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大和

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表された大和 (戦艦) - Wikipediaを素材として二次利用しています。

 

概要[編集]

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役し[5]、1942年(昭和17年)2月12日に連合艦隊旗艦となった[6]。この任は司令部設備に改良が施された同型艦「武蔵」がトラック島に進出する1943年(昭和18年)2月まで継続した。1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦において米軍機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。

当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した、桁外れの戦艦であった。建造期間の短縮、作業の高効率化を目指し採用されたブロック工法は大成功を納め、この大和型建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の礎となり重要な意味をなす(大和型戦艦を参照)。

艦名「大和」は、奈良県旧国名大和国に由来する。日本の歴史的原点としての代名詞ともなっている大和の名を冠されたことに、本艦にかかった期待の度合いが見て取れる[7]。同様の名称として扶桑型戦艦がある。正式な呼称は“軍艦大和”。沈没してから半世紀以上が経過したが、本艦を題材とした映画やアニメが度々作られるなど、日本人に大きな影響を与え続けている[8]。その存在が最高軍事機密であったうえ、戦争が始まってから完成したためにその姿をとらえた写真は非常に少ない。

 

沿革[編集]

 

建造[編集]
ロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた1934年(昭和9年)、失効後に米英海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された[9]。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、飛行将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた[10]。

1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると[11]、5年後の1942年(昭和17年)6月15日を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市の呉海軍工廠の造船船渠で起工[12]。戦艦「長門」や空母「赤城」を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて[13]、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された[14]。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった[15]。また艦の性能値も意図的に小さく登録された[16]。

機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、船台の周囲には魚網などに使われる棕櫚(しゅろ)を用いたすだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた[17]。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、大騒ぎになったという逸話が残っている。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた[18]。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた[19]。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の秘密だった[20]。海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が「大和」の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという[21]。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している[22]。

1940年(昭和15年)7月25日、海軍が艦名候補として「大和」と「信濃」を挙げ、昭和天皇は「大和」を選択した[23][24]。軍艦の命名は、海軍大臣複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた[25]。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を「大和(ヤマト)」と命名した[4]。

 

そして8月8日進水[12]。ただし進水といっても「武蔵」のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、「大和」の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった[26]。昭和天皇進水式行幸する予定もあったが[27]、結局は天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄)臨席のもと[28]式は厳かに行われた。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、「大和」と呼んだ[29]。

10月19日と20日に航行試験を行い、30日に全力公試27.46ノットを記録[1]、11月25日には山本五十六連合艦隊司令部が「大和」を視察した[30]。公試が終了したのは1941年(昭和16年)12月7日、真珠湾攻撃の前日だった。この真珠湾攻撃には、「第三号艦(翔鶴)」「第四号艦(瑞鶴)」が参加している。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦「長門」「陸奥」「扶桑」「山城」「日向」「伊勢」、空母「鳳翔」、第四水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う[31]。呉帰投後の「第一号艦(大和)」は12月16日附で竣工[12]。同日附で第一戦隊に編入された[32]。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された[33]。「大和」の1/500模型は昭和天皇天覧ののち、海軍艦政本部の金庫に保管されたという[34]。

「大和」には当時の最新技術が多数使用されていた。日本海軍の軍艦では一番最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、煙突などにおける蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備など、進水時には世界最大最精鋭の艦型だった。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後電波探信儀が漸次装備されていった。

 

連合艦隊旗艦[編集]
1942年(昭和17年)2月12日、「大和」は連合艦隊旗艦となる。参謀達はそれまで旗艦だった戦艦「長門」に比べ格段に向上した「大和」の居住性に喜んでいる[35]。3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う[36]。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した[37]。5月29日、ミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため直接米軍と砲火を交えることはなかった。6月10日、米軍潜水艦に対して二番副砲と高角砲が発砲した[38]。同6月14日柱島に帰投する。

機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく、空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母「加賀」の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノットで大和型戦艦より劣速である。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。

アメリカ海軍側はミッドウェー海戦の報を受け、戦艦「テネシー」、「ミシシッピ」、「アイダホ」、「ニューメキシコ」、護衛空母ロングアイランド」を中心とする第1任務部隊をサンフランシスコより出撃させている。この部隊はハワイ西北1,200浬で戦艦「コロラド」、「メリーランド」と合同し、日本艦隊の西海岸攻撃に備えており、この時点では空母部隊を前衛として戦艦を運用するという思想には両軍とも差がなかった。日本艦隊が空母喪失後もあくまでミッドウェー攻略に固執した場合、アメリカ戦艦6隻は同島防衛に動く可能性もあった。

1942年(昭和17年)8月7日、米軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まる。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた「大和」は、空母「大鷹(春日丸)」、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する[39]。8月21日、グリメス島付近を航行し[40]、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。「大鷹」と「曙」をラバウルに向かわせたのち、「大和」「潮」「漣」は8月28日、チューク諸島トラック泊地に入港した[41]。入泊直前、米潜水艦「フライングフィッシュ」から魚雷4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している[42]。その後、ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなった[43]。第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦「霧島」が「大和」と同世代の米新鋭戦艦「サウスダコタ」と「ワシントン」との砲撃戦により大破、自沈した。この点で、大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性と米国の積極性を比較する意見もある[44]。

 

1943年(昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務を「大和」の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型2番艦「武蔵」に移譲。5月8日、空母2隻(冲鷹、雲鷹)、重巡2隻(妙高羽黒)、駆逐艦3隻(潮、夕暮、長波、五月雨)と共にトラック出航、各艦は18日に呉や横須賀の母港へ戻った[45]。呉では対空兵器を増強し、21号電探と22号電探などレーダーを装備する[46]。再びトラックに向かったのは8月16日。ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、本艦はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている[47]。作戦行動を終えた駆逐艦が「大和」に横付けし、駆逐艦乗組員が「大和」の巨大で整った風呂を利用することも多かったという[48]。10月中旬、マーシャル群島への出撃命令が下る。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦「武蔵」以下、「大和」、「長門」などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する。

1943年(昭和18年)12月、「大和」は戊一号輸送部隊に参加する。これは「大和」と駆逐艦「秋雲」、「山雲」、「谷風」が横須賀から宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊と軍需品を日本からトラック泊地へ輸送する作戦である[49]。12月20日、「大和」「山雲」「谷風」は横須賀を出発、12月25日、トラック島北西150浬でアメリカ海軍の潜水艦「スケート」より攻撃を受け、3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷する[49]。4度の傾斜を生じたが、約770トンの注水で復元、速力20ノット前後でトラック泊地へ向かった[49]。魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという[50]。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた[51]。浸水量は3000-4000トンである[52]。

敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった[53]。工作艦「明石」に配属されていた造船士官によれば、トラック泊地着後の「大和」は「明石」に「右舷後部に原因不明の浸水があり調査して欲しい」と依頼、工作部員達は注排水系統の故障を疑ったものの異常はなかった[54]。そこで潜水調査をしたところ右舷後部に長さ十数m・幅五mの魚雷破孔を発見し、驚いたという[54]。トラックで応急修理を受けた後、内地に帰還。この欠陥に対して、水密隔壁を新たに追加し浸水を極限する改修が行なわれた。修理と並行して、両舷副砲を撤去。高角砲6基と機銃を増設し、対空兵装の強化を図った。

 

1944年(昭和19年)5月4日、宇垣纏中将が「長門」から移り、第一戦隊旗艦となる[55]。6月14日、ビアク島に上陸した米軍を迎撃するため渾作戦に参加するが、米軍がサイパン島に上陸したことにより渾作戦は中止となった[56]。「大和」は「武蔵」と共に北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日、マリアナ沖海戦に参加する。「大和」は栗田健男中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している[57]。「大和」は発砲していないという証言もある[58]。同日、日本軍機動部隊は米潜水艦の雷撃により空母大鳳」「翔鶴」を失う。6月20日、「大和」はアメリカ軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。「大和」が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である[59]。6月24日、日本に戻った[60]。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載してシンガポールへ向い、7月16日、リンガ泊地に到着した[61]。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した[62]。

 

レイテ沖海戦[編集]
1944年(昭和19年)10月22日、「大和」はレイテ沖海戦に参加するため、第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃した[63]。23日早朝に栗田艦隊旗艦・重巡洋艦愛宕」が潜水艦に撃沈されたため、「大和」座乗の第一戦隊司令官宇垣纒中将が一時指揮を執った。夕方に栗田健男中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれた[64]。24日、シブヤン海で空襲を受け、姉妹艦「武蔵」を失う。「大和」にも艦前部に爆弾1発が命中した[65]。25日午前7時、サマール島沖にて米護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行う[66]。

 

この戦闘で「大和」は主砲弾を104発発射した。32,000mの遠距離から放った「大和」の砲撃は第一斉射から目標を挟叉し、アメリカ側から「砲術士官の望みえる最高の弾着」との評価を受けている。[要出典]ただし、「カリニン・ベイ」は「射程距離は正確だが、方角が悪い」と評している[67]。当時の大和砲術長だった能村(後、大和副長)は、射撃した前部主砲6門のうち徹甲弾は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言している[68]。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で[69]、最初の「正規空母」は護衛空母「ホワイトプレインズ」、次の艦は「ファショウ・ベイ」である[70]。

至近弾による振動で「ホワイトプレインズ」は黒煙を噴き、「大和」ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい[71]。米軍側の記録では、「ホワイトプレインズ」は命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている[72]。能村は、第一目標に四斉射した後「米軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想している[68]。また、軍艦大和戦闘詳報第3号でも敵空母が煙幕を張り大和から遠ざかる様に回避したため目標を他に移したと報告さている。

戦闘中、「大和」は米軍駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまで米軍空母と反対方向に航行することになった[73]。さらに米軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施した[74]。この戦闘では、「大和」の右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発射され、森下艦長と能村副長が制止するという場面があった[75]。

 

アメリカ護衛空母ガンビア・ベイ」に大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、重巡「利根」艦長黛治夫大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している。米側記録にも該当する大火災発生の事実はなく、「ガンビア・ベイ」は午前8時15分に重巡羽黒」と「利根」の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている[76]。「ガンビア・ベイ」への命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている[77]。

アメリカ側では0725-0730頃、米駆逐艦「ホーエル」「ジョンストン」が戦艦からの主砲・副砲弾を受けた。アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛では0714に砲撃を開始し、2射目が有効であったとしているが、0715には大和、長門、榛名も駆逐艦巡洋艦を目標に砲撃を行っている他、「ホーエル」が艦橋に命中弾を受け通信機能を失った0725には、大和が巡洋艦を目標に砲撃を行い撃沈を報じている。このため、0728に「ジョンストン」0725に「ホエール」に命中したのは大和、長門、金剛、榛名いずれかの主砲弾である可能性がある。

また、第五戦隊の羽黒、鳥海 第七戦隊の利根、筑摩も「ホーエル」「ジョンストン」を砲撃しており、特に「ホーエル」は0750以降に重巡部隊と大和、長門による集中砲火を浴び、40発の命中弾を受け、0830にその内の8インチ砲弾一発がエンジンルームを破壊して航行不能に陥ったが、0834に大和は他艦と共にこのホエールに対して追撃を加え、0835にはホエールは船尾より沈み始め、0855に遂に転覆する事となった。[78]「ジョンストン」は、0725の砲撃で被害を受けたものの、スコールに退避する事に成功したため、応急修理を行った後再び戦闘に復帰していたが、0845に「矢矧」を先頭に第十水雷戦隊が空母群に魚雷攻撃を仕掛けようと、急速に接近している事を認めたジョンストンは軽巡「矢矧」に砲撃を加え水雷戦隊が空母群に接近する事を防ぐ事に成功したものの、0940に水雷戦隊に包囲され集中砲火を浴び轟沈している。

このため、この海戦で「大和」が単艦で敵艦を葬った可能性はないという事になる。[79]なおこの海戦で、0850以降に「大和」が重巡洋艦「鳥海」を味方撃ちしたという説もあるが、大和は0834以降は砲撃を行っておらず、唯一0847に金剛が砲撃を行っていたのみであるため、大和が「鳥海」及び「筑摩」を誤射した可能性は無い。

アメリカ軍の損害は、アメリカ護衛空母ガンビア・ベイ」と「ジョンストン」、「ホーエル」、護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」が沈没というものだった。この直後、関行男海軍大尉が指揮する神風特攻隊敷島隊が護衛空母部隊を急襲、体当たりにより護衛空母「セント・ロー」が沈没、数隻が損害を受けた[80]。

サマール島沖砲撃戦の後、栗田長官は近隣にアメリカ機動部隊が存在するとの誤報を受けて、レイテ湾に突入することなく反転を命じた[81]。宇垣の著作には、当時の「大和」艦橋の混乱が描写されている[82]。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍航空隊機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した[83]。

往復の航程でアメリカ軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た。第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う。また前甲板の爆弾は鋲座庫付近(錨鎖庫ではないか?)に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水した[84]。

 

10月28日、ブルネイに到着する[85]。11月8日、多号作戦において連合軍空軍の注意をひきつけるためブルネイを出撃、11日に帰港したが、特に戦闘は起きなかった[86]。11月16日、B-24爆撃機15機の襲撃に対し主砲で応戦、3機を撃墜する[87]。同日夕刻、「大和」は戦艦「長門」、「金剛」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「浦風」、「雪風」、「磯風」、「浜風」とともに内地に帰還したが、台湾沖で「金剛」と「浦風」が潜水艦に撃沈されることとなる[88]。11月23日、呉に到着。宇垣中将は退艦、森下信衛4代目艦長にかわって有賀幸作大佐が5代目艦長となる(森下は第二艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦)[89]。

 

姉妹艦「武蔵」の沈没は、大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え[90]、いずれ「大和」も同じ運命をたどるのではと覚悟する者もいた[91]。宇垣は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記した[92]。

 

レイテ沖海戦で連合艦隊は事実上壊滅した。大和型戦艦3番艦を空母に改造した「信濃」も呉回航中に米潜水艦の襲撃で沈没、「大和」と「信濃」が合同することはなかった。「大和」以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続けている[93]。1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかった。

同年3月28日、「次期作戦」に向け「大和」(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた[94]。

3月30日に、アメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。関門海峡は貨物船が沈没して通行不能だった[95]。

 

海上特攻準備[編集]
4月2日、第二水雷戦隊旗艦・軽巡洋艦「矢矧」での第二艦隊の幕僚会議では次の3案が検討された[96]。
1.航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する[96]。
2.好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する[96]。
3.揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする[96]。

この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた[97]。伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていた[98]。

 

一方連合艦隊では、連合艦隊参謀神重徳大佐が戦艦大和による海上特攻を主張した。連合艦隊参謀長草鹿龍之介はそれをなだめたが神は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神が計画した。神は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。神は参謀長を通さずに豊田副武連合艦隊長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。豊田は「大和を有効に使う方法として計画した。50%も成功率はなく、うまくいったら奇跡だった。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと決めた」という。草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。淵田美津雄参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という[99]。

 

神は軍令部へ向かったが、作戦課長富岡定俊に燃料がないと反対されたため、軍令部次長小沢治三郎中将から直接承認を得た。小沢によれば「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と許可を与えたという。及川古志郎軍令部総長は黙って聞いていたという。神は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し草鹿参謀長は戦艦「大和」の伊藤整一司令長官に作戦命令を伝え説得しに行ったが、なかなか納得しない伊藤に草鹿は「一億総特攻の魁となって頂きたい」と説得すると伊藤は「そうか、それならわかった」と即座に納得し、大和による海上特攻が決定した。[100]。

4月5日、特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた[101]。自身も作戦に疑問を持っていた草鹿中将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという[102]。一方で、草鹿の回想録では4月6日に訪れたことになっている[103]。

『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである[104]。宇垣は及川の対応を批判している[105]。また草鹿の回想録にも「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と記されている[106]。

 

特攻作戦であることは乗組員には事前に伝えられなかった。命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた[107]。しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたという。ただし、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していた[108]。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦[109]。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った[110]。

 

4月30日、昭和天皇米内光政海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた[111]。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した[112]。

4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

 

4月6日、「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任される。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」[113]を掲げた。片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて3往復の燃料を積んでいたともされている(下記も参照)。

 

第二艦隊は「大和」以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月)、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧、槇)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。

アメリカ軍偵察機F-13『スーパーフォートレス』(B-29偵察機型) により上空から撮影された出撃直後の「大和」の写真が2006年7月にアメリカにて発見された。当時の「大和」の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。

 

天一号作戦(菊水作戦、坊ノ岬沖海戦も参照のこと)の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることである。もし沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていた[114]。しかし「大和」を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた。

 

実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが[要出典]、上記に理由で却下されている。アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の意義はまさに一億総特攻の魁(さきがけ)であった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米軍潜水艦「スレッドフィン」と「ハックルバック」に行動を察知された[115]。4月6日21時20分、「ハックルバック」は浮上して大和を確認。艦長フレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡した。この電報は「大和」と「矢矧」に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡された[116]。

 

当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた[117]。しかし「大和」が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。しかし実際には、スプルーアンスが戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャーが先に攻撃部隊を送り込んでしまった[118]。「武蔵」は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャーは何としても「大和」を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという[119]。またミッチャーは、各部隊の報告から「大和」が沖縄へ突入すると確信し[120]、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた[121]。なお、スプルーアンスは、アメリカ留学中の伊藤と親交を結んだ仲であった[122]。

 

坊ノ岬沖海戦[編集]
4月7日6時30分ごろ、「大和」は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた[123]。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した[124]。九州近海までは、レイテ沖海戦で「大和」に乗艦していた宇垣中将率いる第五航空艦隊第二〇三航空隊(鹿児島県南部笠、原飛行場)の零式艦上戦闘機が艦隊の護衛を行った[125]。能村はF6Fヘルキャット3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する[126]。一方、日本軍機の編隊を見たという証言もある[127]。実際に護衛は行われたが、天候不良で第二艦隊を発見できず引き返す隊や、第二艦隊の壊滅により発進中止となる隊があるなど、急遽決定した特攻作戦のため準備不足の中途半端な護衛になってしまった[128]。

 

その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還し、入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇などの偵察機が艦隊に張り付くようになる[129]。「スレッドフィン」が零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる[130]。米軍の記録によれば、8時15分に3機のF6Fヘルキャット索敵隊が「大和」を発見[131]。8時23分、別のヘルキャット索敵隊も「大和」を視認した[131]。このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった[132]。「大和」は主砲を3発撃ったが、米偵察機を追い払うことはできなかった[133]。

4月7日12時34分、「大和」は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した[134]。8分後、空母「ベニントン」第82爆撃機中隊(11機)のうちSB2C ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下する[135]。中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、米軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した[136]。「大和」は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している[134]。後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった[137]。前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た[138]。

また、一発が「大和」の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある[誰によって?]。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された[139]。さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村は副砲弾庫温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという[140]。建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた[141]。実際には攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している。前部中甲板でも火災が発生したとする研究者もいる[142]。清水副砲長は沖縄まで行けるかもしれないと希望を抱いた[143]。

 

米軍は戦闘機、爆撃機雷撃機が同時攻撃を行った。複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされながらの対処だったため、巨大な「大和」が完全に回避する事は困難だった[144]。「ベニントン」隊に続き「ホーネット」第17爆撃機中隊(ロバート・ウォード中佐)が「大和」を攻撃。艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を主張し、写真も残っている[145]。12時40分、「ホーネット (CV-12) 」第17雷撃機中隊8機が「大和」を雷撃し、魚雷4本命中を主張した[146]。「軍艦大和戦闘詳報」では12時45分、左舷前部に1本命中である[134]。戦後の米軍対日技術調査団に対し、森下参謀長、能村副長、清水副砲術長は爆弾4発、宮本砲術参謀は爆弾3発の命中と証言[147]。魚雷については、宮本砲術参謀は3本、能村は4本、森下は2本、清水は3本(全員左舷)と証言した[148]。

これを受けて、米海軍情報部は艦中央部左舷に魚雷2本命中と推定、米軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフなフネだった」と述べている[149]。「大和」では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた[150]。左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。

13時、第二波攻撃が始まる[151]。米軍攻撃隊94機中、「大和」に59機が向かった[152]。第83戦闘爆撃機中隊・雷撃機中隊が攻撃を開始。雷撃隊搭乗員は、「大和」が主砲を発射したと証言している[153]。射撃指揮所勤務兵も、砲術長が艦長の許可を得ずに発砲したと証言するが[154]、発砲しなかったという反論もある[155]。いずれにせよ米軍機の阻止には至らず、「エセックス」攻撃隊が「大和」の艦尾から急降下し、爆弾命中によりマストを倒した[156]。さらに直撃弾と火災により、「大和」から米軍機を確認することが困難となる[156]。米軍機は攻勢を強めた。「エセックス」雷撃隊(ホワイト少佐)が「大和」の左右から同時雷撃を行い、9本の魚雷命中を主張[157]。「バターン」雷撃隊(ハロルド・マッザ少佐)9機は全発射魚雷命中、もしくは4本命中確実を主張[158]。「バンカーヒル」雷撃隊(チャールス・スワッソン少佐)は13本を発射し、9本命中を主張した[159]。「キャボット」雷撃隊(ジャック・アンダーソン大尉)は、「大和」の右舷に照準を定めたが、進行方向を間違えていたので、実際には左舷を攻撃した[160]。魚雷4本の命中を主張し、これで第一波、第二派攻撃が「大和」に命中させた魚雷は29本となった[160]。これは雷撃隊が同時攻撃をかけたため、戦果を誤認したものと考えられる[160]。

 

防空指揮所にいた塚本高夫艦長伝令、渡辺志郎見張長は、米軍が見た事のない激しい波状攻撃を行ったと証言している[161]。宮本砲術参謀は右舷に魚雷2本命中したとする。「大和」は速力18ノットに落ち、左舷に15度傾いた[162]。左舷側区画は大量に浸水し、右舷への注水でかろうじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた[163]。左舷高角砲発令所(左舷副砲塔跡)が全滅し、甲板の対空火器が減殺された[164]。13時25分、通信施設が破壊された「大和」は「初霜」に通信代行を発令した[165]。

 

13時30分、「イントレピッド」、「ヨークタウン」、「ラングレー」攻撃隊105機が大和上空に到着した[166]。13時42分、「ホーネット」「イントレピッド」第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した[167]。この頃、上空の視界が良くなったという[168]。

このように14時17分まで、「大和」はアメリカ軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機[169]による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、「大和」の対空火力を破壊した。

 

『軍艦大和戦闘詳報』による主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また「大和」を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない[170]。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。
12時45分 左舷前部に魚雷1本命中[134]。
13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障[151]。
13時44分 左舷中部に魚雷2本命中[151]。
13時45分 副舵を中央に固定。応急舵で操舵[151]。
14時00分 艦中央部に中型爆弾3発命中[171]。
14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中[171]。
14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中[171]。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜急激に増す[171]。
14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし[172]。総員上甲板(総員退去用意)を発令。

 

沈没[編集]
 大和の爆煙
「大和」は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生。艦上では、爆弾の直撃や米軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。水面下では、米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである[173]。後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった[151]。このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる[誰?]。また、「大和」が左舷に傾斜したため、右旋回が出来なくなったとする見方もある[174]。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという[175]。これらのことにより、米軍は容易に「大和」に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された[151]。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった[176]。

 

また傾斜復旧のために、右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが[177]、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。船体の傾斜が5度になると主砲、10度で副砲、15度で高角砲が射撃不能となった。

14時、注排水指揮所との連絡が途絶し、舵操舵室が浸水で全滅する[178]。有賀艦長は最後を悟り、艦を北に向けようとしたが、「大和」は既に操艦不能状態だった[179]。「大和」は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた[180]。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった[181]。護衛駆逐艦からは航行する「大和」の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた[182]。

「大和」への最後のとどめになった攻撃は、空母「ヨークタウン」第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃である[183]。14時10分、トム・ステットソン大尉は、左舷に傾いたため露出した「大和」の艦底を狙うべく、「大和」の右舷から接近した[184]。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した[185]。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する[186]。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した[187]。後部への魚雷は、空母「ラングレー」隊の可能性もある[188]。

 

この魚雷の命中は、「大和」の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している[189]。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した[190]。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた[191]。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。

 

最後の複数の魚雷が右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた[192]。伊藤長官は森下と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った[193]。森下は第二艦隊幕僚達に対し、駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は「大和」を操艦するため艦橋に残った[194]。有賀は号令機で「総員最上甲板」を告げたが[195]、すでに「大和」は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた[196]。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた[197]。有賀は羅針儀をつかんだまま海中に没した[198]。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下が若手将兵を脱出させていた[199]。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた[200]。

 

14時20分、「大和」はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している[201]。右舷外側のプロペラは最後まで動いていた[202]。14時23分、上空の米軍攻撃隊指揮官達は「大和」の完全な転覆を確認する[203]。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある[204]。「大和」は直後に大爆発を起こし、艦体は2つに分断されて海底に沈んだ。沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分[205]、「初霜」の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している[206]。

 

所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた[207]。軽巡洋艦「矢矧」から脱出後、17時20分に駆逐艦「初霜」に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた[208]。「大和」では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名[209]または276名[210]。第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名である[211]。護衛していた軽巡洋艦「矢矧」446名(沈没)、駆逐艦「磯風」20名(自沈)、「浜風」100名(轟沈)、「冬月」12名、「涼月」57名(大破)、「雪風」3名、「霞」17名(自沈)、「朝霜」326名(轟沈)、第二艦隊将兵計3721名が戦死した[212]。「初霜」は負傷者2名だった。

 

菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいた[213]。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたもの、及び海上護衛総隊割り当て分7,000トンの内4,000トンを第2艦隊向けに割り振ったもので、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。とはいえ、空襲への回避運動や敵艦隊との水上戦が発生したなら、長時間に及ぶ高速での迂回航行を想定する必要があったし、また戦術的な擬装航路の実行なども合わせて考えるなら、決して余裕のある燃料量ではなかったとも言われている。

 

うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。「大和」を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも駆逐艦「浜風」に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている[214]。

戦艦「大和」の沈没によって連合艦隊は完全に洋上行動能力を失い、その後艦隊として出撃することはなかった。4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、「大和」の名前も詳細も明らかにされることはなかった[215]。4月25日、連合艦隊だけでなく海上護衛総隊及び各鎮守府をも指揮する海軍総隊が設けられ、終戦まで海上護衛及び各特攻作戦の指揮を執る。大和沈没の報は親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという[216]。同様の感想は、「大和」の沈没を目撃した米軍搭乗員も抱いている[217]。終戦後の1945年(昭和20年)12月9日、GHQNHKラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で「大和」の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した[218]。米軍の認識であるため、「大和」は排水量4万5000トンの戦艦として紹介されている[218]。

 

沈没要因[編集]
沈没要因としては以下が考えられている。
「大和」が爆発した際の火柱やキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。だが、視認距離を求める公式 L1(km)= 116.34 \times \sqrt{ho}(km)+ \sqrt{ht}(km) (L1は水平線上の最大視認距離、ho は水面からの眼高。ht は目標の高さ。坊の岬最高点は96.9m 爆煙が雲底到達した高度は1,000m)に当てはめてみると視認距離は152.6kmとなり、計算の結果は213km以上も離れた鹿児島県からは確認できないこととなる。徳之島から見えたという伝承がある[219]。

 

爆発は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる。米軍と森下、清水は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが[220]、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である。能村は「主砲弾の自爆」という表現を使っている[221]。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している[222]。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高いとされるが[223]、三番主砲弾薬庫の爆発によるものであるとする報告もある[224]。

 

同型艦「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、「大和」は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた[225]、「武蔵」に比べ米軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど[226]、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀幸作艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である[227]。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀が巨艦「大和」の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある[228]。1945年(昭和20年)以降の「大和」は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった[229]。有賀も海兵同期の古村啓蔵第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている[230]。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下信衛は[231]「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている[232]。航海士の山森も、沖縄特攻時の米軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした[233]。その一方で、森下ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある[234]。

 

アメリカ軍航空隊は「武蔵」一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという[235]。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった。だが意図的に左舷を狙ったという米軍記録や証言は、現在のところ発見されていない。

さらに、米軍艦載機が提出した戦果報告と、日本側の戦闘詳報による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想[236]。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本[237]。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発[238]。米軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発[238]。米軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が「大和」を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張[239]。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている[238]。米軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、米軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた[240]。米軍は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した[241]。海底の「大和」の調査でも、残存している部分だけで戦闘詳報に記載のなかった魚雷命中跡が4箇所確認されている[242]

 

現在[編集]
戦闘詳報による沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分[243]。だが実際の「大和」は、北緯30度43分 東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176km、水深345mの地点に沈没している[244]。艦体は1番主砲基部と2番主砲基部の間を境に、前後2つに分かれていた[245]。右舷を下にした艦首部より2番主砲塔前(0 - 110番フレーム付近、約90m)までの原型をとどめた部分は[222]、北西(方位310度)に向いている[245]。転覆した状態の2番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部(175 - 246番フレーム付近、約186m)は[222]、東(方位90度)方向を向いている[245]。あわせると276mとなる。原型をとどめぬ艦中央部は3つの起伏となり艦尾艦首の70m南に転覆した状態で[245]、根元から脱落した艦橋は艦首の下敷きとなり、各々半分泥に埋まった状態で沈んでいる[246]。

 

主砲と副砲塔はすべて転覆時に脱落した。特に3基の主砲は、砲塔の天蓋を下にして海底に塔のように同一線上に直立している[247]。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味している。主砲の砲身自体は泥に深く埋もれており、観察できていない[248]。また艦首切断部付近で発見された2番主砲塔は、基部が酷く破損しており[249]、基礎部分から下が横倒しになっている。沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠とされている[250]。1番(艦首から70m)と3番主砲塔(艦尾部プロペラ付近)には著しい損壊は認められていない[249]。副砲は砲身が視認されており損傷もない[251]。

4本のプロペラのうち、3本は船体に無傷で付いているが、1本は脱落して、海底に突き刺さっている[252]。沈没時の爆発でプロペラシャフトが折れて、脱落したものと思われる。主舵には損傷はなく、正中の位置となっている。艦首部分には左右に貫通している魚雷命中穴があり、その他にも多数の破孔がある。2009年(平成21年)1月になって「大和」の母港であった呉市海事歴史科学館呉商工会議所中国新聞日本放送協会広島放送局等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指している。一方で、遺品の引き揚げに立ち会った大和乗組員が複雑な気持ちを抱いたという証言もある[253]。

 

「大和型戦艦」らしき2隻の戦艦が動く映像が発見されたことがあるが、のちにこれは東京湾での降伏調印式へと向かうアイオワ型戦艦の戦艦アイオワと戦艦ミズーリの物だと分かった。アメリカ公文書館IIには、B-24に対して主砲を発射した「大和」の映像が残されているが、遠距離撮影のため不鮮明である[254]。1988年(昭和63年)11月、保科善四郎(元海軍中将)は松永市郎(元海軍大尉)を通じてアナポリス海軍兵学校に「大和」の絵画(靖国神社遊就館展示絵の複製)を寄贈[255]。松永がアーレイ・バーク海軍大将とエドワード・L・ビーチ・ジュニア海軍大佐にその事を語ると、二人とも「大和は美しい船だった」と語っている[256]。

 

 

「大和 (戦艦)」の書誌情報