高橋泥舟

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高橋泥舟
高橋 泥舟(たかはし でいしゅう、天保6年2月17日(1835年3月15日) - 明治36年(1903年)2月13日)は、日本の武士・幕臣

生涯[編集]
江戸において、旗本・山岡正業の次男として生まれる。幼名を謙三郎。後に精一郎。通称:精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号である。

母方を継いで高橋包承の養子となる。

生家の山岡家は槍の自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄・山岡静山に就いて槍を修行、海内無双、神業に達したとの評を得るまでになる。

生家の男子がみな他家へ出た後で静山が27歳で早世、山岡家に残る英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。
安政3年(1856年) 講武所槍術教授方出役
万延元年(1860年) 槍術師範役
文久2年(1862年) 新徴組結成。取締責任者
文久3年(1863年) 一橋慶喜徳川慶喜)に随行して上京。従五位下伊勢守を叙任
慶応2年(1866年) 新設の遊撃隊頭取。槍術教授頭取を兼任
慶応4年(1868年) 幕府が鳥羽・伏見の戦い敗戦後、帰京した徳川慶喜に恭順を説く 2月12日(3月5日) 江戸城から上野東叡山に退去する慶喜を護衛
4月11日(5月3日) 江戸城開城。水戸へ下る慶喜を護衛

勝海舟が、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで泥舟であった。しかし泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。代わりに義弟山岡鉄舟を推薦、鉄舟が見事にこの大役を果たした。

後に徳川家が江戸から静岡に移住するのに従い、地方奉行などを務め、一時田中城を預かる。廃藩置県後は職を辞して東京に隠棲、書画骨董の鑑定などで後半生を送った。

明治36年(1903年)2月13日、牛込矢来町の自宅で没す。享年69。墓は東京都台東区谷中六の大雄寺にある。

人物評[編集]
山岡鉄舟が亡くなったとき山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面することとなったが、自分にも大金があるはずがなく、金貸しに借用を頼むとき「この顔が担保でござる」と堂々と言い、相手も「高橋様なら決して人を欺くことなどないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた等々、その人柄を示すような逸話が多く残っている。

勝海舟山岡鉄舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれているが、勝は後年「あれは大馬鹿だよ。物凄い修行を積んで槍一つで伊勢守になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね」と泥舟を評している。槍一筋、節義一筋に生きた泥舟の生き方を勝流に賞賛した言葉であろう。

関連項目[編集]
幕末の人物一覧
榊原鍵吉 - 同じく剣客で著名
人間禅

関連文献[編集]
松本健一幕末の三舟 海舟・鉄舟・泥舟の生きかた』(講談社選書メチエ、平成8年(1996年))
『泥舟遺稿 伝記・高橋泥舟』(安部正人編、復刻大空社[伝記叢書]、平成9年(1997年))
頭山満 『幕末三舟伝』(島津書房/国書刊行会、平成19年(2007年))
子母澤寛 『逃げ水』(新版・中公文庫上下)

カテゴリ: 江戸幕府旗本
幕府陸軍の人物
新徴組隊士
武蔵国の人物

 

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