軍人勅諭

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【戦争】「軍人勅諭」イラスト/美羅 [pixiv] 

「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」の書誌情報
ページ名: 陸海軍軍人に賜はりたる勅諭
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 更新日時: 2015年3月15日 10:46 (UTC)
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『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ)は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』という。

沿革[編集]
西周が起草、福地源一郎・井上毅山縣有朋によって加筆修正されたとされる。
下賜当時、西南戦争竹橋事件自由民権運動などの社会情勢により、
設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、
1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。

1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された。

内容[編集]

通常の勅語が漢文調であるのに対し、変体仮名交じりの文語体で、総字数2700字におよぶ長文であるが、陸軍では、将兵は全文暗誦できることが当然とされた。一方で、海軍では「御勅諭の精神を覚えておけばよい。御勅諭全文より諸例則(法令や例規)等を覚えよ」とされることが多く、全文暗誦を求められることは多くなかった。

内容は、前文で「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」と天皇統帥権を保持することを示し、続けて、軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5つの徳目を説いた主文、これらを誠心をもって遵守実行するよう命じた後文から成る。

特に「忠節」の項において「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じ、軍人には選挙権を与えないこととした。
ところが大日本帝国憲法に先行して天皇から与えられた「勅諭」であることから、陸軍(および海軍の一部)は軍人勅諭を政府や議会に対する自らの独立性を担保するものと位置づけていた[1]。
海軍においては政治への不関与を命じたものと位置づけるのが主流であったが、政党政治に終局をもたらせた暗殺テロ、五・一五事件に代表される急進派も存在した。

戦いに於いては
「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」と、
「死は或いは泰山より重く或いは鴻毛より輕し[2]」という古諺を言換え、
「普段は命を無駄にせず、けれども時には義のため、喩えば天皇のため国のために、命を捨てよ」
と命じた物とされるが、換言の意図は不明である。。

終戦時には、下村定大将は名古屋幼年学校時代に橘校長からならった御勅諭を読みなさいとの言葉を思い出し、
「我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ」
をもって、軍人勅諭には敗戦時の心得が明記されているとして、交戦を望む部下たちを説得した[3]。

その他[編集]
なお、資料によってはこの勅諭の末尾に「御名御璽」と表記しているものがあるが、
この勅諭は明治天皇の署名(印刷物等に表記する場合は「御名」)のみで御璽を捺さずに陸海軍に直接下賜する形式を採った(軍内部には「明治15年陸軍省達乙第2号」として陸軍大臣から布達された)ため、
印刷物の場合は「御名」のみ表記されるのが正確である。

ちなみに陸軍においては「御名」を一般的な「ぎょめい」でなく「おんな」と読んだ。山本七平は『私の中の日本軍』の中で、ある衛生下士官が部隊の宴会で酔い、「突撃一番、軍人勅諭はオンナで終わらあー」と叫んだ事を記している[4][5]。

戦争中、中支の戦場にいた後の戦記作家の伊藤桂一(当時・陸軍上等兵)は、戦陣訓と軍人勅諭を比較して次のように述べている[6]。

「戦陣訓」にくらべると、明治十五年発布の「軍人勅諭」は荘重なリズムをもつ文体で、内部に純粋な国家意識が流れているし、軍隊を離れて、一種の叙事詩的な文学性をさえ感じるのである。
興隆してゆく民族や軍隊の反映が「軍人勅諭」にはある。「戦陣訓」を「軍人勅諭」と比較することは酷であるにしても「戦陣訓」にはなんら灌漑している精神がなく、いたずらに兵隊に押しつける箇条書が羅列してあるだけである。
およそ考えられるかぎりのあらゆる制約条項を、いったい生身の兵隊が守れるとでも思ったのであろうか。
ともかく「戦陣訓」には耗弱した軍の組織の反映があり、聡明なる兵隊はそれを読んだ時点で、すでに兵隊そのものの危機を予感したかもしれない。

伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』新潮文庫、2008年(平成20年)

脚注[編集]
1.^ 陸軍の一部には「政論に惑わず政治に拘わらず」について「政府や政治家が何を言おうと気にする必要はない、ということだ」という解釈すらあったという。
2.^ 「人固有一死或重於泰山或輕於鴻毛」(人もとより一死有れども、或いは泰山より重く、或いは鴻毛より輕し)(司馬遷報任少卿書)
 人の死は必然だが、その死の意味は山の如く重いこともあれば、鴻毛(ダウン)の如く軽いこともある。すなはち軍人は、みだりに死なば「鴻毛」と化すが、死ぬべき死(義のための死)は「山岳」であるということである。この古諺は「義」を説く物であるが、勅諭では主語に明示された。
3.^ 村上兵衛 『陸軍幼年学校よもやま物語』 わちさんぺい絵、光人社、1984年11月、145頁。ISBN 4-7698-0248-X。
4.^ 山本七平 『私の中の日本軍』上下巻、文藝春秋〈文春文庫〉、1983年5月。ISBN 4-16-730601-8 ISBN 4-16-730602-6。
5.^ 山本七平 『私の中の日本軍』 文藝春秋山本七平ライブラリー 2〉、1997年4月。ISBN 4-16-364620-5。
6.^ 伊藤桂一 『兵隊たちの陸軍史』 新潮社〈新潮文庫〉、2008年8月。ISBN 978-4-10-148612-3。

参考文献[編集]
秋月種樹 『軍人勅諭写』 秋月種樹1888年(明治21年)10月。
山本松太郎 『軍人勅諭釈要』 上野勘三郎、1892年(明治25年)12月。
杉山鉄耕 『軍人勅諭帖』、1895年(明治28年)3月。
中村覚 『軍人勅諭講義』 軍事教育会、1898年(明治31年)1月。
丸山正彦 『軍人勅諭義解』 吉川半七、1898年(明治31年)8月。
高賀詵三郎 『軍人勅諭捷解』 目黒書房、1902年(明治35年)4月。
鈴木松太郎 『軍人勅諭講義』 鈴木松太郎、1909年(明治42年)8月。
足立栗園 『大正勅諭軍人の精神』 富田文陽堂、1913年(大正2年)1月。
亘理章三郎 『軍人勅諭の御下賜と其史的研究』 中文館書店、1932年(昭和7年)4月。
明治天皇明治天皇御下賜 軍人勅諭 明治十五年一月四日』 帝国在郷軍人会竹間分会、1937年(昭和12年)5月。

関連項目[編集]
教育勅語
教育勅語等排除に関する決議」と「教育勅語等の失効確認に関する決議」
軍人読法
五省
戦陣訓
大日本帝国憲法
西周 (啓蒙家)

 

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昭和の武官達がこの勅諭を守っていれば、早期決戦を目論んで始めた対中戦争も対米戦争も、もっと早めに終わらせることができたはずなのだ。

 

一 軍人は信義を重んずべし。

信義を守ることは常識であるが、とりわけ軍人は信義がなくては一日でも隊伍の中に加わっていることが難しい。信とはおのれの言葉を守り、義とはおのれの義理を果たすことをいう。従って信義を尽くそうと思うならば、はじめからその事が可能かまた不可能か、入念に思考すべし。

あいまいな物事を気軽に承知して、いわれなき係わりあいを持ち、後になって信義を立てようとしても進退に困り、身の置き所に苦しむことがある。

後悔しても役に立たぬ。始めによくよく事の正逆をわきまえ、理非を考えて、この言はしょせん実行できぬもの、この義理はとても守れぬものと悟ったならば、すみやかにとどまるがよい。

古代から、あるいは小の信義を貫こうとして大局の正逆を見誤り、あるいは公の理非に迷ってまで私情の信義を守り、あたら英雄豪傑が災難にあって身をほろぼし、死後に汚名を後世まで残した例は少なくない。

深く警戒しなくてはならぬ。 

 

日米戦は開戦の20年前から日本とアメリカ相方から意識されていたらしい。

日露戦争の勝利によって朝鮮半島の利権が日本の独占状態になってからは、中国の利権を争って日米間に対立が起こることが予想されたからだ。

日米の国力差は正確に分析されていて、小学生にもグラフ表示で分かりやすく説明されていたと言う。

にも関わらず太平洋戦争が勃発してしまったのは、

1)日露戦の成功体験から抜け切れず、早期決戦で戦果を上げて、連合国側から突きつけられていた中国をめぐる利権を少しでも有利にして決着をつけよう、という甘い見通しがあったこと。

2)満州事変以後の大陸での戦死者たちが無駄死になってしまっては2・26並みの士官クラスの陸軍将校たちの叛乱が頻発し、収集がつかなくなるのではないかという恐れがあったこと。海軍においても5・15事件の苦い記憶が生々しく残っていたこと。

3)陸海軍上層部は腹では対米戦に躊躇していたにも関わらず、海軍省陸軍省に対して、陸軍省海軍省に対して、面子が立たないという高級武官同士の官僚的な見栄で、非戦の選択を取れなかったこと。

これら3点が主な理由として挙げられるように思う。そしてこのような官僚化した武官達が時流の雰囲気に流されて無謀な対米戦を始めてしまったことは、

「後悔しても役に立たぬ。始めによくよく事の正逆をわきまえ、理非を考えて、この言はしょせん実行できぬもの、この義理はとても守れぬものと悟ったならば、すみやかにとどまるがよい。」

という軍人勅諭の教えに根本から反していたのだ。

空気を読むのが好きな日本人の悪癖が、こういう国の命運を決める最優先事項の決定に際して遺憾なく発揮されてしまったために、都市部への無差別爆撃や玉砕や特攻や2度に渡る核攻撃を受けた挙句の無条件降伏という結末を迎えることになった。

高級官僚が国を動かす力の形態は今も変わらず続いている。

ある一定の条件がそろえば、また同じようなことを繰り返さないという根拠はどこにもない。天皇という神輿を担いでバンザイ突撃する光景はさすがに考えにくいが、言葉を変え形を変えながら、惰性に流されて事の正逆をわきまえきれずに惨禍を呼ぶ状況に引きずり込まれることは充分にあり得ることではないかと私は思っている。

 

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