日活ロマンポルノ

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表された日活ロマンポルノ - Wikipediaを素材として二次利用しています。

 

 この項目には性的な表現や記述が含まれます。免責事項もお読みください。

 

日活ロマンポルノとは、1971年から1988年にかけて日活(1978年に社名変更し、にっかつ)で製作された成人映画のこと。

1950年代後半、様々な悪条件下で映画製作を再開した日活は多くのヒット映画を送り出し、日本映画の黄金時代を支えた。ところが、1960年代後半から次第に映画の観客数減少や経営者のワンマン体質などで経営難に陥り、映画製作が困難になった。そこで、ダイニチ映配時代の中心作風だった「エロ路線」を前面に押し出し、かつ採算面から低予算で利益が上がるジャンルの作品として、成人映画を主体に変え、「日活ロマンポルノ」が誕生した。当時の関係者の証言によれば、それまでの日活で製作した一般向映画よりも、収録期間や製作費などは半分以下であったという(実際、路線が発足したばかりの頃、社内ではロマンポルノは「小型映画」と仮称されていた[1])。

概略[編集]

1971年当時、日活はワンマン社長であった堀久作社長が電撃退陣し、これと同時に壺田重三常務ら堀の側近も事実上追放し、その放漫経営の後始末に追われていた。国内映画会社各社の映画制作システムもまた急激に衰退を迎えていた時期であり、この年、日活以外でも東宝が専属俳優の解雇を実施し、年末も押し迫った12月末にこの年の夏まで日活と配給を組んでいた大映が破産するという惨状であった。1953年から足掛け18年にわたって続いた五社協定が最終的に崩壊したのもこの1971年のことである。この様な暗黒時代の映画界でとにかく会社を生き残らせ社員を食わせるために、日活はメジャー映画会社の一角でありながらポルノ主体の路線へと舵を切ったのである。その様な厳しい状況下では、日活に籍を置いていたキャリアの浅い若手の映画人たちの多くも退社したところで行き場も無く、本意も不本意も無くロマンポルノに活路を求めて足を踏み入れていくしか選択肢が無い状況であった。

ロマンポルノは1971年11月にスタートし、『団地妻 昼下りの情事』(白川和子主演)と、『色暦大奥秘話』(小川節子主演)が第1作であった。その後、田中真理、宮下順子、原悦子、泉じゅん、東てる美可愛かずみ、美保純、高倉美貴、水原ゆう紀ら多くのスターが生れた。後にピンク映画→ロマンポルノ出身の白川和子と宮下順子らがテレビでも活躍するようになり、芸能界へのステップと考える女優も多くなったという。

興行は通常は3本立て2週間興行の体制を基本とし[2]、2本が自社製作、1本が買付け作品であったが、正月映画およびお盆映画は大作2本立てによるロングラン興行が行われた。上映館は旧ダイニチ映配の崩壊後に日活系として残った旧来の「日活系」が主であり[3]、これには日活の直営館だけでなく、傍系の太陽企業の経営による「日活系」映画館も含まれた。なお日活では、ロマンポルノの発足を機に、成人映画の上映に適した「ミニ劇場」の新設を全国で推進し始めた[4]。

しかし、ロマンポルノには創作上のメリットもあった。予算も限られ短納期の量産体制という厳しい環境ではあったが、後にある映画監督が、「ロマンポルノでは裸さえ出てくればどんなストーリーや演出でも何も言われず自由に制作できた」と語ったように、「10分に1回絡みのシーンを作る」「上映時間は70分程度」「モザイク・ボカシは入らない様に対処する[5] 」[2]など所定のフォーマットだけ確実に抑えておけば、あとは自由な作品作りを任された[2]。キャリアの浅い監督や脚本・演出の担当者にとっては自身の作家性を遺憾なく発揮できる稀少な場であり、結果論ではあるが、日活にとっても斜陽期の邦画界の中にあって崩壊してゆくスタジオシステムを維持し続け、映画会社として若手クリエイターの実践的な育成を手がけるための重要な場となった(とは言え、黒沢清のように、あまりにも無茶をして、配給を断られたという例もある)[6]。

また量産体制の維持の必要からも若手映画人の育成は進められた[2]。1960年代後半から1980年代前半に掛けての若手映画人で、1990年代以降の日本映画界を支えた人物には、初期のキャリアとしてロマンポルノ作品が含まれている人物は別段珍しくもない。たとえば、ロマンポルノ映画ながら強い作家性で高い評価を得る作品を制作した監督には神代辰巳曾根中生田中登などがおり、ロマンポルノから監督としての主要なキャリアを出発させた人物には石井隆、和泉聖治、金子修介崔洋一周防正行相米慎二滝田洋二郎中原俊那須博之根岸吉太郎森田芳光村川透などがいる(ピンク映画や自主映画出身でロマンポルノに招かれた者も含む)[2]。

1970年代においては、日活の黄金期でもほとんど無縁だった時代劇や、同社の1960年代後半の主力路線だった任侠ものも数多く作られている。とはいえ、業績的には決して完全な回復基調に至ったわけではなく、1975年には堀久作から社長の地位を継いでいた息子の堀雅彦が業績不振と労働争議により社長退陣に追い込まれた。ここでようやく日活は堀家の支配から解き放たれたのである[7]。

日活ロマンポルノは、人材・作風などから大蔵映画などのピンク映画とそれなりに関連性があるが、ほぼ別物と言って良い。ロマンポルノは予算がピンク映画に比べて潤沢であり、日活社有のスタジオが利用でき、俳優・監督なども事実上の日活専属が多かった事から、ピンク映画とは大幅にカラーが異なるものであった[8]。また中小のピンク映画会社の女優や監督など、優秀な人材が日活にヘッドハンティングされる事もあり、決して対等・良好な関係とは言えなかった。ただし、1980年代後半以降、諸般の事情からロマンポルノにピンク映画出身の監督が次々に進出するようになり、垣根は取り払われていった。さらに、ロマンポルノ末期には、経費削減のため、ピンク映画を買い取ってロマンポルノとして公開したり、ピンク映画の制作に丸投げで下請けに出すような事も行われたうえ、ロマンポルノ自体も制作費をあまり掛ける事が出来なくなり、一部の大作を除くと、作品の作りや出来自体もあまり差が無くなっていった。

いずれにしても、ロマンポルノ後半期の1980年代において最大のライバルとなったのはアダルトビデオ(AV)である[2]。一般家庭にもVHSビデオデッキが普及し、巷にレンタルビデオ店が大量に出現し、低料金でレンタルできるようになった1980年代後半には、成人映画の劇場に足を運ぶ人は減る一方であった(一方のAV界は1985-1988年頃に大きく売り上げを伸ばし、AV黄金時代と言われた)。1985年以降、ビデオ撮影しフィルムに転写したキネコ作品を「ロマンX」と銘打って公開した(第1作は『箱の中の女』など)。その一方、1980年代前半から元アイドルや旬を過ぎた女優などを起用するソフト路線もあらわれ(これらの多くは2本立て興行となり“エロス大作”と呼ばれた)、こちらはロマンXとは対照的に性描写は極めて薄くなっていった。1980年代後半はこうした二極路線で何とか持ち直すも、映倫が「ロマンX」のハード路線に難色を示し、路線変更を余儀なくされた事から、次第に行き詰まっていく。

1988年4月14日に、にっかつ経営陣は東京プリンスホテルにて記者発表を行い、同年6月をもってロマンポルノの製作を終了すると発表した。第1作の公開から数えて16年半にして「ロマンポルノ」の時代は終焉を迎えたのである。同年5月28日公開の最後の作品は、後藤大輔監督『ベッド・パートナー』及び金澤克次監督『ラブ・ゲームは終わらない』。この2作品とも、両監督のデビュー作となった。なお、これに合わせて7月1日より、にっかつ系映画館を「ロッポニカ」と改名し、「ロッポニカ」レーベルで一般映画の製作・配給を再開する(第1作は神代辰巳監督『噛む女』・小澤啓一監督『メロドラマ』)。同時に、一般映画を上映できない成人映画館に向けて、系列のエクセス・フィルムで成人映画の買付け・配給を行った。しかし、一般映画路線は不入りで半年で打ち切られ、以後多くのロッポニカ館においても、エクセス・フィルム作品を上映する。また、ケーブルテレビ(CATV)のコンテンツ・チャンネルNECOを設立したが、バブル景気に乗じて過剰投資に走りすぎ、バブル崩壊後経営状況は悪化の一途をたどる。

1989年8月3日、にっかつは成人映画路線を別会社「新日本映像株式会社」に委託、「エクセス・フィルム(エクセス・ポルノ)」のレーベル名で新作の製作を開始した。

そして2010年、22年ぶりの復活版企画「ロマンポルノ RETURNS」として、『団地妻 昼下がりの情事』と『後から前から』のリメイク版が上映された。復活版は「女性も見ることができるエロス」として女性客を意識した内容になっている。また、日活とスカパー・ブロードキャスティングの共同出資作品で1作あたりの製作費は1500万円であり、レイトショー上映とスカパー!のパーフェクト・チョイスでの放送を展開した。反響が大きければ、シリーズ化も検討される予定だった。[9]

2012年5月、日活の創立100周年記念企画「生きつづけるロマンポルノ」を開催。蓮實重彦山田宏一山根貞男の3人が選んだ32タイトル(うち22本をニュープリント上映)が一挙上映された[10]。曾根中生監督の未公開作品『白昼の女狩り』も上映した[11]。

男優デビューのきっかけ[編集]
以前からの日活映画出演者、ピンク映画出演者や、知名度のある新劇やアングラ劇団、ピンク映画出身俳優や風間杜夫内藤剛志の様な子役出身俳優などで、大半の配役は従来の出演者、脚本家+監督+プロデューサーなどスタッフの推薦が多かった。

女優デビューのきっかけ[編集]
最初にスターとなった白川和子、橘雪子、宮下順子や、後のスターとなった東てる美、美保純などはピンク映画で人気を得てから引き抜かれて出演するようになった。
また、1980年代中期には、家庭用ビデオデッキの普及により、AVが爆発的に売れ出し、それまでビニール本で活躍していた人気モデルがAV、ピンク映画出演を経て出演する事もあった(滝川真子ほか)。
絵沢萌子、川村真樹、伊佐山ひろ子、風祭ゆき、岡本麗、亜湖などは新劇やアングラ劇団や宝塚歌劇団などで本格的に演劇を学んで舞台に立ってから一般女優として活躍した後、スカウトされデビューした。
片桐夕子は日活俳優養成所出身だが、一般映画とポルノの過渡期にデビューしている。
いわゆる企画物、記念映画に主演した新藤恵美、高田美和、黛ジュン天地真理大信田礼子畑中葉子の様に、かつては実績のある人気スターだったが、人気が落ちた話題作りのために出演する場合。関根恵子はスキャンダルからの復帰作品としてロマンポルノを選び復帰を果たしている。
他にスカウトでグラビアアイドルとしてデビューしたが売れず、事務所の売り込みでデビューした女優、スタッフ推薦などの関係者紹介のスカウトされた女優は、日活俳優養成所でレッスンを受けて出演できるレベルになってからデビューを果たすことが多かった。
すでにグラビアや表現者たちのクチコミで人気を獲得していたヌードモデル。
日活が複数回主催した『日活ロマンポルノ新人女優コンテスト』で入賞してデビューした麻吹淳子の例があるが、優勝者は主演作のみで引退する事が多かった。
原悦子は一般女優(CM、ドラマの端役)からグラビアモデル→ピンク映画→ロマンポルノと上記のほとんどを経験している。

歴史[編集]
1965年 映画『黒い雪』(監督・武智鉄二)がわいせつ容疑で摘発され、裁判沙汰に(黒い雪裁判)。
1969年 黒い雪裁判(2審)で無罪判決。
1971年 8月、日活が映画製作を中断。成人映画に転向し[12]、11月「日活ロマンポルノ」がスタート。
1972年 成人映画4作品(『愛のぬくもり』、『恋の狩人・ラブハンター』、『OL日記・牝猫の匂い』、『女高生芸者』)が警視庁に摘発され、翌年日活ロマンポルノ裁判に発展。
1978年 株式会社日活撮影所、日活児童映画株式会社等7社を分社する。 株式会社にっかつと改称。

1980年 日活ロマンポルノ裁判(2審)で無罪判決。
1988年 「にっかつロマンポルノ」打ち切り。一般映画製作を再開し「ロッポニカ」ブランドでの活動をスタート。
1989年 「ロッポニカ」終了。「エクセスポルノ」として再出発。
2010年 「ロマンポルノ RETURNS」スタート。

よく登場したテーマ[編集]
団地妻
大奥
女教師
女子高生
修道院
四畳半
団鬼六
宇能鴻一郎

主要監督[編集]

西村昭五郎
神代辰巳
藤田敏八
村川透
小沢啓一
根岸吉太郎
森田芳光
相米慎二
金子修介
那須博之
林功
曽根中生
澤田幸弘
田中登
小沼勝
長谷部安春
藤浦敦
黒沢直輔
藤井克彦
児玉高志
白鳥信一
加藤彰
鈴木潤
伊藤秀裕
滝田洋二郎
和泉聖治

主要脚本家[編集]

長谷川和彦
荒木芳久
荒井晴彦
石井隆
桂千穂
斎藤博
大工原正泰
金子修介
吉本昌弘
田中陽造
鹿水晶子
いどあきお
鴨田好史
佐伯俊道
中島丈博
永原秀一
桃井章
伴一彦
松岡清治
那須真知子
佐治乾
大原清秀
宮下教雄
熊谷緑朗
三井優
白鳥あかね
下飯坂菊馬
ガイラ
大和屋竺
山崎忠昭

主要音楽家[編集]
宇崎竜童
奥沢一(奥沢散作)
月見里太一
樋口康雄
眞鍋理一郎
坂田晃一
玉木宏樹(多摩零)
杉太一郎

主要カメラマン[編集]
安藤庄平
森勝
姫田真佐久
萩原憲治
前田米造
米田実

主要男優[編集]

山本昌
蟹江敬三
風間杜夫
山谷初男
内藤剛志
鶴岡修
上田耕一
阿部雅彦
島村謙次
下元史朗
螢雪次朗
粟津號
広瀬昌助
 北見敏之
坂本長利
高橋明
江角英明

主要女優[編集]

白川和子
宮下順子
絵沢萠子
田中真理
片桐夕子
伊佐山ひろ子
中川梨絵
芹明香
小川亜佐美
永島暎子
東てる美
岡本麗
野平ゆき
原悦子
志麻いづみ
麻吹淳子
飛鳥裕
谷ナオミ
五月みどり
山科ゆり
八城夏子
橘雪子
日向明子
亜湖
竹田かほり
三崎奈美
川村真樹
泉じゅん
水原ゆう紀
美保純
風祭ゆき
山本奈津子
小田かおる
奈美悦子
黛ジュン
新藤恵美
前川麻子
天地真理
今陽子
風かおる
高倉美貴
志水季里子
杉原光輪子

脚注[編集]
1.^ 『日活ロマンポルノ異聞―国家を嫉妬させた映画監督・山口清一郎』 鈴木義昭著、社会評論社、70-71頁
2.^ a b c d e f 「生きつづけるロマンポルノ」公式HP トップページ | 日活100周年 | NIKKATSU 100th Anniversary
3.^ ダイニチ映配発足後には、配給網の統合に伴い、その地区にあった大映系と日活系のどちらか一方に封切館が集約され、あぶれた方が旧作やピンク映画の上映で食いつなぐケースが見られた。静岡市にあった「静岡日活」のように、一旦は「静岡日活」の名称のままでOPチェーン(大蔵映画)傘下に入りピンク映画封切館に転身しながら、「並木座」と名を改めた後ダイニチ映配の崩壊とロマンポルノ発足をきっかけに日活系へ復帰したケースもある。
4.^ 『映画年鑑 1973年版』 時事映画通信社、110頁
5.^ 現代のアダルトビデオならモザイクやボカシで済ませてしまうシチュエーションでも、カーテンや机などの小道具の配置や照明効果、カメラワークなど、映像側の創意工夫で巧みに処理することが求められた。
6.^ なお、この映画会社が若手クリエイターに作品創りを事実上一任するという手法は、後年、ポルノ映画・ピンク映画の衰退と共にサブカルチャーの分野に台頭してきたアダルトゲーム業界において、パートナーブランドやホビボックスなどのゲームソフトの元卸を手掛ける企業・販社が、小規模な開発チームに開発資金を供給して自社の傘下に入ることを条件に資金を供給し、ゲームソフトの実制作を手掛けさせるという形で少なからず似たような構図が見られている。
7.^ 堀雅彦はその後1988年5月28日に葛飾区金町のアパートで数日前に孤独死していたのが発見されるという最期を遂げた。ただし堀家自体はその後も新江ノ島水族館の経営者として健在である。
8.^ 当時の日活の俳優部長のコメント。「ウチの作品はピンク映画とは違う。あくまでもポルノ映画です。その証拠に、ちゃんと物語もあるし、制作費も一千万円かけている。四畳半の中で裸を見せるだけのピンクとは違います」(『岐阜日日新聞』 1971年10月28日付夕刊、5面)
9.^ 「夕刊フジ」2010年1月13日芸能欄より
10.^ ロマンポルノ少子化解消!? 辛酸なめ子が女子会で珍説披露! 2012年5月11日 ムービーコレクション
11.^ 生きつづけるロマンポルノユーロスペース
12.^ 製作中断後、一転して映画製作続行を決めた日活が打ち出した当初の会社再建案では、「少数大作主義」というものが柱となっていた。これは年間6本の「大作」の製作・公開を目指すもので、この計画に後になって、「年間3本の児童劇映画」そして「月間4本の成人映画」の製作計画が、後付けのような形で加えられている。
 再建案のうちの「大作」については、下記の通り製作予定の作品も発表されており、これらの作品をロードショー形式で公開するのが当初の計画となっていた(下記予定作題名横の人名は、予定されていた監督)。 「戦争と人間・第三部」(山本薩夫
「ええじゃないかええじゃないか、江戸から東京へ」(今村昌平
「なぜ」(蔵原惟繕
復活の日
「アラスカ戦線」
青春の門」(浦山桐郎
ゾルゲ事件」(山本薩夫、日本・ソビエト連邦合作を予定)
「地底の歌」(日活労組が企画)
ただしこれらの予定作品は、計画発表の時点で、撮影や公開のスケジュールが全く決まっていない状態であり、結局、上記の予定のうち日の目を見たのは「戦争と人間・第三部」ぐらいであった(実際には「完結編」として製作された)。
そんな再建案の中で逸早く着手したのが、成人映画の撮影だったが、これは当時でも約1,000人は居た撮影所のスタッフを遊ばせるわけにいかないという事情もあったとされる。
 (以上参照 『岐阜日日新聞』 1971年10月23日付夕刊5面・同年10月28日付夕刊5面、『中日スポーツ』 1971年10月2日付11面)
なお、結果的にロマンポルノ路線に特化する形になった日活(にっかつ)だが、その後も年に数回のペースで、「嗚呼!!花の応援団」「野球狂の詩」など主に青年向けの一般映画を製作し、春休みや正月などに公開していた。

関連書籍[編集]
『愛の寓話vol.1 日活ロマン、“撮影所システム”最後の光芒』 内田達夫編、東京学参。
『愛の寓話vol.2 日活ロマン、映画と時代を拓いた恋人たち』 内田達夫編、東京学参。
ロマンポルノと実録やくざ映画 禁じられた70年代日本映画』 樋口尚文著、平凡社新書

カテゴリ: 日活
日活ロマンポルノ
1970年代の映画

 

「日活ロマンポルノ」の書誌情報