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胡適

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 胡適」の書誌情報

胡 適漢音:こ せき、慣用音:こ てき)は、中華民国の学者・思想家・外交官。原名は嗣穈希疆、後にと改名した。「適者生存survival of the fittest(スペンサ-の造語)」に由来する。適之。アメリカの哲学者ジョン・デューイのもとでプラグマティズムを学ぶ。北京大学教授のち学長。国民党を支持したため戦後は米国に亡命したのち、1957年に台湾に移住した。

来歴・人物

 
胡適別影
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
 
台北市南港区胡適公園にある胡適の胸像

1891年江蘇省川沙県(現・上海市浦東新区)で生まれ、本籍地の安徽省績渓県で育った。上海中国公学を卒業後、1910年宣統2年)にアメリカコーネル大学農学を学び、次いでコロンビア大学ジョン・デューイのもとでプラグマティズム哲学を学んだ。

1917年民国6年)、陳独秀の依頼に基づき、雑誌『新青年』に「文学改良芻議(ぶんがくかいりょうすうぎ)」をアメリカから寄稿し、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱し、理論面で文学革命を後押しした。ただし、彼自身にもいくつかの作品があるが、文学的才能には恵まれなかったようで、実践面は魯迅などによって推進された。同年、北京大学学長だった蔡元培に招かれて帰国、北京大学教授となりプラグマティズムにもとづく近代的学問研究と社会改革を進めた。

1919年(民国8年)、『新青年』が無政府主義共産主義へと傾いて政治を語るようになると、胡適李大釗と「問題と主義」論争を起こし、社会主義を空論として批判した。やがて『新青年』を離れて国故整理に向かい、中国伝統の歴史・思想・文学などを研究整理した。

胡適マルクス・レーニン主義を批判し、1922年(民国11年)、『努力週報』を創刊し改良主義を主張した。1925年(民国14年)前後にに関する論考を著し始める。1930年(民国19年)、大英博物館敦煌文書調査で発見した荷沢神会の遺文をもとに、『神会和尚遺集』を発表する。満州事変が起こると、1932年(民国21年)、『独立評論』を創刊し、日本満州支配を非難している。

胡適は「華北保存的重要」という文章を発表して、現今の中国は日本と戦える状態ではないと指摘し、「戦えば必ず大敗するが、和すればすなわち大乱に至るとはかぎらない」かゆえに“停戦謀和”すべしと唱えた。胡適はさらに、「日本が華北から撤退し停戦に応じるのであれば、中国としては満洲国を承認してもよい」とさえ主張している。

1935年(民国24年)には「日本切腹中国介錯論」として知られる評論を発表。この中では米ソ両国と衝突する日本はいずれ自壊の道を歩み、中国は数年の辛苦を我慢してそのときを待てば、「切腹」する日本の「介錯人」となるだろうと記した。蒋介石政権に接近し、1938年(民国27年)駐米大使となってアメリカに渡った。1942年(民国31年)に帰国し、1946年には北京大学学長に就任した。1949年(民国38年)、共産党国共内戦に勝利すると、アメリカに亡命し、1957年(民国46年)から台湾に移り、外交部顧問、中央研究院長(1957-62年)に就任した。

水経注』や禅宗史の研究に取り組んだ。1949年にはハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議で鈴木大拙と禅研究法に関して討論を行う。

1939年にはノーベル文学賞候補にノミネートされたが[2]、受賞を逃した。

 

著書

なお、李大釗との論争は西順三島田虔次編訳『清末民国初政治評論集』(平凡社、1971)において伊藤昭雄訳で参照することが可能

 

参考文献

  • 小野川秀美「清末の思想と進化論」、『清末政治思想研究』みすず書房、1960
  • 林毓生 著、丸山松幸・陳正醍 訳『中国の思想的危機-陳獨秀・胡適魯迅』研文出版、1989
  • 清水賢一郎「胡適」、佐藤慎一編『近代中国の思索者たち』大修館書店、1998

 

 

関連項目

 
最終更新 2015年1月12日 (月) 07:40