名誉の殺人

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名誉殺人(めいよさつじん、英:honor killing)とは、女性の婚前・婚外交渉(強姦の被害による処女の喪失も含む)を女性本人のみならず「家族全員の名誉を汚す」ものと見なし、この行為を行った女性の父親や男兄弟が家族の名誉を守るために女性を殺害する風習のことである。イスラーム文化圏では同性愛者も対象となる。

 

概要[編集]

国際連合人権高等弁務官事務所の2010年の調査によると、名誉の殺人によって殺害される被害者は世界中で年間5000人にのぼるとされる[1]。

アムネスティ・インターナショナルは名誉殺人が行われている国および地域として、バングラデシュ、トルコ、ヨルダン、パキスタンウガンダ、モロッコ、アフガニスタン、イエメン、レバノン、エジプト、ヨルダン川西岸ガザ地区イスラエル、インド、エクアドル、ブラジル、イタリア、スウェーデン、イギリスを挙げている。
名誉殺人は、主に中東のイスラーム文化圏を中心に行われているため、イスラーム教と関連した風習と見なされることが多い。しかし、イスラーム教徒以外の間でも行われており、実際はイスラーム教とは無関係であり、専ら地域の因習によるものであるとされる(下記参照)。

名誉の殺人は特に、パキスタンで多く発生しているとされる。これは、パキスタン中央政府の統制力が弱く、地方においてはその土地の部族の力が伝統的に強いため、部族の慣習法が国の法律に先立つ状態となっているためである。
実際にパキスタン憲法では、連邦直轄部族地域について、パキスタン連邦議会および州議会の立法権限が及ばない地域であると明記しており、現地の部族勢力にかなりの裁量が許される状態にある[2]。また、中東圏出身の移民によって、ヨーロッパなどでも行われることがある。

パキスタンでは、2011年に900人の女性が名誉の殺人の犠牲になったとの調査もある[3]。ヨルダンなどでは年間15~20人の犠牲者が出ており、「名誉の殺人」は殺人罪で裁かれるものの、婚前交渉などで家の名誉を汚したと認定された場合、情状酌量が認められて減刑になる場合がある[4]。
トルコでは、2000年から2005年の間に、1806人の女性が殺害され、さらに、5375人が家族からの圧力により自殺している[5]。イラクにおいて、サッダーム・フセインの独裁時代に比べて、女性の地位が著しく悪化し、名誉殺人も増加している[6]。

殺害方法は家族会議で決定される。例として、絞殺や火あぶりなどが挙げられる。直接に殺害するのではなく、自殺するように家族が強制する場合もある。また、被害者は娘に限定されず、母親なども対象となる場合がある[5]。

名誉の殺人においては、たとえどのような理由があろうとも婚前・婚外交渉は許されないことだと考えられており、自分の娘を殺してもその地域においては家族の名誉を守った英雄として扱われるという。また、婚前交渉など無くとも、単に「男を見た」という理由だけで発生する殺人もある[3]。

もちろん、名誉の殺人が行われている地域の国々でも、近代法治国家においては犯罪であり、殺人であると規定されている場合がほとんどである。しかし、法体系が整備されていない国や、上記のパキスタンのように国家の力が地方にまで及ばない国においては、いまだに数多く行われている。

家庭内で行われる殺人であり、また、この風習が根強い地域では、殺人行為自体が「名誉」であるとされるため、実行犯は家族ぐるみ、地域ぐるみで庇われることになる。
そのため、たとえ国家によって法が整備されていても、警察に届けられることはほとんどない。よって、その国の治安機関の能力が未熟な場合、発覚すること自体が稀になってしまい、現在報告されている事例も氷山の一角とされる。

殺害方法を決定する家族会議には母親・姉妹も積極的に加わることも珍しくない。イギリスのケンブリッジ大学研究チームの調査によると、ヨルダンの10代の男女850人以上を対象に調査したところ、全体では33.4%が「支持」もしくは「強く支持」すると答えた。支持する考えを示したのは男子で46.1%、女子でも22.1%に達した[7]。

しかし一方で、母親や姉妹が反対したにもかかわらず、父や兄の手により殺されることもある。2008年には、イラクのバスラで、占領軍兵士と仲良くなったイラク人女性が、父親と兄の手により絞め殺された[8]。
父親はインタビューに対し、イスラームの男として、父親として、自分と家族の信仰と名誉を守っただけであり、警察も地域の友人も自分を賞賛してくれたと述べ、さらに娘のような恥さらしは生まれてすぐ殺してしまうべきだったと述べ、改めてこのようなふしだらな娘は殺されて当然と主張した[9]。
また、父親が娘の殺害に反対しても、その父親を監禁して父親以外の家族が娘を殺害するケースや、家族が殺害を拒否しても、周囲の嫌がらせや圧力などにより殺害に及ぶケースもあるなど、必ずしも家族内のみで決定されるわけではない[10]。

「名誉の殺人」の被害者を積極的に救出している団体として、スイスに本部を置くシュルジールがある。日本では、シュルジールの活動を支援するページがシュルジールの活動を紹介している。

イスラーム法における「名誉の殺人」[編集]

イスラムでは名誉殺人をアラビア語でجرائم الشرفと呼んでいる。 一般には、イスラーム教の教義において名誉の殺人が正当化されている、と理解されているが、実際にはイスラーム法によって禁止されているという意見もある。これには、以下の二つの根拠がある。

古典イスラーム法(シャリーア)では婚外交渉はジナの罪として禁止されているが、それは男女を問わない。また、婚外交渉に対する刑は既婚者、未婚者によって違う。 既婚者の場合:石打ちによる死刑。男女を問わない。
未婚者の場合:鞭打ちの上、追放。やはり男女を問わない。

刑の執行はカリフの権限、とされており、家族に殺害する権利はない。家族による殺人は、禁止されている私刑とみなされる。

現在では「名誉の殺人」の風習は、イスラーム教普及以前の文化に起因するものとする意見が強いが、この風習がある地方のイスラーム教徒自身も含め、イスラーム教の教義と関連付けられて考えられていることが多い。
また、建前上では男女平等の罰を与えるとはいえ、婚外交渉に対して極めて抑圧的なイスラーム法が既存の家父長制と結びつき、この慣習を温存させる原因となったという批判もある。しかしイラン、サウジアラビアに代表される保守的、厳格派のシャリーア解釈は婚外交渉や同性愛、場合によっては強姦の被害者も死刑の対象にする。(『死刑の歴史』も参照)

ヒンドゥー教における「名誉の殺人」[編集]

ヒンドゥー教では、伝統的な階級制度カーストが根強く残っているが、特に経済成長が著しいインドでは、近年異なるカーストの男女が恋愛関係になることが増えている。インドでは、異なるカーストで関係を持ったカップルを親族らが殺害する「名誉の殺人」が相次いでいる。社会学者プレム・チョードリーによれば、インドの名誉殺人の犠牲者数は年間数百~千人で、近年は増加傾向にあるという。インド政府は、これまで罰則のなかった名誉殺人の「教唆」に罰則を設ける刑法改正案を準備中である[11]。名誉殺人そのものにも厳罰を下せるよう法改正を検討している[12]。

インドでは、カーストや社会的地位の違いに苦しむ恋人を、名誉の殺人を含む様々な攻撃から守るため、「全インド恋人党」という政党が2008年に結成された[13]。しかし、伝統的な価値観では「正しいこと」であるため、名誉の殺人が起こっても、政治家や警察も見て見ぬ振りをする事が多い[14]。

日本における類例[編集]

前近代における日本にも名誉の殺人に相当する慣習が存在した。→密懐法

批判[編集]
近代文明からは決して受け入れられることのないこの風習は、多数のイスラーム国家も含む国際社会において悪と捉えられ、批判されている。国連などの公的機関はもとより、アムネスティ・インターナショナルヒューマン・ライツ・ウォッチをはじめとする人権団体も非難声明を発表している。

また、あまり知られていないことだが、イラク前大統領のサッダーム・フセインも名誉の殺人を批判していた。フセインが死亡したことと関連しているのかは不明だが、国連によるイラク国内の人権状況についての報告では、近年のイラクでは特にクルド系イラク人の間で名誉の殺人が広く行われるようになっているとされた。
クルド系のサイトには、クルド人少女の殺害映像が掲載されており、大きな問題となっている。この映像では、警察官も含む大勢の人々が集まっているが、誰一人として彼女を助けようとする者はいなかった[15]。 この少女が殺された理由は、彼女がムスリムの男性と駆け落ちするためにヤズディ教からイスラム教に改宗したというものであった。

関連書籍[編集]
生きながら火に焼かれて(スアド著、松本百合子訳、ソニーマガジンズ出版) ISBN 4-7897-2875-7
著者の、名誉の殺人(義理の兄によって火あぶりにされた)から奇跡的に生き延び、20回以上の手術を経験するという壮絶な体験を自ら克明に記録したノンフィクション。ヨーロッパでは大反響を巻き起こし、それまであまり知られていなかった名誉の殺人の存在を広く知らしめた。フランスなどではベストセラーとなった。身の危険を防ぐために、著者の近況は明らかにされていないがヨーロッパで夫と子供と共に暮らしているという。

参照[編集]
1.^ “毎年5000人が名誉殺人の犠牲に、国連人権高等弁務官”. AFPBB News. (2009年10月15日) 2013年5月20日閲覧。
2.^ パキスタンのテロとの闘い (PDF) - 防衛省防衛研究所
3.^ a b “「少年を見た」娘、母親が酸を浴びせて死なす パキスタン”. AFPBB News. (2012年11月6日) 2013年5月20日閲覧。
4.^ “家族の許可なく結婚したヨルダン女性を兄弟が「名誉殺人」”. AFPBB News. (2009年8月14日) 2013年5月20日閲覧。
5.^ a b 城戸久枝 (2013年9月15日). “名誉の殺人 アイシェ・ヨナル著 閉鎖的社会が生み出す不幸”. 日本経済新聞 2013年10月3日閲覧。
6.^ “イラク、脅かされる女性の尊厳と生命”. AFPBB News. (2008年4月5日) 2013年5月20日閲覧。
7.^ “「名誉殺人」への支持、若者にも 中東ヨルダン”. CNN. (2013年6月21日) 2013年6月21日閲覧。
8.^ Her crime was to fall in love. She paid with her life
9.^ My daughter deserved to die for falling in love
10.^ 洞口昇幸 (2013年9月14日). “名誉の殺人 母、姉妹、娘を手にかけた男たち”. 現代ビジネス (講談社) 2013年9月29日閲覧。
11.^ 階級差カップルの悲劇 インド「名誉殺人」続発 (1/2ページ) - MSN産経ニュース 2010年7月20日
12.^ “名誉殺人が増加するインド、刑法改正を検討”. AFPBB News. (2010年2月10日) 2013年5月20日閲覧。
13.^ Ammu Kannampilly (2011年5月17日). “「全インド恋人党」、愛を阻む壁に挑戦”. AFPBB News 2013年5月20日閲覧。
14.^ “「不実な娘許さぬ」、父親が娘を斬首・焼殺 インド”. AFPBB News. (2012年6月22日) 2013年5月20日閲覧。
15.^ “クルド人少女の殺害映像、ネット上に公開 - イラク(ショッキングな写真が含まれているので注意)”. AFP BB News. 2007年5月6日閲覧。

 

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