源氏物語

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源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説である。文献初出は長保3年(1001年)で、このころには相当な部分までが成立していたと思われる。

題名
古写本は題名の記されていないものも多く、記されている場合であっても内容はさまざまである。
源氏物語』の場合は冊子の標題として「源氏物語」ないしそれに相当する物語全体の標題が記されている場合よりも、それぞれの帖名が記されていることが少なくない。
こうした経緯から、現在において一般に『源氏物語』と呼ばれているこの物語が書かれた当時の題名が何であったのかは明らかではない。古い時代の写本や注釈書などの文献に記されている名称は大きく以下の系統に分かれる。

「源氏の物語」、「光源氏の物語」、「光る源氏の物語」、「光源氏」、「源氏」、「源氏の君」などとする系統。
「紫の物語」、「紫のゆかり」、「紫のゆかりの物語」などとする系統。

これらはいずれも源氏(光源氏)または紫の上という主人公の名前をそのまま物語の題名としたものであり、物語の固有の名称であるとはいいがたい。
また、執筆時に著者が命名していたならば、このようにさまざまな題名が生まれるとは考えにくいため、これらは作者によるものではない可能性が高いと考えられている。

紫式部日記』、『更級日記』、『水鏡』などこの物語の成立時期に近い主要な文献に「源氏の物語」とあることなどから、物語の成立当初からこの名前で呼ばれていたと考えられているが、作者の一般的な通称である「紫式部」が『源氏物語』(=『紫の物語』)の作者であることに由来するならば、そのもとになった「紫の物語」や「紫のゆかりの物語」という名称はかなり早い時期から存在したとみられ、「源氏」を表題に掲げた題名よりも古いとする見解もある。

「紫の物語」といった呼び方をする場合には現在の源氏物語54帖全体を指しているのではなく、「若紫」を始めとする紫の上が登場する巻々(いわゆる「紫の上物語」)のみを指しているとする説もある。

『河海抄』などの古伝承には「源氏の物語」と呼ばれる物語が複数存在し、その中で最も優れているのが「光源氏の物語」であるとするものがある。
しかし現在、「源氏物語」と呼ばれている物語以外の「源氏の物語」の存在を確認することはできないため、池田亀鑑などはこの伝承を「とりあげるに足りない奇怪な説」に過ぎないとして事実ではないとしているが、和辻哲郎は、「現在の源氏物語には読者が現在知られていない光源氏についての何らかの周知の物語が存在することを前提として初めて理解できる部分が存在する」として、「これはいきなり斥くべき説ではなかろうと思う」と述べている。

このほかに、「源語(げんご)」、「紫文(しぶん)」、「紫史(しし)」などという漢語風の名称で呼ばれていることもあるが、これらは漢籍の影響を受けたものであり、それほど古いものはないと考えられている。池田によれば、その使用は江戸時代をさかのぼらないとされる。

 

概要
紫式部(詳細は作者を参照)の著した、通常54帖(詳細は巻数を参照)よりなるとされる写本・版本により多少の違いはあるものの、おおむね100万文字・22万文節400字詰め原稿用紙で約2400枚に及ぶおよそ300名余りの人物が登場し70年余りの出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。

ただし、度々喧伝されている「世界最古の長篇小説」という評価は、近年でも2008年(平成20年)の源氏物語千年紀委員会の「源氏物語千年紀事業の基本理念」でも、源氏物語を「世界最古の長編小説」と位置づけするなどしているが、王朝文学に詳しい作家中村真一郎による、(古代ラテン文学の)アプレイウスの『黄金のロバ』や、ペトロニウスの『サチュリコン』に続く「古代世界最後の(そして最高の)長篇小説」とする知見や、島内景二のように日本国内にも「竹取物語」や「うつほ物語」などがあるから最古とは認定出来ないという意見もあり、学者たちの間でも見解が異なる。20世紀に入り、英訳、仏訳などで欧米社会にも紹介され、『失われた時を求めて』など、20世紀文学との類似から高く評価されるようになった。

母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生を描く。通説とされる三部構成説に基づくと、各部のメインテーマは以下とされ、長篇恋愛小説としてすきのない首尾を整えている。

第一部:光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生
第二部:愛情生活の破綻による無常を覚り、やがて出家を志すその後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様
第三部:源氏没後の子孫たちの恋と人生

平安時代の日本文学史においても、『源氏』以前以降に書かれたかによって、物語文学は「前期物語」と「後期物語」とに区分され、あるいはこの『源氏』のみを「前期物語」及び「後期物語」と並べて「中期物語」として区分する見解もある。
後続して成立した王朝物語の大半は、『源氏』の影響を受けており、後世しばらくは『狭衣物語』と並べ、「源氏、狭衣」を二大物語と称した。後者はその人物設定や筋立てに多くの類似点が見受けられる。
『源氏』は、文学に限らず、絵巻物(『源氏物語絵巻』他)・香道など、他分野の文化にも多大な影響を与えた。

 

巻について
各帖の名前

 1 桐壺 きりつぼ 源氏誕生-12歳 a系
 2 帚木 ははきぎ 源氏17歳夏 b系
 3 空蝉 うつせみ 源氏17歳夏 帚木の並びの巻、b系
 4 夕顔 ゆうがお 源氏17歳秋-冬 帚木の並びの巻、b系
 5 若紫 わかむらさき 源氏18歳 a系
 6 末摘花 すえつむはな 源氏18歳春-19歳春 若紫の並びの巻、b系
 7 紅葉賀 もみじのが 源氏18歳秋-19歳秋 a系
 8 花宴 はなのえん 源氏20歳春 a系
 9 葵 あおい 源氏22歳-23歳春 a系
10 賢木 さかき 源氏23歳秋-25歳夏 a系
11 花散里 はなちるさと 源氏25歳夏 a系
12 須磨 すま 源氏26歳春-27歳春 a系
13 明石 あかし 源氏27歳春-28歳秋 a系
14 澪標 みおつくし 源氏28歳冬-29歳 a系
15 蓬生 よもぎう 源氏28歳-29歳 澪標の並びの巻、b系
16 関屋 せきや 源氏29歳秋 澪標の並びの巻、b系
17 絵合 えあわせ 源氏31歳春 a系
18 松風 まつかぜ 源氏31歳秋 a系
19 薄雲 うすぐも 源氏31歳冬-32歳秋 a系
20 朝顔(槿) あさがお 源氏32歳秋-冬 a系
21 少女 おとめ 源氏33歳-35歳 a系
22 玉鬘 たまかずら 源氏35歳 以下玉鬘十帖、b系
23 初音 はつね 源氏36歳正月 玉鬘の並びの巻、b系
24 胡蝶 こちょう 源氏36歳春-夏 玉鬘の並びの巻、b系
25 蛍 ほたる 源氏36歳夏 玉鬘の並びの巻、b系
26 常夏 とこなつ 源氏36歳夏 玉鬘の並びの巻、b系
27 篝火 かがりび 源氏36歳秋 玉鬘の並びの巻、b系
28 野分 のわき 源氏36歳秋 玉鬘の並びの巻、b系
29 行幸 みゆき 源氏36歳冬-37歳春 玉鬘の並びの巻、b系
30 藤袴 ふじばかま 源氏37歳秋 玉鬘の並びの巻、b系
31 真木柱 まきばしら 源氏37歳冬-38歳冬 以上玉鬘十帖、玉鬘の並びの巻、b系
32 梅枝 うめがえ 源氏39歳春 a系
33 藤裏葉 ふじのうらば 源氏39歳春-冬 a系、以上第一部
34 34 若菜 上 わかな -じょう 源氏39歳冬-41歳春  
35 下 -げ 源氏41歳春-47歳冬 若菜上の並びの巻
35 36 柏木 かしわぎ 源氏48歳正月-秋  
36 37 横笛 よこぶえ 源氏49歳  
37 38 鈴虫 すずむし 源氏50歳夏-秋 横笛の並びの巻
38 39 夕霧 ゆうぎり 源氏50歳秋-冬  
39 40 御法 みのり 源氏51歳  
40 41 幻 まぼろし 源氏52歳の一年間  
41 - 雲隠 くもがくれ - 本文なし。光源氏の死を暗示。以上第二部
42 匂宮
 匂兵部卿 におう(の)みや
 におうひょうぶきょう 薫14歳-20歳  
43 紅梅 こうばい 薫24歳春 匂宮の並びの巻
44 竹河 たけかわ 薫14,5歳-23歳 匂宮の並びの巻
45 橋姫 はしひめ 薫20歳-22歳 以下宇治十帖
46 椎本 しいがもと 薫23歳春-24歳夏  
47 総角 あげまき 薫24歳秋-冬  
48 早蕨 さわらび 薫25歳春  
49 宿木 やどりぎ 薫25歳春-26歳夏  
50 東屋 あずまや 薫26歳秋  
51 浮舟 うきふね 薫27歳春  
52 蜻蛉 かげろう 薫27歳  
53 手習 てならい 薫27歳-28歳夏  
54 夢浮橋 ゆめのうきはし 薫28歳 以上宇治十帖。以上第三部

以上の54帖の現在伝わる巻名は、紫式部自身がつけたとする説と後世の人々がつけたとする説が存在する。
作者自身が付けたのかどうかについて、直接肯定ないし否定する証拠はみつかっていない。現在伝わる巻名にはさまざまな異名や異表記が存在し、もし作者が定めた巻名があるのならこのように多様な呼び方は生じないので、現在伝わる巻名は後世になって付けられたものであろうと考えられる。
しかし一方で、本文中(手習の巻)に現れる「夕霧」(より正確には「夕霧の御息所」)という表記が、「夕霧」という巻名に基づくとみられるとする理由により、少なくとも夕霧を初めとするいくつかの巻名は作者自身が名付けたものであろうとする見解もある。

源氏物語の巻名は、後世になって、巻名歌の題材にされたり、源氏香や投扇興の点数などに使われたり、女官や遊女が好んで名乗ったりした(源氏名)。

 

作者は誰か
通説

一条天皇中宮・藤原彰子藤原道長の長女)に女房として仕えた紫式部が作者というのが通説である。物語中に「作者名」は書かれていないが、以下の文から作者は紫式部だろうと言われている。
紫式部日記』(写本の題名は全て『紫日記』)中に自作の根拠とされる次の3つの記述 藤原公任の 源氏の物語の若紫 という呼びかけ。
一条天皇の「源氏の物語の作者は日本紀をよく読んでいる」という述懐により日本紀の御局と呼ばれたこと。
藤原道長が源氏の物語の前で好色の歌を日記作者に詠んだこと。


紫式部ひとりが書いたとする説の中にも以下の考え方がある。
短期間に一気に書き上げられたとする考え方
長期間にわたって書き継がれてきたとする考え方。この場合はその間の紫式部の環境の変化(結婚、出産、夫との死別、出仕など)が作品に反映しているとするものが多い。


一部別作者説

源氏物語』の大部分が紫式部の作品であるとしても、一部に別人の手が加わっているのではないかとする説は古くから存在する。

古注の一条兼良の『花鳥余情』に引用された『宇治大納言物語』には、『源氏物語』は紫式部の父である藤原為時が大筋を書き、娘の紫式部に細かいところを書かせたとする伝承が記録されている。

『河海抄』には藤原行成が書いた『源氏物語』の写本に藤原道長が書き加えたとする伝承が記録されている。
一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などには宇治十帖が紫式部の作ではなくその娘である大弐三位の作であるとする伝承が記録されている。

これらの伝承に何らかの事実の反映を見る説も多いものの、池田亀鑑はこれらの親子で書き継いだとする説は、『漢書』について前半を班彪が書き、残りを子の班固が書き上げたという故事にちなんだもので、事実とは何の関係もないとの見解を示している。

近代に入ってからも、さまざまな形で「源氏物語の一部分は紫式部の作ではない」とする説が唱えられてきた。

与謝野晶子は筆致の違いなどから「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした。 和辻哲郎は、「大部分の作者である紫式部と誰かの加筆」といった形ではなく、「一つの流派を想定するべきではないか」としている。

第二次世界大戦後になって、登場人物の官位の矛盾などから、武田宗俊らによる「竹河」の巻別作者説といったものも現れた。

これらのさまざまな別作者論に対して、ジェンダー論の立場から、『源氏物語』は紫式部ひとりで全て書き上げたのではなく別人の手が加わっているとする考え方は、すべて「紫式部ひとりであれほどのものを書き上げられたはずはない」とする女性蔑視の考え方に基づくものであるとするとして、「ジェンダーの立場から激しく糾弾されなければならない」とする見解も出現した。

阿部秋生は、
伊勢物語』、『竹取物語』、『平中物語』、『うつほ物語』、『落窪物語』、『住吉物語
など当時存在した多くの物語の加筆状況を調べた上で、
『そもそも、当時の「物語」はひとりの作者が作り上げたものがそのまま後世に伝えられるというのはむしろ例外であり、ほとんどの場合は別人の手が加わった形のものが伝えられており、何らかの形で別人の手が加わって後世に伝わっていくのが物語のとって当たり前の姿である』として、「源氏物語だけがそうでないとする根拠は存在しない」との見解を示した。

 

執筆時期
源氏物語紫式部によって「いつ頃」、「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについて、いつ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのかといった、その全体を直接明らかにするような史料は存在しない。

紫式部日記には、寛弘5年(1008年)に源氏物語と思われる物語の冊子作りが行われたとの記述があり、その頃には源氏物語のそれなりの部分が完成していたと考えられる。
安藤為章は、『紫家七論』(元禄16年(1703年)成立)において、「源氏物語紫式部寡婦となってから出仕するまでの3、4年の間に大部分が書き上げられた」とする見解を示したが、これはさまざまな状況と符合することもあって有力な説になった。

しかし、その後、これほどに長い物語を書き上げるためには当然長い期間が必要であると考えられるだけでなく、前半部分の諸巻と後半部分の諸巻との間に明らかな筆致の違いが存在することを考えると、執筆期間はある程度の長期にわたると考えるべきであるとする説や、結婚前、父に従って越前国に赴いていた時期に書き始められたとする説や作中の出来事が当時の実際に起きたさまざまな事実を反映しており最終的な完成時期をかなり引き下げる説も唱えられるようになってきた。

一方で、必ずしも長編の物語であるから長い執筆期間が必要であるとはいえず、数百人にも及ぶ登場人物が織りなす長編物語が矛盾無く描かれているのは短期間に一気に書き上げられたからであると考えるべきであるとする説もある。

 

執筆動機
なぜ、紫式部はこれほどの長編を書き上げるに至ったのかという点についても、直接明らかにした資料は存在せず、古くからさまざまに論じられている。古注には、
村上天皇の皇女選子内親王から新しい物語を所望されて書き始めたとする『無名草子』に記されている説
藤原氏により左遷された源高明の鎮魂のために藤原氏一族である紫式部に書かせたという『河海抄』に記されている説

などがある。近代以降にも、
作家としての文才や創作意欲を満たすため
寡婦としての寂しさや無聊を慰めるため
式部の父がその文才で官位を得たように式部が女房になるため

といったさまざまな説が唱えられている。

 

並びの巻
源氏物語』には並びの巻と呼ばれる巻が存在する。『源氏物語』は鎌倉時代以前には「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられていた。

並びがあるものは、他に、『うつほ物語』、『浜松中納言物語』がある。このことに対して、「奥入」と鎌倉時代の文献『弘安源氏論議』において、その理由が不審である旨が記されている。帖によっては登場人物に差異があり、話のつながりに違和感を覚える箇所があるため、ある一定の帖を抜き取ると話がつながるという説がある。

その説によれば、紫式部が作ったのが37巻の部分で、残りの部分は後世に仏教色を強めるため、読者の嗜好の変化に合わせるために書き加えられたものだとしている。

 

主要テーマ(主題)の諸説

源氏物語の主題が何であるのか」については古くからさまざまに論じられてきたが、『源氏物語』全体を一言でいい表すような「主題」については、「もののあはれ」論がその位置に最も近いとはいえるものの、未だに広く承認された決定的な見解は存在しない。

古注釈の時代には「天台60巻になぞらえた」とか「一心三観の理を述べた」といった仏教的観点から説明を試みたものや、『春秋』、『荘子』、『史記』といったさまざまな中国の古典籍に由来を求めた儒教的、道教的な説明も多くあり、当時としては主流にある見解といえた。

源氏物語』自体の中に儒教や仏教の思想が影響していることは事実としても、当時の解釈はそれらを教化の手段として用いるためという傾向が強く、物語そのものから出た解釈とはいいがたいこともあって、後述の「もののあはれ」論の登場以後は衰えることになった。

これに対し、本居宣長は、『源氏物語玉の小櫛』 において、『源氏物語』を「外来の理論」である儒教や仏教に頼って解釈するべきではなく、『源氏物語』そのものから導き出されるべきであるとし、その成果として、「もののあはれ」論を主張した。
この理論は源氏物語全体を一言でいい表すような「主題」として最も広く受け入れられることになった。その後、明治時代に入ってから藤岡作太郎による「源氏物語の本旨は夫人の評論にある」といった理論が現れた。

明治時代以後、坪内逍遥によって『小説神髄』が著されるなどして西洋の文学理論が導入されるに伴い、さまざまな試みがなされ、中には、部分的にはそれなりの成果を上げたものもあったものの、
そもそも、『源氏物語』に西洋の文学理論でいうところの「テーマ」が存在するのか。
源氏物語』に対して西洋の文学理論を適用すること、およびそれに基づく分析手法を用いた結果導き出された「テーマ」に意味があるのか

といった前提が問い直されていることも多く、それぞれがそれぞれの関心に基づいて論じているという状況であり、『源氏物語』全体を一言で表すような主題を求める努力は続けられており、
三谷邦明による反万世一系論や、鈴木日出男による源氏物語虚構論などのような一定の評価を受けた業績も現れてはいるものの、一方で、『源氏物語』には西洋の文学理論でいうところの「テーマ」は存在しないとする見解も存在するなど広く合意された結論が出たとはいえない状況である。

源氏物語』の、それぞれの部分についての研究がより精緻になるにしたがって、『源氏物語』全体に一貫した主題をみつけることは困難になり、「読者それぞれに主題と考えるものが存在することになる」という状況になる。


藤原氏と源氏

源氏物語』は、なぜ藤原氏全盛の時代に、かつて藤原一族が安和の変で失脚させた源氏を主人公にし、源氏が恋愛に常に勝ち、源氏の帝位継承をテーマとして描いたのか。
初めてこの問いかけを行った藤岡作太郎は、「源氏物語の本旨は、夫人の評論にある」とした論の中で、政治向きに無知・無関心な女性だからこそこのような反藤原氏的な作品を書くことができたし、周囲からもそのことを問題にはされなかったのだとしたが、逆に池田亀鑑は、藤原氏の全盛時代という現実世界の中で生きながらも高邁な精神を持ち続けた作者紫式部が理想を追い求めた世界観の表れがこの『源氏物語』という作品であるとしている。

 

登場人物
源氏物語』の登場人物は膨大な数に上るため、ここでは主要な人物のみを挙げる。

源氏物語』の登場人物の中で本名が明らかなのは光源氏の家来である藤原惟光と源良清くらいであり、光源氏をはじめとして大部分の登場人物は「呼び名」しか明らかではない。
また、『源氏物語』の登場人物の表記には、もともと作中に出てくるものと、直接作中には出てこず、『源氏物語』が受容されていく中で生まれてきた呼び名のふた通りが存在する。

作中での人物表記は当時の実際の社会の習慣に沿ったものであるとみられ、人物をその官職や居住地などのゆかりのある場所の名前で呼んだり、「一の宮」や「三の女宮」あるいは「大君」や「小」君といった一般的な尊称や敬称で呼んだりしていることが多いため、状況から誰のことを指しているのか判断しなければならない場合も多いだけでなく、同じひとりの人物が巻によって、場合によっては一つの巻の中でも様々な異なる呼び方をされることがあり、逆に、同じ表現で表される人物が出てくる場所によって別の人物を指していることも数多くあることには注意を必要とする。

光源氏
第1部・第2部の主人公。
帝と桐壺更衣の子で桐壺帝第二皇子。臣籍降下して源姓を賜る。

いったん須磨に蟄居するが、のち復帰し、さらに准太上天皇に上げられ、六条院と称せられる。原文では「君」「院」と呼ばれる。
妻は葵の上、女三宮、事実上の正妻に紫の上。子は、夕霧(母は葵の上)、冷泉帝(母は藤壺中宮、表向きは桐壺帝の子)、明石中宮(今上帝の中宮。母は明石の御方)。
ほか養女に秋好中宮(梅壺の女御)(六条御息所の子)と玉鬘(内大臣と夕顔の子)、表向き子とされる薫(柏木と女三宮の子)がいる。
桐壺帝光源氏の父。子に源氏のほか、朱雀帝(のち朱雀院)、蛍兵部卿宮、八の宮などが作中に出る。末子とされる冷泉帝は、桐壺帝の実子でなく、源氏の子。

桐壺更衣
桐壺帝の更衣。
父は大納言であったが、入内前に他界。寵愛は深かったが、弘徽殿女御を始めとする后妃たちからのいじめに遭い、心労の末、源氏が3歳のとき夭逝する。没後、三位の位を賜る。

藤壺
中宮桐壺帝の先帝の内親王。桐壺更衣に瓜二つであり、そのため更衣の死後後宮に上げられる。
源氏と密通して冷泉帝を産む。

葵の上。
左大臣の娘で、源氏の最初の正妻。源氏より年上。母大宮は桐壺帝の姉妹であり、源氏とは従兄妹同士となる。夫婦仲は長らくうまくいかなかったが、懐妊し、夕霧を生む。
六条御息所との車争いにより怨まれ、生霊によって取り殺される。

頭中将
内大臣左大臣の子で、葵の上の同腹の兄。源氏の友人でありライバル。
恋愛・昇進等で常に源氏に先んじられる。子に柏木、雲居雁(夕霧夫人)、弘徽殿女御(冷泉帝の女御)、玉鬘(夕顔の子、髭黒大将夫人)、近江の君など。主要登場人物で唯一一貫した呼び名のない人物。

六条御息所
桐壺帝の前東宮(桐壺帝の兄)の御息所。源氏の愛人。源氏への愛着が深く、その冷淡を怨んで、葵の上を取り殺すに至る。前東宮との間の娘は伊勢斎宮、のちに源氏の養女となって冷泉帝の後宮に入り、秋好中宮となる。源氏は御息所の死後、その屋敷を改築し壮大な邸宅を築いた(六条院の名はここから)。

紫の上。
藤壺中宮の姪、兵部卿宮の娘。幼少の頃、源氏に見出されて養育され、葵の上亡き後、事実上の正妻となる。源氏との間に子がなく、明石中宮を養女とする。晩年は女三宮の降嫁により、源氏とやや疎遠になり、無常を感じる。

明石の御方。
明石の入道と明石尼君の娘。源氏が不遇時にその愛人となり、明石中宮を生む。不本意ながら娘を紫の上の養女とするが、入内後再び対面し、以後その後見となる。

末摘花常陸宮の娘。
大輔の命婦の手引きで源氏の愛人となるが、酷く痩せていて鼻が象の様に長く、鼻先が赤い醜女。作品中最も醜く描かれている。

空蝉。
故・衛門督の娘。亡き父が入内を望んでいたが、父の死でその夢は絶たれる。
後に夫となる伊予介(後に常陸介)から何かと任国からの食料を送られるなどの援助を受けながら弟・小君とひっそり暮らしていたが、自邸に盗賊が押し入り、伊予介が助けに入った事がきっかけで、結婚。小君とともに、伊予介の屋敷で暮らすことに。
方違えで訪れた源氏と一夜を共にするが、自分が人妻であることを考え、源氏を遠ざける。関屋では、逢坂関にて源氏の一行とすれ違い、文を交わす場面がある。その後、常陸介に先立たれ出家。後に二条東院に引き取られて源氏の庇護を受ける。

女三の宮。
朱雀院の第三皇女で、源氏の姪にあたる。藤壺中宮の姪であり、朱雀院の希望もあり源氏の晩年、二番目の正妻となる。柔弱な性格。柏木と通じ、薫を生む。

柏木。
内大臣の長男。女三宮を望んだが果たせず、降嫁後六条院で女三宮と通じる。のち露見して、源氏の怒りをかい、それを気に病んで病死する。

夕霧。
源氏の長男。母は葵の上。母の死後しばらくその実家で養育されたのち、源氏の六条院に引き取られて花散里に養育される。2歳年上の従姉である内大臣の娘雲居雁と幼少の頃恋をし、のち夫人とする。柏木の死後、その遺妻朱雀院の女二宮(落葉の宮)に恋をし、強いて妻とする。

薫。
第3部の主人公。源氏(真実には柏木)と女三宮の子。
生まれつき身体からよい薫がするため、そうあだ名される。宇治の八の宮の長女大君、その死後は妹中君や浮舟を相手に恋愛遍歴を重ねる。

匂宮。
今上帝と明石中宮の子。第三皇子という立場から、放埓な生活を送る。
薫に対抗心を燃やし、焚き物に凝ったため匂宮と呼ばれる。宇治の八の宮の中君を、周囲の反対をおしきり妻にするがその異母妹浮舟にも関心を示し、薫の執心を知りながら奪う。

浮舟。
八の宮が女房に生ませた娘。母が結婚し、養父とともに下った常陸で育つ。薫と匂宮の板ばさみになり、苦悩して入水するが横川の僧都に助けられる。その後、出家した。

 

現代語訳
元来『源氏物語』は作者紫式部と、同時代の同じ環境を共有する読者のために、執筆されたと推察されており、加えて作者と直接の面識がある人間を読者として想定していたとする見解もある。

書かれた当時の『源氏物語』は、周囲からは「面白い読み物」として受け取られており、少し経た時代でも、当時12歳だった菅原孝標女が、特に誰の指導を受けるということもなく1人で読みふけっていたとされている。時代を経て物語で用いる言葉遣いも、前提とする知識・常識も変化してゆく事で、気軽に『源氏物語』を読むことは困難になっていった。

同時期の文学である『枕草子』『土佐日記』などは、簡単な注釈さえあれば現代日本人が読むことがさほど難しくないのに対し、『源氏』の原文を読むことは現代日本人にとってもかなり難しい。他の王朝文学と比べても語彙は格段に豊富、内容は長く複雑で、専門的な講習を受けないと『源氏』の原文を理解するのは困難である。
現代では、現代語訳で親しんでいる人のほうが多いといえる。数ある古典日本文学の中で、多様な性格を持つその内容ゆえに、最も多く現代語訳が試みられており、訳者に作家が多いのも特徴である。これらは、訳者の名前から、「与謝野源氏」、「谷崎源氏」といった風に、「○○源氏」と呼ばれている。

 

影響・受容史 
中古期における『源氏物語』の影響は2期に大別することができる。第1期は院政期初頭まで、第2期は院政期歌壇の成立から新古今集撰進までである。

第1期においては、『源氏物語』は上流下流を問わず貴族社会で面白い小説として広く読まれた。
当時の一般的な上流貴族の姫君の夢は後宮に入り帝の寵愛を受け皇后の位に上ることであったが、『源氏物語』は帝直系の源氏の者を主人公にし、彼の住まいを擬似後宮にしたて女君たちを分け隔てなく寵愛するという内容で彼女たちを満足させ、あるいは、人間の心理や恋愛、美意識に対する深い観察や情趣を書き込んだ作品として貴族たちにもてはやされたのである。
この間の事情は菅原孝標女の『更級日記』に詳しい。

優れた作品が存在し、それを好む多くの読者が存在する以上、『源氏物語』の享受はそのままこれに続く小説作品の成立という側面を持った。
中古中期における『源氏』受容史の最大の特徴は、それが『源氏』の文体、世界、物語構造を受継ぐ諸種の作品の出現をうながしたところにあるといえるだろう。
11世紀より12世紀にかけて成立した数々の物語は、その丁寧な叙述と心理描写の巧みさ、話の波乱万丈ぶりよりも決め細やかな描写と叙情性や風雅を追求しようとする性向において、明らかに『うつほ物語』以前の系譜を断ち切り、『源氏物語』に拠っている。
それがあまりに過度でありすぎるために源氏亜流物語という名称さえあるほどだが、例えば、『浜松中納言物語』、『狭衣物語』、『夜半の寝覚』などは『源氏』を受継いで独特の世界を作り上げており、王朝物語の達しえた成熟として高く評価するに足るであろう。

平安末期には既に古典化しており、『六百番歌合』で藤原俊成をして「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」といわしめた源語は歌人や貴族のたしなみとなっており、室町時代の注釈書『花鳥余情』では「我が国の至宝は源氏の物語のすぎたるはなし」と位置づけられるまでになっている。
このころには言語や文化の変化や流れに従い原典をそのまま読むことも困難になってきたため、原典に引歌や故事の考証や難語の解説を書き添える注釈書が生まれた。

一方、仏教が浸透していく中で、「色恋沙汰の絵空事を著し多くの人を惑わした紫式部は地獄に堕ちたに違いない」という考えが生まれ、「源氏供養」と称した紫式部の霊を救済する儀式がたびたび行われた。後に小野篁伝説と結びつけられた。

江戸時代に入ると、版本による源氏物語の刊行が始まり、裕福な庶民にまで『源氏物語』が広く普及することになった。
江戸時代後期には、当時の中国文学の流行に逆らう形で、設定を室町時代に置き換えた通俗小説ともいうべき『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦著)が書き起こされ、「源氏絵」(浮世絵の一ジャンル)が数多く作られたり歌舞伎化されるなど世に一大ブームを起こしたが、天保の改革であえなく断絶した。

明治以後多くの現代語訳の試みがなされ、与謝野晶子谷崎潤一郎の訳本が何度か出版されたが、昭和初期から「皇室を著しく侮辱する内容がある」との理由で、光源氏藤壺女御の逢瀬などを二次創作物に書き留めたり上演したりすることなどを政府から厳しく禁じられたこともあり、訳本の執筆にも少なからず制限がかけられていた。

第二次世界大戦後はその制限もなくなり、円地文子田辺聖子瀬戸内寂聴などの訳本が出版されている。
原典に忠実な翻訳以外に、橋本治の『窯変源氏物語』に見られる大胆な解釈を施した意訳小説や、大和和紀の漫画『あさきゆめみし』や小泉吉宏の漫画『まろ、ん』を代表とした漫画作品化などの試みもなされている。

現代では冗談半分で、『源氏物語』と純愛もののアダルトゲームやハーレムアニメとのストーリーの類似性が指摘されることがあるが、「『源氏物語』は猥書であり、子供に読ませてはならない」という論旨の文章は既に室町時代や江戸時代に存在している。

源氏物語』は諸外国にも少なからず影響を与えている。マルグリット・ユルスナールは『源氏物語』の人間性の描写を高く評価し、短編の続編を書いた。

2008年には、京都府京都市などが中心となって、『源氏物語千年紀』の形で、11月を中心に各種イベントが開催され、今上天皇・皇后も臨席した。多数の講演・シンポジウムが催され、瀬戸内寂聴、佐野みどり、ドナルド・キーン平川祐弘らが参加した。
  

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