慶應義塾

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慶應義塾

慶應義塾(けいおうぎじゅく)は、日本の学校法人。福澤諭吉が1858年(安政5年)に中津藩江戸藩邸で開いた蘭学塾が起源。シンボルマークはペンマーク。とりわけ慶應義塾大学は、日本で古くからの歴史を誇る大学の1つとして知られる[1]。上場企業の社長輩出順位では長年にわたり1位、世界トップ企業500社のCEO輩出順位では東京大学に次いで日本で2位にランクインしている[2]。

「義塾」の意味[編集]
天明7年(1787年)、幕命により蝦夷地を探検して功績を挙げた近藤重蔵が同志と協力して子弟のために開いた塾を「白山義塾」と呼んだのが慶應義塾以前に見出しうる唯一の例であるという。もう一つは、掛川藩儒員松崎慊堂の日記「慊堂日暦」の文政8年(1825)1月25日の条に、慊堂が桑名藩儒者広瀬蒙斎を訪れて、「義塾の事を議す」とあり、その二は、寺門静軒が天保3年(1832)に著した『江戸繁盛記』4篇学校の項に、「官学外儒門の義塾」とある記事である(記事の紹介者名倉英三郎)。

つまり中国では「義塾」本来の語義は、公衆のために義捐で運営される学塾という意味で、学費を納めないのが原則である。

蓋此學を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く

— 『慶應義塾之記』より

これはおそらく英国のパブリックスクールを指すものとされ、要するに慶應義塾は、中国伝統の「義塾」に英国のpublic schoolの内容を盛ったものであるとされている[3]。

塾訓[編集]
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
慶應義塾大学東館に刻まれているラテン語で書かれた福澤の言。なお、三田キャンパス・ステンドグラスにも同文が明記されている

独立自尊従来の日本の門閥制度や官僚主義を良しとせず、欧州において政府から独立した中産階級(「ミッヅルカラッス」)が国家を牽引し発展させるあり方に独立国のモデルを見た福澤は「一身の独立なくして一国の独立なし」[4]と論じ、まずは各人の独立を旨とし、塾訓とした。

実学の精神
「常に学問の虚に走らんことを恐」れた福澤が慶應義塾の理念として掲げた指針。これは「実際に役に立つ学問」の意味であると誤解されがちであるが、福澤は単なる知識に終わらず、物事の本質や理念や仕組みを理解した上で体得する学問のことを指している。どうやら福澤が意図したものが今日に言う「科学」のことであることは、「実学」の語に「サイヤンス」とルビを振っていることからも分かる[5]。

「役に立つことを主眼に置く学問」が実学と見なされることが多く、今日その意味でも流通しているが、福澤は、新しい事物や事柄の表層だけをなぞって実際的な利便だけを追求する学問については、特に語学、工学の勉学における失敗例を挙げながら、こうしたものを軽薄な虚学として福澤は退けている。こうした、基礎学力がないとどんな知識もものにならないとの考えから福澤は学びの手順を明確に示しており(「学問の目的を爰に定め、其術は読書を以て第一歩とす。而して其書は有形学及び数学より始む。地学、窮理学、化学、算術等、是なり。次で史学、経済学、脩身学等、諸科の理学に至る可し。何等の事故あるも此順序を誤る可らず」[6])、この考え方は慶應義塾だけではなく、近代日本の学制の制定に大きく影響している。

他に建学理念に「実学」をうたう大学は数多くあるが、英吉利法律学校(現・中央大学、創立者増島六一郎らと共に、馬場辰猪ら福澤門下が前身である三菱商業学校と明治義塾にて教育)、商法講習所(現・一橋大学、創設に際して福澤が森有礼に助力)、東京専門学校(現・早稲田大学、創立に際して矢野文雄が助力)には福澤の間接的影響があり、今日でも残っている例である。

半学半教
ある程度学びを修めた者が後生を教え、学び合い教え合う理念であり制度。私塾としての財政圧迫を救い、塾生の学費を低く抑えるねらいがあった(「社中素より学費に乏しければ、少しく読書に上達したる者は半学半教の法を以て今日に至るまで勉強したることなり。此法は資本なき学塾に於て今後も尚存す可きものなり」[7])。やがて社中協力の重要な理念として残ってゆく。
塾中に先生と呼ばれるのは福澤諭吉一人で、塾生、教員、義塾社中を、正式行事に際して、時にはニックネーム的に、みな互いに「〜君」と呼び合う習慣はここに発しており、今日も残っている。同時に、卒業者も教員も学び続けることをやめてはいけないと釘を刺す訓辞でもある(「然るに年月の沿革に従ひ、或は社中の教師たる者、教場の忙しきに迫られ、教を先きにして学を後にするの弊なしと云う可からず。方今世上の有様を察するに、文化日に進み、朋友の間にても三日見ずして人品を異にする者尠なしとせず。斯る時勢の最中に居て、空しく一身の進歩を怠るは学者のために最も悲しむ可きことなり。故に今より数年の間は定めて半学半教の旨を持続せざる可らず」[8])。

社中協力
元々慶應義塾の経営難に際して資金を調達するために苦肉の策として作った結社としての制度であり、一私塾を法人化するきっかけともなった(当時福澤は「会社」と命名)。これが教員、塾生、塾員を慶應義塾社中として助け合い協力するという理念に発展した。これは、たびたびに渡る慶應義塾の廃学の危機を救うと共に、日本中の大学が同窓組織を作る先駆的な例となった。一貫教育慶應義塾では幼稚舎から大学・大学院に至るまで一貫教育を行っており、義塾自身もこの一貫教育という手法を自らの特徴として位置づけている[9]。
慶應義塾は小学校、中学校、高等学校、大学・大学院の各段階に相当する学校を複数設置しており、特に小学校から高等学校に至る各学校を「一貫教育校」と呼んでいる。これら一貫教育校では、全員が慶應義塾大学に進学することを前提としたカリキュラムにより教育が行われており、大学受験の指導などは一切行われていない。そして、ひとたび一貫教育校に入学すれば、高等学校の課程を一定の成績を得たうえで卒業することを条件に、全員無試験で慶應義塾大学に進学することができる(「塾内進学」、あるいは「内部進学」という。)。
大学の各学部学科には塾内進学者の定員が設けられており、進学希望者の数がその定員をオーバーした場合には、当該進学希望者の学業成績順で入学者が決定される。そのため、成績が足りないという理由で希望の学部学科に進学できない者もいる。その場合は、空きのある第2志望以下の学部学科へ入学することになる。なお、必ず慶應義塾大学に進学しなければならないという制約はなく、推薦を辞退したうえで他大学を受験することは可能である(医学部進学希望者は慶應義塾大学への推薦入学権を留保したまま他大学の医学部を受験できるなど、一定の例外はある。詳細は各一貫教育校のホームページを参照のこと。)。
塾生皆泳慶應義塾には『塾生皆泳』という言葉があり、「泳ぐ技能を身につけることが、人として備えるべき重要な素養のひとつである」という水泳教育の理念がある。塾生は水泳技術を身につけ、泳げないことが理由で命を落としたり、溺れている人を救えないことがないように、というのがその教えである。

沿革[編集]

各教育機関の詳細な沿革については各教育機関の記事を参照。
1858年 - 福澤諭吉、築地・鉄砲洲の中津藩中屋敷内に蘭学塾を開設。開校当初は塾生の代表が塾長となり、学生として在籍する傍ら教壇に立つことが多かった。
1868年 - 芝新銭座(現在の港区浜松町)に移転し、「慶應義塾」と呼称。
1871年 - 芝新銭座の校地を近藤真琴へ譲渡、三田にある島原藩中屋敷跡の現校地に移転。明治維新後に洋学・特に英語を学習する生徒が殺到し、校舎の増築がままならなかった築地から移転することになった。
1872年 - 初の外国人教員を招請
1873年 - 医学所を設置するも、1880年に閉鎖。
1874年 - 幼稚舎開設。
1881年 - 慶應義塾憲法を制定。この頃、攻玉社・同人社と共に「三大義塾」として並び称され、代表的な各種学校となる。明治十四年の政変。
1885年 - 塾章を制定。なお、塾旗も含めて制式化されるのは1964年。
1890年 - 大学部(ただし法令上は旧制専門学校)が発足し、文学・理財・法律の三科を設置。従来の課程を普通部と称する。大学部発足に際し、ハーバード大学から教員を招請
1892年 - 剣術・柔術・野球・端艇・弓術・操練・徒歩から成る体育会が発足。
1898年 - 幼稚舎を設置。大学部に政治科を増設。塾旗を制定。
1899年 - ドイツ・アメリカ合衆国に留学生6名を派遣。
1900年 - 大晦日に世紀送迎会(第1回)開催。
1901年 - 福澤諭吉死去。同窓生(社中)を中心として慶應義塾維持会を設立。
1903年 - 三田綱町球場にて最初の慶早戦
1904年 - 塾歌を制定。ただし、現行の塾歌は1941年に制定されたもの。
1906年 - 大学院を設置。
1910年 - 文学科の教授を中心に『三田文学』創刊。
1912年 - 創立50周年を記念して慶應義塾図書館が竣工。
1915年 - 維持会から『三田評論』を創刊。三田大講堂が竣工。
1917年 - 北里柴三郎招請して、東京市四谷区(現新宿区)に大学部医学科を設置。
1920年 - 大学部が大学令による大学(文学部・経済学部・法学部・医学部)に昇格、同時に大学予科を設置。大学病院を開設。
1930年 - 第1回連合三田会を開催。
1934年 - 神奈川県橘樹郡日吉村(現横浜市港北区)に日吉校舎を開設、大学予科を移転する。東京横浜電鉄(現東急電鉄)が誘致し、校舎用地の提供を受けた。
1944年 - 財団法人藤原工業大学を統合し、工学部を設置。獣医畜産専門学校を開校。藤原工業大学は藤原銀次郎の寄付により1939年に開校、当初から慶應義塾への統合を前提としていた。
1945年 - 戦災と日吉校舎の接収に伴い、中央労働学園の校舎および、川崎市蟹ヶ谷の旧海軍東京通信隊施設を暫定的に使用。図書館にあったステンドグラスも焼失。ようやく1974年に復元が成る。
1947年 - 中等部を設置。獣医畜産専門学校を埼玉県北足立郡志紀町(現志木市)に移転。旧東邦電力の東邦産業研究所跡地を、同窓の松永安左エ門による寄付によって取得。
1948年 - 通信教育課程を設置。第一高校・第二高校・農業高校を設置。農業高校は志木校地に開校、1957年に志木高校となる。
1949年 - 第一・第二高校を統合、慶應義塾高等学校設置。大学は学制改革に伴い、文学部・経済学部・法学部・工学部から成る新制大学となる。日吉校舎の接収解除、同時に高等学校を日吉へ移転。また工学部を西多摩郡小金井町(現小金井市)に移転。
1950年 - 大学の一部講義を日吉で開始、日吉は高等学校並びに学部学生の教養課程、三田は学部学生の専門課程として利用することになり、キャンパスの使用方法が大戦前の予科(新制の高等学校3年および学部1・2年に相当)と大学の区分に戻る。
1951年 - 学校法人設置認可。新制の大学院設置。
1952年 - 医学部が新制大学へ改組。
1965年 - 学費改訂と塾債発行から大学紛争が勃発。さらに米軍研究資金導入や大学立法を巡って紛争が長期化、1973年には工学部と通信教育課程を除くすべての学部で卒業式を中止する事態となる。
1972年 - 大学工学部を日吉キャンパスの北隣・矢上キャンパスに移転。
1990年 - 湘南藤沢キャンパスに大学環境情報学部・大学総合政策学部を設置。ニューヨーク高等部を開校。
1992年 - 湘南藤沢キャンパスに藤沢中等部・高等部を開校。
2008年 - 創立150年記念式典開催。学校法人共立薬科大学と合併、芝共立キャンパスに薬学部を設置。日吉キャンパスに大学院システムデザイン・マネジメント研究科、メディアデザイン研究科を設置。大阪リバーサイドキャンパスを、大阪市福島区の再開発地区「ほたるまち」に開設。

慶應義塾の三藩[編集]
慶應義塾の三藩(けいおうぎじゅくのさんぱん)とは、幕末~維新期に慶應義塾を支えた所縁のある3つの藩[11][12]。紀州藩・越後長岡藩・中津藩の三藩を指す。入塾した藩士はのちに塾長や要職を歴任しているため、慶應義塾の基礎となっている。

三藩[編集]

越後長岡藩[編集]
単身上京して新銭座に入塾した藤野善蔵(のち塾長、長岡洋学校主催)の影響が大きいと伝えられている[13]。長岡藩は戊辰戦争後に藩校崇徳館などで教育改革を進めて江戸の慶應義塾に多くの学生を送った。この結びつきは、大参事として維新後の長岡を指導した三島億二郎が福澤諭吉の思想に共鳴し交流が密であったことも一因であった。
主な藩士:牧野鋭橘(越後長岡藩藩主)、城泉太郎(長岡藩家臣、のち塾長)、渡部久馬七(のち塾長)、蘆野巻蔵(のち塾長)、小林寛六郎(「米百俵」で知られる小林虎三郎の弟)、小林雄七郎、秋山恒太郎、名児耶六都、外山脩造、栗山東吾、牧野鍛冶之助、稲垣銀治、三島徳蔵、曽根大太郎、中島武藤太、高野弥次郎、小林見義、山田鶴遊

紀州藩[編集]
藩の有力者岸嘉一郎が鉄砲洲時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り[14]、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを「紀州塾」と称してゐた[15]。和歌山藩の入塾生は元治元年九月入塾の臼杵鉄太郎を最初とし、慶応元年三名.慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも紀州徳川家第15代当主徳川頼倫は三宅米吉、英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授)、米国人のウィリアム・S・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修め、鎌田栄吉(のち塾長)からは精神的な薫陶を受けている。
主な藩士:小泉信吉(のち塾長)、松山棟庵(のち塾長、医師)、草郷清四郎(紀州藩騎兵指揮官)、前田政四郎(紀州藩騎兵仕官)、岸幹太郎(徳川家家令)、和田義郎(慶應義塾幼稚舎創始者)、三宅米吉(歴史学者)、巽孝之丞、中井芳楠(銀行家)、長屋喜弥太(軍目付、陸軍少佐)、小川駒橘(内務官僚、長崎師範学校校長)

中津藩[編集]
中津藩は福澤諭吉の出身藩であり、いうまでもなく学問の主流を成した藩である。藩主奥平昌邁、藩校進脩館、豊前国から多数の藩士が塾生となった。

1898年(明治31年)に一貫教育体制が整い、1920年大正9年)に4学部を擁する総合大学となり、1944年(昭和19年)に工学部、1957年(昭和32年)に商学部を設置して、2009年(平成21年)現在の体制に至る。

また、1906年(明治39年)に大学院が設置され、1942年(昭和17年)に外国語学校が設置された。また、1917年(大正6年)に医学科附属看護婦養成所が設置され、医学部附属女子厚生学院、看護短期大学を経て、看護医療学部となっている。

主な建造物[編集]
慶應義塾は日本の教育機関として有数の歴史を持ち、さらに移転や大規模な立替を伴う再整備事業を行っていないため、由緒ある建造物が多数現存している。この節ではそうした建築物の中から特筆すべきものを紹介している。

三田キャンパス[編集]
1871年(明治4年)芝新銭座より三田(島原藩中屋敷跡)に校舎を移転した。これ以降三田キャンパスは慶應義塾の中心地となる。三田演説館(1875年)、創立50年記念図書館(1912年)など歴史的にも重要な建造物が存在する。
1858年(安政2年) - 福沢諭吉蘭学塾」創始
1868年(明治元年) - 慶應義塾に発展。
1871年(明治4年) - 三田へ移転(島原藩邸跡)
1924年(大正13年) - 稲荷山(現在の場所)に移築。
1947年(昭和22年)5月 - 修復工事実施
1967年(昭和42年)6月 - 重要文化財に指定。
1995年(平成7年) - 解体修復工事実施。
稲荷山

慶應義塾」の書誌情報