女たちが生きた終戦

pixivの方に保存してあったはずの「ラク町おとき」と「星の流れに」の

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しまったのだ。検索機能がないのは資料倉庫としてはどうにもならないナ。。

ウィキペディアで引き直したほうが早いか。。。

 

【オリジナル】「ラク町おとき」イラスト/美羅 [pixiv]

 

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「パンパン」の書誌情報
 項目名: パンパン
著作者: ウィキペディアの執筆者
 発行所: ウィキペディア日本語版
 更新日時: 2014年10月21日 02:03 (UTC)
取得日時: 2015年5月28日 11:38 (UTC)
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パンパン

曖昧さ回避 この項目では、街娼について説明しています。その他の用法については「パンパン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

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パンパンとは、第二次世界大戦後の混乱期の日本で、主として在日米軍将兵を相手にした街頭の私娼(街娼)である。「パンパン・ガール」「パン助」「洋パン」ともいう[1]。

概説[編集]
第二次世界大戦が終わってGHQ占領が始まった1945年9月には既に存在が確認されていたとされ、1946年には日本全国で7万から8万人、朝鮮戦争の激化した1952年には15万人近くがいたとされる[要出典]。1956年の売春防止法施行後は激減したが、ベトナム戦争が激化した1960年代後半になっても米軍基地周辺には存在した。

第二次世界大戦によって疲弊した日本では、生きる為に止む無く、もしくは金銭を楽に得るために身体を売る女性が急増した。特に連合国軍(なかんずく米軍)相手の売春は、金・物資ともに乏しかった日本人同士を相手にするよりも儲かったとされる。なお「興味本位や封建的な時代と戦うために働いていた」という記録も連合国軍側にはある。

また当時は厚化粧の女性が少なかった為に、全く売春とは無関係の派手な身なりの女性を指してこう揶揄する事もあった。なお、『現代用語の基礎知識』1949年版では、一般にこの言葉が広まったのは戦後のことであるが、日本海軍内では戦中から使用されていたとしている[2]。なお時代を経て、後期には日本人を相手にする娼婦、従来は「闇の女」などと呼ばれていた層に対してもパンパンとの呼称が用いられることがあった[1]。

 

なお、特殊慰安施設協会(RAA)の廃止に伴い職を失った売春婦が街頭に立ちパンパンとなったと言う説があるが、実際にはRAA廃止前から街頭に立つ姿が見られていたという[1]。ちなみに1952年、盛りそば一杯17円の時代に、ショートで1000円、オールナイトで3000 - 4000円といった料金設定であった。

 

呼称[編集]
単に「パンパン」と呼ぶことが多かったが、異称も多数あった。
「三助」にかけた[要出典]パン助という派生語は侮蔑的な意味が強い。

逆にパンパン・ガールと呼んだ場合は、衣食住に足る私娼たちを羨望の対象として呼んだ言葉とされる[要出典]。

なお、「パンパン」は不特定多数の連合国軍兵士を客としていた者を指すことが多く、これに対し特定の相手(主に上級将校)のみと愛人契約を結んで売春関係にあったものは「オンリー」(英語:"only"から)または「オンリーさん」と呼ばれた[1]。
欧州系を専門とするパンパン ― 「洋パン」[1]・「虹パン」。 類義に「羅紗緬」など。

白人専門のパンパン ― 「ヤギパン(白人が山羊の様に白い事から)」・「白パン」[1]
黒人専門のパンパン ― 「ブラパン」・「黒パン」[1]

「ブラパン」とは、ぶら下がりパン助、またはブラックパンパンの略。現代では娼婦でなくとも性的にアクティブであり黒人男性を好む女性がこう呼ばれる、あるいは自称することがある。このブラパン女性たちの一部には選民意識が存在し、自分の交際相手の黒人が「アフリカン・アメリカン」である事を誇りに思っている。

その為、アフリカ人男性と付き合っている女性に対しては、侮蔑的に「アフパン」と呼んでいる。アフパンは大きく分けて、アフリカンをあえて好む者と、アフリカンとアフリカンアメリカンの区別ができないカケパン(駆け出しのブラパン)の二通りに分かれる。

また、「オバパン」(引退した年嵩のブラパン)などの蔑称まで存在する。上記の様々な呼称に対し、日本人専門の私娼を指す「和パン」という語も生まれた。

按摩も行う売春婦は「パンマ」[1]。

パンパンの使う英語を「パングリッシュ」と言う。主に知的レベルの低いアメリカ軍の下級兵士のスラングから学ぶため、品位を欠くのが特徴とされる。
女性のみならず、外国人にゴマをすって金もうけをする男のことを「パンパンボーイ」と蔑称で呼ぶこともあった。[3]

 

語源[編集]
諸説あってはっきりしていない。以下列挙する。

インドネシア語で女を指す「プロムパン」から転化。米兵が伝える[4]。
フランス語で優美で人目を引くという意味の「パンパント」から転化。米兵が伝える。
パン2個で買える安さから。またはパン2個でついていく尻軽さから。自然発生。
後背位で性交を行う際、男性の下腹部が女性の尻に当たって「パンパン」という音を発することから流用。
沖縄の俗語で芸者を指す「ペンペン(三線の音の意味)」から転化。日本海軍で使用[4]
イギリス軍が使用した対空砲「ポンポン砲」(pom-pom-gun)がピストン運動をすることに喩えて、「ポンポン」(pon-pon)が訛ったもの。

戦後、津々浦々にいて、呼ぶときには手をパンパンと叩いて呼んだため。[5]。

性病に当たる可能性があることから危険を顧みない、鉄砲(パンパン)玉に当たってイチコロ覚悟、からとも。

第一次大戦後、日本の委任統治領となったサイパンで、日本海軍の水兵たちがチャモロ族の女性を「パンパン」と手を叩いて呼び、その肉体を味わったことから。

その後娼婦も含めた大量移民があったことから「パンパン」と呼ぶ対象が日本人女性にも広まり、また水兵が大東亜の寄港地各地に広めてしまった。現地の水兵たちは「明日は日曜、パンパン上陸」などと言う歌を歌い、パンパン女、パンパン屋、パンパン坂などの発展形も見られた[6]。

深夜に慰安所を訪れた兵士が「パンパン」とドアを叩いて女を起こしたことから[7]。
仏印のある町で若い女が日本兵に対して「パンパン」と乾パンを懇願していた様を、戦後、米兵に対して似たような行為に及ぶ日本人女性に投影したと言う説[8]。

 

有名なパンパン[編集]
ラク町おとき ― 「ラク町」こと有楽町で200人もの夜の女を支配していたリーダー格。本名・西田時子(故人・当時19歳)。

1947年4月、NHKのラジオ番組「街頭録音」で、アナウンサーの藤倉修一の隠し録りインタビューが放送され、一躍時の人となる。彼女が口ずさんだ流行歌「星の流れに」の一節、「こんな女に誰がした」は流行語となった。

メリーさん

パンパンを題材とする作品[編集]
『肉体の門』(1947年小説、田村泰次郎原作)
『夜の女たち』(1948年映画、溝口健二監督、田中絹代主演)
『恋文』(1953年映画、田中絹代監督、森雅之久我美子主演)
『女ばかりの夜』(1961年映画、田中絹代監督、原知佐子主演)
ゼロの焦点』(1959年刊行、1961年・2009年映画化、1961年・1971年・1976年・1983年・1991年・1994年テレビドラマ化 松本清張原作)

脚注[編集]
1.^ a b c d e f g h 三橋 (2004)
2.^ 神崎清 『売春』
3.^ 『現代用語の基礎知識』(1998)付録『現代用語20世紀辞典』p.257
4.^ a b 出典:米川明彦編『日本俗語大辞典(第3版)』東京堂出版 2006年 522頁
5.^ 『はだしのゲン』ではこのように説明されている。
6.^ 子供文化社の篠崎吉太郎による証言。神崎清 『売春』 より。
7.^ 『現代用語の基礎知識』(1949) 神崎清 『売春』 より。
8.^ 『現代用語の基礎知識』(1949) 神崎清 『売春』 より。

参考文献[編集]
神崎清 『決定版・神崎レポート 売春』 1974年12月 現代史出版会
三橋順子 (2004). "パンパン". 性の用語集 (講談社): 296.
西田稔『基地の女 特殊女性の実態』(河出書房、1953年)
『日本の貞操』(水野浩編、1953年)

関連項目[編集]
特殊慰安施設協会(通称「RAA」。日本政府が進駐軍のために設置した公娼施設)
GIベビー
赤線
ちょんの間
メリーさん
銀座カンカン娘
戦後混乱期

外部リンク[編集]
戦後日本の米兵と日本人売春婦 ―もうひとつのグローバリゼーション 田中雅一、国際日本文化研究センター、2010.3.25

カテゴリ: 日本の売買春
日本のスラング
性の俗語
占領下の日本
流行語
侮蔑

 

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【オリジナル】「星の流れに」イラスト/美羅 [pixiv]

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「星の流れに」の書誌情報
 項目名: 星の流れに
著作者: ウィキペディアの執筆者
 発行所: ウィキペディア日本語版
 更新日時: 2015年2月24日 19:50 (UTC)
取得日時: 2015年5月28日 12:27 (UTC)
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星の流れに

星の流れに(ほしのながれに)は、1947年(昭和22年)10月にテイチクから発売された歌謡曲。作詞:清水みのる、作曲:利根一郎、歌は菊池章子

解説[編集]

製作の経緯[編集]

作詞した清水は、第二次世界大戦が終戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読んだ。もと従軍看護婦だった彼女は、奉天から東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「夜の女」として生きるしかないわが身を嘆いていたという。清水は、戦争への怒りや、やるせない気持ちを歌にした。こみ上げてくる憤りをたたきつけて、戦争への告発歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲した。

当初、テイチクではコロムビアから移籍したばかりで、ブルースの女王として地位を築いていた淡谷のり子に吹き込みを依頼した。しかし、「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と断られた。そこで、会社は同じくコロムビアから移籍していた菊池に吹き込みを依頼した。彼女は歌の心をよく把握し、戦争の犠牲になった女の無限の哀しみを切々とした感覚で歌い上げた。

完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった[1]。GHQから「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となった[1]。

発売後の反響[編集]

本社も積極的発売方針では無かったため、レコード発売当初は全く売れなかった。1947年4月22日、NHKのラジオ番組「街頭録音」で、アナウンサーの藤倉修一が有楽町で200人もの夜の女(街娼)を支配していた「ラク町おとき」の隠し録りインタビューを敢行した。放送中、彼女が「星の流れに」の一節、「こんな女にだれがした」を口ずさんだことが、この歌が広く世間で認知されるきっかけになったとされる。もともと作品のモデルであった娼婦たちは歌詞に共感を覚え、彼女たちの間で歌われることが多かった[2]。彼女たちの中には、菊池を「おねえさん」と呼んで慕い、菊池の出演する劇場にも出かけて、熱い声援を送った者もいたという[2]。

その当時、新宿の「ムーラン劇場」で風刺ショーが上演されていたが、この歌が使用されるようになってからじわじわと火が付き、1949年(昭和24年)の春頃からヒットの兆しを見せ始め、ついには大ヒットとなった。また、田村泰次郎原作の小説『肉体の門』が映画化された際も、この曲が挿入歌として使用され、ヒットの一因を担うこととなった。

カヴァーした主な歌手[編集]
青江三奈 - アルバム『GOLDEN☆BEST 青江三奈 カヴァー・コレクション』に収録
石川さゆり - CD-BOX『二十世紀の名曲たち』に収録
工藤静香 - アルバム『昭和の階段 Vol.1』に収録
研ナオコ - アルバム『第三の女』に収録
高橋真梨子 - アルバム『紗』『No Reason 〜オトコゴコロ〜(ライブ・バージョン)』に収録
ちあきなおみ - アルバム『戦後の光と影 〜ちあきなおみ瓦礫の中から〜』に収録
戸川純 - アルバム『昭和享年』に収録
藤圭子 - アルバム『新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて』に収録
美空ひばり - アルバム『カバーソング コレクション』に収録
美輪明宏 - アルバム『不浄理の唄(野坂昭如)』に収録
春日八郎 - アルバム『春日八郎演歌百選』に収録

脚注[編集]
1.^ a b 『歌でつづる20世紀 あの歌が流れていた頃』 132-133頁。
2.^ a b 『歌でつづる20世紀 あの歌が流れていた頃』 133頁。

参考文献[編集]
長田暁二著 『歌でつづる20世紀 あの歌が流れていた頃』 ヤマハミュージックメディア、2006年。ISBN 4636007491

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カテゴリ: 1947年の楽曲
NHK紅白歌合戦歌唱楽曲

 

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