黄海海戦
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黄海海戦 | |
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1904年夏、青島に逃れた太平洋艦隊の旗艦ツェサレーヴィチ |
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戦争:日露戦争 | |
年月日:1904年8月10日 | |
場所:黄海、旅順沖 | |
結果:日本の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | ロシア帝国 |
指導者・指揮官 | |
連合艦隊・東郷平八郎大将 | 太平洋艦隊・ヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将 |
戦力 | |
戦艦4 装甲巡洋艦4 防護巡洋艦10 駆逐艦18 水雷艇30 |
戦艦6 防護巡洋艦4 駆逐艦14 |
損害 | |
沈没艦なし | 喪失艦複数 |
黄海海戦(こうかいかいせん)は1904年(明治37年)8月10日に大日本帝国海軍連合艦隊とロシア帝国海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)との間で戦われた海戦[1]。この海戦でロシア太平洋艦隊の艦船は激しく損傷し、以後大規模な海戦を行うことはなかった。
背景
ロシア太平洋艦隊(以下旅順艦隊と記述)司令長官であり、優れた海軍軍人であったステパン・マカロフ中将が、日本海軍連合艦隊(以下連合艦隊と記述)との一連の戦闘により戦死する。その後任として司令長官職を代行することとなったヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将は、防備の堅い旅順港に出来るだけ閉じこもり、連合艦隊との直接的な衝突を避け艦隊を温存するという消極的な行動を見せていたが、極東総督エヴゲーニイ・アレクセーエフは旅順艦隊に対しウラジオストクへの回航を強く命令した。
これを受け旅順艦隊は1904年6月23日に一旦出航したものの、連合艦隊に遭遇したためすぐに港内へ引き返した。しかし日本陸軍第三軍による陸上からの旅順要塞攻撃が開始され、8月に入り第三軍と行動を共にしていた日本海軍陸戦重砲隊が大孤山に設けた観測所を使って照準を行い、旅順港の艦船を砲撃した。8月9日、命中弾により戦艦「レトヴィザン」が水線部に、戦艦「ツェサレーヴィチ」は艦橋に損傷を受け、ヴィトゲフト自身も負傷するなどの損害を受けた。ヴィトゲフトはこのまま旅順港に艦隊を置いておくことが危険になってきたと判断し、艦隊の大部分を旅順港からウラジオストクへ回航することを決定した。
なお小さな砲艦や直前に触雷して修理中の装甲巡洋艦「バヤーン」は旅順残留とした。一方連合艦隊側は、バルチック艦隊が到着する前に旅順艦隊を壊滅させておくことで、艦隊数による日本側の不利な状態を極力改善しておきたいことと、当面の日本海における制海権を確保しておく必要性があることから、旅順艦隊が港から出てくるのを待ち望んでいるという状況があった。
海戦
連合艦隊は12時30分に、旅順の西南23カイリ付近で南下してきた旅順艦隊を確認し、攻撃を図る。しかし旅順艦隊は海戦に及ぼうとせず、終始ウラジオストク方面に逃げの姿勢に徹した。日本艦隊は旅順艦隊との距離7000メートルで丁字戦法を実行すべく艦隊行動を行ったが、旅順艦隊に後方から逃げられて引き離されてしまった。15時20分から追撃を始めたが追いついて砲撃を再開できたのは17時30分になってからであった。
18時40分、旅順艦隊旗艦「ツェサレーヴィチ」の艦橋に2発の砲弾が直撃し、ヴィトゲフトと操舵手が戦死、またイワノフ艦長などが昏倒。操舵手が舵輪を左に巻き込んで倒れた上、舵機に故障を起こしたために「ツェサレーヴィチ」が左に急旋回して自艦隊の列に突っ込んだ結果、全艦船は四散した。
連合艦隊は四散しながら南下する旅順艦隊を攻撃し夜間には水雷攻撃を行ったが失敗した。旅順艦隊の戦艦(「ツェサレーヴィチ」を除く)および多くの艦艇は、戦艦「ペレスヴェート」座乗の次席指揮官パーヴェル・ウフトムスキー少将の指揮下で沈没艦を出さずになんとか旅順に帰還した。
戦艦「ツェサレーヴィチ」と駆逐艦3隻がドイツ領の膠州湾租借地、防護巡洋艦「アスコリド」と駆逐艦1隻が上海、防護巡洋艦「ディアーナ」がフランス領インドシナのサイゴンで抑留され、防護巡洋艦「ノヴィーク」は日本列島を迂回して太平洋を北上、樺太のコルサコフにまで到達したものの追撃してきた防護巡洋艦「千歳」と「対馬」によって撃破された(コルサコフ海戦)。
また、駆逐艦一隻が座礁、自沈した他、駆逐艦「レシテリヌイ」が芝罘に入港したが日本軍に鹵獲され、「暁」として編入された。旅順では各艦の損害を修復することが出来ず、この結果、旅順艦隊はこれ以後大がかりな作戦が出来なくなった。
出撃の報告は芝罘にいたロシア領事の手によってウラジオストクにも伝達され、ウラジオストク巡洋艦隊が旅順艦隊を援護すべく出撃した。出撃30分後には「レシテリヌイ」からの報告により出撃中止命令が出されたが艦隊には届かず、ウラジオストク巡洋艦隊は上村彦之丞中将率いる第二艦隊に蔚山沖で捕捉され撃破された(蔚山沖海戦)。
影響
この海戦後、旅順艦隊の主力艦中では戦艦セヴァストーポリが対地攻撃のためにわずかに数度出撃したのみで、それも触雷、損傷して以降は出動してくることは無かった。
後年の史実研究により、以後の旅順艦隊は艦載砲を外して陸上要塞に回した上、乗組員を陸戦部隊として配備し、艦隊としての戦闘機能は失っていたことが判明している。結果、連合艦隊は旅順艦隊の壊滅という目的に成功したことになるが、当時の日本側はこの事実を知らず、旅順艦隊の作戦能力がいまだ健在であると思っていたため、陸軍に対して旅順要塞の攻略を早期に行うべきと要請することとなった。
また丁字作戦が事実上失敗(敵艦との距離が離れすぎていた)したことや、敵艦を沈めることが出来なかったことが大きな課題として残った。この海戦での教訓が、後の日本海海戦での大勝利に生かされることとなる。
後に毛沢東は日露戦争の歌「黄海の戦い」の歌詞を紹介し、日本の誇りを賞賛したという。
脚注
外部リンク
「黄海海戦 (日露戦争)」の書誌情報
- 項目名: 黄海海戦 (日露戦争)
- 著作者: ウィキペディアの執筆者
- 発行所: ウィキペディア日本語版
- 更新日時: 2015年5月17日 23:15 (UTC)
- 取得日時: 2015年6月3日 09:35 (UTC)
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