柳生十兵衛三厳

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表された柳生三厳 - Wikipediaを素材として二次利用しています。

 

 
柳生三厳
時代 江戸時代前期
生誕 慶長12年(1607年
死没 慶安3年3月21日1650年4月21日
別名 七郎(初名)、十兵衞(通称
戒名 長岩院殿金甫宗剛大居士
墓所 広徳寺芳徳寺
幕府 江戸幕府小姓書院番
主君 徳川家光
大和柳生藩
氏族 柳生氏
父母 父:柳生宗矩。母:松下之綱の娘・おりん
兄弟 三厳友矩宗冬列堂義仙
正室:秋篠和泉守の娘
2女:松(跡部良隆正室)、竹(渡辺保室)

 

 

 

柳生 三厳(やぎゅう みつよし、慶長12年(1607年)-慶安3年3月21日(1650年4月21日))は、江戸時代前期の武士剣豪旗本(ただし、後述の事情により柳生藩第2代藩主として数える場合もある)。初名は七郎、通称十兵衞(じゅうべえ)。

家伝の兵法(柳生新陰流)に関する数多くの伝書を著し[注 1]、柳生家累代の記録『玉栄拾遺』では「弱冠にして天資甚だ梟雄、早く新陰流の術に達し、其書を述作し玉ふ」と評されている[1]。江戸初期の著名な剣豪として知られ、三厳を題材とした講談や小説が多く作られた。

 

生涯

誕生から蟄居まで

慶長12年(1607年大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)にて誕生。父は徳川秀忠の兵法指南を務めて後に柳生藩初代藩主となる 柳生宗矩 [注 2]。母は豊臣秀吉が若年時に仕えていたことで知られる松下之綱の娘・おりん。同母弟に柳生宗冬(飛騨守)、異母弟に柳生友矩(刑部・左門)、列堂義仙がいる。

元和2年(1616年)、10歳の時に父に連れられ初めて徳川秀忠に謁見し、元和5年(1619年)、13歳で徳川家光小姓となる。元和7年(1621年)に宗矩が家光の兵法指南役に就任してからは、父に従って家光の稽古に相伴してその寵隅も甚だ厚かったと伝わるが、寛永3年(1626年)20歳の時に家光の勘気に触れて蟄居を命じられ、小田原阿部正次のもとにお預けの身となる[1][注 3]

再出仕まで

三厳自身の著述によると、小田原に蟄居して間もなく故郷である柳生庄に移され、それから再出仕を許されるまでの12年は故郷に引き籠って、亡き祖父・宗厳や父が当地に残した口伝や 目録を頼りに、兵法の研鑽に励んでいたという。(後述

致仕してから11年が経過した寛永14年(1637年)、その年の夏稽古が始まる5月初日に江戸に戻り、秋の終わりごろまで柳生の藩邸に滞在する。その間改めて父・宗矩の下で相伝を受け、それらの至極を伝書にまとめて父に提出する[注 4]

しかし宗矩からは「全て焼き捨てろ」[注 5]と命じられたため、当時屋敷に同居していた父の友人の禅僧沢庵宗彭に相談する。沢庵は三厳に宗矩の真意を説いた上で、焼却を命じられた伝書に加筆と校正を施し[注 6]、これを受けて三厳は「父の以心伝心の秘術、事理一体、本分の慈味を了解し、胸中の疑念が晴れ」[注 7]たとして再び伝書を宗矩に提出し、印可を認められた。[注 8]

再出仕後

印可を得た翌年の寛永15年(1638年)、家光に重用されていた次弟友矩が病により役目を辞すのに前後して再び家光に出仕する事を許され[注 9]書院番に任じられる。翌、寛永16年(1639年)2月14日には弟の宗冬と共に家光の御前で兵法を披露している[2]。出仕中も兵法研究に努めていたと見られ、この時期に代表作とされる『月之抄』を含むいくつかの伝書が著されている。

正保3年(1646年)父宗矩が死去。遺領は宗矩の遺志に基づき、一旦幕府に返上された上で兄弟の間で分知され、三厳は八千三百石を相続して家督を継ぐ[注 10]

宗矩生前の三厳は「強勇絶倫」で皆畏れて従う風があったが、家督を継いで以後は寛容になり、政事にも励み、質実剛健な家風を守り、奴婢にも憐みをかけて処罰することもなかったという[1]。その後間もなく役目を辞して柳生庄に引き篭もったとも見られるが詳細は不明。[3]

最期

 
芳徳寺境内にある柳生一族の墓所。中央が三厳の墓

慶安3年(1650年)鷹狩りのため出かけた先の弓淵(早世した弟友矩の旧領)で急死[注 11]。奈良奉行・中坊長兵衛が検死を行い、村人達も尋問を受けたが死因は明らかにならないまま[注 12]、柳生の中宮寺に埋葬された。享年44[1]墓所東京都練馬区桜台広徳寺および奈良県奈良市柳生町の芳徳寺にある。

大和の豪族秋篠和泉守の娘との間に二女(長女・松、次女・竹)があり、三厳の死後は家光の命で宗冬が養育した。[1]

宗矩の死後石高が1万石を切ったために三厳が大名に列した事はないが、三厳の遺領を相続した宗冬が再度大名としての地位を回復させたことで、便宜上三厳が大和柳生藩第2代藩主とされている。

容姿の特徴

若い頃に失明したという伝説があり、片目に眼帯をした「隻眼の剣豪」のイメージが広く知られている。これは幼い頃「燕飛」の稽古でその第四「月影」の打太刀を習った時に父・宗矩の木剣が目に当たったとか(『正傳新陰流』)、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために礫を投げつけて目に当たったため(『柳荒美談』)などといわれる。しかし、肖像画とされる人物[注 13]の両目は描かれており、当時の資料・記録の中に十兵衛が隻眼であったという記述は無い。

 

謹慎期間中の動向について

家光の勘気を受けて致仕してから再び出仕するまでの12年間について、三厳自身は著作の中で故郷である柳生庄にこもって剣術の修行に専念していたと記している。一方でこの間、諸国を廻りながら武者修行や山賊征伐をしていたという説もある。

三厳の自著での記述と相反しているとはいえ、宝暦3年(1753年)に成立した柳生家の記録である『玉栄拾遺』でも取り上げていることから、三厳の死の100年後には既に人口に膾炙していたものと思われる。後にこの事が下敷きとなって下記のような様々な逸話が派生し、今日に至るまで創作作品の素材ともなっている。

三厳の著作における記述

  • 『昔飛衛という者あり』(再出仕する前年の寛永14年の作)

愚夫故ありて東公を退て、素生の国に引籠ぬれは、君の左右をはなれたてまつりて、世を心のまゝに逍遥すへきは、礼儀もかけ天道もいかゝと存すれは、めくるとし十二年は古郷を出す。何の道にか心をいさゝかもなくさめそなれは、家とするみちなれは、明くれ兵法の事を案し、同名の飛衛被官の者とも、是等にうち太刀させ所作をして見るに、身不自由にしておもふまゝならぬ事のみなり。[4]
【現代語訳=とある事情で家光公の元を退いて、故郷(柳生庄)に引き籠った。主君の側を離れておいて、世を自由に出歩くのは、礼儀に欠け、天道にも背くと思ったので、12年間は故郷を出なかった。他にするべき事もなかったので、一日中家業の兵法の事を考えて過ごし、同名の飛衛被官の者を相手に組み太刀を試みてみたものの、身は不自由にして思うようにならない事ばかりであった。】

  • 『月之抄』(再出仕後の寛永19年の作)

先祖の跡をたつね、兵法の道を学といへとも、習之心持やすからす、殊更此比は自得一味ヲあけて、名を付、習とせしかたはら多かりけれは、根本之習をもぬしぬしが得たる方に聞請テ、門弟たりといへとも、二人の覚は二理と成て理さたまらす。さるにより、秀綱公より宗厳公、今宗矩公の目録ヲ取あつめ、ながれをうる其人々にとへは、かれは知り、かれは知不、かれ知たるハ、則これに寄シ、かれ知不ハ又知たる方ニテ是をたつねて書シ、聞つくし見つくし、大形習の心持ならん事ヲよせて書附ハ、詞にハいひものへやせむ、身に得事やすからす。[5]
【現代語訳=先祖の跡をたずね、兵法の道を学んでみたものの満足できず、宗厳公の門弟達を訪ねてみたが、各人が独自に解釈したものを教えと称しており、定まった理を得ることが出来なかった。そこで、上泉秀綱公から宗厳公に与えた目録、宗厳公から宗矩公に与えた目録をとりまとめ、新陰流を学んだ人々を訪ねて、各人が知っていることを、聞きもし、見もし、およその要領を書きつけ、文章にしてみたもののそれらを容易に体得することはできなかった】

柳生十兵衛廻国説

  • 『玉栄拾遺』の記述(宝暦3年編)

寛永年中父君の領地武蔵国八幡山の辺、山賊あって旅客の萩をなす。公(三厳)彼土に到、微服独歩し賊徒を懲らしめ玉ふ。亦山城国梅谷の賊を逐玉ふも同時の談也。其他諸方里巷の説ありといへども、未だその証を見ず[1]
【現代語訳=寛永年中に父君(宗矩)の領地である武蔵国八幡山において山賊が出没し、旅人に恐れられていた。三厳公は単身密かにこの地に来て、山賊達を懲らしめた。また山城国梅谷の賊を追い払ったのもこの時期の話である。この他に諸国を巡っていたとする話もあるが、これまで証拠を見たことはない】

その他の逸話

  • 京都粟田口にて数十人の盗賊を相手にし、12人を切り捨て、追い散らした(『撃剣叢談』)
  • 奥州から始めて各地の道場を片端から訪れては仕合を申し込みつつ、諸国を巡った(『柳荒美談』)
  • 家光の勘気を蒙って致仕したというのは、実は公儀隠密として働くための偽装であり、宗矩の指示を受けて様々に活動した。またこの説の延長として、薩摩藩に潜入した際、偽装の為に嫁を取って2年間暮し、遂には子まで設けたという話まである(出典不明)

逸話

史実上の逸話

  • 酒好きの上に酔いが回ると言動が荒くなったといい、沢庵宗彭にも再出仕の際に忠告されている[注 14]。しかし、その後も酒好きはあまり収まらず、朝から東海寺に酒を持って現れ、僧たちに振る舞いつつ、からかうなどの言動があった[注 15](『沢庵和尚書簡集』)。またこれが致仕の原因ではないかともいわれている。
  • 沢庵を慕っており、最初の著書である『昔飛衛という者あり』を父・宗矩に酷評された時、沢庵を頼って相談し、その後、沢庵の取り成しもあって、印可を認められた。(『昔飛衛という者あり』)
  • 父宗矩の高弟の木村友重(助九郎)と交流があり、共に伊香保温泉に出かけて兵法について問答を交わしている他、友重の門弟にも教示を与えている(『木村助九郎兵法聞書』)。[6]

真偽が定かではない逸話

  • 柳生庄にて道場を開き、全国で1万3500人にも及ぶ門弟を育てたという(『柳生の里』)。[7]
  • 荒木又右衛門の師匠として扱われることがある(『武術流祖録』)。[注 16]
  • ある大名のところに、三厳の弟子を自称する浪人が仕官を求めた際、「ちょうど同じく十兵衛殿の門弟を名乗る男が他にも仕官を求めているので、仕合して勝った方を召し抱える」と告げられたため、夜になって逃げ出したところ、そのもう一人の浪人も「十兵衛の弟子と仕合などかなわぬ」と言って逃げ出していたので、両者は鉢合わせたという話がある。
  • ある大名のところに出入りしている浪人と試合をした際、一見相討ちに見えたものの、十兵衛は己の勝ちであり、これがわからないようでは仕方ない、と言った。これに怒った浪人の望みにより、真剣での試合をしたところ、浪人は斬られて倒れ、十兵衛は着物が斬られたのみで傷一つなかった。これを以て「剣術とはこの通り一寸の間にあるものである」と述べたという(『撃剣叢談』)
  • 十兵衛は刀の鍔に柔らかい赤銅を用いていたので、これでは危険であり兵法者として心得不足ではないかと咎められたところ、自分は鍔に頼った剣など使ったことはない、と答えた(『異説まちまち』)
  • ある時、無頼漢に斬りかかられた際、その男の手の中へ入って左右の髭を捕まえ、顔に唾を吐いたという(『異説まちまち』)
  • 家光の勘気を蒙った理由として、稽古の際、将軍相手にも遠慮せず打ち据えたためだというものがある。
  • 沢庵に、人数を倍々にしながら、この人数を倒せるかと問われて次々と答え、最終的に300人に達したところで「斬り死にするまで戦うのみ」と返したところ、そのような剣は匹夫の剣に過ぎないと喝破され、これをきっかけに沢庵に弟子入りしたという(『柳荒美談』)。また、別の話では、一時、狂気に陥ったことがあり、これを沢庵に治療されたことで、帰依したというものもある。
  • 鉄棒を割った竹で包み、これに漆を塗って固めた「柳生杖」と呼ばれる杖を製作した。またこの杖を使った杖術も考案したという。この杖は現在芳徳寺で公開されている。
  • 再出仕する際、柳生庄に杉を一本植えたといい、この時の杉だとされるものが「十兵衛杉」と呼ばれ、奈良県柳生町に現存している。
  • ある大名に頼まれ、数十人の家臣を相手にして勝った後、別に出てきた剣士(鳥井伝右衛門)の腕前を一目で見抜いたという(『日本武術神妙記』)
  • 腕前においては、「父(宗矩)にも劣らぬ名人」と称された(『撃剣叢談』)
  • 手裏剣術の名人・毛利玄達を相手にした際、37本の手裏剣を全て扇で払い落としたという。
  • 父・宗矩が次男友矩を暗殺したとする説について、宗矩に命じられて友矩を切ったのは十兵衛だとするものがある。
  • 新陰流(柳生新陰流)」とは別に「柳生流」の開祖として扱われることもある。(武術流祖録
  • 隻眼になった際、とっさに無事な方の目を覆って、構えを崩さなかったという逸話がある。
  • 差料のうち大刀は三池典太光世と言われている。

他流派の伝承上の逸話

  • 紀州藩に伝わる西脇流の伝書『新陰流由緒』には、新陰流はもともと先を取って勝つことを第一にしていたが、三厳より「敵の動きを待って、その弱身へ先を取り勝つことを修練し、古流と違いのびのびと和やかに敵の攻撃を受けて勝つ心持」になったとある。
  • 鍋島家に伝わる『御流兵法之由諸』では、三厳は不行跡により父宗矩から勘当されたため、一子相伝の秘事は宗矩から鍋島直能相伝されたとされる。
  • 尾張柳生家に伝わる伝承には謹慎中の三厳が従兄利厳を頼り、その教えを受けて「ぬけ勝ち」「相裁り」「相架け」の三法を完成させて柳生流の基礎を固めたとするものがある[8]。また一刀流の伝書『一刀流三祖伝記』にも、小野忠明と立ち合うも戦わずして負けを悟った三厳が、後日密かに忠明を訪ね教示を受けたとする逸話がある。ただし現存している三厳の著作には尾張柳生家および一刀流についての記述は無い。

著作

『昔飛衛という者あり』
寛永14年(1637年)の作品。巻頭と巻末に中国の古典『列師』の「名人論」を引用して、道を極めた者同士が立ち会った場合の理想的な境地について解説している。新陰流の剣理を「第一段 見(目の付け所)」・「第二段 機(かけひき)」・「第三段 射(心法)」の三点に絞り込んで体系化し、独自の兵法論に構築している。初稿は宗矩より焼き捨てるように命じられた後、沢庵宗彭の加筆を得て完成した。印可論文として書かれ[注 17]、奥付には宗矩直筆の印可状が添えられている。
『月之抄』
書院番として再出仕していた寛永19年(1642年)に完成した作品。三厳の代表作として知られる。当時口伝によって伝えられていくうちに、混同や誤解が生じていた上泉信綱以来の新陰流技法について、流祖信綱・祖父石舟斎・父宗矩三代の目録と口伝にある技法と哲理を総合的に比較し検証する事で学誌的にまとめ上げている。全232項目から成り、格項目は「老父(宗矩)云う」、「沢庵和尚かたり給ふ」のように文中に引用箇所を明記しつつ、三厳による解説が加えられている。三厳自身の手による工夫もいくつかある他、沢庵宗彭の仏教語による注解や、宗矩の高弟である細川忠利木村友重等の工夫も含まれている。また宗矩の言として、疋田流や吉岡流などの他流派について触れた項目もある。
『武藏野』
兵法の師であった宗矩と沢庵が死去した後の慶安2年(1649年)に書かれた作品。題名には「武蔵野に咲く花々のように自分も兵法について書き記したい」という意味が込められている。前半部は『月之抄』同様の口伝・目録の解説書だが、後半部は難解な禅問答のようになっている。

創作上の扱い

  • 潰れた側の眼に眼帯を当てた「隻眼の剣豪」として描かれることが多い[注 18]
  • 「柳生一族最強の剣士」として扱われ、同時代の剣豪や怪物などと戦う作品も多い。
  • 父・宗矩から勘当を受け、廃嫡の身の一浪人であることがある。逆に宗矩から指示を受け、事件解決のために働くという公儀隠密としての立場であることもある。
  • 宗矩との対立関係が描かれることが多い。これは宗矩が史実に於いても将軍家光の側近で、大目付という強い権力を持った「政治家」(それに加え、柳生新陰流(江戸柳生)の宗家にして十兵衛の師)であることから、強権を振るう悪役、または黒幕的な存在として位置づけられることが多いのと共に、その宗矩から謹慎を命じられた十兵衛を、経歴的にも幕政から距離があったことから、剣一筋の武芸者として描くことにより、「権力者とアウトロー」「父と子」「師と弟子」という多重的な対立構造が作りやすいことが一因と思われる。その場合、十兵衛は宗矩を「剣を政治に使う俗物」とし、宗矩もまた「剣しか頭にない愚か者」として、お互いを嫌悪軽蔑する形に描かれることが多い。
  • 逆に、柳生一族として父・宗矩と共に困難に立ち向かうという作品も多数ある。この場合、公儀隠密集団(「裏柳生」[注 19]と呼ばれることも多い)の長、または一員として活躍することが多い。

登場する作品

小説

映画

テレビドラマ

演劇

漫画

ゲーム

脚注

  1. ^ 『玉栄拾遺』には「其余著述尤繁多、枚挙スベカラスト」という記述がある[1]
  2. ^ 三厳の誕生時は三千石の旗本。
  3. ^ この勘気について三厳は自著で「さることありて、若(家光)の御前をしりぞきて」[5]や「故ありて東公(家光)を退き」[4]とだけ述べ、『寛政重修諸家譜』や『玉栄拾遺』でも「ゆえありて[9] [1]とあいまいに表現しており、理由は明確にされていない。ただし父である宗矩に何の咎もおよんでおらず、その後も順調に加増を重ねていることから軽罪であったと見られる[10]
  4. ^ 本文は無題だが、書き出しの一文から『昔飛衛という者あり』または『飛衛』等と呼ばれる。
  5. ^ 三厳の著書では「これ残不やき捨たらんにしくはあらしと也 」[5]や、「一炬に灰となして後来れ、汝をゆるさん」[4]とあり、宗矩自身は『昔飛衛というものあり』の奥書に「一炬焼却去」[4]と記している。
  6. ^ 『昔飛衛という者あり』では「我驚愕して退く。ひとり禅師の所に至てかたるに、禅師の云、老父の言、実に西江水を一口に吸尽して、徹底乾者乎、是乎為汝之印可也といへり。」[4]、『月之抄』序文では「于時沢庵和尚へなけ(歎)きたてまつり、一則の公案を御しめしをうけ、一心得道たらすといへとも、忝くも御筆をくはえられ」[5]とある
  7. ^ 『月之抄』序文に「父かいしんてんしんの、秘術、事理一体、本分之茲味ことことくつきたり」[5]とあり
  8. ^ 印可を与えるに当たって、宗矩は『昔飛衛という者あり』に添えた奥書に「今筆を加えて以て印可して云わく、是車を牽き車を推す、只車の之行くを欲するため也」[4]として、更なる精進を促す事を目的として印可を与えた事を注記している。また、これらの印可を認められるまでの経緯について、三厳は『昔飛衛というものあり』と『月之抄』に書き残し、宗矩も『昔飛衛というものあり』の奥書で簡単に触れている
  9. ^ 友矩が致仕した正確な年月は明らかではないが、三厳が再出仕した翌年に死去している事から、三厳の再出仕は友矩の致仕と関係していると見る向きもある[11]
  10. ^ 宗矩の遺領一万二千五百石のうち、四千石は三弟の宗冬が継いで別に家を立て、二百石は芳徳寺建立の寺領とされ、末弟列堂が初代住侍を務めた。(次弟の友矩は父に先立って死去)[9] [12]
  11. ^ 徳川実紀』及び『玉栄拾遺』[1]より。ただし『寛政重修諸家譜』では柳生で死去したとしている[9]
  12. ^ 酒好きであったことから脳卒中だったとする意見や、著書『武蔵野』内に現代でいう狭心症のような症状があることを記していることから、その発作によるものとする意見がある。
  13. ^ 『好古類纂』(好古社 明治38年)所収の画が肖像画として用いられる事が多い。ただし本当に三厳を描いたものであるかどうかは不明[13]
  14. ^ 出仕後の寛永15年11月15日付の沢庵からの手紙で「久々御随意に在所に御座候間、又立帰御奉仕、小者御苦労におぼしめさるべく召候。御酒さへ不参候はば、万事あいととのうべく候。其段随分御心持専用候」とある
  15. ^ 正保元年3月26日付の沢庵の手紙にて『柳生十兵衛にて、寒き朝、芋酒を先皆々へ興へくれ候て、我々には時儀も無御座候間、「芋酒は芋掘僧にくれもせでつるをたたさぬ人はなんしよよ」と申。又同「いも酒をのめばいもせの中よくてぬかごをうむと云はまことか」と二首をよみ申候へば、大笑い仕り候て、まことかとは御出家の方々は、存無事とよく聞き申候とて、わめき被申候』という一文あり
  16. ^ 寛永12年付の荒木又右衛門の新陰流起請文が藤堂藩士・戸波又兵衛宛であることを考えると、まず創作であろうと思われる。
  17. ^ 『玉栄拾遺』には「家流印可論文を書く」[1]とある
  18. ^ なお、史実に於いて隻眼説が確認できないこともあり、作品によって開いている眼が左右どちらになるか異なることがある
  19. ^ この集団の初出は「子連れ狼」であり、原作者小池一夫自身が、自らによる創作であると発言している

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 史料 柳生新陰流〈上巻〉収録『玉栄拾遺(三)』。該当箇所はp.80-81
  2. ^ 徳川実紀 寛永16年2月
  3. ^ 今村嘉雄1994 p.218、 渡辺誠2012 p.162
  4. ^ a b c d e f 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『昔飛衛というもの有り』
  5. ^ a b c d e 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『月之抄』
  6. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『木村助九郎兵法聞書』
  7. ^ 今村嘉雄1994 p.214
  8. ^ 神戸金七『月の抄と尾張柳生』
  9. ^ a b c 寛政重修諸家譜 p.297
  10. ^ 今村嘉雄1994 p.212
  11. ^ 渡辺誠2012
  12. ^ 徳川実紀 pp.442-443(正保三年五月十八日)
  13. ^ 渡辺誠2012 p.165

参考文献

関連項目

外部リンク

 
 
テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。

 

 

 

「柳生三厳」の書誌情報