乃木希典

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乃木希典

乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、軍人、教育者。
日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や明治天皇没後の殉死で国際的にも著名であり、賛否両論の激しい人物である。

階級は陸軍大将。栄典は贈正二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長も務め、昭和天皇の教育係にもあたった。「乃木大将」や「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。

名前[編集]

家紋は「市松四つ目結い」。
幼名は無人(なきと)で、その後、源三と名を改め、頼時とも称した[1][注 1]。
さらに後、文蔵、次いで希典と名を改めた。
また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから源希典との署名もよく用いた[3]。
号としては、静堂、秀顕、石樵および石林子を用いた[1]。
「乃木大将」または「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い[注 2]。

生涯[編集]

幼少期[編集]
嘉永2年(1849年)11月11日、長州藩支藩である長府藩の藩士(馬廻、80石)・乃木希次と乃木壽子(ひさこ(壽とする文献もある[4]))との三男として長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡)に生まれた。
ただし、希典の長兄および次兄は既に夭折していたため世嗣となる。

幼名は無人(なきと)。
長兄および次兄のように夭折することなく壮健に成長して欲しい、という願いが込められている[4]。

希次は江戸詰の藩士であったから、無人は10歳までの間、長府藩上屋敷において生活した。
この屋敷は赤穂浪士・武林隆重(武林唯七)ら10名が切腹するまでの間預けられた場所であったので、赤穂浪士に親しみながら成長した[5]。

幼少時の無人は虚弱体質であり、臆病であった。
友人に泣かされることも多く、無人にかけて「泣き人」(なきと)とあだ名された。

父・希次は、こうした無人を極めて厳しく養育した。
例えば、「寒い」と不平を口にした7歳の無人に対し、「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」と述べ、無人を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。
この挿話は、昭和初期の日本における国定教科書にも記載されていた[6]。

なお、詳しい時期は不明だが左目を負傷し、これを失明した。
一説にはある夏の日の朝、母の壽子が蚊帳を畳むため寝ている無人を起こそうとしたが、ぐずぐずして起きなかったので、「何をしている」と言い、畳みかけた蚊帳で無人の肩をぶった際、蚊帳の釣手の輪が左目にぶつかってしまったことが原因であるという。
しかし乃木は、左目失明の原因を明らかにしたがらなかった。
失明の経緯を明らかにすれば母の過失を明らかにすることになり、母も気にするだろうから他言したくない、と述べたという[7]。

これと類似した逸話は荀攸にもある。
荀攸が8歳の頃、叔父の荀衢が酔っ払い、誤って荀攸の耳を傷つけたことがあった。
ところが荀攸は部屋を出たり入ったりして遊び回るとき、 いつも耳を隠して叔父の目に止まらないようにしていた。
叔父は後になってこのことを聞き知り、そこで初めて驚き謝罪し、高く評価したという。

長府への転居・元服[編集]

安政5年(1858年)11月、父・希次は、藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれ、長府へ下向するよう藩から命じられた上、閉門および減俸を命じられた。
無人もこれに同行し、同年12月、長府へ転居した[8]。

安政6年(1859年)4月、11歳になった無人は、結城香崖に入門して漢籍および詩文を学び始めた。
また、万延元年(1860年)1月以降、流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術および剣術なども学び始めた[8]。

しかし、依然として泣き虫で、妹にいじめられて泣くこともあった。
文久2年(1862年)6月20日、集童場に入った。
同年12月、元服して名を源三と改めたが、依然、幼名にかけて「泣き人」と呼ばれ、泣き虫であることを揶揄された[8]。

学者を志して出奔[編集]

元治元年(1864年)[注 3]3月、16歳の源三は、学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して、萩まで徒歩で赴き、玉木文之進への弟子入りを試みた。
玉木は乃木家の親戚であった。
文之進は、源三が父・希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、武士にならないのであれば農民になれと述べて、源三の弟子入りを拒絶した。
しかし結局、源三は玉木家に住むことを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた[9][10]。

元治元年(1864年)9月から、源三は明倫館文学寮に通学することとなったが、一方で、同年11月から一刀流剣術も学び始めた(一刀流については、明治3年(1867年)1月に目録を伝授されている)[注 4]。

第2次長州征討に従軍[編集]

元治2年(1864年)、源三は集童場時代の友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した[11]。

慶応元年(1865年)、第二次長州征討が開始されると、同年4月、萩から長府へ呼び戻された。
源三は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口での戦闘(小倉戦争)に加わった。
この際、奇兵隊山縣有朋指揮下において戦って、小倉城一番乗りの武功を挙げた[12]。
しかし、そのまま軍にとどまることはなく、慶応2年(1866年)、長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に入学(復学)した[11]。

その後報国隊は、越後方面に進軍して戦闘を重ねたが、これに参加しなかった。
明倫館在籍時に講堂で相撲を取り、左足を挫いたことから、藩が出陣を許さなかったのである[13][14][15]。
源三はなんとしても出陣しようと、脱藩を決意して馬関まで出たが、追捕され、明倫館に戻された[16]。

陸軍少佐任官[編集]

慶応4年(1868年)1月、報国隊の漢学助教となるが、同年11月、藩命により、伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学んだ[17]。
これは、従兄弟であり報国隊隊長であった御堀耕助が、源三に対し、学者となるか軍人となるか意思を明確にせよと迫り、源三が軍人の道を選んだことから、御堀が周旋した結果発せられたという[18]。

明治2年(1869年)7月、京都河東御親兵練武掛となり、次いで、明治3年(1870年)1月4日、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官[19][20]として、馬廻格100石を給された。

そして、明治4年(1871年)11月23日、陸軍少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属した[21]。
当時22歳の源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢であったが、これには、御堀を通じて知り合った黒田清隆が関与したとみられている。
乃木は少佐任官を喜び、後日、少佐任官の日は「生涯何より愉快だった日」であると述べている[22][23]。

明治4年(1871年)12月、正七位に叙された源三は、名を希典と改めた[24]。
その後、東京鎮台第3分営大弐心得[注 5]および名古屋鎮台大弐を歴任し、明治6年(1873年)6月25日には従六位に叙される[26][24]。

明治7年(1874年)5月12日、乃木は家事上の理由から辞表を提出して4か月間の休職に入るが、同年9月10日には陸軍卿伝令使となった。
この職は、陸軍卿(当時は山縣有朋)の秘書官または副官といった役割であった。
なお、この時期の乃木は、まっすぐ帰宅することはほとんどなく、夜ごと遊興にふけり、山縣から説諭を受けるほどだった[27]。

秋月の乱を鎮圧[編集]
明治8年(1875年)12月、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ、小倉に赴任した。
不平士族の反乱に呼応する可能性があった山田頴太郎(前原一誠の実弟)が連隊長を解任されたことを受けての人事であった[28][29]。
連隊長心得就任後、実弟の玉木正誼(たまき まさよし、幼名は真人。当時、玉木文之進の養子となっていた)がしばしば乃木の下を訪問し、前原に同調するよう説得を試みた。
しかし乃木はこれに賛同せず、かえって山縣に事の次第を通報した[30][29]。

明治9年(1876年)、宮崎車之助らによる秋月の乱が起きると、乃木は、他の反乱士族との合流を図るため東進する反乱軍の動向を察知し、豊津においてこれを挟撃して、反乱軍を潰走させた[31]。

秋月の乱の直後、萩の乱が起こった。
弟の正誼は反乱軍に与して戦死し、学問の師である文之進は自らの門弟の多くが萩の乱に参加したことに対する責任をとるため自刃した[32][33]。
萩の乱に際し、乃木は、麾下の第14連隊を動かさなかった。
これに対し、陸軍大佐・福原和勝は、乃木に書簡を送り、秋月の乱における豊津での戦闘以外に戦闘を行わず、大阪鎮台に援軍を要請した乃木の行為を批判し、長州の面目に関わると述べて乃木を一方的に非難した。
乃木は、小倉でも反乱の気配があったことなどを挙げて連隊を動かさなかったことの正当性を説明し、福原の納得を得た[34][注 6]。

西南戦争への従軍[編集]

明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると、同年2月19日、乃木は第14連隊を率いて久留米に入り、同月22日夕刻、植木町(後の熊本市植木町)付近において西郷軍との戦闘に入った。
乃木の連隊は主力の出発が遅れた上に強行軍を重ねていたから、西郷軍との戦闘に入った当時、乃木が直率していた将兵は200名ほどに過ぎなかった。
これに対し、乃木を襲撃した西郷軍は400名ほどだった[36]。
乃木は寡兵をもってよく応戦し、3時間ほど持ちこたえたが、午後9時頃、退却することとした。
その際に、連隊旗を保持していた河原林雄太少尉が討たれ、西郷軍の岩切正九郎に連隊旗を奪われてしまう。
西郷軍は、奪取した連隊旗を見せびらかした[37][38][39]。

連隊旗喪失を受けて、乃木は官軍の実質的な総指揮官であった山縣に対し、4月17日付けの待罪書を送り、厳しい処分を求めた。
しかし、山縣からは、不問に付す旨の指令書が返信された[注 7]ものの、自責の念を抱いて幾度も自殺を図った。
児玉源太郎は自殺しようとする乃木を見つけ、乃木が手にした軍刀を奪い取って諫めたという[41][42]。

その後、乃木は、部下の制止を振り切って連隊を指揮し、重傷を負って野戦病院への入院にもかかわらず、なお脱走して戦地に赴こうとしたために「脱走将校」の異名をとった。
この時の負傷により左足がやや不自由となる[42][43]。

熊本城を包囲していた西郷軍が駆逐された後の4月22日、乃木は中佐に昇進するとともに、熊本鎮台幕僚参謀となって第一線指揮から離れた[注 8]。

放蕩生活と結婚[編集]
秋月の乱以後、西南戦争に至る一連の士族争乱は、乃木にとって実に辛い戦争であった。
連隊旗を失うという恥辱もさることながら、萩の乱では実弟正誼が敵対する士族軍について戦死し、師でもある正誼の養父玉木文之進が切腹した。

西南戦争の後、乃木の放蕩が尋常でなくなり、自宅よりも柳橋や新橋、両国の料亭にいる時間の方が長く、放蕩振りを称して「乃木の豪遊」として有名になった[45]。

明治11年(1878年)10月27日、お七(結婚後に静子と改名した。静ともいわれる。)と結婚するが、
風采優美な偉丈夫として花柳界に知られていた乃木は、祝言当日も料理茶屋に入り浸り、祝言に遅刻したほどであった。
乃木の度を超した放蕩は、ドイツ留学まで続いた[46][39]。

少将への出世と留学[編集]

明治12年(1879年)12月20日、正六位に叙せられ、翌13年(1880年)4月29日に大佐へと昇進し、同年6月8日には従五位に叙せられた[47]。

明治16年(1883年)2月5日、東京鎮台参謀長に任じられ、同18年(1885年)5月21日には少将に昇進し、歩兵第11旅団長に任じられた。また、同年7月25日には、正五位に叙せられた[47]。

この間、長男・勝典(明治12年(1879年)8月28日生)および次男・保典(明治14年(1881年)12月16日生)がそれぞれ誕生している[47]。

明治20年(1887年)1月から同21年(1888年)6月10日まで、乃木は政府の命令によって、川上操六とともにドイツ帝国へ留学した[48]。
乃木は、ドイツ軍参謀総長モルトケから紹介された参謀大尉デュフェーについて、『野外要務令』に基づく講義を受けた。
次に乃木は、ベルリン近郊の近衛軍に属して、ドイツ陸軍の全貌について学んだ[49]。
ドイツ留学中、乃木は森鴎外とも親交を深め、その交友関係は以後、長く続いた[50]。

帰国後、乃木は実質的に乃木単独で作成した復命書を大山巌に提出した
(形式上は川上と乃木の連名であったが、川上は帰国後病に伏したので、ほとんどを乃木が記述した)。
復命書は、軍紀の確保と厳正な軍紀を維持するための綱紀粛正・軍人教育の重要性を説き、軍人は徳義を本分とすべきであることや、軍服着用の重要性についても記載されていた[51][52]。

帰国後の乃木は、復命書の記載を体現するかのように振る舞うようになった。
留学前には足繁く通っていた料理茶屋・料亭には赴かないようになり、芸妓が出る宴会には絶対に出席せず、生活をとことん質素にし
(平素は稗を食し、来客時には蕎麦を「御馳走」と言って振る舞った)
[53]また、いついかなる時も乱れなく軍服を着用するようになった[54]。

こうした乃木の変化について、福田和也西南戦争で軍旗を喪失して以来厭世家となった乃木が、空論とも言うべき理想の軍人像を体現することに生きる意味を見いだしたと分析している[55]。
一方、乃木の著書を書いた松田十刻は上記の復命書で軍紀の綱紀粛正を諫言した以上、自らが模範となるべく振舞わねばならないと考えての結果という分析をしている[56]。

帰国後、乃木は第11旅団(熊本)に帰任した後、近衛歩兵第2旅団長(東京)を経て、歩兵第5旅団長(名古屋)となったが、上司である桂太郎第3師団長とそりが合わず、明治25年(1892年)、病気を理由に2度目の休職に入った。
休職中の乃木は、那須野に購入した土地で農業に勤しんだ。
これより後、乃木は休職するたびに那須野で農業に従事したが、その姿は「農人乃木」と言われた[57]。

日清戦争への従軍[編集]
明治25年(1892年)12月8日、10か月の休職を経て復職し、東京の歩兵第1旅団長となった。
明治27年(1894年)8月1日、日本が清に宣戦布告して日清戦争が始まると、同年10月、大山巌が率いる第2軍の下で出征した[58]。

乃木率いる歩兵第1旅団は、9月24日に東京を出発し、広島に集結した後、宇品を出航して、10月24日、清の花園口に上陸した。
11月から乃木は、破頭山、金州、産国および和尚島において戦い、同月24日には旅順要塞をわずか1日で陥落させた[59]。

翌 明治28年(1895年)、乃木は蓋平・太平山・営口および田庄台において戦った。
特に蓋平での戦闘では日本の第1軍(司令官桂太郎)第3師団を包囲した清国軍を撃破するという武功を挙げ、「将軍の右に出る者なし」といわれるほどの評価を受けた[60]。
日清戦争終結間際の4月5日、乃木は中将に昇進して、仙台市に本営を置く第2師団の師団長となり[59]、また、8月20日には男爵として華族に列せられることとなった。

台湾征討(乙未戦争)への参加と台湾総督への就任[編集]

明治28年(1895年)、台湾民主国が独立を宣言したことを受け、日本軍は台湾征討(乙未戦争)に乗り出したが、乃木率いる第2師団も台湾へ出征した[61]。

明治29年(1896年)4月、第2師団は台湾を発ち、仙台に凱旋したが、凱旋後半年ほど経過した同年10月14日、台湾総督に任じられた[62]。
乃木は、妻の静子および母の壽子を伴って台湾へ赴任した。
乃木に課せられた使命は、台湾の治安確立であった[63]。

乃木は、教育勅語の漢文訳を作成し、台湾島民の教育に取り組み、現地人を行政機関に採用して、現地の旧慣を保護して施政に組み込むよう努力した。
また日本人に対しては、現地人の陵虐および商取引の不正を戒め、台湾総督府官吏についても厳正さを求めた[64]。

しかし乃木は、殖産興業などの具体策についてはよく理解していなかったため、積極的な内政整備をすることができず、民政局長曾根静夫ら配下の官吏との対立が激しくなって、乃木の台湾統治は不成功に終わった[65]。

明治30年(1897年)11月7日、乃木は台湾総督を辞職した。
辞職願に記載された辞職理由は、記憶力減退(亡失)による台湾総督の職務実行困難であった。

乃木による台湾統治について、官吏の綱紀粛正に努め自ら範を示したことは、後任の総督である児玉源太郎とこれを補佐した民政局長・後藤新平による台湾統治にとって大いに役立ったと評価されている[66]。
また蔡焜燦は「あの時期に乃木のような実直で清廉な人物が総督になって支配側の綱紀粛正を行ったことは台湾人にとってよいことであった」と評価する[67][68]。

日露戦争への従軍[編集]

馬蹄銀事件による休職[編集]
台湾総督を辞任した後休職していた乃木は、明治31年(1898年)10月3日、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職した。

しかし、明治34年(1901年)5月22日、馬蹄銀事件[注 9]に関与したとの嫌疑が乃木の部下にかけられたことから、休職を申し出て帰京した。
ただし、表向きの休職理由は、リウマチであった[69]。
乃木は計4回休職したが、この休職が最も長く、2年9か月に及んだ。

休職中の乃木は、従前休職した際と同様、栃木県那須野石林にあった別邸で農耕をして過ごした。
農業に勤しみつつも乃木はそれ以外の時間はもっぱら古今の兵書を紐解いて軍事研究にいそしみ演習が行われると知らされれば可能な限り出向き、軍営に寝泊まりしてつぶさに見学してメモをとり、軍人としての本分を疎かにはしなかった[70]。

復職と出撃・長男戦死[編集]

日露戦争開戦の直前である明治37年(1904年)2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職したが、この後備任務が不満だった[71]。

5月2日、第3軍司令官に任命された。
乃木はこれを喜び、東京を出発する際に見送りに来た野津道貫に対し、「どうです、若返ったように見えませんか? ども白髪が、また黒くなってきたように思うのですが」と述べている[72][73]。6月1日、宇品を出航し、戦地に赴いた。[74]。

なお、乃木が第3軍の司令官に起用された背景について、司令官のうち薩摩藩出身者と長州藩出身者とを同数にすべきであるという藩閥政治の結果とする主張もある[75]。
しかし第3軍編成時の各軍司令官をみると、薩摩出身者は第1軍司令官の黒木だけであった。
満州軍総司令官の大山や第4軍司令官の野津も薩摩出身者だが、この2人が任命されたのは第3軍編成の後である。

また、既に出征している第1軍および第2軍の師団長(中将クラス)6名のうち3名が長州出身者だが、薩摩出身者は1名に過ぎない。
そもそも、乃木は中将では最古参の明治28年昇進組であり、同期の岡沢精が侍従武官長を拝命していたため、乃木の大将就任と第3軍司令官任命は序列人事としては順当である。

乃木が日本を立つ直前の5月27日、長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死した。
乃木は、広島において勝典の訃報を聞き、これを東京にいる妻・静子に電報で知らせた。
電報には、名誉の戦死を喜べと記載されていたといわれる。勝典の戦死は新聞でも報道された[76]。

旅順攻囲戦(次男戦死)[編集]

乃木が率いる第3軍は、第2軍に属していた第1師団および第11師団を基幹とする軍であり、その編成目的は旅順要塞の攻略であった[77]。

明治37年(1904年)6月6日、乃木は塩大澳に上陸した。このとき乃木は、大将に昇進し、同月12日には正三位に叙せられている[74]。

第3軍は、6月26日から進軍を開始し、8月7日に第1回目の、10月26日に第2回目の、11月26日に第3回目の総攻撃を行った[注 10]。また、白襷隊ともいわれる決死隊による突撃を敢行した[78]。

乃木はこの戦いで正攻法を行いロシアの永久要塞を攻略した。
第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となり
(当時の軍装備、編成で要塞を早期攻略するには犠牲覚悟の強襲法しかなかった)、
乃木の指揮について例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。
乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった[79]。

乃木は補充のできない要塞を正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し相手を消耗させることで勝利出来ることを確信していたが、戦車も航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。
第3軍は満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したが、十分な補給が行われることはついになかった。

旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部においては、乃木に対する非難が高まり、一時、乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。
しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている[80]。
また大本営は度々第三軍に対して直属の上級司令部である満州軍司令部と異なる指示を出し、混乱させた。
特に203高地を攻略の主攻にするかについては第3軍の他にも軍が所属する満州軍の大山巌総司令や児玉源太郎参謀長も反対していた。
それでも大本営は海軍側に催促されたこともあり、満州軍の指導と反する指示を越権して第3軍にし、乃木達を混乱させた[81]。

乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届けられた[82][83][84]。

11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死した(長男・勝典の戦死直後、保典が所属していた第1師団長の伏見宮貞愛親王は、息子を二人戦死させては気の毒だろうと考え、保典を師団の衛兵長に抜擢した。
乃木父子は困って辞退したが、親王は「予の部下をどのように使おうと自由であり司令官の容喙は受けない」と言い張った[85])。
これを知った乃木は、「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と述べたという[86][87]。
長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、戦後に「一人息子と泣いてはすまぬ、二人なくした人もある」という俗謡が流行するほどだった[88]。
なお、乃木は出征前に「父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように」と乃木夫人に言葉を残していた[89]。

明治38年(1905年)1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり抵抗も不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(ステッセルとも表記される)は、乃木に対し、降伏書を送付し、同月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した[90][91]。

なお、この戦いに関する異説として旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したというものがある。
この異説は司馬遼太郎の小説が初出で世に広まり、以降の日露戦争関連本でも載せられる程となったが司馬作品で発表される以前はその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない[92]。
203高地は児玉が来る前に1度は陥落するほど弱体化しており再奪還は時間の問題であった。

また、この戦いで繰り広げられた塹壕陣地戦は後の第一次世界大戦西部戦線を先取りするような戦いとなり、鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地を機関銃や連装銃で装備した部隊が守備するといかに突破が困難になるかを世界に知らしめた。
他にも、塹壕への砲撃はそれほど相手を消耗させないことや予備兵力を消耗させない限り敵陣全体を突破するのは不可能であることなど、第一次世界大戦でも言われた戦訓が多くあった。
しかし西洋列強はこの戦いを「極東の僻地で行われた特殊なケース」として研究せずに対策を怠り、第一次世界大戦で大消耗戦となってしまった[93] 。

水師営の会見[編集]
旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)1月5日、乃木は要塞司令官ステッセリと会見した。
この会見は水師営において行われたので、水師営の会見といわれる。
会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセリが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう要請した[94]。

これを受けて、乃木は、ステッセリに対し、極めて紳士的に接した。
すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセリに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた[95]。
また、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリらロシア軍人の武人としての名誉を重んじた[96][97]。

こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛された[98]。
また、この会見を題材とした唱歌『水師営の会見』が作られ、日本の国定教科書に掲載された[99]。

乃木は、1月13日に旅順要塞に入城し、翌14日、旅順攻囲戦において戦死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。
その姿は、日本語が分からない観戦武官および従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の意訳を求めた[100][101][102]。

奉天会戦[編集]
乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加した。
第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進した。
ロシア軍の総司令官であるアレクセイ・クロパトキンは、第3軍を日本軍の主力であると判断していた。
当初は東端の鴨緑江軍を第3軍と誤解して兵力を振り分けていた。
旅順での激闘での消耗が回復していない第3軍は進軍開始直後は予定通り進撃していた。
しかし西端こそが第3軍であることに気付いたクロパキトンが兵力の移動を行い第3軍迎撃へ投入、激戦となった。

第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。
児玉に言われるまでもなく進撃を続けていた乃木は激怒し、第3軍の司令部を最前線にまで突出させたが、幕僚の必死の説得により、司令部は元の位置に戻された[103]。

その後も第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。
こういった第3軍の奮戦によって、クロパトキンは第3軍の兵力を実際の2倍以上であると誤解し、また、第3軍によって退路を断たれることを憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた東部および中央部のロシア軍を退却させた。
これを機に形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利した[104]。

アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn,1878-1950)は、「奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」と述べた[105]。

凱旋[編集]

乃木は、日露戦争の休戦を奉天の北方に位置する法庫門において迎えた。
この際、参謀の津野田是重に対し、日露講和の行く末について、戦争が長引くことは日本にとってのみ不利であること、賠償金はとれないであろうことおよび樺太すべてを割譲させることは困難であることなどを述べている[106]。

明治38年(1905年)12月29日、乃木は法庫門を出発し、帰国の途についた。
明治39年(1906年)1月1日から5日間、旅順に滞在して砲台を巡視した後、大連を出航し、同月10日には宇品に、14日は東京・新橋駅に凱旋した[107]。

乃木は、日露戦争以前から国民に知られていたが[108]、「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した[109]旅順要塞の攻略が極めて困難であったことや、二人の子息を亡くしたことから、乃木の凱旋は他の諸将とは異なる大歓迎となり、新聞も帰国する乃木の一挙手一投足を報じた[110][111][88]。

乃木を歓迎するムードは高まっていたが、対する乃木は、日本へ帰国する直前、旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から、戦死して骨となって帰国したい、日本へ帰りたくない、守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい、箕でも笠でもかぶって帰りたい、などと述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断った[112][113]。

凱旋後、乃木は明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読した。
復命書の内容は、第3軍が作戦目的を達成出来たのは天皇の御稜威、上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるものとし、また将兵の忠勇義烈を讃え戦没者を悼む内容となっている。
自らの作戦指揮については旅順攻囲戦では半年の月日を要したこと、奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂出来なかったこと、またロシア軍騎兵大集団に攻撃されたときはこれを撃砕する好機であったにも関わらず達成できなかったことを上げて、甚だ遺憾であるとした。

乃木は、復命書を読み上げるうち、涙声となった。
さらに乃木は、明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。
しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとされる[114]。

乃木に対する世界的賞賛[編集]
旅順攻囲戦は日露戦争における最激戦であったから、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価され[115]、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置もまた賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセリの処遇については、世界的に評価された[116]。
乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。
また、子供の名前や発足した会の名称に乃木や乃木が占領した旅順(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した[117]。
加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよびイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された[118]。

学習院院長就任[編集]

明治天皇による勅命[編集]
明治40年(1907年)1月31日、軍事参議官の乃木は学習院院長を兼任することとなったが、これには明治天皇が大きく関与した。
山縣有朋は、時の参謀総長児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を明治天皇に内奏した。
しかし、明治天皇はこの人事案に許可を与えず、皇孫(後の昭和天皇)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院院長に指名した[119][120]。

明治天皇は、乃木の学習院院長就任に際して、次のような和歌を詠んだ[121]。

いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ

また明治天皇は、乃木に対し、自身の子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれる[122]。

乃木式教育[編集]
乃木は、当時の学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、6棟の寄宿舎を建て、学生と寝食を共にして生活の細部にわたって指導に努めた。
その際の乃木の居室であった総寮部は「乃木館」(国登録有形文化財)として現在も保存されている。

また、乃木は、剣道の教育を最重要視した[123]。
時には、日頃の成果を見せよといって、生徒に日本刀を持たせ、生きた豚を斬らせることもあった[124]。
幼少期の近衛文麿は大変な怖がりで一人で出歩くこともままならなかった。
学習院中等部のとき、これを見かねた乃木が自ら竹刀を持ち近衛に打ち込んできた。
近衛は「乃木さんのメンは本当に痛かった」とのちに回想している[125]。
こうした乃木の教育方針は、「乃木式」と呼ばれた[126]。

生徒からの評判[編集]

乃木は、自宅へは月に1、2回帰宅するが、それ以外の日は学習院中等科および高等科の全生徒と共に寄宿舎に入って寝食を共にした。
乃木は、生徒に親しく声をかけ、よく駄洒落を飛ばして生徒を笑わせた[127][128]。
学習院の生徒は乃木を「うちのおやじ」と言い合って敬愛した[129]。

他方で、そうした乃木の教育方針に反発した生徒たちもいた。
彼らは同人雑誌『白樺』を軸に「白樺派」を結成し、乃木の教育方針を非文明的であると嘲笑した。
これらの動きに対し、乃木は以前から親交のある森鴎外にも助言を求めている[130]。

昭和天皇の養育[編集]
明治41年(1908年)4月、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、乃木は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力した。
裕仁親王は、乃木を明治天皇崩御してから(乃木は崩御からわずか3ヶ月程で殉死)は、その遺言に従って「院長閣下」と呼び、後に自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しんだ[131][132]。

当時、裕仁親王は皇居から車で学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導した。
裕仁親王もこれに従い、それ以降どんな天候でも歩いて登校するようになったという。

また、中曽根康弘運輸大臣だった時に内奏で『殉死』に書かれていること
(乃木が11歳の裕仁親王に、延々と山鹿素行の『中朝事実』を音読して講義した。10歳の秩父宮と7歳の高松宮は何を言っているのかわからず、廊下に飛び出した[133])
は本当かと尋ねたが、おおむねその通りであると答えられた[134]。

殉死[編集]
自刃前の乃木[編集]

乃木は、大正元年(1912年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)および光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。
当時11歳の裕仁親王は、乃木の様子がいつもとは異なることに気付き、「閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたという[135]。

自刃[編集]

大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなった[136]。
当時警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況などについて詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している[137]。

1.乃木は、大正元年(1912年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町自邸居室において明治天皇御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。

2.将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や辞世などを作成し、心静かに自刃を断行した。

3.夫人(静子)は、将軍が割腹するのとほとんど同時に、護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり、将軍にやや遅れて絶命した。

4.乃木は、いくつかの遺書を残した。そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた[138][139][注 11]。

乃木は、以下のような辞世を残した。

神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる

うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり

また、妻の静子は、

出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき

という辞世を詠んだ[140][141]。

なお、乃木の遺書には、遺書に記載されていない事柄については静子に申しつけておく旨の記載などがあり、乃木自刃後も妻の静子が生存することを前提とした[142]。

乃木自刃に対する反応[編集]
乃木の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。
乃木を慕っていた裕仁親王は、乃木が自刃したことを聞くと、涙を浮かべ、「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息をついた[143]。

乃木の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道された。
特に、ニューヨーク・タイムズには、日露戦争の従軍記者リチャード・バリーによる長文の伝記と乃木が詠んだ漢詩が2面にわたって掲載された[144]。

一方で上記の乃木の教育方針に批判的だった白樺派志賀直哉芥川龍之介などの一部の新世代の若者たちは、乃木の死を「前近代的行為」として冷笑的で批判的な態度をとった[145]。
これに対し夏目漱石は小説『こゝろ』、森鴎外は小説『興津弥五右衛門の遺書』をそれぞれ書き、白樺派などによってぶつけられるであろう非難や嘲笑を抑えようとした。

乃木夫妻の葬儀は、大正元年(1912年)9月18日に行われた。
葬儀には十数万の民衆が自発的に参列した。
その様子は、「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現された[146]。

第三軍に従軍していた記者スタンレー・ウォシュバンは乃木の殉死を聞いて、『乃木大将と日本人』(原題『Nogi』)を著し故人を讃えた[147]。

相次ぐ乃木神社の建立[編集]
乃木の死去を受け、読売新聞のコラム「銀座より」では、乃木神社建立、乃木邸の保存、新坂の乃木坂への改称などを希望するとの意見が示された。
その後、京都府山口県、栃木県、東京都、北海道など、日本の各地に乃木を祀った乃木神社が建立された[148]。

評価[編集]

旅順攻囲戦における乃木の評価[編集]
日露戦争において「難攻不落」と謳われた旅順要塞を攻略したことから、東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた[149]。

しかし、旅順要塞攻略に際して多大な犠牲を生じたことや、明治天皇崩御した際に殉死したことなど、その功績および行為に対する評価は様々である。
例えば司馬遼太郎は著書『坂の上の雲』『殉死』において、福岡徹も著書[150]において乃木を「愚将」と評価した。
他方で司馬遼太郎らに対する反論[151]や、乃木は名将であったとする主張など乃木を擁護する意見もある[152][153]。

乃木の軍人としての能力、特に、旅順攻囲戦における作戦指揮に関しては評価が分かれている。

司馬遼太郎らによる批判[編集]
乃木を無能・愚将であるとする主張が広まったのは、日本陸軍従軍経験のある作家司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』および『殉死』によるところが大きい[154][155][151]。
司馬は『坂の上の雲』および『殉死』において以下のように述べ、旅順における乃木を批判している。

1.旅順攻囲戦当時、要塞攻撃についてはヴォーバンが確立した大原則が世界の陸軍における常識であったが、乃木は第1回総攻撃においてこれを採用しなかった[156]。

2.ヴォーバンの戦術論(近代要塞に対する攻撃方法)に関する書物を読了することは軍人の当然の義務であった。しかし乃木は、近代要塞に関する専門知識を有しなかった[157]。

3.乃木は司令部を過剰に後方へ設置したので、前線の惨状を感覚として知ることができず、児玉源太郎からも非難された[158]。

4.第1回総攻撃は、あえて強靱な盤竜山および東鶏冠山の中央突破という机上の空論を実行に移したものであった[159]。

5.早期に203高地を攻め、そこからロシア海軍の旅順艦隊を砲撃しさえすれば、要塞全体を陥落させずとも旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができ、兵力の損耗も少なくてすんだはずである。しかし、乃木は、203高地の攻略を頑なに拒み[160]、本来不要な旅順要塞全体の陥落にこだわった[161][162]。

6.旅順要塞は無視してしまうのが正解であり、ロシア軍が旅順要塞から出撃してきた場合に備えて抑えの兵を残しておけば十分であった[163]。

7.乃木は、児玉源太郎に指揮権を委譲し、ようやく、203高地を陥落させることができた。児玉が指揮を執らなかったなら、損害は拡大していた[164]。

この他、自身が陸軍少尉として日露戦争に従軍した宮脇長吉(後に大佐、衆議院議員)は、「乃木大将はほんとうに戦争がへただった」と語っていたという[注 12]。

司馬遼太郎への反論と乃木擁護論[編集]
これに対し、乃木を擁護する論説として、
福田恆存「乃木将軍は軍神か愚将か」、『中央公論』第85巻第13号、1970年12月、 80-103頁。[注 13]
福井雄三「『坂の上の雲』に描かれなかった戦争の現実」、『中央公論』第119巻第2号、2004年2月、 61-72頁。[注 14]
などが発表された。特に、司馬遼太郎の主張に対する反論として、桑原嶽『名将 乃木希典(第五版)』(中央乃木会、2005年)および別宮暖朗『旅順攻防戦の真実』(PHP文庫、2006年)があり、以下のように述べて乃木を擁護している。

1.司馬が乃木を批判するために引用したヴォーバンの『攻囲論』は、日露戦争当時既に200年を経過した理論であったため、これに従わなかったことをもって乃木を批判することは出来ない。
乃木は、かえって当時のヨーロッパにおける主要な軍事論文をすべて読破した理論派であった[166][167]。

そもそもヴォーバンの「攻囲論」が書かれた時の要塞は背の高い城のような城壁を持ち、火砲は先込め式で鉄の塊を撃ち出すもの。
銃火器も先込め単発というしろもので、旅順の様なベトンで被った保塁を鉄条網と塹壕で覆い、先込め式より強力で長射程、射撃間隔も短い銃火器や大砲を持つ日露戦争時の要塞とは異なり、内容も既に古臭い戦術となっていた。
当時の要塞攻撃のベターとされていたのは第一次総攻撃で採用された様な強襲法や奇襲法であり、実際数年後の第一次世界大戦でのドイツ軍のリュージュ要塞攻撃や第二次世界大戦でのセバストポリ要塞攻撃でも強襲法が採用されている。
司馬の言う「要塞攻撃についてはヴォーバンが確立した大原則が世界の陸軍における常識」というのは全くの出鱈目である。

2.日露戦争当時、塹壕を突破して要塞を陥落させる方法は、ある程度の犠牲を計算に入れた、歩兵による突撃以外に方法がなく、有効な戦術が考案されたのは第一次世界大戦中期であるから、後世の観点から乃木を批判すべきではない[168]。
また第三軍は第一次総攻撃失敗後に直ぐ様正攻法に作戦を変更して以後はその方法で旅順を攻めつづけている。
「乃木は、近代要塞に関する専門知識を有しなかった」という司馬らの言説も実際の第三軍の運用を見る限り事実とは言えない。

3.乃木率いる第3軍の司令部があまりに後方に設置されていたのと批判は当たらない。
戦闘指令所が置かれた団山子東北方高地は、前線(東鶏冠山)まで直線距離にして3kmであり、作戦中は第三軍はそこで指揮を執っている。
これは敵砲兵の有効射程内であり、戦況を手に取るように見える距離である。
そのような距離であったから、攻撃中止の判断も迅速に行うことができた[169]。
また児玉がそう批難したという確実な証拠もない。

4.旅順は全周囲を防御した要塞でありどの方向も同程度の防御力を有している。
203高地のある西北方面が手薄で東北方面が強固であったという事実はない。
また第三軍に大本営より手渡されていた地図には旅順要塞の堡塁配置などに誤りがあり(例えば203高地などの前進陣地が書かれていない。
東北方面の東鶏冠山などの保塁が臨時築城の野戦陣地となっているなど)日本軍全体で要塞の規模を把握していなかった。
敵陣地の規模が不明な以上、攻略地点を自軍に有利な東北方面にする(鉄道や道路があり部隊展開に有利。西北方面はそれがなく準備に時間を要しないと不利)のは当たり前の決断と言える[170]。

5.要塞の攻略に必要なのは、どの地点を占領するかではなく、どの地点で効率よく敵軍を消耗させることができるかにあるから、203高地を主攻しなかったことをもって乃木を批判することはできない。
実際、203高地を占領した後、旅順要塞が陥落するまで約1か月を要している[171][172][173][174]。
仮に、当初から203高地の攻略を第1目標に置いたとしても、被害の拡大は避けられなかった[175]。

近代要塞での反撃の要は敵の攻撃目標の周囲にある各堡塁からの反撃射撃や予備兵力による逆襲である。
仮に初期から攻め、ここを落としたとしても健全な周囲の堡塁からの反撃と未だ無傷の予備兵力の逆襲に会い直ぐ様奪い返されただろう。
そのまま奪い合いとなり消耗戦となるが上記の様に西北方面には鉄道や主要道路がないので増援に手間取り失敗した可能性大で、現地を見ていない机上の空論といえる。
また203高地を占領する以前から、南山坡山を観測所として、旅順艦隊に対する砲撃が行われていたし、総攻撃前に占領した大弧山からもある程度観測できており既に港湾への観測射撃は実行している。
また旅順艦隊は第二次総攻撃前に既に壊滅していた。
あと、第三軍の目的は要塞攻略による日本軍の後顧の憂いを断つことであり司馬らのいう「旅順要塞陥落は本来不要」というのは全くの誤り。
また203高地攻略を反対し続けたのは乃木だけではなく、大山や児玉といった満州軍司令部で児玉が203高地攻略に賛成していたというのは創作である。
上級司令部の満州軍が反対している以上、乃木第三軍が203高地に目標を変更できないのは当たり前である。

6.旅順要塞に対して抑えの兵を残置し、乃木率いる第3軍は要塞を無視して北上することはできなかった。
抑えの兵が不足していたからである。また、残置すべき兵力は4万ほどになると思われるから、たとえ第3軍が北上しても奉天会戦において活躍することはできなかった[176][177]。
この無視すればよいという話は開戦前の児玉の言動であり、実際に戦争が行われると無視することは出来ず攻略するしか方策がなくなったのでこの攻略戦が行われた。
開戦時で旅順にはロシアの極東兵力の半分である2個師団が配備されており、日本軍の満州への補給の窓口である大連が旅順の目と鼻の先である以上、抑えの兵力は膨大になり(最低でも2-3個師団必要だが日本の手持ちの師団は13個しかない)日本軍の許容できることではない。

7.大山巌児玉源太郎に第3軍の指揮権を与えるという書簡を書いたこと自体、非常識で事実かどうかも疑わしい[注 15]。

8.児玉源太郎が第3軍に与えた指示は予備の重砲の配置変換であり、司馬が作品で描いているような28センチ榴弾砲の陣地変換と目標を203高地にするなどのことは行われていない。それどころか既に28センチ榴弾砲は全砲が203高地を砲撃していたし同士討ち覚悟の連続射撃も攻城砲兵司令部の判断で実施されている[178]。
203高地攻防戦は児玉の到着前に山頂の争奪戦の段階となっており、再奪取は時間の問題だった。
また児玉自身、作戦立案を第3軍参謀に行わせており、それを承認した上で攻撃を開始しており、彼自身の立案だった訳でもない[179]。
修正はそれほど大きなものでは無く、ほとんど従来通りに行われたうえで占領している。

別宮暖朗は、乃木率いる第3軍が、第1回総攻撃による被害が大きかったことを受けて、第2回総攻撃以降は突撃壕を掘り進めて味方の損害を押さえる戦術に転換していること評価すべきと主張する[180][181][182]。
この戦術は、第一次世界大戦においてロシア軍のアレクセイ・ブルシーロフが実行したものであるが、それは第一次世界大戦の開戦後1年半ほど経過した後のことであり、
それ以前の欧州各国陸軍も第1回総攻撃と同様の方法を採っていたのであるから、日露戦争当時にこの戦術を採用した乃木は評価されるべきである、という主張である[183][184]。

また、元防衛大学校教授・桑田悦は、第3軍幕僚の活動には問題もあったが、その責任を乃木だけに負わせるのは不当であり、乃木であればこそあの時期に旅順を攻略できたと述べており[185]、大阪青山短期大学准教授・福井雄三も、第一次世界大戦におけるモルトケの失敗と対比し、精神的プレッシャーに強く平常心を失わずに部下を奮い立たせた乃木を評価している[186]。

乃木の人格に対する評価[編集]

質素と謹厳の代名詞[編集]
乃木が学習院院長に就任した後の明治40年(1907年)ころ、「乃木式」という言葉が流行した。大正4年(1915年)には『乃木式』という名称の雑誌も発行され、乃木の人格は尊敬を集めていた[187][188]。 当時、乃木は、質素と謹厳の代名詞だった[189]。

乃木は、生前および死後を通じて詩や講談の題材に取り上げられ、伝記も数多く出版された。それら乃木を題材とした作品群は、「乃木文学」と言われた[190][191]。

なお幾つかの文献では、元帥となった記述があるが、乃木は元帥だった事実は無い(元帥号を賜る話はあったが、本人が固辞したため)。

殉死に対する評価・議論[編集]
殉死直後から日本国内の新聞の多くはこれを肯定的に捉え[192]、乃木の行為を好意的に受け止める空気が一般的であった[193]。

新渡戸稲造は「日本道徳の積極的表現」、三宅雪嶺は「権威ある死」と論じ[193]、徳冨蘆花京都帝国大学教授・西田幾多郎は、乃木の自刃に感動を覚え、武士道の賛美者でも社会思潮において乃木の賛同者でもないことを明言していた評論家の内田魯庵も、乃木の自刃に直感的な感動を覚えたと述べている[194]。

このような乃木の武士道的精神を評価する見方がある一方で、殉死は封建制の遺習であり、時代遅れの行為であると論ずる見方もあった。
東京朝日新聞[195]、信濃毎日新聞[193](主筆桐生悠々)などが乃木の自刃に対して否定的・批判的な見解を示した。

さらに、時事新報は、学習院院長などの重責を顧みず自刃した乃木の行為は武士道の精神に適うものではなく、感情に偏って国家に尽くすことを軽視したものであると主張し、加えて、もし自殺するのであれば日露戦争の凱旋時にすべきであったとまで述べた[196]。

また、白樺派は、生前の乃木を批判していたが、乃木の自刃についても厳しく批判した。
特に武者小路実篤は、乃木の自刃は「人類的」でなく、「西洋人の本来の生命を呼び覚ます可能性」がない行為であり、これを賛美することは「不健全な理性」がなければ不可能であると述べた[197]。

社会主義者も乃木の自刃を批判した。
例えば、荒畑寒村は、乃木を「偏狭な、頑迷な、旧思想で頭の固まった一介の老武弁に過ぎない」と評した上で、乃木の行為を賛美する主張は「癲狂院の患者の囈語」(精神病患者のたわごと)に過ぎないと批判した。

乃木の殉死を否定的に論じた新聞は、不買運動や脅迫に晒された。
例えば、時事新報は、投石や脅迫を受け、読者数が激減した[198]。

京都帝国大学教授・文学博士である谷本富は、自宅に投石を受け、京都帝国大学教授を辞職せざるを得なくなった[199]。
谷本は、乃木の「古武士的質素、純直な性格はいかにも立派」[注 16]と殉死それ自体は評価していたが、乃木について、「衒気」であるから「余り虫が好かない人」であり、陸軍大将たる器ではない旨述べたことから、否定論者と見なされたのである[注 17]。

乃木の死を題材にした文学作品も多く発表されている。
例えば、櫻井忠温の『将軍乃木』『大乃木』、夏目漱石『こころ』、森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』、司馬遼太郎の『殉死』、芥川龍之介の『将軍』、渡辺淳一の『静寂の声』などである。
この中で大正時代に刊行された芥川の『将軍』は乃木を皮肉った作品で、大正デモクラシー潮流を推進するものであった[201]。

日本国外における評価[編集]
旅順攻略戦中は一般国民にまで戦下手と罵られた。
もっともこれはウラジオ艦隊捕捉に手こずった上村彦之丞中将と同じく結果が中々出ないのを批難したものであり、旅順を攻略するとそれは称賛に変わった。
さらに水師営の会見をはじめとする、多々の徳行、高潔な振舞いにより、稀代の精神家として徐々に尊敬の対象に変化していった。
諸外国には各国観戦武官から乃木の用兵が紹介され、対塹壕陣地への正攻法が後年の第一次世界大戦で大々的に取り入れられるようになる[202]。
また失敗した白襷隊の攻撃もドイツで研究され浸透戦術の雛型になった。
各国報道機関では乃木を日本軍の名将として紹介している[147][注 18]。
また明治時代の日本人の地位を大きく向上させることに一役買った。

また、日露戦争での日本の勝利は、ロシアの南下政策に苦しめられていたオスマン帝国で歓喜をもって迎えられた。
乃木はオスマン帝国でも英雄となり、子どもに乃木の名前を付ける親までいたという[203]。

人物・逸話[編集]
日露戦争における自責の念[編集]
乃木は、日露戦争において多くの兵を失ったことに自責の念を感じていた。
時間があれば戦死者の遺族を訪問し、
「乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と述べた[204]。
東郷平八郎や上村彦之丞とともに長野における戦役講演に招かれた際、勧められても登壇せず、その場に立ったまま、「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した者であります」と言って落涙し、それ以上何も言えなくなってしまったこともあった[205]。

戦傷病者へのいたわり[編集]
癈兵院を再三にわたって見舞い、多くの寄付を行った。
乃木は、他者から寄贈を受けた物があると、そのほとんどを癈兵院に寄贈した[206]。
そのため、癈兵院の入院者は乃木を強く敬愛し、乃木の死を聞いて号泣する者もあり、特に重体の者以外は皆、乃木の葬儀に参列した。
また、癈兵院内には、乃木の肖像画を飾った遥拝所が設けられた[206][207]。
上腕切断者のために自ら設計に参加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に製作・配布した。
この義手で書いたという負傷兵のお礼を述べる手紙が乃木宛てに届き、乃木は喜んだという[208]。

辻占売りの少年[編集]
少将時代の乃木が訪れた金沢の街で辻占売りの少年を見かけた。
その少年が父親を亡くしたために幼くして一家の生計を支えていることを知り、少年に当時としてはかなりの大金である金2円を渡した。
少年は感激して努力を重ね、その後金箔加工の世界で名をなしたという逸話によるものである。
乃木の人徳をしのばせる逸話であり、後に旅順攻囲戦を絡めた上で脚色され「乃木将軍と辻占売り」という唱歌や講談ダネで有名になった[209]。

楠木正成に対する尊敬[編集]
乃木は楠木正成を深く崇敬した。
乃木の尽忠報国は正成を見習ったものである。乃木は正成に関する書物をできる限り集め考究した。
正成が子の正行と別れた大阪府三島郡島本町の史蹟桜井駅跡の石碑の「楠公父子訣別之所」という文字は乃木によって書かれたものである。
そして、乃木は楠木正成について次のような歌を詠んでいる[210]。

いたづらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき

根も幹ものこらず朽果てし楠の薫りの高くもあるかな

国史学者笹川臨風は、「乃木将軍閣下は楠公以降の第一人なり」と乃木を評しており[211]、伏見宮貞愛親王は乃木について、「乃木は楠木正成以上の偉い人物と自分は思う」「乃木の忠誠、決して楠公のそれに下るべからず」と述べている[212]。

健康状態[編集]
若い頃より歯が悪く、43歳の時点ですでに下顎に数本の歯が残っているのみであり、1891年には入れ歯が合わないことを理由とする休職願を陸軍大臣高島鞆之助に提出している[213]。

乃木が読んだ漢詩[編集]
乃木は静堂の号を持ち漢詩[注 19]をよくした。
乃木が作成した漢詩の中でも『金州城外の作』、『爾霊山』および『凱旋』は特に優れているとされ、「乃木三絶」と呼ばれている[214]。

以下,乃木が詠んだ漢詩の一部を挙げる[215]。

金州城外の作

山川草木轉荒涼 (山川草木転(うた)た荒涼)
十里風腥新戰場 (十里風腥(なまぐさ)し 新戦場)
征馬不前人不語 (征馬前(すす)まず 人語らず)
金州城外立斜陽 (金州城外斜陽に立つ)

爾霊山

爾靈山嶮豈難攀 (爾霊山の険豈に攀(よ)ぢ難からんや)
男子功名期克艱 (男子功名克艱(こかん)を期す)
鐵血覆山山形改 (鉄血山を覆いて山形改まる)
萬人齊仰爾靈山 (万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山)
爾霊山(にれいさん)は203高地の当字。

凱旋

皇師百萬征強虜 (皇師百萬強虜を征す)
野戰攻城屍作山 (野戦攻城屍山を作(な)す)
愧我何顔看父老 (愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父老に看(まみ)えん)
凱歌今日幾人還 (凱歌今日幾人か還る)

富岳を詠ず

崚曾富嶽聳千秋 (崚曾(りょうそう)崚曾たる富岳千秋に聳ゆ)
赫灼朝暉照八州 (赫灼たる朝暉八洲を照らす)
休説區々風物美 (説くを休めよ区々風物の美)
地靈人傑是神州 (地霊人傑是れ神州)

経歴[編集]

略年譜[編集]
嘉永2年(1849年)12月11日 - 誕生
安政5年(1858年)- 長府に帰郷。
慶応元年(1865年)- 長府藩報国隊に入り奇兵隊と合流して幕府軍と戦う。
明治4年(1871年) - 陸軍少佐に任官。名を希典と改める。
明治10年(1877年) - 歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。この際、軍旗を西郷軍に奪われた(軍旗を参照)。
明治19年(1886年) - 川上操六らとともにドイツに留学。
明治25年(1892年) - 歩兵第5旅団長を辞任して2月に休職となる。12月に歩兵第1旅団長の就任ため復職。
明治27年(1894年) - 歩兵第1旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった。
明治28年(1895年) - 第2師団長(陸軍中将)に親補され、台湾出兵に参加。
明治29年(1896年) - 台湾総督に親補される。母の壽子も台湾に来るが、すぐマラリアに罹患し、病没した[239]。
明治31年(1898年) - 台湾総督を辞職。
明治32年(1899年) - 第11師団の初代師団長に親補される。
明治37年(1904年) - 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、第3軍司令官(大将)に親補されて旅順攻囲戦を指揮し、また奉天会戦に参加する。乃木勝典が金州南山で、乃木保典が203高地でそれぞれ戦死する。
明治39年(1906年) - 1月、終戦による第3軍の廃止と同時に、軍事参議官に親補される。以後、死去まで、乃木の本官は軍事参議官。
明治40年(1907年) - 学習院院長を兼ね、皇族および華族子弟の教育に従事。
明治44年(1911年) - 7月1日に大英帝国のハイドパークで英国少年軍(ボーイスカウト)を閲兵。ベーデン・パウエルと会見。
大正元年(1912年) - 明治天皇大葬の9月13日夜、妻・静子とともに自刃。享年62。墓所は港区青山霊園
大正5年(1916年) - 裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼に際して、正二位を追贈される。

乃木自刃後の乃木家乃木伯爵家には世嗣がいなかった。乃木の子のうち、長男および次男は日露戦争で戦死し、長女と三男は夭折しており、乃木の実弟・真人は萩の乱において戦死し、他の実弟・集作は大館氏の養子となっていたからである[247]。
そこで、乃木の死から3年を経過した大正4年(1915年)9月13日、乃木家が属していた長府藩の旧藩主である子爵・毛利元雄の実弟・毛利元智が大正天皇から伯爵を授けられ、乃木伯爵家を再興しようとした。
元智は乃木元智と改名し、諸手続を済ませた。
しかし、乃木家再興について世論は反発した。「遺言条々」において乃木家の断絶を望んだ乃木の遺志に反し、藩閥政治の道具として乃木家が用いられていると世間の目には映ったからである。
結局、元智は、昭和9年(1934年)に爵位を返上した[248]。

乃木を取り扱った作品[編集]

文学作品[編集]
司馬遼太郎 『殉死』『坂の上の雲』文春文庫など
池波正太郎 『将軍』(『賊将』収録)新潮文庫
戸川幸夫 『人間 乃木希典』人物文庫
福田和也乃木希典』文春文庫
スタンレー・ウォシュバン 目黒真澄訳 『乃木大将と日本人』 講談社学術文庫 ISBN 978-4061584556
森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』(青空文庫) - 乃木の殉死に衝撃を受けた鴎外が霊前に捧げるつもりで2日で書き上げたと言われている短編。
芥川龍之介 『将軍(青空文庫)』 - 乃木を皮肉ったものだが前半が官憲の検閲によって伏字だらけになっている[249]。

映像作品[編集]
乃木将軍と生涯(日活、1912年、演:尾上松之助
乃木将軍(日活向島、1918年、演:山本嘉一)
信州墓参 乃木将軍(松竹蒲田、1921年、演:関根達発)
乃木大将伝(松竹蒲田、1925年、演:岩田祐吉)
乃木将軍と熊さん(日活大将軍、1925年、演:山本嘉一)
乃木将軍(千代田映画、1926年、演:関根達発)
吉岡大佐(日活大将軍、1926年、演:山本嘉一)
乃木将軍旅行日記(マキノ御室、1927年、演:関根達発)
皇恩(日活大将軍、1927年、演:山本嘉一)
擊滅(日活太秦、1930年、演:山本嘉一)
陸軍大行進(松竹蒲田、1932年、演:岩田祐吉)
乃木将軍(日活多摩川、1935年、演:山本嘉一)
軍神乃木さん(日活多摩川、1937年、演:山本嘉一)
明治天皇と日露大戦争(新東宝、1957年、演:林寛)
天皇・皇后と日清戦争(新東宝、1958年、演:林寛)
明治大帝と乃木将軍(新東宝、1959年、演:林寛)
日本海大海戦(東宝、1969年、演:笠智衆
二百三高地東映東京、1980年、演:仲代達矢
二百三高地 愛は死にますか(テレビドラマ、演:田村高廣
田原坂 (テレビドラマ)(演:国広富之
坂の上の雲 (テレビドラマ)(NHK、演:柄本明

乃木が殉死した2ヶ月後、主演尾上松之助、監督牧野省三のゴールデンコンビニよる『乃木将軍と生涯』が追悼公開された。6年後の1918年から山本嘉一が当たり役として乃木を7本演じた。
戦前の作品は岩田祐吉が乃木を演じた『陸軍大行進』(松竹蒲田、1932年)の不完全版のみフィルムセンターにプリントが残っている。戦後は新東宝の「明治天皇もの」三部作と『日本海大海戦』の笠智衆と、乃木は全て脇役での登場であったが、1980年の『二百三高地』での仲代達矢の熱演によって、ようやく乃木はスクリーンの主役に返り咲いた[250]。

脚注[編集]

注釈[編集]
1.^ 報国隊結成の盟約状には、「乃木無人源頼時」と署名している[2]。
2.^ 小堀 2003や乃木神社 2009などを参照。
3.^ 佐々木 2005, p. 430は、文久3年(1863年)としている。
4.^ 佐々木 2005, p. 122以下や大濱 2010, p. 30は、いずれも慶応元年(1865年)の出来事としている。
5.^ 下級者が上級職を務める際に用いられた役職名である[25]。
6.^ 福田和也は福原の書簡の内容が一方的であると述べて、乃木を擁護している[35]。
7.^ 当時はまだ軍旗を神聖視する風潮はなかった[40]。
8.^ 中西は、死地を求める乃木の行動を耳にした明治天皇が、乃木を前線指揮官の職から外すよう指示したとしている[44]。
9.^ 日本軍が天津城を占領した際、そこで分捕した馬蹄銀を私有した者がいたとされる事件[69]。
10.^ 1904年(明治37年)9月19日の攻撃を第2回総攻撃とする文献もある[74]。
11.^ 遺言の全文は東京・乃木神社のウェブサイトにも掲載されている。
12.^ 宮脇俊三『私の途中下車人生』(角川文庫)21頁参照。著者の宮脇俊三は長吉の三男。
13.^ 昭和45年12月臨時増刊号
14.^ 各方面に賛否両論の議論が起こり、直後に新聞で特集された日露戦争の記事においても引用された[165]。
15.^ 桑原は書簡の存在を疑問視しているが、書簡の内容は「明治軍事史明治天皇御伝記史料(昭和41年)」に収録されており、存在に疑問の余地はない。
16.^ 『大阪毎日新聞』1912年(大正元年)9月17日付へのコメント[200]。
17.^ 佐々木 2005, p. 356以下大濱 2010, p. 241も、谷本が「徹底した乃木批判を展開した」とみなしている。
18.^ S・ウォシュバンは当時はシカゴニュース紙の記者で従軍記者として乃木第三軍に付き添っていた[147]。
19.^ 西郷・乃木 2006には乃木の漢詩および和歌が多数収録されている。
20.^ 録音当時は陸軍工兵大佐で、300年祭準備会幹事[216]。
21.^ 録音当時は陸軍三等主計正で、300年祭準備会幹事[216]。
22.^ 録音当時は陸軍工兵少佐で、300年祭準備会幹事[216]。
23.^ 録音当時は皇典講究所監事で、300年祭準備会幹事[216]。
24.^ 高山と今井の間に誰かが名乗りを吹き込んでいるが、音が不明瞭で判別不能[216]。

 

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