哲学する!

無から有が生じる。

究極のタダ飯としてのインフレーション宇宙。

 

ではその前は?

問いを変える。

無をどうやって記述する?

無をどうやってイメージする?

無をどうやって考える?

 

ここで自分の尻尾を飲み込んで最後に消えてしまう蛇のような問いに陥る。答えが出るわけがない問いが無限に反復される。

ならば無と有ではなく<空>を持ってくるか?

色即是空 空即是色

ますますわけがわからなくなる。

 

できることは、すでに生まれてしまっており、すでに言葉を持ってしまっており、すでに考えてしまっている今のこの自分こそが<起源>だと問いをひっくり返すこと。自分の意識が世界の始まりなのだと考えてみること。

 

だがこの一種の独我論は破綻する。自分が知らない所で世界はちゃんと動いているからだ。個人史の記憶の揺り籠から出られない。<私>が始まる前に原爆は落ちていたしパンパンたちは「星の流れに」を歌っていた。

 

私が歴史に惹き寄せられるのはそういう時だ。自分の記憶ではない外部記憶の地層に埋もれた考古学的出土品としての試料(資料ではない)を用いて自分の心に起こる想いの化学変化を経験したくなるのだ。

 

知らないことを知りたい。他者の記憶を追体験したい。他人の心に憑依してみたい。イメージの中で時を彷徨い続ける生霊になりたい。自分の肉体から離れて時や場所を超えて翔び回る、心だけで出来た純粋な観察者になってみたいのだ。

 

でも生臭い歴史はたんに傍観者であることを私に許さない。

こうやって自分たちが死んだからお前は生まれてきたのだと死者たちが言う。死者の声を聴く?そう、数えきれない死者たちの声を聴くことが私にとっての歴史だ。だから哀悼の念に呑み込まれて、力が抜けて何もできなくなることが度々起こるのだ。

 

他人の亡骸を踏み越えて行く。それが出来るようにならないと、戦いの記憶を追体験することは、いたずらに心を消耗させるだけだ。。。