田鉄道の佐倉駅-成田駅間が開通する。総武鉄道の佐倉駅-銚子駅間が開通する。
1899年(明治32年):習志野騎兵連隊が高津廠舎(現・習志野市習志野)にて発足(習志野騎兵連隊は、1904年(明治37年)に勃発した日露戦争で活躍、秋山好古と共に全国的に広く有名に)。房総鉄道大網駅-大原駅間が開通する。
1906年(明治39年):日本鉄道が国有化される。
1907年(明治40年):総武鉄道、房総鉄道が国有化される。
1908年(明治41年):陸軍鉄道第1連隊(鉄道連隊)が都賀村(現・千葉市中央区椿森)に設置される。
1909年(明治42年):陸軍歩兵第57連隊(佐倉連隊)が佐倉(現・佐倉市)に設置される。
1910年(明治43年):県下初の電気軌道である成宗電気軌道の成田駅前-成田山門前間が開業(1944年(昭和19年)、不要不急線として廃線
1911年(明治44年):陸軍鉄道連隊の演習用路線を借用し、成田-三里塚間が開業(後の成田鉄道多古線)。千葉県営鉄道の柏-野田間が開業(1944年(昭和19年)、東武鉄道が吸収合併し東武野田線となる)。

大正時代[編集]
1912年(大正元年):千葉県営鉄道大多喜線、大原-大多喜間開業(1927年(昭和2年)廃線)。千葉県営鉄道久留里線、木更津-久留里間開業。陸軍歩兵学校が作草部(現・千葉市稲毛区作草部、天台)に設置される。
1913年(大正2年):銚子遊覧鉄道の銚子-犬吠間が開業。1917年(大正6年)廃線。気球連隊が作草部町に移設される。
1914年(大正3年):京成電気軌道(現・京成電鉄)の江戸川-市川新田(現・市川真間駅)間が開業。1926年(大正15年)、成田花咲町(仮駅)まで延伸。陸軍鉄道連隊の演習用路線を借用し、千葉県営鉄道八街線の三里塚-八街間が開業。1940年(昭和15年)、廃線
1916年(大正5年):陸軍騎兵学校が薬園台(現・船橋市)に移設される。奈良原三次によって稲毛海岸に日本初の民間飛行場が開設される。流山軽便鉄道(現・流鉄流山線)馬橋-流山間が開業。
1916年(大正6年):東京湾沿岸地域で高潮被害(大正六年の大津波)。
1918年(大正7年):安房郡勝山村(現・安房郡鋸南町)など、県内数か所で米騒動が起きる。陸軍鉄道連隊が2個隊になり、第二連隊は津田沼(現・習志野市)に駐屯する。津田沼海岸に伊藤飛行機研究所が設立される。
1920年大正9年):第1回国勢調査が行われる(人口133万6155人)。成田鉄道が国有化される。
1921年(大正10年):千葉市が千葉県で最初に市制施行する。この時点で、市でなかった県庁所在地はわずかに浦和、山口、宮崎、那覇だけであった。
1923年(大正12年):野田醤油第一次争議が発生する。関東大震災により、県内各所において甚大な被害を受ける。銚子鉄道(現・銚子電鉄)銚子-外川間が開業。九十九里軌道(現・九十九里鉄道)東金-片貝間が開業。1961年(昭和36年)、廃線
1924年(大正13年):銚子漁港が建設を開始する。
1925年(大正14年):小湊鉄道五井駅-里見駅間が開通する。

昭和時代[編集]
1927年(昭和2年):野田醤油第二争議が発生する。
1929年(昭和4年):房総環状線が開通する。小作争議が頻発する。
1930年(昭和5年):館山海軍航空隊が開設される。木原線(1988年(昭和63年)第三セクター化。現・いすみ鉄道)大原-大多喜間開業。
1931年(昭和6年):阪東妻三郎によって谷津遊園に阪東関東撮影所が設置される。
1933年(昭和8年):大利根用水着工。
1934年(昭和9年):県営水道千葉-市川間の敷設工事が始まる。
1936年(昭和11年):二・二六事件で陸軍歩兵第57連隊が出動する。
1937年(昭和12年):陸軍戦車学校が千葉市に開校。翌年、陸軍防空学校(陸軍高射学校)も開校する。
1940年(昭和15年):千葉市沿岸を日立航空機工場造成のため、埋立事業開始。
1942年(昭和17年):東京大学第二工学部が千葉県千葉市に設置される。 7月:県内の部落会・町内会に早朝ラジオ体操が普及する。
1943年(昭和18年):1県1行政策のため、千葉銀行が設立される。両総用水事業が起工する。
1945年(昭和20年):千葉市(千葉空襲)、銚子市(銚子空襲)が空襲を受ける。敗戦により、館山、富津から米軍が上陸する。
第二次世界大戦後1946年(昭和21年):文部省との協議の結果、興亜工業大学(現・千葉工業大学)が千葉県に移転(県内初の私立大学)。
1947年(昭和22年):陸軍鉄道連隊の演習用路線を払い下げ、新京成電鉄新津田沼駅(当初)-薬園台駅間が開業。
1949年(昭和24年):千葉大学が開校する。
1950年(昭和25年):千葉市沿岸の旧日立航空機工場跡地などの埋立地川崎製鉄(現・JFEスチール)の誘致を決定。翌年の1951年(昭和26年)、川崎製鉄千葉製鉄所を開設。1953年(昭和28年)、操業を開始。
1956年(昭和31年):県民人口が200万人を突破する。
1957年(昭和32年):東京電力千葉火力発電所の操業が開始。八千代市に日本初の住宅団地(八千代台団地)が建設される。
1958年(昭和33年):利根川下流地域で大規模塩害被害が発生する(昭和33年塩害)。
1960年(昭和35年):京葉道路の一之江-船橋IC間が開通。
1961年(昭和36年):京葉臨海工業地帯造成計画が決定。
1962年(昭和37年):銚子大橋が開通。
1965年(昭和40年):両総用水が完工。君津町(現・君津市)の埋立地八幡製鐵君津製鐵所(現・新日鐵住金君津製鐵所)が操業を開始。
1966年(昭和41年):成田市三里塚新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設が閣議決定される。三里塚闘争が始まる。印西町(現・印西市)を中心とした千葉ニュータウンの造成が始まる。
1968年(昭和43年):県民人口が300万人を突破する。千葉市の沿岸部の埋立地に海浜ニュータウンの造成が始まる。成田市に成田ニュータウンの造成が始まる。
1969年(昭和44年):新川が竣工。全長約19kmの印旛放水路が開通し印旛沼の水が東京湾へ流れる。帝都高速度交通営団(現・東京メトロ東西線東陽町駅-西船橋駅間が開通。
1970年(昭和45年):鹿島線香取駅-鹿島神宮駅間が開業。
1971年(昭和46年):新空港自動車道(現・東関東自動車道)宮野木JCT-富里IC間が開通。
1972年(昭和47年):北総開発鉄道(現・北総鉄道)北初富駅-小室駅間が開業。2000年(平成12年)、印旛日本医大駅まで延伸。
1973年(昭和48年):県政100周年を迎える。第28回国民体育大会夏季大会(若潮国体)が開催される。武蔵野線が開業。1978年(昭和53年)、西船橋駅まで延伸。
1974年(昭和49年):県民人口が400万人を突破する。
1978年(昭和53年):新東京国際空港が開港する。京成電鉄の京成成田-成田空港(現・東成田)間開業。
1981年(昭和56年):常磐自動車道の柏IC-谷田部IC間が開通。
1982年(昭和57年):首都高速湾岸線-高谷から東関東自動車道が接続される。
1983年(昭和58年):県の人口が500万人を突破する。国立歴史民俗博物館佐倉城址公園に隣接して開館。東京ディズニーランドが開園する。
1986年(昭和61年):県民人口500万人突破を記念して千葉ポートタワーが開館する。京葉線西船橋駅-千葉貨物ターミナル駅(現在廃止)間が開業。1990年(平成2年)、東京駅まで延伸。全線開業。
1987年(昭和62年):千葉県東方沖地震が発生。県内に甚大な被害が発生する。東関東自動車道、千葉県区間全線開通。
1988年(昭和63年):千葉都市モノレール2号線の千城台駅-スポーツセンター駅が開業。1991年(平成3年)、千葉駅まで延伸。

平成時代[編集]
1989年(平成元年):幕張新都心地区に日本コンベンションセンター(現・幕張メッセ)が開設される。千葉県立中央博物館開館。都営地下鉄新宿線篠崎駅-本八幡駅間(仮設駅)が開業し全線開業。
1990年(平成2年):食と緑の博覧会が千葉市で開催される。
1991年(平成3年):新東京国際空港にJR線と京成線が乗り入れる。
1992年(平成4年):千葉市政令指定都市となる。千葉急行電鉄千葉急行線(現・京成千原線)が開業(1998年(平成10年)京成電鉄に譲渡)。
1993年(平成5年):谷津干潟ラムサール条約登録湿地となる。
1995年(平成7年):全国都市緑化フェアが千葉市で開催される。千葉都市モノレール1号線の千葉みなと駅-千葉駅間が開業。1999年(平成11年)、県庁前駅まで延伸。
1996年(平成8年):東葉高速鉄道が全線開業。手賀沼印旛沼水質汚染で全国ワースト1・2位(11月)。
1997年(平成9年):東京湾横断道路(東京湾アクアライン)が開通。
2001年(平成13年):芝山鉄道東成田駅-芝山千代田駅間が開業。東京ディズニーシーが開園する。
2002年(平成14年):県民人口が600万人を突破する。成田空港に2本目となるB滑走路(2180m、暫定滑走路)が供用開始。
2003年(平成15年):船橋市中核市となる。
2005年(平成17年):首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスが開業。
2007年(平成19年):館山自動車道が全線開通。全国都市緑化フェアが船橋市で開催される。
2008年(平成20年):柏市中核市となる。
2010年(平成22年):都心と成田空港を結ぶ成田スカイアクセスが開業。ゆめ半島千葉国体開催。
2011年(平成23年):東北地方太平洋沖地震旭市など太平洋沿岸地域で津波被害、埋立地浦安市一部などで液状化現象が発生。1920年の統計開始以来初めて人口が減少(10,693人減)に転じる[38]。

県・市町村の変遷[編集]
明治以降1868年(慶応4年):旧幕府・旗本領が明治政府の支配下に置かれ、柴山典が安房上総知県事、佐市直武が下総知県事に任命される。
1869年(明治2年):下総知県事の管轄区域に葛飾県が、安房上総知県事の管轄区域に宮谷県が設置される。版籍奉還により、現県域内に藩庁を置く以下の各藩藩主が知藩事に任命される。 下総国関宿藩佐倉藩、生実藩、多古藩、高岡藩、小見川藩
上総国:菊間藩、鶴牧藩、鶴舞藩、桜井藩、久留里藩、飯野藩、小久保藩、佐貫藩、柴山藩、一宮藩、大多喜藩
安房国:加知山藩、館山藩、長尾藩、花房藩 これらの藩のうち、菊間藩(旧駿河沼津藩)、鶴舞藩(旧遠江浜松藩)、桜井藩(旧駿河小島藩)、小久保藩(旧遠江相良藩)、柴山藩(旧遠江掛川藩)、長尾藩(旧駿河田中藩)、花房藩(旧遠江横須賀藩)は、徳川宗家の静岡入封に合わせて駿河遠江両国から移転してきた藩である。また、加知山藩は知藩事任命に当たって勝山藩から改称したもの。
柴山藩は1871年(明治4年)に藩庁を移転して松尾藩となった。また、1870年(明治3年)に下野高徳藩が移転して曾我野藩が成立している。
1869年(明治2年)に羽前長瀞藩が移転して大網藩が成立したが、1871年(明治4年)に再び藩庁を常陸国に移転して龍崎藩となった。
1871年(明治4年) 7月14日 - 廃藩置県により現県域内に24県が成立。 従来の県が存続:葛飾県、宮谷県
藩から県に転換:関宿県、佐倉県、生実県、曾我野県、多古県、高岡県、小見川県、菊間県、鶴牧県、鶴舞県、桜井県、久留里県、飯野県、小久保県、佐貫県、松尾県、一宮県、大多喜県、加知山県、館山県、長尾県、花房県
11月14日 - 府県統合により、以下の各県を統合して木更津県、印旛県、新治県が成立する。 宮谷県、菊間県、鶴牧県、鶴舞県、桜井県、久留里県、飯野県、小久保県、佐貫県、松尾県、一宮県、大多喜県、加知山県、館山県、花房県→木更津県
葛飾県、関宿県、佐倉県、生実県、曾我野県、結城県、古河県→印旛県
多古県、高岡県、小見川県、麻生県、石岡県、土浦県、志筑県、牛久県、松川県、龍崎県、若森県→新治県
各県の管轄区域は以下の通り。 木更津県(県庁:望陀郡貝淵村〈現木更津市〉):安房国平郡・安房郡・朝夷郡長狭郡上総国天羽郡・周准郡・望陀郡・市原郡・夷隅郡・埴生郡・長柄郡・武射郡・山辺郡
印旛県(県庁:葛飾郡加村〈現流山市〉):下総国千葉郡・印旛郡・埴生郡・相馬郡葛飾郡猿島郡・岡田郡・豊田郡結城郡
新治県(県庁:新治郡土浦):下総国香取郡匝瑳郡・海上郡常陸国河内郡・信太郡・筑波郡・新治郡・行方郡・鹿島郡
1873年(明治6年)6月15日 - 木更津県と印旛県が統合。千葉県となる。県庁を千葉町(現・千葉市中央区本千葉町)に置く。
1875年(明治8年)5月7日 - 新治県を廃止。常陸国の6郡は茨城県下総国の3郡(香取・匝瑳・海上)を千葉県が編入する。あわせて、千葉県管下の下総国のうち利根川以北の区域(結城・豊田・岡田・猿島4郡および葛飾・相馬2郡の一部)を茨城県に、さらに下総国葛飾郡のうち江戸川以西の区域を埼玉県に移管。
1878年(明治11年):郡区町村編制法により、千葉県管下の葛飾郡東葛飾郡相馬郡南相馬郡とし、あわせて下総国埴生郡を下埴生郡、上総国埴生郡を上埴生郡と改称。県下21郡50町2391村となる。
1889年(明治22年)4月1日:市制・町村制が施行され、県下66町2391村が43町315村となる。この時、県内では市制施行は行われず。
1896年(明治29年):県内の郡が再編され、以下の12郡となる。 千葉郡、市原郡、香取郡海上郡匝瑳郡、夷隅郡、安房郡(平郡、朝夷郡長狭郡を編入)、君津郡(望陀郡、周准郡、天羽郡を統合して新設)、長生郡(長柄郡と上埴生郡を統合して新設)、山武郡(山辺郡と武射郡を統合して新設)、東葛飾郡南相馬郡を編入)、印旛郡(下埴生郡を編入)
1897年(明治30年):郡制施行。
1899年(明治32年):香取郡のうち利根川以北・横利根川以西の区域が茨城県稲敷郡に編入。これにより、埋め立てや小規模な境界変更を除いて現県域が確定する。
1921年(大正10年)1月1日 - 千葉郡千葉町が千葉県で最初に市制施行、千葉市発足。
昭和以降1933年(昭和8年)2月1日 - 海上郡銚子町ほか3町村が合体市制、銚子市発足。
1934年(昭和9年)11月3日 - 東葛飾郡市川町、八幡町ほか2町村が合体市制、市川市発足。
1937年(昭和12年)4月1日 - 東葛飾郡船橋町ほか4町村が合体市制、船橋市発足。
1939年(昭和14年)11月3日 - 安房郡館山北条町ほか2町が合体市制、館山市発足。
1942年(昭和17年)11月3日 - 君津郡木更津町ほか3村が合体市制、木更津市発足。
1943年(昭和18年)4月1日 - 東葛飾郡松戸町ほか2村が合体市制、松戸市発足。
1950年(昭和25年)5月3日 - 東葛飾郡野田町ほか3村が合体市制、野田市発足。
1951年(昭和26年)3月15日 - 香取郡佐原町ほか3町村が合体市制、佐原市発足。
1952年(昭和27年)4月1日 - 長生郡茂原町ほか5村が合体市制、茂原市発足。
1954年(昭和29年) 3月31日 - 印旛郡成田町ほか6村が合体市制、成田市発足。
同日 - 印旛郡佐倉町ほか5町村が合体市制、佐倉市発足。
4月1日 - 山武郡東金町が市制、東金市発足。
7月1日 - 匝瑳八日市場町ほか9村が合体市制、八日市場市発足。
同日 - 海上郡旭町が市制、旭市発足。
8月1日 - 千葉郡津田沼町が千葉市(旧幕張町)の一部を編入して改称市制、習志野市発足。
9月1日 - 東葛飾郡柏町ほか2村が合体市制、東葛市発足。11月15日に柏市と改称。
1958年(昭和33年)10月1日 - 夷隅郡勝浦町が市制、勝浦市発足。
1963年(昭和38年)5月1日 - 市原郡市原町、五井町ほか3町が合体市制、市原市発足。
1967年(昭和42年) 1月1日 - 東葛飾郡流山町が市制、流山市発足。
同日 - 千葉郡八千代町が市制、八千代市発足。千葉郡消滅。
10月1日 - 市原郡南総町、加茂村が市原市に編入。市原郡消滅。
1970年(昭和45年)7月1日 - 東葛飾郡我孫子町が市制、我孫子市発足。
1971年(昭和46年) 3月31日 - 安房郡鴨川町ほか2町が合体市制、鴨川市発足。
9月1日 - 東葛飾郡鎌ケ谷町が市制、鎌ケ谷市発足。
同日 - 君津郡君津町が市制、君津市発足。
同日 - 君津郡富津町が市制、富津市発足。
1981年(昭和56年)4月1日 - 東葛飾郡浦安町が市制、浦安市発足。 同日 - 印旛郡四街道町が市制、四街道市発足。
平成以降1991年(平成3年)4月1日 - 君津郡袖ケ浦町が市制、袖ケ浦市発足。君津郡消滅。
1992年(平成4年)4月1日 - 千葉市政令指定都市に移行。中央区花見川区稲毛区若葉区緑区美浜区を設置。
1992年(平成4年)4月1日 - 印旛郡八街町が市制、八街市発足。
1996年(平成8年)4月1日 - 印旛郡印西町が市制、印西市発足。
2001年(平成13年)4月1日 - 印旛郡白井町が市制、白井市発足。
2002年(平成14年)4月1日 - 印旛郡富里町が市制、富里市発足。
2003年(平成15年)6月6日 - 野田市関宿町が編入。
2005年(平成17年)2月11日 - 鴨川市旧自治体と安房郡天津小湊町が合併し鴨川市に。
2005年(平成17年)3月28日 - 柏市東葛飾郡沼南町が編入。東葛飾郡消滅。
2005年(平成17年)7月1日 - 旭市旧自治体と海上郡干潟町、飯岡町、海上町が合併し旭市に。海上郡消滅。
2005年(平成17年)12月5日 - 夷隅郡夷隅町、大原町、岬町が合併しいすみ市に。
2006年(平成18年)1月23日 - 八日市場市匝瑳野栄町が合併し、匝瑳市に。
2006年(平成18年)3月20日 - 安房郡富浦町、富山町、三芳村白浜町、千倉町、丸山町、和田町が合併し、南房総市に。
2006年(平成18年)3月27日 - 成田市香取郡下総町、大栄町が編入。 佐原市香取郡小見川町、山田町、栗源町が合併し、香取市に。
山武郡成東町、松尾町、山武町蓮沼村が合併し山武(さんむ)市に。
山武郡横芝町匝瑳郡光町が合併し、山武郡横芝光町に。匝瑳郡消滅。
2010年(平成22年)3月23日 - 印西市印旛郡印旛村本埜村が編入。
2013年(平成25年)1月1日 - 山武郡大網白里町が市制、大網白里市発足。
現在現在は37市16町1村。うち千葉市に6区。

地域特性[編集]

北西部[編集]
人口密集地域であり、県内の人口の大部分を占める。県央地域、葛南地域、東葛飾、印旛地域に分かれ、北西部としてひとくくりにされることが多いものの、実際には地域差は大きい。狭義では、千葉市周辺を除いて、旧東葛飾郡(現在の船橋我孫子など)の範囲を指すこともある。スポーツ界では、特に葛南・東葛は「サッカー王国」として有名である。アマ界を見ても、高校サッカーにおける激戦区のひとつであり、船橋市立船橋高等学校習志野市立習志野高等学校などが全国制覇を複数回成し遂げているほか、強豪校が私立・公立ともに多い。近年は、人口増加率は低下しており、減少に転じている自治体も多い。

県央地域千葉市とその周辺地域を指し、市原市などの内房北部や印旛地域の一部も入ることもある。千葉市には県庁が置かれ、県内の政治・経済・文化の中心となっている。東京からは一定の距離があるため、ベットタウン的側面を持ちつつも、川崎製鉄企業城下町であったことと、東京湾沿いに京葉工業地域が立地し産業の中心基盤であるために、昼間流入人口が多い点で、東葛・葛南地域やさいたま市横浜市とは異なっている。また千葉市は各大企業の千葉支店・東関東支店が開設される支店経済都市でもあることから、転勤族も少なくなく、年度末、年度初めには人口の社会増減が大きくなる。
また、文化的にも県北東部、南部などとの接点が多い。一方、幕張新都心に代表されるような東京寄りの地域では、千葉市中心部との接点は小さく、千葉都民も多いなど形態は異なっており葛南地域とほとんど変わらない。印旛地域内陸工業団地の造成や宅地化が進み千葉ニュータウンや成田ニュータウンなどの大規模ニュータウンが造成されている一方、周辺には自然も多く残る農村地帯である。内陸部側は、北総または印旛と呼ばれている(ただし「北総」には東京湾岸や東総地域など旧下総国地域全体を指す場合もある)。千葉ニュータウンなどの西部では東京への通勤客も多いため千葉都民が多いが、成田市には年間約3100万人が利用する成田国際空港が位置し、航空関連産業が立地する業務拠点都市となっており、佐倉市など周辺部からの通勤客の流入も多い他、東部では千葉市への通勤客も少なくない。
利根川沿いは農村地域であり、茨城県との交流も多いためにちばらぎと呼ばれる。スイカやメロン、梨、人参、落花生栽培など県内では農業が盛んな地域でもある。葛南地域習志野市から市川・浦安にかけての総武線の沿線地域が中心であり、新京成線沿線や湾岸部には大規模な団地が造成されている。東葛地域と同類に分類されることも多いが、常磐線沿線の東葛と違い千葉駅まで運行する同じ総武線沿線であることから県央地域との接点も一定程度はある。
全国各地からの住民の流入により人口が増加したために、地域意識は薄い。臨海部には東京ディズニーリゾートららぽーとTOKYO-BAYなどの商業施設やレジャー施設が立ち並ぶ。いわゆる「千葉都民」の多い地域で、中でも浦安市は、住民の平均年齢が最も低い市である。東葛地域一般に常磐線沿線地域以北を中心とした地域を指すことが多く千葉都民が多い。東葛は千葉市やを中心とした県央地域との繋がりが浅く、全国紙の地方版も、千葉市周辺版と東葛版に分けられており、むしろ茨城県との交流の方が多くちばらぎと呼ばれる他隣接する埼玉県とも密接な関係にある。
千葉県にありながらも千葉県民としての地域意識が薄い点で、県内他地域とは大きく異なっており、一度も千葉市中心部へ行ったことが無い住民も珍しくない。柏駅周辺は県内屈指の商業地区となり、千葉市中心街を凌ぐ賑わいでもある。野田市周辺は一部無アクセント地帯となっており、栃木・茨城と言語・文化的に近い。

北東部[編集]
主に香取地域、海匝地域と東上総地域の一部の事を指し、九十九里浜沿いの地域も含む。概ね国道51号や国道126号の沿線を指している。利根川沿い地域では鹿行(鹿嶋市などの茨城県南東部)との交流関係が深いため、「ちばらき」と諷刺される事もあるが、千葉市との交流も大きい。香取市から鹿嶋市に至る利根川沿いから形成される「水郷」や美しい海岸線を持つ九十九里浜などの観光地を抱える。かつては利根川の運河交通の要衝として栄え、香取神宮などの有名な神社仏閣が鎮座し歴史的な街並みの残る佐原のある香取市や日本有数の漁港・醤油産地としも知られる銚子市などは古くから発展してきた。
農業が盛んで、銚子市周辺は比較的温暖な気候のため、畑などでは、メロン、キャベツ、植木などが栽培されている他、成田空港以東の下総台地を構成する地域は、東総と呼ばれており、「香取干潟八万石」といわれる所で、水田地帯が広がり、ブランド米の『多古米』の産地でもある。スポーツ界では、この地域出身のプロ野球選手が多く、千葉県立銚子商業高等学校銚子市立銚子高等学校、横芝敬愛高等学校卒業生が目立つ。現在、北東部は多くの自治体で人口減少が続き、過疎地域となっている。

南部[編集]
宅地化が進み、工場も立地する内房沿岸地域の北部(県央地域に近いため、南部には分類されないことも多い。)と県内一の観光エリアでもある南房総・外房地域とではかなり異なっている。

君津・木更津地域君津市までの臨海部は京葉工業地域となっており、多くの工場などが立ち並び、宅地化も進んでいる。県央地域との交流が大きい。木更津市と神奈川県川崎市を結ぶ東京湾アクアラインは神奈川県側や羽田空港からの観光客の県内への一般的な通過点となっており、また海ほたるパーキングエリアの入れ込み客数が多いのが特徴である[40]。
近年は木更津市などはアクアラインを経由し東京まで近いために東京への通勤圏ともなっているが、房州弁の影響も残るなど文化的には独自性を保っている点で、北部の千葉都民とは異なる。一方、山間部は過疎地域となっている。南房総地域南房総(房総半島南部)は特に温暖な気候であり、県花である菜の花やポピーの栽培が行われている。漁業も盛んで、勝浦漁港は国内有数の鰹の水揚げ港であり、いすみ市は日本一のイセエビの水揚げ漁港である。
[41]。多くの面積が房総丘陵を代表とした低山の森林地帯であり、構成する地域の半島南部は南総と呼ばれている。この地域は江戸時代後期ごろから房州石と呼ばれる石材が山から切り出されるなどして発展してきており、周辺には房州石で作られた家屋や塀が今も残っている。また、金谷美術館において房州石で本館が建てられるなど[42]、長年地域に密着して使用された石材であることがわかる。人口が減少し、過疎地域となっている。

農業[編集]
温暖な気候で土地が平坦であり、大消費地である東京都や神奈川県に近い場所として、近郊農業が盛んである。農業産出額(2002年(平成14年))は全国第2位。品目別収穫量(2012年(平成24年)度)では、葱・蕪・ホウレンソウ、サヤエンドウ、枝豆、春菊、梨の収穫量が全国第1位であり、大根、人参、さといも、ソラマメ、スイカ、ビワが全国第2位。他にもキャベツ、ショウガが全国第3位、ごぼう、トマトなどの作物の生産も盛ん。稲作や酪農、花卉類の生産も盛んである。なお、二十世紀なしは1888年(明治21年)に松戸市のゴミ捨て場から発見された木が発祥とされている。南房総では暖かい気候を利用した花の栽培が盛んで、花の産出額(2001年(平成13年)度)は全国第2位。

特産品としては落花生が全国的に有名である。千葉県の落花生栽培の先駆者として有名な金谷総蔵は、開墾したばかりの痩せた土地にも良く育つ作物を探していたところ、1878年(明治11年)、県令から勧められ落花生の栽培を始める。その後栽培地域は干潟地方(匝瑳郡と海上郡にまたがる地域)から山武郡香取郡印旛郡など北総一帯へ瞬く間に広がり、千葉県を代表する作物となった。金谷総蔵の死後、その功績が認められ1906年(明治39年)農商務大臣、1968年(昭和43年)農林大臣より表彰される。また、旭市鎌数の伊勢大神宮に「落花生の碑」が建てられている。ちなみに千葉県で最初に落花生が栽培されたのは、1876年(明治9年)の牧野万右衛門が最初といわれている。
日本の酪農発祥の地とされる。徳川吉宗により、1728年(享保13年)にインド産といわれる白牛(はくぎゅう)が輸入され、現在の南房総市(旧丸山町)で乳製品作りが始まったのが起源とされている。生乳生産量では全国第3位(2000年(平成12年))。

農産物一覧[編集]

穀物・野菜類[編集]
クリ:市川、柏市千葉市
コメ(コシヒカリを主にふさおとめ、多古米、長狭米、古代米、めふさこがねなどのブランド米):県内全域
サツマイモ:成田市香取市
スイートコーン
ラッカセイ八街市(収穫量日本一)
カブ:東庄町
キャベツ:銚子市(春収穫量・日本一)
トマト
サトイモ:八街市(収穫量日本一)

ニンジン:八街市習志野市(冬・収穫量日本一)
玉ネギ:松戸市(春・収穫量日本一)
ひかりねぎ:横芝光町
ホウレンソウ:船橋市(収穫量日本一)
エダマメ:野田市(収穫量日本一)
カブ:柏市(生産量日本一)
シュンギク旭市・旧干潟町地区(収穫量日本一)
ダイコン:銚子市(収穫量日本一)
ミツバ:東庄町(収穫量日本一)

果物類[編集]
メロン:旭市(旧:飯岡町)、銚子市
ビワ:南房総市(皇室献上品)
スイカ:富里市皇室献上品)
ナシ:松戸市鎌ケ谷市白井市(生産量日本一)
イチゴ:山武市東庄町
ミカン
イチジク
ウメ
カキ

畜産物類[編集]
※全国第6位
牛乳(飼養頭数全国3位)
上総牛
房総地どり(飼養羽数全国1位)
北総豚(飼養頭数全国5位)
ソーセージ製法(発祥・日本一)

その他[編集]
タケノコ:房総・印旛地方
シイタケ:房総・印旛地方
花(菜の花、コスモス等):南房総
植木:匝瑳市(生産額日本一)
ペチュニア:(花壇用苗出荷量日本一)

水産業[編集]
県の三方が海に接している事から水産業が盛んであり、イセエビの漁獲量は多年にわたり全国第1位である。

漁業総生産量(平成21年の農林水産統計年報速報値)は全国第6位で、特に銚子港は全国有数の漁港となっている。館山、勝浦にも漁港があり、鰯や鯖の水揚げが多い。 東京湾では海苔の養殖も行われている。かつては遠浅の干潟が広がる千葉市など東京湾奥部でも養殖が盛んに行われていたが、沿岸の埋め立てに伴い、これは消滅した。現在は、木更津市や富津市、船橋市などの遠浅の海で養殖されている海苔は『江戸前海苔』として珍重されている。香りや味の良いアサクサノリを復活させる試みも行われている。

水産物一覧[編集]

海産物類[編集]
アジ:内房
イワシ:銚子・九十九里
カタクチイワシ:銚子から九十九里沿岸(漁獲量日本一)
カツオ:勝浦市
カレイ:東京湾
カジキ:銚子市
キンメダイ:銚子・九十九里
クジラ:南房総
クロダイ:外房
コノシロ:東京湾
コハダ:太平洋
サバ:銚子・九十九里
サンマ:銚子市
スズキ:東京湾(漁獲量日本一)
タイ
トコブシ:外房
ヒラメ:内房
マイワシ
マコガレイ:外房
マダイ:
ムツ:銚子・九十九里
 アサリ:東京湾(漁獲量日本一)
アワビ:(館山のクロアワビ・御宿の外房アワビなど)
イカ
イセエビ:いすみ市(漁獲量日本一)
イワシ:大原町(漁獲量日本一)
ウニ:鋸南町
クルマエビ:内房
サザエ:外房
ナガラミ:銚子・九十九里
テングサ
江戸前のり(生産量8位):船橋市、富津市、木更津市
ハマグリ:南房総銚子市、九十九里
バカ貝:市原市船橋市
ヒジキ
ホンビノスガイ:船橋市

川産物類[編集]
アオノリ
シジミ:香取市
アユ
イワナ:房総
ウナギ:印旛沼
コイ
ヤマメ

「千葉県」の書誌情報