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東郷平八郎

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表された東郷平八郎 - Wikipediaを素材として二次利用しています。

 

概観[編集]
明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人である。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」(旅順攻囲戦における第3軍司令官乃木希典陸軍大将と絡め「陸の乃木 海の東郷」とも[1])と称され国民の尊敬を集めた。

生涯[編集]

生い立ち[編集]
弘化4年12月22日(1848年1月27日)、薩摩国鹿児島城下の加冶屋町二本松馬場(下加治屋町方限、現・県立鹿児島中央高校化学講義室付近)に、薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。幼名は仲五郎。14歳の時、元服して平八郎実良と名乗る。文久3年(1862年)薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣、慶応3年(1867年)6月に分家して一家を興す。戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟・箱館に転戦して阿波沖海戦箱館戦争宮古湾海戦で戦う。体型は小柄ではあるが下の写真でも分かるように美男子であり、壮年期においては料亭「小松」においては芸者より随分もてたとされる。

イギリス留学[編集]
明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが色よい返事はもらえなかった。後で東郷は大久保が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後は寡黙に努めた。それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになった。大久保の次に西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定した。

当初ダートマス王立海軍兵学校への留学を希望したがイギリス側の事情で許されず、ゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミー(英語版)で学び、その後に商船学校のウースター協会(英語版)で学ぶことになる。留学先では「To go, China(=「支那に行け」の意)」とからかわれるなど苦労が多く、おしゃべりだった性格はすっかり無口になってしまったと言われている。しかし宮古湾海戦に参戦していたことを告げると、一躍英雄として扱われることとなった。

この留学の間に国際法を学んだことによって、日清戦争時に防護巡洋艦「浪速」の艦長として、停船の警告に応じないイギリスの商船「高陞号」を撃沈する(高陞号撃沈事件)にあたって、このことは国際法に違反しない行為であると正しく判断できたのだとされている。さらに、このときの沈着な判断力が、のちに連合艦隊司令長官に人選される要素となった。

帰国途上、西郷隆盛西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際、東郷の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。

ハワイでのクーデターに際して[編集]
明治26年(1893年)、ハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。この時、日本は邦人保護を理由に東郷率いる巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した[2]。 女王を支持する先住民らは涙を流して歓喜したといわれる[3]。また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。しかしアメリカによるハワイ併合は明治31年(1898年)に実現される。

日清戦争[編集]
明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(高陞号事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。

日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年(1899年)に佐世保鎮守府司令長官となり、同34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。これは後の対米戦備での位置づけから閑職であったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアのウラジオストク軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。但し、東郷自身は中央への異動を希望していたようである。

しかし、日露開戦前の緊迫時期に海軍大臣山本権兵衛に呼び戻され、明治33年(1902年)12月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。本来は常備艦隊司令長官である日高壮之丞がそのまま就任するのが筋であったが、山本が我の強い日高を嫌って命令に忠実な東郷を据えたのだといわれる。しかし実際には、日高が健康問題を抱えており指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷が至極順当に選ばれたというのが真相であった。明治天皇に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われているが、内田一臣によれば「この人が、ちょっといいんです」だったという[4]。

日露戦争[編集]
明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊(後に第一太平洋艦隊へ改称)の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。6月6日には大将に昇進する。

そして明治38年(1905年)5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」[5]との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した[6]。東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。

この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国においても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった[7]。 その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった[7]。 ただし、「トーゴー通り」の名称は、「Toygar sokagi」で、「Toygar」はヒバリを意味する単語なので、東郷とは何の関係もない可能性もある。

日露戦争後[編集]
日露戦争終了直後、訪問艦にて同盟国のイギリスに渡洋、他の将校や乗組員とともにサッカー(フットボールリーグ、ニューカッスル・ユナイテッドのホームゲーム)を観戦[8]。

明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。明治40年(1907年)には伯爵を授爵。大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年(1926年)に大勲位菊花章頸飾を受章。当時の頸飾受章者は皇太子・裕仁親王閑院宮載仁親王だけだった。また、タイム誌の同年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなった。

晩年[編集]
末次信正、加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用し軍政に干渉した。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題[9]はその典型であるが、その他に明治以来の懸案であった、兵科と機関科の処遇格差の是正(海軍機関科問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても改善案について相談を受けた東郷は「罐焚きどもが、まだそんなことを言っているか!」と反発し、結局、この問題は第二次世界大戦の終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。

壮年時代はよく遊び、料亭に数日間も居続けたり、鉄砲打ちに出かけたりしたが、晩年は質素倹約を旨とし、趣味といえば盆栽と碁を嗜む程度であった。自ら七輪を用いて、料理をすることもあったという。しかし新聞記者に対し妻が、新婚時代内職して家計を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配を掛けたことはないと激怒した[10]。

死去[編集]
昭和9年(1934年)5月30日、膀胱ガンのため満86歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。死去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。

6月5日に国葬が執り行われた。国葬の際には参列のために各国海軍の儀礼艦が訪日し、イギリス海軍支那艦隊の重巡洋艦「サフォーク」(司令長官ドレーヤ(英語版)大将、艦長マナーズ(英語版)大佐)、アメリカ海軍アジア艦隊(英語版)の重巡洋艦オーガスタ」(司令長官アッバム(英語版)大将、艦長ニミッツ大佐)、フランス海軍極東艦隊の軽巡洋艦「プリモゲ」(司令長官リシャール少将、艦隊参謀長兼艦長ルルー大佐)は儀仗隊を葬列に参加させ、日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射した。イタリア海軍東洋艦隊の巡洋艦「クアルト」(艦長兼極東イタリア海軍首席指揮官ブリヴォネジ大佐)の横浜入港は夕刻となった。中華民国練習艦隊の巡洋艦「寧海」(司令・王壽廷中将、艦長・高憲申大佐)は国葬時刻に間に合わぬと判断し、儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせて弔意を示し、寧海の横浜入港は翌6日となった[11]。

葬儀委員長には有馬良橘海軍大将、副委員長には内閣書記官長・堀切善次郎が5月30日に任命された[12]。 しかし、有馬が明治神宮宮司を務めていたため、神官が葬儀に関わることを禁止した通達(神官葬儀ニ関スヘカラサル事 明治十五年一月二十四日内務省達 乙第七号)に抵触するのではないかとの議論が持ち上がり6月8日には辞任となった[13]。 16日、葬儀委員長に副委員長から堀切善次郎、副委員長に委員から長谷川清が昇格した[14]。 更に、内閣交代により7月10日に葬儀委員長は河田烈に交代した。

当時のイギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった。」、ドイツは「東洋のティルピッツが逝去した。」と自国の海軍の父的人物に準えて、哀悼した。
遺髪はイギリス海軍のホレーショ・ネルソンの遺髪と共に海上自衛隊幹部候補生学校江田島)に厳重に保管されている。また鹿児島市の多賀山公園の墓所にも遺骨の代わりに埋葬されている。
旧蔵書は、広島県呉市にある海上保安大学校図書館が所蔵する「旧海軍大学校図書」のうちに残る。
私邸跡は東郷元帥記念公園として使用され、現在でも獅子像などが残っている。
使用していた総義歯は現在東洋学園大学の東洋学園史料室に保存されている[15]。

影響[編集]

神格化[編集]
死後東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現福津市)に「東郷神社」が建立され神として祭られた。但し東郷自身は生前乃木神社建立の時、(陸軍に対抗するために)将来自身を祭る神社の設立される計画を聞いて驚き、「止めて欲しい」と強く懇願したが、願いは聞き入れられず結局神社は建立されている。墓所も生前、母親の益子の眠る青山墓地への埋葬を希望したがこれも聞き入れられず多磨霊園に埋葬されることとなった。また銅像が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園と鹿児島県鹿児島市の多賀山公園にある。東京都府中市には別荘地に建立された東郷寺があり、桜の名所である。

晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた[16]。 海軍省内では軍令部総長伏見宮博恭王と共に「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障害とみなされた。そして伏見宮すら「自分と東郷の意見が分かれるようなことがあってはならん」と気にしていた。井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐したうえで、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と語っている。また岡田啓介米内光政山本五十六なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。昭和期の海軍内の抗争において、東郷・伏見宮は艦隊派を後援し、岡田らは条約派に属した。

東郷に関する著作物中、重要なものは「東郷の私設副官」といわれた小笠原長生による[17]が、日本海海戦時に「三笠」艦上にあった今村信次郎は東郷の前で事実と異なる点を指摘し、東郷は「証人がいては仕方ない」と小笠原に訂正を指示している[18]。山路一善は小笠原に対し「閣下の東郷元帥に関する著書や講演のなかには、潤色が度に過ぎて誇大に失するものがあり、日本の歴史を誤るのではないかと憂える」と述べたとされる[17]。

米海軍での東郷崇拝[編集]
第二次世界大戦後、GHQによって日本の軍事的モニュメントの撤去作業が行われたが、米国海軍は東郷に関するものには手を触れさせなかった。戦後、戦艦「三笠」は荒れ果て、アメリカ軍人のため娯楽施設「キャバレー・トーゴー」[19]や水族館が設置されたり、上部構造物はおろか取り外せそうな金属類は機関部に至るまで全て盗まれ、チーク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされるなど荒廃していた[20]。 チェスター・ニミッツはその姿を憂い本を著して売り上げを寄付するなどして、東郷と若い頃への思いを込めて三笠の復興と保存に協力した。

レイモンド・スプルーアンスウィリアム・ハルゼー[21]も、東郷への尊敬の念が強かった。

東郷の名を冠した事物[編集]
「東郷ビール」
名越二荒之助#「東郷ビール」伝説の普及により、フィンランド産の東郷がラベルとなったビールが昭和46年(1971年)から平成4年(1992年)まで販売された。
これはフィンランドのピューニッキ醸造所において生産された「提督ビールシリーズ」のラベルの一つで、当初は東郷やネルソン等の世界的に有名な提督6名(6種類)のラベルでスタートした。その中にはロシア海軍・バルチック艦隊の提督であったマカロフとロジェストヴェンスキーのものもあったという。
その後に数が増えて24名の提督シリーズで販売されるに至った。日本人では東郷と山本五十六の2名がラベルになった。日本でその存在が知られるようになったのは、昭和58年(1983年)にフィンランドを視察した佐藤文生が持ち帰って、東郷神社に献納したのがきっかけであるともいう[22]。
なお現在日本で販売されている「東郷ビール」は、ピューニッキ醸造所が被買収により提督ビールシリーズの生産を停止した後に、オランダで製造されているビールに「提督ビールシリーズ」で使われた東郷ラベルを貼付しているものである。
[22][23]フィンランドの元首相カレヴィ・ソルサはシンポジウム『新時代のきずな 日本とEU』において、このビールを「トーゴービール」と呼び、日露戦争においてフィンランドを統治していたロシアが敗れたことで、フィンランドでは独立の機運が高まったこともあり、フィンランド国民はこの東郷ラベルのビールを飲んで往時をしのぶ、と語ったことが平成9年(1997年)10月6日の朝日新聞で伝えられた。
また東郷ラベルには「東郷平八郎提督に敬意を表して」とわざわざ日本語で書かれているものもあったという[24]。

ブラジルのタバコ
東郷が没した昭和9年(1934年)、ブラジルのカステロエス社が、「東郷へのオマージュ」として『Cigarros Guensui』という銘柄のタバコを販売した。宣伝には日本語で、「聖将東郷元帥永久の思ひ出にシガーロス『元帥』を日本の皆様に捧ぐ」と書かれていた。
トウゴウカワゲラ
水生昆虫 カワゲラには、トウゴウカワゲラ属(Togoperla )がある。これは、チェコ人昆虫学者のFrant Klapálekが、東郷に因んで名づけたものである。[25]
東郷鋼
東郷の生前、東郷本人の許可を得てその名を冠した「東郷鋼(はがね)」という鉄鋼製品があった。ここから、東郷に反発する海軍内の佐官や将官は「東郷バカネ」という地口を作り、流布したという。
ただ実際は海外鋼輸入問屋河合鋼鉄のライバル流通が考え出した洒落という説もある。日本の産業界が当時、国産第一を標榜していた背景で考察する事も可能である[26]。

東郷の郵便切手[編集]
逓信省(現在の日本郵便)が昭和12年(1937年)に発行した普通切手のうち、当時の封書基本料金用の4銭切手に東郷の肖像が使われている。その後、郵便料金の改定に伴い5銭と7銭の額面の切手が発行されている。
 
東郷の肉声[編集]
「陸の乃木 海の東郷」ともにその肉声を残しているが、乃木の肉声が「私は乃木希典であります」の一言しか残っていないのに対し、東郷は最晩年の昭和6年(1931年)に日本ビクターに、昭和8年(1933年)に日本コロムビアにそれぞれ肉声を録音し、2枚ずつ計4枚8面分の肉声が残されている。内容は以下のとおりである。
日本ビクター盤[27]「所感 軍人勅諭奉戴五十周年記念(上)」53190-A
「所感 軍人勅諭奉戴五十周年記念(下)」53190-B
「追憶 日本海海戦第一報告とその信号」53444-A
「奉読 軍人勅諭五ヶ條」53444-B

昭和7年(1932年)1月4日は軍人勅諭下賜50周年記念日にあたり、その記念の一環として東郷の記念講演の生放送が1月4日夜に企画された[28]。
放送は麹町の東郷邸に放送機材を持ち込んで行われたものであるが、東郷が高齢であるため、放送当日に身体上の理由で放送ができなくなる可能性も考えられた[28]。
そこで、海軍省は日本ビクターに命じて昭和6年12月27日に同じ内容の講演を事前に録音させ、万一の時は東郷邸からレコードを放送する手はずを整える事となった[28]。
この録音にたずさわった日本ビクターの録音技師・楠本哲秀の回想によれば、録音当日、東郷は元帥制服に威儀を正し、居間に置かれたマイクの前で最敬礼をしたあと、直立不動の姿勢で一連の録音を吹き込んだ[29]。
この録音は楠本にとって、「一生忘れられない思い出」の一つだった[29]。
このレコードは当時は発売されずに海軍省内で限定的に配布されたが、国葬当日夜に放送された後、「軍人勅諭奉戴五十周年記念」は東郷の五十日祭にあたる昭和9年(1934年)7月19日に、残りは昭和10年(1935年)5月27日に一般に発売された[28]。
また、長田幹彦は日本ビクターに対して「聯合艦隊解散之辞」も録音してはとアドバイスしたが、相手にされなかった[30]。:日本コロムビア盤[27]「聯合艦隊解散式訓示(上)」28000-A

聯合艦隊解散式訓示(下)」28000-B
「三笠艦保存記念式祝辞」28346-A
「海と空の博覧会における祝辞」28346-B

前述のように、日本ビクターは長田幹彦からの「聯合艦隊解散之辞」の録音の要請話に取り合わなかった。
そこで長田は、次に日本コロムビアに録音話を持ちかけたところ、日本コロムビア側が承諾して録音が実現した[30]。さらに、東郷の家族から祝辞の録音も要請された[30]。
録音は昭和8年(1933年)2月18日にビクター盤と同様に東郷邸で行われ[30]、「聯合艦隊解散式訓示」(聯合艦隊解散之辞)はビクター盤と同じ昭和9年(1934年)7月19日に、二つの祝辞は昭和10年(1935年)5月20日に発売された[28]。
なお、「海と空の博覧会」とは昭和5年(1930年)3月20日から5月31日にかけて上野恩賜公園と「三笠」で開かれた博覧会で、博覧会初日には東郷が祝辞を読み上げ、この模様はJOAK東京放送局)が生中継した[31]。当時の東京朝日新聞は「ラジオを通じて始めての東郷元帥の親し味あるすんだ声もファンの耳に入ったので大喜びであった」と書いた[31]。
その他、明治38年(1905年)10月29日に青山霊園で挙行された海軍弔慰祭でも、東郷の朗読する祭詞の録音が小笠原長生の発案で行われる事になっていたが、朗読する東郷の写真を撮ろうとした写真屋に対して東郷が「お下げなさい」と一喝、驚いた写真屋はあわてて逃げ出し、ついでに幕の後ろで待機していた録音技師までもが逃げ出したため、録音は行われなかった[31]。

逸話[編集]
一般に寡黙、荘重という印象があるが時として軽忽な一面もみせた。晩年学習院に招かれた際、講演中に生徒に「将来は何になりたいか」と質問し「軍人になりたい」と答えた生徒に「軍人になると死ぬぞ」 「なるなら陸軍ではなく海軍に入れ。海軍なら死なないから」と発言し、陸軍大将であり、諧謔のセンスの乏しい乃木希典院長を激昂させ、同時に半ば呆れさせたというエピソードがある。

ユトランド沖海戦については「逃げた奴は負け」と北海の制海権を維持できたイギリス側の勝利と判定している。日本海海戦時の参謀であった秋山真之も「ドイツも善戦したが、イギリスの北海制海権を破れなかったので敗北」と東郷の意見と同じ見解を示している。
昭和天皇学習院時代、院長であった乃木希典については「印象深く、尊敬もしている」と述べているが、東宮御学問所総裁であった東郷については、後年、記者の質問に「何の印象もない」と答えている。
錬度を上げることに熱心であった。『聯合艦隊解散之辞』に「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という言葉を残している[46]。

ワシントン軍縮条約の結果、主力艦の保有比率が対英米6割と希望の7割より低く抑えられたことに憤激する将官達に向かって、「でも訓練には比率も制限もないでしょう」と諭したと言われる。(伊藤正徳著「連合艦隊の最後」)

東郷は宮古湾海戦にて奮戦、戦死した甲賀源吾を軍人として尊敬していた。
また、明治新政府によって逆賊として斬首に処せられた小栗忠順の名誉を後に回復している。
日本海海戦バルチック艦隊を破って後、東京で暮らしていた小栗の遺族を私邸に招き、「日本海海戦で勝利を得たのは、(小栗が生前に建造した)横須賀造船所で艦隊の十分な補給と整備を受けることができたからである」と故人の功績を称え、感謝の言葉を惜しまなかったという。

東郷の国葬に併せて英米両国から日本向けに追悼のメッセージがラジオで放送された。
イギリスからはボルトン・イヤーズ=モンセル海軍大臣のメッセージが英国放送協会から、アメリカからはウィリアム・スタンドレイ海軍作戦部長のメッセージがNBCからそれぞれ放送されたが、アメリカからの放送では予定より早く終了したため、時間調整に日本の曲として『お江戸日本橋』『かっぽれ』(ともに山田耕筰編曲「日本組曲」[47]より)という、おおよそ追悼に似つかわしくない音楽が放送されてしまうという出来事が起こり、日本国内ではアメリカ側の選曲、特に『かっぽれ』を問題視する声が一部で出た[48]。

また、海軍当局が「放送を止めなかった」JOAKに抗議を申し入れる事態も起きている[48]。協栄生命保険元取締役[49]でSPレコード愛好家の志甫哲夫は、NBCは『お江戸日本橋』と『かっぽれ』を「適当な日本曲だと思って放送に使った」とする[22]。また、その音源の由来は、国葬に先立つ4月29日に行われた日米交換放送で、日本側から送った音源をNBCが録音したものであった[22]。

国際連合事務総長のブトロス・ガリは、日本に来ると必ず東郷神社に参拝した。エジプト出身であるガリは「小さい頃、ものすごく励まされた、心を解放された」と言っている。

日本海海戦の際、旗艦三笠に掲げられた大将旗は明治43年(1911年)に、イギリス国王のジョージ5世の戴冠式明治天皇の名代・東伏見宮依仁親王に随行して出席した際、かつての留学先だった海員練習船「ウースター」校に寄贈されていた。
日本側にこうした経緯を記した記録がなかったため、長らく所在不明となっていたが、平成16年(2004年)に東郷神社の松橋暉男宮司が著書の執筆にあたり調査したところ、ウースター校の財産を引き継いでいる財団マリン・ソサエティーが、同時に寄贈された銀杯や東郷元帥の胸像とともに所蔵していることがわかった。神社側が翌年の大祭の際に貸してもらうよう申し入れたところ、無償で永久貸与されることになった。

日本海海戦カール・ツァイスの双眼鏡を敵の沈没状況や降伏確認に使用した。この双眼鏡は発売されて間もない明治37年(1904年)に小西屋六兵衛店(現コニカミノルタホールディングス)が輸入したもの。現在は三笠記念館に収蔵されている。
2010年2月16日に放送されたテレビ東京開運!なんでも鑑定団」には、東郷平八郎大正天皇から下賜されたという刀が出品され、鑑定額は5000万円と評価された。
初めて日本で肉じゃがを作らせたと言われている(諸説有り)。

親族[編集]
長男 東郷彪(貴族院侯爵議員)
次男 東郷実(海軍兵学校40期生・少将) その子で72期生の東郷良一(少尉で重巡洋艦摩耶に乗組み、比島沖海戦で戦死し2階級特進で大尉になった)、曾孫の防衛大学校卒の幹部海上自衛官東郷宏重がいる[50]。

係累の東郷良尚は日本ユニセフ協会の副会長である。
二女 園田千代子 園田実(海軍少将・男爵)と結婚。

脚注[編集]
1.^ 『日本の歴史 明治』
2.^ 山中速人 『ハワイ』 岩波書店岩波新書〉、1993年,127頁
3.^ 同書,127頁
4.^ #生涯海軍士官384頁
5.^ 秋山真之参謀が起草
6.^ #東郷の肉声へ
7.^ a b 『ニュータイプ中学歴史資料 学び考える歴史』浜島書店
8.^ ニューカッスル・ユナイテッド、初期の黄金期の出来事である。ニューカッスルは造船所や兵器工廠、砲廠のアームストロング社などがあり、日本にとって重要な取引先であり留学先でもあった。日本海海戦にもこの造船所で作られた戦艦が多数参加、主力艦を占めた。
9.^ この時には昭和天皇直々に「元帥は凡てに付き達観するを要す」と実質的戒告を受けた。茶谷誠一著「昭和天皇側近たちの戦争」 2010年、吉川弘文館、ISBN 4-642-05696-3
10.^ 実際、当事の海軍士官の俸給が内職を必要とするほど寡少であったとは考えにくい。
11.^ アジア歴史資料センター第2576号 9.6.2 外国海軍指揮官接待に関する件 レファレンスコード:C05023436600
12.^ アジア歴史資料センター海軍大将有馬良橘外十七名葬儀委員長葬儀副委員長並葬儀委員被仰付 レファレンスコード:A10110759500
13.^ アジア歴史資料センター第一編 第三章 第三節 宮司ノ葬儀委員長 第一 序説 レファレンスコード:A10110735000
14.^ アジア歴史資料センター第二編 第二章 第一節 三 葬儀委員長、副委員長ノ更送及委員ノ異動 レファレンスコード:A10110736600
15.^ 永藤2012
16.^ ただし、天皇の諮問機関である軍事参議官会議では最古参の大将(東郷の生前では最古参の元帥に等しい)が議長となるため東郷にはその職責はある。東郷は1929年に井上良馨が死去した後は海軍最古参の元帥であり、翌年に奥保鞏が死去した後は陸軍をも含めての最古参の元帥となった。
17.^ a b 野村 1999 p.203
18.^ 野村 1999 pp.224-225
19.^ この状態の三笠の写真が残っている
20.^ 神奈川新聞 昭和21年4月24日
21.^ ただしハルゼー自身は日本海海戦は日本の卑怯な奇襲攻撃、舞踏会の日本人はニヤニヤした顔の裏でよからぬ事を企んでいると、この年別のパーティーで東郷と出会っていたニミッツやスプルーアンスとは異なる感慨を抱いていたと言われる(詳細はウイリアム・ハルゼーの項を参照のこと)。
22.^ a b c d 志甫 2008、p.126
23.^ http://www.choumi.jp/SHOP/t-db01.html
24.^ 1988年5月17日 南日本新聞のコラム「南風録」
25.^ 他にもオオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)、カミムラカワゲラ(上村彦之丞)と、何れも日本の偉人に因んだ命名がある。
26.^ 参考、「たたらのはなし」日立金属HP
27.^ a b 志甫 2008、p.119
28.^ a b c d e 志甫 2008、p.120
29.^ a b 歌崎 1998、p.179
30.^ a b c d 志甫 2008、p.121
31.^ a b c 志甫 2008、p.124
32.^ 『官報』第3521号、「叙任及辞令」1895年03月29日。
33.^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年08月21日。
34.^ 『官報』第4483号、「叙任及辞令」1898年06月11日。
35.^ 『官報』第7771号、「叙任及辞令」1909年05月24日。
36.^ 『官報』第8510号、「叙任及辞令」1911年10月31日。
37.^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
38.^ 『官報』第4267号、「叙任及辞令」1926年11月12日。
39.^ 『官報』第2221号、「授爵・叙任及辞令」1934年05月30日。
40.^ 『官報』第2221号・号外、「辞令」1934年05月30日。
41.^ 『官報』第2223号、「故元帥海軍大将侯爵東郷平八郎葬儀」1934年06月01日。
42.^ 『官報』第2222号、「叙任及辞令」1934年05月31日。
43.^ 『官報』第6819号、「叙任及辞令」1906年03月27日。
44.^ 『官報』第4066号、「叙任及辞令」1926年03月17日。
45.^ 『官報』第5811号、「辞令」1902年11月15日。
46.^ これは東郷の発言として有名であるが、聯合艦隊解散の辞を起草したのは秋山真之である。後に海軍兵学校の講義で井上成美は、この主張に対しもし敵の初弾が1/100の確率で味方の砲に当たった場合、反撃の手段を失うことになるとの確率論を根拠にこれに反証し、過度の精神主義に頼ることを批判した。
47.^ 1912年に作曲された管弦楽組曲で、『お江戸日本橋』、『かっぽれ』、『さらし(越後獅子より)』の三曲で構成(志甫 2008、p.126)
48.^ a b 志甫 2008、pp.125-126
49.^ 志甫 2008、巻末参照
50.^ 東郷平八郎曾孫東郷宏重「心に住む曾祖父」、日本随想録編集委員会編『日本海海戦随想録<永久保存版>』(合資会社歴研、2003年初版、2005年永久保存版)第三篇 子孫が伝える「日本海海戦」、所収。

参考文献[編集]
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永藤欣久「16)元帥東郷平八郎使用と伝わる総義歯 : 入交直重東洋女子歯科医学専門学校教授所蔵」、『日本歯科医史学会会誌』第29巻第4号、日本歯科医史学会、2012年9月30日、 284頁、 ISSN 0287-2919、 NAID 110009544213。

 

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