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漢字

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  この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字が含まれています(詳細)。
漢字
ISO 15924 コード: Hani
注意: このページはUnicodeで書かれた国際音声記号 (IPA) を含む場合があります。
 
濃緑 - 伝統的な字体を用いる地域 (中華民国の旗 中華民国, マカオの旗 マカオ, 香港の旗 香港)
- 簡字体を用いるが、伝統的な字体も用いられる地域 (シンガポールの旗 シンガポール, マレーシアの旗 マレーシア)
黄緑 - 簡体字を用いる地域 (中華人民共和国の旗 中華人民共和国)
薄緑 - 漢字とその他の文字が同一言語内で混用される地域 (韓国の旗 大韓民国, 日本の旗 日本)
- かつて公用語で漢字が用いられていた地域 (モンゴルの旗モンゴル, 朝鮮民主主義人民共和国の旗北朝鮮, ベトナムの旗ベトナム)

 

漢字(かんじ)は、古代中国に発祥を持つ文字。古代において中国から日本朝鮮ベトナムなど周辺諸国にも伝わり、その形態・機能を利用して日本語など各地の言語の表記にも使われている(ただし、現在は漢字表記を廃している言語もある。日本の漢字については日本における漢字を参照)。

漢字は、現代も使われ続けている文字の中で最も古く成立した[1][2]

人類史上、最も文字数が多い文字体系であり、その数は10万文字をはるかに超え他の文字体系を圧倒している。ただし万単位の種類のほとんどは歴史的な文書の中でしか見られない頻度の低いものである。研究によると、中国で機能的非識字状態にならないようにするには、3000から4000の漢字を知っていれば充分という[3]

近代以降、異体字を整理したり使用頻度の少ない漢字の利用を制限しようとする動きは何度もあったが、現在でもその数は増え続けている[4]。 

 

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始皇帝

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始皇帝 嬴政
初代皇帝
Qinshihuang.jpg
王朝
在位期間 前247年五月丙午[1] - 前210年七月丙寅[2]
都城 咸陽
姓・諱 嬴政
生年 前259年正月1月?[注 1]
没年 前210年9月10日(秋7月 [2]
荘襄王
趙姫[3]
陵墓 始皇帝陵
 
 『史記・秦始皇本紀』

 

始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年[4][5])は、中国戦国時代(在位紀元前246年 - 紀元前221年[6](えい)、(せい)。現代中国語では、始皇帝Shǐ Huángdì)、または秦始皇Qín Shǐ Huáng, チンシュフアン)と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり[6]、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した[7]

 

中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。

統一後始皇帝は、重臣李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した[6]。従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一[8]交通規則の制定などを行った。

巨大プロジェクトも実行し、万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などを、多くの人民に犠牲を払わせつつ行った。また、法による統治を敷き、焚書坑儒を実行したことでも知られる[7]

 

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実朝 其二

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源実朝(1192年-1219年)

みなもと の さねとも。源實朝。鎌倉幕府の第三代征夷大将軍、和歌を藤原定家に学んだ。私家集『金槐和歌集』。

源実朝からの引用

金槐和歌集

Wikipedia
ウィキペディアにも金槐和歌集の記事があります。
  • あづまぢのせきもる神のたむけとて杉に矢たつる足柄の山
  • 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
  • おほ海の磯もとどろによする浪われてくだけてさけてちるかも 
  • 物いはぬ四方(よも)のけだものすらだにも哀れなるかな親の子を思ふ
  • 奥山の岩垣沼に木葉おちてしづめる心人知るらめや
  • みわたせば雲居はるかに雪しろし富士の高嶺のあけぼのゝ空

その他

  • ちはやふる伊豆のおやまの玉椿八百万世も色は変わらじ
  • 瑞垣のおおしききょうよりゆうだすきかけし心は神ぞ知るらむ
  • 伊豆の國や山の南に出る湯の早きは神の印なりけり
  • いでていなば主なき宿と成ぬとも軒端のをわするな
    吾妻鏡』。結果的にこれが実朝の辞世となった。

源実朝に関する引用

  • 正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。--正岡子規歌よみに与ふる書
  • 強ち人丸赤人の余唾を舐るでもなく、固より貫之定家の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月とを競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。--正岡子規歌よみに与ふる書
  • 実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。--正岡子規歌よみに与ふる書
Wikipedia
ウィキペディアにも源実朝の記事があります。
 
 
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